道徳的動物日記

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フェミニズムを素直に受け入れ過ぎ(ひとこと感想:『女性のいない民主主義』)

 

女性のいない民主主義 (岩波新書)

女性のいない民主主義 (岩波新書)

 

 

 日本の民主主義における「女性不在」の問題について、参政権や政策、投票行動や立候補などの問題に細かく分別しながら、「ジェンダー論」や「フェミニズム」という分析枠組みを用いて問い直す本だ。古典的でベーシックな政治学の用語や理論に関する説明をしつつ、既存の政治学ジェンダーや女性という問題をいかに無視してきたか、という批判が主となっている。

 著者の主軸というか得意分野はジェンダー論よりも政治学の方にあるらしく、政治学の理論や用語の整理の仕方は実に上手である。また、ジェンダー論やフェミニズムに関しても、論者によって意見が大きく分かれるような内容や突飛な内容にはあまり踏み込まずに、あくまでベーシックでけっこう古典的なタイプのフェミニズム的枠組みを採用している。そのために内容は無難なものとなっており、この本で展開されている主張の大半については「まあそうだな」と納得できるものとなっている。「ジェンダー規範」に関する議論というものは深掘りすればするほどどんどんと反論不可能な陰謀論に堕していって非生産的なものになっていくのだが、この著書では浅い部分の議論にとどめているところが成功の秘訣だ。日本における女性議員の少なさの議論についても、ジェンダー規範の問題に触れつつも結局は「日本の女性議員数が他の先進国よりも低い水準にあることの原因として見逃せないのは、ジェンダー・クオータが導入されてこなかったことにある」(p.200)と制度の問題に着地させているところが穏当で好感が抱ける。

 一方で、たとえばシュンペーターやロバート・ダールなどの大昔の人々の理論について「女性の参政権という問題を無視しているために民主主義の尺度は不当だ」と批判するのは、そりゃそうだけどいまさらそれを言ってどうなるの、という感じである。ほかにも「その問題はもうみんな知っているよ」ということを殊更にあげつらっている箇所が目立つ。女性が政治討論に参加しづらい理由の説明にレベッカ・ソルニットの「マンスプレイニング」概念を用いているところも気にくわない。「既存の政治学理論に対するジェンダー論・フェミニズム的観点からの批判」に紙幅を割くあまり、「日本の政治における女性不在」の問題について分析しているページ数が少なくなってしまっているところも残念だ。

 また、フェミニズムジェンダー論の標準的見解をあまりに素直にそのまま受け入れているので、全体的にリアリティや生々しさが欠ける。「フェミニズムジェンダー論ではこういう風な主張がされているけど、でも、本当にそうか?」という再批判や葛藤をした様子が全く感じられないのだ(特に、「おわりに」にてアニタ・サーキシアンの議論が持ち出されるところはかなり白けてしまう)。そのため、(わたしのように)元々からフェミニズムジェンダー論に対してうがった見方をしている読者を説得することはできないし、かと言ってフェミニズムに好意的な読者からすれば知っていることばかり書かれているということになってしまっている。

 

 著者の「素直さ」については、「おわりに」に書かれている以下の部分が関係しているのかなと思う。

 

誰にとっても、自分とは違う角度から世界を捉える視点に接することは、新鮮な驚きをもたらすに違いない。ジェンダーの視点を導入すると、これまでは見えなかった男女の不平等が浮き彫りになる。今までは民主的に見えていた日本の政治が、あまり民主的に見えなくなる。男性として、極めて標準的な、「主流派」の政治学の伝統の中で育った著者にとって、フェミニズムとの出会いは、そうした驚きの連続であった。

想像もしない角度から自分の世界観を覆されることは、反省を迫られる体験であると同時に、刺激に満ちた体験でもあった。

(……中略)

一度、ジェンダーの視点をあらゆることに適用できることが分かると、世界の見え方が違ってくる。

(……中略)

ジェンダーの視点から眺めることで、世界の見え方がこれほど変わるのならば、そのことを最初から知っておきたかった。

(p.208-209)

 

 著者の生まれは1980年ということでわたしより一回り上だから、もしかしたら世代的な問題かもしれないが、現代の日本で文系の学問に携わっておきながらある時期までフェミニズムジェンダー論に触れることがない、ということがちょっと信じられない。一般教養の科目にもあるだろうし、図書館の本棚にも並んでいるし、文学や映画にも関わってくるし、テレビで取り上げられることはあまりないとしてもネットをすればいやでも見かけるものだろう。ましてや、著者が通った大学は東大だ。

 ……とはいえ、自分が大学院にいた頃を思い返してみると、博士課程まで進学するような学生ほど自分が専攻しているもの以外の学問になんの興味もなかったり、「最短コース」で博士論文を書くようにするために論文に役立たない余計な理論はシャットアウトする、という人はいたような気がする。また、政治学に限らず哲学などでもそうなのだが、「主流派」に浸っていた人がたまたまフェミニズムやポストコロニアリズムとか人種問題とかの観点からの批判に触れてしまいショックを受けて"懺悔"して全面降伏する、というルートをたどっていそうな人はちらほらと見かけるものだ。

 修士課程までは終了したとはいえ何かしらの学問の「主流派」とか「専門性」とかにはけっきょく触れられずじまいだったわたしとしては、アカデミアの大半がこういう人たちで占められているらしいことには未だに不思議さを感じたりする。