道徳的動物日記

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生物学的インセンティブ・システムに抗う(読書メモ:『欲望について』)

 

欲望について

欲望について

 

 

 タイトル通り、欲望という事象についての本。

 第一部では「欲望」という事象の基本的な性質が描写され、第二部では「なぜ人間(や動物)は欲望を持つか」という命題や欲望の発生や解消に関わるメカニズムについて、心理学や生物学などの科学的な理論になされる。そして、「欲望とどうつきあっていくか」と題された第三部では、歴史においてたびたび人間の破滅や苦悩の原因となってきた「欲望」という事象にどう対処すべきかについて、様々な宗教や哲学者たちが編み出してきた理論的回答や実践的な対処法が紹介される。

 正直いって、ある程度生物学や心理学をかじってきた身からすれば第二部の内容は既知のことばっかりであって退屈だった。第三部も、アーミッシュやフッター派などを現代に存在する異端派の宗教を取り上げた第十章はともかく、他の章では比較的よく知られた宗教や哲学者ばかりだ。しかし、哲学者たちの主張の整理の仕方はなかなかスマートであり、読みものとしては案外に面白かった。

 また、第二部で紹介される欲望の科学的知見は、最終的に「生物学的インセンティブ・システム(BIS)」としてまとめられている。私たちの身体や心の中には欲望する能力が備わっているが、そのの能力は自然淘汰のプロセスを通じて獲得されたものであり、私たちが自発的に選び取ったものではない。欲望する能力が備わった生物はそうではない生物よりも生存競争において有利であったためにこの能力は子孫に代々受け継がれていたが、欲望する能力を持っていることがその個体を有利にするとは限らない。むしろ、個体レベルで見れば、欲望する能力は様々なストレスや苦悩の原因になっていたり、長期的な利益を獲得することや社会生活を営むことを妨げる要因となっているのである…といった、おなじみの進化論的説明だ。最近の読者に取っては聞き飽きた説明かもしれないが、おそらく、科学的事実をおおむね正確に反映した議論であろう。そして、事象の原因についての事実を正確に捉えているからこそ、その事象の対処方法についても妥当なことが言えることになる。

 欲望への対処方法として著者が提案する考え方は、下記のようなものだ。

 

(奴隷主に反乱する奴隷、というたとえ話に続く節)

私たち「進化の奴隷」もまた、自分たちの置かれた状況に対して、これと同じような戦略を使うことができる。自分自身が生きるための個人的プランを作り上げ、それを進化の主人が課したプランに重ねるのである。こうすれば私たちはもはや、進化の主人の命令に従っているだけの存在ではなくなる。自らの人生を手にし、その人生で何かをーーみずからが意味あるものと考える何かをーーしているはずだ。そしてそれによって、私たちはできうるかぎりにおいて、自分の生活に意味を与えていることだろう。

ここで心に留めておきたいのは、みずから生きうるためのプランを形成するとき、私たちは進化の主人を欺いているということだ。彼が私たちに欲望する能力を与えたのは、それによって彼の目標とする私たちの生存と繁殖が達成されやすくなるからである。だが私たちに与えられた欲望能力には、いくつかのオプションから選択する能力もまた含まれる。BISが罰を与えるような事柄さえ選ぶこともできるのである。それゆえ、自分のライフプランを形成するというのは、事実上、この選択する能力を「濫用」していることにほかならない。私たちはその能力を、進化の主人が定めた目標を達成するためではなく、自分のために定めたべつの目標 ーー進化の主人の目標とは相容れない目標ーーを達成するために使っているのだ。友人や隣人、あるいは職場のボスを欺くのは悪いことかもしれないが、進化の主人を欺くのは道徳的に何ひとつ問題ではないと私は思う。(p.281-282)

 

 以下では、この本で気に入った箇所について雑多に感想を書いたり引用したりする。

 

・特に面白く読めたのが、第十二章の「エクセントリック=変わり者」。この本では欲望の社会的側面も充分に取り上げられており、欲望のなかには「他人が持っている金や地位を自分も欲しい」「他人との競争に勝ちたい」「他人から認められたい」「他人から負け犬扱いされたくない」という、他人がいるからこそ生じるものが多々存在することが強調されている。しかし、古代ギリシャ犬儒派として名を馳せたディオゲネスアメリカのウォールデンのウォールデン湖畔の森林で隠遁生活を送っていたことで有名なヘンリー・ソローは、いっそ社会から隔絶として他人と関わらない生き方を選ぶことで、他人の存在が原因で生じる欲望をシャットアウトした。

 人間は社会的な生物であるから、他人との関わりは人間の幸福にとって大きな割合を占める。孤独は様々な身体的・精神的疾患の原因となることも知られている。その点をふまえると、他人との関係を絶つことはかなりリスキーでデメリットの大きい選択であるように思える(実際、ソローはウォールデン湖畔での隠遁生活を二年ちょっとで打ち切ってしまっている)。

 だが、「他人から羨望されたい」「他人に軽蔑されたくない」という欲望はかなり空虚なものであり、それに振り回される生活が望ましくないことも事実だ。

 

…エクセントリックは、人生への主権を手放すのを拒む。彼らは他者のために生きることを拒む。人生において何が価値があるのか、どれが生きる価値のあるライフスタイルなのか、彼らは自分だけのヴィジョンをもつ。そして彼らのヴィジョンが一般のヴィジョンと合わなければ、もちろん一般のヴィジョンが悪いのである。

