道徳的動物日記

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覚え書き:「被害者性の文化」と「美徳シグナリング」

(深夜に突貫で書いた記事なので、かなりグダグタな内容になっている)

 

 ポリティカル・コレクトネスとそれが引き起こす問題は様々な場面に存在している。このブログでは主にアカデミアにおけるポリコレの問題を扱ってきたし、今年からはじめた映画日記の方では創作表現におけるポリコレの問題についても扱うようになった。

 アカデミアにおけるポリコレの問題と創作表現におけるポリコレの問題はどちらも「表現の自由」に関わる問題であるとはいえ、わたしは、なるべく一緒にはせずに別途の問題だと見なすようにしている。とはいえ、「どちらにせよ、その根源にあるものは同じだ」いう考え方もあるだろう。それに、アカデミアから価値観の多様性が失われて思想の自由市場が機能しなくなるという問題にせよ、創作において物語表現の幅が狭まって物語自体の質が損なわれるという問題にせよ、それぞれの問題の結果は別であっても、そもそもの問題のたちあらわれ方や問題のされ方には同一のパターンがあるとも考えられる。そちらについて注目して分析することも、重要であるのだろう。

 というわけで、その「分析」を行ってみたいところだが……なにしろ最近はわたしも忙しいので(映画を見るのって時間がかかるし、見た映画についてはすべてなんらかの形で感想を書くことを自分に義務づけてしまっているから、さらに時間が取られてしまうのだ)、そうそう気軽に「分析」や「議論」を展開できるわけではない。というわけで、今回からは"覚え書き"シリーズとして、思いついたことのメモを取ったり昔に読んだり書いたりした記事から重要だと思う点を改めて引用して取り上げたりしてみることにした。

 

 諸々の「ポリコレ問題」を引き起こして悪化させている原因に、TwitterをはじめとするSNSの存在が関わっていることは、もはや疑いようがない。SNSは、既存のマスメディアであったり社会運動であったりとは全く異なるかたちで、独特の文化と有害な風潮を作りあげている。

 それには様々な要因があるだろうが、わたしが特に重要だと思っているのは、SNSはユーザーたちに「自分の発言が不特定多数の他人に見られている」という意識を強く持たせて、他人からの評価ありきの行動を誘発しやすい構造になっていることだ。さらに言えば、"自分"がいま関わっていたり対面していたりする"相手"ではない、自分の”仲間”であるオーディエンスたちからの評価ありきの行動になるところが特徴である。

 ここを分析するうえで役に立つように思われるキーワードが、ふたつある。ひとつは被害者性の文化であり、もうひとつは美徳シグナリングだ。

 

「被害者性の文化」の特徴については、わたしが数年前に訳した社会心理学者のジョナサン・ハイトの記事から引用しよう。

 

個人や集団が、自分たちは些細な軽視にも敏感に傷つくということを見せびらかし、第三者に訴えることで紛争に対処しようとする傾向があり、助力の必要な被害者であるというイメージを獲得しようとする、という文化である。

……(中略)……

被害者性の文化の特徴とは、地位についての懸念と侮辱に対する敏感さと、第三者を当てにしている度合いの大きさだ。意図されていないものであったとしても人々は侮辱に耐えられず、権威や社会一般を問題に注目させることによって対抗する。

……(中略)……

このような状況のもとで、第三者への訴えが寛容・堪忍交渉に取って代わった。人々は他人からの助けを求めるようになり続けて、自分が尊重と助力に値することの証拠として自分が受けた抑圧を喧伝する。

「被害者性の文化」と「マイクロアグレッション」 - 道徳的動物日記

 

「美徳シグナリング」については、日本語版Wikipediaと以前にわたしが書いた記事から、それぞれ引用する。

 

美徳シグナリングは、他に類を見ない類の善行を公の場で誓う空虚な行為を糾弾する蔑称として人気を博した。バーソロミューの元記事では、バーソロミューは「美徳シグナリング」を、ある問題について社会的に許容される自身の提携を他の人に知らせることを目的とした、関連するコストがほとんどかからない公共の行為として説明している。ジェフリー・ミラーは、美徳シグナリングを生得的な行為であり、すべての人間が行うものであり、避けることができないものであると説明している。

美徳シグナリング - Wikipedia

 

それは、「自分の集団の連携を保持して、敵対する集団の連携を破壊しようとする心理的適応」である。これは、左派の場合にはジェンダーの平等や社会正義の達成など、"集団において望ましいとされている目標に自分がコミットしていること"を他人に広く知らしめるために主に用いられる行動であり、心理学的には「Virtue Signalling(美徳のシグナリング)」と呼ばれるものだ。

進化心理学はなぜ批判されるのか? - 道徳的動物日記

 

「被害者性の文化」については、2013年の小野ほりでいの記事で話題になった「繊細チンピラ」というスラングでイメージされるものが近いかもしれない。

「美徳シグナリング」は、自分が「正しい行為にコミットしている」「正しい目標に同意している」ことを他人に開示する(=シグナリングする)という行動を指すものである。シグナリングという言葉に馴染みがなければ、「アピール」と認識してもらえばいい。

 

 Twitterを眺めていると気付かされるのは、「問題を起こしたアカウントや物事を取り上げて、その問題に対する批判や抗議の意見や、怒りや憤慨の感情を開示する」というかたちでのシグナリングが多いことだ。つまり、「自分が正しい行為を行なった」ということを示すのではなくて「他人の正しくない行為に自分は賛同しない」ということを示している。

 他人の行為や言動が問題である、と自分は理解できている……ということ自体が、同じ問題意識を抱えた仲間のうちでは、たしかに美徳とされる。それに対する抗議や批判の意見に怒りや憤慨の感情を積極的に示すことは、もっと美徳だ。140字に満たない文字を書き込むだけの行為であっても、美徳とされて、仲間内での評価を維持することにつながり、いいねやRTももらえる。

