道徳的動物日記

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反出生主義についての雑感

 

Better Never to Have Been: The Harm Of Coming Into Existence

Better Never to Have Been: The Harm Of Coming Into Existence

 

 

 

 
 先日にペット動物と反出生主義についての論文を読んで内容を要約したメモを書いたところだが、せっかくの機会なので、反出生主義について自分が思うところをつらつらと書いてみよう。
 
 
 反出生主義といえば基本的には人間に対して当てはめられるものだ。「不幸な人生を歩ませることになる人間を生み出すべきではない」や、「人間の人生には何らかの苦痛や悲しみが必ず含まれる以上、人間を生み出すことは危害である」など。…しかし、人間を対象にした反出生主義には、それが現実的な行動の選択や社会政策や公共的な議論などに結び付くことはほとんどない、という虚しさがある。
 
 個人単位で見れば、人間に対する反出生主義を実践することは「子どもをつくらない」ということにしかならない。そして、たとえば誰かが「自分は反出生主義者だから子どもをつくる気はない」と言明していても、それを真に受けられない場合は多い。
 私がネット上や実生活で目にしてきたなかでは、反出生主義を唱えている人は、年端も行かない学生や若者が大半なようだ。彼らの多くは、社会的な立場や金銭面の理由から、そもそもつくりたくても子どもをつくれない立場である(または、つくろうと思えば子供はつくれるだろうが、延期した方が一般的な観点からして合理的な立場である、など)。彼らの言い方をよく聞いてみると、「つくれない」という受動的な立場を自分の主導的な選択であるかのように「つくらない」と言い換えていたり、あるいは本気で「つくる/つくらない」を検討する立場にはないから気軽に「つくらない」と主張したりする、という場合が多いように思われる。
 そして、本人は本気で「つくらない」と主張していたとしても、時間が経過して自分が裕福で余裕のある立場になったり結婚相手や家族や世間の意見に流されたり、あるいは子供をつくっている同世代の友人が幸せそうに見えたり孤独感や将来の不安を解消するためだったりの理由で、あっさりと子供をつくることも多いだろう。…世間ではブームになりつつある反出生主義だが、どれだけの人がこの主張を積極的かつ主体的に選んで唱えているのか、そしてその主張を継続させられるか疑わしいものだ、と私は思っている。
 
 また、反出生主義を社会的な政策や公共的な議論において取り上げることも難しい。同じ生命倫理の問題であっても、たとえば安楽死や堕胎などの問題であれば、「それを認めるか/認めないか」「認めるとして、どこまで認めるか」ということは公共的な議論の対象となり、その議論の結果は法律や条例などにも反映されている。
 安楽死や堕胎を現状では認めていない国であっても、大半の国では、それらの問題が政治的に真剣に取り扱う議題であると認められてはいるだろう。
 たとえば日本では堕胎はアメリカの一部の州などに比べれば容認されている一方で、安楽死はオランダやスイスなどの国に比べれば制限が厳しい状態だ。だが、日本の堕胎制限がアメリカのように厳しくなる状況も、オランダのように日本でも安楽死が積極的に認められる状況も、それらの現実的可能性はともかく、その状況が存在することについては想像がつきやすい。
 一方で、人間に対する反出生主義が国会や地方議会などで取り上げられて、何らかの形で法律や条例に組み込まれるという状況は、ちょっと想像できない。反出生主義を社会的に実現するなら「誰もが子どもをつくることを禁じる」ということになるだろうが、世代を再生産して社会を継続していなかければならないという現実的な理由から、そのような主張が法律や条例に反映されることはまずないだろう。そして、まともな国や社会において、「人が子どもを作ることはそれ自体が罪であるかもしれない」「人が子どもを作ることを規制するべきか」という議題が議会などで取り上げられる状況を想像することは、かなり困難である*1
 
 さて、動物に対する反出生主義を考えてみると、人間に対する反出生主義とは事情が一変する。
 人間に対する反出生主義はほとんど現実味のない思考遊びの側面が強い一方で、動物に対する向き合い方において反出生主義は現実味のある選択として真剣に考慮されており、ある意味では既に実行もされ
ているからだ。 
 
