道徳的動物日記

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弱者男性論とか女性だけの街とかについての雑感

 

 Twitterはてななどで「弱者男性」論を見かけたり、また先日の「女性だけの街」に関する議論などを見かけた際には、モヤモヤすることが多い。モヤモヤを吐き出すために雑感を書いてみた(あまり論理的ではない、感覚に頼ったくどい文章になってしまったが)。

 

・「弱者男性」論もさまざまであり、私もすべての「弱者男性」論に目を通したり体系的に整理したりした訳ではないが、その多くは男性が抱く「自分が男性であるということ」に由来するプレッシャーや苦しみを強調し、またその中の一部は「女性の苦しみだけを取り上げて女性に対する優遇を主張して、男性の苦しみを無視したり弱者である男性に対して攻撃を加えている」としてフェミニズムを攻撃する傾向があるように思える。

(長らくフリーターをやっていて体力も弱い方でコミュ力もあまりなくスキルもあまりないから稼金能力がなく甲斐性がない男性である)私自身も、「自分が男性であるということ」に由来するプレッシャーや苦しみを割と味わってきた方ではある。男性学の本は昔からちらほら読んできたし、心理学の観点から男性の孤独感・プレッシャーについて分析した洋書をわざわざ買って読んでブログ記事として紹介したりもしてきた(男性はなぜ孤独であるのか(トマス・ジョイナー『Lonley at the Top』)。また、一部のフェミニズムジェンダー論では男性の苦しみを積極的に無視・軽視したり、「男性は男性であるというだけで女性に比べて下駄を履かされているのだから弱音を吐いてよい立場ではない」という風な主張がされていることも確かである。そのような議論に対する批判も書いたことがある(男性が自殺するのは「支配欲」が原因だって?)。

 しかしまあ、上述したような主張を行うのはフェミニストジェンダー論者の間でも多数派ではないだろうし、基本的には、「女性特有の苦しみも男性特有の苦しみのどちらも社会的性差の押し付けや性別役割分業の構造などから生じているのだから、社会的性差や性別役割分業の問題を解決すれば、男女ともに苦しみから解放される」といった認識を抱いている人の方が多いはずだ。「フェミニストは男性の苦しみについて積極的にはケアせず女性の苦しみばかり強調する」というタイプの批判については、フェミニズムは(基本的には)女性自身たちによる女性のための運動であるのだから、男性に対して不当に攻撃を加えてきた場合には批判されるべきではあるとはいえ、消極的に男性を放置する分については仕方ないし認められると思う。男性の苦しみについてはやはりまず男性自身が訴えるべきであると思うし、その際にも女性に対して不当な攻撃をするべきではない。

 

・「男性差別」という現象は存在するだろうが、女性差別や他の差別について当てはまる議論がそのまま男性差別に当てはまる、ということは少ないように思える。少なくとも、女性に対する差別をそのまま鏡写しにした差別が男性に対して起こっている、ということはないだろう。

 たとえば、最近のTwitterでは、(性犯罪の危険に晒されたくないという理由で)「女性だけの街に住みたい」という願望を漏らしたツイートに対して「それはアパルトヘイトと同様の主張だ」という指摘するコメントが付いたことから、論争・炎上が起こった。しかし、現実問題として性暴力の加害者の大多数は男性であり被害者の大多数は女性であるということをふまえれば、(性暴力の被害経験があったりその脅威に晒されている女性が)「女性だけの街に住みたい」という願望を漏らすのも理解できるし、少なくとも、悪意のある差別発言と見なす気にはなれない。

