道徳的動物日記

倫理学、社会科学、時事問題、世相などについて論じます。

労働から逃避したところで幸せになれるの?(読書メモ:『隠された奴隷制』)

 

隠された奴隷制 (集英社新書)

隠された奴隷制 (集英社新書)

 

 

 本のタイトルはマルクスの『資本論』に出てくるキーワードであり、この本の内容もマルクス主義的なものだ。

 第一章〜第三章では、ロックやモンテスキューからはじまってアダム・スミスヴォルテールヘーゲルなどの哲学者たちが「奴隷制(黒人奴隷制)」についてどんなことを言っていたか、というあらましが紹介される。そして、第四章では、マルクスの書いた「隠された奴隷制」とは何を意味していたのか、という詳細が明らかにされる。

 第五章や第六章では現代社会の労働や資本主義について話が移る。この本の結論としては、一見すると自由で自発的に生きている現代の賃労働者たちが働く環境も、けっきょくは「隠された奴隷制」であるに過ぎない、というものだ。

 個人的な感想としては、第四章までには思想史的な面白さがあった一方で、第五章以降はお決まりの新自由主義批判やアナキズム賛歌という感じで面白みがなかった。マルクス主義なら現代の労働環境についてはそりゃこういうこと言うだろうな、としか思わないし、終章の章題「私たちには自らを解放する絶対的な権利がある」も、そう言われてもそれができないんだから苦労しているんだよ、という感じである。

 

 前半の章を読んでいて特に印象に残るのは、過去の哲学者たちが黒人奴隷に対していかにひどいことを言っていたか、ということだ。特にモンテスキューの言っていることがひどい。一方でアダム・スミスヴォルテールなんかは黒人奴隷に対して同情的であったり黒人を讃えていたりして、さすがと言う感じだ(讃えることに対しても「高貴な野蛮人」的な幻想だ、と批判することはできるが、当時の時代的制約を考えるとそこまで言うのは完璧主義的過ぎて酷だろう)。

 また、アダム・スミス奴隷制は非人道的であるだけでなく非合理的で非経済的であるとも論じている。スミスの議論のなかでも特にわたしの印象に残ったのは、以下の箇所だ。

 

財産を取得できない人は、できるだけ多く食い、できるだけ少なく労働すること以外に、利害関心をもちえない。奴隷自身の生活資料を購買するのに足りるだけの量以上の仕事は、暴力によって彼からしぼりとることしかできないのであって、彼自身の利害関心によってではない。

(p.64)

 

 奴隷制を批判する一方でスミスは「自由」な労働者たちによる労働を讃えるわけだが、その自由であるはずの賃金労働者たちはけっきょく色々と搾取されていて不自由である、というのがヘーゲルマルクスの批判だ。たとえば、ヘーゲルは、労働者たちが「広範な自由の感得と享受が不可能になること、そしてことに、市民社会の精神的長所の感得と享受が不可能になること」(p.98-99)を指摘している。そして、マルクスは、賃金労働者もかたちを変えた奴隷でしかないことを示す。

 

社会的立場から見れば、労働者階級は、直接的労働過程の外でも、生命のない労働用具と同じに資本の付属物である。労働者階級の個人的消費でさえも、ある限界のなかでは、ただ資本の再生産過程の一契機でしかない。しかし、この過程は、このような自己意識のある生産用具が逃げてしまわないようにするために、彼らの生産物を絶えず一方の極の彼らから反対極の資本へと遠ざける。個人的消費は、一方では彼ら自身の維持と再生産が行われるようにし、他方では、生活手段をなくしてしまうことによって、彼らが絶えずくり返し労働市場に現れるようにする。ローマの奴隷は鎖によって、賃金労働者は見えない糸によって、その所有者につながれている。賃金労働者の独立という外観は、個々の雇い主が絶えず替わることによって、また契約という擬制によって、維持されるのである。

(p.141)

 

 五章における「自己責任論」批判や「新自由主義」批判については、特筆すべきものはない。その批判が間違っている間違っていない以前に、「その話はもう百万回くらい聞かされたよ」といううんざり感が先だつ。

 六章では経済史学者のケネス・ポメランツのあとに、アナーキズム系の人類学者であるジェームズ・スコットやデビッド・グレーバーの主張が紹介される。そして、ここでアナーキズムや人類学という言ってしまえば胡散臭い主張にはしってしまうことで、四章までは淡々と思想史を整理していたこの本は途端に現実味をなくして夢物語のような主張を行うようになってしまう。たとえば、以下のような箇所だ。

 

今一度、スコットが挙げる「底流政治」の具体例を書き写してみよう。それは、「だらだら仕事、密漁、こそ泥、空とぼけ、サボり、逃避、常習欠勤、不法占拠、逃散といった行為」だった。それにハートとネグリの「脱出」の具体例を重ねてみる。「妨害行為や共同作業からの離脱、さまざまな対抗文化の実践、全般化された不服従」。

