道徳的動物日記

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覚え書き:「被害者性の文化」と「美徳シグナリング」

(深夜に突貫で書いた記事なので、かなりグダグタな内容になっている)

 

 ポリティカル・コレクトネスとそれが引き起こす問題は様々な場面に存在している。このブログでは主にアカデミアにおけるポリコレの問題を扱ってきたし、今年からはじめた映画日記の方では創作表現におけるポリコレの問題についても扱うようになった。

 アカデミアにおけるポリコレの問題と創作表現におけるポリコレの問題はどちらも「表現の自由」に関わる問題であるとはいえ、わたしは、なるべく一緒にはせずに別途の問題だと見なすようにしている。とはいえ、「どちらにせよ、その根源にあるものは同じだ」いう考え方もあるだろう。それに、アカデミアから価値観の多様性が失われて思想の自由市場が機能しなくなるという問題にせよ、創作において物語表現の幅が狭まって物語自体の質が損なわれるという問題にせよ、それぞれの問題の結果は別であっても、そもそもの問題のたちあらわれ方や問題のされ方には同一のパターンがあるとも考えられる。そちらについて注目して分析することも、重要であるのだろう。

 というわけで、その「分析」を行ってみたいところだが……なにしろ最近はわたしも忙しいので(映画を見るのって時間がかかるし、見た映画についてはすべてなんらかの形で感想を書くことを自分に義務づけてしまっているから、さらに時間が取られてしまうのだ)、そうそう気軽に「分析」や「議論」を展開できるわけではない。というわけで、今回からは"覚え書き"シリーズとして、思いついたことのメモを取ったり昔に読んだり書いたりした記事から重要だと思う点を改めて引用して取り上げたりしてみることにした。

 

 諸々の「ポリコレ問題」を引き起こして悪化させている原因に、TwitterをはじめとするSNSの存在が関わっていることは、もはや疑いようがない。SNSは、既存のマスメディアであったり社会運動であったりとは全く異なるかたちで、独特の文化と有害な風潮を作りあげている。

 それには様々な要因があるだろうが、わたしが特に重要だと思っているのは、SNSはユーザーたちに「自分の発言が不特定多数の他人に見られている」という意識を強く持たせて、他人からの評価ありきの行動を誘発しやすい構造になっていることだ。さらに言えば、"自分"がいま関わっていたり対面していたりする"相手"ではない、自分の”仲間”であるオーディエンスたちからの評価ありきの行動になるところが特徴である。

 ここを分析するうえで役に立つように思われるキーワードが、ふたつある。ひとつは被害者性の文化であり、もうひとつは美徳シグナリングだ。

 

「被害者性の文化」の特徴については、わたしが数年前に訳した社会心理学者のジョナサン・ハイトの記事から引用しよう。

 

個人や集団が、自分たちは些細な軽視にも敏感に傷つくということを見せびらかし、第三者に訴えることで紛争に対処しようとする傾向があり、助力の必要な被害者であるというイメージを獲得しようとする、という文化である。

……(中略)……

被害者性の文化の特徴とは、地位についての懸念と侮辱に対する敏感さと、第三者を当てにしている度合いの大きさだ。意図されていないものであったとしても人々は侮辱に耐えられず、権威や社会一般を問題に注目させることによって対抗する。

……(中略)……

このような状況のもとで、第三者への訴えが寛容・堪忍交渉に取って代わった。人々は他人からの助けを求めるようになり続けて、自分が尊重と助力に値することの証拠として自分が受けた抑圧を喧伝する。

「被害者性の文化」と「マイクロアグレッション」 - 道徳的動物日記

 

「美徳シグナリング」については、日本語版Wikipediaと以前にわたしが書いた記事から、それぞれ引用する。

 

美徳シグナリングは、他に類を見ない類の善行を公の場で誓う空虚な行為を糾弾する蔑称として人気を博した。バーソロミューの元記事では、バーソロミューは「美徳シグナリング」を、ある問題について社会的に許容される自身の提携を他の人に知らせることを目的とした、関連するコストがほとんどかからない公共の行為として説明している。ジェフリー・ミラーは、美徳シグナリングを生得的な行為であり、すべての人間が行うものであり、避けることができないものであると説明している。

美徳シグナリング - Wikipedia

 

それは、「自分の集団の連携を保持して、敵対する集団の連携を破壊しようとする心理的適応」である。これは、左派の場合にはジェンダーの平等や社会正義の達成など、"集団において望ましいとされている目標に自分がコミットしていること"を他人に広く知らしめるために主に用いられる行動であり、心理学的には「Virtue Signalling(美徳のシグナリング)」と呼ばれるものだ。

進化心理学はなぜ批判されるのか? - 道徳的動物日記

 

「被害者性の文化」については、2013年の小野ほりでいの記事で話題になった「繊細チンピラ」というスラングでイメージされるものが近いかもしれない。

「美徳シグナリング」は、自分が「正しい行為にコミットしている」「正しい目標に同意している」ことを他人に開示する(=シグナリングする)という行動を指すものである。シグナリングという言葉に馴染みがなければ、「アピール」と認識してもらえばいい。

 

