道徳的動物日記

倫理学、社会科学、時事問題、世相などについて論じます。

「お気持ち」はいけないのか?

 

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 先日の記事でも書いたが、ケアの倫理やフェミニズム倫理などの「理性」より「感情」を重視する倫理学理論には根本的に問題点があり、理論として破綻しているように思える。

 しかし、「“理性的”を標榜する既存の倫理学理論によって“感情的”だと見なされて排除された事象や物事のなかにも大事なものがある」という問題意識は理解できなくもない。

 また、「感情」を重視する倫理学理論がなぜケアやフェミニズムなどの“女性”的な要素と結び付きやすいかというと、西洋の哲学では古代ギリシアの頃から「理性=男性的/感情=女性的」という二項対立的な図式を作ったうえで前者を讃えて後者を貶める考え方が存在しており、それに対するカウンターとしてその二項対立の図式をひっくり返し、感情の重要性を強調したうえでそれを女性性と結び付ける、という流れがある。

 これに関しては、これまでの私は「そもそも当初の二項対立の図式自体が間違っているのであるし、古臭い図式であって現代の我々がそれに捉われる必要もない。“あえて”二項対立の図式をひっくり返すという戦略を採用したところで、正しい考え方にたどり着けるとも思えない。もっと単純に、“理性=男性的”や“感情=女性的”というステレオタイプを否定したうえで、純粋に理性や感情の役割について考えればよい」と考えていたし、今でも基本的にはそういう考えを抱いている。

 

 しかし、一昔前には「かわいそうランキング」という言葉が流行り、現在でも他人の主張を「お気持ち」と称することが揶揄として成立してしまう風潮があるのを見ていると、あまり単純に理性を肯定して感情を否定することもできなくなるのである。

 

 他人の主張を「感情的」として否定する、という行為には様々な問題点が見受けられる。

 

・「お気持ち」というレッテルは、女性の主張やフェミニズム的な主張に対して貼られることが多い。性差別を防止するための具体的な規制や制度改革を求める声や、性的表現の加害性を理論的に示そうとする試みも「お気持ち」というレッテルで済まされてしまう始末だ。

 これは、「理性=男性的/感情=女性的」という古典的な図式が(西洋ではない日本においてですら)いまだに幅を利かせていることを示しているように思える。

 

・先日に読んだ『魚たちの愛すべき知的生活』について他の人たちのレビューを探していたところ、以下のようなレビューがあった。

 

魚を売って生計を立てている身として感想を書く 水族館に行く前に読めば、より興味深く魚を個体ごとにじっくりと見てみようと思わせる良著 ただ著者が人道協会に所属し、生物愛護の考えがかなり強いので、最後の漁業に対する章で一気に科学的要素が減り感情的な記述が多い この章に至るまでは、同じ魚好きとして心が通じた気持ちを抱きながら読み進めることが出来たが、最後にガッカリしてしまった 著者が魚をいかに手軽に美味しく食べるかという、人間という生物の発展的努力には興味が薄いのがよくわかり悲しくなったのだ

『魚たちの愛すべき知的生活―何を感じ、何を考え、どう行動するか』|感想・レビュー - 読書メーター

 

 

 このようなレビューの他にも、動物愛護や人間以外の動物への道徳的配慮を主張する考えを「感情的」として批判する主張はよく目にする。たとえば、2018年にスイスでロブスターの保護規定が定められた時にも「感情的」だとの批判が多く目に付いた。その時に書いた私のコメントは以下の通りだ。

 

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…魚類や甲殻類、昆虫などのこれまでには「痛覚がない」とされてきた生物種に関する研究が深まり、彼らにも痛覚が存在するという事実(あるいは、痛覚が存在するかもしれないという可能性)を発見して、それに配慮する、というのも近年のトレンドだ。痛覚や意識の存在が未だに発見されていない(そして、今後発見される可能性もほぼないであろう)植物に対してはともかく、痛覚を持つ魚類や甲殻類などに対して哺乳類に対するのと同様の配慮を行うことは、論理的に一貫している。魚類や甲殻類は悲鳴を上げないために、彼らが苦しめられて殺害されることについての感情移入は他の動物が苦しめられて殺害されることについての感情移入よりもずっと低くなりがちだが、「魚類や甲殻類にも痛覚が存在する」という科学的知識に基づいて判断をすれば、他の動物に対してと同様の配慮が魚類や甲殻類にも必要である、という結論が導かれるのだ。要するに、「ロブスターの福祉に配慮をすべきである」という判断は、感情よりも理性や論理を優先した判断であると言えるだろう。

 

