道徳的動物日記

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読書メモ:『猫の世界史』

 

猫の世界史

猫の世界史

 

 

 

『猫の世界史』という邦題ではあるが、内容的にはどちらかというと『猫の文化史』である。猫の自然史に関する側面や猫と産業や経済の関係性についての記述はあまりなく、世界各国において人々は猫をどのように扱ってどのような存在だと見なしてきたか、民話や絵画や文学作品のなかで猫はどのように表象されてきたか、どのようなイメージが猫に仮託されてきたか、ということに関する議論が主となっている。『砂糖の世界史』『鱈―世界を変えた魚の歴史』のような、単品のテーマを通じて各国の産業構造とか各国関係の歴史的な変化までをも描き出すようなエキサイティングな本にはなっておらず、「猫」に関する断片的なエピソードを網羅的に羅列した感じの本だ。

 事実としてそもそは猫は人類史において大した活躍をしてきておらず経済や政治への影響も与えてこなかったら、「人間は猫をこのように扱ってきて猫についてこんなふうに考えてきて猫のことをこんな風に描いてきました」という話に終始せざるを得なかったのだろう。わたしとしてはもっと一本筋が通っていてテーマ性の明確な本が好みであるのだが、まあこれは仕方がない。

 

 可愛らしい生き物である猫を題材にした本ではあるが、その歴史となると、「虐待」についても扱わざるを得ない。『暴力の人類史』などでも猫への虐待に関する描写があったが、この本でも、最近に至るまでほとんどの国々では猫への虐待は社会的に問題と見なされておらず、昔から猫を愛して家族のように接してきた人たちがいた一方で遊び半分で虐待されて殺害されてきた猫たちが大勢いたことがさらりと書かれている。

 そもそも人間の歴史とは暴力や殺戮や虐待にまみれたものであり、どんな題材であっても歴史の本を読んでいるといまでは想像もつかないような残酷な価値観であったり非人道的な社会構造が存在していたことが知らされるものではあるが、暴力の対象が猫となるとさすがにキツいものがある。猫の方が人間より可愛くて罪のない存在であるから、というだけでなく、猫が虐待されたり殺害されたりする事件は現代日本でもいまだに頻繁に起こっているから、というところが大きい。

 この本を読んでいると、最近にいたるまで、猫に関する知識人の言説やメディア表象や民間伝承などの多くが猫を蔑んで過小評価して不当に悪いイメージを与えるものであったことが伝わってくる(もちろん、猫の良い面を強調したり過剰評価的に肯定するような言説もマイノリティとして存在してきてはいたのだが)。そして、そのような言説や表象によって伝播された悪印象が、猫に対する暴力を肯定してきたことは疑いもない。

 現代は多くの人が猫を愛する時代であり、インターネットでも愛くるしい猫や面白おかしい猫の話題が毎日のように取り上げられている。一部の猫嫌いはその風潮を苦々しく思っており、「自分は猫が嫌いだ」と表明するに飽き足らず「猫なんてみんな死ねばいい」「猫をいじめたい」という主張までをも書き込んでいる。……しかし、ヘイトスピーチと現実の物理的な暴力との垣根は想像以上に低いものであるし、面白半分であったり"多数派の風潮に対するマイノリティからのカウンター"というつもりで書き込んでいるヘイトスピーチが実際に猫への暴力を誘発している側面はあるだろう。Twitterでもはてなでも「猫嫌い」を公言する人をたまに見かけるが、そもそも、血が通って情感があり自分よりもずっと無力な生命に対する嫌悪の感情を堂々と表明すること自体、良識のある大人がやっていいことではないのだ(「犬嫌い」も「赤ちゃん嫌い」も、思っていてもわざわざ表明するべきことではない)。

 

 この本で引用されている猫に対するヘイトスピーチとしては、たとえばフランスの博物学者ビュフォンがひどいと思った。

 

