道徳的動物日記

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左派は動物の権利を支持するべきか?

 

 

togetter.com

 

 このTogetterに関わる論点として、数年前に要約して翻訳して紹介した ウィル・キムリッカとスー・ドナルドソンの論文「動物の権利、多文化主義、左派」から一部抜粋して紹介してみよう(手抜き記事である)。

 


 現在、米国の動物の権利運動は「左派の孤児」と表現される境遇になっている。進歩的左派は女性・同性愛者・障害者・移民・人種マイノリティ・先住民などの権利を守るために、社会的正義や少数者の市民権を主張する運動を行ってきたが、動物の問題はラディカルな環境運動のなかで多少注目される程度で、左派の運動のなかでは無視されてきた。この傾向は19世紀から続いてきたものであり、左派は動物に対する人間の暴力を無視し続けてきた歴史がある。

 

・・・現在では、フェミニズム運動・障害者運動・多文化主義運動などの影響により、左派は「人間の価値は合理性や知性や能力にある」という考え方を拒否するようになり、人間の様々な生き方に価値を見出すようになった。

 左派の考えがこのように変わったことは、本来なら、動物のための運動に繋がるはずである。動物と人間とを別け隔てる能力である合理性や知性を重視するデカルト的な考えが否定され、感情や依存性や脆 弱さなど、人間だけでなく動物も備えているような要素が新しく注目されるようになった。他者とのケア関係を価値を見出す「ケアの倫理」、多種多様な生き方 を開花させることに価値を見出す「ケイパビリティ」の考え、人々が独立していることではなく依存していることに価値を見出す障害学理論など、新しい考え方のいずれもが、動物に対しても適用することのできる考え方であるし、実際に動物に対して適用した理論家たちも存在する。しかし、左派の大半は、依然として動物に対する人間による暴力を無視している。

 左派が動物の問題を無視している理由の一つとして考えられるのが、人間を動物よりも特別視する一神教の考えを、意識的には否定していても、育った文化のために影響を受けてしまっている、ということである。もう一つの理由として、動物の権利の考えを実践しようとすると、肉料理や革靴を消費することを諦めるなど、自分自身の生活に不便で苦痛をもたらす変化を導入することになるから、そのような不都合を避けるために動物の権利の考えを無視してしまう、ということである。動物の権利に関係する文化的な影響や個人的な生活の影響は、同性愛者や障害者の権利に関係する影響よりも大きいものと思われる。左派といえども、人間を特別視する文化や自己利益には影響を受けてしまうのであるから、自分たちが主張している理論にもかかわらず動物の問題を無視してしまう。

 しかし、動物の権利を拒否する理由として、文化的影響や自己利益ではない、 左派ならではの理由も存在すると考えられる。それは、「動物の権利を擁護することは、その他の社会的弱者による闘争を侵害してしまうことに繋がる」という認識である。以下では、この認識が妥当であるかどうかを確かめ、左派が動物の権利を無視することを正当化する理由が本当に存在するのかどうかを議論しよう。

 

・・・「入れ替え/排除 (Displacement)」と「矮小化」が、左派が動物の権利を警戒する理由として考えられる。

 

 入れ替え/排除:左派が動物の権利の問題に時間や資源を投入すると、人種差別など他の問題についての闘争に費やされる時間や資源が失われる、という懸念。これは、他の多くの マイノリティの運動に対しても投げかけられてきた、ありがちな批判でもある。例えば、階級闘争をしている運動家は、女性差別や人種差別に反対する運動家に 対して、時間や資源を流用しているとして批判していた。

 しかし、現在の左派の多くは、社会正義を求める闘争はゼロサムゲームではないと見なしており、ある不正義を新しく取り上げることは、それまで取り上げられていた不正義を目立たなくさせるのではなく、正義一般の存在感を社会で目立たせることに繋がる、と考えている。また、多くの不正義は同じようなイデオロギーや構造に基づいて行われており、それぞれに繋がっているのだから、ある不正義を新しく取り上げることは、不正義全般と戦うのに有益である。他の運動を批判するのではなく、運動同士の共通点や交差点に注目して連帯するべきだ、というのが現在の左派の考えであり、動物の権利運動家は自分たちの考えを左派の考えの延長線上にあると見なしている。

 

 矮小化:左派の行動の対象に動物を含めることは、現在培われている正義を貶め、人間に対する不正義の深刻さを矮小化させる、という懸念。動物の「抑圧」や「奴隷化」について声を上げることは、人間に対する「抑圧」や「奴隷化」の深刻さを貶めてしまう、という考えである。

  この「矮小化」という懸念は、二つの種類に分けられる。一つ目の懸念は哲学的なものであり、人間の道徳的地位は動物の道徳的地位よりも実際に高いのだか ら、人間に対するそれと比べて重要性の低い動物に対する虐待や差別の問題と人間の問題を結び付けようとすることは、人間の問題の矮小化である、という考えである。しかし、人間の道徳的地位は動物の道徳的地位よりも高いという主張は、先述した理性中心主義やマルクス的な能力主義ユダヤ-キリスト教的な考えであ り、現在の左派には受け入れられるものではない。

