道徳的動物日記

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人種は存在しない…のか?

gendai.ismedia.jp

 上記の記事は3ヶ月前のものだ。ブコメは現時点で30ほどしか付いていないが、わたしを含めて、違和感を表明しているコメントが多い。

 特に違和感があるのは、やはり、「人種は存在しない、あるのはレイシズムだ」というタイトルだろう。ここには、ある種の文系の"学問"や"社会学"に独特なレトリックと、市井の感覚との乖離が見出せる。今回は上記の記事を直接批判したり反論したりするわけではないが、このタイトルが象徴するような、"社会学的"なレトリックや議論に対してわたしたちが感じる違和感について、ちょっと書いてみたい。

 

 人種の問題に限らず、ある種の社会学(あるいは、ある種の「哲学」や「思想」)では、"わたしたちが「自然」であったり「普通」であると思っている物事は社会的に構築されている"、ということが強調される場合が多い。

 そして、多くの場合には、その社会的構築の背景には"レイシズム"なり"権力"なりの「悪」が潜んでいるという理路を取ることになる。そのため、世の中にある悪い物事を改善したいと思っていたり自分が善人でありたいと思っているなら、自分が使っている概念の社会構築性とその背後に潜む悪の存在を意識して、自分の認識や言葉の使い方を改めて、"ただしい"考え方や言葉使いをするようにならなければならない……という風に誘導されることになるのだ。

 社会学倫理学のような「規範」に関する学問ではないため、表向きには「〇〇に関する一般的な認識は誤りで、自然だと思っていたり普通だと思われていたイメージは実は社会的に構築されたものであり、実はこうなんですよ」という「事実」に関して論じているようなテイを取る。だが、その社会的構築には「悪」が潜んでいると匂わすことで、事実について語っているようなフリをしながら規範的な主張を行う……と、これはハーバーマスフーコーの議論について看破して「ゴニョゴニョ規範主義」と名付けたメカニズムである。

 

 とはいえ、上記の記事のブコメを見ればわかるように、社会学の議論に特に同意していない普通の人であれば、「人種は存在しない」と言われてもそう「いや、存在するじゃん」となるのが自然な反応だ。あるいは、たとえば「性暴力は性欲ではなく支配欲が原因で起こる」と言われても、「いや、性暴力と性欲が関係ないというのは無理があるでしょ」となるものだろう。「その反応こそが、社会構築されたイメージに認識を支配されている証左である」と言われたところで、「そりゃ認識の一部が社会や文化に影響されるということはあるだろうけれど、それを考慮したうえで考え直しても、やっぱり自分が自然に抱いている一般的なイメージは事実をおおむね妥当に反映しているように思えるんですけど」となるのである。

 ……しかし、そのような反論をしてしまう人を説得することは、そもそも目論まれていない。ある種の社会学的な言説とは、それに"引っかかる"人……つまり、「人種は存在しないんだ!」とか「性暴力は支配欲が原因なんだ!」と納得してしまうような、潜在的な支持者を発掘して囲うために発せられているのだ。"社会学的な思考方法"というのはかなり特殊で歪な思考方法であり、多くの人はそのような思考方法を身につけておらずその思考方法への適性もないが、一部の人はその適性を持っていたりもとから似たような考え方をしたりしているようである。そのような人が集まってクラスターとなることで、"社会学的な思考方法"は知的な風土や言論空間では力を持つようになっていったのだろう。

 だから、「それっておかしくねえ?」と言いたくなるような極端な意見や特殊な意見が、賢い人たちや"わかっている"人たちの標準見解であるような体裁をして、社会問題に関する色んな場面で発せられるようになっているのだ。ネットにおいて「社会学嫌い」や「アンチ・社会学」の風潮が強くなっているのは、この現状に対する反動と言えるかもしれない*1

社会学嫌い」は日本のネットに限らない。たとえば、アメリカのアカデミアでも、社会学や社会科学の論点先取で結論先行的な規範主義はよく批判されている。わたしも数年前にそのような批判をいくつか翻訳してきたが、そのひとつが下記のものである*2