 現に実行されている動物に対する反出生主義とは、たとえば犬や猫などのペット動物の去勢や避妊、あるいは地域猫のTNR(trap, neuter, return)である。これらの慣習が実行される理由としては「飼い犬や飼い猫の性感染症を予防するため」や「地域住民へ迷惑をかけないため」「公衆衛生のため」という要素もあるだろうが、「人間の住宅内で飼いきれずに野良となる犬や猫は、苦痛に満ちており幸福の少ない生涯を送る可能性が高いから、そのような存在が生まれてくることを予防する」という理由が、かなり大きな部分を占めている。
 そして、ペット動物や野良猫の去勢や避妊は、飼い主や地域住民などの個人の判断によって行われるだけでなく、地域自治体や国などによっても奨励されている。これらの慣習を「自然ではない」「動物から生殖の悦びを奪っている」「人間の傲慢だ」と言って非難する人も多いが、現代ではむしろ非難する人の方が少数派になりつつある。…賛否のどちら側に立つとしても、ペット動物に対する反出生主義が真剣に議論されている公共性のある話題であることは否めないだろう。 
 
 畜産制度や動物実験制度などの撤廃を目指すアニマルライツ運動においても、反出生主義的な含意がある。「畜産動物/実験動物は多大な苦痛を受ける一生を過ごす」ことを問題視する功利主義的な理路にせよ、「動物を人間の目的のために利用する」ことそのものを問題視する権利論的な理路にせよ、それらの主張には「動物を搾取する制度は撤廃されるべきであり、その制度の撤廃によって将来は畜産動物や実験動物が生まれてこなくなるとしても、それ自体は問題でない」という前提や「畜産動物や実験動物が存在しない世界は、そうでない世界より望ましい」という含意があるからだ。
 …ペット動物の去勢や避妊に比べれば、畜産や動物実験制度の撤廃はまだまだ途上であり、反対意見もずっと多い。しかし、少なくとも動物実験に関しては撤廃とまではいかなくてもその規模は制限される方向に進んでいるし、畜産制度の規制も(犠牲となる動物に対する考慮ではなく、環境問題への危惧という理由も大きいだろうが)以前に比べればずっと真剣に議論されるようになった。先進国では国会でもこれらの話題を取り上げるようになっており、これらの話題は十分な公共性を獲得していると言えるだろう。 

 私自身としても、人間に対する反出生主義に比べて動物に対する反出生主義の方がより真剣でアクチュアルなものだと思っている。
 いくら現代の日本が不況であり様々な点で生きづらい社会であると言っても、「自分の生は地獄のような状況だからもう死にたい」とか「こんな人生なら生まれてこない方がマシだった」と思っている人たちが感じている苦痛の大半は精神的というか実存的な面が強く、客観的に「たしかに生まれてこない方がマシだったね」と多くの人が同意できるような種類の苦痛ではないように思える。また、大半の場合はそのような主張は一時的に悪い状況に落ち込んでいる人や精神が不安定な状態になっている人が発しているものであるように思われるし、時間が経てば本人も意見を改める場合が多いだろう。
 …一方で、大半の畜産動物や実験動物は、まさに地獄そのものの一生を過ごす。彼らの生の実情を知ったほとんどの人は「このような一生を過ごすなら、生まれてこない方がマシである」と思うはずだ(野良猫や野犬の一生に関しては個体差も多いし、人によって意見が分かれるものと思われる)。

 たとえばデビッド・ベネターによる反出生主義の理論は「誰かを生み出すことによって何かしらの苦痛が存在する生を過ごさせることは、その一生に含まれる幸福や苦痛の量に関わらず、危害行為である」という主張だったはずだ。だから、「量」に注目した上述の議論は、ベネターの反出生主義とはあまり話が嚙み合っていないかもしれない。 
 だが、ネットや日常の場におけるよりカジュアルな反出生主義の議論では、苦痛の量という要素は陰に陽に顔を出してくるものであるように思われる(そもそも、反出生主義の議論をするときに哲学的な理論正当性に興味のある人がどれだけいるか、という話でもある)。

*1:中国における一人っ子政策などの実例はあるし、差別的な国家において特定民族を根絶するために強制的に避妊や去勢をさせる法律が採択される状況も想像はできるが、それらは経済的理由なり差別的理由が先立っているのであって、反出生主義とは別物だ