道徳的動物日記

人々の議論を眺めながら考えたことや読んだ本の感想など。このブログは利益や金銭目的ではなく人々に対する啓蒙のために書かれています。ありがたがれ。

選挙制のエリート主義、抽選制と熟議民主主義(読書メモ:『選挙制を疑う』)

 

選挙制を疑う(サピエンティア) (サピエンティア 58)

選挙制を疑う(サピエンティア) (サピエンティア 58)

 

 

 最近は感想を本を読んだ時の感想やメモはまとまった形に残すのではなく、引用メモや雑感をTwitterの方にスレッドの形でダラダラと呟くことにしているのだが、この本は面白かったしなにより読みやすかったので感想を書くのも簡単そうだ。なのでこちらに感想を残すことにした。

 本の内容のまとめや社会的背景の解説などは、政治学者の吉田徹氏が書いた以下の記事を参照してほしい。

 

gendai.ismedia.jp

 

 上記の記事で紹介されているように、この本では、現代の各国で行われている選挙型の代議制民主主義は過度な選挙戦や政党政治による硬直化を招いて政治の効率性を損なっており、また選挙制度は源流からしてエリート主義的であり民主主義の精神とは相反している(つまり、正当性すらなくなっている)ということが示されている。そして、選挙民主主義の代わりにくじ引き民主主義(抽選型代議制民主主義と熟議民主主義を合わせたもの)を導入した方が政治が有効に機能して、民主主義の根本的な精神性にも相反していない、ということが論じられているのだ。

 私はこの本の内容を事前に知っておらず、「法政大学出版局の"サピエンティア"シリーズの本を何冊かまとめて読もう」と思い立っていたところにたまたま目にして手に取ったという経緯で読みはじめた。読む前はタイトルだけを見て「愚かな人間にも投票権を与えて選挙に参加させているせいで民主主義がダメになっているのだから、投票権に制限を与えたり資格制にすることで選挙制度を改善しよう」という風なことを論じている本なのかなと思っていた*1。しかし、手に取ってみたらむしろこの本が最も攻撃の対象としているは選挙制に潜むエリート主義であり、私が事前に想定していたものとは真逆の内容だったのだ。

 この本で特に面白かったのは第3章である。古代ギリシアルネサンスの時代には抽選制であった民主主義が、アメリカ独立革命フランス革命の時代を通じて選挙制に変貌していき、さらには「民主主義は源流では抽選性であった」という事実すらも忘れられていく過程が、鮮明に描写されているのだ。いまでは「近代民主主義はアメリカ独立革命フランス革命の時期に始まった」ということはすっかり常識になっているために、革命の指導者たちが「抽選に当選したどこかの有象無象たちにではなく、選挙という選抜をくぐり抜けることで能力が証明された優秀な人間たちに民主主義を任せるべきだ」というエリート主義的な思惑を抱いていたことは失念されてしまいがちなのである。

 また、第4章では今日の社会でも可能な抽選型民主主義について、各国での実験の実例も紹介しながら論じられている。基本的には、代議制民主主義に抽選制と熟議民主主義を合わせた形になるようだ。

 紹介が前後してしまうが、第3章で、トクヴィルの『アメリカのデモクラシー』が紹介されている箇所から引用する。

 

トクヴィルは、抽選によって編制された陪審員、すなわち「任意に選出され、有罪・無罪を決める権限を一時的に得た一定数の市民」については、すこぶる好意的だった。ここでも少し長くなるが、トクヴィルの文章を引用しておきたい。

"陪審制、特に民事陪審制のおかげで、裁判官の心の習慣の一部は、すべての市民の精神へと伝播する。自由のための最良の準備となるのは、この習慣にほかならない。"

アリストテレスと同様、トクヴィルがどのように自由を期間限定の責任と結びつけたのか、どのように自由を人間の学習対象と見なしたのか。この点に留意してほしい。)

"自分の事柄とは別の事柄に従事するよう強いられることにより、人々は、社会をいわば錆びつかせる個々人のエゴイズムに対抗する。/陪審員になることは信じがたいほど、国民の判断力の形成に寄与するし、国民の自然理性の拡大に寄与する。これが最大のメリットであろう。それは、常時開設している無料の学校であると見なさなければならない。そこでは、誰でも自分の権利について助言を求めるようになり、上流階級のなかでも最も学識があり最も賢明なメンバーと日々接するようになる。法律は実践的に教えられ、弁護士の努力、裁判官の助言、訴訟当事者の情熱のおかげで、陪審員の知的能力に入り込む。私の考えでは、アメリカ人の実践的知性や政治的良識は、主として、民事陪審員としての長期間の使用に帰さなければならない。私は、陪審員が訴訟当事者にとって有益であるかどうかは分からない。しかし、裁判をする人々にとっては極めて有益であると確信する。陪審員は、社会が国民を教育するのに用いることのできる手段としては、最も有効な手段であるように思われる。"

(p.103-104)

 

 抽選で選ばれた見知らぬ人々同士が一堂に会して話し合い議論し合って、時として検察や裁判官たちにもたどり着けなかった真実を明らかにする…『十二人の怒れる男』をはじめとして陪審員制にスポットが当てられたフィクション作品はそんな構造になりがちだが、そのような作品では民主主義と熟議の理想の姿が描かれていると言えよう。

