道徳的動物日記

倫理学、社会科学、時事問題、世相などについて論じます。

「反ポリコレ」とKKKや反ユダヤ主義は結び付いている…… かもしれない(読書メモ:『白人ナショナリズム:アメリカを揺るがす「文化的反動」』)

 

 

 同じ著者の前著『リバタリアニズム:アメリカを揺るがす自由市場主義』では、表面上では客観的・中立に扱っている風でありながらも政治的イデオロギーとしてのリバタリアニズムに著者が共感を抱いており好意的であることがミエミエな点に「自称中立」のきらいがあったが、この本はかなり充実した内容になっている。政治的理論の一種でもあり比較的"まとも"な主張であるリバタリアニズムと違い、通常は共感や好意を抱くことが困難である「白人ナショナリズム」を扱っているからこそ、否定に寄り過ぎない"中立"な筆致が功を奏しているのだろう。

 この本の前半では、実際に白人ナショナリストの会合に参加したり団体の会員や代表者と交流したりした様子について書かれている。そのため、白人ナショナリストたち同士の間にある微妙な違いとか彼らの主張のなかにあるニュアンスのようなものも伝わるようになっている。ここら辺は、文化人類学ディシプリンを備えた著者の面目躍如といった感じだ。アメリカの政治運動や「ポリティカル・コレクトネス」に関連するカルチャーについて扱った日本語の記事や本には、扱っている対象のコンテクストや勢いに引きづられて、イデオロギーちっくであったりマニフェストじみていたり、そうでなくても用語と問題意識の解説に終始した抽象的なものが多かったりする。この本はそういう風になっておらず、地に足のついた筆致で、白人ナショナリストたちの実態を淡々と明らかにしている。変な言い方になるが、著者が学者として成功した中年男性であり弱者としての属性をほとんど持たないマジョリティであることが、こういう問題を扱うほかの日本人作家にありがちな「繊細さ」や「敏感さ」を抑制して客観的で穏やかな筆致をもたらした、という良い効果をもたらしているように思えるのだ。

 

 白人ナショナリストやトランプ支持者といえば低学歴な貧困層、というイメージも強いところだが、この本は高学歴で"知的な"白人ナショナリストたちの活動が紹介されている*1。たとえば、白人至上主義系の雑誌『アメリカン・ルネサンス』の年次会合に著者が参加してみたところ、「まるで学会のような雰囲気」(p.7)であったそうだ。

 知的であったりアカデミックであったりするということは、そのイデオロギーには大なり小なり論理性や客観性や妥当性が含まれている、ということでもある。たとえば、『アメリカン・ルネサンス』の年次会合ではハンティントンの『分断されるアメリカ』が平積みにされていたらしい(p.8)。『分断されるアメリカ』はわたしも読んでいる。この本は大した内容だとは思わなかったが、ハンティントンの弟子であり『分断されるアメリカ』の内容も引用されているフランシス・フクヤマ『IDENTITY 尊厳の欲求と憤りの政治』なら読んでいて面白さや妥当さも感じた。また、『リベラル再生宣言』を書いてアイデンティティ・リベラリズムの問題点を訴えたマーク・リラやアメリカの多文化主義に警報を鳴らしているジョナサン・ハイトなんかも、多くの"知的な"白人ナショナリストたちにとってはお気に入りの論客なのだろう。……そして、彼らはわたしがこのブログで好意的に紹介してきた論客でもある。もちろん、「白人ナショナリストに好かれている」という事実自体が彼らの主張の妥当性を損なわせることにはならないのだが(「その論客の主張が妥当であるかどうか」と「そんな論客のファン層がどんなものであるか」は関連のない別の事象であるからだ)、これから紹介するときにはちょっと気を付けようとは思わさせられてしまった。

 また、「加速主義」「暗黒啓蒙」なんかも白人ナショナリストとかオルトライトとかに結び付いている、ということも指摘されている。

 

「白人ナショナリストの九十九パーセントは日本が好きです」(p.20)というセリフは、さらっと書かれているがなかなか衝撃的だ。KKKの幹部であるデヴィッド・デュークも、「日本の文化や自然の素晴らしさに感銘を受けました」「単一人種国家(mono racial country)を訪れたのは日本が初めてでした。人種の血筋(racial heritage)が保持されている社会の偉大さに気づかせてくれたのが日本でした」「私は三島由紀夫が好き」(p.39)などと、著者に語っている。

 白人至上主義者といえども、そのイデオロギーは「生物学的に白人の方が優れていて、多人種は劣っている」というものだとは限らない。むしろ「多様性はアメリカを蝕んでいるので、多様性を排除する」というものであったり「白人は弱者なので、その地位を回復する」というものであったり、あるいは「アメリカは白人のための国家として創立されたので、アメリカを白人の手に取り戻す」というものであったりする。KKKですら、最近では反黒人色を弱めているそうだ…… その代わり、反ユダヤ色は強まっているらしいけれど(p.45)(白人ナショナリスト団体のなかにも、代表や創設者がユダヤ系である団体もあれば明確に反ユダヤを主張している団体もある、ということもこの本では指摘されている)。

