道徳的動物日記

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ポストモダンの右と左

 

真実の終わり

真実の終わり

 

 

 

 ようやく『真実の終わり』が図書館で借りれるようになったので、パラパラと読んでみた。内容としては大したことがなくて、HONZの書評にまとめられている以上のものはほとんど得られない。要するに、ポストモダニズム的な相対主義のためにフェイクニュースや知識に対する軽視がまかり通ってドナルド・トランプのような人間が大統領に選出されてしまった、というアメリカの現状を嘆く本だ。

ポストモダンの右傾化」という問題はミチコ・カクタニ以外の論者もよく指摘するものではある。このブログでも、フーコーとかデリダとかを批判しながら「ポストモダニズムが民主主義を毀損して右翼の増長を許したんだ」と主張する記事を紹介したことがある*1

 それとは別に、読んでいてわたしが思い出したのがジョセフ・ヒースの「『批判的』研究の問題」というエッセイだ。このエッセイでは直接には「批判理論」が問題視されているが、フーコーなども取り上げられていることだし、ポストモダニズムにもあてはまる問題が指摘された記事だといえるだろう。

 

econ101.jp

 

 最初の段落は、特に印象的だ。

 

学部生だった頃,こんな風に思っていた――《「客観的」「価値自由」なやり方で社会現象を研究する実証主義が社会科学で蔓延しているのは世界の災厄だ.そんなものは幻想だ,というか有害な幻想だ.だって,客観性をよそおいつつ,その裏には隠れた目標があるんだから.つまり,支配しようという利害関心をもってるんだ.人々を主体ではなく研究の対象として扱うなんて政治的に中立じゃない,だってそうやってうみだされる知識ってのは,どういうわけかうまいぐあいに,まさに人々を操作し管理するために必要とされるたぐいの知識になってるもの.つまり,「客観的な」社会科学はちっとも価値自由なんかじゃない,むしろ抑圧の道具になってるじゃないか.》

 

 さて、実は、わたしも学部生だった頃には上記のような"批判理論的"なマインドを持ってる時期があった。

 デリダとかアガンベンとかの、大元の思想家自身が書いた本にも手を出したりはしたが、難しかったし読みにくかったのでほとんど理解できなかった。とはいえ、彼らの思想についてわかりやすく説明する入門書とか彼らの理論を具体的な問題に援用した本はいっぱいあった。だから、社会科学のイデオロギー性とかアメリカ文学の"キャノン"に隠されたレイシズムとか諸々の政策や施策に潜む"生権力"などなど、そういうものを暴き立てるような議論にばかり触れていた時期があったのである。つまり、一見すると当たり前であったり中立であったりする制度や事象のなかに潜む隠された意図や権力を見出すこと、それもナショナリズムであったりレイシズムであったりセクシズムであったりなどなどのできるだけ悪どい意図や権力を見出して批判すること、ということこそが"文系"の勉強である、と思っていたフシが自分のなかにあったのだ。

 学部の友人たちには、上記のような文字通りの"批判理論マインド"を持つ人はいなかったように思える。その代わりに、価値や知識に対する批判理論的/ポストモダニズム的な相対主義を、多かれ少なかれ抱いている人が多かった。そういう考え方は、たとえば大学の一般教養で「科学と現代社会」といった題名の授業を受けたり、大学受験の現代国語科目の模試や過去問でそれらしい評論文を解いたり、あるいは少し賢しらな作家が書いた漫画や小説なんかを読んでいくうちに、目端の利く学生であれば自然と身に付けていくものなのだ。

 ……理系の学生であったり、文系であっても歴史学や経済学などを真面目に勉強する学生であれば、ゼミでの指導や卒論の執筆を通じて「研究って思った以上に大変だし、ちゃんとした手続きや制度があるし、根拠とか論証とかも求められたりするし、好き勝手になんでも言えるものじゃないんだなあ」と気が付くかもしれない。しかし、すべての学生が真面目に勉強しているわけじゃないし、哲学や文学などの場合にはいくら勉強しても「でもこの内容が実際のところどれくらい確かで客観的であるかなんて、わかったものじゃないよなあ」というモヤモヤを抱えたまま大学を卒業する、という人も多いことだろう。

 そして、"批判理論マインド"を持っていた頃のわたしはサヨクであった……すくなくとも、サヨクを目指していた。それに対して、わたしの周りの"相対主義者"な連中の大半は程度の差はあれどもウヨク的な人間が多かった。同級生のほとんどは「正義の反対には別の正義がある」「善悪の基準は時代によって変わる」という価値相対主義的なことを言いたがっていたし、当時流行っていた歴史修正主義の問題についても「でも歴史の教科書ってけっきょくその時代の主流なイデオロギーや権力によって書き換えられるし、歴史学の人たちがいくら議論したところで結局のところ歴史的な事実なんて確かめられるはずがないよね」と、(本人が自覚しているかどうかはともかく)歴史修正主義に親和的なことを言う人が多かったのである。

 

 しかし……いまから思うと、ポストモダニズム的な考え方に触れたのなら"相対主義者"になる方が自然なのであり、"批判理論マインド"を持つようになる方が不自然であったのだ。

 前者はポストモダニズムの考え方を額面通りに受け入れた結果、右も左も関係なく、なんにでも疑いや批判の目を向けている。一方で、後者は疑いや批判を向ける対象を「権力っぽいもの」「強者っぽいもの」「マジョリティっぽいもの」に限定して、そうでないものはスルーしている。なにを批判してなにをスルーするか、という選別には明確な基準があったわけでなく、"お約束"や"空気"になんとなく従っていた。「これは悪どいから批判の目を向けるべし」という対象とそうでない対象とをあらかじめ選別していて、前者にだけ批判の目を向けていたのだ。

 さらに言えば、対象が「悪どいものである」という結論が先立っていて、そのうえで「悪どいものがやっていることだから、なにかしらの悪どい意図や悪どい目標が隠されているはずだ」とみなして、がんばってそれを見つけ出してあばき立てる、というかたちで思考を展開していた気がする。……すくなくともわたしはそうであったし、また、わたしが本や授業やネットで触れていた批判理論的/ポストモダニズム的な議論も、だいたいはそういう論点先取的な発想に基づいて編み出されたものであったように思える。

 

 さて、最近はあまり話題にならなくなってきたが、ひと昔前のネット論壇……というかはてな論壇では「歴史修正主義」をめぐる議論が盛んに行われていた。

 それも、単純な右派と左派の対立ではなく、歴史修正主義を肯定/容認する"わかっていない"ポストモダン相対主義者と、それを批判する"ただしい"批判理論家の対立が主であった(というか、大学にポストを得ていたり主流メディアで発表する機会のある前者に対して、ネットが主な活動の場である"はてサ"がブログなどで批判する、という構図であったような記憶もある)。

 いまから思うと奇妙であるのは、ポストモダニズムそのものに対してまで批判が向けられるのではなく、あくまで「日本のポモ」だけが槍玉に上がっていたことだ。ポストモダニズムそのものについては「デリダはそんなこと言わない」などと擁護されており、左翼であり反権力であるデリダとかフーコーとかの「意図」や「動機」を無視して当人たちが望んだのとは正反対の方向に理論をはたらかせたから日本のポモはダメだ、というかたちで批判がおこなわれていたのである。

 しかし、ある理論の使い道や用途はその理論を生み出した当人の意図や動機に基づいて制約されなければならない、なんてことはないだろう。

 たとえば、西洋の思想家たちは古代から近代にいたるまでおおむね女性差別的であったり人種差別的であったりしたが、彼らが生み出した理論がいまでは性差別の問題や人種差別の問題を分析して批判することに用いられている。問題点を修正したりアップデートしたりしながら、その理論を生み出した当人には予想もつかないところへと適用されるようになっていく、という発展性とか拡張性とかが、理論というものの性質であり面白さでもあるだろう(だから、理論を応用した相手に対して「それは換骨奪胎というものであり、その応用の仕方は間違っている」と批判することも、大概は不当であるのだ)。

 そして、ポストモダニズム理論(あるいは批判理論)を生み出した人たちが左派だったとしても、その理論が右派にとっても都合よく使えるものであることは、火を見るより明らかであったのだ。

フーコーデリダ歴史修正主義者を支持するわけないから、ポストモダニズム歴史修正主義を擁護するのは無効です」なんて通じるわけがない。理論を生み出した人たちの意図や動機を持ち出さなければ"悪用"することを防げないのだとしたら、その理論自体がもとからガバガバで問題のあるものだった、ということである。……だから、日本における歴史修正主義の問題だけでなく、海のむこうで"ポスト・トゥルース"や"オルタナティブ・ファクト"な風潮を生み出してしまうことも必然だったといえよう。

