道徳的動物日記

人々の議論を眺めながら考えたことや読んだ本の感想など。このブログは利益や金銭目的ではなく人々に対する啓蒙のために書かれています。ありがたがれ。

利益に基づいた動物の権利:ペットの避妊、娯楽における動物の利用、環境保護との関係

 

 

 この本の6章("Animal Entertainment")の内容について簡潔にまとめる(この本の議論の土台となっている「利益に基づいた権利」の議論については、先の記事にまとめている)*1

 

「利益に基づいた権利」論では、カント主義的な権利論のように動物を利用することや財産として動物を所有することそのものが無条件に禁じられるわけではない。問題なのは、それらの行為や制度が動物の重大な利益(そして、それを保護するための権利)を侵害するかどうかだ。…とはいえ、ペットに関する諸々の制度や動物園という制度、サーカスや競馬にドッグレースなどのエンターテイメントにおける動物の利用は、現状では動物たちに様々な危害を与えており彼らの権利を侵害する結果になっている。ペット飼育そのものは道徳的に禁止されないとしても、飼い主によるペットの不適切な飼育や不必要な安楽死、捨てられるペットたちのことを考えると、ペット飼育は免許制にすることが望ましいと判断される。また、遺伝性疾患を発症することが多いような血統種の繁殖も認められないだろう。サーカスで使役されている動物たちや動物園に展示されている動物たちが日常的に苦痛を感じている例は多いし、競馬やドッグレースではレース自体に怪我のリスクがあるのみならず引退した馬や犬が早々に殺処分されることが多い。

 いずれの娯楽においても、娯楽を利用することで得られる人間の利益を考慮することはできる。しかし、それらの娯楽を抜きにでも人間は充実した生を生きていくことが可能である。苦痛を与えられないことや殺されないことに関して動物たちが持つ利益に比べると、娯楽によって人間が得られる利益の重要性が低いことは明白だ。この事例に関しては、動物には「利益に基づいた権利」が認められるが、人間の娯楽の利益に関して権利を認めることはできないのである。

 

 本題とはややずれるが、「ペットの去勢・避妊手術」をめぐる議論は興味深い。著者はこの話題が難しい問題であることを認めながらも、人間が持つような性的自己決定権を動物にも認めることはしない。まず、動物は人間のように理性的・自律的な存在ではないため、「自己決定」についての利益を人間のようには持たない。また、動物は人間のようにセックスを楽しむとも限らない。ボノボやイルカなどはセックスを楽しんでいるという研究結果があるようだが、猫の場合は少なくとも雌にとってはセックスは苦痛である可能性も高い。雄猫や、雄犬・雌犬がセックスを楽しんでそこから利益を得ているとしても、セックスや性欲の存在自体が生じさせる本人たちにとっての不利益の方が上回ると考えるべきなのだ(伝染病の可能性、去勢や避妊手術をしないことによる発ガン率の上昇、雌をめぐる雄同士の争いとそれによる怪我の可能性、妊娠によって生じる身体的拘束、これらの諸々の結果としての生存日数の短縮など)。

 

 この章の後半では、動物の利用そのものを批判する理論として、「尊厳」概念を用いた理論や徳倫理の理論、そしてゲイリー・フランシオンによる動物を所有物とすることを撤廃する議論などが紹介される。著者はこのいずれの理論も否定する。「尊厳」とは曖昧に過ぎる概念だし、徳倫理の理論はなんらかの行為や制度の禁止を主張するためには不充分だ。そして、キャス・サンスティーンも論じているように、動物を所有物としながらも彼らの利益を保護することは可能である…と著者は主張する。

 

 ついでに、第7章の"Animals and the Environment"についても軽く触れておこう。動物倫理と環境倫理との関係について扱ったこの章では、動物の道徳的地位を考慮する理論の大半がそうであるように、動物の利益は考慮されるべきであるとする一方で環境や生態系や生物種そのものには利益は存在しないとされる*2。環境や生態系そのものに道徳的地位を認める考え方としてはアルド・レオポルドが提唱してJ・キャリコットが擁護したような「土地倫理」が有名だが、著者は、これらの理論の根拠は自然や環境に対してレオポルドやキャリコットが抱くような感嘆や畏敬などの「気持ち」しかないと論じて、誰しもが自然に対してレオパルドやキャリコットと同様の気持ちを抱くわけではないと指摘しつつ、環境や生態系に道徳的地位を認める根拠としてはあまりに希薄であると主張する。

 また、トム・レーガンは「代償的正義 compensatory justice」の考え方に基づいて絶滅危惧種の動物たちに対する特別な保護を主張したが、著者は、「代償的正義 」は個人(個体)が属する集団と個人(個体)そのものを一緒くたにする考え方であり不適切なものだと指摘する(ある集団が過去に行った罪を現在のその集団に属する個人が償うという考えであるが、過去を遡っていけばどの人の先祖も罪を犯していたことを考えると無限責任につながってしまうし、どこまでの過去の罪が現在の人に着せられるかということを明確に定める方法もないからだ)。

 そして、過剰に増加した動物の個体数の調整という問題については、功利主義者のゲイリー・ヴァーナーによる動物の個体数を調整するための狩猟を擁護する議論に著者は反論する。「利益に基づいた動物の権利」論では、個体数を調整してその環境下における全ての動物の利益を守るという理由があっても、殺されないことに関する個々の動物の利益を侵害することは認められない(人口過剰の問題に対して人間を殺すという手段で対策することが認められないことと同じだ)。そのため、動物たちの去勢・避妊など、動物を殺さない形で個体数を調節する方法しか認められないのである。もちろん、それらの方法では狩猟によって動物を殺害することよりも多大なコストがかかるが、コストを理由にして権利を侵害することは認められないのである。