 

当然ながら、ナショナリストとして生まれてくる者はいない。また、私が知る限り、他の人種を単なる外見、ないし生理的理由から拒絶している者は皆無に等しい。日常生活では隣人、友人、同僚として親しく接している場合がほとんどだ。この点、日本におけるコリアン系などへの排斥運動に違和感を覚える者が少なくなかった。「日本人もコリアンも人種的には同じです。しかも、コリアンは日本社会に同化しているので何ら問題ないのでは」「コリアン系の自宅や学校、職場にまで出向き立ち退きを求めるのは直接的すぎる(too direct)と思います」…… 。

また、白人ナショナリストだからといって、非白人が多数派の国々を否定するわけでも、ましてや支配しようとしているわけでもない。日本のような同質性の高い社会には敬意を抱いており、介入主義やグローバリズムには否定的だ。あくまで、本来、白人が礎を築いてきた米国(ならびに欧州など)で、白人が不当な扱いを受けていること、礎そのものが覆されつつあることへの異議申し立てという位置付けである。上の世代の場合は公民権運動が、下の世代では進学や就職の際のアファーマティブ・アクション積極的差別是正措置)が大きな契機となっている場合が多い。そして、どちらの世代も、今日の米国を覆っている「ポリティカル・コレクトネス」(PC)は自由を脅かす「言論統制」の一種であり、その推進者や擁護者を「コミー」(commie、共産主義者の別称)と糾弾する。

果たして、自分たち白人は咎められ、赦しを請うだけの存在なのか。胸を張るべき伝統や血筋もあるのではないか。こうした感覚に個々人の経験が重なってナショナリズムに傾倒している場合が多いようである。……

(p.117-118)

 

「反ポリティカル・コクレクトネス」というものには、しょせんはメディアやフィクションなどへの表現規制に対する反発であるというイメージが強くて、シリアスな政治問題というよりかは趣味や文化の領域の問題だというイメージがあるかもしれない。いかにもインターネットっぽい話題であるし、人の生命を左右する経済問題とか外交問題に比べると、言論がどうこうとか映画の内容が偏っているどうこうというのはだいぶ「お遊び」に寄っている雰囲気もあるかもしれない……が、そんなことはなくて、人のアイデンティティに関わる重要な問題である。だからこそ、趣味や文化の問題からナショナリズムというガチの政治問題に直結する。さらには、KKKといった団体に参加して有色人種やユダヤ人を排斥するなど、ガチの差別行為にも一本筋で結び付く可能性があるのだ。

 そして、ポリティカル・コレクトネスに対する反感や「不当な扱いを受けている」という感覚、「礎そのものが覆されつつあることへの異議申し立て」などは、日本人の多くにとっても理解と共感が可能なものであるだろう。だからこそ、大統領選挙でトランプに投票したアメリカ人たちに対して共感や理解を示した日本人が多かった。最近のブラック・ライヴズ・マター運動に対しても、運動が糾弾の対象とする白人や警察の側に立って運動家や黒人の方を批判する、という日本人はよくいる。運動がもたらした混乱の様子を映した動画や画像なんかが嘆きや揶揄のコメント付きでシェアされてくる、というのもよくあることだ。

 このような現象に対して「日本人だって、アメリカに行ったら白人から差別されるマイノリティであるだろう。それなのに、"名誉白人"のような気分になって黒人を非難するとは愚かなことだ。アメリカに行って白人からの差別を受ければ、自分がどんな勘違いをしていたか気が付くだろう」みたいなコメントをする人も多い。しかし、このコメントかなり見当外れなものだ。

 まず、そもそも日本人の大多数はアメリカに行くことがないので、「アメリカに行ったら自分も差別される」なんてことを言われたところで脅しにならない。

 そして、白人ナショナリストたちが抱いているようなポリティカル・コレクトネスや多様性に対する反感を自分でも抱いている日本人にとっては、白人ナショナリストたちは住んでいる国や場所がたまたま違うだけの「同胞」のようなものである。だからこそ、理解や共感を示すのだ。

 そこでは「日本人はアメリカに行ったらマイノリティ」であるかどうかなんて、まったく関係がない。白人ナショナリストたちが、白人が皆無な日本のことを「同質性を保っていて多様性のない理想の国だ」と賛美することの裏返しであるともいえるだろう。

 ……とはいえ、だからといって米国内の人種差別(あるいは日本国内の人種差別)に加担するようになったら、それはやっぱり問題である。わたしだってポリティカル・コレクトネスの問題はこのブログでしつこいくらいに指摘し続けてきたが、だからといって人種差別やナショナリズムを認める気はない。それはそれ、これはこれ、だ。まあ「それはそれ、これはこれ」を徹底し続けることが困難である、ということがまた問題であるのだろうけれど。

*1:"低学歴な貧困層の白人ナショナリスト"に関する記事はこちら。

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