 

 ポストモダニズムや批判理論に基づいて、相手のことを「客観性をよそおいつつ、その裏には隠れた目標がある」という風に批判することには、自家中毒の危険がある。

「すべての理論や議論には意図や目標が隠れているのであり、相手だって俺だって客観的な事実を論じることはできない。相手にも意図や目標があり、俺にも意図や目標があるのだ。そして、俺も相手も自分の意図や目標を遂行するために議論を展開しているのだとすれば、アカデミアは真実を追求する場ではなく、どちらがよりもっともらしいことを言って主導権や影響力を握るかという闘争の場である。だから、確かさや客観性を保ちながら真実を追求するのではなく、自分の派閥の力を強めて相手の派閥の力を弱めることをがんばろう。批判の目も、相手にだけ向けるのが正しい。自分の側の議論にも批判の目を向けると敵に塩を送ることになってしまい、敗北につながりかねないからだ」となってしまうのだ。……ごく一部ではあるだろうが、こんな認識でがんばっている人はアカデミアのなかにもマジで存在していることだろう。

 マルクーゼの名前は忘れられても、彼の生み出した「抑圧的寛容」の発想はいまでも影響力を発揮しつづけている*2。あるいは、ジョナサン・ハイトが指摘するように、マルクスは「社会正義大学」の守護聖人でありつづけている*3。近年におけるポスト・トゥルースの問題とか、ちょっと前のポストモダン論争とかも、大元はこのあたりにあるのだろう。

 

 

読書メモ:『反逆の神話:カウンターカルチャーはいかにして消費文化になったか』(前半)

 

 

 

  数年ぶりに読み返しているが、やはり面白い。著者であるヒースの嫌味さや性格の悪さが存分に発揮されている。

 全体の論旨ももちろん重要なのだが、細かい部分でのネチネチとした指摘や皮肉がたまらなくて、都度引用したくなる。なので、おもしろいところを引用したうえで、自分のコメントや感想を付け加える形式にした。全体の論旨が気になる人は他の人の書評や感想を探せばよい。

 

 

「抑圧の政治」は「搾取の政治」と似ている。ただし、違うのは、抑圧の政治では不正の源を社会的ではなく心理的なものと考えるところだ。したがって、まず必要なのは、具体的な制度の変更ではなくて、抑圧された人たちの意識の変革である(だから初期のフェミニズム運動で「意識覚醒」グループが絶大な人気を博した)。政治は、依存症回復プログラムに似てきている。昔ながらの富と貧しさへの関心はいまや「うすっぺら」と見なされている。

(……中略……)チャールズ・ライクは『緑色革命』に書いている。「革命というものは文化的でなければならない。なぜなら、文化が経済的・政治的機構をコントロールするのであって、その逆ではないからだ。いまは生産機構が自ら気に入ったものを生産し、人々にそれを買わせている。けれども、文化が変革されれば、機構はその変化に従わざるをえない」。誰も特別なことだとは思わなかった。ビートルズが「レボリューション」で「憲法」やほかのそういう「制度」を変えるより「むしろ自分の心を解放」したほうがいいと主張した時代だったから。

ここに、社会制度と、文化と、そして最後に個人心理学のあいだの階層的依存関係で、社会が機能している様子が見てとれる。文化と心理学が、制度を決定づけると考えられている。だから経済を変えたければ文化を変えることが必要だ。そして文化を変えたければ、基本的に人々の意識を変えなければならない。ここから、二つの決定的な結論が導かれる。第一に、文化的な政治のほうが伝統的な分配の構成の政治よりも根本にかかわる、ということ。どんな非順応主義の行為も、たとえそれが伝統的な意味で「政治的」とか「経済的」とされるものとは関係がないように見えても、重要な政治的結果をもたらすと考えられた。第二に、そしてもっと役に立たないのが、人の意識を変えることは、文化を(いわんや政治経済システムを)変えるより重要ということだ。

(p.71-72)

 

 2020年現在の左派や若者たちがカウンターカルチャーにどれだけ影響を受けているかはわからないが、「政治や経済ではなく、文化や意識を変える方が重要だ」的な発想ではいまでも目立つところである。ヒースも指摘していることではあるが、文化や意識を変えることは政治や経済を変えるよりも「簡単」であること、また地道な政治的活動に比べて文化的活動は「楽しい」こと、などが大きいだろう。

 ちなみに、活動だけではなく、議論や執筆というレベルでも、文化や意識について取り上げることは政治や経済について取り上げることより簡単だ。政治や経済について語るうえでは明確なエビデンスが求められたり諸々のお固い資料や統計を集めなければならないが、文化や意識については頭のなかでちょろちょろっと考えるだけで論じることができる。だれだってなにかしらの文化に日々触れているからなにか言えるような気になるし、意識なんてもともとがほとんど証明不可能なものだから逆になんだって言えるというものだ。

 

麻薬取締法に対するカウンターカルチャー流の見方の根底には、アルコールも含めて、薬物の作用に対するとんでもない解釈があった。マリファナが精神を解放するとの考えは、マリファナで頭がぼーっとなった人くらいしか信じないようなことだ。まともな人なら、マリファナ使用者が世界でいちばん退屈な話し相手だと知っている。もっと言えば、アルコールは麻薬や幻覚剤よりは破壊活動的じゃないと何となく考えるのは、アルコールの歴史に対するひどい無知の表れだ。

(……中略……)共産主義者アナーキストも、アルコール依存になるよう労働者に説いてまわったりはしなかった。彼らには、もっと公正な社会を創り出すには、もっと広く国民の協力が必要になるとわかっていた。だがアルコールは断じて助けにならないと。残念ながら、ヒッピーはそれを苦い経験を通して知ることになる。

(p.73-74)

 

 Twitterを眺めているとストロングゼロを飲むことがなんらかの反体制的行為であると思っていそうなアホがいまだにいたりするし、自分が学生の頃には、さも誇らしげに大学の構内で酒を飲んでいる連中をよく目にしたものだ(自分もそのなかのひとりだったけど……)。

 また、「カウンターカルチャー的な思考は、犯罪については若干の認識の甘さをもたらしただけだが、精神病に関してはとんでもなく美化してきた」(p.166)。これも、一昔前の日本のインターネットのことを考えさせられる一文だ。「メンヘラ」がやたらと美化される傾向があったし、特に女性のメンヘラには逆説的な規範や体制への反逆を見出す風潮もあったような気がする。

 

多くのフェミニストは早くから気づいていた。「自由恋愛」がこの社会における大規模な女性の性的搾取を可能にしてしまったのだ。フェミニストの当初の考えは、男は抑圧する側だから、男女関係を律するルールはすべて男に都合がいいように操作されたはず、ということだった。そんなルールの多くが明らかに女性の防衛のために、女性を男性から守るために作られたという事実は、なぜか見落とされた。社会学者でフェミニストカミール・パーリアは八〇年代に、こうしたやかましい古くからの社会慣習の多くは、実のところレイプの危険性を減らす重要な機能を担っていたのだと指摘して、騒動を巻き起こした。同様に、昔ながらの「できちゃった結婚」ルールは、子供の父親としての責任を男性たちに取らせた。この規範が崩れてきたことも、西洋世界に「貧困の女性化」が広がっていることの主要因である。

実際、もし男性の一団に理想のデートのルールを考えるように頼んだとしたら、たぶん性革命によって出現した「自由恋愛」にそっくりの設定を選ぶことだろう。女性の感性に配慮しなくてよければ男はどういう性生活を送ろうとするのかを調べるには、ゲイ浴場を見学すればいい。しかし、このような可能性は、主としてカウンターカルチャー的分析の支配力のせいで黙殺されていた。女性は抑圧される集団であり、社会規範は迫害のメカニズムであると、カウンターカルチャーは主張した。だから解決策は、すべてのルールを廃止することだ。したがって、女性の自由は、すなわち社会規範からの自由と同一視される。

結局、これは悲惨な同一視だった。そのせいで全く受け入れがたい状態が理想的な解放と称されたばかりか、現実に女性の生活の確かな改善につながりそうな改革の受容を「取り込み」や「裏切り」として斥ける傾向を生み出した。どうしてここまでひどく道を誤ってしまったのだろう?

