道徳的動物日記

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読書メモ:『アメリカを動かす「ホワイト・ワーキング・クラス」という人々』②

 

 

 

●ワーキング・クラスの人種差別

 

カナーシーのワーキング・クラス出身だが教養のある主婦は言う。「実際には階級の問題なんです。相手がいい人であれば肌の色なんて気にしません。学校の行事で一緒に仕事をしている黒人のご両親はみな、洗練されたすばらしい人たちです。私たちと変わりありません」。カナーシーの住民が腹にすえかねるのは、「貧民街」に暮らす黒人たちだ。「あの人たちが興味を持つのは、派手な車と酒と女だけ。家族のためにがんばろうともしない」。 社会学者のジョナサン・リーダーはこう述べている。「人種差別的に見える判断の奥には、相容れない階級文化という避けられない現実がある」。それも一理あるが、階級の問題だけではない。生活難を安易にアフリカ系アメリカ人に結びつけすぎている。これも一種の人種差別である。

(p.107-108)

 

 勤勉さを尊ぶ労働倫理が人種差別に結び付いているところがポイントだ。なお、エリートはエリートで、「アフリカ系は能力が低いだろう」という予断を抱いてしまっていることも本書では指摘されている。前回の記事で紹介したのと同じように、エリートは「能力」を、保守派は「勤勉さ」を重視するという価値観の違いが差別の場面でもあらわれるのだ。

 

●メディアの問題

 

ホックシールドは言う。「私が話を聞いた人はほぼ全員、自分たちの経済的基盤が揺らいでいると感じていた。(中略)また、社会的に無視されているという意識もあった」。彼らは、その伝統主義的な考え方を全国メディアで嘲笑されて、見くびられ、責めたてられているように感じた。ヒラリー・クリントンは選挙期間中、彼らを「嘆かわしい人々」と読んだが、それでは彼らの支持は取り戻せない。

(p.118)

 

 わたしはアメリカの全国テレビは見ていないが、Netflixを見ているだけでも、知的でリベラルな映画やドラマやドキュメンタリーがワーキング・クラスを無視したりコケにしたりしていることはよく伝わってくる。労働者を主人公にしたり田舎での人間ドラマに焦点を当てたものもたまにあるとはいえ、大概の作品はニューヨークかカリフォルニアが舞台であるか、田舎が舞台であるがその田舎のことを「否定すべき/脱出すべき場所」として描いている。そのくせ人種的な多様性や性的な多様性は賛美するので、こういうメディアに対する反動としてワーキング・クラスがさらに保守化したり差別的になっていったりするのも宜なるかなというところだ。トランプ誕生から4年が経ち、このテの指摘はアメリカ国内でも出まくっているだろうが、(おそらくブランディングや商売戦略を優先して)「Netflix的価値観」はまったく変わる様子がないところもどうかしている。

 

●「権利」概念の危うさ

 

一般的に言って「人権」という言葉が出てくると、「ほどほどの余裕を持つ」こと自体が難しくなる。中絶問題(賛成、反対を問わず)や、性的少数者の権利、人権、宗教、ジェンダーなど、現代のアメリカに存在する多くの論点にこうした傾向があてはまる。 これらすべてを人権問題という枠でくくることは、いろいろな意味で便利だが、同時に危険でもある。なぜなら「人権」とはもともと、ジェノサイドや人道に対する罪はいかなる場合でも許されないということを知らしめるために発明された概念であり、本質的に妥協は許されず、何をさしおいても優先されなければならないものだからだ。

(p.194)

 

 権利という概念の硬直性や非妥協性は倫理学では功利主義の立場からも批判されているが、政治問題でも実害を及している感じはたしかにする。「権利」という言葉は絶対的なイメージが強すぎて、利害を調整してバランスをとるという現実的な対処法とは水と油であるのだ。