道徳的動物日記

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カント的な動物倫理の議論:クリスティン・コースガードのインタビュー記事

blog.practicalethics.ox.ac.uk

 

 オックスフォードのPractical Ethicsブログから、2015年の4月に公開された、カント的な立場の倫理学を主張する倫理学クリスティン・コースガード(Christine Korsgaard)にEmilian Mihailovというルーマニア(?)の倫理学者が動物倫理についてインタビューした記事を訳して紹介。

 何度か書いているが倫理学において動物倫理の議論を切り開いたのはベンサムを代表とする功利主義者であるし、現在でも動物倫理といえば『動物の解放』を著したピーター・シンガーが代表的であるために「動物の道徳的地位を主張する議論は功利主義だ」→「功利主義を否定すれば動物の道徳的地位も否定できる」とか「日本人には功利主義は受け入れられないので動物の道徳的地位を主張する議論も受け入れられない」などと主張されるのが散見されるのだが、功利主義とはライバル関係にあるカント主義や権利論などの倫理学理論においても、動物の道徳的地位を主張する議論は盛んに提唱されているのである。なので現代でカント的な倫理学を主張する倫理学者としてもかなり有名で代表的であろう論者のコースガードの主張を紹介することにした。ただし、このインタビューだとどこがどうカント的なのか分かりづらいのかもしれないので、詳細が気になった人は以下の記事なども参考にしてほしい。

 

thepointmag.com

 

 

 

Q:なぜ動物には人間と同様の道徳的地位が認められるべきなのですか?

 

A:人間が自分たちの道徳的地位を主張する根拠は何なのか、自分自身に問うて考えてみてください。道徳的地位の問題について理解するためには、ある物事が誰かにとって善い(good-for-someone)それだけで善い(just plain good)かということと関連させて考えるのが最良の方法であると私は思います。ある物事はそれだけで善いと私たちが言う時(良い教師・良いナイフ・良い人のように"良いxx"という評価的な意味合いではなく、ある人生の終わり方が善いとかある事態の状況は善い、などと言う意味合いでの"善い"という言葉を使うとき)、その物事には追求したり実現したりする価値がある、と私たちは言っているのです。つまり、その物事をもたらす理由が存在している、ということです。さて、私たちの多くは、様々な物事が自分たち自身や自分の愛する人々にとって善いとも考えており、(その物事が他人にとっては悪いものだという場合を除けば)その物事をもたらして実現させる理由は存在する、と考えます。つまり、自分たち(や自分が気にかける人々)にとって善い物事は、それが他人(や自分が気にかける人々)にとって善い物事と衝突をしない限りは、ただそれだけで善い、と私たちは主張するということを意味しています。しかし、なぜでしょう?なぜ、ある物事は自分(や誰か)にとって善いという事実はその物事をもたらす理由になる、と私は考えなければいけないのでしょうか?このことについて、それを裏付ける更なる理由はないと私は考えます。ある物事が私にとって善いということだけを理由にして、私はその物事をそれだけで善いことだと見なすのです。私にとって善い物事について私がこのように主張するとき、私は自分はカントが「目的(end-in-itself)」と呼んだ存在であると主張しているのです…あるいは、少なくとも私の主張の一側面にはこのような主張が含まれています。しかし、もちろん、自分が自分であるからという理由で自分は「目的」なのだ、と主張する訳ではありません。ただ単に、物事が自分にとって善くもなり得れば悪くもなり得る存在に自分が属しているということが、自分は「目的」であると主張する理由になるのです。つまり、私が自分にとっての目的を追求するとき、実質的には、以下のように表すことができる原則に私はコミットしているのです。「物事が自分にとって善くもなり得れば悪くもなり得る存在である誰かにとって善い物事は、それが他人にとって悪い物事でない限りは、善い物事である」。動物はこの原則の対象に該当します。ある物事が私たちにとって善くもなり得れば悪くもなり得るのと同様に、物事は動物にとっても善くもなり得れば悪くもなり得るのです。彼らにとっての善は、私たちにとっての善と同様に問題となるのです。

 

Q:どのような考え方や偏見が、動物への公正な扱いを実現することから私たちを遠ざけるのでしょうか?

