道徳的動物日記

人々の議論を眺めながら考えたことや読んだ本の感想など。このブログは利益や金銭目的ではなく人々に対する啓蒙のために書かれています。ありがたがれ。

ストア哲学の知恵を現代の生活に活かす(読書メモ:『迷いを断つためのストア哲学』)

 

迷いを断つためのストア哲学

迷いを断つためのストア哲学

 

 

 邦題はちょっと安っぽくてビジネス書感があるが、原題は「ストイック(ストア派)になるためには:古代哲学を現代の生活に活かす」。先の記事で紹介した『スミス先生の道徳の授業』と同じく、現代の世界における我々の生活に哲学の知見を生かす方法を論じた本である。ストア哲学を紹介する部分はすっきりと洗練されており、持ち出される現代の具体例も印象的なものが多く、なかなか質の良い入門書だ*1

 

ストア派の哲学者にも様々な人物がいるが、この本ではエピクテトスが特に重点的に紹介されている。

 エピクテトスの思想の中でも白眉なのが以下の引用箇所だ。

 

…何かに愛着を抱くとき、すなわち、決して奪われないものではなく、水差しやガラスのコップといったものに愛着を抱くときは、それがたとえ壊れても取り乱す必要はないと忘れないことである。人間に対しても同じだ。自分自身や子どもや兄弟や友人にキスをするときは……死すべき者を愛していること、愛しても自分自身のものではないことを失念してはならない。彼らへの愛は一時的に与えられただけであり、永遠に手に入れたわけでも、ずっと手元に置いておけるわけでもない。一年のうち決まった時期だけに収穫できるイチジクやブドウを冬に求めるのが愚かなことであるように、自分に与えられていないときに息子や友人を慕うのは愚かなことであり、冬にイチジクを求めているのと同じだと知るべきだ。

(p.52-53)

 

 著者による解説。

 

エピクテトスが伝えているのは、勇気をもって人生の現実を直視しよう、ということである。誰もが死ぬし、「自分のもの」として権利を主張できる相手などいない。これが現実だ。これを理解すべき理由は、愛する者が死んだり、親しい友人が国を離れたりした時に正気を保つためだけではない(現代では経済的理由や暴力や社会の混乱から他国に逃れることがあるが、当時は刑罰として国を追放された)。こうした現実と向き合えば、仲間の愛や、仲間と一緒に居られることを当たり前とは思わずに、そのありがたみを精一杯かみしめるべきだと胸に刻むことができる。いつかは誰もがこの世を去り、楽しむことができる正しい「季節」が終わってしまうからだ。私たちは、今、この瞬間を大切に生きるべきなのである。

(p.54)

 

・著者は、ストア哲学の思想の骨子を表すものとして、カート・ヴォネガット『スローターハウス5』で出てくることでも有名な、ラインホルド・ニーバーの祈りを引用している。

 

主よ

変えられないものを受け入れる心の平静と

変えられるものを変える勇気と

そのふたつを見分ける知恵をわたしに与えたまえ。

(p.40)

 

ストア哲学者たちは、倫理については「発展」理論を採用しているらしい。つまり、人間の倫理は最初は直感的・本能的な者であり自己愛や身近なものに対するえこひいき的な愛が強いが、理性を成長させることによって倫理的配慮の対象を拡大させていく、ということだ。過去の記事でも書いたが、この考え方はローレンス・コールバーグの道徳発達理論ピーター・シンガー拡大する輪の議論を思い出させるものである。

 

アリストテレスは、幸福のためには「知恵」や「徳」の他にも「財産」や「見た目の良さ」や「社会的地位」なども重要になると論じた。アリストテレスはこれらの重要性を並列させているが、ストア哲学では本質的に重要なのは「知恵」や「徳」だけであるようだ。しかし、ディオゲネスのような犬儒派とは違い、財産や社会的地位のメリットを否定しない。ストア派ではこれらのものは「好ましい無関係」というカテゴリーに収められており、知恵や徳ほど重要ではないが、あるに越したことはない、という扱いである。ここら辺のバランス感覚がいいと思う。