(p.79-80)

 

 

 #MeToo運動に象徴されるように、現在のフェミニズムの主流は「ルールからの逸脱」ではなくて「ルールの改定、新しいルールの作成」であるように思える。フェミニズムに反対する人たちも「新しいルールは女性にとって有利で男性にとって不利に過ぎる」とは批判するが、ルールが必要なことについては同意しているのだ。

 …… とはいえ、既存のルールを「明らかに女性の防衛のために、女性を男性から守るために作られた」と認めたうえで肯定することは、「家父長制」とか「異性愛規範」の存在などを主張するフェミニストにとっては、認知的不協和をきたす。お仲間からも怒られてしまう。だから、既存のルールをかたちだけは否定したりポーズとしての批判をくわえたりしたうえで、それとほとんど変わらない新しいルールを主張する、という光景を目にするような気がする。従来の規範をそのまま認めることはNGなのであり、諸々の「配慮」をしていることを示さなければいけないのだ。

 また、自分がもはやルールに守られなくても安全な強者の側に属していると自覚している人たちが、相変わらずルールの撤廃を求めたり新しいルールの追加に反対したりする、という光景もまたよく見かけるところかもしれない。

 

……意味のない、もしくは旧弊な慣習に異を唱える反抗と、正当な社会規範を破る反逆行為とを区別することは重要だ。つまり、異議申し立て逸脱は区別しなければならない。 異議申し立ては市民的不服従のようなものだ。それは人々が基本的にルールに従う意思を持ちながら、現行ルールの具体的な内容に心から、善意で反対している時に生じる。彼らはそうした行為が招く結果にかかわらず反抗するのだ。これに対し逸脱は、人々が利己的な理由からルールに従わないときに生じる。この二つがきわめて区別しがたたいのは、人はしばしば逸脱行為を一種の異議申し立てとして正当化しようとするからだが、自己欺瞞の強さのせいでもある。逸脱行為に陥る人の多くは、自分が行なっていることは異議申し立ての一形態だと、本気で信じているのだ。

(p.93-94)

 

  このコロナ禍でマスクをつけず、あまつさえノーマスクで集団化してデモをおこなってそれを正当化しようとする人たちのことが連想されるだろう。「ていねいな暮らし」に対する拒否反応そうだ。ヒースは左派のカウンターカルチャーと右派のリバタリアニズムの類似性を指摘しているが、コロナ禍ではむしろ右派の方が目立っているところだろう。

 

……そうして、あらゆる社会規範に対する反逆は肯定的に評価された。だが、こうした考え方の最大の帰結は、ほかのどこよりアメリカの、礼儀正しさのあきれるほどの減退だった(いまや「ありがとう」と言われたら「どういたしまして」と答える代わりに「うん」とつぶやくお国柄だ)。誰でもよく考えればわかることである。作法の衰退は人間を自由にするどころか、反社会的な態度(と政治方針)に利するようになっただけのことに思われる。
(p.108-109)

 

 これはアメリカ映画を見ているとよくわかる。あいつらすぐにFuckっていうし、アメリカ映画に出てくる若者は未成年飲酒や大麻や窃盗や自動車泥棒などの犯罪をしない方がめずらしい。アメリカという国の文化や歴史には興味があってもアメリカに行ったり住んだりしたくないなと思うのはこのせいだ。
 そして、マイノリティ文化が「作法」や「秩序」を無視・軽視する傾向にあることもカウンターカルチャーの影響があるのだろう(既存の作法や秩序はマジョリティの押し付けで抑圧、と見なしてしまうから)。そして、作法や秩序に欠けているために、その文化内で暮らす人々の教育やキャリアにも影響を与えてしまうおそれがある*1

 

……ムーアにとってコロンバイン高校銃乱射事件は単なる犯罪行為にとどまらず、アメリカの社会と歴史の告発だった。

(……中略……)ムーアによれば、カナダ人はありとあらゆる銃を持っているが、銃による暴力はほとんど起こらない。したがって、問題の「根本原因」をもっと掘り下げることが求められる。アメリカに存在する「恐怖の文化」が元凶だ、とムーアは言う。

(……中略……)ムーアは、銃規制は重要ではない、カナダには数百万挺の銃があるが、銃による暴力がほとんどないのだから、と主張する。この論は不正と言っていいほど率直さを欠いている。カナダにはきわめて厳しい銃規制法があることに、ムーアは言及していない。
(……中略……)つまりカナダとアメリカの最大の違いは、文化的ならぬ制度的なものだ。むしろ文化の違いは、法律と制度の違いの結果である。カナダ人が恐怖の文化のもとで生きてないのは、アメリカとは違うテレビ番組を見ているからでも、奴隷制の遺物がないからでもなく、しじゅう撃たれる心配をしなくていいからなのだ。
(p.164-166)

 

 

 社会問題の原因を文化などの「深い」ところに求めるか、制度などの「浅い」ところに求めるか……という構図は、ブラック・ライヴズ・マターに関する議論(警官による黒人の射殺の原因は、制度的レイシズムという"深い"問題であるか、警官による銃の発砲機会がそもそも多いという"浅い"問題であるか)についても繰り返されているところだろう。

 

*1:エイミー・ワックスによる「ブルジョワ文化」の議論にも関係がありそうだ。

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使える倫理は、つまらない(読書メモ:『動物倫理の新しい基礎』)

 

動物倫理の新しい基礎

動物倫理の新しい基礎

 

 

 この本のスタンスは、序章となる「新しい動物倫理の必要性」の最後の段落に、おおむねまとまっているだろう。

 

たとえば、功利主義的理由のためにシンガー自身が、産業的な動物工場で育てられた農場動物の苦しみを改善する唯一の方法は、肉を食べるのをやめて、ヴィーガンでなければヴェジタリアンの食事を採用することだと論じている。少し考えればこの提案の怪しさが暴かれる。人々は、彼ら自身の健康を改善するため、あるいは彼ら自身の生命を救うために、内科医によってそうするよう助言されたとしてもステーキ、ホットドッグ、ハンバーガーをあきらめないだろう。それゆえ、彼らが哲学的議論によって、そうする可能性は限りなく低い。言い換えれば、成功する動物倫理は、論理的整合性があって、説得力があるだけでなく、実践可能でもあるように見えなければならず、それは人々が弁護し固執することができる現実的解決を提案しなければならないのだ。私たちが後で見るように、雌豚のための小さなストールを取り除くことは、豚の福祉においては大きな改善であり、養豚産業における大変化を要求することなく影響を与えることは難しいことではないのだ。

(p.16)

 

 そして、「訳者あとがき」もこの本の立ち位置をよく示している。

 

シンガーとリンゼイの論理的帰結は、菜食主義を伴う「動物の権利」論である。それに対してローリンは、「動物の権利」という言葉を使うことがあるにせよ、常識から遊離することなく、実質的には「動物の福祉」と呼ぶのがふさわしい議論を展開してきた。したがって、とくに獣医倫理学において意味をなすのはローリンの作品だけである。なぜなら獣医療自体が畜産やペット飼育を前提としているからである。もちろん思想的にそれらを否定する立場は充分ありえるし、個人的倫理として実践することも可能である。だがそのような急進的な立場は一般に共有されることがないため、本来「慣習」を意味する「倫理」として機能しないのである。

(p.213)

 

 つまり、極論や空論ではない、"常識的"で"使える"動物倫理を目指したという感じの議論だ。

 とはいえ、この本のなかでローリンが主張しているような「動物の福祉」はあくまで動物本位な考え方であり、実践しようとなると畜産業や動物実験といった制度のあり方を大幅に変えて、それらの制度に従事している人たちに対してかなりのコストを要求するものではあるはずだ。「動物の福祉」の議論というと、現行の制度のあり方を前提としたうえでその範囲内で動物の痛みや苦しみをどう減らすか、という議論に落ち着くことが多いが、ローリンの主張はもっと大胆なものだ*1

 

 しかし、功利主義者であるシンガーを「動物の権利」論者としてみなすことは、やはり不当である。

 そもそも、シンガーは「農場動物の苦しみを改善する唯一の方法」を「肉を食べるのをやめて、ヴィーガンでなければヴェジタリアンの食事を採用することだ」とは論じていない。それは「最大の結果を出す方法」であり、功利主義としてはその方法が(実現できるなら)ベストの方法だとは見なしているだろうが、それはそれとして「雌豚のための小さなストールを取り除くこと」といった漸進的で限定的な方法も「ほどほどの結果を出す方法」として肯定するのが、功利主義の特徴である。だからこそ、シンガーや他の功利主義者は「新福祉主義者」としてレーガンやフランシオンなどの「動物の権利論者」から批判される、という構図になっているのだ*2。……つまり、シンガーだってローリンと同じく「動物の福祉」を論じているのである。ローリンが畜産業などの制度の存在自体は認めるのに対して、シンガーはそれらの制度は究極的には廃止されるべきものである、と見なしているという違いはある。しかし、その違いは哲学的な議論においては重要であるだろうが、21世紀の現状の制度に対する具体的な提案や改善点の指摘というところでは同じような主張を導き出すものなのだ。

 