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 

 この記事の著者である心理学者のボー・ワインガードが、同じく心理学者のベン・ワインガードや犯罪学者のブライアン・ボートウェルと共に、2016年にQuilletteに、「人種の現実と、レイシズムへの忌避について(On the Reality of Race and the Abhorrence of Racism)」という記事を公開していた。

 

quillette.com

 この記事の後半部分にわたしが言いたいことに近いことが書かれていたので、翻訳して引用しよう。

 

人間のあいだの共通点や人種というものの非現実生についての高邁な物語が、普通の人を納得させることはできないだろう。たとえば、アフリカ系の人たちの集団間における微細な遺伝的差異についての詳細な分析を行ったところで、大半の人々がアフリカ系の人たちを一つのグループ(注:黒人)にまとめてコーカサス系の人々を別のグループ(白人)にまとめるのを防ぐことはできないはずである。そして、実のところ、そのような日常的な分類は、共通する祖先や認識可能な遺伝的差異に一致しているのだ。人々が人種を認識するのは、彼らが抑圧的な神話に騙されている間抜けであるためではない。人種が存在するからである。

 

 この記事のなかでは、「人種」というカテゴリは映画のカテゴリ(ジャンル)と同じような意味で存在する、と論じられている。つまり、「『エルム街の悪夢』はホラー映画である」と聞かされたら「『エルム街の悪夢』は暗くて、怖くて、暴力的な映画だろう」と予測できるのと同じように、「トーマスはコーカサス系である」と聞かされたら「トーマスは比較的薄い色の肌をしており、直近の祖先はヨーロッパにいたのであろう」と予測できるということだ。時折に例外や変数があり予測が外れるとしても、大半の場合にはおおむね事実を反映しており予測を立てるうえで便利であるのが、映画のカテゴリであり人種のカテゴリなのである。

 そして、映画のカテゴリ分けが用途によって変動するのと同じように(ホラー、コメディ、ドラマ、SFの四種類の区別で満足する人もいる一方で、Netflixではずっと大量のカテゴリ分けがされている)、人種のカテゴリ分けも用途によって変動するが(コーカサス系、東アジア系、アフリカ系、ネイティブ・アメリカン系、オーストラリア先住民系の五つで足りる場合もあれば、ユダヤ人をアシュケナジムとミズラヒムに分けることが必要となる場合もある)、それはカテゴリが「存在しない」ということを意味しない。

 この記事では、「レイシズムに反対するためには人種の存在を認めてはならない、ということにはならないし、レイシズムに反対する人が人種に関する研究を認めなかったり人種に関する議論を行わなかったりすることで、むしろその分野がレイシストに占領されてしまう。人種の存在を認めないことは、レイシズムを防ぐという点では、むしろ無益なのだ」というような主張が展開されている。

 

 なんにせよ、ある種の社会学では(あるいは、ある種の哲学とか思想とかでは)、現実の社会問題について分析して知見を提供している風でありながら、実際には内輪でしか通じないお題目を唱えているだけ……というのは人種の議論に限らずよくあることだ。そういう議論が発されるたびに多くの人は「それっておかしくねえ?」と思ったり言ったりするけれど、その疑問は無視されてしまう。そういう虚しい状況がずっと繰り返されているのだろう。

 

*1:

togetter.comこれをはじめとして、 TwitterやTogetterでは特に「社会学嫌い」が可視化されている。まあ、そこにおける社会学への批判は不当なものであることも多いんだけれど。

*2:他にはこういうのも訳した。

davitrice.hatenadiary.jp

読書メモ:『ブルシット・ジョブ:クソどうでもいい仕事の理論』

 

 

 はじめに断っておくと、わたしはこの本をフラットな状態で読みはじめたわけではない。『隠された奴隷制』でデヴィッド・グレーバー(やジェームズ・スコット)が援用されている箇所を読んだときには「アナーキスト人類学って胡散臭そうな主張だなあ」と思ってしまったし*1国家制度や西洋社会や資本主義の欠点をできるだけあげつらってオルタナティブな社会の価値を強弁する、という彼の基本スタンスも気に食わない。