私たちに密漁や不法占拠をする機会があるかどうかわからないが、だらだら仕事、空とぼけ、サボり、常習欠勤、不服従、といった行為なら、今すぐにでもできそうな気がする。これが現在もっとも手近で現実的な資本主義からの「脱出」の方法であり、ハートとネグリに言わせれば、労働者による「階級闘争」の一形態なのである。

(p.221)

 

 終章の末尾にはこんなことが書かれている。

 

しかし、一日の労働時間を短縮すること、これはユートピアではない。自分たちが暮らしていくために必要な時間を超えて長い時間働くことをやめる。やめさせる。一日の労働時間をたとえ一時間でも短縮するために、そして自分の「自由な時間」を少しでも長く確保するために、自分にできることをする。それが、私たちが奴隷でなくなるための第一歩なのである。

(p.251)

 

 言っていることは、一概に間違っているとは言えない。また、長時間労働によって過労死する人が続出する日本社会の労働環境の問題を、著者が真剣に憂慮していることは伝わってくる。要するに「自己責任論は資本家にとって都合のいいイデオロギーであり、労働者は一見すると自由であっても資本主義のもとでは搾取される奴隷に過ぎない。だから、自己責任論を真に受けず、仕事に責任感をもったりコミットしたりし過ぎないようにして、"いつでも逃げてもいいんだ""労働に縛られる必要はないんだ"と思えるようになろう」というのが、この本のメッセージであるのだろう。

 …しかし、博士課程を出て教授にまでなれた著者にこんなことを言われても、「所詮は一般労働者の現状を他人事だと思っているから好き勝手に言えるんだろう」と思わなくはない。

 

 たとえば、労働を通じた自己実現や仕事へのコミットメントを避けるだけでなく、「労働によって自己実現したり労働へのコミットメントが大事だという考え方は、雇い主の側である資本階級にとって都合のいいイデオロギーだ」というタイプの主張は、マルクス主義アナーキズム人類学を通過しなくとも、現代に生きるちょっと賢くしてちょっとひねくれている若者たちならTwitterで日々つぶやいているようなものである。

 問題なのは、だからと言って労働から逃避したり労働へのコミットメントを避けたところで当人が幸せになるとは限らない、ということだ。過労死するほどの長時間労働をしている人なら、そりゃ労働から逃げたりコミットメントを減らしたりするべきだろう。しかし、日本で長時間労働が慢性化しているとしても、長時間労働をしている人たちのみんながみんな過労死ラインで働いているわけではない。そして、マルクス主義的には「奴隷制」と断定される賃金労働であっても、それにコミットして昇給したり役職を得たりして家族を築いたり自己実現をしたりできる人の方が、労働へのコミットメントを避けて労働から逃げ続けたがために昇給もできずうだつのあがらないまま底辺を這いつづける人よりも幸せになる……というのは、充分あり得る話である。

 アダム・スミスが過去の黒人奴隷について書いたような「できるだけ多く食い、できるだけ少なく労働すること以外に、利害関心をもちえない」という働き方をしている人は、現代のわたしの周りにもちらほらといる。スコットが挙げるような「だらだら仕事」や「サボり」だって、わざわざアナーキストにいわれなくても、現代の大半の労働者が隙あらばやろうとしていることだろう。資本家もバカではないのでだらだら仕事やサボりを監視して懲罰を食らわす仕組みを作り続けるが、一部の賢い労働者はその仕組みの合間を縫って新たなかたちでのサボりを実現する。

 しかし、サボったりダラダラしたりしていても、最低でも8時間は職場に拘束されることに変わりはない(最近ではリモートワークの浸透でそれも変わりつつあるが)。大概の人間には良心があるし、サボったりダラダラしたりしてやり甲斐のない無益な時間を毎日過ごすということは労働そのものの辛さとは別のストレスを発生させるものだ。それよりも、多少は仕事にコミットしてちょっとは残業するくらいの方が、職場の人間関係もよくなったり自分の精神も安定したりして、結果としてそちらの方が幸せになることが多いだろう。サボっていたら社会的立場も上がらないし、大人になってもただ仕事時間中にダラダラすることだけを考えて生きている人間は浅薄で中身のない人間に成り下がる。趣味や副業や投資などの他のかたちで成果を出したり自己実現をしたりできている人であったり、あるいはベーシック・インカムが実現できている社会であったら話は別かもしれないが、そうでない場合はたとえ「奴隷制」であっても労働から逃避することは得策ではない。だいたいの人は後悔する羽目になるし、そうでなくても周りの人からは愛想を尽かされるようなことになるだろう。

 労働や仕事というものには、やりすぎたら幸せになれないがやらなくても幸せになれない、というジレンマが付きまとう。市井で働いている人の多くはそのジレンマを日々体感しながら生きているのだ。そのような人たちにとっては、長時間労働による過労死という極端なケースにばかり注目して労働者たちを憐れみ「自己責任論の虚偽」なんかを諭してくれる経済学教授のセリフも、アナーキスト社会を夢想する人類学者のアジテーションも、何の役にも立たない。こういう議論をありがたく思えるのは、若い学生かその延長線上な人生を生きているアカデミシャンか、いつまでも若者気分なアダルトチャイルドくらいのものである。