 シンガーのような功利主義にせよ、レーガンやフランシオンのような権利主義にせよ、それらがあまりに現行の状況や常識に反していて"使えない"ものであるから、"使える"動物倫理を構築する必要がある……という議論は、ローリンに限らず多くの倫理学者が行なっているものである。だが、ザミールのEthics and the Beastについて評したときにも触れたように、こと動物倫理においては人々の"常識"の違いがあまりに大きすぎて、常識に基づいた議論はむしろ非生産的なものになりがちだ*3。ローリンは倫理学的な結論は「教える」のではなく「想起させる」こと、正論をぶつけ合う「倫理的相撲」ではない「倫理的柔道」の必要性を説いている。学校などにおける倫理学の教育や個人的に倫理学を学習するうえではローリンの言うことももっともであるが、関係者間の利害の対立を前提とする応用倫理の実践においては、「想起させる」ことはあまりに頼りない……人間には、自分の欲求や生き方やアイデンティティを守るためには特定の事実からいともたやすく目を逸らしてしまう「認知的不協和」が起こるからだ*4。だからこそ、「正論」を教えて叩きつける必要が生じるのである。

 

 ローリンの倫理的主張の根拠となる「テーロス」論は、アドホックで曖昧であり自然主義的誤謬の感もあるというところで、ヌスバウムのケイパビリティ・アプローチとまったく同じ問題点を抱えているように思える*5。元ネタもアリストテレスという点で一緒だし。

 なにより、『動物倫理の新しい基礎』の問題点は……これはザミールやヌスバウムなどの他の多くの倫理学者たちの議論にも当てはまるのだが……「つまらない」ということだ。哲学的な論証に力を割いておらず、常識や直感に依拠したアドホックな議論をしているために、シンガーや他の功利主義者の著書を読んでいるときに感じられるような論理のきらめきやスパークがないのである。

 そして、先述したように、常識に依拠しているがために、実際に「使える」ものとなっているかどうかも微妙だ。「普通はそう思うでしょって言われても、わたしはそう思わないよ」と言われたらそこで話が終わってしまうような議論だからだ。「論理」には本人の主観を越えて有無を言わせず結論を認めさせる拡張性や強要力があるが、「常識」にはそれがないのである。

 

 

*1:ところで、「訳者あとがき」を読んでわたしが思い出したのは、ゲイリー・ヴァーナーによる以下の議論だ。

 なお、世間的な意味においては、「動物の福祉/動物の権利」という二分法には「畜産や動物実験などで動物を利用して殺害することは認めるが、その過程における動物の苦しみを減らそうとする立場/畜産や動物実験などを一切認めずに廃止しようとする立場」という風なイメージがある。ヴァーナーは、現在のアメリカの獣医学や農学などの学問のカリキュラムでは、"動物の福祉主義者"たちは"私たち(獣医学者や農業従事者)"として好意的に扱われる一方で、"動物の権利主義者"は"私たち"と対立する危険で非科学的で狂った"彼ら"だとして扱われていることを指摘している。

環境倫理と動物倫理についての論文を雑に紹介 - 道徳的動物日記

 

 

*2:

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*3:

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*4:

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*5:

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「安楽死」をめぐる議論のおかしな構造

 

 7月23日に京都のALS嘱託殺人が発覚して医師二人が逮捕された事件を受けて、メディアやネット上でも安楽死に関する議論が盛んにおこなわれた。当初は、事件の特異性から「この事件をきっかけに安楽死についての議論を行うこと自体を、避けるべきである」という意見もよく目にしたが、けっきょく、賛成派も反対派もいつも通りの主張をおこなう展開に終始した感がある。

 どちらかの側が「いまは議論をするべきではない」と思っていても、別の側が自分たちの主張を唱え出したら、それに応答して議論を行わざるを得ない……というが、議論というものの厄介なところではある。「いまは議論をするべきではない」と思っていても、相手の側の主張を反論せずに野放しにしてしまうと、相手の主張ばかりが拡散されて自分たちの側の主張の影響力や説得力を相対的に弱まってしまうからだ。

 また、「いまは議論をするべきではない」という主張自体が、「いまこそ議論をするべきタイミングだ」と思っている相手の側からすれば、自分たちの意見に反対する側が自分たちの意見を抑圧しようとする行為だと思えてしまうだろう。相手の側としては、それにおとなしく従う義理はない。というわけで、「いまは議論をするべきではない」という主張もむなしく、けっきょく議論は発生してしまうものなのだ。

 このブログでも安楽死の問題は何度か扱ってきたが、改めて、安楽死をめぐる議論の構造そのものについてわたしが思っていることを、整理しよう*1

 なお、安楽死に関して本気で議論するなら、「積極的安楽死」と「消極的安楽死」や「自発的安楽死」と「非自発的安楽死」などの用語ごとの定義を明確にしたうえで、医療の現場における運用や各ケースにおける法律的な問題などの具体的な話をおこなうことが欠かせないはずだ。しかし、倫理学や法学などにおける専門的な議論はともかく、世間レベルでおける「議論」を見てみると、そのような細い定義や現場と制度のそれぞれのレベルにおける具体的な話にまで興味が向けられているとは思えない。

 だからこそ、漠然としたイメージとしての「安楽死」についてみんなが行なっている議論を整理したうえで、それに関する自分のコメントや主張を展開することにも、それはそれで価値があるはずだ。

 

 さて、安楽死賛成派の主張と反対派の主張は、以下の4つに大別できるように思われる。

 

:個人の自由や自己決定権、または幸福を重視して、安楽死に賛成する立場。

 病気になり自由に身動きが取れなくなったりすることで生じる苦痛が大きく、本人が「もう生きたくない」と判断したのであれば、安楽死は認められるべきだとする。

 

B:社会の資源の再分配や経済効率などの観点から、安楽死に賛成する立場。

 身動きが取れなくなったり苦痛に満ちた症状で生き続ける人に資源が投入されることで他の人に資源が行き渡らなくなり社会全体の効用が低下することや、医療費や社会保障費がかさむことで経済が悪化することを危惧して、安楽死のハードルを下げるべきだとする。

 

C安楽死が認められてしまうと、「生きたい」と思っている人に対しても安楽死を選択することを強制する圧力が生じるようになるはずだという前提にもとづいて、安楽死に反対する立場。

 家族や社会に対する申し訳なさや同調圧力から不本意ながらも安楽死を選択したり、公権力や福祉制度の不作為から「生きたい」と思っていても実質的に安楽死しか選択肢がなくなるような社会が到来することを恐れている。

 

D:人間の生命は神聖なものであり、生き続けることそれ自体に価値があるから、安楽死に反対する立場。

 ある人の生命の価値は、その人の自己決定権を凌駕するものだと考えている。

 

 Dの立場を正当化する根拠は宗教的なものにならざるを得ず、日本においては、すくなくともネットやメディアにおける議論ではあまり目にするものではない。

 Cの立場は、Bが存在することを前提としているだろう。安楽死そのものの是非には言及せず、Bの立場からの主張が影響力を持ってしまうことで、"安楽死を認めること"に伴う副作用が悪化する、という理屈だ。安楽死に反対する主張の大半は、Cの立場から主張されているようである。

 Bの立場は、まともな議論が成立する環境で見かけることはあまりない。要するに「社会全体のためには個人の命を犠牲にしてもよい」ということであり、あまりに悪役っぽい主張であるからだ。議論になったときにBの立場から説得力のある主張を展開することも難しいはずだ。しかし、維新の会の政治家である松井一郎社会学者の古市憲寿など、権力や影響力のあるような人物がBの立場であることを示唆するような発言をしていることもたしかだ*2

 Aの立場は、安楽死に賛成する立場としてはもっともポピュラーでスタンダードなものであるように思える。わたし自身も、Aの立場だ。自己決定権を重視するという点でリベラリズム的やリバタリアニズム的な理路で主張される場合もあれば、本人の苦痛の減少(=幸福の増加)を重視するという功利主義的で理路で主張される場合もあるだろう*3

 

 日本人のあいだでA・B・C・Dのうちどの立場が最も強いか、年齢層ごとや地域ごとや性別ごとにはどうなっているか、ということはわたしにはわからない。

 実際の支持者の数とは別にして、ネットやメディアにおける議論において最も"強い"立場であるのはCであるようだ。つまり、名前が通っていたり読者たちからの評価が高かったりする知識人や論客などはCの立場から主張することが多い、ということである。