 動物の問題と並んで、環境問題や気候変動の問題に関する議論でも同様の光景はよく見られる。

 これらの例に限らず、自然科学なり経済学なりの価値中立的で「理系的」な知識を紹介する文書や主張は「論理的」だと見なされやすい一方で、倫理学や政治哲学や社会学などの理論に基づいた規範的で「文系的」な主張は、その主張がどれだけ論理的に一貫した理論に基づいた主張であったとしても「感情的」だとレッテルを貼られてしまう可能性がある。だが、実際には、自分たちにとって不快感を与えたり都合の悪い結果をもたらす主張であるためにほとんど反射的に自己防衛的な状態になった人々が、その主張を真剣に取り扱うことを回避するために、その主張を過小評価して「感情的」というレッテルを貼って済ませようとすることが大半であるようだ。逆に言えば、価値や規範を主張しない「理系的」な知識はそれを聞く側にとって不快感を与えたり都合を悪くしたりするということもないために相手を自己防衛的にならせずに済む、というだけである。

 しかし、理系的で価値中立的な主張も、文系的で規範的な主張も、論理の属するレイヤーが違うだけでどちらも等しく「論理的」な主張であり得るのだ。

 

・また、そもそも、「論理的」な理論と「感情的」な言動や反応は、必ずしも二項対立になっている訳ではない。むしろ、倫理や法律に関する理論の多くは、「感情」が示す様々な要素を深掘りして体系化したものである(読んだのはだいぶ前で詳細はよく覚えていないが、たとえばマーサ・ヌスバウムの『感情と法―現代アメリカ社会の政治的リベラリズム』は法律の感情的な期限を探って、感情が法や社会秩序にもたらす意味を問うものであった)*1。他の人や動物が傷付けられることについて「ひどいことだ」という感情を抱いてそれを表明することは、ケアの倫理はおろか、功利主義の理論でも正当化されることが多いだろいう。

 直接には誰も傷付けないはずの差別的表現や性的表現、また他人を属性に分けてカテゴライズ化したうえで行われる「分析」などに対しては、拒否反応が示されることが多い。そのような拒否反応の一部は道理に合わないものであるかもしれないが、一方で、他者の「尊厳」を認めない表現に対する拒否であったり、「他者を目的ではなく手段として扱う」ことに対するカント主義的・義務論的な拒否であったりする。というか、「尊厳」概念や義務論の理論は、こうした拒否反応に理論的な正当化を与えるためのものという側面があるはずだ。それに限らず、全ての規範論は、多かれ少なかれ何らかの感情から出発してその感情が意味するところを明白にするために発展したと言ってしまうこともできる。そして、「感情的」な反応だからと言ってそれが的外れなものであったり論理に反するものであるとは限らないのだ。

 

・なんといっても一番よく目につくのが、他人を「感情的」だと言って批判するその人の言動の方が感情的である、という事態だ。

 また、統計や論理的分析を駆使しているていで物事を主張している人であっても、統計の読み取り方が自分のしたい主張の都合のために歪んでいたり、自分が気に食わない主張ばっかりを恣意的に論理的分析の対象にしている、ということがよくある。このような場合、本人は素知らぬ顔をしてるつもりであっても主張の背後にある動悸や欲望があまりに明からさまであり、彼らの「感情」は嫌でもこちらに伝わってきてしまう。

 また、自分は論理的で客観的なつもりであっても、自分の主観や感情を排除するということは困難なものだ。だからと言って「論理的で客観的な言説なんて存在しないんだから何を好きに言ってもいいんだ」という開き直りをすればいいというものではないが、すくなくとも、他人を「感情的」だと批判するときはその批判が自分に跳ね返ってくる可能性についても重々に承知しておくべきだろう。

 

*1:

 

感情と法―現代アメリカ社会の政治的リベラリズム

感情と法―現代アメリカ社会の政治的リベラリズム

 

 

「ケアの倫理」の構造的問題点(読書メモ:『Entangled Empathy』)

 

Entangled Empathy: An Alternative Ethic for Our Relationships with Animals by Lori Gruen(2014-01-01)

Entangled Empathy: An Alternative Ethic for Our Relationships with Animals by Lori Gruen(2014-01-01)

  • 作者:Lori Gruen
  • 出版社/メーカー: Lantern Books
  • 発売日: 1739
  • メディア: ペーパーバック
 

 

 離職して、しばらくの間は本を読む時間もたっぷりとある。2年以上前にフルタイムでの仕事を始めてからは洋書を読む習慣が失われていたので、それを取り戻すためにも、手始めにページ数の少ないこの本を手に取った(約100ページほどだ)。

 この本は、『動物倫理入門』の著者でもありエコロカジル・フェミニストでもあるローリー・グルーエンが、動物の問題に留まらない諸々の倫理問題に向き合ううえでの自身の倫理学的考え方をまとめたもの。『動物倫理入門』のなかでもグルーエン自身の立場が紹介されていたが、それをより詳細に展開されているような感じだ。

 

グルーエン自身の立場は、エコロジカル・フェミニズムに基づくものである。本書のなかでも「倫理は感情ではなく理性に基づくものである」「自律した他者を尊重することが道徳的配慮である」といった考えを否定して、「理性ではなく、他者に対する共感やケアの感情こそが道徳の源である」「自律を強調するのではなく、他者との関係性や依存性を尊重することこそが道徳的配慮である」といった、フェミニズム倫理・ケアの倫理の考えがところどころで紹介されている。