 しかし、他人の行為や言動によって傷付くことは、批判や怒りよりもさらに上位の美徳とされているようである。批判や抗議の意見、怒りや憤慨の感情を示す場合にも、「問題となっている行為や言動によって、自分が傷付いた」ということを先に開示することで批判や怒りの効果がさらに増す。なんなら、他人の行為や言動のどこがどう問題であるかということを説明できなかったり理解できなかったりする場合にも、「傷付いた」という事実によってそれが帳消しになる場合があるのだ。傷付きが発生した時点で、その行為や言動は問題であることを証明するには充分だ、ということである。

 日常的なコミュニティにおける議論や批判とは、"自分"から"相手"に対して発して、それに対して相手が返答することを前提にしているものだ。しかし、SNSにおける批判は、形式的には相手に対して向けられている場合にも、実際には”仲間”であるオーディエンスの視線を意識して開示しているものになっており、相手からの返答は前提としてない場合が多い。むしろ、相手からの返答が返ってきて議論がはじまってしまい、それに応じて説明責任が発生することを望んでいない場合が多いだろう。

 傷付くことは、返答や説明責任を回避するうえでも便利だ。傷付きを表明した時点でこちらは被害者であり、相手は加害者である。被害者には、加害者と議論をやり取りを行う義務はないものだ。加害者が行うべきは返答や反論でなくて、謝罪のみである。

 

 ……という風に抽象化してしまったが、「被害者性の文化」と「美徳シグナリング」は、二つの概念をうまく組み合わせたり相互作用について注目することで、特にSNSにおける様々な事情を分析したり説明したりできる道具になると思う。

 たとえば、”質問箱”やそれに類する匿名質問サービスをやっている人が、その人自身の過去のツイートのごく些細な問題であったり言葉尻だったりが指摘されて、反省を要求される、という光景を目にすることはよくある。さらには、客観的に見てなんの問題のないような言動についても、匿名の質問者が「わたしは傷付きました」と言えば、回答者は謝るしかない。そもそも”質問箱”をやってその回答をフォロワーたちに開示すること自体が第三者の目を意識したシグナリング行為を目的としたものであるからだ。そして、もちろん、匿名の質問者のほうはいつでも「傷付いた」と言うことができる。

 

 あるいは、『私たちにはことばが必要だ』という本に関する以下のような指摘だ。

 

 最初僕はタイトルだけ読んでこの本は「ああこれまでのフェミニズムのように、対話を重要視してるんだな」と思ってたんですね。ところが、読んでみるとこの本はむしろ、ひたすら「異なるものとの対話なんてしなくていい」と、対話の価値を否定しているんです。この本で言う「黙らない」「ことばが必要」というのは、男性やマジョリティに投げかける言葉ではなく、むしろ女性同士で内向きに自分たちシスターフッドを鼓舞する「内向きの言葉・会話」のことだったのです。

シーライオニングから考える「保守のフェミニズム」 - あままこのブログ

 

「内向きの言葉・会話」であるだけならいいが、たとえば、その言葉や会話の肴として男性による問題のある行為や言動が持ち出された場合は、話が別である。肴にされる男性にとってはたまったものじゃない。そして、内向きの会話をするときには互いが互いを被害者だと見なしあう方が、会話が盛り上がるものであるだろう。

 

 とはいえ、「被害者性の文化」を非難することには、実際に起こっている深刻な被害を等閑視したり、被害者の告発を無力化してしまうという危険性があることも言うまでもない。

「美徳シグナリング」という概念の問題は、これはシグナリング理論全般に当てはまる指摘だが、「それを言い出したらどんな行為も言動もなにかのシグナリングになってしまうんじゃないの?」ということである。

 特に後者の問題は深刻だ……というか、この記事を書いている時点で、「自分のあのツイートもシグナリングだよなあ」「今日もシグナリングしちゃったな」「このブログ自体がシグナリングじゃないか?」という疑問が浮かびつづけていた。

 ちなみに、「被害者性の文化」に伴う傷付きアピールも、わたしも若い頃は盛んにやっていた思い出がある。いまはそれを反省しており、他人の行為や言動の問題を批判するときに感情をあらわす場合には、傷付きよりかは怒りを表明するようにしている。それも「俺がムカついた」という主語をはっきりさせて、他人がわたしの怒りに共鳴することは避けるように心がけているのだ。みんながそれをやり出すとTwitterはいま以上に殺伐とした場所になってしまうかもしれないが、ある種の爽やかさはもたらされるかもしれない。

 

 

 

「反ポリコレ」とKKKや反ユダヤ主義は結び付いている…… かもしれない(読書メモ:『白人ナショナリズム:アメリカを揺るがす「文化的反動」』)

 

 

 同じ著者の前著『リバタリアニズム:アメリカを揺るがす自由市場主義』では、表面上では客観的・中立に扱っている風でありながらも政治的イデオロギーとしてのリバタリアニズムに著者が共感を抱いており好意的であることがミエミエな点に「自称中立」のきらいがあったが、この本はかなり充実した内容になっている。政治的理論の一種でもあり比較的"まとも"な主張であるリバタリアニズムと違い、通常は共感や好意を抱くことが困難である「白人ナショナリズム」を扱っているからこそ、否定に寄り過ぎない"中立"な筆致が功を奏しているのだろう。

 この本の前半では、実際に白人ナショナリストの会合に参加したり団体の会員や代表者と交流したりした様子について書かれている。そのため、白人ナショナリストたち同士の間にある微妙な違いとか彼らの主張のなかにあるニュアンスのようなものも伝わるようになっている。ここら辺は、文化人類学ディシプリンを備えた著者の面目躍如といった感じだ。アメリカの政治運動や「ポリティカル・コレクトネス」に関連するカルチャーについて扱った日本語の記事や本には、扱っている対象のコンテクストや勢いに引きづられて、イデオロギーちっくであったりマニフェストじみていたり、そうでなくても用語と問題意識の解説に終始した抽象的なものが多かったりする。この本はそういう風になっておらず、地に足のついた筆致で、白人ナショナリストたちの実態を淡々と明らかにしている。変な言い方になるが、著者が学者として成功した中年男性であり弱者としての属性をほとんど持たないマジョリティであることが、こういう問題を扱うほかの日本人作家にありがちな「繊細さ」や「敏感さ」を抑制して客観的で穏やかな筆致をもたらした、という良い効果をもたらしているように思えるのだ。