 それと同時に、Cの立場は他の三つの立場とは位相が異なる。というのも、他の立場では主張の根拠となる「価値」を明確に示されているが、Cだけはそれを示していないのだ。

 Aの立場であれば「自己決定権」または「個人の幸福」、Bの立場であれば「社会全体の効用」や「経済効率」、Dの立場であれば「生命の神聖さ」と、それぞれがいちばん重要だと思っている価値が明確に示されている。そして、"その価値を守るためにはどうすればいいか"ということを考えた結果、安楽死への賛成または反対という結論がそれぞれに導かれる……という理路になっているはずだ。

 しかし、Cの立場からの主張は「価値」に基づいたものではない。基本的には、Cの立場はBの立場に対するアンチテーゼとなっている。Bの立場からの主張が力を持った世界で起こり得る、「全体のために個が犠牲となること」や「本人の意思とは相反するかたちで安楽死が行われること」に対する危惧ありきの立場なのである。

 

 Cの立場はAの立場と同じく「自己決定権」という価値に基づいたものである、と見なすことはできるかもしれない。つまり、安楽死が認められてしまった世界では、本人の意思ではなく国家や社会や身内からの同調圧力や強制にもとづいて安楽死を選択することが必ず発生するので、安楽死を認めてしまった方がむしろ「自己決定権」が侵害されてしまう、という理路である。

 この理路であれば、「同調圧力や強制にもとづく安楽死が行われる可能性」を排除できれば安楽死は認められる、ということになるはずだ。つまり、AもCも自己決定権の価値を認めているという点では同じであり、Aは「安楽死が認められていない現在に起こっている、自己決定権の侵害」を重視しているのに対して、Cは「安楽死が認められてしまった将来に起こり得る、自己決定権の侵害」を危惧している、ということになる。

 だが、実際には、Cの立場の人たちが自己決定権を重視しているようには思えない。たとえば、「自己決定権は幻想である」という考え方に多かれ少なかれ賛同している人が、Cの立場には多いようである。

 Cの立場の人たちが好むのは、「死にたい、もう生きたくない、と思う人がいなくなるような社会を実現することが先決だ」という考え方である。Aの立場の人が重要視している「現在に起こっている、自己決定権の侵害」という問題への解決策は、Cの立場から言わせると、安楽死を認めることではない。そうではなく、社会保障費や医療費への支出を拡大させて、病人や障害者や高齢者に対してわたしたちが抱いている意識を変革して、そして「責任」や「生産性」という概念に対するわたしたちの意識を変革することで、「死にたい、もう生きたくない」と思う人をいなくすることができる。だから、Aが重要視している問題はそもそも発生しなくなる……という理路での主張を、Cの立場の人たちはおこなうのだ。

 

 わたしがAの立場を代表してCの立場への反論をおこなうとすれば、以下の2点になるだろう。

 

1)Cの立場は「同調圧力や強制にもとづく安楽死が行われる可能性」を危惧しているが、それは、安楽死の制度や運用を工夫することで予防できる問題であるはずだ。たとえば、安楽死の実施過程で、本人が同調圧力によらない自分の意思で安楽死を選択したことが確認できなければ、安楽死は実施できない、とすればいい(医師や担当者が時間をかけて本人にヒアリングしたり、書類にサインするときに周囲からの誘導がなかったことを確かめたりする、など)。

 とはいえ、先述したように、Cの立場の人の大半はそもそも「自己決定」を疑っている。権力や同調圧力は無形でありどんな形で個人の意思に介入するか知れたものではないから、それを排除した自己決定は原理的に実現不可能だ、と考えているのだ。

 だから、この主張はCの立場の人からは却下されるだろう。

 

2)「死にたい、もう生きたくない、と思う人がいなくなるような社会を実現することが先決だ」なんて聞こえはいいが、それを実現するには経済的にも政治的にも膨大なコストや手間がかかるはずだ。仮に将来的にはそのような社会が実現するとしても、何十年後・何百年後になるかわかったものじゃない。そして、その社会が実現されるまでの間は「死にたい、もう生きたくない」という人は存在しつづけるのであり、彼らの自己決定権は侵害されつづける。

 また、そもそも安楽死が希望される理由の多くは身体的な苦痛やストレスであることをふまえると、経済や政治や社会の状態をいくら良くしたところで「死にたい、もう生きたくない」と思う人が発生することを完全に防ぐことはできないだろう。人間の苦痛やストレスを完全になくすレベルに医療や緩和ケアが発展することが必要とされるが、ほんとうにそれは実現可能なのか?

 ……とはいえ、Cの立場の人には、「理想的な社会」の必要性を強調するわりにその社会の実現可能性という問題からは目を逸らしたがる傾向が存在する。また、Cの立場の人は、身体的な苦痛やストレスという問題にもあまり興味を示さない。それよりも、「"障害や病気を負っている状態は苦痛やストレスに満ちあふれているはずだ"というイメージは健常者の偏見や差別意識の産物であり、実際にはそんなことはないのだ」という議論を行いたがるのだ。

 

 というわけで、AとCの間における「議論」は平行線になりがちだ。Bの立場からの主張は議論というレベルに至らないことが多いし、Dの立場の人はそもそも議論に参加する機会自体があまりない。だから、安楽死に関する「議論」なんてほとんどの場合に成立していないのだ、と言ってしまってもいいのかもしれない。

 

 とはいえ、改めて、”権利”や”義務”という言葉を使いながら、Cの立場とAの立場の主張のすれ違いを描いてみよう。

 Cの観点から見たら、こうなる。「現在、安楽死を望んでいる人」が安楽死を望まなくなるようにすること、そして「将来、安楽死を強制される人」が発生しないようにすること、それぞれについての義務が、「わたしたち」や「社会」には負わされている。安楽死を認めてしまうことは、両者に対する義務を果たさない行為である。

 一方で、Aの観点から見たら、こうだ。「わたしたち」や「社会」が安楽死を認めないことは、「現在、安楽死を望んでいる人」の自己決定権、つまり権利を侵害する行為である。彼らの権利を侵害しないために、わたしたちや社会には安楽死を認める義務がある。

 そして、Aの観点からすれば、Cの主張とは「将来、安楽死を強制される人」の生きる権利を守るために「現在、安楽死を望んでいる人」の自己決定権を侵害する行為に過ぎない。権利侵害を予防するために、別の権利侵害を発生させているのだ。もし仮に「安楽死を認めると、将来、安楽死を強制される人が発生する」という予測が正しいとしても、それを理由にして安楽死を認めないこととは、わたしたちや社会が負うべき義務を果たさずに、そのツケを「現在、安楽死を望んでいる人」に支払わせることであるのだ。……そして、「将来、安楽死を強制される人」は蓋然的で仮定的な存在であるのに対して、「現在、安楽死を望んでいる人」はいまこの世界に存在している人である。

 とはいえ、繰り返しになるが、Cの観点からすれば「自己決定権」は存在しないので、この反論は通じない。未来予測についても、Bに対する危惧の度合いがAとCとの間では、そもそも違うのである。

 ここまで来ると、もはや世界観の違いという領域になる。

 

 わたしは、Cの立場の人たちの大半は本心としてはDと同じく「生命の神聖性」を信じているのではないかと思っている。しかし、宗教に依らない世俗的な論理で「生命の神聖性」を主張することはむずかしい。だから、Bに対するアンチというかたちで、Cの論理を発展させたのだ。A・B・Dと異なりCだけは依ってかかる「価値」を持たないことも、CはあくまでDの隠れ蓑的な論理であるからに過ぎないかもしれない。

 ……上記のわたしの主張は藁人形論法であるし、Cの立場の人たちに対する人格批判にもなりかねないものだろう。だから、学問的な場で主張できるような内容ではない。しかし、Cの主張は他の主張に比べても前提の疑わしさや不安定さが激しいこと、それにもかかわらずここまで"強い"理論となっていることは、やっぱり不自然に思えて仕方がないのだ。

*1:

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

*2:

news.yahoo.co.jp

 古市については、自著の小説などでは基本的にAの立場からの安楽死賛成論を主張しているらしいが、落合陽一との対談でBの立場に類する発言をしたことで炎上した経緯がある。

 

ddnavi.com

news.yahoo.co.jp

*3:ただし、功利主義的な理路で主張する場合には、効用の計算や起こり得る事態の予測の仕方などによっては、Bの立場にもCの立場にも転ずる可能性もある。

覚え書き:「被害者性の文化」と「美徳シグナリング」

(深夜に突貫で書いた記事なので、かなりグダグタな内容になっている)

 

 ポリティカル・コレクトネスとそれが引き起こす問題は様々な場面に存在している。このブログでは主にアカデミアにおけるポリコレの問題を扱ってきたし、今年からはじめた映画日記の方では創作表現におけるポリコレの問題についても扱うようになった。