ローリー・グルーエン『動物倫理入門』 - 道徳的動物日記

 

 しかし、グルーエンの主張には、ケアの倫理やフェミニズム倫理につきものの弱点が相変わらずつきまとう。これらの弱点については以前の記事でも指摘しているが、簡潔にまとめてみると「感情や"共感"を理想化し過ぎていてそれらの問題点や限界を軽視してしまっている」ということと、「一貫性のない場当たり的な理論であるために、複雑な事例やトレードオフが発生する事例などでは行為の指針にならない」ということだ。

 

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 この本では『反共感論』を著しているポール・ブルーム『はらわたが煮えくりかえる』の著者のジェシー・プリンツによる共感に対する批判的な意見を受けつつ、「共感」という行為はブルームやプリンツが論じているように浅はかで恣意的な生理的感情には還元できない、複雑で繊細な倫理的営みである、という風に論じることで「共感」を擁護し、共感に伴うとされがちな問題点や限界を乗り越えようとする。そのために、グルーエンは望ましい「共感」の方法について詳細に論じるし、間違った仕方での共感と正しい仕方での共感との区別も行う。簡単に言ってしまうと、共感の対象となる相手に固有の事情や性質、その場の状況における特徴などについて注意深く認識して理解しようと努めて、自分の尺度や価値観だけで考えるのではなく相手に立場に立って考えるように努めることで、適切な倫理的判断ができるようになる、といった感じだ。…しかし、相手やその状況の事情を「理解」しようとすることや「相手の立場に立って考える」ことはそもそもが理性的な営みであるし、まさにケアの倫理が批判の対象とするところの各種のオーソドックスな倫理学理論こそが、それらの営みを行うべきであるという主張を行なっているのだ(たとえば、R・M・ヘアの功利主義は「相手の立場に立つ」という営みを追求した結果として導かれるものである、といえる)。

 これは「ケアの倫理」や「フェミニズム倫理」が主張される場合にありがちな問題である。まず、権利論や功利主義などのオーソドックスな倫理学理論を「理性を重視し過ぎていて感情を軽視している」と批判する。そして、感情を重視するケア倫理やフェミニズム倫理を主張する。だが、感情を重視することに対しては様々な問題が指摘される。そのため、「ケア」や「共感」という単語の定義を拡大したり注釈や条件を加えることによって批判に対して応答しようとする。しかし、定義が変えられた後の「ケア」や「共感」は、当初のそれらの言葉が意味していたようには感情を重視せずに、理性を重視する側面が強まってしまう。つまり、結局は当初に批判していたオーソドックスな倫理学理論の問題点を自分たちの理論にも輸入してしまうことになるのだ。…これは「ケアの倫理」に限らず、オーソドックスな倫理学理論の理性重視や理論重視を批判するタイプの倫理学的主張のいずれにも起こりがちな構造であるように思える(徳倫理や状況主義、個別主義など)。

 

 ただし、理論としては構造的問題点を抱えているケアの倫理ではあるが、細部には見るべきところや面白いところもある。たとえば、この本では、身近な対象に"共感"を抱くという経験が、身近ではないその他の対象へと"共感"を拡大させることにつながる、という議論が行われている。たとえば、動物愛護運動に参加する人や動物の権利運動に参加する人の多くは自らがペットを飼っており、そのペットを飼う経験を通じることで「動物好き」(animal person)となり、自分のペット以外のコンパニオンアニマルや家畜や野生動物にも共感を抱くようになって彼らの状況を改善するための運動に身を投じるようになる、という経歴の人が多い…ということが指摘されているのだ。また、動物の問題に向き合う経験は人種差別や性差別やグローバルな貧困などの他の問題にも関心を抱かせる窓口となることが多いし、逆もまた然りである。

 たしかに、私自身も動物の問題に関心を抱くきっかけになったのは実家で猫を飼っていることにある。オーソドックスな倫理学理論だとペット飼育に関わる問題点ばかりが指摘しがちであって、「ペット飼育の経験が動物倫理の問題全般に対しての関心を広げる」という事象について論じることが難しい。このような事象について論じるうえでは「ケアの倫理」に軍杯が上がると言えるかもしれない*1

 おそらく、「ケアの倫理」は行為の指針としての倫理学理論としては不適切であるし、無理に理論化しようとしたり精緻化しようとすると苦しいものになる。それよりも、様々な複雑な問題や特殊な事象について倫理学的に考えるときの引き出しのひとつとして保持しておく、くらいの使い方がよいのかもしれない。

 

*1:ただし、ピーター・シンガーやスティーブン・ピンカーが「黄金律」「話の拡大」について論じていることマイケル・シャーマーによる「道徳的フリン効果」の議論も「共感対象の拡大」という事象については論じており、グルーエンの議論ともニアミスしているように思える。

読書メモ:『哲学者が走る 人生の意味についてランニングが教えてくれたこと』

 

