道徳的動物日記

倫理学、社会科学、時事問題、世相などについて論じます。

読書メモ:『日本恋愛思想史 - 記紀万葉から現代まで』

 

日本恋愛思想史 - 記紀万葉から現代まで (中公新書)

日本恋愛思想史 - 記紀万葉から現代まで (中公新書)

 

  

 第一章の章名が「恋愛輸入品説と十二世紀西欧の発明説」など、全体的に全体的に「恋愛は明治期に輸入された」という種類の議論には批判的で、古来から日本人は「恋愛」についてどんな考えを抱いてきたか、ということを古代までさかのぼって文芸作品を中心に参照しながら論じていく本である。

 大量の本が次々と参照されて、それらの本において恋愛や男女関係はどのように書かれているかが紹介されていく。なので、特定の箇所を引用して評するのは難しいタイプの本だ。しかし、全体的に安直な文化論に陥っておらず、文化論や本の解釈でありがちな間違いを避けようとする知恵がところどころに感じられてそこが良かった。一部紹介しょう。

 

 そもそも、ひとくちに日本文化といっても、同時代であっても公家と武士と町人と農民とのそれぞれにおいて、全く違う文化が並行して存在している。研究書のレベルであれば流石にこの程度のことは意識されるが、通常の会話や諸々のメディアに載る文化論ではこの程度の基本的なことですら忘れられがちである。

 

 信長時代の日本を訪れたルイス・フロイスが「日本の娘は少しも貞操を重んじない」と書いたことは有名であり、このことが当時の日本と西洋との性道徳の違いを示す根拠とされることも多いが、著者によると、そもそもフロイスは青年になる前にヨーロッパから離れて帰ってきていないので、フロイスの方がヨーロッパの女性に幻想を抱いていた可能性がある。

 

 中近世の文芸で女性が性に積極的に描かれている場面があると、フェミニズム的な批評では「女性の自立性が描かれている」などと行為的に解釈される場合が多い。しかし、たとえば近世の文学では「もてる男」が英雄と見なされており、主人公に言い寄ってくる女性は主人公を引き立てるための装置に過ぎず、むしろそういう描写は女性蔑視の表れだったりする。

 

 なお、この本のなかでは「あとがき」の上野千鶴子批判がいちばん面白かった。

 

ところが上野は、こんなことを言う。

 

“『負け犬の遠吠え』の男性版が書かれないのはなぜでしょうか?それは「男に選ばれる」ことが女性のアイデンティティの核をなしているから、そしてその逆は男性には成り立たないから、と言う説があります。ほんとうでしょうか。

(略)

「負け」を認めたくない男性にとっては、自虐的な肖像をこれでもかと見せつけられる本など読みたくない、したがって本を書いても売れないだろうという見通しもあるでしょう。”

 

そして結論は、

 

“男性に問題に直面してもらうほかないのですけれど、彼らはいつまで「見たくない、聞きたくない、考えたくない」という「男らしい」態度を続けるのでしょうか。”

 

どうやら上野は、男は負けたことを認めたがらない生き物だから、『負け犬の遠吠え』の男版はない、として、現実は理論に従うとばかり、『もてない男』も本田透電波男』(二〇〇五)も、樋口康彦『崖っぷち高齢独身者』(二〇〇八)も、この世に存在しないことにしたいらしい。これはかつて、ソ連には社会的矛盾は存在しないから売春は存在しないと主張したスターリニストと同じである。上野は『おひとりさまの老後』(二〇〇七)で「ごろにゃんする相手くらい確保しておきたい」などと書いてから、もはやお笑いの人と化していたのだが、ここまで来るとお笑いというより、フェミニズム恋愛論の無残な末路と言うほかない。(p.213-214)