道徳的動物日記

動物や倫理学やアメリカについて勉強したことのある人の日記です。

「一部に過激な奴がいるからお前らの主張は全て否定する」的な主張について

 

togetter.com

 上記のTogetter記事などを見ての、諸々の反応に対する雑感。

 

 ひとくちに「社会運動」と言ってもその定義の仕方は色々とあるだろう。とはいえ、ひとまず、社会運動とは「ある社会問題への対策を政治的・制度的に実現させるために、その社会問題について市井の人々を注目させて、市井の人々の考え方や価値観を変化させることを目指す政治手段」である、と定義しておこう。

 

 社会運動が政治手段であるとすれば、アニマルライツ運動に限らず、どんな社会運動においても「メッセージの発信の仕方」や「主張を効果的に広めるための戦略」というものが重要になることは確かだ。ただし、「効果的な戦略」を知識としては理解していたとしても、運動を行う人々のアイデンティティや優先順位などの問題のために、「効果的な戦略」を素直に行うことは難しいものである。…この問題については、以前の記事で『心を変える:社会を変える方法について心理学が教えてくれること』という洋書を紹介しながら述べたことがある。↓

 

davitrice.hatenadiary.jp 

 

 他方で、民主主義の社会に生きる市民としては、社会運動を行っている人々に対して「我々が聞いてあげたくなるような方法でメッセージを発信しろ」「我々がその社会問題に関心を持ってもいいと思いたくなるような、効果的な運動方法を採用しろ」と要求するべきではない。

 民主主義社会に生きている以上、大半の社会問題について我々は多かれ少なかれ何らかの責任を負っているはずである。社会運動を行なっている人々に対して「私たちの気分を害しない方法で主張を行うなら耳を傾けてやってもいいが、すこしでも私たちの気分を害するのならその社会問題について注目したり問題の改善について協力するつもりはない」と言い立てるばかりな、物事を知ろうとしたり判断しようとしたりする主体性も放棄した「お客さま」みたいな態度は、少なくとも民主主義社会の一員としてはあまりに無責任であり道義的にも認められない…という風なことも、別の記事で書いたことがある。↓

 

davitrice.hatenadiary.jp

 要するに、「運動を行う側」の人々にはプラグマティックな理由から「効果的な戦略」を追求することが求められる一方で、「運動を行われる側」の人々には社会問題について知ろうとしたり判断しようとすることが道義的に求められる、ということだ。

 しかし、少なくとも日本のインターネットを見ていると、「自分たちの気分を害する主張について理解したり賛同したりするつもりはない」「少しでも自分たちの気持ちを害する主張であれば、その主張の理論の妥当性や正当性の有無などに関わらず、その主張を否定する」というような態度の人々は相変わらず数多くいる。

「海外に比べて日本でリベラルが支持されないのは、日本のリベラルの運動戦略が下手クソだからだ」というような主張は毎日のように見かける。しかし、正直にいって、日本で政治問題や社会問題についての進歩が見られない原因の大半は「意見を発信する側」の発信の仕方ではなく「意見を受信する側」の態度にあるように思える。

 

「ある社会運動が発信している主張は正しかったり、何らかの正当性があるかもしれない。だが、その社会運動を行なっている中の一部の人や一部の団体は過激で不当な方法で主張を行なっているから、その主張を認めることはできない」という主張、より簡潔に言えば「一部に過激な奴がいるから、お前らの主張は全て否定する」という主張も、少なくとも日本のインターネットではあちこちで見かけられる。動物愛護に限らず、フェミニズムレイシズム・地域差別の問題に関しても見飽きた反応であると言えるだろう。

 このタイプの主張を相手にする価値は全くない、と私は思っている。その理由は以下の2つだ。

 

1:「過激な奴」は見つけようと思えば無限に見つけられる

 

 現在のように数多くの人が意見を発信している時代では、どんなタイプの主張に関しても、過激であったり不当な方法や表現で発信する人は存在すると言える。特にTwitterはどんな人でも容易に意見を発信できるうえ、キーワードやハッシュタグなどで検索すれば自分が調べたいと思っている意見もすぐに見つかるから、見つけようと思えば「過激な奴」は無限に見つけられる。

 ある主張が自分にとって不愉快であったり、自分の趣味や習慣を批判されたり否定されることにつながるものであったとしよう。そして、その主張の理屈や理論には正当性があり、どうにも反論できないものであるとしよう。通常であれば、不愉快であってもその主張を受け入れたり、自分の趣味や習慣について考え直すきっかけになるかもしれない。しかし、「一部に過激な奴がいるからお前らの主張は全て否定する」という主張を行うことを自分に認めてしまうと、どんな主張をされた時でもTwitterで検索して「過激な奴」を見つければその主張を否定できてしまうことになる。最悪の場合には、自分でアカウントを偽造して気に入らない陣営の「過激な奴」を捏造することも可能である。

「自分たちで自浄作用を働かして、自陣営の過激な奴を批判したり排除したりするべきである」という批判も、一見するともっともらしいが、無茶な批判である。大半の団体には、所属している構成員のSNSなどでの発言をコントロールする強制力は持っていない。さらに、団体に所属せずに個人で社会運動を行なっている人も多く、そういう人を何かから「排除」することは物理的に不可能である。相互批判を行なったとして「過激」な人の過激さがなくなるという保証もない。

 

2:「過激」の定義は人それぞれであり、無限に拡大することができる

 

 例えばアニマルライツ運動の場合、「肉屋を襲撃する」や「農場に忍び込んで家畜を助け出す」などの実力行使に及ぶことはまあ過激だなと思う。「肉フェスの最中に会場の真ん中で屠殺や工場畜産の画像を提示する」こともやや実力行使の感があって過激だと思うが、「肉フェス会場の外側で屠殺や工場畜産の画像を提示する」ことはさほど過激であるとは思わない。事前に許可を取ったデモで屠殺や工場畜産の画像を提示する」ことは全く過激ではないと思う。

 だが、上記はいずれも私の感性に基づいた判断である。大学生の頃に当時の同級生に質問してみたら、「デモを行うこと」自体が過激である、と判断する人が多かった(アニマルライツに限らず、フェミニズムや反レイシズムの主張であってもデモを行なっている時点で過激、ということだ)。また、事前にシラバスなどにも記載したうえで、環境倫理の授業でアニマルライツを取り上げることや政治学の授業で自公政権の長期化などの問題を取り上げることすら、「教員が授業で政治的主張を行うことなんて過激だ」と感じる同級生もちらほらいた。日本人が政治問題や社会問題についてナイーブであることはよく指摘されるが、「過激に感じる人がいるかもしれない主張は行わない」という戦略を採用してしまうと、おそらくどんな方法でも何かを主張することは全くできなくなってしまうだろう。

 ついでに言うと、「意見を主張するのはいいが、その意見を押し付けることは認められない」という主張も似たようなものだ。「押し付け」の定義は人それぞれであり、公道のデモで主張することが「押し付け」であると感じる人もいれば、掲示板に意見を書き込むことすら「押し付け」であると感じる人もいたりするからだ。

 

 

 …繰り返しになるが、ある主張が不愉快であったり不当に思えたのなら、まずはその主張の論理や論拠を確かめて、主張の正当性を吟味するべきだ。そして、反論できるならすればいいし、反論できないのであれば大人しく「相手の主張が正しい」ことを認めればいい。相手の主張の中身ではなく主張の方法をあげつらうことで相手の主張を否定しようとすることは、やはり不誠実で無責任なことであるだろう。