 このタイプの作品の中でも私が特に感銘を受けたのは『有罪x無罪』というニンテンドーDSの推理アドベンチャーゲームである。このゲームは裁判員として集められた地味ながら個性豊かな市井の人々たちと主人公が議論し合いながら各事件の真相に辿り着くことを目的としているのだが、年齢も職業も教養もバラバラな人たちがそれぞれに議論に貢献していくことで真相がだんだんと明らかになっていく過程が楽しかった。

 

 

有罪×無罪

有罪×無罪

 

 

『選挙制を疑う』の第4章では、熟議民主主義制に対する大衆蔑視に基づいた懸念が取り上げられて、実際に熟議が成功した実例を示しながら反論されている。

 日本では裁判員制は導入当初から批判され続けているし、「そもそも議論を行うことすらできない教養のない連中や、議論をしたがらない人間が大量にいる社会なのだから、熟議民主主義なんて成立する訳がない」と言う人もいっぱいいる。だが、議論や熟議というものは、運営や進行がうまく行っていれば基本的に楽しいものだし、ほとんどの人にも参加できるものであるはずなのだ。教養や知識についての問題は「話し合いの前に話し合うテーマについての情報を教授する時間を設ける」「テーマについての専門家がアドバイザーとして参加させる」などの工夫で対処できるだろうし、議論に慣れていない人や発言することが苦手な人についても、議論を運営する方法を工夫することでなんとかできる部分が多いだろう。この本を含めて熟議民主主義について書かれた本ではそういう実践的な方法や工夫の面についても論じられているのである(一方で、批判者たちは「議論」や「熟議」の上っ面のイメージだけで判断して思い込みで批判することが多い)*2

 

 以下では気に入った部分を引用して紹介する。

 

(ポピュリストの言説について)

こうした言説がまやかしであることは、よく知られている。一枚岩の「国民」など存在しない(いかなる社会も多様な人々から成立している)。「国民感情」などというものは存在しないし、「良識」なるものもまったくのイデオロギーにすぎない。「良識」とはイデオロギー性を自覚するのに失敗したイデオロギーであり、ありのままの自然だと大真面目に考えている動物園のようなものである。

(p.22)

 

テクノクラートは、ポピュリストとは正反対のことをする。正当性よりも効率性を優先させて、民主主義疲れ症候群を治療しようとする。良い結果こそが最終的には被統治者の承認をもたらすこと、言い換えれば、効率性が自ずから正当性をもたらすことを期待しているのである。そうした試みは、少しの間であれば成功するかもしれない。だが政治とは良き統治の問題にとどまらず、それ以上の問題である。遅かれ早かれ道徳上の選択をしなければならず、そのためには社会に諮ることが欠かせない。

(p.28)

 

 実のところ、選挙にそこまで焦点を合わせるのは奇妙である。人類は3000年近く民主主義の実験をしてきたが、もっぱら選挙によってそうしてきたのは、たかだか200年に過ぎない。

(p.44)

 

我が民主主義の危機は、我々が限定している特殊な手続きのせいなのではないか。選挙制は民主主義を促進するのではなく、ますます抑制するようになっているのではないか。だとすれば、民主主義への希求がこれまでどのように解釈されてきたのかを振り返ることは有益であろう。

(略)…画期をなしたのは、フランスの政治学者ベルナール・マナンの『代議政体の原理』(1995年)である。「現代民主主義は、創始者が民主主義と対置した政府形態に由来している」という冒頭の文章からして衝撃的である。マナンは、なぜ選挙性が非常に重要なのかを探究した先駆者である。彼は、アメリカ革命とフランス革命の直後、どのように選挙型代議制が自覚的に選択されたのかを解明した。端的にいえば、民主主義の騒擾を締め出すためだったのである!

(p68)

 

ルソーによれば、

"真の民主主義では、公職に就くことは特権ではなく、重い負担である。ある個人よりも別の個人に多くの負担を課すことは公平ではない。抽選で当たった人にこの負担を課すことができるのは、法だけである。"

(p.83)

 

揺籃期のアメリカ政治は、民主主義の偉大な力を示していた。ところがトクヴィルは、まだ大衆政党もマスメディアもなかった時代だったというのに、選挙戦という必要悪を苦々しく思っていたのである。

(p.104)

 

多くの市民が政治家に不信感を抱いていることは、よく知られている。だが、政治家も同じように市民に不信感を抱いている可能性があることは、あまり知られていない。

(p.134)

 

抽選された市民による熟議のプロセスは、参加者本人にとっては強烈な体験であることも多いが、現代の報道の形式にはうまく収まらない。熟議はゆっくりと進行し、議論を引っ張る人も顔の知れた人もいない。激しい対立とも無縁である。市民はポストイットやフェルトペンを片手に、円卓テーブルで話し合っている。視聴者にとっては、いかにもつまらない光景である。議会制民主主義は劇場型であり、ワクワクするテレビ番組になることもあるが、熟議民主主義はドラマ性に乏しく、物語に仕立てるのは至難の業である。

(p.134)

 

*1:ちなみに、こういう議論も、政治学倫理学においては真剣に論じられている。私も以前に同種の議論について翻訳して紹介したことがある。

davitrice.hatenadiary.jp

*2:

熟議民主主義の実践方法について書かれた本の例。

 

熟議民主主義ハンドブック

熟議民主主義ハンドブック

 

 

 

Innovating Democracy: Democratic Theory and Practice After the Deliberative Turn

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