道徳的動物日記

倫理学、社会科学、時事問題、世相などについて論じます。

読者のことなんて気にしなくても「批評」はできるよ(読書メモ:『はじめての批評:勇気を出して主張するための文章術』)

 

はじめての批評  ──勇気を出して主張するための文章術
 

 

 この本の「はじめに」に書かれている、著者の問題意識は以下のようなものである。

 

…若い人々から、「書きたいけど、書けない」といった悩みを打ち明けられる経験が、ここ最近、少しだけ増えたように感じるのです。「うまく書けない」とか「書きたいテーマが見つからない」とかではなく、「書きたいけど、書けない」という彼らの問題意識をより掘り下げてみると、どうやらそうした悩みの背景には「訴えたいものがあり、それについて書きたいが、書くと反発を受けるのではないか」といった趣旨の、一種の躊躇、大袈裟な表現を使えば恐怖があるようでした。「炎上」などの言葉に象徴されるように、ある主張が特にインターネットを媒介として多くの人々に共有されると同時に猛反発の憂き目に遭い、総叩きを喰らうーーそうした現象は私も知っていましたから、なるほどと感じました。あるいは「炎上」ほど大規模なものでないとしても、書いた文章やつぶやいた言葉がすぐに誰かへと届き、間髪置かずにレスポンスが生まれる現状は、決して楽しいばかりの空間ではないという自覚が、彼らにはあるのかもしれません。

(p.12-13)

 

そして、著者が「批評」というものについてどういう風に考えているかは、以下の箇所で示されている。

 

本書の狙いは、要するにそうした価値を、めんどうくさがらず、丁寧に発見し、思考し、言葉に置き換えることをしてみようと呼びかける点にあります。その一連のプロセスを広い意味での「批評」であると考え、かつ「批評」の原点であると本書は位置づけています。

(p.21)

 

辞書などを紐解くと、「批評」という言葉は「物事の価値を判断すること」というように説明されています。やたら硬いイメージを持つ言葉ではありますが、本書の「価値を伝える文章」はまさしく対象の価値を判断する作業からスタートするわけですし、「批評」だって他者に伝えることを前提としているはずですから、意味の上では相違がなさそうに見えます。「レビュー(評価)とクリティシズム(批評)は違う」とする意見もあるかもしれませんが、前項で述べたように、価値を発見し、言語に置き換える過程を本書では「批評」の原点としていますから、両者は相互に包摂されていると考えています。「価値を伝える文章」には、当然ですが書き手の意志も反映されます。単に事物や事象の一次情報だけを拾ってその価値のみを言語化するのではなく、文章の読み手に対して行動を促したり、対象を含む社会全体への気付きをもたらしたり、あるいは新たな思考の萌芽を呼び起こしたりすることなども、目的意識に含まれるでしょう。

(p.22-23)

 

 上記の引用箇所では、「批評」とは「対象の価値を発見すること」に留まらず「その価値を他者に伝えること」である、と定義されている。そして、著者は前者よりも後者の方がむしろ重要であると思っているようだ。

 副題に「文章術」と書いてあるだけあって、この本の内容は「価値の伝え方」に終始している。つまり、他人に伝わりやすくて他人に強い印象を与えることができて他人を説得しやすいような文章を書くためにはどうすればいいか、というレトリックの解説ばっかりなのである。いわゆる「文章読本」というたぐいの本であるとも言えるだろう。理想的な文章の例として夏目漱石とか太宰治とかの文豪の文章ばかりが引用されているところ、そして肝心の"批評家"の文章はほとんど引用されていないところも、実に文章読本的だといえる。

 

 若者たち(と、もはや若者と言うこともできないわたしの同世代の連中たち)が炎上や軋轢を恐れて、せっかくインターネットでSNSをやっていたりブログをやっていたりするのに自分の考えていることや言いたいことを思うように発信できず、無難な意見かネットの趨勢に沿った意見かしか発信しない状態に甘んじているという場面は、よく見かける。