 

 白人ナショナリストやトランプ支持者といえば低学歴な貧困層、というイメージも強いところだが、この本は高学歴で"知的な"白人ナショナリストたちの活動が紹介されている*1。たとえば、白人至上主義系の雑誌『アメリカン・ルネサンス』の年次会合に著者が参加してみたところ、「まるで学会のような雰囲気」(p.7)であったそうだ。

 知的であったりアカデミックであったりするということは、そのイデオロギーには大なり小なり論理性や客観性や妥当性が含まれている、ということでもある。たとえば、『アメリカン・ルネサンス』の年次会合ではハンティントンの『分断されるアメリカ』が平積みにされていたらしい(p.8)。『分断されるアメリカ』はわたしも読んでいる。この本は大した内容だとは思わなかったが、ハンティントンの弟子であり『分断されるアメリカ』の内容も引用されているフランシス・フクヤマ『IDENTITY 尊厳の欲求と憤りの政治』なら読んでいて面白さや妥当さも感じた。また、『リベラル再生宣言』を書いてアイデンティティ・リベラリズムの問題点を訴えたマーク・リラやアメリカの多文化主義に警報を鳴らしているジョナサン・ハイトなんかも、多くの"知的な"白人ナショナリストたちにとってはお気に入りの論客なのだろう。……そして、彼らはわたしがこのブログで好意的に紹介してきた論客でもある。もちろん、「白人ナショナリストに好かれている」という事実自体が彼らの主張の妥当性を損なわせることにはならないのだが(「その論客の主張が妥当であるかどうか」と「そんな論客のファン層がどんなものであるか」は関連のない別の事象であるからだ)、これから紹介するときにはちょっと気を付けようとは思わさせられてしまった。

 また、「加速主義」「暗黒啓蒙」なんかも白人ナショナリストとかオルトライトとかに結び付いている、ということも指摘されている。

 

「白人ナショナリストの九十九パーセントは日本が好きです」(p.20)というセリフは、さらっと書かれているがなかなか衝撃的だ。KKKの幹部であるデヴィッド・デュークも、「日本の文化や自然の素晴らしさに感銘を受けました」「単一人種国家(mono racial country)を訪れたのは日本が初めてでした。人種の血筋(racial heritage)が保持されている社会の偉大さに気づかせてくれたのが日本でした」「私は三島由紀夫が好き」(p.39)などと、著者に語っている。

 白人至上主義者といえども、そのイデオロギーは「生物学的に白人の方が優れていて、多人種は劣っている」というものだとは限らない。むしろ「多様性はアメリカを蝕んでいるので、多様性を排除する」というものであったり「白人は弱者なので、その地位を回復する」というものであったり、あるいは「アメリカは白人のための国家として創立されたので、アメリカを白人の手に取り戻す」というものであったりする。KKKですら、最近では反黒人色を弱めているそうだ…… その代わり、反ユダヤ色は強まっているらしいけれど(p.45)(白人ナショナリスト団体のなかにも、代表や創設者がユダヤ系である団体もあれば明確に反ユダヤを主張している団体もある、ということもこの本では指摘されている)。

 

当然ながら、ナショナリストとして生まれてくる者はいない。また、私が知る限り、他の人種を単なる外見、ないし生理的理由から拒絶している者は皆無に等しい。日常生活では隣人、友人、同僚として親しく接している場合がほとんどだ。この点、日本におけるコリアン系などへの排斥運動に違和感を覚える者が少なくなかった。「日本人もコリアンも人種的には同じです。しかも、コリアンは日本社会に同化しているので何ら問題ないのでは」「コリアン系の自宅や学校、職場にまで出向き立ち退きを求めるのは直接的すぎる(too direct)と思います」…… 。

また、白人ナショナリストだからといって、非白人が多数派の国々を否定するわけでも、ましてや支配しようとしているわけでもない。日本のような同質性の高い社会には敬意を抱いており、介入主義やグローバリズムには否定的だ。あくまで、本来、白人が礎を築いてきた米国(ならびに欧州など)で、白人が不当な扱いを受けていること、礎そのものが覆されつつあることへの異議申し立てという位置付けである。上の世代の場合は公民権運動が、下の世代では進学や就職の際のアファーマティブ・アクション積極的差別是正措置)が大きな契機となっている場合が多い。そして、どちらの世代も、今日の米国を覆っている「ポリティカル・コレクトネス」(PC)は自由を脅かす「言論統制」の一種であり、その推進者や擁護者を「コミー」(commie、共産主義者の別称)と糾弾する。

果たして、自分たち白人は咎められ、赦しを請うだけの存在なのか。胸を張るべき伝統や血筋もあるのではないか。こうした感覚に個々人の経験が重なってナショナリズムに傾倒している場合が多いようである。……

(p.117-118)

 

「反ポリティカル・コクレクトネス」というものには、しょせんはメディアやフィクションなどへの表現規制に対する反発であるというイメージが強くて、シリアスな政治問題というよりかは趣味や文化の領域の問題だというイメージがあるかもしれない。いかにもインターネットっぽい話題であるし、人の生命を左右する経済問題とか外交問題に比べると、言論がどうこうとか映画の内容が偏っているどうこうというのはだいぶ「お遊び」に寄っている雰囲気もあるかもしれない……が、そんなことはなくて、人のアイデンティティに関わる重要な問題である。だからこそ、趣味や文化の問題からナショナリズムというガチの政治問題に直結する。さらには、KKKといった団体に参加して有色人種やユダヤ人を排斥するなど、ガチの差別行為にも一本筋で結び付く可能性があるのだ。

