道徳的動物日記

倫理学、社会科学、時事問題、世相などについて論じます。

パターナリズムとしての「勤労の権利」

www.orangeitems.com

 

↑ 上記の記事でなされている主張を引用しよう。

 

 働かないというのは、社会から切り離されることに等しいと思います。社会で生きていたら誰かの役に立っていないときっと空虚な気持ちになります。住居も保証され何でも買っていい、旅行も行き放題。学校に行くも良し。しかしきっと、世の中の役に立って社会から尊敬されたいという欲が満たされないに違いありません。

 

 この主張は、私が先日に書いた記事で引用した、小浜逸郎による「ベーシックインカムよりもジョブ・ギャランティー」論に相似したものだ*1

 

 …ただ、思想として見た場合、どちらが優れているかといえば、就労を条件とするJGPのほうが、人間的自由の獲得の条件としてやはり立ち勝っていると言えるでしょう。ベーシックインカムは、かつて救貧のために方法を見出せなかった時代の、富裕層による上からの慈善事業の現代ヴァージョンです。もし誰もが勤労の対価を受け取り、それによって社会に参加しているという実感を抱けるなら、それが結果的に一人一人の誇りを維持する一番の早道と言えるのではないでしょうか。

 

 私から見ると、上記のブログ記事の著者と小浜氏は同じ問題を抱えている。

 それは、「自分は単純労働をする側ではない」「自分はJGPで仕事を与えられる側ではない」という自己認識を抱きながら、「単純労働をする側の人たち」という「他人」の人生や幸福について云々する、という傲慢さだ。

 そのため、先日の記事で書いた小浜氏に対するコメントも今回のブログ記事に対するコメントも、基本的には同じようなものになる。

 つまり、「社会から尊敬されたいという欲」が存在することは認めるとして、“現代の社会で行われている単純労働が、それに従事してる人たちの「社会から尊敬されたいという欲」を満たすものだと本気で思っているのか?”ということだ。

 

 もちろん、単純労働の種類やそれに従事している人の人柄によっては、単純労働を行うことで「社会から尊敬されたいという欲」が満たされることもあるかもしれない。
 しかし、大学院を卒業してから2年以上「TVゲームのデバッグのアルバイト」という単純労働を続けていた身から言わせてもらうと、私が単純労働によって「社会から尊敬されたいという欲」を満たせることはなかった。
 ついでに言うと、多少複雑な労働をしている現在になっても、「社会から尊敬されたいという欲」を労働を通じて満たせることはない。

 むしろ、利益や数字を追求することに伴う諸々の行為によって社会を毀損しているという感覚を抱くことがあるくらいだ。職場における空辣な人間関係も、働いていない時よりも「社会から切り離されている」という感覚を強化してしまう。
 私が「社会から尊敬されたいという欲」を満たせるのは、たとえばゆっくり集中できる時間を設けて読書や勉強を行ったり物事について考えて、その結果をこうやってアウトプットすることだ。そして、この作業は労働から解放された余暇の時間で行うしかない。

 つまり、もしベーシックインカムが実現して労働から解放されたとしたら、読書や勉強と執筆に集中できる時間がさらに増すことで、単純に考えれば、私は現在よりもさらに「社会から尊敬されたいという欲」を満たすことができる。

 一方で、たとえベーシックインカムが実現できる社会状況になっても、「誰かの役に立っていないときっと空虚な気持ちになるはずだ」とか「人間的自由の獲得の条件」とかを心配してくれる人々のお節介によりいまだに労働をしなければならない羽目になるとすれば、私は今まで通り労働の余暇にしか「社会から尊敬されたいという欲」を満たすことができないことになる。そんなの、大きなお世話と言うほかない。

 

 何も私が特殊というわけではない。デバッグのバイトをしていた時の同僚との会話などを思い出すと、彼らの多くも自分がいま従事している単純労働によって「社会から尊敬されたいという欲」を満たせているとは考えていなかったようだ。
 これも先日の記事で言及していることだが、アダム・スミスも指摘しているように、単純労働というものを続けることは人間の知力や精神力、気概を著しく奪うものである。
 そして、労働によって時間と気力が奪われることは、身近な家族や友人から広く「社会」まで、様々な「他者」との有意義で充実した関係を結ぶ機会も奪うことになるのだ。

 

 また、以下の引用部分にも、上記のブログの議論の歪さがあらわれているように思える。

 

お金持ちがツイッターYoutubeで、今日もアレコレやっているのは、あれも「働く」の一部です。結局は何らかのお金が彼らに還流していきます。

 

 

 たしかに、金銭や利益を目的としてYouTubeSNSで活動している人もいるだろう。

 一方で、そうでない人もいる。特にYouTubeで活動している人は、その大半は金銭や利益よりも「趣味」や「自己実現」を主な目的としているはずだ。
 そして、ベーシックインカムで余暇の時間が増えるということは、金持ちでない多くの人にも趣味や自己実現に費やせられる時間や気力がもたらされることである。SNSYouTubeでのアウトプットに成功している人たちは、金銭や利益を得ていないとしても「社会から尊敬されたいという欲」は満たせるだろうし、社会から切り離されてる感覚も抱かないことだろう。
 もちろん、趣味や自己実現の活動やアウトプットを行う場所をネットに限定する必要はない。街中の公共空間での活動を行い、それによって社会とつながることで充実感を抱ける人もいるだろう。
 つまり、もしベーシックインカムが実現可能な状況になれば、「勤労の権利」という概念を固持する必要はなくなるのだ。
 必要なのは「働く、という概念をもっと拡張していくこと。」ではない。生き方や人・社会との関係の結び方についての多様なあり方を認めることである。

 

 上記のブログ記事の問題点の一つは、著者が「働くこと」、もっと言えば「金を稼ぐこと」を重要視し過ぎており、そうでない生き方に対する想像力が足りないことにある(金を稼ぐことを重要視しているタイプの人でなければ、SNSYouTubeを「お金の還流」に直結させることはないはずだ)。

 

 もう一つの問題点は、これは小浜氏にも共通していることだが、一見すると「単純労働する側の人たち」に寄り添っているような風を装っているが、実際には彼らについて浅薄で単純な捉え方をしており、彼らの自律能力やケイパビリティについて過小評価していることにある。
 露悪的に言ってしまえば、「単純労働をして過ごしているような連中なんか、金を与えて時間的余裕が出ても、どうせロクな過ごし方をしないだろう。それならば、適当な仕事を与えて社会とつながる場を用意してやった方が、彼らのためになるというものだ」と考えているんじゃないか?ということだ。
 日本には昔から「小人閑居して不善をなす」という諺もあることだし、ベーシックインカムの副作用を危惧する必要性もたしかにあるかもしれない。しかし、そのような危惧自体が傲慢でパターナリスティックなものであることは、否定できない。

 せめて、寄り添う風を装うのではなく、自分のパターナリズムを堂々と認めたうえで議論を展開してくれた方がまだマシというものだ。

*1:小浜氏の記事:

38news.jp

私の記事:

davitrice.hatenadiary.jp