猫がペットとして認知されたのは良いが、それによって犬と比較されるようになったのは、猫として不幸なことだった。犬愛好家にとって、猫は我慢ならないものだったのだ。フランスの博物学者ビュフォン[一七〇八年〜八十八年]は、猫を飼って楽しむなど愚かなことだとし、『博物誌』の犬と猫の項目は、片や手放しの賛辞、片や誹謗中傷となっている。犬はあらゆる点で優秀であり、人間の尊厳を集めるものだとした。犬は主人を喜ばせることを第一に考えており、常に指示を待ち、悪い扱いを受けてもじっと耐え、すぐに忘れる。さらには、主人の好みや習慣にも順応しようと努力をすることが書かれている。これらのことが、あらゆる動物の優秀さを測る基準ならば、明らかに猫には分が悪い。猫については「不誠実な家畜」として、ネズミのほうがより不快な存在であるため、仕方なく飼うものだという。「子猫も、表面的には可愛く見えるが、性悪はやはり隠せず、成長とともにさらに悪化する。しつけも効果はない。そのひねくれた根性を隠すようになるだけで、改善されることはなく、せいぜい強盗がこそ泥になって、人目につかないようことを運ぶようになる程度である」「飼い主に愛着や友好を示すようなことがあってもそれは表面的なことで、性格の悪さは、その行動の裏にあり、表へすぐ現れる。どんなに世話になっても、その人の顔をまっすぐ見ることはない。人を信用していないためか、心にやましいことがあるためか、愛撫を求めるときも斜めから近づいてくる」……(中略)……要するにビュフォンの憎悪の矛先は猫の気ままな振舞いに向かっており、飼われる動物であれば従順な家畜として、自身の欲望は抑えるべきであり、娯楽のための狩りをする特権は人間のみにあると言いたいのだろう。しかし、その見方はあまりに偏向していると言うほかなく、高名な動物学者としての冷静な観察を忘れてしまっている。猫の視線について糾弾している部分など特にそうで、猫はむしろ、人の顔をじっと見つめるのが大きな特徴のはずだ。

 (p.99-101)

 

 ……と、ネガティブなことばかり取り上げてしまったが、猫に関するポジティブなイメージについての話題や、人間に愛されて暖かく迎え入られて厚遇された猫たちに関するエピソードも豊富だ。現代に近づくについれて、猫をありのままに肯定する価値観が発展してきたことも書かれている。

 

ヴィクトリア朝的な愛らしいだけの猫も、物語やイラストの中ではまだ根強い人気があり、また、なぜあんな自分勝手な動物に振り回されなければならないのか理解できないという愛犬家がまだ多いのも事実だ。しかし、どちらの猫観も、もう時代遅れと言える。動物にしても何にしても、一緒に住んでいるものを当然のごとく服従させたいと思う人など、今やあまりいないのではないだろうか。むしろ、猫が言うことを聞かないことを面白がって受け入れたほうが、自分は公平な人間だという満足感を無理なく得ることができるはずだ。相手の立場を認めることは、支配権争いに負けることではなく、寛大の証だ。実際、猫には猫なりの事情があることを受け入れられる人は、自己の器量の大きさを誇りにしているはずである。「猫は冷淡で自分勝手」と言えば、かつては非難になったが、今ではその魅力を表す褒め言葉だ。それと同時に、動物は全面的献身を与えてくれるものではないという現実を、私たちが率直に受け入れた証である。

(p.169)

 

 また、第4章「女性は猫、あるいは猫は女性」では、猫へのイメージと女性へのイメージの重なりについて論じられている。著者自身が女性であることもあって、他の章よりも著者の「主張」が前面に出ている感じが面白い。

 

世の男性たちが長く女性に対して苦々しく思っていたことを表現するのに、命令に従わない、冷淡な猫は実に便利なものだった。女性を思い通りにできない男性は、思い通りにならない動物に対しても苛立ちを覚えた。女性に人間の限界を超えるほどの全面的な献身を求める男性は、女性と同じ冷たさと隠れた悪意が猫の中にもあると考えたのだ。このように猫とを女性を同一視することは、性役割を単純化し、それを事実かどうかもきちんと考えることもなく、ステレオタイプ化して取り入れることでもあった。こうして、この女はどうしても自分の言うことを聞こうとしない、家に引っ込んで無精なやつだ、まるで猫のようだという単純な比喩による攻撃が可能になった。

これまで見てきたように、猫は女性の性的魅力を強調することも、慎み深さを象徴することも、またその好色や冷淡、敵意を表すこともあった。どれも猫が本来持っている性質に基づいたものであり、猫には何の罪もないが、そういったイメージを投影された女性のほうは不道徳だと非難されたのだ。逆に、人間社会で不道徳と考えられることが、猫の性質の中に見出されることもあった。どちらにしても、男性は比喩を用いて、女性を劣った性として、猫を劣った家畜として貶めてきたのである。

(p.161~162)