道徳的動物日記

倫理学、社会科学、時事問題、世相などについて論じます。

読書メモ:『人間にとって善とは何か』

 

人間にとって善とは何か: 徳倫理学入門 (単行本)

人間にとって善とは何か: 徳倫理学入門 (単行本)

 

 

 先日にはチャールズ・テイラーの『卓越の倫理』を読んだが、フットのこの本は、同じ徳倫理といってもテイラーのそれとは大きく異なる。思想史の要素が強く理論的な正当化が希薄であったテイラーの徳倫理とは対照的に、フットの徳倫理はかなり理論的なものだ。また、テイラーの主張はどう見てみニーチェ的なものであったのとは真逆に、フットはニーチェに対する批判に一章を割いている。「訳者あとがき」でも書かれている通り、徳倫理といえば共同体道徳を重視したものが多いのだが、フットの理論は理性を重視しており普遍的な倫理を志向したものだ。

 

 フットの書いていることは難しいので私に要約できるものではない。「訳者あとがき」から引用すると…

 

フットの論点は、ある意味では平凡なことである。つまり、あることをすることの「善さ」、そして人間の「善さ」を支えているのは、われわれがそうすること、そうあることを「善い」と思うかどうかではなく、それに「理由」があるかどうか、しかも、「事実」として提出される「理由」があるかどうかということにある。

(p.232)

 

 本文中でも「…人間は理由に基づいて行為できる点で合理的な生き物であるという考え方」 (p.105-106)が強調されている。

 他のサイトでは、フットの理論がこのようにまとめられている。

 

動植物がめざす「自己保存」と「種の繁栄」は、人間においては「幸福」の追求に該当する。
一方、シカにとっての俊敏さのような種独自の機能は、人間においては「実践的合理性」に該当する。
そして、この「実践的合理性」は「理性的な意志」によって発揮される。
つまり、私たち人間は、「幸福」という目的を実現するために、各人が「理性的な意志」によって「実践的合理性」を発揮するが、そうしたあり方こそが人間本来の「生のあり方」であり、〝善い〟あり方なのだと、フットは唱えたのであった。

【徳倫理学】現代における展開(3):フット(Foot) | 西洋哲学史と倫理学のキホン

 

 まあ全体的に言っていることはイマイチよくわからなかったのだが、第6章の「幸福と人間にとっての善さ」には印象に残るところがあった。

 

幸福がこのようにーー徳と概念的に分離できないものとしてーー理解されうるということは、長年私を悩ませてきたもうひとつの例によってさらに明確に示すことができる。ナチスに反対した非常に勇敢な男たちの例である。私は、彼らの手紙を集めた『生と死のはざまで』という本によって知った(もっと多くの人に読まれてしかるべき本である)。これらの手紙は、ナチス支配下のドイツで判決を受け、死刑に処せられようとしていた囚人たちが、妻や両親や恋人に宛てた手紙である。生きることを諦めざるをえないことで自分が何を失ってしまうかについての痛切な感覚を伝えている。手紙が書かれたとき、彼らの死はすでに確定していた。彼らが何を言い、何をしたとしても、死から逃れることは誰にもできなかったであろう。しかし、それより前には、たとえば、彼らのなかの一人の牧師はユダヤ人への虐待を非難する説教を止めるのを拒絶したが、そのときには、自分の家族と過ごす生と収容所のなかで待ち受けている死とのどちらを取るかを選択することもできたのである。いずれにせ彼らの誰一人として、反ナチス的な信条を放棄して、最後には少しはましな扱いを得ようなどとはしなかった。

…(中略)…手紙の文面からは、手紙の書き手たちには人生における最前のものを楽しむこと、つまり最高の幸福が相応しかったという印象を受ける。それゆえ、彼らは自分の幸福を犠牲にすることを承知の上でそのような選択をしたのだと言う人もいるだろう。しかし、それだけではなく他にも言えることがあると思われる。手紙の書き手たちには、ナチスへの協力を拒否して自分の幸福を犠牲にしたという感覚だけでなく、自身の幸福を犠牲にしたわけではないという感覚もまたあったのだと考えることもできるだろう。

(p.176-177)

 

  このほかにも、「われわれは、深い幸せを、その対象から切り離した仕方で心理学的に説明できると考えてしまう」(p.166)と批判的に書かれている。

 アリストテレスの「エウダイモニア」という概念は理性と徳と幸福とを結び付けるものだが、フットもまた理性と徳と幸福とを結び付ける議論をしているようだ。

 この点では、『卓越の倫理』を書いたテイラーほどではないにせよ、フットの徳倫理もまたエリート主義的なものであるかもしれない。幸福が理性や徳と結び付いていることは、実践的合理性を用いずに生きる人は有徳でないだけでなく幸福でないということになる。そして、自分の人生の一時期を振り返っても一部の知人に付いて想起してみても、確かにそれには同意できる。だが、(おそらく本人のせいではなく環境や社会状況のせいなどで)合理性を充分に発揮できず、そのために幸福になれない人のことを考えるとつらいものがある。現代の(ネット上での)幸福論がエウダイモニックな幸福ではなくヘドニスティックな幸福ばかり強調しがちなのも、エウダイモニックな幸福につきまとう身も蓋もなさや厳しさから目を逸らしたいからなのであるかもしれない。