道徳的動物日記

『21世紀の道徳』発売中です。amzn.asia/d/1QVJJSj

「意識と、死の悪さ」 by ジョシュア・シェパード

 

 本日はオックスフォードのPractical Ethicsブログから哲学者のジョシュア・シェパード(Joshua Shepherd)の記事を訳して紹介。注釈と参考文献は省いている(後日に付け足すかも)。記事内で取り上げられているジェフ・マクマーン(Jeff McMahan)の『Ethics of Killing(殺すことの倫理学)』を一通り読んだのでついでにこの記事を訳してみることにしたのだが、特に後半は難しくて上手くいかなかったかもしれない。

 

blog.practicalethics.ox.ac.uk

 

「意識と、死の悪さ」 by ジョシュア・シェパード

 

1:多くの人は、殺害が不正であることの少なくとも一部は、死がもたらす危害 and / or 死に含まれる悪さに関係している、と考えている。その考えは正しい、と私も考えている。

 

2:多くの人は、死がもたらす危害 and / or 死に含まれる悪さは、主に将来の剥奪に関わっていると考えている。特に、将来には価値のある経験や価値のある状態が含まれているのであり、死は、これらの価値ある物事を経験するか他の方法で獲得することができる存在(entity)を奪うことになる。将来にはなぜ価値があるかということを説明する方法は様々であるとはいえ、この考えの基本は正しいと私も見なしている。

 

3:中絶は認められると考えている人にとって、将来の価値は一見すると厄介な問題であるように思える。胎児は価値のある将来を持っているように考えられるからだ。だとすれば、少なくとも、胎児を殺すことに反対する道徳的理由が存在することになる(ただし、その道徳的理由には反論できる可能性もある)*1

 

4:このような種類の推論に対する反論は、死の悪さに関する理論として大いに論じられてきた理論である、時間-利益相対説(time-relative interests account)に見出すことができる。時間利益相対説は、ある存在の将来の価値を割引するメカニズムを構築する。何らかの将来に価値があるという訳ではなく、その存在が心理的に繋がっているその存在の将来の一部に価値があるのだ。ある存在が自分の将来に対する心理的繋がり…記憶、進行中の行動や計画、価値の持続、性格特徴、などなどによってもたらされる心理的繋がり…を欠くにつれて、その存在の将来の価値が割り引かれるのである。

 胎児を殺すことの不正さについて時間利益相対説を適用してみると、以下のような論じられることになる。胎児は自分の将来に対する強い心理的繋がりを欠いている、と私たちは主張するかもしれない。その結果、胎児の死の悪さは急落して割り引かれるのであり、胎児を殺すことの不正さも同様に割り引かれるのである。

 

5:このような推論には、悲惨な結果をもたらす可能性が含まれている。多くの人々が指摘してきたように、胎児を殺すことの不正さの急落的な割引きは、乳幼児を殺すことの不正さに対しても同様に当てはまるように思える。胎児と乳幼児のどちらも、将来に対する心理的な繋がりを形成して維持するための多くの能力を欠いているからだ。実際、胎児も乳幼児もその将来が道徳的な問題となる存在である、という考えを考慮に入れることについて、時間利益相対説は問題を抱えているように見える。胎児と乳幼児は、将来を認識するために必要となる、洗練された心理能力を欠いているからだ。そうだとすれば、時間利益相対説は、道徳的な考慮における胎児の道徳的地位を全く貶めることで中絶を道徳的に認められることとするのであり、そのような方法で中絶を認めることは、乳幼児の道徳的地位をも全く貶めてしまうことになるのである。

 

6:[将来に対する心理的繋がりの]他にも道徳的重要さの源泉となる物事の存在を認めることによって、時間利益相対説を補完しようと試みることはできるかもしれない。その源泉として私が念頭に置いているのは、将来に関わる必要はないものであるが、その存在の現在の心理的生活の性質と構造である。ある存在が意識のある存在であると認められるのに充分に洗練された心理能力を持っているとすれば、その存在は道徳的重要さを追加して得られる、と主張することができるかもしれない。そして、この追加された道徳的重要さは、(少なくとも大半の状況において)その存在を殺害することを許可不可能とするのに充分であるかもしれない。

