道徳的動物日記

動物や倫理学やアメリカについて勉強したことのある人の日記です。

「善と悪は科学で測れるか?」 by サム・ハリス

www.samharris.org

 

 今回紹介するのは、心理学者哲学者・神経科学者のサム・ハリス(Sam Harris)が自著『Moral Landscape: How Science Can Determine Human Values(道徳の風景:科学はいかにして人間の価値を決定することができるか)』で行っている議論をハリス自身が紹介している記事。

 サム・ハリスはリチャード・ドーキンスやクリストファー・ヒッチェンズなどと並んで、英米の新無神論(New Atheism)ムーブメントを牽引する人物であり、2004年に出版された著書『信仰の終焉:宗教、テロ、理性の未来(The End Of Faith: Religion, Terror, and the Future of Reason)』はかなり話題になったようだ。現在でも痛烈にキリスト教イスラム教を批判し続けており、最近ではテレビ番組にてイスラム教徒に対する評価をめぐって俳優のベン・アフレック論争になった

 新無神論に対しては「でも宗教がなければ人々は道徳や秩序を失って世の中がメチャクチャになるはずだ」という反論があるようで、それに対して新無神論の側は「いや、宗教に基づいた道徳は非合理的で人々にとって有害であるし、宗教なんかに頼らなくても道徳は理性によって導けるものだ」と応答するのが定番であるようだ。『道徳の風景』も、「道徳は理性と科学によって導ける」というハリスの主張が丸々一冊に渡って論じられて宣言されている本である*1

 ハリスの主張をざくっとまとめてしまうと、要するに「感覚ある存在にネガティブな感覚や経験を与える物事が悪、感覚ある存在にポジティブな感覚や経験を与える物事が善」というものであり、倫理学でいうところの功利主義帰結主義に近い。そして、「どのような物事が、感覚ある存在にネガティブ/ポジティブな感覚や経験を与えるか」「ポジティブな感覚や経験を最大限に与えるにはどのようにすればいいか、ネガティブな感覚や経験を最小限にするにはどのようにすればいいか」ということは理性と科学的知識によって発見や推測ができる、科学的知識こそが道徳的に正しい判断を行うことを私たちに可能にさせる、という主張だ。…ハリスの議論は哲学的な論証の部分が甘いようであり倫理学界隈の議論で目にすることはあまりないように思えるが、まあそれはそれとしてハリスはポピュラーメディアなどではかなり有名な人物であり『道徳の風景』は英語圏ではかなり売れているようだから、紹介する価値はあるだろうと思って紹介することにした。

 

 

「善と悪は科学で測れるか?」 by サム・ハリス

 

 私の最初の著作『信仰の終焉』の出版以来、私は「文化戦争」を…アメリカにおける世俗的なリベラルと宗教保守との間の文化戦争、そしてヨーロッパにおける大部分が非宗教的な社会と数を増し続けるイスラム教徒たちとの間の対立との両方を…特等席から眺めてきた。宗教への信仰と宗教に対する疑念との間に存在する全ての立場の人々から何万もの手紙やeメールを受け取ってきた私には、宗教と無信仰との対立の根本に存在するのは、どちらの側にも共有されている「理性には限界が存在する」という信念である、といくらかの自信を持って言うことができる。宗教と無信仰のどちらの側も、科学は人間の生にとって最も重要な問題について答えられない、と考えているのだ。そして、事実と価値の間にある隔たりについてどのように考えるかが、社会的に重要な問題のほとんど全て…戦争から、子供の教育まで…についてのその人の見解に影響を与えているようである。

 私たちの考え方に存在するこの分裂は、政治的な左右の両極において、それぞれに異なる結果をもたらす。宗教保守は、人生の意味や道徳についての正しい答えは存在すると考える傾向がある。しかし、アブラハムの神がそれが正しい答えであると見なしているから、という以外にそれらの答えが正しいという理由はない。通常の事実については合理的な調査や研究によって発見できるということは宗教保守も認めているが、価値については神秘的な声に由来していなければならない、と彼らは考えるのだ。聖書原理主義、多様性に対する不寛容、科学に対する不信、人間や動物に苦痛を負わせている本当の原因の無視…あまりにも多くの場合に、事実と価値との間の隔たりは宗教右派においてはこのような形で表れる。