 また、たとえば実際にアパルトヘイトホロコーストが起こったという歴史的事実をふまえてみると、ヨーロッパ人や白人が「白人だけの街に住みたい」「ユダヤ人がいない町に住みたい」とつぶやいたとすれば、仮につぶやいた本人が主観的に本気で黒人を恐れていたりユダヤ人の犯罪率は高いと認識していたりしても、あるいは仮に統計的にそれらの人種の犯罪率なり暴力性が有意に高いとしても、そのような発言が黒人やユダヤ人に対して与える恐怖や脅威を考えれば、問題のある言説や差別発言として批判の対象とされるべきだろう。しかし、件の「女性だけの街に住みたい」という発言に関しては、少なくとも私は(自分自身が男性であるにも関わらず)恐怖や脅威を感じなかった。というのも、アパルトヘイトにあたるような隔離政策やホロコーストのような虐殺が「女性」という属性から「男性」という属性に対して行われたことは歴史的にほぼ皆無であるし、今後の世界でもおそらく有り得ないだろうと思うからだ。実際、私以外の男性でも、「女性だけの街に住みたい」発言について、不快感を抱いた人は多いだろうが、本気で脅威や恐怖を感じた人は少ないだろうと思う。炎上をまとめたTogetterなどを読んでも、「普段からフェミニストっぽい主張をしているアカウントが叩きやすい隙のあるツイートを漏らしたから、水に落ちた犬をここぞとばかりに叩いている」という感が強かった。

 女性特有の苦しみの一部には、「性暴力のリスクに晒されて生きなければならないこと」を始めとして、(主に)「男性」という属性が「女性」という属性に対して直接的に危害を与えるがゆえに生じる苦しみも含まれている(もちろん、実際に性暴力を行う男性はごく一部だが)。一般論として性暴力の被害者に対していまだに世間は冷淡であること、あるいは性暴力予防の措置を社会が十分にとっていないことなどなどを考慮すれば、女性特有の苦しみ(の少なくとも一部)は、実際に社会に存在する女性差別の結果であると言えるはずだ。だから、世間の価値観なり社会構造なりを何らかの形で変えて女性差別を減らす・無くすことで、女性の苦しみには対策が取れるはずである。・・・一方で、「女性」という属性の存在が「男性」という属性の存在に対して直接的に攻撃を行うがゆえに生じている苦しみというものは少ないように思える。「女性にパートナーとして選ばれないから苦しい」というタイプの苦しみなどはあるかもしれないが、それにしたって女性による男性に対する攻撃の結果だとは言えないし、女性側の不作為などの責任を問う訳にもいかない。総じて、男性特有の苦しみは女性特有の苦しみに比べて実存的な部分が大きく、本人が何とかしなければならないところがあるように思う。

 

フェミニズムジェンダー論に対してよくある批判の一つが「男性と女性との違いはすべて社会構築的なものであると論じ、生物学的性差の存在を認めない」というものだ。そして、この種類の批判は私自身も何度か訳して紹介してきている(「性別間の生物学的な差異は存在しない、という社会学者たちの宗教」「『ガリレオの中指』、『人はなぜレイプするのか』、学問における事実とイデオロギーの関係 」「フェミニストはいつフェミニストでなくなるか?」)。

 男性の暴力性の高さについては、進化心理学や犯罪学等の学問においてはかなり立証されている。私自身、生物学的性差というものは人間の行動や社会関係にかなり強く影響を与えていると思っているし、男性が行う性暴力やその他の暴力の要因ともなっていると考える。

 一般的に、ある人がどの人種に属するかという生物学的事実はその人の行動を説明しない。一部の能力や体質などに多少は遺伝差があるとしても、たとえば「○○という人種は生物学的特質として××という犯罪を犯しやすい」という主張が立証されているということはないはずだ。だから、もしある社会で特定の人種が特定の犯罪を犯しやすいとすれば、それは社会の制度や構造に由来しているはずだし(その人種は経済的に不利な立場に立たされていたり、就職の際にその人種は差別されて真っ当な職に就くのが難しいから、非合法な手段で金を稼がなければならない、などなど)、その制度や構造を改善することを行うべきだろう。・・・だが、男性という属性が犯罪を犯しやすいということには、社会の制度や構造とは別の生物学的性差も関係している。何が言いたいかというと、人種という属性に関する議論を性別という属性に関する議論にそのまま反映することはできないだろう、ということだ。

 もちろん、「男性はみんな潜在的に犯罪者だから隔離されるべきだ」とか「男性は暴力性が高いのだから女性に比べて行動を制限されるべきだ」というようなことを主張したい訳ではない。しかし、「生物学的性差の存在を認めない」としてフェミニズムジェンダー論を批判する一方で性暴力やその他の暴力に関する議論では生物学的性差を無視する、というのも欺瞞であるように思える。