 この提案を認める必要はあるだろうか?この提案は、死の悪さに関する多くの議論における基本的な論点に対してある一つの重要な側面において反している、ということは注記しておく必要があるだろう。多くの議論では、死の悪さは、その存在に対してなされた危害を通じて発生するものであるとして扱われている。これは危害について考える方法として自然であるし、特に、多くの場合に行われるように議論が将来の価値という枠組みで考えられる場合にはそうだ。しかし、死の悪さについて他の方法で考えることも可能である。先述の提案によれば、死の悪さについて、偉大な芸術作品が破壊されることの悪さと類推して考えることができる。芸術作品の価値は時間を経ることで増すかもしれないし、その場合には、芸術作品を破壊することの危害は時間を経の経過と共に発生するかもしれない。しかし、偉大な芸術作品を破壊することが悪いことの理由の一つは、単に偉大な芸術作品が存在するということ自体に価値があるということであり、その芸術を存在しなくさせることは価値の含まれている器(locus)を存在しなくさせるということなのだ。意識のある心理生活(conscious mental life)を所持していることにも、芸術作品と同じような価値が存在しているかもしれない。意識のある心理生活を所持することは、価値の含まれている器であるということなのだ。

 ひとまず、ある存在が意識のある心理生活を持っていることは、その存在を殺害することを一応は(prima facie)許可不可能にすることに充分であると仮定してみよう。そうだとすれば、私たちは乳幼児の殺害に対して反対する強力な理由を維持することができるし、その理由は幅広い段階の胎児…意識を持つことができない胎児(たとえば、26週間よりも若い胎児など)…には当てはまらないということも維持することができる。そして、このような補完は、時間利益相対説の中心となる洞察…つまり、なぜ死が悪いこととなり得るのかということについての重要な仕方を時間利益相対説は捉えている…を維持しながら行うことができるのだ。

 

7:上述した提案は時間利益相対説の補完にはならず、むしろ時間利益相対説を拒否する理由になるのではないか、と懸念する人もいるかもしれない。そのような懸念は以下のように表すことができるだろう。意識のある心理生活を持っていることにどれほど価値があるかは不明瞭である。さて、意識を持つ存在であるということはその存在を殺すことを(少なくとも一応にも)許可不可能とするのに充分な資格ではないということなれば、乳幼児の殺害が(時間利益相対説に基づけば)許可される可能性に私たちは直面することになる。そして、もし意識を持つ存在であるということはその存在を殺すことを許可不可能とするのに充分な資格であるとすれば、その場合にはなぜ私たちは時間利益相対説を必要とするのだろうか?時間利益相対説は、死の危害の性質について説明できる唯一の理論であるようにはもはや思えないのだ。

 時間利益相対説の主張者たちは懸念を抱くべきだろうか?死の危害と殺害の不正さについて論じる人の一部には、まるで真実を明らかにするということはどの理論が正しいかということを発見することであるかのように、時間利益相対説を他の競合する理論と突き合わせる人がいる。弁証法によれば、ある問題に関して起こっている論争を調べるうえで、これは確かに有効な方法である。しかし、弁証法的な有効さにはそれ自体に限界があることは認識されるべきだ。死の危害と殺害の不正さに関連する、考慮されるべき全ての事項を発見して解明することが私たちの目標であるとすれば、死は幅広い様々な仕方で悪いこととなり得るという考えから議論を始める方が良いかもしれないし、その様々な仕方を明らかにして、殺害の不正さに関する考慮においてそれらの死の悪さの仕方がいかに関わってくるかということを明らかにすることを目指すべきかもしれない。

 

8:さて、先述の提案を受け入れられるのに充分なほど明白なものにするという課題は、まだ残っている。再びその提案を記しておこう:ある存在が意識を持っているということはその存在を殺すことを一応は許可不可能とするのに充分であり、意識のある心理生活を持っていることの価値は、その意識的な存在が持っているかもしれない価値のある将来とは無関係に理解することが可能である。

 この提案には直観的な妥当性がある、と私は思う。しかし、この提案を私たちが受け入れるべきであるかどうかについては私は確信がない。なぜなら、この提案を明確にして詳細に検討することには、かなりの議論が必要となるからだ。

 多くの場合、中絶に反対する人々は、少なくとも妊娠後期の胎児の中絶は不正であると論じる。そのような胎児には意識があるからだ。(このような議論は多くの場合には胎児が苦痛を感じる能力を持っているということに結びつけられているが、しかしながら、私がここで起こっている提案はそのような主張とは異なっている)。実際、このような種類の主張は、時間利益相対説の最も代表的な論者であるジェフ・マクマーン(Jeff McMahan)が行っている主張とほんの僅かにしか異ならない、と主張することはできるかもしれない。マクマーンの『Ethics of Killing(殺すことの倫理学)』における殺害の不正さについての二段階説(two-tiered account)によると、人格(person)である存在を殺すことの不正さは人格ではない存在を殺すことの不正さとは根本的に異なっている。人格ではない存在を殺すことの不正さは価値のある将来を剥奪するということにしか関わっていない一方で、人格である存在を殺すことの不正さには人格である存在に対して尊敬を払うことへの要求が関わってくるのだ*2。マクマーンによると、この要求の根拠にあるのは、特定の種類の心理学的能力である。「具体的には…人格を動物から区別する、特定の高度な心理的能力の所持である」(p.243)。すると、私がここで記している提案とマクマーンの主張との違いの一つは、提案の方では"存在が意識のある心理生活を持っていること"を尊敬を要求する程の道徳的重要性を持つ要素であると強調する一方で、マクマーンの主張ではそれよりももっと高度な心理的能力を求めていることにある。