 アカデミアにおけるポリコレの問題と創作表現におけるポリコレの問題はどちらも「表現の自由」に関わる問題であるとはいえ、わたしは、なるべく一緒にはせずに別途の問題だと見なすようにしている。とはいえ、「どちらにせよ、その根源にあるものは同じだ」いう考え方もあるだろう。それに、アカデミアから価値観の多様性が失われて思想の自由市場が機能しなくなるという問題にせよ、創作において物語表現の幅が狭まって物語自体の質が損なわれるという問題にせよ、それぞれの問題の結果は別であっても、そもそもの問題のたちあらわれ方や問題のされ方には同一のパターンがあるとも考えられる。そちらについて注目して分析することも、重要であるのだろう。

 というわけで、その「分析」を行ってみたいところだが……なにしろ最近はわたしも忙しいので(映画を見るのって時間がかかるし、見た映画についてはすべてなんらかの形で感想を書くことを自分に義務づけてしまっているから、さらに時間が取られてしまうのだ)、そうそう気軽に「分析」や「議論」を展開できるわけではない。というわけで、今回からは"覚え書き"シリーズとして、思いついたことのメモを取ったり昔に読んだり書いたりした記事から重要だと思う点を改めて引用して取り上げたりしてみることにした。

 

 諸々の「ポリコレ問題」を引き起こして悪化させている原因に、TwitterをはじめとするSNSの存在が関わっていることは、もはや疑いようがない。SNSは、既存のマスメディアであったり社会運動であったりとは全く異なるかたちで、独特の文化と有害な風潮を作りあげている。

 それには様々な要因があるだろうが、わたしが特に重要だと思っているのは、SNSはユーザーたちに「自分の発言が不特定多数の他人に見られている」という意識を強く持たせて、他人からの評価ありきの行動を誘発しやすい構造になっていることだ。さらに言えば、"自分"がいま関わっていたり対面していたりする"相手"ではない、自分の”仲間”であるオーディエンスたちからの評価ありきの行動になるところが特徴である。

 ここを分析するうえで役に立つように思われるキーワードが、ふたつある。ひとつは被害者性の文化であり、もうひとつは美徳シグナリングだ。

 

「被害者性の文化」の特徴については、わたしが数年前に訳した社会心理学者のジョナサン・ハイトの記事から引用しよう。

 

個人や集団が、自分たちは些細な軽視にも敏感に傷つくということを見せびらかし、第三者に訴えることで紛争に対処しようとする傾向があり、助力の必要な被害者であるというイメージを獲得しようとする、という文化である。

……(中略)……

被害者性の文化の特徴とは、地位についての懸念と侮辱に対する敏感さと、第三者を当てにしている度合いの大きさだ。意図されていないものであったとしても人々は侮辱に耐えられず、権威や社会一般を問題に注目させることによって対抗する。

……(中略)……

このような状況のもとで、第三者への訴えが寛容・堪忍交渉に取って代わった。人々は他人からの助けを求めるようになり続けて、自分が尊重と助力に値することの証拠として自分が受けた抑圧を喧伝する。

「被害者性の文化」と「マイクロアグレッション」 - 道徳的動物日記

 

「美徳シグナリング」については、日本語版Wikipediaと以前にわたしが書いた記事から、それぞれ引用する。

 

美徳シグナリングは、他に類を見ない類の善行を公の場で誓う空虚な行為を糾弾する蔑称として人気を博した。バーソロミューの元記事では、バーソロミューは「美徳シグナリング」を、ある問題について社会的に許容される自身の提携を他の人に知らせることを目的とした、関連するコストがほとんどかからない公共の行為として説明している。ジェフリー・ミラーは、美徳シグナリングを生得的な行為であり、すべての人間が行うものであり、避けることができないものであると説明している。

美徳シグナリング - Wikipedia

 

それは、「自分の集団の連携を保持して、敵対する集団の連携を破壊しようとする心理的適応」である。これは、左派の場合にはジェンダーの平等や社会正義の達成など、"集団において望ましいとされている目標に自分がコミットしていること"を他人に広く知らしめるために主に用いられる行動であり、心理学的には「Virtue Signalling(美徳のシグナリング)」と呼ばれるものだ。

進化心理学はなぜ批判されるのか? - 道徳的動物日記

 

「被害者性の文化」については、2013年の小野ほりでいの記事で話題になった「繊細チンピラ」というスラングでイメージされるものが近いかもしれない。

「美徳シグナリング」は、自分が「正しい行為にコミットしている」「正しい目標に同意している」ことを他人に開示する(=シグナリングする)という行動を指すものである。シグナリングという言葉に馴染みがなければ、「アピール」と認識してもらえばいい。

 

 Twitterを眺めていると気付かされるのは、「問題を起こしたアカウントや物事を取り上げて、その問題に対する批判や抗議の意見や、怒りや憤慨の感情を開示する」というかたちでのシグナリングが多いことだ。つまり、「自分が正しい行為を行なった」ということを示すのではなくて「他人の正しくない行為に自分は賛同しない」ということを示している。

 他人の行為や言動が問題である、と自分は理解できている……ということ自体が、同じ問題意識を抱えた仲間のうちでは、たしかに美徳とされる。それに対する抗議や批判の意見に怒りや憤慨の感情を積極的に示すことは、もっと美徳だ。140字に満たない文字を書き込むだけの行為であっても、美徳とされて、仲間内での評価を維持することにつながり、いいねやRTももらえる。

 しかし、他人の行為や言動によって傷付くことは、批判や怒りよりもさらに上位の美徳とされているようである。批判や抗議の意見、怒りや憤慨の感情を示す場合にも、「問題となっている行為や言動によって、自分が傷付いた」ということを先に開示することで批判や怒りの効果がさらに増す。なんなら、他人の行為や言動のどこがどう問題であるかということを説明できなかったり理解できなかったりする場合にも、「傷付いた」という事実によってそれが帳消しになる場合があるのだ。傷付きが発生した時点で、その行為や言動は問題であることを証明するには充分だ、ということである。

 日常的なコミュニティにおける議論や批判とは、"自分"から"相手"に対して発して、それに対して相手が返答することを前提にしているものだ。しかし、SNSにおける批判は、形式的には相手に対して向けられている場合にも、実際には”仲間”であるオーディエンスの視線を意識して開示しているものになっており、相手からの返答は前提としてない場合が多い。むしろ、相手からの返答が返ってきて議論がはじまってしまい、それに応じて説明責任が発生することを望んでいない場合が多いだろう。

 傷付くことは、返答や説明責任を回避するうえでも便利だ。傷付きを表明した時点でこちらは被害者であり、相手は加害者である。被害者には、加害者と議論をやり取りを行う義務はないものだ。加害者が行うべきは返答や反論でなくて、謝罪のみである。

 

 ……という風に抽象化してしまったが、「被害者性の文化」と「美徳シグナリング」は、二つの概念をうまく組み合わせたり相互作用について注目することで、特にSNSにおける様々な事情を分析したり説明したりできる道具になると思う。

 たとえば、”質問箱”やそれに類する匿名質問サービスをやっている人が、その人自身の過去のツイートのごく些細な問題であったり言葉尻だったりが指摘されて、反省を要求される、という光景を目にすることはよくある。さらには、客観的に見てなんの問題のないような言動についても、匿名の質問者が「わたしは傷付きました」と言えば、回答者は謝るしかない。そもそも”質問箱”をやってその回答をフォロワーたちに開示すること自体が第三者の目を意識したシグナリング行為を目的としたものであるからだ。そして、もちろん、匿名の質問者のほうはいつでも「傷付いた」と言うことができる。

 

 あるいは、『私たちにはことばが必要だ』という本に関する以下のような指摘だ。

 

 最初僕はタイトルだけ読んでこの本は「ああこれまでのフェミニズムのように、対話を重要視してるんだな」と思ってたんですね。ところが、読んでみるとこの本はむしろ、ひたすら「異なるものとの対話なんてしなくていい」と、対話の価値を否定しているんです。この本で言う「黙らない」「ことばが必要」というのは、男性やマジョリティに投げかける言葉ではなく、むしろ女性同士で内向きに自分たちシスターフッドを鼓舞する「内向きの言葉・会話」のことだったのです。

シーライオニングから考える「保守のフェミニズム」 - あままこのブログ

 

「内向きの言葉・会話」であるだけならいいが、たとえば、その言葉や会話の肴として男性による問題のある行為や言動が持ち出された場合は、話が別である。肴にされる男性にとってはたまったものじゃない。そして、内向きの会話をするときには互いが互いを被害者だと見なしあう方が、会話が盛り上がるものであるだろう。

 

 とはいえ、「被害者性の文化」を非難することには、実際に起こっている深刻な被害を等閑視したり、被害者の告発を無力化してしまうという危険性があることも言うまでもない。