 

・「格言」というものは時には馬鹿にされがちだが、ストア派は実用的な行動規範としての格言を好んだそうだ。

 

ストア派の宗教観は基本的には汎神論的なものであったようだが、宗教や神についてどれだけ真剣に捉えるかは、論者によっても違いがあったようだ。そもそも、神や宗教に関する解釈はストア哲学では曖昧らしい。そして、その曖昧さはストア哲学の利点であると著者は説く。多神教徒でも一神教徒でも無神論者でも、ストア哲学の議論に参加できるからだ。

 

これは、思考停止状態とか、政治的正しさとか、両立不可能なものを両立させるとかについての助言ではない。人生で大切なのは良く生きること、そしてその目的、すなわち古代の人々が求めたエウダイモニアには、神が存在するかどうかはあまり関係ないということだ。もし神がいるとしても、神の特質がどのようなものかは関係ないのだ。キケロは賢明にもこう述べている。「哲学には、これまで十分に解明されていない問題がたくさんあるが、なかでも神々の本質に関する問題は、とりわけ謎が多く、難しい……この問題に関しては、学識の高い人々の意見があまりにも多様で、また異なるため、哲学は無知から生まれたという言葉に納得させられる」これは二〇〇〇年前に正しかったし、近年、どのような言説があったとしても、こんにちでも正しい。この点については合意がないことに合意し、うまく共存して良い人生を送るのが得策のように思うのだが、どうだろうか。

(p.103)

 

・政治家には、単純な能力や政策の公約だけでなく「美徳を備えた人格であるかどうか」も重要となる、というのが著者の考えだ。そして、徳という概念をリベラルが「保守的価値観の押し付け」として疎ましがることは残念なことである、と説く(アラスデア・マッキンタイアとかが同様の議論をしていたはずだ)。しかし、近年の日本や海外の選挙結果では、反リベラルかつ美徳もない人が当選しがちであるし、保守派の人たちももはや美徳は重視していないように思える。

 

・第8章では、人が非倫理的な行為をするのはその人が性悪だからではなくは知恵や想像力が不足しているからである、というアーレント的な道徳観が論じられる。

 

・第9章では、実際に人生で苦境に陥ったがストア哲学の知見を生かして苦境を乗り切った、というロールモデルとなる人々が紹介される。軍人でありながらストア哲学を学んでおり、戦争捕虜になった間にもストア哲学的な考え方を実践することで苦境を耐え忍んだ、ジェームズ・ストックデールという人のエピソードは、話ができすぎている感もあるがなかなか凄まじい。

 第10章でも、身体障害や精神障害に苦しんでいたがストア哲学的な発想の転換を行なった人々のエピソードが紹介されて、障害のある人生を送るうえで役立つストア哲学の知恵が紹介される。気に入った箇所をいくつか引用しよう。

 

まず初めに、うつ病を患う人々にとってきわめて重要なことの一つは、つねに自分自身と自分の精神状態を観察することだ、とアンドリューは言う。それについてストア哲学が役立つのは、自分自身の反応を観察し、自分が世界をどのように見て解釈するのかをじっくり考える訓練となることだろう。

(p.164)

 

アンドリューは、ネガティブな思考とうつ病の関係に気づくと、すぐに、コントロールできることとできないことというエピクテトスの二分法を思い出した。わたしたちの決断と行動はコントロールできるが、わたしたちが置かれている状況、他者の意思や行動はコントロールできない。もちろん『語録』や『提要』を読み、自分と同じような状況が描かれているのを見つけ、これだ、その通りだ!と思ったというわけではない。アンドリューは読み続け、考え続けたのだ。ストア哲学では、私たちの行動や内なる感情でさえ変えるためには、意識して何度も繰り返すことが必要だ、と教えている。これはうつ病やよく似た症状に対する治療法として効果的だと現代の精神科医の多くが認めていることでもある。

(p.165-166)

 

