道徳的動物日記

倫理学、社会科学、時事問題、世相などについて論じます。

「叩いていい存在」を叩く行為と、ネット民の幼児性について

oriza.seinendan.org

 平田オリザ騒動についての雑感。

 

 ある有名人が人の癇にさわるようなことを言う。わたし自身としてもその発言を見聞して不愉快な気持ちになり、身内との会話でその話題を出して文句を言ったり愚痴ったりすることもあれば、SNSにネガティブな意見を書き込むこともある。

 とはいえ、その人物を批判して糾弾することがネット上の潮流となっていることを知れば、自分からわざわざその人物を批判することはほとんどない。すでに他人が言ったり書いたりしていることを再生産することは意味のないことであるからだ。他の人たちが書いている意見がわたしのものとは異なっていて、自分の抱いている意見や感情がまだ誰にも代弁されていないな、と思ったら自分から表現する場合もあるけれど。

 しかし、ある人がネット上で「パブリックエネミー」と扱われはじめて、その人に対する批判意見なら何を言ってもいいという段階になってしまうと、批判されている人のことが気の毒になってその人に対するネガティブな感情はだいぶ消滅してしまう。そして、叩いている側の嫌らしさや思慮のなさや無神経さや意地悪さなどばかりが目に付いてしまい、そちらの方が醜悪に感じられるようになる。

 

 ↑ これだけ書くとよくある「正義の暴走」批判になってしまうが、実際のところ、ネット上における「パブリックエネミーと認定された人を叩く」行為の多くは正義感や義憤とは無縁のところにあるように思える。それよりも、みんなにウケる意見を言いたいという承認欲求が動機となっていることの方が多いようだ。

 そして、"叩き"が集団化してエスカレートした場合には、表面上の正当性もとりつくろわずに「自分たちが謝罪して訂正しろと要求しているのだから、自分たちの要求は聞き入れられるべきである」と厚顔無恥に主張する幼児的な"つけ上がり"が発生するようになっていく。

 

 たとえば、"叩く"こと自体がTwitterはてブにおける大喜利のタネとなり、FavやRTやスターを稼ぐために「みんながこの人物に対して抱いている負の感情をキャッチーに表現する文章を考えよう」とか「他の人がまだやっていない叩き方をしなければならない」とかの、創意工夫や技巧へのコミットメントが生じるようになる。

 例を挙げると、この記事を書き始める直前に、わたしのTLには「平田オリザWikipediaを読んだんだけど〜」と前置きしたうえで、彼が若い頃に世界旅行をしているのに世間知らずであることについて揶揄的に疑問を呈するツイートが流れてきた。…しかし、もしそのツイート主が平田オリザ叩くために彼に関するWikipedia記事をわざわざ読んだのであれば、わたしはその行為におぞましさを感じる*1。ただ単に人に対してネガティブな感情を抱いたからそれを表現した、という自然な行為ではなく、相手について批判できるポイントを自分から手間をかけて能動的に探しにいっているからだ。そのような行為は健全ではない*2

 また、自分が抱いたネガティブな感情を直接的に表現するよりも、自分という主体を感じさせない客観的で論理的なテイの批判的意見の方がウケるものである。たとえば「演劇業界はこの問題について総括すべきだ」とか「誰か身の回りの人が注意するべきだ」などと、第三者を持ち出してそちらに批判の責任を転嫁させる意見はウケるようだ。「しばらく黙っておくのが最善だ」とか「例え話は持ち出さない方がいい」とかの"戦略指南"風の意見もウケる。そして、「コミュニケーションの専門家なのにコミュニケーション能力がない」と、"能力の欠如"を指摘する形の批判もウケるのである。この騒動では、当初は「平田オリザの発言が製造業に対する蔑視や悪意を示している」ということが問題になっていたはずだ。しかし、製造業に対する蔑視や悪意を取り上げてそのことに対する不快感を表明するよりも、平田オリザとその周りの人々の戦略や能力に関する問題を"指摘"して"指南"する方が、賢くて気が利くように見える。だから、みんながこぞって指摘や指南を行うようになるのだ*3

 そして、いちど批判がヒートアップしてしまい、渦中の人物の欠点や失言をあげつらう機会や揚げ足取りをする機会を手くずねひいて待ち望んでいる人たちばかりとなると、当人が何かを言ったり発信したりするたびにマイナス効果が発生する負のループができあがってしまう。…そのような状況になったら、「みんなが事態を忘れてほとぼりが冷めるまで黙っておくこと」が、たしかに"戦略"としては最善であるのだろう。だが、ある人の発言や表現の機会が「揚げ足取りをする機会を手くずねひいて待ち望んでいる人たち」のせいで失われてしまうということは、かなり悲しくて理不尽な事象であることは間違いがない。

