道徳的動物日記

人々の議論を眺めながら考えたことや読んだ本の感想など。このブログは利益や金銭目的ではなく人々に対する啓蒙のために書かれています。ありがたがれ。

読書メモ:『良き人生について - ローマの哲人に学ぶ生き方の知恵』

 

良き人生について―ローマの哲人に学ぶ生き方の知恵

良き人生について―ローマの哲人に学ぶ生き方の知恵

 

 

 人生哲学としてのストア哲学の知見をわかりやすく紹介して、現代人の生活にとってストア哲学の考え方がどのように役に立つかということを解説する本。ストア哲学については最近のこのブログで二度ほど記事を書いているし、同じ著者の『欲望について』の紹介記事もこの前に書いたばっかりだ*1。この本に関しては気に入った文章の引用を主にして、軽く紹介して済ませることにしよう。

 

 

ここでストイックのアドバイスを受け入れ、他の人にどう思われているかを無視することに決められたとする。それでもいざ実行となると難しい。ほとんどの人は、自分についての他者の意見から逃れられない。私たちが熱心に働くのは、第一に他の人びとの讃嘆を勝ち得るためであり、第二にそれを失いたくないからである。

この状況を克服する方法がひとつある。他者の讃嘆を勝ち得るためには彼らの価値観を採用しなくてはならない、という事実を肝に銘じることだ。つまり他者に褒めてもらいたければ、彼らの持つ成功の概念にもとづいた「成功した人生」を送らねばならないのである(彼らが不成功とみなす人生を送っていたら、讃嘆されることは決してない)。したがって他者の讃嘆を勝ち得ようとする前に、果たして彼らの成功の概念が自分と同じなのか自問してみる必要がある。もっと重要なのは、彼らが追求するものが何にせよ、それによって心の平静が手に入るのだろうかと疑ってみることである。そうでないのなら、そんな人たちの讃嘆など無視することだ。

他人の讃嘆を勝ち得なくてはという強迫観念を克服するには、もうひとつ方法がある。わざと彼らに軽蔑されそうなことをするのだ。カトーの場合は、服装の決まりごとを無視するという手に出た。みんなが明るい紫の衣服を着ている時に、彼は黒に近い色を着た。古代ローマ人は人前に出るときはふつう靴をはき、トゥニカを着るのだが、カトーはどちらも身につけなかった。プルタルコスによれば、カトーはこれを「誇示」のためにしたのではなかった。彼が人と違った身なりをしたのは、「本当には恥ずかしいことだけを恥じ、その他の者からのさげすんだ意見を無視する」のに、自分を馴らすためであった。つまりカトーが意識的に他者の侮蔑の引き金を引いたのは、ひたすら侮蔑に無関心でいる姿勢を実践するためだったのである。

(p.177 - 178)

 

なぜムソニウスは、見たところ害のない美食の快楽を自分から捨てようとするのだろう?なぜなら彼はそれを「害がない」とは思っていないからである。この点について彼はゼノンの言葉を引き合いに出す。ゼノンが美食の味を覚えることに対して警戒しなければならないと述べたのは、いったんこの方向に向かったら最後、止まるのが難しくなるからだった。もうひとつ気をつけなければならないのは、他の楽しみの場合、そうした楽しみと出会う機会が何ヶ月に一回とか、何年間に一回とかであるのにくらべ、食事の場合は毎日だということだ。頻繁に楽しみに誘惑されれば、それだけ屈服する危険も多くなる。ムソニウスによれば、「食べ物がもたらす楽しみは闘うべきすべての楽しみのなかで、間違いなく最も手強い」。

(p.183 -184)

 

ときとしてこの哲学的思索の時期は、いわゆる「中年の危機」の引き金を引く。人によってはこの危機を経験したことで、これまで求めてきたものが間違っていたから不幸になったのだと、正しい結論を導くかもしれない。だがそんなのはきわめて少数派だ。多くの人はこの結論にはたどりつかない。そのかわりに彼らは、自分が不幸なのは長期の目標を達成しようとしていくつかの短期目標を犠牲にしてしまったからだと考える。そこで彼らは短期の犠牲を払うのをやめることにする。新しい車を買い、妻を捨て、愛人を持つ。だがしばらくすると、幸福を手に入れるためのこの戦略も以前と同じように役に立たないことが分かってくる。むしろ多くの点で前の戦略よりもまずいのだ。

(p.198)

 

ストア哲学の考え方の骨子となるのが、ニーバーの祈りにも似た、「自分でコントロールできない物事によって振り回されたりすることを避けて、自分でコントロールできる物事についてのみ考えること」である。著者は、この二分法に「完全ではないがある程度は自分のコントロールが及ぶ物事」を加えて三分法にする。テニスの試合に勝つか否か、書いている本が出版されるか否かなど、自分の努力などの内部要因も関わってくるが外部要因にも大いに左右されるタイプの事柄である。