 一方、世俗的リベラルは、道徳的な問題に対する客観的な答えなんてものは存在しないと考えることが多い。ジョン・スチュアート・ミルであれば、善に関して私たちの文化が持っている考えはオサマ・ビン・ラディンのそれよりも正しいと見なしたかもしれないが、大半の世俗主義者たちは、正と不正に関するミルの考えもビン・ラディンのそれと全く同じくらい真実から程遠い、と見なしている。多文化主義、道徳的相対主義ポリティカル・コレクトネス、不寛容に対してですらも寛容になること…これらが、事実と価値を分離することが左派に及ぼす結果だ。

 宗教保守と世俗的リベラルのこれらの二つの方向性は同等の力を持っている訳ではない、ということについて私たちは懸念を抱くべきだ。世俗的リベラルは、旧時代からの宗教が持つ非理性的な情熱に対してどんどん圧倒されるようになっている。保守のドグマとリベラルの疑念との組み合わせは、アメリカにおいて連邦政府による胚性幹細胞研究への資金援助が10年に渡って禁止されてしまったことの原因である。この数年に渡って私たちを苦しめている政治的な混乱のことや、中絶や同性婚といった問題についてこれからも私たちは苦しめられ続けるだろうということの原因でもあるのだ。近年の国連における、涜神罪法(国連加盟国の市民たちが宗教を批判することを違法にする法律だ)を制定しようとする試みの根本にも、保守のドグマとリベラルの疑念が存在している。涜神罪法を制定しようとする動きが国連に存在していることは、過激なイスラム教に対する今世代の戦争の真っ最中である西洋を震撼させてきたし、また、ヨーロッパの社会を新たなカリフ制へと作り変えてしまうかもしれない。何が正しくて何が正しくないかということについて宇宙の創造者が抱いていた考えについて知っているという認識は、どんな犠牲を払ってでもこの宗教的な価値観を公共空間において押し付けるという発想を宗教保守にもたらしている。何が正しいかということについて知らない…あるいは、どんな物事も本当に正しいということはない…という認識は、多くの場合、知的な基準と政治的な自由のどちらにもお手上げの状態になって明け渡してしまうことへと世俗的リベラルを導いている。

 アマゾンの奥地にて未発見の部族が新しく発見されたとして、その部族の人々の身体的健康は最適な状況であり物質的にも繁栄しているはずだ、と無条件に推定する科学者は現代には存在しないだろう。むしろ、その部族の平均寿命はいくらであるが、日々に摂取するカロリー量はいくらか、何%の女性が出産の際に死んでしまっているか、感染症は蔓延しているか、物質的な文化は存在するか、などなどのことを私たちはたずねるはずだ。それらの質問には答えが存在するだろうし、その答えは、石器時代の生活を過ごすためにいくつかのことを諦めなければならないということを明らかにする可能性が高いだろう。さらに、この陽気な部族民たちには自分たちの家で最初に生まれてきた子供を想像上の神に捧げて犠牲にするという習慣があるという情報がもたらされたとしても、多くの(いや、大半の)文化人類学者たちは、この部族は私たちのそれとは違った道徳コードを持っているのであり、私たちのそれと同じくこの部族の道徳コードはどの点を見ても妥当なのであり反論することはできないのだ、と言いたがることだろう。しかし、道徳と人間の幸福(well-being)との間にはつながりがあると考えれば、文化人類学者たちの主張は、この部族の人々は人類史上の他のすべての人々と同じく心理的にも社会的にも最高に満たされている筈だと言うのと同じである、と見なすことができる。私たちが身体的健康について抱く考えと精神的/社会的健康について抱く考えの間にある不一致は、奇妙なダブル・スタンダードを露わにする。前者と違って後者は、人間の幸福について私たちは何も知らないということを前提にしている…あるいは、むしろ、人間の幸福について私たちは何も知らないふりをすることを前提にしているのだ。