 Twitterなどを見ていても、グレーバー(的な主張)を好んでいる層にはわたしにとってノーサンキューな人が多そうだ。

 

 とはいえ、労働というテーマについてはわたし自身もこれまでに色々な本を読んできたし、自分なりに色々と考えてきたし*2、「ブルシット・ジョブ」という概念自体については「俺がこれまでやってきたどの仕事もブルシットだったよなあ」と思って共感できなくもない。ベーシック・インカムだって、(実現可能であるなら)大賛成だ。

 

 というわけで、読んでみることにしたのだが…(税込4000円以上とクソ高くて自分には手が出せなかったので、ほしい物リストでどこかの優しい人に買ってもらった)、結果としては、文体や論調からして苦手過ぎてちょっとまともに読み通せなかった。

 カタカナの振り仮名が多用される翻訳も苦手だし、エピソードやインタビューの抜粋が多すぎるせいで著者の理論をつかむことも面倒になっている。

 序盤からして「ネオリベラル」な政治体制が槍玉に挙げられているし、ブルシット・ジョブを蔓延させるにいたった"悪玉"として近代西洋に発展した労働に対する規律とか「経済学者」たちを挙げているところもビミョーだ。そして、経済学を否定しているわりに「ケア」や「ケアリング」の価値をやたらと讃える(つまり、フェミニスト経済学だけは肯定する)ところも、さいきんのサヨクの流行りにノっているという感じが強くて軽薄に思えた。

 終盤にはおきまりのごとくフーコーを持ち出して、いま人々が苦しくつらがっているのは「権力」や「支配」のせいなんだとアジって読者を特定の方向に誘導するくせに、最後にはしれっと「本書の主要な論点は、具体的な政策的提言をおこなうことにはない」(p.364)と済ませる、という無責任さもどうかしている。

 訳者あとがきですらも、グレーバーの"お言葉"(インタビュー)が引用されまくっているせいでいちいち論旨が明快でなく、読みづらい。

 

 とはいえ、訳者あとがきでは以下のように書かれている。

 

主流の経済学的立場からもマルクス派からも、論拠はさまざまであれ、こうしたブルシットとされる領域そのものが不在であるといった批判がぶつけられている。しかし、総じてみるならば、既成の理論的枠組みによって現象を否認する態度と、いまこの世界の人びとの感覚に深くもぐり、そこから理論的枠組みを組み立てていこうとする態度のちがいはあきらかであるようにおもう。ものすごく粗くいうならば、「資本主義システム」(そう名指そうと名指すまいと)の論理的一貫した存在は大前提として、そこから現実に切り込んでいく態度と、そうしたシステムの存在を自明の前提とせず(述べたように「経済」領域すら自明のものとせず)、人びとがいま現実になにをやっているのかといったところから現代世界のありようをつきとめようとする態度のちがいというのだろうか。

(p.424-425)

 

 また、グレーバーのスタンスをよく象徴しているとわたしが思うのは、以下のような箇所。

 

富裕国の三七%から四〇%の労働者が、すでに自分の仕事を無駄と感じているのだ。 経済のおよそ半分がブルシットから構成されているか、あるいは、ブルシットをサポートするために存在しているのである。しかも、それはとくにおもしろくもないブルシットなのだ!もし、あらゆる人びとが、どうすれば最もよいかたちで人類に有用なことをなしうるかを、なんの制約もなしに、みずからの意志で決定できるとすれば、いまあるものよりも労働の配分が非効率になるということがはたしてありうるのだろうか?

