道徳的動物日記

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対等願望、優越願望、承認欲求、民主主義

 

 

 フランシス・フクヤマの『IDENTITY:尊厳の欲求と憤りの政治』はこのブログでも何度か扱ったが、あまり高く評価してきたわけではなかった*1。しかし、ポリティカル・コレクトネスを考えるうえではアイデンティティ・ポリティクスの問題は避けて通れないので、改めて真面目に読み直すことにした。

 読みはじめて、とくに惹かれたのは以下の箇所だ。

 

(引用註:『歴史の終わり』に対する批判に対して)こうした批判のほとんどは、単純な誤解に基づいたものだった。わたしは「歴史」という言葉をヘーゲルマルクス主義的な意味で用いていたーーすなわち「発展」や「近代化」とも呼ばれる過程、人間の制度の長期的な進化の物語を指す言葉として使っていたのである。「終わり(end)」という言葉も、「終焉」という意味ではなく、「目標」や「目的」という意味で使っていた。カール・マルクス共産主義ユートピアが歴史の終わり(目的地)になると示唆したが、わたしが論じたのは、そのヘーゲル版、つまり発展が行き着く先は市場経済と結びついた自由主義国家だという考えがより妥当と思われるということだったのだ。

(…中略…)

ただ、わたしを批判する人たちの論点には、ほかにもずれている点があった。彼らは、はじめの論文のタイトルにクエスチョンマークがあるのに気づいておらず、書籍『歴史の終わり』の終盤、ニーチェの「最後の人間」に焦点を当てた数章を読んでもいなかったからだ。

論文と本のどちらでも、わたしはナショナリズムも宗教も世界政治の精力として姿を消すことはないと書いた。どちらもすぐに消えないのは、現代の自由民主主義諸国が「テューモス(thymos)」の問題を完全には解決していないからだというのが、当時のわたしの主張だった。テューモスとは、尊厳の承認を渇望する心の働きである。「アイソサミア(isothymia=対等願望)」はほかと平等な存在として尊敬されたいという要求(=demand)を、また「メガロサミア(megalothymia=優越願望)」はほかより優れた存在と認められたいという欲求(=desire)を意味する。現代の自由民主主義諸国は、最低限の尊厳を平等に認めると約束し、おおむねその約束に従って行動しており、それは個人の権利、法の支配、参政権として具体化されている。しかし、民主主義国に暮らす人が実際に平等な尊敬を得られる保証はない。とりわけ、社会の周縁に追いやられてきた歴史を持つ集団の人々は、尊敬を得るのがむずかしい。国全体が尊敬されていないと感じて人々が攻撃的なナショナリズムへ向かうこともあれば、信仰を持つ人たちが自分たちの宗教が軽んじられていると感じることもある。したがって、アイソアミアは今後も平等な承認への要求を駆り立てるだろう。この要求が完全に満たされるときが来るとは考えにくい。

もうひとつの大きな問題がメガロサミアである。自由民主主義諸国は、かなり首尾よく平和と繁栄をもたらしてきた(最近は以前ほどではなくなってきたが)。これらの豊かで安全な社会に暮らすのは、ニーチェの言う「最後の人間」、「胸郭のない人間」であり、こういった人間はものを消費することで得られる満足感を飽くことなく追い続けるが、自分の核に何かがあるわけではなく、自分が目指したり、そのために自分を犠牲にしたりする高い次元の目標や理想を持たない。そしてこのような生き方は、すべての人間を満足させはしない。メガロサミアはほかから抜きん出ることを目指す。大きなリスクを冒し、とてつもない闘いに加わって、目覚ましい成果をあげることを求める。そうすることで、ほかの人よりも自分のほうが優れていると周囲から認められるからだ。これは、リンカーンチャーチルネルソン・マンデラのようなヒーローを生むこともあるが、カエサルヒトラー毛沢東のように、国を独裁と不幸へ導く圧政者を生むこともある。

(p.12-14、強調は引用者によるもの)

 

