道徳的動物日記

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タチアナ・ヴィサク『幸せな動物を殺すこと』:置き換え可能性の議論、総量功利主義と先行存在功利主義、非同一性問題

 

Killing Happy Animals: Explorations in Utilitarian Ethics (The Palgrave Macmillan Animal Ethics Series)

Killing Happy Animals: Explorations in Utilitarian Ethics (The Palgrave Macmillan Animal Ethics Series)

 

 

 

 今回はドイツ人女性の倫理学者タティアナ・ヴィサク(Tatjana Visak)の著書『Killing Happy Animals: Explorations in Utilitarian Ethics (幸せな動物を殺すこと:功利主義での探求)』の内容について軽く紹介したい。

 

 この本のテーマを一言で書くなら「功利主義は生命が置き換え可能であるという主張を認めなければいけないか」というものである。生命の置き換え可能性に関する議論(replaceability argument)は、ピーター・シンガー(Peter Singer)が著書『実践の倫理』で書いているものが代表的だが、要するに「ある存在を苦痛なく殺害することが可能であり、その存在が殺されなかった場合にその存在がその後の生で感じていたであろう幸福と同等以上の幸福をこれから感じることが約束されている存在を生み出すことができるなら、その存在を苦痛なく殺すことは認められる」という議論である。このような行為は幸福の総量を減らさないのであり、功利主義は「世界に存在する幸福は多ければ多いほど善い、私たちは世界に存在する幸福の量を最大にする行動をとるべきだ」という理論である以上、「置き換え可能性の議論」を認めなければならないのではないか、というのが論点だ。

 この「置き換え可能性の議論」は、例えば畜産制度を擁護するために必要となる議論である。現状の畜産制度に関して言うと、動物に多大な苦痛を与える工場畜産は論外であるし、比較的動物福祉に配慮された農場であっても動物を育てる・殺害する過程において何らかの苦痛を与えている。だが、仮に、育てる際にも殺害する際にも動物への苦痛を与えない畜産制度が実現できるとすれば、「置き換え可能性の議論」を採用すればその制度は認められるべきとなる。幸福を感じながら生きる動物を育てて、その動物を苦痛なく殺害して、殺害された動物と同等以上の幸福を感じながら生きる動物を新たに生み出して育てる…このサイクルを繰り返すとすれば、世界における幸福の総量は動物を殺害しても減らない、むしろ幸福を感じながら生きる動物が常に一定数いる状態を生み出すことによって畜産制度は世界の幸福の総量を増やしている、ということになるからだ。

 

「置き換え可能性の議論」において主に問題となるのは、動物が置き換え可能であるとすれば人間も置き換え可能であると見なさなければならないのではないか、ということだ。

『実践の倫理』の第2版では、未来について考えられる・生と死の概念を理解している・自己意識を持っているなどの一定以上の高度な認知能力を持つ存在(パーソン)は置き換えが不可能であり、一方でそうでない存在は置き換え可能である、とシンガーは主張している。この基準によると一定以上の年齢の人間や大型霊長類などは置き換えが不可能な存在となる一方で、家畜だけでなく人間の胎児・新生児やごく一部の重度な知的障害者は置き換え可能な存在となる。…なぜパーソンの生は置き換え不可能であるかというと、『実践の倫理』の第2版では「欲求充足理論」と「道徳の台帳モデル」が採用されているからだ*1。欲求充足理論を簡単にまとめると「ある存在が何らかの欲求を持っている場合、その欲求が満たされることはその存在にとっての幸福であるので善であり、欲求が満たされないことはその存在にとっての苦痛であり悪である」というものだ。そして、「満たされない欲求が残れば残るほどそれはツケとして台帳に溜まっていき、道徳的に問題となる」というのが「道徳の台帳モデル」である。…さて、「生き続けたい」という欲求や「自分は遠い将来にこういうことをしたい」という欲求は、生死の概念を理解していて自己意識のあるパーソンでないと持てない欲求である。パーソンでない存在が持つ欲求は短期的なものであり、その都度満たすことが可能であるので、パーソンでない存在を殺害しても道徳の台帳にはツケは(ほとんど)残らない。一方で、「生き続けたい」という欲求や「自分は遠い将来にこういうことをしたい」という欲求は殺害されてしまったら必ず満たせなくなるので、パーソンである存在を殺害してしまうと道徳の台帳にツケが残る。そのツケは、新しい存在を生み出したところで解消されない…これが、シンガーの議論のあらましだ。生命の置き換え可能性を認めること、特に人間の胎児や新生児すらも置き換え可能であることを認めるこの主張に対しては反発も大きい。功利主義が生命の置き換え可能性を認めてしまうなら、功利主義ごと否定して他の理論を採用するべきだ、という主張を行う人もいる。