 地球上には二人しか人間が存在しない、と想像してみよう。この二人のことを「アダム」と「イヴ」と呼ぶことにしよう。明らかに、この二人が自分たちの幸福を最大化する方法について私たちは問いを質ねることができる。さて、その問いには間違った答えが存在するか?もちろん。(間違った答えその1:二人がそれぞれに大きな岩を手にとってお互いの顔を砕き合えば、二人の幸福は最大化する)。そして、二人のそれぞれの個人的な利益が互いに衝突しあう場合もあるだろうが、地球上でたった二人残された男と女との間で互いに共通する利益…食料を得ること、安全な隠れ家を立てて大型の捕食動物から自分たちの身を守ること、などなど…を理解した方が二人は幸せになれるだろう、ということにはほとんど議論の余地がないはずだ。もしアダムとイブが充分に勤勉であれば、テクノロジーや芸術や医薬品を創造することによって得られる利益、世界を探検することや次世代の人間をこしらえることによる利益も、二人は理解するかもしれない。二人の前に広がる風景には様々な可能性が存在しているが、さて、いずれかの可能性を追求するうえで善い経路というものや悪い経路というものは存在するのだろうか?もちろん、存在する。実のところ、定義からして、最悪な悲惨へと二人を導く経路も存在すれば、可能な限り最大の幸福へと二人を導く経路も存在しているのだ…二人の脳の構造、彼らが暮らす環境に存在する抜き差しならぬ事実、自然の法則などによって、それらの結果がもたらされるのである。この根本にある事実とは、物理学事実・化学事実・そして生物学的な事実であり、それらの事実が、たった二人存在している人間たちの経験に影響を及ぼすのだ。

 私が新著『道徳の風景』で論じているように、アダムとイブの二人が生き残る方法がたとえ千種類存在するとしても、二人が生き残ることに失敗する方法も数多く存在するだろう…そして、人間の幸福の絶頂を贅沢に楽しむことと、血生臭い恐怖の谷底で衰弱していくこととの間にある違いは、科学的に理解することが可能な事実で説明することができるのだ。さて、アダムとイブの二人だけでなく更に67億人をこの思考実験に加えたからといって、正しい答えと間違った答えとの間にあるこの違いが、なぜ突然に消えなければならないのだろうか?

 もちろん、「私は他人の子供をどれくらい気にかけなかればならないか?助けを必要としている他人のために、私はどれくらいの犠牲を支払うべきなのか、あるいは、自分の子供のことをどれくらいに犠牲にするべきなのか?」といった質問について考えるときには、本当の倫理的な困難が生じることになる。私たち人間は、本性からして、公平ではない…そして、道徳的な推論の大半は、自分自身や自分にとって身近な人について気にかけることと、自分たちはもっと他人を助けることにコミットした方がより良いだろうという感覚との間に緊張が存在する状況にて行われなければならないものなのだ。しかし、この文脈でも、「より良い」という単語は、感覚ある存在の経験にポジティブな変化がもたらされることを意味していなければならない。

 21世紀において人はいかに生きるべきか、という問いには、競合する多くの答えが存在している…そして、それらの答えの大半は確実に間違っているのだ。人間の幸福についての理性的な理解のみが、私たち数十億の人間が平和に共存することを可能にして、同一の社会的目標・政治的目標・経済的目標・そして環境的目標を目指すことを可能にする。人間の幸福(flourishing)をもたらすための科学はまだまだ未発達であるように思えるかもしれないが、それを実現するためには、私たちは[善悪に関する]知的な領域が存在することをまず第一に認めなければならないのだ。

 

 

The Moral Landscape

The Moral Landscape

 

 

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*1:日本語で読める情報としては、この記事が『道徳の風景』の内容を詳しく紹介している。

d.hatena.ne.jp