 そして、ポリティカル・コレクトネスに対する反感や「不当な扱いを受けている」という感覚、「礎そのものが覆されつつあることへの異議申し立て」などは、日本人の多くにとっても理解と共感が可能なものであるだろう。だからこそ、大統領選挙でトランプに投票したアメリカ人たちに対して共感や理解を示した日本人が多かった。最近のブラック・ライヴズ・マター運動に対しても、運動が糾弾の対象とする白人や警察の側に立って運動家や黒人の方を批判する、という日本人はよくいる。運動がもたらした混乱の様子を映した動画や画像なんかが嘆きや揶揄のコメント付きでシェアされてくる、というのもよくあることだ。

 このような現象に対して「日本人だって、アメリカに行ったら白人から差別されるマイノリティであるだろう。それなのに、"名誉白人"のような気分になって黒人を非難するとは愚かなことだ。アメリカに行って白人からの差別を受ければ、自分がどんな勘違いをしていたか気が付くだろう」みたいなコメントをする人も多い。しかし、このコメントかなり見当外れなものだ。

 まず、そもそも日本人の大多数はアメリカに行くことがないので、「アメリカに行ったら自分も差別される」なんてことを言われたところで脅しにならない。

 そして、白人ナショナリストたちが抱いているようなポリティカル・コレクトネスや多様性に対する反感を自分でも抱いている日本人にとっては、白人ナショナリストたちは住んでいる国や場所がたまたま違うだけの「同胞」のようなものである。だからこそ、理解や共感を示すのだ。

 そこでは「日本人はアメリカに行ったらマイノリティ」であるかどうかなんて、まったく関係がない。白人ナショナリストたちが、白人が皆無な日本のことを「同質性を保っていて多様性のない理想の国だ」と賛美することの裏返しであるともいえるだろう。

 ……とはいえ、だからといって米国内の人種差別(あるいは日本国内の人種差別)に加担するようになったら、それはやっぱり問題である。わたしだってポリティカル・コレクトネスの問題はこのブログでしつこいくらいに指摘し続けてきたが、だからといって人種差別やナショナリズムを認める気はない。それはそれ、これはこれ、だ。まあ「それはそれ、これはこれ」を徹底し続けることが困難である、ということがまた問題であるのだろうけれど。

*1:"低学歴な貧困層の白人ナショナリスト"に関する記事はこちら。

davitrice.hatenadiary.jp

読書メモ:『「勤労青年」の教養文化史』

 

「勤労青年」の教養文化史 (岩波新書)

「勤労青年」の教養文化史 (岩波新書)

  • 作者:福間 良明
  • 発売日: 2020/04/18
  • メディア: 新書
 

 

 タイトル通り歴史(文化史)に関する本であり、歴史に関する本ってひとくちにまとめたり感想を書いたりするのが難しいものだが、この本は「プロローグ」に書かれている問題意識の時点で面白い。

 

こう考えると、かつて広がりを見せていた大衆教養主義がなぜ衰退したのか、という問いが浮かび上がる。教養主義とは、「読書を通じた人格陶治」の規範を指す。大正期から一九六〇年代にかけて、旧制高校・大学キャンパスでは、文学・思想・哲学等の読書を通して人格を磨かなければならないという価値観が広く共有されていた。古今東西の古典を集めた岩波文庫が学生たちに読まれたのも、そのゆえであった。これは試験でいい点を取ったり、よい就職先にありつくことを目的とするものではなかった。

だが、教養主義は決して学歴エリートの専有物だったわけではない。大学はおろか高校にも進めなかった勤労青年たちのあいだにも、「読書や勉学を通じて真実を模索し、人格を磨かなければならない」という価値観は少なからず広がっていた。

(中略)……しかし、今日では「実利を超越した読書・教養」といったものは、ポピュラー文化ではもちろんのこと、教育に関する議論においても、ほとんどふれられることはない。教育をめぐる経済格差や高等教育の無償化はしばしば論じられるが、多くの場合、そこで念頭に置かれているのは、社会上昇の問題である。上級学校進学の希望が阻まれることで、就職や雇用形態が制限され、階層上昇が困難になってしまう。こうした状況をどう改善していくのかが、そこでの論点である。これが喫緊の課題であることは言うを俟たない。だが、格差や貧困が社会問題になっていた点では、『キューポラのある街』の時代も同様である。当時は高度経済成長期の前半期にあたりながらも、家計困難のゆえに高校進学が叶わない青年は少なくなかった。では、かつて、教養主義的な価値観はなぜ、映画のようなポピュラー文化においても広く共有されていたのか。そして、それが消失したのはいつ、なぜだったのか。

(p.4-5)

 

 本文中で印象に残ったのは、以下の箇所。

 

進学組と就職組のヒエラルヒーを反転させようとする志向は、しばしば知識人批判にも結び付いた。

(中略)…… だが、繰り返し述べてきたように、人生雑誌には知識人の論説が多く掲載され、知への憧れや知識人との親和性は際立っていた。では、知への憧れと知識人批判は、いかにして両立できたのか。そこにあったのは、知識人が専有する知を奪取しようとする欲求であった。

(中略)……そこには、「反知性主義的知性主義」を見出すことができよう。知識階級への憎悪(反知性主義)を抱きつつ、知や教養、さらには知識人への憧憬(知性主義)が並存する状況は、一見、矛盾含みのものではある。しかし、微細に見てみると、両者の間には順接の関係性を見出すことができる。高等教育を受けられなかったにもかかわらず、知や教養に憧れを抱くことは、必然的に知識人層によって知が独占されることへの反感を生む。その心性は、知識人とも対等であろうとする平等主義的な価値観に支えられていた。人生雑誌は、こうした反知性主義的知性主義に根ざすものであった。

(p.213-215)

 

