道徳的動物日記

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「動物はおかずだ」デモに関して(1)

 

 

(仕事の休憩時間に取り急ぎ書いた)

 

上記の記事に関して、まず気になったのは以下の箇所。

 「しかし「動物はごはんじゃないデモ行進」は、自らが肉を忌避するだけでは飽き足らず、他者の権利や自由を否定し肉の撲滅を目論んでいる。」

「憎むべきは、ヴィーガンという生き方を選んだ人間ではない。他者の権利や自由を踏みにじる行為である。」

 

 一般的に言って、ある社会で行われる権利運動とは「その社会で認められていない、ある属性のある種の権利を、認めさせるように要求する運動」と言えるだろう。

 過去のアメリカで行われた奴隷制廃止運動であれば、奴隷とされている人々(黒人)が自由に生きる権利や財産を持つ権利などを要求させる運動であった。サフラジェット運動は女性の参政権を要求する運動であったし、「子どもが親から虐待されない権利」や「子どもの自己決定権」なども子どもの権利運動の結果として認められていったものだ。   

 そして、「現状の社会で認められていない権利」を要求する運動の大半は、「現状の社会で認められている権利」の一部を、直接的・間接的に否定する運動でもある。奴隷制廃止運動の場合は「白人が黒人奴隷を持つ権利」や「奴隷農場で生産された物品を購入したり使用したりする権利」を否定することになった。女性の参政権を認めると「女性を排除して男性だけで政治的意思決定を行う権利」や「女性の政治的意見が反映されていない社会に暮らす権利」は失われることになる。子どもの権利を要求するということは、親や大人たちが子どもを虐待したり子供をコントロールするという権利を否定するということだ。  

 もちろん、現代の社会に暮らす我々からすれば「白人が黒人奴隷を持つ権利」や「子どもを虐待する権利」は不当な権利であり到底認められないものだと判断できる。女性の参政権がなかった社会でも「女性を排除して男性だけで政治的意思決定を行う権利」が明文化されていたわけではないし、子どもの権利運動に反対していた人も「自分には子どもを虐待する権利があるのだ」と堂々と主張していたわけではなかっただろう。

 だが、明文化されていなかったり当人たちの自覚がないほど当たり前のものとしてその社会に存在する制度や慣習も、カウンターとしての権利運動が起こることによって「不当に認められている権利」として明るみに出る。要するに、権利運動とは「正当な権利」を認めさせるために、現行の社会で認められている「不当な権利」を否定する運動といえるのだ。  

 

 アニマルライツ運動の場合は、主張される「正当な権利」は「動物が畜産場に閉じ込められて育てられない権利」や「動物が屠殺されない権利」などだ。そして、「人間が肉を食べる権利」はこれらの権利に対置する「不当な権利」となり、認められないものとなる。  

 そのため、アニマルライツ運動に対して「肉を食べる権利を否定するな」と反論することは、奴隷制廃止運動に対して「奴隷を持つ権利を否定するな」と反論するのと同程度に的外れなことだ。  

 現在の社会では、「人の食べるものにケチを付けることは許されない」「自分が好きなものを自由に食べることは当然の権利だ」といった価値観は当たり前のものとして自明視されている。だが、過去の社会では自明視されていた価値観であっても、時代の変化や社会運動などを経て人々の考えが変わり、もはや誰もその価値観を正しいとは思わなくなる、ということは歴史の常だ。「肉を食べる権利」や「好きなものを自由に食べる権利」だって、いつ自明なものでなくなるかわからない。