哲学者が走る: 人生の意味についてランニングが教えてくれたこと
 

 

 私は子供の頃から喘息を患っており、すこしでも走るだけですぐに息が切れてしまいしんどいことになる。そのため、ランニングなんてしたことはほとんどないし、これからも行わないと思う。

 そんな私がなんでこの本を手に取ったかというと、著者の前著である『哲学者とオオカミ』が面白かったからだ。だが、この本は、私がランニングに興味がないということを差し引いても、焦点がぼけているし同じ主張をくどくどと繰り返すし主張されている内容自体もかなり凡庸だしで、『哲学者とオオカミ』に見られた独自性は失われていると言っていいだろう。

 

 基本的には、著者の人生における様々な場面におけるランニングやマラソンレースへの出場などの経験を綴りながら、「自由」や「衰え」、そして「人生の意味」などの倫理学的な概念へも考察がされているといった感じだ。

 そして、「有用性」などの道具的な価値しか持たない物事(「仕事」がその最たるものだ)に振り回されずに、内在的な価値を持っておりそれ自体をすることが目的となるような物事(著者は「遊び」と表現している)を行うことが人生を豊かにして人生の意味を感じさせてくれる、というようなことを著者は主張する。著者がランニングをするのも、健康や人間関係などの副次的な価値のために行うのではなく、ランニングをすること自体がもたらしてくれるやり甲斐や喜びなどの内在的な価値のためである。そして、ランニングによってもたらされる充実感や意識の変化についても紙面が割かれて描写している。…だが、そこで書かれていることのほとんどは「フロー体験」の一言でまとめられそうなものだ。さらに、「フロー体験は幸福のなかでも特に上質なものである」とか「より多くのフローを体験できるような仕事や趣味や生き方をすることが、人生を幸福で意味のあるものにする」といったことはポジティブ心理学でもよく言われていることである。だから著者の言っていることは間違っているとは思わないが新鮮味はないし、デカルトなりハイデガーなりサルトルなりを持ち出してまで本を一冊書いて説明するようなことでもないだろう、といううんざり感があった。同じくランニングについて書かれた本であっても、村上春樹『走ることについて語るときに僕の語ること』の方がずっと優れたものであった。

 

 とはいえ、体育会系で遊び好きであり、そしてウェールズからアメリカに渡ってきた著者の洞察には、ところどころにユニークで興味深いものがあるところもたしかだ。

 たとえば、ヨーロッパ出身の著者は、アメリカ人の楽観主義や信仰心、そして消費や仕事への強迫観念的な執着について一歩離れた場所から皮肉に描写する。著者の描くアメリカ人像は比較文化論的でステレオタイプ過ぎる気もしなくはないが、物質的・金銭的豊かさの追求に明け暮れて休日や「遊び」などの本質的な幸福を忘却してしまった人々は、アメリカに限らず日本でも多く目に付くところだろう。持って他山の石としたいところだ。

 

 ところで、著者の「仕事」と「遊び」観を示す文章を引用しておこう。

 

…楽しむことの末梢的な特徴の点では、走ることと書くことは同類の活動である。書くことはゲームではない。わたしがゲーム的な態度を向ける、「遊びに先立つ」目標などはない。けれども、スーツも指摘しているように、あらゆる遊びがゲームのプレイというわけではない。書くことも遊びにはなれる。仕事にもなれる。わたしがなぜこれをするかによって、それは決まる。書かなければならないからーーたとえば何らかの契約的な合意をむすんでーー何かを書くのであれば、わたしが書くという活動は仕事である。けれども、わたしがもっともうまく書けるのは、仕事として書くときではない。最高のものが書けるのは、こうした考えが頭の中で飛び交っているのを単に見つけたときである。そのとき、これらの考えが正確には何で、どこへと至るのかはわからないが、それを突き止めざるを得ない、という思いにかられる。わたしは、自分が考えていることが何なのかを知りたいから書くのであって、それが目の前のページに見出されるまでは、これが何なのか本当にはわからない。わたしは考えを言葉という形で捉え、それらの言葉を検証し、評価する。この遊びはそれ自体の価値をもち、これに没頭しているときには、世界中でこれ以上にしたいものは何もなくなる。書くということは、輝き、閃光を放ち、きらめく考えと遊ぶことなのである。書くことが仕事になると、これらの考えは沈黙し、生気を失う。とはいえ、書くことは、従来の意味での楽しみとはほとんど関係がないか、まったくない。それよりも拷問に似ていることが多く、キンセールの坂を駆け上がるようなものだ。

(p.120-121)

 

 おそらく著者が失念しているのは、世の中には「遊び」と「仕事」が一体化している人たち、金を稼ぐという行為に道具的価値ではなく内在的価値を感じてフロー体験を感じることができる人がいるということだ。そういう人たちは資本主義社会で起こる様々な問題の原因であり他人を不幸にするような人であることが多いだろうが、少なくとも本人は幸福である。

 