「エピローグ」の最後の段落にある文章もなかなか示唆的だ。

かつて人文知は、インテリ層のみに支えられるのではなく、格差にあえぐ若者たちによって下支えされていた。「格差と教養が結びついていた時代」から遠く離れるなかで、現代のわれわれは何を失ったのか。

(p.277)

 

 この本では、戦後の苛烈な労働環境のもとで苦しんだり疲弊したり消耗したりしながらも、「実利」ではない「教養」や「知」を求めた青年たちの姿が描かれている。縦社会の工場で抑圧を感じていた工員たちにとっては、平等主義的で「学校民主主義」の場である定時制高校が「解放」の場であった(「学校のもつ雰囲気がたまらなく好きなのです」(p.155))、というエピソードはなかなか感動的だ。一方で、「就職組」が「進学組」をリンチして殺害した事件があったなど(p.124)、格差に基づく対立も相当なものであったらしい。あと、人生雑誌を読んでいたら「アカ」扱いされて職場での立場が悪くなったり後ろ指を指されたりしていたそうだ。気の毒である。

 そんな彼らが年をとって余裕は出てきたが情熱は失ってきたときに求めたのが『プレジデント』や『歴史読本』であったり、司馬遼太郎や『真田太平記』などの時代小説である、というエピソードもなかなか印象に残った。ネットではかしこさんたちに馬鹿にされがちな「大衆教養主義」や「反知性主義」ではあるが、その背景にはいろいろと重たくシビアな現実があって、そのなかでの解放だったり救済だったりするものなのだということが学べた。

 勤労青年が「格差や貧困に向き合うなかで社会批判への関心が芽生え、時事問題や社会科学に目を見開いていった」「彼らは格差のゆえに教養から排除されたのではなく、逆に格差のゆえに教養に接近したのである」(p.266)というのは、たとえば『日本の分断:切り離される非大卒若者たち』で示されている現代の若者たちの姿とは真逆と言っていいほど対照的だ。現代の問題はこの本のテーマではないので「なんでいまの若者たちはこうなっちゃったのか」という話はされていないが、考えてみるといろいろと興味深い題材ではあるだろう(娯楽と情報の過多、かりそめの「中流」や「平等」の意識、社会の高度資本主義化による物質主義の肥大、アメリカのせい、などなどが関係していそうなところだ)。

 個人的な話をすると、修士課程までとはいえ大学院にまで行ってしまったわたしは完全に「進学組」の側の人間ではあるが、この本で描かれている勤労青年たちの「教養」に対する憧れはにいろいろと共感できる。わたしも、学生時代であったりフリーターやニートをやっていって時間や体力が余っている期間よりも、フルタイムで(そしてワープア同然の状態で)働いていて余裕のなくなっている期間のほうが俄然と「教養」に対する渇望が湧いてきて、それで無理して本を読んだり感想を書いたりして疲れちゃったりする。根本にはやっぱり「労働」なり「現実」なり「社会」なりの辛さがあって、それに悩まされながら生きているときには教養が「解放」へと結び付く、ということなのだろう(なので、教養を「解放」ではなく平常から仕事の一環として当たり前に触れるもの、という知識人に反感を抱くということもわからないのではないのだ)。

ひとこと感想:『ステレオタイプの科学:「社会の刷り込み」は成果にどう影響し、わたしたちは何ができるのか』

 

 

 本の題名だけ見ると、わたしたちが"他人"に対してどのようなステレオタイプを抱いているか、わたしたちが抱く「偏見」の正体はなんであるか、ということを扱った本のようにも思えてしまうが、……実際には副題に書かれている「社会の刷り込み」のほうが本題であり、ステレオタイプがわたしたち"自身"に対して抱く影響について書かれている。つまり、「女性は男性に比べて数学の成績が良くない」「白人の方が黒人よりも成績が良い」といった社会通念がテスト問題を解くときに女性や黒人の集中力に作用して成績にもたらす影響…その名も「ステレオタイプ脅威」に関する議論がメインとなっている。著者たちは、この「ステレオタイプ脅威」を最初に実験で再現して論文化した社会心理学者だ。

ステレオタイプ脅威」はきわめて社会心理学的な概念であり、進化心理学的な概念とはある意味で対極的な概念だ。たとえば現行の社会では「女性は男性に比べて数学の成績が良くない」となっているとして、社会心理学ならその理由を「"女性は男性に比べて数学の成績が良くない"というステレオタイプ脅威がテスト問題を解く女性のパフォーマンスに影響を与えることで、女性の成績が下がり、結果として"女性は男性に比べて数学の成績が良くない"という通念がさらに強まるのだ」と説明することになる("予言の自己成就"的な考え方でもあり、実に社会学っぽい)。一方で進化心理学なら「実際に、女性は男性に比べて数学が先天的に得意ではないのだ」とか「女性と男性との間に数学の能力の本質的な差はないが、女性には理数系を避けて人文系を志向する先天的な傾向があるので、結果的に男性の方が数学の成績が高い状況になっている」という風な説明をするだろう。

 どっちにも一理あって「そうかもしれない」と思えるかもしれないし、どっちも胡散臭い説明かもしれない。この本ではステレオタイプ脅威の存在を示す様々な実験の内容がちゃんと示されてはいる。それでも、現実の社会における複雑な事象に対して、限定された環境で得られる実験結果を安易に適用し過ぎているきらいがある。進化心理学的な仮説の退け方もちょっと粗雑な気がする。

ステレオタイプ脅威」は実在しており、だからこそ平等や公正を実現するために学校や企業や社会は「ステレオタイプ脅威」を排除するための施策を行わなければいけない、という主張は真っ当であり文句の付けようもないが……女性と男性との成績格差や白人と黒人との成績格差がそれだけで説明できるかというと、やはり違うだろうとは思う。先天的な差を持ち出さなくても、家庭やコミュニティの環境や学習に関する規範、興味関心の志向性などの方がずっと影響していそうなものだ。

 案の定、「ステレオタイプ脅威」という概念や実験の手法などには批判も行われているようである*1

 

ひとこと感想:『格差は心を壊す:比較という呪縛』

 

