道徳的動物日記

『21世紀の道徳』発売中です。amzn.asia/d/1QVJJSj

ゆらぎ荘騒動についての雑感

togetter.com

 

 ↑ 最近話題になっているこの騒動について。

 

 騒動の発端となったのは、以下の2つのツイートであるようだ。

 

 

 

 

 私が見た範囲では、下のツイートに対しては「漫画作品に対するエロ表現の規制を求めている」と見なして批判する声が、上のツイートに対しては「本編を読んでもいないのに巻頭カラーだけで『ゆらぎ荘の幽奈さん』を "内容のない作品だと断定している " 」と見なして批判する声が多いように思われる。その後にも色んな人が色んな発言をしていて色んな論点が出ているが、「漫画作品に対する表現規制」という点と「漫画に描かれた性描写(性暴力描写/暴力描写)は子どもや読者に影響を与えるか」という点が特に論じられている感じがする。

 

「漫画作品に対する表現規制」についての私の意見としては「法律とか権力とかによる規制はなるべく行われるべきではないがゾーニングはできるだけ行われた方がよい」くらいのどっちつかずで一般的なものだが、今回の騒動に関しては、「漫画の描写に問題点がある」と指摘・批判するだけの行為が「漫画作品に対する表現規制を求めている」と見なされて叩かれている節がある。たとえば上述の二つのツイートに関しては、下の方の弁護士の太田氏の「少年ジャンプ編集部に抗議を。」に関しては「抗議を通じて表現を改めさせようとしている」と解釈して「漫画作品に対する表現規制を求めている」と見なすことができるかもしれないが、上の方の 中 (@kanakanakana35)氏のツイートに関してはあくまで「漫画の描写に問題点がある」と指摘・批判しているだけであって表現規制を求めているようには思われないが、批判側はごっちゃにして攻撃している感じがある。

 今回の騒動に限らないが、日本のネット界隈では創作物に対する批判や抗議の声がすぐに規制を求める声だと解釈されて、「表現規制は認められない」などと反論して批判の声を上げることそのものを封じようとする傾向が強いように思う。しかし、「批判」も「抗議」も「規制」もそれが重なることもあるが基本的には別物であって、作品に対する規制はほとんどの場合には作品にとって痛手となるだろうが、作品に対する批判の声は場合によっては作者がそれを受け止めて作品としての質の向上につながることがあるだろうし、あるいは作品を根本的に否定する意見であっても読者である私たちが耳を傾けるべきであったり考えるべきであったり論点が含まれていたりするかもしれない。批判の声と規制を求める声を同一視して安易に封じるのは良くないだろう(さらに言えば、場合によっては規制を求める声も妥当であったり正しかったりするということがあるだろう)。

 

「漫画に描かれた性描写(性暴力描写/暴力描写)は子どもや読者に影響を与えるか」という点に関していえば、自分の経験を振り返っても一般論からしても「漫画の描写は子どもや読者に影響を与えない」と言い切ることは無理だと思う一方で、どのような描写が誰にどのような影響を与えるかというのを測ったり証明することもできないものなので、読者や子どもに与える影響が云々で作品を批判するのは難しいように思われる。はてなのホットエントリに上がっている記事には「漫画に悪影響がない?その根拠は?そもそも悪影響を定義しないまま論じようというのが噴飯ものです」という一文があるが、記事に対するトップブコメでも指摘されているように、基本的には悪影響を定義したり立証したりする責任は批判者側にあるだろう(ただし、「反-表現規制派による反論は藁人形論法で的外れだ」というこのブログ記事全体の趣旨に対しては私も基本的に賛同しているのだが)。

 しかし、仮に定義や証明ができないとしても、子どもに対して漫画の描写がもたらす悪影響について母親の立場から発せられる真剣な懸念をむげに否定したり無視したりするのも不適当で思われる。私は子育てをしたことはないが、子育てにおける性教育というのは色々と大変であるらしいし、「漫画の性描写を真に受けるのは親の子育ての仕方がちゃんとしていないからだ」「子どもの性教育の責任は一切親にあるのであり、漫画とか創作物とか社会には一切責任がない」と言わんばかりの意見がちらほら散見されるがこれはいくらなんでも無責任であると思うので賛同しない。

 

 中 (@kanakanakana35)氏に向けられた「本編を読んでもいないのに巻頭カラーだけで『ゆらぎ荘の幽奈さん』を "内容のない作品だと断定している " 」という批判に対しては、後に中 (@kanakanakana35)氏は以下のようにツイートしている。

 

 

 その後にはこのようにツイートしている。

 