 また、著者が「遊び」を重視しているといっても、その遊びとは「骨折りがいのあるもの」であることが強調されていることも忘れてはいけない。単に家でテレビゲームで遊んでいる人生が幸福な人生である、というわけではもちろんないのだ。

 結局のところ、著者の主張は「ヘドニスティックな幸福ではなくエウダイモニックな幸福を追求するべきだ」というポジティブ心理学的なテーゼでまとめられてしまいそうなものでもある。おそらく著者自身はポジティブ心理学を好ましく思っていないために、文中で言及されることはないのだが…

読書メモ:『ダーウィン・エコノミー 自由、競争、公益』

 

ダーウィン・エコノミー 自由、競争、公益

ダーウィン・エコノミー 自由、競争、公益

 

 

 この本の著者のロバート・フランクには1990年代から多数の著作を出版しており、最近のものでは『幸せとお金の経済学』や『成功する人は偶然を味方にする 運と成功の経済学』などがある*1正直に言うと、前著の二つの方が『ダーウィン・エコノミー』よりも面白い。『ダーウィン・エコノミー』はタイトルとは裏腹にダーウィンの進化論と経済学との関連性について書かれている箇所も少なく、アメリカで政治的影響力を振るっているリバタリアニストに対する批判や、著者が以前から提唱している「累進的消費税」の導入を始めとした税制改革の提案が主となっている。『幸せとお金の経済学』や『運と成功の経済学』が個人のキャリアや幸福について考えるきっかけとなったり「成功している人が豊かになれるのはその人の努力に対する当然の報いだ」といった通俗的な道徳観を問い直す内容であったのに比べると、やや内容が固くて焦点がぼやけている感じなのだ。

 

 それはそれとして、ロバート・フランクの著作では毎回のように強調されている概念がいくつかある。その中でも中心的になっているものが「地位財」と「非地位財」という概念だ。

 

他者との比較とは関係なく幸福が得られる財。健康・自由・愛情・良好な環境など。幸福感が長続きする。

非地位財(ヒチイザイ)とは - コトバンク

 

周囲と比較することで満足を得られる財。所得・財産・社会的地位・物的財など。幸福感は長続きしない。

地位財(チイザイ)とは - コトバンク

 

 フランクは、地位財と非地位財という二種類の財の存在をダーウィンによる自然淘汰の理論になぞらえて説明している。自然界でいえば、非地位財は「生存」に関する効用をもたらす、絶対的な価値のあるものだ(捕食者から逃れることに役立つ、早く走る能力など)。一方で地位財は「繁殖」に関する効用をもたらすものであり、その価値は相対的なものである(異性を惹きつけるのに役立つ、大きなツノなど)。そして、相対的な価値である非地位財は「周りよりも多くその財を得ている」状態でないと効用を発揮しないために「軍拡競争」の状態となり、その財を得るためのコストが吊り上げられてしまい、最終的にはみんなが非地位財に振り回されて全体的に不幸になってしまう。

 

 個人レベルの幸福論をみてみると、「お金持ちになったり高い地位についたりすれば幸福になれるわけではない」ということは一般論として昔から言われているし、ストア派の哲学はこのような一般論的な幸福論を洗練させたものであるといえる。また、「豊かな先進国の住民がそうでない国の住民より幸福であるとは限らない」「GDPの上昇と幸福が直結しているわけではない」という国レベルの幸福論も論じられるようになって久しい。個人レベルの幸福論に比べると国レベルの幸福論には反論できる箇所や突っ込みどころも多いようだが、それはそれとして「カネを稼いでエラくなってモノを買えれば幸せである」という認識は誤りであることが明らかになっているはずなのだ。

 …はずなのだが、人はついつい地位財に惹かれてしまい、それを手に入れることに躍起になってしまうようである。『ダーウィン・エコノミー』のなかで印象的だったのは、アメリカではティーンエイジャーの子供の誕生日パーティーや結婚式にかけられる費用が年々上がっているという話題である。また、「子供を通わせる学校のレベル」が明確に「地位財」として扱われているのも恐ろしいところだ。

 今さら言うまでもないことだろうが、広告やインターネットやSNSには地位財への欲求を煽る側面があるようだ。特に最近のSNSでは「〇〇大学を卒業した有能な誰それがGAFAだか中国企業だかに就職して初年度から〇〇万円稼いでいる」みたいな話ばっかり流れてきてうんざりさせられてしまう。さらに、これまでは他者と比較する必要がなかったので絶対的な効用が得られる非地位財であったものも、何もかもがエピソード化されて商業化されてしまう昨今にあっては地位財となってしまって、本来得られていた効用が失われてしまうおそれがある。ネットの一部の人々がミニマリストに対して異様な敵意を抱いていることや、良質な食事や音楽などそれを消費している本人たちは「非地位財」として楽しんでいるものが外側の人たちから「地位財」として認定されて貶められる傾向などなど、地位財の魔力とそれにとらわれた人たちについては掘り下げて考えてみることもできるかもしれない。