 

 タイトル通り、経済の格差がわたしたちの心や健康にもたらす悪影響について論じて、経済格差が広がると社会的分断も広まって政治にも文化にも悪影響が生じて自然環境も悪くなって…と、とにかく「格差」がもたらす悪影響をひたすら羅列した本。

 外国のこのテの本ではたまにあるスタイルなのだが、2ページに1個か2個かの割合で、なんらかの研究結果が紹介される。だから情報量はすごくて贅沢な本ではあるのだが、羅列感が強くなり、読み物としては単調でちょっと面白くない。わたしが以前から「経済格差の悪影響」に興味を持っていてそれに関する本をいくつか読んできたために、「知ってるよ」という情報が大半であったこともマイナスだ。能力主義の幻想とか「人間は利己的である」という幻想に対して反論する章の内容も、他の本で言われ尽くされていることではあったし。

 とはいえ、経済格差がもたらす悪影響をここまで大量に示されると、圧巻の説得力はある(「他の原因で生じているかもしれない悪影響をなんでもかんでも無理矢理に経済のせいにしていないか?」と思わなくもないけど)。

 

 経済格差を問題する議論については、「金持ちが1000万円稼いで貧乏人が200万円しか稼げない社会より、金持ちが3000万円稼いで貧乏人も300万円稼げる社会の方が、後者の方が経済格差が広がっていてもみんな豊かになるんだからいいだろう。大事なのは効率性や生産性であって、平等を絶対視するべきではない」というタイプの反論をすることができる。わたしも、原理的には、このタイプの反論は間違ってはいないと思う。しかし、この本に限らずにアンガス・ディートンの『大脱出』とかロバート・フランクの諸々の本とかは、経済格差によって生じる民主主義の機能不全や人々の心身に対する悪影響を示しているのだ。お金だけの問題じゃないのである。

 

 また、この本では「格差が激しい社会では格差の下側の人だけでなく格差の上側の人の心身にも悪影響が生じる」ということが強調されている。

 格差の激しい社会ほど、能力主義が蔓延して、地位や序列に対するこだわりが強くなる。そのために人々は他人に対して心を打ち明けてのびのびと接することが難しくなるし、格差の上側にいる人も自分の地位がいつ奪われるかという不安を抱えて生きてしまうことになる。そして、ヴェブレンが論じたような顕示的消費が拡大することにより、人々は無意味なものを買うためのお金を稼ぐことに躍起になって消耗する。

 

 なお、経済格差がひどい国の代表は言うまでもなくアメリカであるが、この本のなかでは日本(と北欧とドイツ)が経済格差の少ない国の代表格のように扱われている。そのために日本の読者としてはちょっとハシゴを外されるというか、「うそん」という感じになっている。

 

 この本のなかでは第七章「上流の文化はすべて一流であるという誤解」がいちばん面白かった。

『暴力の人類史』でもおなじみ、ノルベルト・エリアスの『文明化の過程』でなされていた議論が紙幅を割いて紹介されるところがいい。

 また、「エリートの美的感覚は本当に客観的で優れているのか」という節も、なかなか示唆的な内容となっている。

 

審美的な感覚の世界は、階級的な偏見や差別に全くとらわれない自由な領域である。一般大衆の好みは、“下品”、やぼ、低俗、どぎつい、けばけばしい、感傷的などと評されることが多い。しかし、エリートの美的趣味は、本当に洗練されたものであり、後天的に身についた条件反射というより、客観的な美的感覚に基づいたものだと主張する人がいる。あるアクセントが“不恰好だ”と見なされる一方で、別の言葉遣いやテーブル・ナイフの持ち方が “エレガントだ”と考えられている。

こうしたどうでもよい差別は社会的差別というよりも美的感覚の問題だというのは、全くのごまかしだ。階級差別のある社会では、階層の低い人々の特徴は何であれ見下される傾向にある。行動上の特徴、皮膚の色、宗教、言語についても、社会的地位に関連する場合は同じことが言える。

(p.331)

 

 日本の場合では「箸の持ち方」に関する議論がすぐに連想できるだろう。他の国に比べたら階級の差が少ないはずの日本ではあるが、「金持ちというものは人格的にも精神的にも優れていることが多いし、貧乏人というものは人格的に精神的にも問題があるものだ」という言説は昔からよく耳に入ってくる。

 また、お正月などに放映される「格付け」番組とそのなかでのもGACKTの扱いも、考えてみると「エリートなら審美的感覚も優れているはずだ」という俗情を巧みにエンタメ化したものだと言えるかもしれない。

スティーブン・ピンカーとブラック・ライヴズ・マター

togetter.com

↑ 自分でまとめたこの件について、思うところをちょっと書いておこう。

 

●今回はスティーブン・ピンカーという大物がターゲットになったことで話題になったが、アメリカのアカデミアにおける「キャンセル・カルチャー」の問題はいまに始まったことではない。今回はBLMが直接のきっかけとなっているだろうが、他にも「セクシズム」や「イスラモフォビア」などの咎で、これまでにも様々な学者たちの講演がキャンセルさせられたり謝罪要求をされたり、大学を追われたりしてきたいう経緯がある*1。今回については、除名といってもアメリ言語学会そのものからではなく「フェロー」の立場や「メディアエクスパート」の立場からの除名を求める運動ではあるが、言語学とはほぼ関係皆無の数年前のツイートを取り沙汰してポジションを奪うことが許されてしまうのなら、萎縮効果は明白だろう。だからこそ、ノーム・チョムスキーやジョナサン・ハイトというピンカーの論敵も含めた多くの学者が、ピンカーへの除名請求に反対しているのだ*2

 

●「キャンセル・カルチャー」はBLM以前から存在しているとはいえ、実際に人が死んだことがきっかけとなって火が付いた運動であるということや肌の色による人種差別という露骨な要素が問題となっているぶん、他の運動に比べても「逆らいにくい」雰囲気が強いようだ。ちょっとでも反論をするだけで「悪人」とのレッテルが付けられてしまう傾向が、フェミニズムやイスラモフォビアの問題に比べてもさらに強いのだろう。