 

 ヴィサクの主張は「功利主義は置き換え可能性の議論を認める必要はない」というものだ。まず、ヴィサクはシンガーの主張に存在するいくつかの問題点を指摘する。問題点の中でも特に大きなものは、欲求充足理論と道徳の台帳モデルを採用してしまうと、パーソンの過ごす生というものは本質的にネガティブなものとして見なされてしまうということだ。人生において感じた全ての欲求が満たされるパーソンの生というものはおそらく存在しないのであり、どれだけ快適な人生を過ごした存在であっても、死んだ時には満たされなかった欲求が台帳のツケとして残ることになる。となると、そもそも全てのパーソンの生は程度の差はあれど道徳の台帳にツケを残すものであるとすれば、道徳の台帳にツケが残ることが確定している生を生み出すことは道徳的に問題となるので、つまりパーソンの生を生み出すことは道徳的に悪いことと見なされしまうのである。パーソンの生は置き換え不可能であるかもしれないが、それ以前に、そもそも生み出されない方が良い生となってしまう。…この問題に対処するために、欲求が満たされることについてある一定の水準を設けて、欲求がその水準以上に満たされるとすれば全ての欲求が満たされなくてもそのパーソンの生には生きるに値する価値があると考えられる、という条件の付け足しをシンガーは提案している。だが、これはいかにも場当たり的であるし、欲求が水準以上に満たされたパーソンの生は殺害されても道徳の台帳にツケは残らないと見なしてしまえば、今度はパーソンの生は置き換え可能であるということになってしまう。…結局、シンガーの理論では、全ての生は「生きるに値する価値はあるが、置き換え可能である生」か「置き換えは不可能であるが、生きるに値する価値がない生」のどちらか一方にしか見なせられない、というのがヴィサクの議論である*2。 

 そして、そもそも「置き換え可能性の議論」が認められるのは「総量功利主義」を採用した場合であり、総量功利主義は否定して「先行存在功利主義」を採用するべきである、とヴィサクは主張する。「総量功利主義」とは、幸福を感じる対象が既に存在しているかまだ存在していないかに関わらず、結果として世界に存在する幸福の総量が最大となるような行為を行うべきである、という主張だ。一方、「先行存在功利主義」とは、まだ存在していない対象の幸福は計算せず、既に存在している対象の幸福が最大となるような行為を行うべきである、という主張である。先行存在功利主義でも「行為の有無にかかわらず、やがて存在してくることが確定している対象」の幸福は計算するべきとされるが、存在/非存在の差が検討中の行為の有無に依存している対象の幸福は計算するべきでない、とされる。…「幸福な動物を苦痛なく殺して、殺された動物がこれから感じたであろう幸福と同等以上の幸福をこれから感じる動物を生まれさせる」という行為は、すべての対象にとっての幸福の総量は減らないので、総量功利主義では認められる。だが、先行存在功利主義では、これから殺される動物は既に存在しているのでその動物の幸福は計算するべきだが、新たに生み出される動物が存在するか否かは「幸福な動物を苦痛なく殺して、殺された動物がこれから感じたであろう幸福と同等以上の幸福をこれから感じる動物を生まれさせる」という行為を行うか否かに依存しているために、その動物の幸福は計算しない。すると、殺される動物がこれから感じていたであろう幸福が失われているという事象だけに注目することになるので、幸福の量は減ると見なされて、認められないことになる。

 功利主義は「全ての存在に平等に配慮して、最大の幸福を生み出す行為を行うべきである」という理論であるとすれば、これから生み出されてくる存在の幸福を考慮せずに幸福の最大化を目指さない先行存在功利主義功利主義の考え方にそぐわないかもしれない。だが、ヴィサクによると、功利主義が「最大の幸福」を重視するのは「全ての存在に平等に配慮」した結果であって、幸福の量を最大化すること自体は功利主義の本質ではない。抽象的な幸福そのものを重視するのではなく、"誰か"が幸福を感じるということを重視するべきである、幸福の量の最大化を目指すがためにすでに存在している対象の幸福を犠牲にして幸福を増やすための新たな対象を生み出すことは本末転倒だ、というのがヴィサクの主張だ。