 

 フランクの著作で強調されるもう一つの概念は「運と成功の関係」である。つまり、前述したような「成功している人が豊かになれるのはその人の努力に対する当然の報いだ」という通俗的な道徳観は、実際の経済のメカニズムとは全くマッチしていないということだ。努力をしても成功できなかった人の存在はついつい軽視されがちだし、元々の環境が恵まれているために成功できたことが努力の結果と誤認されてしまうこともありがちである。また、特に現代の資本主義は「ウィナー・テイク・オール(勝者総取り)」のシステムになっており、成功者たちが得られる報酬はそうでなかった人たちが得られる報酬に比べて歪なまでに高額なものとなっている*2。…このような問題もこれまでにあちこちで散々指摘されていたことではあるが、地位財や非地位財に関する場合と同じく、人は「努力と成功は関連しているはずだし、成功と報酬は関連しているべきだ」という誤謬に振り回されてしまいがち、ということなのだ。

*1:

 

幸せとお金の経済学

幸せとお金の経済学

 

 

 

成功する人は偶然を味方にする 運と成功の経済学

成功する人は偶然を味方にする 運と成功の経済学

 

 

*2:

 

 

読書メモ:『猫の精神生活がわかる本』

 

猫の精神生活がわかる本

猫の精神生活がわかる本

 

 

 作家である著者が、愛猫の「オーガスタ」との出会いから共同生活、オーガスタの死による別れを綴りながら、猫の心理や行動や生態について、動物行動学や心理学・生理学などの様々な論文や専門家への取材を参考しつつ書いた本。また、飼っている猫を幸福にするための飼い主の心構えから具体的な飼育方法(餌の与え方や撫で方、しつけ方など)から、(アメリカにおける)猫のメディアでの扱いや社会問題としての野良猫問題と、猫に関する題材が広く扱われて書かれている本だ。

 オーガスタとの死別という経験もあって「猫を飼う時には後に後悔を抱かないような飼い方をすべきだ」ということや「飼い主のせいで猫の問題行動が起こる」ということについての意識がとりわけ鋭くなっていることがうかがえる。また、実際にロクでもない猫の飼い方をしている飼い主の事例も出てくる。

 このブログでも何度か書いているが、私の実家でもこれまでの25年間に8匹の猫を飼ってきた(そのうち前世代の4匹はすでに死去している)。この本を読んでいる限り、一部の点では至らない飼い方もしていたが(たとえば猫の世話を他の人に依頼して長期間家を留守にする時期があった、など)、じゅうぶん合格点と言えるような飼い方もしていたと思える。我が家の経済的な事情や立地的な事情、飼ってきた猫たちの生来的な問題点が比較的少なかったことなども影響しているだろうが、何ら落ち度のない飼い方をすることは現実的に不可能なので、ほどほど以上の幸福を猫たちに与える飼い方ができたのなら満足、という考え方もあるだろう(少なくとも、我が家で飼っていた猫の大半は野良猫や捨て猫を拾ってきたものであり、私たちに飼われていない場合にはあまり幸福ではない生き方をしていた可能性が高いからだ)。

 それはそれとして、本書を読んでいると、「猫が何を思っているか」「猫が何を望んでいるか」を理解するためには注意深さや辛抱強さに慎重さ、そしてコミュニケーション能力が必要となることが改めて認識される。特に、人間同士においても非言語コミュニケーションが苦手な人なら、猫と良好なコミュニケーションを築くことも難しくなるだろう。

 

 また、野良猫が野生動物を殺してしまうという生態系的な問題についても触れられている。この問題については最近でも『ネコ・かわいい殺し屋―生態系への影響を科学する』という本が出版されるなど、注目が増している*1。一方で、著者は家猫の放し飼いについては(適切に管理できるものなら、という前提付きで)肯定的だ。北米の人々の書いたペット論を読むと、犬に関してもリードなしでの散歩を肯定するなど、ペットを自由にさせることへの意識が強いことがわかる。ここら辺は文化的な違いを感じる(土地の広さや自然の多さも影響しているのだろう)。

 

 そして、YouTubeTwitterで話題になるような「おもしろ猫動画」への著者への意見は手厳しい。

 

サンタクロースに扮した猫。ベランダから落ちる猫。何かの音楽を指揮するかのように、人間につき添われて前脚を振る猫。よくやるように、猫が走ってきて箱に突っ込み、出られなくなっているが、誰も助けようとせずにそれを動画に収めている。鏡に映った自分の姿を見て「ほかの猫」をやっつけようとして飛びかかり、ガラスに頭をぶつける猫。混乱する猫。怒っている猫。死ぬほど怖がっている猫。これを観て人々は笑うのだろう。まったく他意のない、単純にユーモラスな動画もあるのは知っている。それでも申し訳ないが、何もかもがやり過ぎだと思うし、それに本書のテーマとは大きく反れている。ただ、読者の皆さんの中にはもしかしたらこうした動画の視聴者がいるかもしれない。だとしたら、著者である私自身はとにかく一言だけ、動画に出演している猫が体験していることについて考えてみてほしいと伝えたい。

どんな猫にも持って生まれた本質に合った生活を送る権利がある。動画を観て考えてみて欲しい。この猫は幸福に生きているだろうか?