エクセントリックは、自分たちが生きている社会の基準に順応するのを拒む。他の人々にとって行動する動機となる事柄は、彼らにとっては動機とならない。新しい車や大きな家で他人に感銘を与えようとすることなどは、何の意味ももたない。むしろそんなものに感心するような人物は、はじめから感心させる価値などないと主張するかもしれない(逆にエクセントリックは、おんぼろの古い車を大事にして、浅薄な人間と関わらないですませるための魔除けにすることさえありうる)。成功のもつ罠を拒んだ以上、彼らは隣人たちほど金銭的に豊かになる必要を感じないだろうし、とりわけ、無理に嫌いな仕事をして日々を過ごしたりしないだろう。反対に、彼らはやりたいことをして日々を過ごす。たとえ、報酬がほとんどーーあるいは全くーーなかったとしても。(p.252-253)

 

 日常の仕事に嫌気が差してきている私にとっては、ソローに関する文章が特に響いた。「金が払われる仕事というのは、どれも何とつまらなく、面白みもなく、退屈で、飽き足らないことだろう!金を手にいれる道のすべては、下に向かう」(p.264)という言葉には実に共感できるし、他人が興味を持ったり面白いと思っていることが馬鹿げているように感じて、他人との付き合いよりも自分との付き合いが楽しく感じられてしまう、というソローの性格にも親近感が湧く。

 著者によると、社会的な欲求に左右されないエクセントリックな人々には、丈夫で健康な人が多いそうである。また、人は年齢が経つにつれて社会的欲求が衰えていくそうであり、90歳にもなると大概の人は社会への順応に汲々することがなくなる。

 生物学の知見をふまえた経済学の本を多数執筆しているロバート・フランクも、人間の社会的な欲求の具体化である「地位財」が経済をドライブしているのは確かだが色々な悪影響を生じさせており、地位材消費を抑制させる政策を行った方がよい、ということを論じている。

 日本のような社会は制度的にも世間的にも社会に順応しない人には手厳しく、社会への順応をあまりに放棄した生き方はデメリットの方が大きいだろう。しかし、社会的地位を手にいれたがる人は、端から見ていても幸福そうでないことは確かだ。孤独になり過ぎない程度には、社会的欲望に振り回されない生き方を目指した方がよいかもしれない。

 

・ほとんどのタイプの欲望は、満たしても満たしてもキリがない。物質的な欲望は、いちど満たしても「さらに多くのモノが欲しい」「さらに上質なモノが欲しい」と無限に湧き続ける。金銭的な欲望や社会的な欲望も同じだ。そのため、「欲望を満足させそうとすること」は、欲望への対処法としては最悪のものだ。

 

満足ーー永続的な満足ーーを手に入れる最良の方法は、世界とそこでの自分の位置を変えるのではなく、自分自身を変えることである。(p.278)

 

・科学技術を拒否するコミュニティで生活を送るアーミッシュは、「どんな技術をコミュニティ内で禁止するか」ということに関して、「すべりやすい坂道」の理論で判断しているそうだ。つまり、いちど「この技術はこういう場合に必要だから特例で認めよう」という判断をしてしまうと、大して必要ではない場合でもその技術を使用することを認めてしまい、やがて必要性と関係なくその技術がコミュニティ内で定着することになってしまう。そのために、「これは絶対にダメ」という恣意的な線引きを行うのだ。

 アーミッシュに限らず、個人が欲望に対処するうえでも、このような「絶対にダメ」という恣意的な一線を引くことは有用である、と著者は論じている。

 

ショーペンハウアーは言う。「制限はつねに幸福に向かう。私たちの幸福は、私たちの視界、活動範囲、世界との接触部分が制限され、限界を定められている程度に比例する。」自分に制限を課さなければ、私たちはつねにそれ以上を望み、みずから満足の踏み車に乗ることになる。

 

・著者は、フリーセックスや性の解放などにも否定的である。(建前上は)誰でも平等に欲望を満たせるようになった社会であるからこそ、欲求不満の程度が強くなり結果として不幸な人の数が増える、と言うのはありがちな議論だが重要なことであろう。

 

ストア派の哲学に対する若者の反応について。

 

学生たちの多くは、心の平静を「受け入れる」という考えを嫌うが、かといってとくにほかの何かを受け入れたいというわけではない。要するに、彼らは何ひとつ受け入れたくないのである。彼らは、自分の求めるものは世界が与えてくれると想像している。自分の思うとおりに世界を変えられると思っているのだ。その彼らにとって、何にせよ「受け入れる」というのは敗北を認めることである。それは、自分たちが人生に屈したことを意味する。だが経験を積むにつれて、そんな彼らにもおおむねわかってくることがある。世界は望むものを与えてくれはしない。そればかりか、あれほど必死で手に入れようとしたものまで、時にはかっさらっていくのだ。…

…それにしても「受け入れる」ことを拒否するのはばかげている。受け入れたときはじめて、人は受け入れたものの真価を認めることができるのであり、そのときようやく、現世の成功ではないにしろずっと価値あるものーー満足ーーを手にいれることができるのだから。(p.241)