 日本での反応を見ていても「たしかにピンカーの言動は差別的だと言えなくもない面はあるし…」とか「差別だとは言えないとしても無神経だし、時代の流れにあっていないよね」的なコメントをちらほらと目にする。しかし、「無神経」であることとか「時代の流れにあっていない」などのなあなあな理由で、学問の自由を萎縮・抑圧しようとする潮流が看過されてしまうことこそが問題なのだ。そして、言うまでもなく、「時代の流れにあっていない」からといって「差別的」であるとは限らない。"差別"や"被害者"の定義は時代に流れとともにどんどん拡大していくので対象となる事象も増していく、という傾向はあるだろうが、その傾向がそもそもおかしいという話である*3

 

●署名運動のなかで槍玉に挙げられている、以下のツイートについて。

 

 

 批判されているのは「元記事の要約の仕方が間違っている」こと、そして「警察による人種差別の問題を矮小化している」ということだ。

 しかし、アメリカの警察が他の人種よりも黒人を多く殺害しているという事象の原因が「人種差別」であるとは必ずしも言い切れない(あるいは、「人種差別」は一因ではあるが他にも原因がある)という指摘は、数年前からちらほらとなされているところである*4。とはいえそういう反論をしている人が明らかに右翼的な人物であるという問題もあったりするし、わたしとしても自分で訳しておきながら「この議論はちょっと詭弁っぽいな」と思わなくもなかったりはする。

 ……しかし、「レイシズム」や「セクシズム」という概念の厄介なところは、「現在の社会には人種差別や性差別が存在する」ということ自体には疑問の余地がないとしても、個々の事象において人種差別や性差別がどのような経路でどのように関わっているか(そして、他の要因がどのように関わっているか)を明確に論じるのが難しいということだ。そこの細かな検証や議論を抜きにして、人種や性別が関わるどんな問題についても「レイシズムが原因だ」「セクシズムが原因だ」と言いだしたら反証可能性のない陰謀論に堕してしまう。とはいえ、どんな場面においても告発や問題提起に対して「え〜でもそれって本当にレイシズム/セクシズムが原因と言えるの〜?証明できるの〜?」と言い出す輩がいるとしたら、そいつは差別の問題を矮小化したがっている人間であることはミエミエだろう。……しかし、告発や問題提起を批判なく全面的に受け入れることもやっぱり問題であり、問題となっている事象について"冷静"で"批判的"に議論を行える場所はどこかに確保しておかなければならない。そしてアカデミアとはまさに物事について冷静で批判的に議論するために存在している制度なのであり、そこにキャンセル・カルチャーを持ち込んで主流派の見解に異議を唱えたり批判を行ったりする人を排除することは、他の業界においてよりもずっと深刻な問題となるのだ。

 

●Togetterの方に印象的なコメントがあったので、引用しよう。

 

これはかなりヤバい話、かつ決して他人事ではない。言語学だけでなく、人間を対象とした学問はどうしても科学的事実と価値判断が分離しきれない部分があるわけだが、そこを攻撃の起点にして「差別を矮小化」していると批判することで、自由に気に入らない人間を科学界から追放することが出来てしまう。

何がやばいかって、「差別を矮小化」していると批判される可能性を防ぐためには、「差別構造を喧伝」する方向にバイアスかける必要があるってこと。科学者は、研究の仮定やら解釈に多少の価値判断を入れることが出来るし、それ自体は仕方ないのだが、それが全員一方向に揃えるような強制力が働くようになる。

これによって、科学的事実とは直接関係のない価値判断がなぜかその分野の総意となり、しかもそれは科学による反証可能性がない。いまや欧米が殆どの学問を牽引している以上、日本のアカデミアもそれに従うしかなくなり、反対すればパージされる危険性もある。

 

 ピンカーについて批判的な人々の意見を勝手にまとめてしまうと、「ピンカーはデータを示して"現在は過去よりも良くなっている"ということは言うけれど、現在にまだ存在している社会問題に対するコミットメントは怠っているよね。だから、"現在は過去よりも良くなっている"という彼の主張も、差別問題を矮小化するためのものとしか思えない」というようなものになるだろう。

 しかし、そもそもピンカーが本当に「社会問題に対するコミットメントは怠っている」かどうかにも疑問の余地があるだろう。どの「社会問題」がコミットメントするに足る重大な問題であるか、という価値判断は人それぞれであるだろうし。また、高名な大学教授だからといって「社会問題に対するコミットメント」を行う義務があると言えるかどうかもわからない。……そして、ピンカーが社会問題に対するコミットメントを怠っているかどうかと、「データを見れば、現在は過去よりも良くなっている」という意見や命題の真偽とは、全くの別の話なのだ。わたしは同調圧力というものがとにかく嫌いなので、「意見の真偽とは別に、その意見を言う人が普段から"正しい振る舞い"をしていなければ、意見が認められない」という風潮がイヤである。

 運動が盛んになるにつれて「いまはこういう風潮だから」というなあなあな理由で色んな物事が決まっていくのもイヤだ。……とはいえ、社会運動とはそういうものであるし、民主主義社会が変わるためには時流や勢いの力が同調圧力が不可欠であることも否めないだろう。なので、政治なり法律なり社交界なりがなしくずしに変わっていくことは仕方がないかなとは思うし、良い面もいっぱいあるだろうとは思う(映画業界も"なあなあ"で変わっていくことに対しては抵抗したくなるが)。……しかし、アカデミアが同調圧力やなあなあで変わることだけは、認められない。特に文系のアカデミアでは差別問題に"敏感"な人も多いし、マイノリティへの配慮を欠かさない心優しい善人も多いのだろうが、たとえ善意を理由にしていようが、意見の多様性や反主流派の価値観をアカデミアから排除することは本末転倒なのだ。

