道徳的動物日記

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読書メモ:『不道徳的倫理学講義-人生にとって運とは何か』

 

不道徳的倫理学講義: 人生にとって運とは何か (ちくま新書)

不道徳的倫理学講義: 人生にとって運とは何か (ちくま新書)

 

 

 西洋の倫理思想史の中でも「運」について言及している哲学者たちの思想を取り上げて、論じている本。

 本全体のページ数のうちおよそ半分以上を古代ギリシャの思想の話題が占めており(『オイディプス』などの文学作品、プラトンアリストテレスストア派)、近代の思想家に割かれている紙面は比較的少ない。これには、西洋の倫理思想では近代になるに近づくにつれて「運」の問題が取り上げられることが少なくなった(しかし、現代になって再び脚光を浴びている)という事情が表れている。

 基本的には思想史の本なのだが、第10章とエピローグではバーナード・ウィリアズを中心に『グレート・ギャツビー』などの文学作品も取り上げながら、現代に生きる私たちが自分の人生や他人について考えるうえで「運」というものにどういう風に向き合うべきであるか、といった人生論・実存に関する議論もなされている。

 思想史の本なので感想は書きづらいのだが、以下に雑感を書いておく。

 

・この本で取り上げられた思想家の中たちでは、5章で取り上げられるストア派の思想家たちにいちばん共感できた。「……理性を備え、それをよく働かせて感情をコントロールし、何ごとにも動じない心を獲得すること。」(p.163)や「…そのつど置かれる個別の状況や、自己が属する共同体のあり方に束縛されない生き方」(p.163-164)を目指すディオゲネスには好意が持てるし、自分の知りうる限りの事情を考慮したうえで適切な判断を下すことや、自分の力やコントロールが及ぶものとそうでないものとを理性を行使することで判断することを重要視するのも、地味ながら堅実で良いと思う。

 

ポジティブ心理学の本ではアリストテレスの思想がしょっちゅう出てくるのだが、アリストテレスは「観想」というものを最も幸福な活動だと見なしていたそうである。観想とは哲学的な思考を行うことであるが、「アリストテレスによれば観想とは、善さと持続性と快さの点で何よりも優れ、また、一人でも可能な自足的活動であり、それ自体として愛好される目的である。したがって、観想を営む生活こそが完全な幸福である、と彼は言う」(p.152)。しかし、他者との関係やコミュニケーションを重視するポジティブ心理学では、観想が特権的な立場に置かれることはないだろう。実際、一人で考え続けることをあまりに重要視する考え方は鬱病とかにつながりそうで健康面ではよくなさそうだ。

 

・ウィリアムズはゴーギャンの生涯などを例に出しながら、「自分の行為に含まれる道徳的な問題を認識したうえで、道徳的な価値とその他の価値(美的価値など)を天秤にかけて、苦悩したうえで、後者を選択する」という場面について論じていたようだ。我々が個々の人生においてそれぞれに発する「いかに生きるべきか」という問いにおいては、道徳の次元に収まらない様々な次元や価値の問題が関わってくる、ということである。このようなことも論じようとすると倫理学は文学に近づくし、アンナ・カレーニナグレート・ギャツビーなどの文学作品の主人公たちの生き方を参考することにもなる。……が、私としては、生き方の参考として文学を参照することにはやっぱり抵抗がある。文学作品においては、話を面白くするという構造上の理由や、または文学者や文学ファンたちの性格的な問題から、道徳的な価値を低く積もって美的価値などを高く見積もる傾向があるからだ。また、文学作品の主人公や偉人などと自分を同一視した人が、露悪的であったり無謀であったりする行為を正当化しかねないという問題がある。

 

・本書の終盤では、「運」の要素を否認し過ぎると公正世界仮説的な誤謬や相手の事情を考慮せずに他人を責め立てることにつながるが、「運」の要素を認め過ぎると生まれや育ちの不平等などの不公正を放置してしまったり虚無的で無責任な世界観を抱いてしまうことにつながる、といったジレンマに触れられている。また、不運な立場にいる人に対して「自業自得だ」と非難することも、幸運な立場にいる人に対しても「不公平だ」「ずるい」と非難することも、どちらも問題となり得る。…が、マクロに考えてみると、前者に比べて後者の非難の方がずっと害は少ないのではないか、という気がする。というか、グローバルな富の偏在などの現代社会の諸々の事情を思えば、自分が幸運な立場にいることが不公正だとして道徳的に非難されることは、正当である場合が多いように思える。