道徳的動物日記

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「安楽死と、弱者の保護」 by ロジャー・クリスプ

 

 久しぶりにオックスフォードのPractical Ethicsのブログから、2015年9月に公開された、倫理学者のロジャー・クリスプ(Roger Crisp)の記事を訳して紹介。

 

blog.practicalethics.ox.ac.uk

 

安楽死と、弱者の保護」 by ロジャー・クリスプ

 

 悲しいことに、しかし意外でもないことに、ロブ・マリス議員による安楽死(assisted dying, 幇助自殺)の合法化法案はイギリス下院議員の多数派によって否決された

 安楽死合法化法案を否決するための議論としては、この法案を否決することは弱者(vulnerable)を守ることである、という議論が最も広く受け入られているものであるようだ。

 上述の議論を行っている人たちが想定している弱者とは、どのような人たちであるのだろうか?それは、家族を重荷から解放するために自分は安楽死を要求しなければならない、というプレッシャーに晒されるであろう人たちである。このような人たちは、2つのカテゴリに分けることができる。

 第一のカテゴリは、安楽死をしなければならないという道徳的なプレッシャーを本人は感じてはいるが、その人の家族は実際にはいかなる形でもプレッシャーをその人にかけていない、という人たちだ。もちろん、社会の犠牲になるために安楽死を行うことが一般的に期待されているという訳ではないこと、その人が安楽死を行うことを家族も支持しないであろうということをその人に説明するかどうかは、それぞれの事例に関わっている医者に委ねられるだろう。医者の説得もその人が安楽死を行うことを防ぐには不充分である、という場合ももちろん存在するだろう。しかし、安楽死以外の事例では、私たちが間違っていると考える道徳的決断の結果からその人を予防することは、たとえその人が弱者であっても私たちは行わないものだ。たとえば、財産の移転について考えてみよう。一部の弱者は自分の貯金の大半を親戚に渡してしまって、その結果として自分自身の生活における福祉(well-being)を急落させてしまうが、彼らはそれが自分たちが行うべきことだと信じているのである。彼らの信念に私たちは同意しないとして(多くの場合、私たちの大半は同意しないだろうと私は推測しているのだが)、重度の高齢者や病人がこのような財産移転を行うことを正当化する法律は否定されるべきであるとも、私たちは考えるだろうか*1

 しかし、安楽死は自分が行うべき義務ではないがそれにもかかわらず自分が安楽死を行うことは良いことである、とその人が考えている場合はどうだろうか?さて、なぜ、そのような人々が自己犠牲を行うことは許可されてはならないというのだろうか?J・S・ミルなら言ったであろうように、その選択はその人の「私的領域」で行なわれている選択なのであり、他人は私的領域で行なわれた選択に干渉する権利を持たないのだ。さらに、安楽死を行って自己犠牲することは義務ではない(supererogatory)ということをその人が理解しているとすれば、安楽死をする選択肢が与えられたことについてその人が悲嘆するのはおかしなことになるだろう。結局のところ、安楽死を選択しないとしてもその人は何も非難されるところがないからだ*2

 上述の事情にもかかわらず、その人は安楽死を選択することによって自分自身の状況を悪くしている(making harself worse off)、と主張することはできるかもしれない。このような主張が問題としているのは、安楽死が許可されているシステムにおいて誰かが安楽死を行うことを認めるか否かではなく、そもそも安楽死を許可するシステムを立ち上げるべきか否かということだ。人々の福祉について考慮する場合には…特にその人々が弱者である場合には、特定の選択肢を選択不可能にするべきである、ということだ。

 この主張も、いくぶんかパターナリスティックであるように思える。財産の移転の事例について、再び考えてみよう。財産の移転はその人自身の状況を悪くする可能性があるからといって、弱者が財産を移転することを不可能にするべきであろうか?そうだとしても、なぜ弱者だけを対象にするのか?誰だって、家族やその他の人々からのプレッシャーに晒される可能性はある。その人々に(訳注:決断を行うために充分な)能力があるとすれば(competent)、その決断が時には間違いになるだろうと私たちが考えているとしても、自分の生き方に関する選択を自分自身で決断することを私たちは認めるべきではないだろうか?

 では、実際に他人からのプレッシャーに晒されている人々についてはどうだろうか*3?このような場合においては、それらの人々が表明した意志は(訳注:「本当にその人の意志である」と認められるために)充分な資格を満たしており誰かによって強制された選択ではないことを保証することが、それらの事例に関わっている医者や裁判官にとっては特に重要となる。もちろん、自分の本当の意志を偽装することがとても得意なために医者や裁判官の目を誤魔化すことができる、という特異な人は存在するかもしれない。しかし、再びながら、他の事例においては、一般的な場合における自由と自律を保証するためにはこのような特異な人が存在する可能性を私たちは受け入れるものだろう。財産移転の事例について再び考えてみてほしい。

 いずれにしても、アメリカのオレゴン州のように安楽死が合法化された地域からのデータは、安楽死合法化法案に反対している人々が感じている恐怖の大半には根拠が無いということを示している。この問題は数の問題なのだ。安楽死が合法化されたとすれば、自分の人生を終わらせるように家族から理不尽で容認することのできないプレッシャーに晒される人が、一人か二人かは出てくるかもしれない。現在に何人かの人が同様のプレッシャーを財産移転に関して感じているのと同じようにだ。だが、多くの末期病状における最も重要な弱み(vulnerability)とは、苦悶に満ちいていて、慢性的で、そして取り除くことのできない苦痛のことなのだ。安楽死合法化法案に反対した下院議員たちのために、イギリスでは何千人もの人々が自分の意志に反してこの苦痛を感じ続けなければならないことになった。反対した下院議員たちが、自分たちの選択は弱者を守るための選択であると説明しているのは、グロテスクなことである。

 

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*1:訳注:反語であり、「いや、私たちはそうは考えないだろう」という文意。

*2:訳注:「安楽死を行うことは自分の義務ではない、安楽死を行なわないとしても自分は非難されない」と認識している人が、それでも安楽死を選択するとすれば、その人は安楽死を嫌々ながらではなく前向きに選択しているはずだ、というような文意であると思われる。

*3:訳注:このような人たちが、第二のカテゴリであるということ。