道徳的動物日記

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「動物が苦痛を感じているとも、植物が苦痛を感じないとも、確実に言うことはできない」(倫理に関する事実判断と価値判断についての私見)

togetter.com

 

 上記のTogetterは私のツイートをセルフまとめしたものだが、この話題について、ブログでもちょっと書いてみたい。

 

 動物を道徳的配慮の対象とする倫理学理論(や政治哲学などその他の規範理論)の多くは「ある存在は幸福や快楽などのポジティブな感情や感覚を経験することが可能である、ある存在は苦痛や不快などのネガティブな感情や感覚を経験することが可能である」とすれば「何らかの行為をしたり意思決定を行う際には、その存在が経験する幸福や苦痛に対して、何らかの配慮をするべきである」と主張している。それぞれの存在が経験する幸福や苦痛に対してどのように配慮するべきか、たとえば人間が経験できる幸福の質は動物が経験できる幸福の質よりも優れていると見なして人間の幸福を優先するべきか、といったことは理論や場合によって変わってくる。しかし、「人間の幸福は、それを経験しているのが"人間だから"優先するべきである」または「動物の幸福は、それを経験しているのが"動物だから"人間ほどの配慮をしなくてもよい」という主張は、事態の本質とは関係のない理由に基づいて配慮の多寡を決めていることになり、合理的な区別とはいえず、人種差別や性差別のように根拠のない非合理的な差別である"種差別"として否定される。

 よく誤解されがちだが、人間や動物の持つ幸福や不快などを経験できることに着目して、幸福や不快などを経験できるからという理由で動物は道徳的地位を持つと見なすことは、なにも功利主義に限られない。たとえば、功利主義を批判する政治哲学者のウィル・キムリッカが共著者である著書『人と動物との政治共同体』権利論に基づいて書かれたものであるが、この本の中では、「動物は"なぜ"権利を持つか」という理由としては、動物が「内面から自らの生を感じ、さらにその生が良くなったり悪くなったりするのを感じられる存在は、物ではなく、自己」であること、「喜びや痛み、欲求不満や満足感、楽しみと苦痛、恐れや死といったものに対して影響を受けやすい、脆弱性に悩まされる存在」であること、そして「自分の生が良くなったり悪くなったりすることを内面で感じられる主観的経験を持つ存在」であることが挙げられている。キムリッカと同じく功利主義を批判する政治哲学者であるマーサ・ヌスバウムによるケイパビリティ理論においても、幸福や苦痛という経験は重視されている。幸福や不快の比較考量についてどのように考えるか、別個の存在が感じる幸福や苦痛のトレードオフをどの程度まで認めるか(あるいは全く認めないか)、場合によっては全体の幸福のために一部の個体の幸福を無視することは認められるか否か、といったことについては権利論や功利主義やケイパビリティ理論はそれぞれに違った回答をするが、いずれにせよ、幸福や不快という経験は重要視されているのである。日本では動物倫理の主張といえばピーター・シンガー功利主義ばかりが紹介されがちで権利論があまり紹介されないことが理由なのかもしれないが、動物が苦痛を感じることに注目することはすなわち功利主義だ、みたいに勘違いする人が多かったりするのだがそうではないのである。

 

 また、シンガーの議論に関してよくある誤解が以下のようなものだ。

 

sunakago.hateblo.jp

 

ここでは「幸福」が、シンプルに「苦痛ではないこと」として捉えられているのだ。彼は「幸福=苦痛ではないこと」を感じることの条件として「苦しむ能力」を挙げている。

 

はっきり言って偽善ではないかとさえ感じられるほどのこの熱い倫理観は、しかしあるときにはひどく冷たいものとなる。「苦しむ能力」を倫理の適用範囲として用いる彼は、植物人間の命を絶つことや胎児を中絶することなどをためらいなく許容する。なぜなら、それは苦しむことができないからだ。 

 

