道徳的動物日記

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「一見非合理的に見えるものにも実は合理的な理由がある」論について

 エルスターの「酸っぱい葡萄」については論文の方の感想は先日に記事にしたわけだが、オンラインで一部公開されている単著の方の「訳者あとがき」も参考になる。今回はこの「訳者あとがき」の方を読んでの雑感*1

 分析的マルクス主義者でもあるエルスターによる「バイアス」論、そして階級的地位・階級的利益のために形成されるバイアスである「イデオロギー」論を受けての訳者の議論を引用する。

 

…一九七九年の総選挙でマーガレット・サッチャー率いる保守党が、労働者にとって有利とは思えない政策を掲げていたにもかかわらず、労働者階級の支持を得て政権に就いたことが重大な転機となった。このことは、抑圧された労働者の「階級意識」(=イデオロギー)が労働者自身のためのものとはならない可能性を示すものであり、それゆえ改めて階級意識がいかにして形成されるかの研究の必要性が生じた。

 …(略)…そしてこの論点は現代のわれわれにとっても重要な問題を提起している。二〇一六年は世界の民主主義にとって激動の年であった。この年の前半を通じて行われたアメリカ大統領選の各党の候補者選挙において、その過激な発言で多くの非難を呼んでいたドナルド・トランプ氏が、大方の予想に反して共和党候補としての指名を得ることとなった。そして秋には大統領に選ばれたことは周知の通りである。また少し戻って六月には、イギリスで行われたEUからの離脱をめぐる国民投票において、これまた大方の予想に反して離脱派が過半数を獲得した(いわゆるブレグジット)。これらの選挙における大きな衝撃の一つは、アメリカ・イギリスといった先進国における市民が、保守的かつ排外的な態度を是認したことであった。
 …(略)…このような事態に接して、われわれは(おそらくエルスターが八〇年代のヨーロッパにおいてそうしたように)次のように問わざるをえない。はたしてこの労働者たちは本当に、彼ら自身にとって最善の利益となる選択をなしたのだろうか? あるいはなさなかった(なせなかった)としたら、それはなぜなのか? 

あとがきたちよみ/『酸っぱい葡萄 合理性の転覆について』 - けいそうビブリオフィル

 

 アメリカでのトランプ当選やイギリスにおけるブレクジットについての議論は、日本でも散々になされた。
 また、国内に目を向ければ、大阪における「維新の会」への強烈な支持意識や最近ならNHKから国民を守る党の躍進、また安倍首相による長期政権が存続していることなどについて、有権者の「非合理性」が取り沙汰されることがある。
 つまり、有権者にとって利益を与えないことが明らかなように思われる投票行為をなぜ行ったり、自分たちに利益を与えないことが明らかであるような政党や政治家をなぜ支持するのか、ということについての議論だ。

 このような議論は、基本的には有権者の行動や意識を「非合理的」なものと見なしたうえで、ではなぜそのような非合理な行動をしたり非合理な意識が形成されるに至ったか、ということが分析されることになる。そして、多くの場合には「ポピュリズム」などの説明要因が持ち出されることになる。

 

 ところで、有権者の行動や意識をあえて「合理的」なものと論じることで、「非合理的」だと見なす議論に大して反論が行われることも多い。
 この場合の「合理的」が意味するところには、いくつかのバリエーションがある。

 

 まずは、ふつうの意味での「合理性」を主張する議論…つまり、有権者の行動は実のところは経済的・社会的に合理的な行動である、という議論だ。
 このような議論が行われる場合は、「トランプ当選(なりブレクジットなり維新支持なり)は、有権者に不利益を与えるものだ」という前提自体が崩される。「ヒラリーが当選していた方が労働者階級にとってはより経済的の困窮する羽目になっていたのであり、労働者階級はそれを理解して冷静に判断を下したのだ」といった議論がなされることになる。この場合は、有権者の行動を「非合理的」と解釈する側も「合理的」と解釈する側も、同じ土俵で物事を論じることになるのだ。そのため、「では実際にはトランプとヒラリーのどちらがより労働者に経済的利益を与えている政策を提案していたのか?」など、議論の焦点はデータの解釈の正確性についてなどに移行することになる。この場合は、どっちの主張が正しくてどっちの主張が誤っているかということは同一の尺度で測れることになるので、生産的な議論を行える余地がある。