 

A:正確にはそれは哲学的な質問とは言えないので、私の答えはやや推測的なものとなります。自分たち自身が動物であるということを認めることと動物を正しく扱うこととの間には関連がある、と私は考えます。あるレベルでは全ての人が人間は動物の一種であるということを認めているとはいえ、人間は動物であるという考えには人々が直視するのが難しい側面がまだ存在していると思います。他の場面では私にとって最も偉大な哲学のヒーローであるイマヌエル・カントも、もし人間が宗教を持っていなかったら、人間は「世界における他の全ての動物たち」と同じ運命を辿る…自分たちが受けてきた苦痛への救済が何もない死を迎えるということを認めなければならなくなる、と書いています。そのような運命を恐れるために、人々は自分たちの動物的な側面から目を背けようとします。宗教を信じない人々すらも、ある意味では人間は宇宙に愛された存在であるという考え方に固執するのです。

 とはいえ、考え方や偏見だけが私たちを進歩から遠ざけているのではないと思います。人々にとって実践するのが最も難しい変革とは、毎日の生活において不快感や損失を引き起こすような種類の変革です。多くの人々にとっては、一生に渡って好きな食べ物や快感を諦めることを決断するよりも、いまから革命に参加して戦うことを決断する方がまだ簡単でしょう。それに類似した問題が社会レベルでも存在します。動物を使用すること(そして虐待すること)は私たちの生活や組織を支えるインフラに根深く組み込まれているので、それを変えることは困難なのです。

 

Q:自分が広場(アゴラ)で一般人たちに話しかけているソクラテスであると仮定してみてください。一般人たちを困惑させるために、一人の人間の生命は一匹の犬の生命よりも価値があるという主張に対してどのような疑問を投げかけますか?

 

A:まず、物事はそれが誰かにとって善い(または、善くなり得る)場合にしか価値を持たない、ということを彼らに理解させようとするでしょう。次に、一人の人間の生命は一匹の動物の生命よりも価値があるとして、その価値は誰にとっての価値なのか、ということを彼らにたずねます。私たちは自分たちに対して他の動物に対してよりも高い価値を見出すかもしれませんが、それは依怙贔屓でありここで問題となっていることとは関係がないでしょう。結局のところ、私は自分の友達や家族(そして、おそらく自分自身)に対して知らない他人に対してよりも高い価値を見出していますが、だからと言って自分の友達や家族は実際に他の人々よりも重要な存在であると結論することはないですし、たとえば自分の家族を助けるために侵襲的な生体実験を他人に対して行うということもしません。彼や彼女が持つ自身の生命とその生命の質は全ての動物たちにとって重要なのであり、異なる種類の動物たちの間に重要さや価値のランキングがあるということはないのです。

 一人の人間の生命か一匹の犬の生命かを選択しなければならない状況にいるとすれば…一般的な例だと、火事で燃えている家からどちらか片方しか救えないという場合であり、他に関連してくる要素は存在しないという状況ですが…人間は犬に比べて死んだ時により多くのものを失うからという考えに基づいて、人間を救うことを選択するかもしれません(それが唯一の理由であると主張しているわけではありません)。人間には、実行中の計画や、満たすことができなかったら後悔するような責任や、それを経験することをいつも心待ちにしており経験できなかった場合には残念に思うような喜びなどが存在するかもしれないからです。しかし、このことは、人間の生命は犬の生命よりも重要であると判断している訳ではないことに注意していください。人生において計画したり楽しみにしていたことを完了する機会は、犬にとっては不可能な仕方で人間にとって重要になる、という判断なのです。私たちがこのように考える時、私たちは人間にとって重要なことと犬にとって重要なこととの両方を考慮の対象に入れているのです。

 

Q:動物には尊厳があるため、動物が人間にとっての目的のための手段としてのみに扱われることはあってはならない、という主張に含まれる最も実践的な結論とはなんでしょうか?