 上記のTogetterでも書いたが、まず、シンガーの理論によって「植物人間の命を絶つこと」が肯定されるのは、該当の植物人間が「意識が無く痛覚やその他の感覚も一切機能しておらず、また将来回復する見込みもない」という非常な重症である上に、その植物人間に親戚や知人が一切おらず、また植物人間の命を絶つことが明るみに出て社会不安などの間接的な影響が生じる可能性も0%である、という時でしかない。シンガーの議論に対する反論として植物人間の事例を持ち出す人は多いが、ここまで異常で例外的な事例において直感に反する結論が導き出されることを指摘されても、それで反論になると考える方が不思議だろう。

 胎児にしても、シンガーの公式FAQを読めばわかるように(ここで取り上げられているのは胎児ではなく新生児の殺害に関する事例だが)、様々な事情や状況が考慮されたうえで認められる場合とそうでない場合があるとしており、「ためらいなく許容される」からは程遠いと言えるだろう。

 

 シンガーの議論についてよくある誤解のもう一つは、「苦痛を感じない存在に対しては何をしてもよいのか」「たとえば感覚は持たないが悲しみや喜びは経験できるロボットが存在するとしても、そのロボットは配慮の対象とならないのか」というものだ。上記のTogetterで取り上げた記事でも、シンガーの議論に「痛覚主義」と誤った呼称を与えている。だが、シンガーの主張の原理は「利益に対する平等な配慮」であり、苦痛を感じないとしてもその他の経験をすることでなんらかの幸福や不快を経験することができる存在は「利益」を持つ存在として配慮の対象になる。たとえば、科学技術がすごく発達して悲しみや喜びを経験できるロボットなり人工知能なりが登場するようになれば、当然、そのロボットや人工知能は道徳的配慮の対象となるだろう(そんなロボットや人工知能が登場することがどれくらい現実的なのか、わざわざロボットや人工知能が悲しみを感じられるようにすることに何の意味があるかはわからないが)。シンガーの主著である『実践の倫理』が苦痛ばかり重視しており感覚を持たない存在の利益を無視しているように読めるのは、現在の私たちが生きる現実の世界では「感覚は持たないが、悲しみや喜びを経験することはできる」という存在は考えづらい、おそらくそんな存在はいないがために、現実の世界に対処するための応用倫理の本においてそのような非現実的な存在に関して議論することにはあまり意味がないからだろう。

 

 話を戻すが、シンガーや功利主義にせよ、権利論やケパビリティ論にせよ、幸福や不快を経験できる存在は道徳的配慮の対象となる。苦痛という点に話を絞れば、もし犬や猫が苦痛を経験することができるとすれば彼らに苦痛を与えることは道徳的な問題となるし、もし魚や昆虫が苦痛を経験することができるとすれば彼らに苦痛を与えることは道徳的な問題となるし、もし木や石が苦痛を経験することができるとすれば彼らに苦痛を与えることは道徳的な問題となる。「ある存在が苦痛を経験することができるとすれば、その存在に苦痛を与えることは道徳的な問題となる」ことは価値判断に関する原則の問題だ。

 そして、このような価値判断を行うことに関わってくるのが、「では、どの存在が(どのような)苦痛を経験するのか」という事実判断だ。上述の Togetterでも引用しているゲイリー・ヴァーナーの文章でも論じられているように、動物の問題に限らず大概の道徳問題や政策などに関わる価値判断は「●●であれば■■すべきである」という形を取るのであり、「●●であれば〜」ということが事実の領域である以上、「〜■■すべきである」という価値判断も「事実はどのようなものであるか」ということによって左右されることになる。