 

 だが、有権者の行動や意識は経済的・社会的などの表面のレベルでは「不合理」であることを認めつつも、より深層的なレベルでは「合理的」である、とする主張が行われることもある。
 この場合は、有権者の心理や実存やアイデンティティに立ち入った解釈が行われたうえで、彼らの行動は合理的だと論じられることになる。
 また、近年の英語圏では生物学や進化論を持ち出して有権者の行動を分析する議論も流行しつつある。このブログでも、そのテの議論をいくつか訳して紹介してきた*2
 この場合、「合理性」は経済的利益などは別のステージにおいて解釈されることになる。たとえば、トランプに投票することは有権者にとって進化的適応に沿った行為である、ということが論じられるのだ。
 有権者の行動は経済的に「不合理」だとする主張に対して、このように別次元でとらえれば「合理的」だと主張することは、うまくいけば前者の蒙を啓いたり視野を広げたりすることになって、生産的な議論につながる可能性もあるだろう。しかし、実際には、有権者の行動を分析するうえで「経済的合理性」と「その他の合理性」のどちらがより重要か、どちらの指標がより優れているか、という不毛な立場争いのようになることも多い。

 その場合、議論は水掛け論に終始してしまうのがだいたいのオチだ。

 

 ところで、このように「合理性」の指標をめぐって争いが起きるのは、なにも有権者の投票行動に関する分析に限らない。
 企業や職場の様々に残る様々な旧弊的な制度、就活や飲み会などにおける謎のマナー、学校における部活や行事、地域共同体の慣習や因習…などなど、世の中には「非合理」に見える物事がありふれている。そして、往々にして、非合理な物事は誰かに負担をかけたり苦痛を与えたりなどの「危害」を生じさせるものだ。そのため、非合理的な物事は非倫理的であると批判されることが多い。
 だが、誰かが物事の非合理性を批判したときには、必ずといっていいほど、別の「合理性」を持ち出すことでその物事を擁護する人があらわれる。「個人の観点からすれば非合理であるが、組織や規律の維持という観点では合理的だ」とか「短期的に見れば非合理だが、長期的に見れば合理的だ」などなどだ。
 こういう議論について私はちょっとうんざりしているところがある。いかにも「理屈と軟膏はどこにでも付けられる」といった感じで、まったく説得力が感じられないことが大半であるからだ。
 また、多くの場合には、対象の物事について最初に問題提起された「非合理性」から別の軸の「合理性」へと話をすり替えることで、その物事が誰かに危害を与えているという「非倫理性」についての告発が無効化されてしまうことになる、という点も気になるところだ。

 

 なにかについての「合理性」を考えるということは、それが経済的合理性や短期的な合理性であっても、捉えがたく難しいものだ。そして、実存的合理性なり進化的合理性なり、あるいは長期的な合理性というものは、さらに捉えがたくなる。
 自分が理解できないことや気にくわないことについて「非合理だ」とすぐに断定してしまうことはつつしむべきだが、自分が擁護したいと思っていることについて「合理的だ」と主張してしまうのも同じ穴のムジナなのだ。合理性について語るときも、もうすこしニュアンスに富んだ議論をしたいものである。

*1:ほんとうなら単著の方の『酸っぱい葡萄』も改めて借りて参照したいところなのだが、あいにく、現在の私が利用できる範囲にある図書館では『酸っぱい葡萄』や「双書現代倫理学」シリーズが所蔵されていない。こういう時には、大学に所属しておらず大学図書館が気軽に利用できないことのつらみを感じてしまう。

*2:

davitrice.hatenadiary.jp

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