 ネットの世界に限らず、リアルにおいても「自己表現をすることは恥ずかしいことである」「他人と違う意見を言ったり他人に対して反論や批判をしたりすることは、他人を傷付ける可能性のある攻撃的なことだからやってはいけない」という風な考え方を抱いてきたがために自分の意見を表明する経験を積み重ねておらず、意見表明のやり方を知らないままだったりヘタクソだったりしたまま大人になった、という人はよくいる。よく言われるように個性抑圧的で同調圧力的な日本式の学校教育が原因となっていることはたしかだろうし、そのほかにもメディアの影響とか国民性とかがあったりするのかもしれない。

 

 他の人とは違った物の見方ができていて価値のある意見を持っている人は放っておいてもどこかで何らかの形で自分の意見を表明するだろうし、逆に、他人との軋轢や炎上のリスクがこわいという程度のことで口をつぐむような人はどのみち大した意見も持っていないだろうからそのまま黙っていていいよ、という気はしないでもない。意見を発信するための"勇気"なんて本を一冊読むことで他人から与えてもらえるようなものじゃなくて、思考や経験を積み重ねたうえで自力で獲得すべきものだろう、という気もする。

 それを言ったら元も子もなくなるから黙っておくとしても……他人からの反発がこわくて文章を書くことに尻込みしている若者たちに伝えるべきは、「他人から反発を受けないような文章の書き方」ではなくて、「他人のことなんて気にせずに自分の思っていることを素直に書け」という心構えであるだろう。

 

 実際、近頃のインターネットでは、他人からの反発を受けずより多くの人からの賛同を得られるようなレトリックを凝らした文章が目立つようになっている。たとえば、Twitterに投稿される映画感想が同調圧力に逆らわない範囲でのウケ狙いに終始している、という問題については以前に指摘した。Twitterよりもさらに匿名性が高くて本来は"自由"な意見発信が保証されているはずの5ちゃんねるやはてな匿名ダイアリーでも、それぞれのプラットフォームにおける内輪ノリ的な作法と文体が確立しており、それに従わない文章が投稿されると見向きもされなかったり不当に叩かれてしまったりする傾向がある。ブログを書いている人たちのなかにもブクマを稼いだりアフィリエエイトで稼いだりするために読者に好感度を抱いてもらうことに余念のない人はよく見かけるが、アフィリエイトがない代わりに記事単位で販売することが可能であるnoteでは好感度稼ぎがさらに加速して、丁寧で読みやすく読者に不快感を抱かせないことに腐心した記事がさらに目立つようになっている。

 しかし、既存メディアに対するインターネットの優位である「集合知」や「多様性」は、みんなが他人の目を気にして同調圧力に屈すると機能しなくなってしまう。誰にウケなくとも、みんなとは正反対の意見を持っていたり根拠がなかったりしても「私ならこう考える」「俺はこう思うんだぜ」と書き続ける人がいないと、インターネットの価値はなくなってしまう。

 ……そして、実のところ、そういう人は現在でも多数存在し続けている。みんなのシネマレビューFilmakersなどの映画レビューサイトでは時流や風潮など気にせずに思ったことを素朴に書く人がいまでもいてほっとするし、ブログやTwitterでもマイペースを貫いて好き勝手書いている人は沢山いる。こういう人たちこそが地の塩だ。(なので、わたしはインターネットの未来をさほど悲観しているわけではない。先ほども書いた通り、価値のある意見を持っている人はネットの風潮がどうであろうと気にせずにどこかに意見を書くものであるからだ)。

 

 閑話休題して、『はじめての批評』についての話に戻ると……著者の本業は編集者であるらしいが、批評についての本であると銘打っておきながら、「対象の価値を発見する方法」についてはほとんど議論せずに「その価値を他者に伝える方法」に終始するところは、悪い意味で編集者的な価値観であるなと思った。