 一般論として、どのような領域においても「事実はどのようなものであるか」ということに関する私たちの知識や理解は、データの不足や人間の認識能力に生来的に備わる限界などのために、完璧ではなく限られたものとしかならない。「事実はどのようなものであるか」ということについて充分な知識や理解がないために、本来なら価値判断においてもっと望ましい答えが存在していたのにそれを理解することができなかった、ということもあるだろう。人間は全知全能でない以上それは仕方がないことであるとも言える。…だが、事実に関する私たちの知識に限界があるとしても、それは程度問題だ。参照するデータの量が増えるにつれて、またデータを扱うためのアプローチの方法を洗練させて進歩させるにつれて、一般論としてはどんな領域でも、「事実はどのようなものであるか」ということについての私たちの知識は増して理解は深まっていくだろう。

「では、どの存在が(どのような)苦痛を経験するのか」という事実判断については、心の哲学や認識論などの哲学的な側面も関わってくるとはいえ、基本的には科学的知識の問題となるだろう。動物への道徳的配慮について論じている著書の多くも「ある存在が痛みを経験しているかどうかについて、当事者でない他者がそれを理解することができるかどうか」という初歩的な哲学的議論から始めたうえで、動物の苦痛の有無に関する科学的な議論が参照されることになる。…たとえばシンガーの『実践の倫理』では「どのような動物が苦痛を経験するか」また「どのような動物が自己意識を持つか」ということについて、様々な科学的知識を参照しながら論じられている。自己意識については、1993年に出版された第二版では大型霊長類やイルカ・クジラなどは非常に高い確率で自己意識を持っているであろうこと、また程度の差はあれどその他の哺乳類も自己意識を持っている可能性は高いであろうとしている(その他の動物が自己意識を持っている可能性も否定されてはいない)。そして、2011年に出版された第三版では18年で進歩した科学的知識が反映されて、鳥類やタコや魚が自己意識を持つ可能性について積極的に取り上げられるようになっている。『実践の倫理』の他に書かれたエッセイでも、シンガーは昆虫が痛覚や意識を持つ可能性について最近の研究を参照しながら検討している。

 ヴァーナーの本ではシンガー以上に科学的知識について紙面が割かれており、生理学や解剖学や動物行動学など、動物の感覚や自己意識の理解に関する様々な分野の研究を集めてレビューして、ヴァーナーなりにまとめている。たとえば、脊椎動物無脊椎動物が苦痛を感じる可能性については、以下のような表にまとめられている(見づらい写真になってしまったが)。

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 …だが、どれだけ科学的知識を参照したとしても、人間は全知全能でない以上は「どのような存在が苦痛を感じるか」ということを100%の精度を持って絶対正確に理解することはできない、と言うことはできるだろう。植物の専門家である植物学者が植物は苦痛を感じないと言ったとしても、科学は絶対ではないし植物学者は神様でないから疑ってかかることはできる。動物が苦痛を感じるかどうかということについての科学的研究も、「人間が持っているような、あるはそれに類似した、生理学的・解剖学的特徴を持っているか」「刺激に対して苦痛を感じているように見える反応をしているか」といった、人間との類似を基にしたアナロジーに頼らざるをえない部分はどうしても出てくるかもしれない。…このような事情をふまえて「動物が苦痛を感じるかどうかの理解の仕方は、結局、人間中心主義的にならざるをえない」と言うことはできるかもしれない。更に、「人間中心主義的な理解の仕方に基づいているんだったら、"動物に苦痛を与えてはならない"という主張も人間中心主義的だ。人間中心主義を批判する主張が人間中心主義的だなんて矛盾だ偽善だ自己欺瞞だ」みたいなことを主張する人も多い。先に引用したブログ記事でも、このようなことが書かれている。

 