 Twitterを眺めていると気付かされるのは、「問題を起こしたアカウントや物事を取り上げて、その問題に対する批判や抗議の意見や、怒りや憤慨の感情を開示する」というかたちでのシグナリングが多いことだ。つまり、「自分が正しい行為を行なった」ということを示すのではなくて「他人の正しくない行為に自分は賛同しない」ということを示している。

 他人の行為や言動が問題である、と自分は理解できている……ということ自体が、同じ問題意識を抱えた仲間のうちでは、たしかに美徳とされる。それに対する抗議や批判の意見に怒りや憤慨の感情を積極的に示すことは、もっと美徳だ。140字に満たない文字を書き込むだけの行為であっても、美徳とされて、仲間内での評価を維持することにつながり、いいねやRTももらえる。

 しかし、他人の行為や言動によって傷付くことは、批判や怒りよりもさらに上位の美徳とされているようである。批判や抗議の意見、怒りや憤慨の感情を示す場合にも、「問題となっている行為や言動によって、自分が傷付いた」ということを先に開示することで批判や怒りの効果がさらに増す。なんなら、他人の行為や言動のどこがどう問題であるかということを説明できなかったり理解できなかったりする場合にも、「傷付いた」という事実によってそれが帳消しになる場合があるのだ。傷付きが発生した時点で、その行為や言動は問題であることを証明するには充分だ、ということである。

 日常的なコミュニティにおける議論や批判とは、"自分"から"相手"に対して発して、それに対して相手が返答することを前提にしているものだ。しかし、SNSにおける批判は、形式的には相手に対して向けられている場合にも、実際には”仲間”であるオーディエンスの視線を意識して開示しているものになっており、相手からの返答は前提としてない場合が多い。むしろ、相手からの返答が返ってきて議論がはじまってしまい、それに応じて説明責任が発生することを望んでいない場合が多いだろう。

 傷付くことは、返答や説明責任を回避するうえでも便利だ。傷付きを表明した時点でこちらは被害者であり、相手は加害者である。被害者には、加害者と議論をやり取りを行う義務はないものだ。加害者が行うべきは返答や反論でなくて、謝罪のみである。

 

 ……という風に抽象化してしまったが、「被害者性の文化」と「美徳シグナリング」は、二つの概念をうまく組み合わせたり相互作用について注目することで、特にSNSにおける様々な事情を分析したり説明したりできる道具になると思う。

 たとえば、”質問箱”やそれに類する匿名質問サービスをやっている人が、その人自身の過去のツイートのごく些細な問題であったり言葉尻だったりが指摘されて、反省を要求される、という光景を目にすることはよくある。さらには、客観的に見てなんの問題のないような言動についても、匿名の質問者が「わたしは傷付きました」と言えば、回答者は謝るしかない。そもそも”質問箱”をやってその回答をフォロワーたちに開示すること自体が第三者の目を意識したシグナリング行為を目的としたものであるからだ。そして、もちろん、匿名の質問者のほうはいつでも「傷付いた」と言うことができる。

 

 あるいは、『私たちにはことばが必要だ』という本に関する以下のような指摘だ。

 

 最初僕はタイトルだけ読んでこの本は「ああこれまでのフェミニズムのように、対話を重要視してるんだな」と思ってたんですね。ところが、読んでみるとこの本はむしろ、ひたすら「異なるものとの対話なんてしなくていい」と、対話の価値を否定しているんです。この本で言う「黙らない」「ことばが必要」というのは、男性やマジョリティに投げかける言葉ではなく、むしろ女性同士で内向きに自分たちシスターフッドを鼓舞する「内向きの言葉・会話」のことだったのです。

シーライオニングから考える「保守のフェミニズム」 - あままこのブログ

 

「内向きの言葉・会話」であるだけならいいが、たとえば、その言葉や会話の肴として男性による問題のある行為や言動が持ち出された場合は、話が別である。肴にされる男性にとってはたまったものじゃない。そして、内向きの会話をするときには互いが互いを被害者だと見なしあう方が、会話が盛り上がるものであるだろう。

 

 とはいえ、「被害者性の文化」を非難することには、実際に起こっている深刻な被害を等閑視したり、被害者の告発を無力化してしまうという危険性があることも言うまでもない。

「美徳シグナリング」という概念の問題は、これはシグナリング理論全般に当てはまる指摘だが、「それを言い出したらどんな行為も言動もなにかのシグナリングになってしまうんじゃないの?」ということである。

 特に後者の問題は深刻だ……というか、この記事を書いている時点で、「自分のあのツイートもシグナリングだよなあ」「今日もシグナリングしちゃったな」「このブログ自体がシグナリングじゃないか?」という疑問が浮かびつづけていた。

 ちなみに、「被害者性の文化」に伴う傷付きアピールも、わたしも若い頃は盛んにやっていた思い出がある。いまはそれを反省しており、他人の行為や言動の問題を批判するときに感情をあらわす場合には、傷付きよりかは怒りを表明するようにしている。それも「俺がムカついた」という主語をはっきりさせて、他人がわたしの怒りに共鳴することは避けるように心がけているのだ。みんながそれをやり出すとTwitterはいま以上に殺伐とした場所になってしまうかもしれないが、ある種の爽やかさはもたらされるかもしれない。