 「価値を発見すること」は批評の本質である一方で、「価値を伝えること」は副次的なものである。「伝え方」やレトリックが大切でないとは言わないが、批評においてのそれは対象の価値が発見できてこそだ。対象の価値について客観的に見定めたり自分なりの意見を持ったりできるようになることが批評をするうえでは欠かせないのであり、それを差し置いて「伝え方」の技術ばっかり磨いたところで、中身のない空虚なものとなってしまう。

 

 

 従来の「文章読本」とは、プロの文筆家によって同業者や同じくプロになりたいと願っているワナビー向けに書かれたものであり、その内容も「プロのような文章を書くためにはどうすればいいか」ということに主眼が置かれている。そして、編集者がその職業生活を通じて培う文章技術も、作家のそれと多少異なるものであるとはいえども「プロ」のものであることには変わりない。

「プロ」の文章ということは、要するに商品として市場に流通させることを目的とした文章であるということだ。だから、客である読者の存在を常に念頭に置かなければいけない。広く流通させるために内容はある程度は一般的なものにしなければならないし、余計な粗や棘を残さないように洗練させなければいけない。文章のリズムを整えるとか語り口を意識するとか助詞の使い方に気を付けるとか語彙を増やすとかの工夫をしなければいけないのは、そうしなければ読者のことを無視したものになってしまって、商品として不適当になるからである。

 そのような文章が悪いとは言わないが、問題なのは、「商品として適当な文章」と「良い文章」、そして「良い文章」と「良い批評」とを同一視してしまうことだ。

 

 特に日本では、いまも昔も、有名で尊敬されている「批評家」の大半は「レトリックの巧みな人」である。批評の中身が妥当であるかどうか、その批評が価値を正しく発見しているかどうかよりも、「いかに価値の伝え方が巧み(で独特)であるか」ということばかりが注目されるのだ。……出版界で活躍する批評家が商品としての文章を書く技術を洗練させることは当たり前であるかもしれない。問題なのは、ネットのブログだったり同人誌だったりに批評を書く人たちまでもが、出版界で活躍している「批評家」に憧れてそれを模倣しようとしてしまうことである。

 批評というものは"ああいう風"にするべきである、というのはあくまで出版界という局地的な世界におけるルールだ。本来なら、同人誌やブログで書く我々がそのルールに従わなければいけない、と決まっているわけではないのである。

 文章をダイレクトに「商品」と販売できるプラットフォームであるnoteに書かれる記事は、読者の顔を伺いながら粗や棘をなくして読みやすい文章にする傾向が高く、出版におけるレトリックのルールがそのまま持ち込まれている感じが特に強い。……しかし、noteに書かれる記事って大概のブログよりもさらにつまらないものが多い。というか、商品と整えられて流通している本だって、中身があったり面白いものであったりするとは限らない。売るための文章を書くためのルールは、価値のある文章を書くためのルールとはまた別物なのである。

 

 最後に、「批評」について話を戻そう。以前にも書いたように、たとえばネットの映画批評に関して言うと、映画メディアの署名記事やnoteやSNSよりも、みんなのシネマレビューや5ちゃんねるのような匿名性が高くて属人性の低い場所の方が活き活きとした「批評」が見られることは間違いない。そこに書き込んでいる人の大半は他人への伝え方なんてことに気を配らずに、思ったことや考えたことを直球に表現しているからだ。……これらのサイトで長文が投稿されることは少ないから、作品に踏み込んだ深い批評が見られないという問題はある。そのような深い批評に関しても、やはりメディア記事やnoteよりかは金銭的欲求や功名心の感じられない個人ブログなどの方が、より質の良い批評が揃っているように思える。これはインターネットの民主主義性がきれいにあらわれた事象であるとも言えるだろう。やっぱり、読者のことや他人のことなんて気にかければ気にかけるほど、批評は堕落していくのだ。