道徳的動物日記

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市民的不服従と動物の権利運動

www.theage.com.au

 今回紹介するのは、2013年の5月10日にオーストラリアの The Ageというニュースサイトに掲載された、政治学者のシヴォーン・オサリヴァン(Siobhan O'Sullivan)と倫理学者のクレア・マコーズランド(Clare McCausland)による記事。オサリヴァンには「動物、平等、民主主義(Animals, Equality, and Democracy)」という単著があり、ペットや希少種などの一部の動物は人間によって利害が代表されやすい一方で家畜や実験動物の利害はほとんど代表されておらず不可視化されているという状況は平等と民主主義の理念にひどく反している、というような主張をしている人である。

 市民的不服従という行為は簡単に言えば、「法律的(ルール的)には問題なく正当とされているが、道徳的には不当と思われる状況に反対したり改善したりするために、故意に法を破る(ルール違反をする)」というようなものである。先日の木島英登氏とバニラ・エアの件に関しては、ローザ・パークスの例をあげる人々も多かったりと、市民的不服従ということを連想した人は私の他にも多いだろう。

 

「社会変革を促進するための、動物を支持するための市民的不服従」 by シヴォーン・オサリヴァン、クレア・マコーズランド

 

 1955年のある日、公共バスに乗っていたローザ・パークスは席を立つことを拒んだ。パークスはわざと法律を破ったのだ。アラバマに住んでいる一人の黒人女性として、彼女は白人の通勤者が来た時には席を譲らなければならないとされていた。しかし、彼女が人々の記憶に残っているのは犯罪者としてではない。大半の人にとってローザ・パークスの行動は市民的不服従の大切な実践だったのであり、そしてアメリカの公民権運のマイルストーンであると見なされているのだ。

 定義上、市民的不服従の行為は違法である。しかし、その行為には重要な社会的目的がある。市民的不服従の行為は議論を引き起こし、政策を変更させる可能性を含んでおり、そして多くの場合には社会の進歩を促進するのである。

 市民的不服従はその他の不法行為と区別することができる。市民的不服従は良心に基づいて正当性を確信したうえで行われる行為であり[conscientious]、公的な行為であり、法律を変えるという意図の範囲内で行われるものであるからだ。市民的不服従を行う人には、一定の基準を満たすことが求められる。彼らの行為は暴力的なものであってはならないし、大衆が共有している道徳感覚に訴えるものでなければならない。これらの基準を満たす不法行為だけが、道徳的にも社会的にも擁護可能な不法行為となれるのだ。

 人権の歴史は、市民的不服従という非凡な行為によって彩られてきた。初期の女性参政権活動家たちの活動は、悪化し続ける経済的不平等に対して抗議したオキュパイ・ウォールストリート運動のような集団のために道を切り拓いた。より最近には、不服従の行為が動物のために行われるものとして復活しているのを私たちは目撃している。

 2013年の3月、ニューサウスウェールズ州にて、動物の権利活動家たちがまたもや、屠畜場の従業員たちが動物を残酷で社会的に容認できないような方法で取り扱っていることを示す映像を撮影した。今回の場合、従業員たちは七面鳥を殴りつけて、踏みつけ、蹴り、そして頭を切り落としていた。

 映像がメディアに流れて以来、屠畜場の従業員の責任者は解雇されて、コミュニティでは監視カメラの設置を屠畜場に義務付けることのメリットが再び論じられることになった。屠畜場で行われた適切な懲戒処分も、公共政策についての合理的な議論も、どちらも実に望ましい結果であるように思われる。

 しかし、オーストラリアの農業団体の一部は、そのような映像を撮影した人々に対する罰則の強化を求めている。アメリカでは農業団体の利益がより極端な形で反映されている。動物の権利活動家たちには「テロリスト」とラベルが貼られて、"ag-gag"法と呼ばれる法律では、[屠畜場や畜産場などに潜入して]動物に対する虐待の映像を撮影して公開する人々に対して驚くべきほどに厳しい罰則を課すことが目標とされている

 私たちの見解によれば、ニューサウスウェールズ州で虐待される七面鳥の動画を撮影した人々の行為は、擁護可能な市民的不服従の行為として求められる基準を立派に満たしている。その行為は暴力的ではなかったし、動画は撮影された直後に公開されたし、公共政策を改善するという明白な目的のために行われた行為であったのだ。

 違法に入手されてきた諸々の映像は、[それらの動画が撮影された]それぞれの農場における動物の扱われ方が変わるという結果をもたらしただけでなく、全ての家畜たちがどのように扱われるべきかということについてのより大規模で公的な議論が行われるために必要不可欠であった。農場側からのものにせよ動物の側に立つ人々からのものにせよ、全ての側からの情報を人々が手にしていなかったとすれば、自分たちがどの法律を支持すべるきかということも人々は決断することができなかった。そして、人々が情報を手にしていない場合には、政策立案者たちは社会の意見を正確に反映した法案を作成することができないのだ。

 動物が受けている苦しみを暴露するために法を破った人々は、自分たちの行為が違法であるということを理解していた。そして、多くの場合、行為の結果として彼らは逮捕されるか罰金を課される。しかし、同時に、彼らの行為には社会的な意味もある。不可視にされていた状況を変えて、動物がどのように扱われているかということについて私たち大衆が洞察することを可能にしたのだ。

 動物の権利活動家たちは、コミュニティが政策議論に加わることを[議論の前提として必要な情報を公開することによって]可能にした。そして、将来的には、動物の権利運動家たちはその行為の違法性ではなく、より大きな善に貢献したことによって人々に記憶にされるかもしれない。

 市民的不服従は、人権に関する私たちの考えを進歩させてきた。動物に関する私たちの考え方にとっても、市民的不服従は同様に不可欠なのだ。

 

 

Animals, Equality and Democracy (The Palgrave Macmillan Animal Ethics Series)

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