 

わたしがこれまでに書いてきたピンカーに関する記事の例:

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

*1:ピンカーの件と同じくわたしが4年前にTogtterにまとめた、リチャード・ドーキンスの件とか。また、アメリカのアカデミアのポリコレパージの問題については、数年前に記事を集中的に訳して投稿していた。

togetter.com

davitrice.hatenadiary.jp

econ101.jp

*2:騒動の直後に出された、チョムスキーやハイトその他多数の学者が署名している、「公正と公開討議についての書簡」

harpers.org

*3:

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

*4:

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

tarafuku10working.hatenablog.com

フェミニズムを素直に受け入れ過ぎ(ひとこと感想:『女性のいない民主主義』)

 

女性のいない民主主義 (岩波新書)

女性のいない民主主義 (岩波新書)

 

 

 日本の民主主義における「女性不在」の問題について、参政権や政策、投票行動や立候補などの問題に細かく分別しながら、「ジェンダー論」や「フェミニズム」という分析枠組みを用いて問い直す本だ。古典的でベーシックな政治学の用語や理論に関する説明をしつつ、既存の政治学ジェンダーや女性という問題をいかに無視してきたか、という批判が主となっている。

 著者の主軸というか得意分野はジェンダー論よりも政治学の方にあるらしく、政治学の理論や用語の整理の仕方は実に上手である。また、ジェンダー論やフェミニズムに関しても、論者によって意見が大きく分かれるような内容や突飛な内容にはあまり踏み込まずに、あくまでベーシックでけっこう古典的なタイプのフェミニズム的枠組みを採用している。そのために内容は無難なものとなっており、この本で展開されている主張の大半については「まあそうだな」と納得できるものとなっている。「ジェンダー規範」に関する議論というものは深掘りすればするほどどんどんと反論不可能な陰謀論に堕していって非生産的なものになっていくのだが、この著書では浅い部分の議論にとどめているところが成功の秘訣だ。日本における女性議員の少なさの議論についても、ジェンダー規範の問題に触れつつも結局は「日本の女性議員数が他の先進国よりも低い水準にあることの原因として見逃せないのは、ジェンダー・クオータが導入されてこなかったことにある」(p.200)と制度の問題に着地させているところが穏当で好感が抱ける。

 一方で、たとえばシュンペーターやロバート・ダールなどの大昔の人々の理論について「女性の参政権という問題を無視しているために民主主義の尺度は不当だ」と批判するのは、そりゃそうだけどいまさらそれを言ってどうなるの、という感じである。ほかにも「その問題はもうみんな知っているよ」ということを殊更にあげつらっている箇所が目立つ。女性が政治討論に参加しづらい理由の説明にレベッカ・ソルニットの「マンスプレイニング」概念を用いているところも気にくわない。「既存の政治学理論に対するジェンダー論・フェミニズム的観点からの批判」に紙幅を割くあまり、「日本の政治における女性不在」の問題について分析しているページ数が少なくなってしまっているところも残念だ。

 また、フェミニズムジェンダー論の標準的見解をあまりに素直にそのまま受け入れているので、全体的にリアリティや生々しさが欠ける。「フェミニズムジェンダー論ではこういう風な主張がされているけど、でも、本当にそうか?」という再批判や葛藤をした様子が全く感じられないのだ(特に、「おわりに」にてアニタ・サーキシアンの議論が持ち出されるところはかなり白けてしまう)。そのため、(わたしのように)元々からフェミニズムジェンダー論に対してうがった見方をしている読者を説得することはできないし、かと言ってフェミニズムに好意的な読者からすれば知っていることばかり書かれているということになってしまっている。

 

 著者の「素直さ」については、「おわりに」に書かれている以下の部分が関係しているのかなと思う。

 

誰にとっても、自分とは違う角度から世界を捉える視点に接することは、新鮮な驚きをもたらすに違いない。ジェンダーの視点を導入すると、これまでは見えなかった男女の不平等が浮き彫りになる。今までは民主的に見えていた日本の政治が、あまり民主的に見えなくなる。男性として、極めて標準的な、「主流派」の政治学の伝統の中で育った著者にとって、フェミニズムとの出会いは、そうした驚きの連続であった。

想像もしない角度から自分の世界観を覆されることは、反省を迫られる体験であると同時に、刺激に満ちた体験でもあった。

(……中略)

一度、ジェンダーの視点をあらゆることに適用できることが分かると、世界の見え方が違ってくる。

(……中略)

ジェンダーの視点から眺めることで、世界の見え方がこれほど変わるのならば、そのことを最初から知っておきたかった。

(p.208-209)

 

 著者の生まれは1980年ということでわたしより一回り上だから、もしかしたら世代的な問題かもしれないが、現代の日本で文系の学問に携わっておきながらある時期までフェミニズムジェンダー論に触れることがない、ということがちょっと信じられない。一般教養の科目にもあるだろうし、図書館の本棚にも並んでいるし、文学や映画にも関わってくるし、テレビで取り上げられることはあまりないとしてもネットをすればいやでも見かけるものだろう。ましてや、著者が通った大学は東大だ。

 ……とはいえ、自分が大学院にいた頃を思い返してみると、博士課程まで進学するような学生ほど自分が専攻しているもの以外の学問になんの興味もなかったり、「最短コース」で博士論文を書くようにするために論文に役立たない余計な理論はシャットアウトする、という人はいたような気がする。また、政治学に限らず哲学などでもそうなのだが、「主流派」に浸っていた人がたまたまフェミニズムやポストコロニアリズムとか人種問題とかの観点からの批判に触れてしまいショックを受けて"懺悔"して全面降伏する、というルートをたどっていそうな人はちらほらと見かけるものだ。

 修士課程までは終了したとはいえ何かしらの学問の「主流派」とか「専門性」とかにはけっきょく触れられずじまいだったわたしとしては、アカデミアの大半がこういう人たちで占められているらしいことには未だに不思議さを感じたりする。