道徳的動物日記

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フランシス・フクヤマのアイデンティティ論(1)

 

Identity: The Demand for Dignity and the Politics of Resentment

Identity: The Demand for Dignity and the Politics of Resentment

 

 

 

『歴史の終わり』を書いたことで有名なフクヤマだが、この本は、特に今日のアメリカで話題となっている「アイデンティティ・ポリティクス」現象について、『歴史の終わり』で行った議論を延長させながら分析するものである。 

 とりあえず2章までの議論を簡単にまとめよう。

 

・『歴史の終わり』はヘーゲル的な発展史観に基づいた著作だったが、自由な民主主義国家というゴールにひとまずたどり着いた社会はその後どうなるのか、ということも論じられていた。

 そこでキーワードとなったのが、古代ギリシア哲学でも論じられていた「気概」「優越願望」「対等願望」だ。これらのキーワードについてうまくまとめているブログがあったので、引用させてもらおう。

 

currypanman.blog5.fc2.com

 

歴史は、ヘーゲルの言うように、自己保存の法則をこえてまで他者の承認を求める人間本質の「主か奴か」の争いにその端を発する。認知への欲望は、プラトンのいう、自らのさまざまな価値などを他人に認めさせたいと望む「気概(thymos:テューモス)」と相似しており、その欲望=気概が歴史を動かしてきたとフクヤマは主張する。この欲望は二つに分類され、ひとつは「優越願望(megalothymia)」で、自分が他人よりも優越していることを認めさせようとする欲望である。これは暴君にもアーティストにも見られる性質である。もうひとつは、「対等願望(isothymia)」で、これは他人と対等なものとして認められたいという正反対の欲望である。資本主義における貧困の問題は、認知の問題つまり、相対的な問題になりつつあるから、欲望としての「対等願望」は満たされないまま残るとされる。ヘーゲル=コジェーブ的な歴史の終わりに生きる人間は、ニーチェの言う「ラスト・マン」であろう。すなわち、自らの私的な価値体系が相対化され、自らを自己犠牲に駆り立てるほどの「気概」のない人間である。それは「優越願望」を欠いた人間とも言えるが、フクヤマによれば、普遍的で画一的な民主主義はその平板さゆえ「優越願望」への動機を喚起するという。

 


フクヤマによると、近年のアイデンティティ・ポリティクスは「対等願望」の発露である。

 アイデンティティ・ポリティクスで表明されるのは、経済的な利益ではなく、「私の存在を対等に承認せよ」という欲求だ。

 たとえば、現代のアメリカでは同性愛者であっても「シビル・ユニオン」という形でパートナーシップが法的に認められて、婚姻関係にある異性愛者たちが得られるものと同様の控除制度などが認められる。つまり、経済的な利益だけに注目すれば、同性愛者も異性愛者と同様の支援が受けられるようになったのだ。だが、異性愛者のように正式な婚姻を結ぶことは、いまだに許されていない。21世紀の現代でも、同性愛者の存在は異性愛者と対等には承認されていないのだ。…つまり、同性婚の合法化を要求する運動は、経済的メリットではなく承認を要求する運動なのである。

 同様の分析は、#MeToo運動やBlack Lives Matter運動にも当てはまる。これらの運動は性犯罪という加害や銃殺という生命の危機に対する抗議を示す運動ではあるが、その根本にあるのは、「マジョリティである男性/白人に比べて自分たち女性/黒人の存在は対等に承認されていない」という欲求不満なのだ。また、ロシアや中国や中東諸国などの非-民主主義的な国家の主張たちも、国民の「対等願望」に訴えることで支持を得ている、とフクヤマは論じている。つまり、「欧米諸国や民主主義国家は、我が国のことを対等に扱っていない。我が国はいいように利用されてないがしろにされているのだ」と訴えることで、国民のルサンチマンナショナリズムを煽り、非民主的な政策への支持を取り付けている、ということだ。 

 

・かつての社会では、「人間は対等ではない」ということが当たり前に認められていた。国家や社会を守るために自分の命を賭けられる兵士と、ただ物を売っているだけの商人は対等な存在ではない、ということだ。貴族制も、貴族たち(または、その貴族たちの祖先)が社会や国家に対して果たしている責任に基づいて、正当化されていた。

 しかし、現代の民主主義国家では、責任の有無に関係なく人は人であるだけで皆が対等だ、ということになっている。「自分も人間だから、他の人間と対等だ」という発想そのものが現代の産物であり、だからこそ「対等願望」が政治的主張のキーワードとなる時代となったのだ。


…と、第2章までの議論はこんな感じ。アイデンティティ・ポリティクスに関する分析やジョナサン・ハイトやマーク・リラをはじめとして色々な論者が行っており、フクヤマの分析に特に目新しいところはいまのところ感じられないが、ヘーゲルとかギリシア哲学なんかが出てきて格調高いところが魅力的といえるかもしれない(そのぶん「胡散臭い」と感じる人もいるだろうが)。