(p.231 - 232)

 

 私自身もSNSで飼い猫の写真をアップしたりはするが、基本的は猫が寝ている姿やリラックス姿を映した(つまらない)写真であり、著者の批判を受けるようなものではないと思う。また、猫の「かわいい動画」や「おもしろ動画」などに、明らかに猫のストレスを与えているような不適切なものがあるのは事実だ。そして、ユーチューバーたちの間でスコティッシュフォールドの猫を飼うことが流行っていることなど、猫が動画やSNS投稿のネタにされることによって、ペットショップの利用への敷居が下がってしまったり純血種信仰に拍車がかかる側面があることは否めないだろう。

*1:過去に、この本の原著についての批判記事を訳している。

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『功利主義とは何か』

 

功利主義とは何か

功利主義とは何か

 

 

 おそらく現代の世界に現存する哲学者としていちばん有名で影響力のあるピーター・シンガーと、ポーランド出身のカタジナ・デ・ラザリ=ラデクの共著。原著はオックスフォード大学出版局のVery Short Introductions シリーズの一冊として刊行された。

 

Utilitarianism: A Very Short Introduction (Very Short Introductions)

Utilitarianism: A Very Short Introduction (Very Short Introductions)

 

 

 この二人には、倫理学者のヘンリー・シジウィックの思想を解説しながら現代における功利主義を主張する『The Point of View of the Universe: Sidgwick and Contemporary Ethics(宇宙の視点:シジウィックと現代倫理学)』という著作もある。この本については3年前の正月にこのブログで章ごとに内容を要約する記事を書いていた(力尽きてしまい、途中の章で止まってしまったが…)。

 

davitrice.hatenadiary.jp

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 同じ二人が書いている本だけあって、『功利主義とは何か』で書かれている内容は『宇宙の視点』で論じられていることと共通している点が多い。『宇宙の視点』でシジウィックを引用したりしながら詳細に解説されていた内容が、よりスマートで洗練した形で書かれている感じだ。

 ただし、Very Short Introductions(一冊でわかる)シリーズとはいえ書かれている内容はやや高度であり、倫理学における権利論と功利主義の対立関係や功利主義に関する一般的なイメージなどを知っていないと、理解するのが難しいところはあるかもしれない。

 以下では、気に入った部分のメモを箇条書きする。

 

・「功利主義はあまりに多くを要求しすぎだろうか?」という節においては、そもそも功利主義では「正しい人間」や「悪い人間」という観点で人を判断することはなく、あくまでその人の行為がもたらす善の多さに注目する、という点が強調される。そして、誰かを賞賛したり非難したりするという行為自体の正しさも、功利主義的な精査の対象となるのである。

功利主義は賞賛と非難について異なったアプローチを取る。功利主義的アプローチの鍵になるのは、「われわれは何をすべきか?」と「われわれは人々が何をしたら賞賛し、あるいは非難すべきなのか?」は別の問題だという点だ。誰かを賞賛する、あるいは非難するということは一つの行為であり、その帰結に基づいた評価を受けねばならない。

(p.95)

 

 実際、功利主義的な考え方を多少なりとも内面化すると、誰かの人格や人間性自体を道徳的に非難する、という発想が薄れていく感じはある*1。「罪を悪んで人を悪まず」ということだ。現代的な犯罪予防政策やモラルハザード対策というものも、基本的には罪を犯した個人よりもその罪が起きるような環境や制度に焦点を当てて改善していくものになっているだろう。功利主義が現代に適した倫理学理論である所以のひとつと言えるかもしれない。

 また、アラステア・ノークロスによる「スカラー功利主義」論についての解説も印象的だった。

 

それは、行為は「それが幸福を推進する程度に応じて正しく、幸福の反対をもたらす程度に応じて不正である」というジョン・スチュアート・ミル功利主義の定義の用語法によって示唆されたものだ。しかし、比較的最近まで、この定義によれば行為は「より多く正 more right」だったり「より少なく正 less right」だったりするということが可能だ、という示唆に誰もほとんど注目してこなかった。

…おそらくわれわれは、正と不正という観念や、義務を果たすか果たさないかといった観念を捨てるべきなのだろう。その代わりに、われわれの与える量が増えれば増えるほどわれわれの行為はよりよくなる、と言うべきではないか?