「美徳シグナリング」という概念の問題は、これはシグナリング理論全般に当てはまる指摘だが、「それを言い出したらどんな行為も言動もなにかのシグナリングになってしまうんじゃないの?」ということである。

 特に後者の問題は深刻だ……というか、この記事を書いている時点で、「自分のあのツイートもシグナリングだよなあ」「今日もシグナリングしちゃったな」「このブログ自体がシグナリングじゃないか?」という疑問が浮かびつづけていた。

 ちなみに、「被害者性の文化」に伴う傷付きアピールも、わたしも若い頃は盛んにやっていた思い出がある。いまはそれを反省しており、他人の行為や言動の問題を批判するときに感情をあらわす場合には、傷付きよりかは怒りを表明するようにしている。それも「俺がムカついた」という主語をはっきりさせて、他人がわたしの怒りに共鳴することは避けるように心がけているのだ。みんながそれをやり出すとTwitterはいま以上に殺伐とした場所になってしまうかもしれないが、ある種の爽やかさはもたらされるかもしれない。

 

 

 

「反ポリコレ」とKKKや反ユダヤ主義は結び付いている…… かもしれない(読書メモ:『白人ナショナリズム:アメリカを揺るがす「文化的反動」』)

 

 

 同じ著者の前著『リバタリアニズム:アメリカを揺るがす自由市場主義』では、表面上では客観的・中立に扱っている風でありながらも政治的イデオロギーとしてのリバタリアニズムに著者が共感を抱いており好意的であることがミエミエな点に「自称中立」のきらいがあったが、この本はかなり充実した内容になっている。政治的理論の一種でもあり比較的"まとも"な主張であるリバタリアニズムと違い、通常は共感や好意を抱くことが困難である「白人ナショナリズム」を扱っているからこそ、否定に寄り過ぎない"中立"な筆致が功を奏しているのだろう。

 この本の前半では、実際に白人ナショナリストの会合に参加したり団体の会員や代表者と交流したりした様子について書かれている。そのため、白人ナショナリストたち同士の間にある微妙な違いとか彼らの主張のなかにあるニュアンスのようなものも伝わるようになっている。ここら辺は、文化人類学ディシプリンを備えた著者の面目躍如といった感じだ。アメリカの政治運動や「ポリティカル・コレクトネス」に関連するカルチャーについて扱った日本語の記事や本には、扱っている対象のコンテクストや勢いに引きづられて、イデオロギーちっくであったりマニフェストじみていたり、そうでなくても用語と問題意識の解説に終始した抽象的なものが多かったりする。この本はそういう風になっておらず、地に足のついた筆致で、白人ナショナリストたちの実態を淡々と明らかにしている。変な言い方になるが、著者が学者として成功した中年男性であり弱者としての属性をほとんど持たないマジョリティであることが、こういう問題を扱うほかの日本人作家にありがちな「繊細さ」や「敏感さ」を抑制して客観的で穏やかな筆致をもたらした、という良い効果をもたらしているように思えるのだ。

 

 白人ナショナリストやトランプ支持者といえば低学歴な貧困層、というイメージも強いところだが、この本は高学歴で"知的な"白人ナショナリストたちの活動が紹介されている*1。たとえば、白人至上主義系の雑誌『アメリカン・ルネサンス』の年次会合に著者が参加してみたところ、「まるで学会のような雰囲気」(p.7)であったそうだ。

 知的であったりアカデミックであったりするということは、そのイデオロギーには大なり小なり論理性や客観性や妥当性が含まれている、ということでもある。たとえば、『アメリカン・ルネサンス』の年次会合ではハンティントンの『分断されるアメリカ』が平積みにされていたらしい(p.8)。『分断されるアメリカ』はわたしも読んでいる。この本は大した内容だとは思わなかったが、ハンティントンの弟子であり『分断されるアメリカ』の内容も引用されているフランシス・フクヤマ『IDENTITY 尊厳の欲求と憤りの政治』なら読んでいて面白さや妥当さも感じた。また、『リベラル再生宣言』を書いてアイデンティティ・リベラリズムの問題点を訴えたマーク・リラやアメリカの多文化主義に警報を鳴らしているジョナサン・ハイトなんかも、多くの"知的な"白人ナショナリストたちにとってはお気に入りの論客なのだろう。……そして、彼らはわたしがこのブログで好意的に紹介してきた論客でもある。もちろん、「白人ナショナリストに好かれている」という事実自体が彼らの主張の妥当性を損なわせることにはならないのだが(「その論客の主張が妥当であるかどうか」と「そんな論客のファン層がどんなものであるか」は関連のない別の事象であるからだ)、これから紹介するときにはちょっと気を付けようとは思わさせられてしまった。

 また、「加速主義」「暗黒啓蒙」なんかも白人ナショナリストとかオルトライトとかに結び付いている、ということも指摘されている。

 

「白人ナショナリストの九十九パーセントは日本が好きです」(p.20)というセリフは、さらっと書かれているがなかなか衝撃的だ。KKKの幹部であるデヴィッド・デュークも、「日本の文化や自然の素晴らしさに感銘を受けました」「単一人種国家(mono racial country)を訪れたのは日本が初めてでした。人種の血筋(racial heritage)が保持されている社会の偉大さに気づかせてくれたのが日本でした」「私は三島由紀夫が好き」(p.39)などと、著者に語っている。

 白人至上主義者といえども、そのイデオロギーは「生物学的に白人の方が優れていて、多人種は劣っている」というものだとは限らない。むしろ「多様性はアメリカを蝕んでいるので、多様性を排除する」というものであったり「白人は弱者なので、その地位を回復する」というものであったり、あるいは「アメリカは白人のための国家として創立されたので、アメリカを白人の手に取り戻す」というものであったりする。KKKですら、最近では反黒人色を弱めているそうだ…… その代わり、反ユダヤ色は強まっているらしいけれど(p.45)(白人ナショナリスト団体のなかにも、代表や創設者がユダヤ系である団体もあれば明確に反ユダヤを主張している団体もある、ということもこの本では指摘されている)。

 

当然ながら、ナショナリストとして生まれてくる者はいない。また、私が知る限り、他の人種を単なる外見、ないし生理的理由から拒絶している者は皆無に等しい。日常生活では隣人、友人、同僚として親しく接している場合がほとんどだ。この点、日本におけるコリアン系などへの排斥運動に違和感を覚える者が少なくなかった。「日本人もコリアンも人種的には同じです。しかも、コリアンは日本社会に同化しているので何ら問題ないのでは」「コリアン系の自宅や学校、職場にまで出向き立ち退きを求めるのは直接的すぎる(too direct)と思います」…… 。

また、白人ナショナリストだからといって、非白人が多数派の国々を否定するわけでも、ましてや支配しようとしているわけでもない。日本のような同質性の高い社会には敬意を抱いており、介入主義やグローバリズムには否定的だ。あくまで、本来、白人が礎を築いてきた米国(ならびに欧州など)で、白人が不当な扱いを受けていること、礎そのものが覆されつつあることへの異議申し立てという位置付けである。上の世代の場合は公民権運動が、下の世代では進学や就職の際のアファーマティブ・アクション積極的差別是正措置)が大きな契機となっている場合が多い。そして、どちらの世代も、今日の米国を覆っている「ポリティカル・コレクトネス」(PC)は自由を脅かす「言論統制」の一種であり、その推進者や擁護者を「コミー」(commie、共産主義者の別称)と糾弾する。

果たして、自分たち白人は咎められ、赦しを請うだけの存在なのか。胸を張るべき伝統や血筋もあるのではないか。こうした感覚に個々人の経験が重なってナショナリズムに傾倒している場合が多いようである。……

(p.117-118)

 

「反ポリティカル・コクレクトネス」というものには、しょせんはメディアやフィクションなどへの表現規制に対する反発であるというイメージが強くて、シリアスな政治問題というよりかは趣味や文化の領域の問題だというイメージがあるかもしれない。いかにもインターネットっぽい話題であるし、人の生命を左右する経済問題とか外交問題に比べると、言論がどうこうとか映画の内容が偏っているどうこうというのはだいぶ「お遊び」に寄っている雰囲気もあるかもしれない……が、そんなことはなくて、人のアイデンティティに関わる重要な問題である。だからこそ、趣味や文化の問題からナショナリズムというガチの政治問題に直結する。さらには、KKKといった団体に参加して有色人種やユダヤ人を排斥するなど、ガチの差別行為にも一本筋で結び付く可能性があるのだ。