 先行存在功利主義を主張するために、ヴィサクは功利主義に二つの前提を付け加える。一つ目の前提は「Person-Affecting Restriction(人への影響、という制限)」であり、これは上述した「抽象的な幸福の量ではなく、既に存在している対象が感じる幸福のみに注目する」ということである。二つ目の前提は「ある存在を生まれ出させること自体は、その存在に利益を与えることにもならなければ危害を与えることにもならない」ということだ。存在と非存在を比較できるかどうかについては哲学者や倫理学者の間でも意見が割れており、ある対象が存在しない場合には「その対象の幸福の数値は0」であると見なす人たちは、その対象の幸福をプラスにできればその対象が存在しない場合と比較しての利益をその対象に与えていることになり、その対象の幸福をマイナスにしてしまうとその対象が存在しない場合と比較しての危害をその対象に与えてしまうことになる、と主張する。一方で、ある対象が存在しない場合には「その対象の幸福も存在しない」と見なす人たちは、存在しない場合と存在する場合で幸福の量を比較することは不可能であると考える。存在しない場合の幸福の数値が0であると仮定しても、そもそものその0である幸福を感じる対象自体が存在しない以上、その0である幸福すらも存在しないので比較できない、といった感じだ。そんなこんなで、ヴィサクは「ある存在を生まれ出させること自体は、その存在に利益を与えることにもならなければ危害を与えることにもならない」という前提を擁護する。

 また、先行存在功利主義を採用した場合には有名な「非同一性問題」を始めとしていくつかの深刻な問題が起こるのであり、シンガーもそれらの難点を考慮したうえで先行存在説を否定している。『幸せな動物を殺すこと』の後半では、ヴィサクは「非同一性問題」などに対処するために先行存在功利主義に修正を加えつつ、総量功利主義の方を採用した場合に起こる深刻な問題を指摘して、先行存在功利主義を擁護している。

 難しい議論になるが、「非同一性問題」に関しては、個別的・具体的で事象的(de re)な存在が感じる幸福を計算する「The Narrow Person-Affecting Restriction」ではなく、言表的(de dicto)な存在の幸福を計算する「The Wide Person-Affecting Restriction」を採用することが、ヴィサクの提示する対処法である。非同一性問題とは、たとえばお腹にいる赤ん坊に障害を負わせることを防ぐために母親が薬を飲むことは既に存在している対象への危害を予防して利益を与える行為なので道徳的に要請されるが、いま妊娠したら生まれてくる赤ん坊は障害を負ってしまうが数ヶ月後に妊娠した場合には大丈夫という場合に妊娠を数ヶ月遅らせることは、いま妊娠する場合に生まれてくる赤ん坊と数ヶ月後に妊娠する場合に生まれてくる赤ん坊は別人であり同一の存在ではないので、いま妊娠した場合に生まれてきた赤ん坊が負っていたであろう障害を数ヶ月後に妊娠した場合に生まれてきた赤ん坊が負わないとしても誰かへの危害を予防して利益を与える行為であるとはいえず、妊娠を数ヶ月遅らせる行為は道徳的に要請されない、という問題だ(総量功利主義を採用した場合には、結果として世界に存在する幸福の総量だけを見ればよいので、この問題は発生しない)。この問題に対して、たしかに事象的(de re)には二人の赤ん坊は別人であるが、言表的(de dicto)に"これから生まれてくる赤ん坊"と括ってしまえば同一人物であるといえるので、いま妊娠する場合と妊娠を数ヶ月遅らせる場合は比較可能であり、妊娠を数ヶ月遅らせることは"これから生まれてくる赤ん坊"という対象の危害を予防して利益を与える行為であると見なされて道徳的に要請される…とヴィサクは回答している。

 

 

 

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*1:実際には『実践の倫理』の第2版では「道徳の台帳モデル」の他にも「人生の旅」モデルが採用されていたり、「欲求」(desire)ではなく「選好」(preference)という言葉が使われていたりするのだが、この記事ではヴィサクによるシンガーの議論のまとめにそのまま従うことにする。

*2:シンガーは『実践の倫理』の第二版以降にも理論を修正しておりやや異なる主張を行っているが、ヴィサクはシンガーの修正された理論や主張も取り上げたうえで、前述のような結論を出している。