ヘーゲルによると、人間の歴史は承認をめぐる闘争によって動かされてきた。ヘーゲルが論じたのは、承認欲求に対する唯一の合理的な解決策は、すべての人の尊厳を認める普遍的な承認だということである。普遍的な承認はこれまで、国、宗教、セクト、人種、民族、ジェンダーに基づいた不完全な承認や、ほかより優れた存在として認められたい個人によって実現を阻まれてきた。いま民主主義諸国では「アイデンティティの政治」が盛り上がりを見せており、普遍的な承認がおおいに脅かされている。すべての人間があまねく尊厳を持つと理解する道をふたたび模索しなければ、人間同士の争いが終わることはないだろう。

(p.17)

 

 フクヤマの主張は、(アメリカ)社会の"分断"を嘆いたり、大衆の"尊厳"を重視するものであるという点では、マイケル・サンデルに近いところがある。実際、コミュニタリアンであるサンデルも「アイデンティティの政治」はよく思っていないようだ。

 しかし、人間には対等願望や承認欲求だけでなく優越願望も存在している、ということを重視している点で、フクヤマはサンデルの一歩先を行っているように思える。サンデルによるメリトクラシー批判がおおむね正しいものだと認めても、勝者に「謙虚さ」を身に付けることを求めたり「共通善」によって問題を解決しようとする彼の提案が現実味のない綺麗事であったのは、サンデルは人間に備わる欲求や願望やインセンティブを軽視しているからだ*2。わたしはサンデルの主張を「ルサンチマン道徳」と評したけれど、おそらく彼に足りないのは、ニーチェ的な視点である。

 

 フクヤマが『歴史の終わり』の頃から心理的な要素を重視していたことはかなり重要だ*3。そして、『政治の起源』と『政治の衰退』では、人類学や進化心理学の知見も取り入れられることになるし、経済学的な視点もさらに重要視される*4。『アイデンティティ』においても、たとえばサンデルが無視している「誇り」という感情の存在が、生物学を経由して論じられている*5サンデルの議論はメリトクラシーなどの「社会規範」が人々の動機や意識を形成していることを前提としているトップダウンなものであったのだが、フクヤマの議論はボトムアップなものであるのだ。

 

 フクヤマによると、中世以前の貴族制の社会が民主主義に移行したことは、アイソアミアがメガロサミアミアに取って代わったことを示している。とはいえ、民主主義の社会でもメガロサミアが消えてなくなることはない。さまざまな属性の集団は、平等な承認を要求するだけでは飽き足らず、自集団の優越性をも認めさせようとする。また、民主主義社会であっても、ある種の活動はほかの活動よりも必然的に大きな尊敬の対象となる。公共の利益のために奉仕する警察官や兵士、卓越した芸術家は尊敬されるものであり、彼らが何らかの意味で他の人よりも優れているということは否定しようがないのだ。

 

 ところで、自由民主主義の普遍性を主張するフクヤマの議論といえば、「いつまで経っても民主主義は欧米諸国とアジアの一部にしか根付いていない」とか「中東などでの民主化運動は失敗して権威主義体制に戻ってしまった」とか「民主主義国家の住民ですら中国のような非民主主義国家に憧れるようになっている」とかいった諸々の事実や風潮が「反証」となって論破されてオワコンになった、という風に扱われることが多い。

 しかし、人間にはテューモスとアイソサミアが普遍的に備わっているために、どこの国であっても民主主義(とそれを通じた"対等な扱い")を希求する人は多かれ少なかれ存在する、という観点はやはり重要だ。最近の事例でいえば、アフガニスタンからアメリカが撤退してタリバンが支配するようになっても、現地の人々の多く…とくに女性たちがタリバンの撤退と民主主義の復活を求めている*6。言うまでもなく、テューモスもアイソサミアも、男性だけでなく女性にも備わっているからだ。

 フクヤマによると、「アイデンティティの政治」は、経済的利益ではなく尊厳をめぐる政治である。同性婚を求める運動にせよ、#MeToo運動にせよ、それは経済や生存に関する利益も絡んでいるが、根本的には尊厳の問題である。

 日本においては、一部の保守主義者・イスラム主義者・アンチフェミニストなどは、タリバンによるアフガン支配を、手を叩いて喜びながら歓迎しているようである。しかし、フクヤマの議論はある種の反動主義だけでなく文化相対主義ポストモダニズムに対する処方箋にもなるのだ。