(p.95-96)

 

 マイケル・シャーマーも著作『道徳の弧』のなかで、「定性的」な道徳判断から「定量的」な道徳判断への移行を唱えていた。人間の心理の性質として、(特に道徳に関するような)物事を判断するときには「1か0か」という定性的な判断してしまいがちなのであるが、複雑化する現代社会における道徳判断はもっと微妙で、中間的なものを考慮できる定量的な判断が必要とされるのである。

 

功利主義への反論としてありがちな「経験機械」論について再反論している箇所から引用。

 

完璧な偽造以上のものをわれわれが欲するのは、疑いもなく、われわれの進化の産物であり、われわれが理性的に擁護できる選好ではない。

…われわれが経験機械に入りたがらないのは、われわれの多くの他の決定と同じように、「現状バイアス」の結果のようだ。われわれは自分が慣れているものを好む。変化するのは余分の努力であり、しかも危険だ。だからわれわれが自分の知っている世界を離れて機械に繋がれることを望まないのには何の不思議もないーー特にわれわれはその機会がうまく機能するかどうかさえ確信が持てないのだから。

(p.72-73)

 

 このほかにも、様々な架空の事例や思考実験を持ち出して、それらに功利主義の理論で応えようとすると「直観に反する」結果となってしまう、という批判は定番である。それに対して、著者たちは「直観」自体の不確かさや恣意性を指摘することで反論するのだ。

 ジョシュア・グリーンポール・ブルームスティーブン・ピンカーなど、心理学や進化論の知見を参照しながら直観や道徳感情の問題性を指摘して、それらの感情に左右されない結論を導き出せる功利主義の優位性や、複雑な現代社会における功利主義の必要性を説く論者はほかにも数多くいる。

 倫理学の入門書などでは未だに思考実験からの功利主義批判が定番となっている感があるが、そろそろアップデートされてもよいだろう。

 

・「感覚ある存在者を超えた価値」の節(p.67~)や「人口のパズル」(p.138~)の節は、いま流行りの反出生主義とも関係してくるところだ。

 

・最後の一文は印象的。

 

ますます多くの科学者が幸福の測定にたずさわり、幸福をもたらすのは何かを理解しつつあるので、公共政策の基本的目標としての幸福という概念は支持を得ている。このことを知ったらベンサムも喜ぶだろう。

(p.143)

 

 ・第2章の「正当化」はある意味でいちばん複雑で専門的な箇所であるが、重要な箇所だ。功利主義への反論に対する再反論や功利主義の応用方法などについての解説よりも、功利主義の理論自体の正当化の方が解説が難しいのである。

 この章では功利主義創始者として有名なベンサムやミルのみならず、シジウィックやハーサニィやスマートなどの創始者以降の功利主義者たちを紹介しながら、正当化が洗練されていく過程が簡潔に紹介されている。

 

・各人は一人として数えられるべきで、誰も一人以上に数えられるべきではないというベンサムの考え方。ミルもこれを支持した。

・いかなる個人の福利も他の個人の福利と同等なものとみなすべしというシジウィックの要請。

・われわれが選択を行う集団のすべての成員の間で公平であることを強いる無知の立場をハーサニィが選択したこと。

・一般化された善行に関するスマートの感情。

・われわれの行為によって影響を受ける者すべての立場に自分を置いてみることを要求するヘアの道徳的言語の分析。

(p.36)

 

  上記で要約されているものの他にも、たとえばシジウィックによる「常識道徳」の分析も重要だ。

 

…常識道徳はわれわれに決して嘘をつくなとは言わない。しかし、例外に関する何らかの手引きを得られるようなかたちでその規則を洗練しようとした途端に、こうした規則の明確性や一見したところの自明性は崩壊する。「……以外の時には真実を語れ」は、そうした例外それ自体が明白で自明でなければ、自明の道徳的真理となりえない。

これはシジウィックによる常識道徳の広範な分析の一例にすぎない。その要点は、常識道徳の原則は、留保や例外をすべて伏したなら、自明ではなく、より深い説明を必要とするようになる、ということだ。その深い説明とは、それらはより大きな善に向けたわれわれの活動を案内する手段である、というものだ。

(p.27)

 

・第1章の「起源」では、古代ギリシアエピクロス派のみならず、墨子の思想にも功利主義的な要素があることが指摘されている。そして、「仏教の思想は功利主義的な傾向を持つ」ともされているのだ。

 

というのは、それは感覚を持つあらゆる存在への共感を滋養することによって、苦しみーー自分自身と他の人々の苦しみーーを現象させるよう信徒たちに説くからだ。

(p.2)

 

「感覚を持つあらゆる存在」とは、仏教用語でいう「有情」のことである。

 

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 最近ではアルファツイッタラーが「有情」の概念を理解せずに仏教とヴィーガンを比較して後者を非難するツイートを行なっていた。しかしまあ、日本の仏教には「草木国土悉皆成仏」の思想も入っているために「有情」の概念が忘れがられちという面はあるのだろう。いずれせよ、仏教と功利主義の共通点という発想は普段は意識されないので面白い。

 

*1:ただし、規則功利主義や二層功利主義においては規範を破る人の人間性を非難することも必要なものとされるかもしれないが。

明けましておめでとうございます1月2日は僕の誕生日です

 

 このブログは利益や金銭目的で運営しているわけではないのですが、せっかくの誕生日なので…

 

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