 

 私としても、巻頭カラーの、そして人気投票の結果発表にあのような表現を持ってきていることが問題であると思う。一般論として、漫画雑誌の巻頭に見開きカラーで人気投票の結果発表を掲載したら、普段その作品を読まない人であっても目を通すことが多くなるだろう。そこで「水着を脱がされて、顔を赤らめて涙目になって恥ずかしがっている女性キャラたちの絵面」を掲載したら、普段作品を読まない人からは「この漫画は女の子が服を脱がされて辱めを受ける描写(=性暴力描写)をウリにした作品なんだな」と判断されても仕方がないだろうと思うし、作者や編集部の過失という点も強いのであって、「ちゃんと中身を読まずに巻頭カラーだけで判断するな」というのは正論ではあるが作品を甘やかし過ぎているようにも思える。

 また、作品の中身を見てみても、『ゆらぎ荘の幽奈さん』が手放しで肯定できる作品であるとは限らない。『ゆらぎ荘の幽奈さん』を支持する側はこの作品の主人公の冬空コガラシが女性に気遣いのできる紳士であり、女性にセクハラするどころかむしろセクハラから女性キャラを守り、多くの女性キャラから好意を抱かれることについても納得が抱ける描写がされていることなどを指摘している。たしかに『ゆらぎ荘の幽奈さん』を批判する側の一部には「この作品は男性キャラが女性キャラに対して(意図的・能動的に)セクハラを行い、それをウリにしている漫画だ」と勘違いしている人もいるようだが、『ゆらぎ荘の幽奈さん』におけるお色気描写は基本的には事故的に服が脱げたり身体が密着する、いわゆる"ラッキースケベ"が主であり(一部の積極的な女性キャラが主人公に対して能動的に仕掛ける誘惑シーンも多いが)、男性キャラによる女性キャラに対して意図的に起こすセクハラや性暴力のシーンはほとんどない筈だし、男性キャラによる女性キャラに対するセクハラをウリにした漫画ではない。

 …しかし、男性キャラによる意図的な行為はなくても、いわゆるラッキースケベとして女性キャラが服を脱がされて裸になったり男性キャラと身体を密着させて、そして女性キャラが顔を赤らめたり場合によっては涙目になっているシーンなどが毎週のように描かれていることはたしかだ。たとえば今週号(週間少年ジャンプ32号)を読んでみても、主人公が女性キャラに対して細やかな気配りを見せるシーンや女性キャラ同士が和気あいあいとコミュニケーションするシーンなどの心温まる場面も多く描かれているが、エピソードのオチにはかなり唐突で無理矢理な感じに、見開きのお色気シーンが描かれている。また、漫画の人気投票の結果発表(それも巻頭見開きカラー)というのは、多くの場合には登場キャラたちの姿やその魅力を読者にお披露目するハレの場でもあると思うのだが、そこで登場キャラたちが水着を脱がされて顔を赤らめるシーンが描かれているのを考えると、やっぱり「女の子が本人の意図ではない形で裸にされて顔を赤らめる(場合によっては涙目になる)」というシーンはこの作品では肯定的に描かれているのであり作品のウリ(の少なくとも一部)となっていることは否めないと思う。となると、「性暴力的な描写を肯定的に描いている作品である」という評価もあながち間違っているようには思えないし、それに対して主人公が紳士であることとか作品としての出来の良さなどを論じたところで反論にはならないように思える*1

 

 

  …うまくまとめられないが、わざわざこんな記事を書いたのは、 Twitterなどを見てみても「表現規制を認めるべきでない」または『ゆらぎ荘の幽奈さん』は素晴らしい作品だ」と主張する側の人々の言動の多くがかなりヒステリックで党派的に思えて、嫌気が差したというのがあるから。私はジャンプを毎週買っているとはいえ『ゆらぎ荘の幽奈さん』はもとからそんなに好きな作品ではないのだが、問題となっている巻頭カラーは最初に見たときにもかなり下品で悪ノリが過ぎるように思えたし、批判は当然あってしかるべきだと思う*2

 

*1:

「ラッキースケベはセクハラ・性暴力描写ではない」と論じている記事もあるが、この論点に関しては以下の記事及びツイートの意見に私は同意する。

 

wezz-y.com

 

 

 

 

 

 

*2:記事を公開した後、「ヒステリック」という言葉の使い方に対してブコメで批判があったが、私も別の記事にて、特定の意見や運動に対して「ヒステリー」という言葉を用いることを批判している訳だし、たしかに適切な言い方ではなかったと自戒して、打ち消し線を引いておいた。