 …ネットをやっていて時おりギョッとなるのは、漫画や映画などのフィクションにおける雑魚キャラクターがやるような行為を嬉々として行う人が大勢いることだ。「パブリックエネミーとなっている対象を叩く」という行為は自分の品位を下げるだけであるし、そんなことを行う人間に対して好感を抱く人はそうそう多くないはずである。叩かれている人と叩いている人とでは後者の方がみっともなくて無益な人間であるはずなのに、後者のために前者の名誉が毀損されたり自由が奪われたりする。そんな事態は間違っているとしか言いようがない。

 

 

fujipon.hatenablog.com

↑ fujipon氏が書いた上記の記事に関しても、記事の内容自体は丁寧で温かいものではあったのだが、「〇〇のことは嫌いでも〇〇を嫌いにならないでください」という定型句に内在する「媚び」や「卑屈さ」がこのテの事態の問題点をあらわしているように思える*4。もしも「平田オリザの発言のせいで演劇に対するイメージが悪くなり、舞台演劇や役者たちまでもが嫌いになった」という人が実在するとしても、まず責められるべきは、そんなことを言う人間の短絡さや思考能力の無さである。そのような人間を甘やかすべきではないのだ。

 そもそも、"叩かれている側"にいる人やその関係者などが"叩いている側"に対して下手に出て事情を説明してご理解を乞う、という状況自体が生じるべきではない。…実際的な問題としてそうせざるを得ない場合があるとしても、それが悲劇であることを忘れてはいけない*5

 

 ネット民…特にTwitter民やはてブ民などには、自分たちの気に食わない発言や文章への批判を開始したら、相手側がその批判を受け入れて発言の謝罪や文章の訂正などを行うまで(あるいは別の批判対象を見つけてそちらを批判することに以降してそれ以前の批判対象のことを忘れてしまうまで)批判の手を止めない傾向がある。最初は個人の意見として「"自分は"この件に関するこの点を問題だと思っており不愉快だ」と批判を発していた人たちであっても、みんなが同じ対象を批判しているうちに集団と自分とを混合して主体性を無くしていって、そのうちに「"俺たち"がこう言っているんだから相手は謝罪や訂正をするべきだ、しないのはおかしい」とエスカレートしていくのだ。

 そして「自分たちの要求は聞き入れられるべきである」というつけ上がりが生じて、その要求が実現されないとなるとさらに激しく相手を叩くようになる。他人も世界も自分たちの思い通りになるべきであり、思い通りにならないことがあるとすれば自分ではなく相手が悪いとする、幼児性の発露でしかない。…特にTwitterの登場以降はこの光景も見慣れたものとなってしまい、ついつい他人事として「またやっているな」「いつもの風景だな」とぼんやり見逃してしまいがちであるが、冷静に考えるとかなり異常な事態であるのだ。良心のある人間ならこのような集団的幼児性に加わってしまうことは避けるべきだし、できればそれを諌める側にまわるべきだろう。

 

*1:公開の数時間後にブクマを見て追記:よく考えたら、当のツイート主はたまたま興味を持った話題に関するwikipedia記事を見にいって、その記事を読んで思ったことを悪意なく表現した、という可能性はたしかにあるかもしれない。

*2:

news.yahoo.co.jp

 Webライターの石動竜仁氏による、上記の記事にも同様のおぞましさを感じる。かなりの手間をかけて平田オリザの「問題点」を洗い出してまとめた記事ではあるのだが、それでこの記事が何をもたらすかというと、平田オリザに対するネット民の負の感情や俗情を煽るだけの効果しかないのだ。記事の後半における、「コミュニケーション専門家でもあるのにそこに考えが至らないのはどういうことでしょうか。」「平田氏は他者に対する寛容を求めていますが、平田氏にもこれまで自身が蔑ろにしてきた人々に対する寛容が必要ではないでしょうか。」などの皮肉も嫌らしい。このようなおぞましさや嫌らしさはネット以前の時代からジャーナリズム全般に付きまとうものではあるが、ジャーナリストたちも読者たちも感覚が麻痺しているのだ。

 また、この騒動に関するいくつかのTogetterまとめにも、それをまとめるという行為自体やタイトルの付け方などにジャーナリズム的な醜悪さがあらわれている。

togetter.com

*3:このような事象の嫌らしさについては、こちらの記事でも考察したことがある。

davitrice.hatenadiary.jp

*4:どうでもいいけど、法哲学者の井上達夫による本『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください』のタイトルは、自分以外のリベラリストを貶すことで「我こそが真のリベラリストだ」とパフォーマンス的にアピールする効果がある。こういう本のタイトルの付け方は不誠実で嫌らしい。そして、実際にコロッと感化されて「他のリベラリスト憲法学者はご都合主義的で偽善的だが、井上達夫だけは真のリベラリストだ」と主張する人がうじゃうじゃといる。わたしはこういう現象がかなり気持ち悪くて苦手だ。

 

 

*5:また、「業界の連帯責任」的な発想を認めてしまうと責任の範囲が無限に拡大してしまい、いくら訂正や謝罪を行なっても別の誰かの発言を引っ張り出されて延々と責められる羽目に陥る、というオチになってしまうだろう。

davitrice.hatenadiary.jp