 なぜ、より高度な心理能力ではなく、意識のある心理生活を持っていることを優先して強調するのか?この疑問に対して答えることに含まれる問題はかなり複雑である。多くの論点を整理することが必要とされる。

 ある部分では、ここで言及されている意識というものが何であるのかが不明瞭であることが、問題の原因となっている。自己意識について言及しているのか、アクセス意識について言及しているのか、あるいは現象的意識について言及しているのか、少なくともこれら三つの可能性が存在しているのだ。これらのいずれもが意識の形として道徳的な重要性があるものとして提案されてきたのであり、それぞれの意識が持っている道徳的重要性はどのように違うかということは現在でも不明瞭だ。さらに、少なくとも自己意識とアクセス意識に関しては、その意識自体に程度差があると一般的に考えられている。より多くのアクセス意識を持ったり、より高度な形の自己意識を持つことが可能であるのだ。では、なぜある段階の意識を他の段階よりも優先しなければならないのだろうか?

 ひとたび区別を付けたとしても、同様の問題が現象的意識に関しても発生することになる。現象的意識は、意識の状態を決定可能なものと、それら決定可能なものの決定要因となる様々な仕方とに分けることができる。現象的な意識状態は、様々な方法で、関連している決定可能なものの決定要因となる可能性を持っている。現象的意識は、複雑な現象なのだ。様々な様相の知覚状態や認識状態、エージェント的な状態が現象的意識には含まれているのであり、それらは、おそらく、それらの状態を持つ存在の心理生活の豊かさと複雑さを増すであろう。現象的意識には道徳的重要性があると私たちが主張するとき、実際には私たちは何を主張しているのだろうか?いかなる現象的意識の所持にも重要性があると主張しているのかもしれないし、それとも、一部の種類の現象的意識を所持していることに重要性があると主張しているのかもしれない。それに、意識それだけではある存在に道徳的重要性を与えることはできないのであり、その意識は一定程度以上に複雑でなければならないという可能性もある。意識のある心理生活のなかでもどのような形のものが道徳的に重要なものであって、そしてそれが重要である理由は何であるのか?

 さらなる難点は、意識を持つことに道徳的地位を帰属させることの理論的な結果に関わっている。先述した提案がもたらす可能性のある結論のなかでも最も明白なものとして、意識のある心理生活…または、少なくとも乳幼児の持つ心理生活に含まれている程度の豊かさと複雑さを含んでいるような心理生活…にこれほどまでに多くの道徳的重要性を認めてしまうと、あまりにも多くの動物たちにも道徳的重要性を認めざるをえないことになる、ということについて懸念する人がいるかもしれない。その懸念は筋の通ったものだ。意識の道徳的重要性について十分に論じるためには、人間以外の動物たちについても検討に入れなければならないからだ。しかし、ここで私が主張しているのは、ある存在が意識のある心理生活を持っていることはその存在を殺すことを一応は許可不可能にする、ということだけであるということは記しておく価値があるだろう。もしかしたら、一部の状況あるいは多くの状況においては、人間以外の動物を殺すことを支持する正当な理由が存在しているかもしれない。つまり、私たちが人間の乳幼児(や、場合によっては妊娠後期の胎児)に対して敬意を払う必要がある理由と同様の理由が一部の動物に対しても存在しているとしても、そのことは、乳幼児や動物たち対して行う行為に関する他の理由が持っている影響を排除することはできないということだ。あるいは、多くの動物を殺害することに対して反対する理由は、多くの人々が考えているよりも強く存在しているかもしれない。あるいは、動物を殺害することを正当化するためには、多くの人々が考えているよりも強い理由が必要とされるかもしれない。そして、このことは私が行っている提案にとって弱点になるのではなく、むしろ私の提案の強みとなるものであるかもしれない。もちろん、そのような理由が本当に存在しているかどうかは未解決の問題であるのだが。

 

 関連記事:

davitrice.hatenadiary.jp

 

*1:訳注:「中絶は胎児の将来を剥奪するから不正である」という趣旨の主張の代表として、ドン・マーキス, 1989, 「なぜ妊娠中絶は不道徳なのか」が挙げられている。

 

妊娠中絶の生命倫理

妊娠中絶の生命倫理

 

 

*2:

 

The Ethics of Killing: Problems at the Margins of Life (Oxford Ethics Series)

The Ethics of Killing: Problems at the Margins of Life (Oxford Ethics Series)