大澤信亮はその著書『神的批評』のなかでピーター・シンガーを参照し、それを批判しつつも突き詰めようとする。彼はまず、「何をもって他者が『苦しんでいる』と判断し得るのか」と問いかける。「暴力を振るったときに叫び声を上げるからか。神経系統に人間に近しいものがあるからか――そのように進んでいくとき、私たちは、究極的に、誰が苦しみ、誰が苦しまないのか、決定できない。植物も、石ころも、空気も、水も、苦しんでいるのかもしれない。私たちがその固有の表現をまだ発見できないだけで」。これは重要な批判だ。というのもシンガーは「苦しむ能力」を規定するとき、たしかに「神経系統に人間に近しいものがある」という点から始めているからだ。人間中心主義を遠ざけるために持ち出された「苦しむ能力」もまた、実は極めて「人間的」なものにほかならない。大澤はこの盲点を突いた上で、次のようにまとめる。

 

…上述したTogetter記事でも書いているが、私はこのような主張をかなり不毛で非生産的なものだと思っている。前述したように、人間は全知全能でない以上は事実について完全に理解することはできなくても、データと適切な方法さえあればある程度までは理解を得ることはできるし、知識を更新して理解を深めることは可能だ。動物やその他の存在の苦痛の有無を人間とのアナロジーによって考えるのは、知識や認識能力に限界がある私たちが他者の苦痛の有無を理解するうえで、おそらくそれが最善の方法であるからだろう。

 人間同士の倫理問題や政策判断においてであれば「検討しなければならない事実について100%の精度では理解が得られないから、事実を一切無視して判断をする」とか「事実がAである可能性は99%だが、1%の確率で事実はBかもしれないので、事実について決定できないので価値判断ができない」という主張はかなり馬鹿らしいものとして扱われるだろう。しかし、動物倫理の問題ではこの馬鹿らしい主張が有効な反論になると思う人がなぜか多いらしく、「動物が苦痛を感じていて植物が苦痛を感じていないなんて確実には言えないんだから、動物への配慮なんて偽善なんだし無視していいんだ」という結論を導き出す人が多かったりする。しかし、「植物も、石ころも、空気も、水も、苦しんでいるのかもしれない。私たちがその固有の表現をまだ発見できないだけで」と考えるのは自由だが、植物や石ころの苦しみの"固有の表現"とやらをまだ発見できていないからといって、既に発見されている動物の苦しみを無視していいということにはならないだろう。 

 植物ではなく昆虫の事例についての話となるが、ゲイリー・フランシオーンの文章を引用して、この記事を締めくくろう。

 

 最後に、植物に関する質問の類例として、以下の質問を取り上げよう。「昆虫についてはどうなんだ?…彼らは感覚を持っているのか?」

私が知る限り、昆虫が感覚を持つかどうかについて確信を持って答えられる人はいない。昆虫に対しては、私は"疑わしきは相手の利益に"というスタンスである。私は自宅の中にいる昆虫を殺さないし、外を歩いている時にも決して彼らを踏まないように試みている。昆虫という事例に関しては、線を引くのは難しいかもしれない。だが、そのことは、多数派の事例においても線を引けないということを…意味しない。アメリカ一国だけでも、我々は毎年に少なくとも100億匹の動物を殺害して食べている。さらに、この数字には、我々が殺害して食べている海の生き物たちが含まれていない。貝類が感覚を持つかどうかについては疑問の余地があるかもしれないが、全ての牛、豚、鶏、七面鳥、魚、その他の動物たちが感覚を持つことについては疑いがない。私たちが乳や卵を採取している動物たちも、疑いの余地なく、感覚ある存在であるのだ。

 昆虫が感覚をもつかどうかについて私たちが知らないかもしれないという事実は、その他の動物たちの感覚についても疑いが存在するということを意味しない。そのような疑いは存在しないのだ。そして、昆虫が感覚を持つかどうかについて私たちは知らないのだから、感覚があると疑いなくわかっている動物たちの肉を食べたり彼らから採取する製品を利用したり私たちの"資源"として利用する目的で彼らを生み出すことの道徳性について評価することもできない、という主張をすることは、言うまでもなく、馬鹿げたことなのだ。

 

 

 

動物への配慮の科学―アニマルウェルフェアをめざして

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