 

 

*1:

davitrice.hatenadiary.jp

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*2:

davitrice.hatenadiary.jp

*3:

そして、「大文字の歴史」に関するフクヤマヘーゲル主義的な主張が妥当であるかどうかはさておいて、『歴史の終わり』ではまた別の注目すべき議論がされていたことをSagarは指摘している。『歴史の終わり』は、政治体制に関する議論のみならず、「優越願望(プライド、気概)」と「対等願望」という人間の心理についての議論も行っている本であった。自分は他人よりも優れているということを証明して他人よりも良い待遇や尊敬を持って扱われたいという「優越願望」と、人は皆が差別なく平等に扱われるべきであり特定の立場にいる人が他の人よりも良い扱いを受けることは許せず、また自分も他人と同じくらいの待遇を受けて人として承認をされたいという「対等願望」という二つの心理は人間に普遍的に備わっているのであり、この二つの心理は歴史を通じて様々な社会においてイデオロギーや政治体制として表れてきたのであって、「優越願望」と「対等願望」はこれまでも抗争を続けており前者が優勢であったのだが最終的には「対等願望」を反映する自由民主主義が勝利することになった、というのがフクヤマの議論である。

だが、人間の普遍的な心理である「優越願望」は自由民主義体制においても結局は消えることはないのであり、スポーツや芸術などの形によって発散することはできるがそれにも限度はある。民主主義社会の内側で溜まった「優越願望」のエネルギーが、誰もが対等に扱われる民主主義を退屈で間違ったものであるとして自己否定を行うことで、せっかく辿り着いた「大文字の歴史」の流れは逆流する危険性がある、とフクヤマは指摘していたのだ。特に厄介なのは、それまでは他の人々よりも良い待遇を受けていたのが平等主義が広まることによって相対的に地位が転落していた人々であり、そのような人々は自分が当然のものとして見なしていた承認も奪われて騙されしまったように感じて、民主主義の否定に走るだろう。平和と繁栄を特徴とする自由民主主義社会に生きる人々が、まさにその平和と繁栄を否定し始めるのである。ソビエトが崩壊した以上はもはや共産主義の説得力は失われているので、民主主義を否定する人々はファシスト的な右翼を支持せざるをえない。…そして、先の大統領選でドナルド・トランプに投票したアメリカの白人たちの行動原理はまさにコレなのである、トランプ当選に代表されるようなポピュリズムファシズムがやがてアメリカに登場することをフクヤマは25年前の時点で予見していたのだ、というのがSagarの主張だ。

『歴史の終わり』はトランプの出現を予期していた? - 道徳的動物日記

 

*4:

davitrice.hatenadiary.jp

*5:

…ルソーはいくつかの重要な点で間違っていた。まず、初期の人間は根本的に個人主義的だったという考えは正しくない。これが間違っていたといえるのは、第一に、社会化される前の人間がいたという考古学的・人類学的な証拠がないからであり、第二に、現生人類の先祖にあたる霊長類もきわめて社会的だったことが、ほぼ確実にわかっているからである。現存する霊長類は、複雑な社会構造とそれを支えるのに必要な感情機能を、はっきりと備えている。社会の進化のどこかの段階で誇りが現れたというルソーの考えは奇妙だと言わざるをえない。というのも、人間に内在するそうした感情が、外からの刺激に反応して自然に現れるのはどのような仕組みによってなのかという疑問が生じるからだ。もし誇りが社会的に構築されたものであれば、幼い子どもはそれを経験するよう何らかのかたちで訓練されなければならないはずだが、われわれの子どもたちはそんな訓練を受けてはいない。現在では、誇りと自尊心は脳内の神経伝達物質セロトニンのレベルと関係していることが知られており、チンパンジーはボスの地位につくとセロトニンのレベルが上がることもわかっている。どうやら、現生人類が互いに比較しなかったり、社会的承認を得たときに誇りを感じなかったりした時期はなさそうだ。この点において、プラトンのほうがルソーよりも人間の本性をよく理解していたといえる。

(p.58-59)

*6:

news.yahoo.co.jp