 そして、ポリティカル・コレクトネスに対する反感や「不当な扱いを受けている」という感覚、「礎そのものが覆されつつあることへの異議申し立て」などは、日本人の多くにとっても理解と共感が可能なものであるだろう。だからこそ、大統領選挙でトランプに投票したアメリカ人たちに対して共感や理解を示した日本人が多かった。最近のブラック・ライヴズ・マター運動に対しても、運動が糾弾の対象とする白人や警察の側に立って運動家や黒人の方を批判する、という日本人はよくいる。運動がもたらした混乱の様子を映した動画や画像なんかが嘆きや揶揄のコメント付きでシェアされてくる、というのもよくあることだ。

 このような現象に対して「日本人だって、アメリカに行ったら白人から差別されるマイノリティであるだろう。それなのに、"名誉白人"のような気分になって黒人を非難するとは愚かなことだ。アメリカに行って白人からの差別を受ければ、自分がどんな勘違いをしていたか気が付くだろう」みたいなコメントをする人も多い。しかし、このコメントかなり見当外れなものだ。

 まず、そもそも日本人の大多数はアメリカに行くことがないので、「アメリカに行ったら自分も差別される」なんてことを言われたところで脅しにならない。

 そして、白人ナショナリストたちが抱いているようなポリティカル・コレクトネスや多様性に対する反感を自分でも抱いている日本人にとっては、白人ナショナリストたちは住んでいる国や場所がたまたま違うだけの「同胞」のようなものである。だからこそ、理解や共感を示すのだ。

 そこでは「日本人はアメリカに行ったらマイノリティ」であるかどうかなんて、まったく関係がない。白人ナショナリストたちが、白人が皆無な日本のことを「同質性を保っていて多様性のない理想の国だ」と賛美することの裏返しであるともいえるだろう。

 ……とはいえ、だからといって米国内の人種差別(あるいは日本国内の人種差別)に加担するようになったら、それはやっぱり問題である。わたしだってポリティカル・コレクトネスの問題はこのブログでしつこいくらいに指摘し続けてきたが、だからといって人種差別やナショナリズムを認める気はない。それはそれ、これはこれ、だ。まあ「それはそれ、これはこれ」を徹底し続けることが困難である、ということがまた問題であるのだろうけれど。

*1:"低学歴な貧困層の白人ナショナリスト"に関する記事はこちら。

davitrice.hatenadiary.jp

読書メモ:『「勤労青年」の教養文化史』

 

「勤労青年」の教養文化史 (岩波新書)

「勤労青年」の教養文化史 (岩波新書)

  • 作者:福間 良明
  • 発売日: 2020/04/18
  • メディア: 新書
 

 

 タイトル通り歴史(文化史)に関する本であり、歴史に関する本ってひとくちにまとめたり感想を書いたりするのが難しいものだが、この本は「プロローグ」に書かれている問題意識の時点で面白い。

 

こう考えると、かつて広がりを見せていた大衆教養主義がなぜ衰退したのか、という問いが浮かび上がる。教養主義とは、「読書を通じた人格陶治」の規範を指す。大正期から一九六〇年代にかけて、旧制高校・大学キャンパスでは、文学・思想・哲学等の読書を通して人格を磨かなければならないという価値観が広く共有されていた。古今東西の古典を集めた岩波文庫が学生たちに読まれたのも、そのゆえであった。これは試験でいい点を取ったり、よい就職先にありつくことを目的とするものではなかった。

だが、教養主義は決して学歴エリートの専有物だったわけではない。大学はおろか高校にも進めなかった勤労青年たちのあいだにも、「読書や勉学を通じて真実を模索し、人格を磨かなければならない」という価値観は少なからず広がっていた。

(中略)……しかし、今日では「実利を超越した読書・教養」といったものは、ポピュラー文化ではもちろんのこと、教育に関する議論においても、ほとんどふれられることはない。教育をめぐる経済格差や高等教育の無償化はしばしば論じられるが、多くの場合、そこで念頭に置かれているのは、社会上昇の問題である。上級学校進学の希望が阻まれることで、就職や雇用形態が制限され、階層上昇が困難になってしまう。こうした状況をどう改善していくのかが、そこでの論点である。これが喫緊の課題であることは言うを俟たない。だが、格差や貧困が社会問題になっていた点では、『キューポラのある街』の時代も同様である。当時は高度経済成長期の前半期にあたりながらも、家計困難のゆえに高校進学が叶わない青年は少なくなかった。では、かつて、教養主義的な価値観はなぜ、映画のようなポピュラー文化においても広く共有されていたのか。そして、それが消失したのはいつ、なぜだったのか。

(p.4-5)

 

 本文中で印象に残ったのは、以下の箇所。

 

進学組と就職組のヒエラルヒーを反転させようとする志向は、しばしば知識人批判にも結び付いた。

(中略)…… だが、繰り返し述べてきたように、人生雑誌には知識人の論説が多く掲載され、知への憧れや知識人との親和性は際立っていた。では、知への憧れと知識人批判は、いかにして両立できたのか。そこにあったのは、知識人が専有する知を奪取しようとする欲求であった。

(中略)……そこには、「反知性主義的知性主義」を見出すことができよう。知識階級への憎悪(反知性主義)を抱きつつ、知や教養、さらには知識人への憧憬(知性主義)が並存する状況は、一見、矛盾含みのものではある。しかし、微細に見てみると、両者の間には順接の関係性を見出すことができる。高等教育を受けられなかったにもかかわらず、知や教養に憧れを抱くことは、必然的に知識人層によって知が独占されることへの反感を生む。その心性は、知識人とも対等であろうとする平等主義的な価値観に支えられていた。人生雑誌は、こうした反知性主義的知性主義に根ざすものであった。

(p.213-215)

 

「エピローグ」の最後の段落にある文章もなかなか示唆的だ。

かつて人文知は、インテリ層のみに支えられるのではなく、格差にあえぐ若者たちによって下支えされていた。「格差と教養が結びついていた時代」から遠く離れるなかで、現代のわれわれは何を失ったのか。

(p.277)

 

 この本では、戦後の苛烈な労働環境のもとで苦しんだり疲弊したり消耗したりしながらも、「実利」ではない「教養」や「知」を求めた青年たちの姿が描かれている。縦社会の工場で抑圧を感じていた工員たちにとっては、平等主義的で「学校民主主義」の場である定時制高校が「解放」の場であった(「学校のもつ雰囲気がたまらなく好きなのです」(p.155))、というエピソードはなかなか感動的だ。一方で、「就職組」が「進学組」をリンチして殺害した事件があったなど(p.124)、格差に基づく対立も相当なものであったらしい。あと、人生雑誌を読んでいたら「アカ」扱いされて職場での立場が悪くなったり後ろ指を指されたりしていたそうだ。気の毒である。

 そんな彼らが年をとって余裕は出てきたが情熱は失ってきたときに求めたのが『プレジデント』や『歴史読本』であったり、司馬遼太郎や『真田太平記』などの時代小説である、というエピソードもなかなか印象に残った。ネットではかしこさんたちに馬鹿にされがちな「大衆教養主義」や「反知性主義」ではあるが、その背景にはいろいろと重たくシビアな現実があって、そのなかでの解放だったり救済だったりするものなのだということが学べた。

 勤労青年が「格差や貧困に向き合うなかで社会批判への関心が芽生え、時事問題や社会科学に目を見開いていった」「彼らは格差のゆえに教養から排除されたのではなく、逆に格差のゆえに教養に接近したのである」(p.266)というのは、たとえば『日本の分断:切り離される非大卒若者たち』で示されている現代の若者たちの姿とは真逆と言っていいほど対照的だ。現代の問題はこの本のテーマではないので「なんでいまの若者たちはこうなっちゃったのか」という話はされていないが、考えてみるといろいろと興味深い題材ではあるだろう(娯楽と情報の過多、かりそめの「中流」や「平等」の意識、社会の高度資本主義化による物質主義の肥大、アメリカのせい、などなどが関係していそうなところだ)。

 個人的な話をすると、修士課程までとはいえ大学院にまで行ってしまったわたしは完全に「進学組」の側の人間ではあるが、この本で描かれている勤労青年たちの「教養」に対する憧れはにいろいろと共感できる。わたしも、学生時代であったりフリーターやニートをやっていって時間や体力が余っている期間よりも、フルタイムで(そしてワープア同然の状態で)働いていて余裕のなくなっている期間のほうが俄然と「教養」に対する渇望が湧いてきて、それで無理して本を読んだり感想を書いたりして疲れちゃったりする。根本にはやっぱり「労働」なり「現実」なり「社会」なりの辛さがあって、それに悩まされながら生きているときには教養が「解放」へと結び付く、ということなのだろう(なので、教養を「解放」ではなく平常から仕事の一環として当たり前に触れるもの、という知識人に反感を抱くということもわからないのではないのだ)。