アンドリューの証言は、うつ病の人にとくに役立つ、ストア哲学のふたつの実践例を強調している。そのうちひとつは直観に反するものかもしれない。まず、エピクテトスが強調しているように、わたしたちは「心像」を見ているということだ。つまり、わたしたちは、提示されたものにまず反応する。そして多くの場合、それが最初に見せられたものとは違うと気づく。

(p.167)

 

アンドリューが役立つと気づいたことのふたつめは、意外かもしれないが、現代のストア主義者たちが、ネガティブな事象の可視化と呼ぶものである。この基本的な考え方は、現代の認知行動療法や類似の手法にも取り入れられている。これは、良くない結果に終わると思われるシナリオをつねに意識し、自分はそれに対処する力を内に秘めているのだから、実際は思っているほど悪い結果にならないことを繰り返し自分に納得させるというものだ。

(p.168)

 

 うつ病に関しては「うつ病患者は通常の人よりも現実認識に優れている(うつ病リアリズム)」という議論もあり、「ネガティブな事象の可視化」がうつ病の人にとって本当に役立つかどうかは私も半信半疑だ(逆効果になってしまう危険性もあると思う)。

 とはいえ、ストア哲学は、自分の思考や行動やライフスタイルをメタ的にコントロールすることを是とする思想であり、またその具体的な方法も提案している思想であることは、確かなようだ。となると、ストア哲学認知行動療法との間に類似性があることには納得がいく。

 

・第11章のテーマは、死や自殺などに関してだ。来世や天国や地獄などの存在を考えないらしいストア哲学では、「死」に関しては「死は避けられないのだから、いつか死ぬという事実を前向きに受け入れて、人生を充実させよう」的なさっぱりした考え方をするようだ。また、自殺や安楽死も状況によっては認めるそうなのだが、この点に関しては個人的には好感が抱ける。

 

・第12章は、怒りや不安や孤独などのネガティブな感情に関して。ストア哲学では、ネガティブな感情が生まれる原因となる状況や物事について別の言葉で言い換えるなどして捉え方や認識の仕方を変えるという、これまたメタ的な対処法が論じられている。以下では、ストア哲学はあまり関係ないが、コリン・カイリーンという学者が行なった議論を紹介している箇所を引用。

 

…(カイリーンは)疎外という極度に後ろ向きのものから、つながりという極度に前向きなものまでの社会の見方を、「疎外 - つながりの連続体」として提唱している。後ろ向きのものから順番に、疎外<>孤立<> 社会的孤立<> 孤独<> ひとりでいること<> つながりという連続体である。さらに、この連続体に彼が「選択の連続体」と名づけたものを重ねた。一方の端は選択していないことの結果(疎外、孤立)、もう一方の端は選択の結果(ひとりでいること、つながり)だ。

(p.204)

 

・第13章は愛と友情について。ここまでの議論で予測できるだろうが、ストア哲学では「愛があれば全てが許される」ということはなく、愛や友情についても距離を置いて冷静になることが推奨される。また、この章では「自然な感情に逆らう理性的で有徳な判断を実践できるようになるためには、何度も繰り返し練習をしなければならない」として、徳を身に付けることを車の運転やサックスの吹き方を覚えることと類似させている。このような「徳とは練習によって習得すべき"技能"である」という考えは、ジュリア・アナスの『徳は知なり』でも論じられていたことだ。

 

・最終章では、「自分の心像を調べる」「立ち止まり深呼吸をする」「自分自身をあまり話さない」など、ストア哲学を日常で実践するための方法が12個の格言にまとめられている。

 

*1:本の趣旨が微妙に違うため比べるのは酷かもしれないが、伝記的事実の比率が多過ぎるた『ギリシア・ローマ-ストア派の哲人たち-セネカ、エピクテトス、マルクス・アウレリウス』に比べて、ずっと面白く読めた。先の記事でも文句を書いたが、日本の学者が哲学者の入門書を書くと、どうにも哲学専攻の学生にしか楽しめないタイプの本ができあがりがちな気がする