道徳的動物日記

倫理学、社会科学、時事問題、世相などについて論じます。

中立的で客観的な考え方ができる人がこんなにも少ない理由

 

その部屋のなかで最も賢い人 ―洞察力を鍛えるための社会心理学―

その部屋のなかで最も賢い人 ―洞察力を鍛えるための社会心理学―

 

 

『その部屋のなかで最も賢い人 -洞察力を鍛えるための社会心理学』の冒頭で出てくる小ネタが面白かったので、紹介しよう。

 

 この本では、社会心理学の知見が教えてくれる人間の心理についての様々な特質、および複雑な個人的問題や社会問題に対処するうえで社会心理学の知見はどう活かせるか、ということが論じられている。第1章のトピックは、「客観性の幻想」、つまり、「私たち人間は、自分の知覚が現実と一対一で対応していると反射的に思い込むだけでなく、自分自身の個人的な知覚が特別に正確で客観的であると思いがち」(p.23)という性質について論じられている。

 客観性の幻想は、車の運転など身近なところでも発生する(自分よりゆっくり車を走らせているやつはバカで、自分より速いやつはイカれてる」)。また、政治観という複雑な心理においても、客観性の幻想は発生する。著者たちは、「あなたがこの本を読んでいるという事実だけから、あなたの政治的な見解を私たちが見抜ける」ことを証明するとして、以下のように書く。

 

あなたは、自分がだいたい政治的にリベラルだと思っている。ほとんどの事柄について、自分より左側の人たちはやや単純で、現実主義者というよりも理想主義者で、あまりにも政治的な正しさにこだわりすぎだと思っている。同時に、自分より右側の立場の人たちは、どちらかというと利己的で思いやりがなく、いくらか心が狭く、多くの人の生活や、人々が今日の世界で直面している問題にあまり関心がないと見なしている」(p.23~24)

 

この描写は、あなたの政治的な立場をぴったりととらえているだろうか。きっとそのはずだ。それには仕掛けがある。ここに描いた政治的な人物像は、あなたを始めとする本書の読者だけでなく、事実上他の誰にでも当てはまるにちがいないからだ。…(中略)…つまり、あなた(と他の誰でも)は、自分自身の政治的な見解や知識を、私たちが生きている特定の時代や、私たちが直面している特定の問題に対する最も現実的な反応であると見なしているのだ。(p.24)

 

 いかがだろうか?おそらく、著者たちが記している「あなたの政治的な見解の予測」はアメリカの読者用に書かれているものなので、細かい点では日本の読者には当てはまらないかもしれない*1。しかし、少なくとも私は読んでいてかなりギクリとした。常々から私は現実性のなく単純なリベラルや道徳心のなく利己的な右派にほとほと呆れているし、このブログ自体もそんな彼らを啓蒙するために書いている面があるからだ。

 しかし、私に限らず、「自分の見解がいちばん政治的に中立でバランスが取れている」「他人の見解はイデオロギーの影響を受けた極端なものが多い」と思っている人はやはり多いだろう。はてなTwitterなどのSNSでも「ネットの世界にはネトウヨサヨクが多過ぎる」「冷静で客観的な立場からの判断や分析や議論が少な過ぎる」という批判や愚痴のコメントはよく見かける。だが、そのようなコメントにおける「冷静で客観的な立場」とは、ただ単に当人自身の立場のことを指しているのかもしれない(客観性の幻想により、自分の立場とは違う立場はすべて主観的で感情的な立場ということになるから)。

 古(いにしえ)のはてなでは、上記のような態度は「自称中立」「自称中道」として糾弾されたものだ。また、最近のTwitterでは、プロフィール欄に「普通の日本人」「右でも左でもない」と書いている人は自己認識のできていないネトウヨとして揶揄されている。

 

 政治観における「客観性の幻想」に対処する手段のひとつは、「自分は明らかにリベラル/左派(保守/右派)的な傾向があるんだから、リベラル/左派(保守/右派)と自認して、その立場から意見を発信していこう」というものだ。そうすれば、「自分の主張は特定の立場に偏ったものである」ということを自分に対しても他人に対しても示せるので、「自分の見解がいちばん政治的に中立でバランスが取れている」と思い込むことは避けられる。

 ただし、この手段は、思考停止とも言える。例えば大概の問題に対してはリベラル的な意見を主張する人であっても、ある特定の問題に対しては保守的な意見を主張するかもしれない。また、すべての問題に対してリベラル的な意見を主張する人であっても、それぞれの問題に対してその意見を主張するまでの過程には、問題の性質についての分析やその対処についての検討など、何らかの思考プロセスがあったはずだ。だが、自分の旗色を鮮明にしてしまって、「自分はリベラルだから、この問題に対してはこのような意見を主張する」という風にしてしまったら、それまでは存在していた思考プロセスを失ってしまうことになる。一方で、自分に対して「中立で客観的な立場から意見を発信しよう」というプレッシャーや制約を課している人は、様々な問題に対していちいち考えてから意見を発信し続けることになるので、思考放棄はしなくなる。

 結局、ほんとうの意味で「中立的で客観的な考え方」を行うことはかなり難しいか不可能かもしれないとして、自分の政治的ポジションを固定させて開き直ったり居直ったりするのではなく、精一杯に考えて中立的で客観的な考え方を目指していく…というくらいが丁度いいのだと思う。その際に「客観性の幻想」という心理的傾向の存在を意識して、「"自分の考え方がいちばん中立的で客観的で、他のやつらの考え方はイデオロギー的で感情的だ"と思い始めたら赤信号」というブレーキなりチェックポイントなりを意識しておく、という措置もいいかもしれない。…しかし、それも気休めに過ぎないかもしれないが。

 

 心理学的な知見を読むときに困るのは、「なるほど、人間にはこういう心理的傾向があるんだな、気を付けよう」と思ったところで、肝心な場面では結局はその心理的傾向に流されてしまう、ということである。大概の心理的傾向というものはあまりに人間の心理にハードにインプットされているので、意識して気を付けようと思ってもできなかったりするものなのだ。

 という訳で、私はこれからも現実性のなく単純なリベラルや道徳心のなく利己的な右派を啓蒙するため、冷静で客観的な意見を発信していくことになるだろう。

 

*1:自由の国であるアメリカは右派も自分のことを"本当のリベラル"だと思っているが、日本では右派にとってはリベラルは蔑称にしかならないので「自分がだいたい政治的にリベラルだと思っている」とはならない、など。