 

A:この主張に含まれている最も実践的な結論は明白です。工場畜産では、人間が肉をもっと安く食べられるようにするためだけに、莫大な量の苦痛と拘束が動物たちに強制されています。この慣習は終わらせるべきです。工場畜産を正当化する理由は存在しません。同様に、たとえ私たちは動物実験から有益なことを学べるとしても、侵襲的で苦痛に満ちておりまた死をもたらすような動物実験は終わらせるべきです。工場畜産や動物実験などは、動物を人間の目的のための手段としてのみ扱っている事例としてもかなり明白なものですが、「目的」である存在を手段としてのみ扱うことは決して行ってはならないとカントは主張しました。このような行為は私たちが人間のことを動物よりも重要な存在であるかのように扱うから行えることなのですが、先に述べたように、人間は動物よりも重要な存在であるという主張は全く通用しないと私は考えています

 

Q:どの慣習を変革するべきかということを判断するうえで、貧困や発展途上国の問題はどの程度まで重視するべきでしょうか?

 

A:その質問について私が適切に答えられるかどうか、あまり自信がありません。私は先進国出身の哲学者であり、かなり保護された生活を過ごしていることは自覚しております。おそらく、動物に関する慣習を変革させようとする際に貧しい人々や発展途上国の人々に対して正確にはどのような影響が生じるのかを知るのに充分なほど、私は彼らの生活の状況を知っていないでしょう。肉食に基づいた食習慣よりもベジタリアンの食習慣の方がより多くの人々により安く食糧を行き渡らせられることは多くの研究で示されていますので、人々が食習慣をベジタリアンやビーガンに切り替えることは、大規模に生じている動物の苦痛を終わらせる方法であるだけでなく、最終的には発展途上国の人々にとっても利益になるだろうと考えます。しかし、もちろん、ビーガンになろうと全世界の人々が同時に決断したとしても、現在の食習慣からビーガンへと移行する際のコストというものは発生するでしょうし、そのコストは一部の人々に対して他の人々よりも重く生じることにもなるでしょう。重要なのは、動物を虐待することによって得られるものの代替品を見つけることは、貧しい人々にとってはより緊急の問題であるということです。動物を虐待することによって得られるものはもう使用するな、とただ彼らに命じるだけでは済まないのです。

 

Q:あなたの考える、動物の扱いに関する現在の慣習を変革するための現実的なアプローチとは何でしょうか?

 

A:何が現実的かということについて自分がそこまで知っているかどうか、あまり自信がありません。多くの人々が動物を食べることをすぐに止めるとは思っておりませんが、少なくとも先進国においては、多くの人々は工場畜産で育てられた動物よりも"人道的に"飼育された動物を食べることを望んでいるだろうとは思います。それを実行するのが非常に不便でない限り、食べる肉の量を減らすためにより多くのお金を払うことについても人々はやぶさかでないかもしれない、とも考えます。ですので、そこを出発点とすることができるでしょう。

 上述した意見は特に高潔な意見という訳でもありませんが、先にも言ったように、代替品を見つけることが鍵となります。動物を虐待することで私たちが行っている様々な物事を行うための別の方法が見つけられない限り、人々は動物を虐待することを止めないでしょう。たとえば、動物に対して科学実験を行っている人や軍事計画や軍事訓練の一環として動物を用いている人々の間で、自分たちが実験や軍事などに動物を使用することは代替案を探し求めるべきことであってやがては廃止されるべきことなのだと考える文化が成立してほしいと思います。これらの慣習に対する実行可能な代替案を発見することについて、何らかの形でインセンティブが付けることができれば特に良いと思います。実際、動物の権利や動物の福祉を守ろうとする団体の一部は、先述したようなことを実行することができる筈です。もちろん、私たちの動物の扱い方は深刻な不正であるということを人々が理解することは不可欠であると私は考えていますが、一方で、人々罪悪感や非難されているという気持ちを抱かせるよりも、代替案を発展させることの方が動物の扱いに関する進歩を達成するのに有効な方法であると思います。

 

 

 

義務とアイデンティティの倫理学―規範性の源泉

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