 著者は、これらのタイプの物事については「目標を内部化する」関わり方をするべきだと説く。テニスの試合で例えてみると、「テニスに勝つ」ことではなく「試合でベストを尽くす」ことへと、目標を自分でコントロールできる内部的なものにずらす、ということだ。もちろん試合でベストを尽くすことはテニスに勝つかどうかにも大いに関わりがあるのだが、外部要因に左右されがちな部分を目標に吸えないことで、どんな結果になったとしてもより心穏やかにポジティブな感情を得やすくなるということである。このことは、スポーツの試合やキャリア的な成功に限らず、人と人との付き合いにも当てはまる。他人の心とはコントロールできないものであるが、自分自身に恥じなかったり後悔の気持ちを残さないような付き合い方を心がければ、心の平静を保ちつつ快活な社交生活が楽しめるのだ。

 

・「私は良き生を生きたいのですが、どうすればいいでしょうか?」という質問に対して、現代の分析哲学者なら"良き"や"生"という単語の意味についてくどくどと並べ立て挙句に「良き生を生きるにはどうしたらよいかという問いには意味がない」と答えるであろう…という揶揄を、著者は書いている(p.233)。これは分析哲学者やメタ倫理学者に対する当てこすりとして書かれているのだろうが、考えてみると、「人文学は何の役に立つのか?」という問いに対しては分析哲学者に限らず多くの文系の学者が同じようなタイプの返答をしがちだ。

 

・『欲望について』と同じく、この本でも、著者は進化心理学の知見を大いに参照している。そして、ストア哲学が論じてきた人間の欲望についての捉え方と欲望への対処法は進化心理学的に見ても正しいと論じている。

 また、著者はストア哲学のような古代からの人生哲学の知見と現代の科学的知見との関係を、「アスピリン」のたとえで示している(p.249)。生理学的なメカニズムの知見に乏くサリチル酸の存在を知らなかった古代人でも柳の樹皮を解熱鎮痛として使用してきたように、背景にあるメカニズムの知識については知らなかったり間違っていたとしても、様々な問題に対する対処法としてみると、古来の知恵は現代の観点から見ても正確であったり有益であったりするということだ。

 

・現代の心理学やカウンセリングなどでは「感情を抑える、感情をコントロールする」ことは逆効果であると見なされがちだが、むしろ、現代のカウンセリングには感情を解放することのメリットを過大評価したりデメリットを無視しがちな傾向がある、と著者は論じている。そういえば、スティーブン・ピンカーも現代の心理学には「感情を制御することは悪であり、感情を解放することは善である」というドグマが存在する、と指摘していた。

 

・著者は、現代社会においてストア哲学的な生き方を実践することには、周りから嘲笑されるリスクが存在するとたびたび指摘している。確かにストア哲学の生き方を実践するとミニマリスト的で反資本主義的になりがちだ。そして、ミニマリスト的な生き方をやたらと叩きがる人が数多く存在するのは事実である。ただ単に自分と違う生き方をしている人を見ると自分が否定されるような気分になる傾向があること、特に「人生哲学」を持って明確な目標や規律を持って生きている人はそうでない人から叩かれがちなことが指摘されている。

 また、物欲や名誉欲を抑えるストイックな生き方をしている人は、会社の上司などからしたら出世させるのを後回しにしたくなる相手かもしれない(普通は給与や地位が会社に忠誠を尽くさせて労働させるためのニンジンとなるが、ストイックな人にとってはニンジンの効果が薄くなるからだ)。

 

・この本を読んでいて最も印象に残ったのは第17章の「老い」についての章だ。

 

二十歳かそこらの若者たちは、世界が自分の思いどおりになると信じて、ストア哲学を否定するかもしれない。だが八十歳の老人は、世界が自分の思いどおりにはいかないことを十二分に知っており、自分の状況が歳を重ねるとともに悪くなっていくのも分かっている。二十歳のころは自分は死なないと信じていたかもしれない。だが老年のいま、自分が死すべき運命にあることは痛いほどはっきりしている。死が視野に入ったいま、ようやく、「たんなる心の平静」に落ち着きたくなるかもしれない。ストア哲学を受け入れる機が熟したのだ。

(p.200)

 

…八十歳の老人にとって、その日が彼女の二十歳の孫よりも喜びに満ちたものになることもおおいに考えられる。とくにその老人が、体の衰えゆえに何も当たり前だと考えず、反対に孫のほうは、まったく健康であるがために、何もかも当然と受け取り、人生が退屈だと決めつけているような場合には。

(p.203)