 二つ目の懸念は哲学的なものではなく、社会正義の問題に動物の権利が関わるようになったときに起きるかもしれない事態に対する懸念である。動物の権利が社会的に受け入られるようになり、人間と動物との道徳的な境界が曖昧になると、抑圧された人や社会的弱者の権利の根拠が崩れしまうかもしれない、という考えである。社会的弱者が存在を認められる権利は、常に危険に晒されているからこそ、常に守 られていなければいけない。人間と動物を分け隔てる道徳的なヒエラルキーは、「人間であるから」という理由で社会的弱者の権利を認めさせることができるので、必要である。哲学的には擁護できない考えだとしても、人間の動物に対する優位を認めることは社会的弱者の権利を認めさせるのに最も有効な手段であるという主張は、多くの人が妥当だと考える。

 しかし、証拠は逆のことを示唆する。人間と動物とを分別すればするほど、移民などの外集団の人間 が非人間化されるのである。「人間は動物よりも優れている」という信念は「ある人間の集団は他の人間たちよりも優れている」という信念に繋がっている。そのことは心理学の研究でも実証されている。人間の心理的な機能の多くは、動物に対するネガティブな態度と外集団の非人間化を繋げさせる。逆に、動物の感情 や特徴を認められる人たちには、外集団の人間についても平等を認められる人が多い。人間と動物との地位の分断を抑えることは、人間集団間での偏見を減らして平等を促進することに繋がる。人間を特別視させるイデオロギーを批判することが社会的弱者の立場を弱めることに繋がる、という証拠はないのである。

  「入れ替え/排除」と「矮小化」のどちらの懸念も、実際に懸念されている事態が起きるかどうかは疑わしい。そして、懸念されている事態が起きるという証拠はないが、逆の証拠は存在する。これは、現代の左派が理論の前提としている、人間の価値についての考えと「不正義は相互に繋がっている」という考えから予測できることである。 正義・権力・抑圧・ケア・民主主義などについての左派の意見から動物を排除すべきだという考えは、左派の理論そのものと反しているのである。

 

・・・マイノリティ集団は、自分たちの動物に関する慣習に対する批判の全てを、マジョリティが差別を正当化するために偽善的なダブルスタンダードを唱えている、と認識することが多い。しかし、上述したように、動物の権利団体の主たる批判対象はマジョリティの慣習である。畜産や動物実験など、強力な企業や権力と結びついている慣習を批判しているために、動物の権利団体は嘲笑されて周辺化・犯罪化されている。動物の権利団体は、マイノリティによる慣習についてコメントを求められる際に、動物の問題を特定の文化や人種に対する差別に結びつけることを否定する。しかし、人種差別や文化差別の存在する現状では、動物の権利運動がマジョリティに利用され、マジョリティの慣習に対する批判を無視されてマイノリティの慣習に対する批判だけ取り上げられる危険性が常に存在する。動物の権利団体はこのような危険に備えていなければならない。

 ただし、マジョリティに利用されるという危険は、動物の権利に限ったものではない。動物の権利をマイノリティ差別に利用する右翼団体は、女性の権利・ゲイの権利・子供の権利もマイノリティ差別に利用してきた。女性の権利やゲイの権利に配慮を示してきた記録も無いような右翼団体が、イスラム系移民を差別するときには女性の権利やゲイの権利を持ち出すのである。しかし、女性の権利やゲイの権利が差別に利用された時にも、左派は女性の権利やゲイの権利についての主張を弱めたわけではなく、右翼団体や文化差別を批判しながら、権利の普遍性を改めて主張してきた。例えば、女性の権利を主張する人たちは女性の権利を主張するための道徳的な基盤は全ての社会に存在すると主張して、ある集団にはジェンダー平等が達成できるための文化的DNAが存在しているが別の集団にはそのような文化的DNAは存在していないという本質主義的な見方を否定してきた。また、左派は自分たちの運動の恣意性やダブルスタンダードを抑制するためのチェック・アンド・バランス機能を構築するようにしており、西洋主義やエリート主義を抑制して多種多様な人々の意見を包括するための継続的な努力がなされている。このような左派による努力の末、例えばフェミニズムにおいては、ポストコロニアルフェミニズムや多文化フェミニズムなどの新たなフェミニズムが誕生している。

 動物の権利についても、左派はポストコロニアルな動物の権利理論を主張することができる筈であるし、実際に多くの著者がポストコロニアルフェミニズムを参考にしながら動物への抑圧に対する反対と人間への抑圧に対する反対を結び付けるための議論を主張している。上述したように、ある権利の主張がある集団に対する差別や文化帝国主義に利用されるという危険は動物の権利に限らないし、他の権利と同じように動物の権利においても、文化帝国主義や人種差別の危険に対抗するための措置をとることができる。にもかかわらず、左派は動物の権利の問題に関わることを拒む。左派による人間の権利へのスタンスと動物の権利へのスタンスの非対称性を考えると、左派は単に動物の問題を重大な問題だとは見なしておらず、人間による動物に対する暴力に無関心であるのだと考えられる。

 

・・・擁護に価する全ての多文化主義の考え方がそうであるように、多文化主義的な動物の権利論も、マジョリティの慣習を脱中心化・脱神聖化して、多文化間の交流への道を開き、進歩的な主張の道具化を防ぎ、倫理的な説明責任から免れている特権や権力の行使を白日の下に晒す。このような動物の権利論は、左派による規範的・方法的なコミットメントから自然に発生するものである。人間による動物への暴力を左派が無視し続けることについて、正当な根拠を見出すことはもはや難しい。