この議論は人間の自由に強力に寄与するものである。……

(p.364)

 

"世界の人びとの感覚に深くもぐる"というミクロな視点にこだわるあまり、人びとの感覚の外側にあるマクロな視点や法則から経済や労働をとらえる発想……すなわち経済学的発想を無視していることが、グレーバーの最大の問題点だ。

 たとえば、エッセンシャル・ワーカーの賃金が低いことは価値に対するわたしたちの考え方が刷り込みによって歪まされているからではなくて、ただ単に需要と供給の法則の結果であるかもしれない*3。多くの人々がサボっている人々や怠惰な人々に対して批判的であり彼らに制裁や制限を与えたいと思っているのは、資本主義のイデオロギーを内面化しているからとかではなく、集合行為のジレンマに対処するうえで自然に生じる発想であるだろう。

 また、「人びとが人類に有用なことをみずからの意志で決定できる」環境になったとしても、みんながそれを行なうようになったら、やはりそこには需要と供給や集合行為などに関わる様々な法則が発生して、けっきょくは思っていたよりもやりたいことを自由にできるわけでもなければのびのびと生きられず楽しくもない社会に落ち着くかもしれない。

 タイラー・コーエンが論じているように、組織管理などの本来は必要な仕事すらもたやすく"無用"扱いされてブルシット・ジョブ認定されてしまう、という問題も大きい。特にこの本の前半では「大企業の顧問弁護士」がブルシット認定されているが、弁護士本人には価値の感じられない仕事であっても、大企業の経営者にとって顧問弁護士は不可欠なものであるだろうし、そして顧問弁護士がいないことでその大企業の下ではたらく何千何万の労働者たちが困ることになるかもしれない。価値や必要というものは、その仕事をしている人々の主観的な感覚や意識とは異なるところに存在するものかもしれないのだ*4

 たとえばベーシック・インカムを導入するにしても、そこで必要となるのは、人々のインセティブに対してどのような影響が出てどのような副作用が出るかなどについての、冷静な検討と試算と実験と対策である。人びとの感覚に深く寄り添った耳心地のいいアジテーションはお呼びでない。

 

……しかし、これはいつも思うことなのだが、それなりに本を読んでいて物事を考えて生きているであろう人がこういうアジテーション的な主張にコロッとやられてしまうのは不思議なことである。

 あるいは、こういう本を好む人は本のなかで主張されている内容の理論的妥当性とか実現可能性とか批判の正当性とかはどうでもよくて、幾多のエピソードとカタカナ言葉に彩られた「ラディカルな解放の書」を読むという行為自体に楽しさや気持ち良さを感じているのかもしれない。

 

*1:

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*2:

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*3:『資本主義が嫌いな人のための経済学』のなかでそのような議論がなされていたはずだ。

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*4:

だからこそ、本人にとって価値が感じられずにやり甲斐もないが他の人たちにとっては必要な仕事には、他の人たちにとっても必要であり本人にとっても価値が感じられてやり甲斐もある仕事よりも高い給料が支払われることになる……前者と後者の給料が一緒であれば、前者の仕事をやりたがる人がいなくなって、多くの人が困るからだ。これこそが先述した"需要と供給の法則"である。エッセンシャル・ワーカーの賃金が低いことについて"資本主義的な価値観"とかケアリング労働の軽視とかレイシズムとかの内面的で社会構築的な要素から語るのもいいかもしれないが、外生的で自然発生的な法則が大前提にあることを無視することはできないのだ。

読書メモ:『階級「断絶」社会アメリカ』

 

 

 数年ぶりの再読。アメリカの「階級」に関する話題はトランプ当選以降に注目されるようになって、わたしもいくつかそれらの本の感想を書いてきたが*1、この本では階級間の政治的イデオロギーの違いはあまり重視されていない(むしろ、エリート階級のなかにはリベラルも保守もいる、ということが冒頭で指摘されている)。それよりも、もっと広い意味での価値観や文化、幸福や秩序などの、政治に比べて人々の生活に関わってくる地の足のついた側面が取り上げられていることがポイントだ。具体的な内容については、以下の書評をどうぞ。

 

honz.jp

『ベル・カーヴ』のおかげで「人種差別主義者」というイメージが強いマレーではあるが*2、差別主義者であるかどうかはともかく、保守主義者であることは間違いない。新上流階級と新下層階級との分断が進むことでコミュニティやソーシャル・キャピタルが崩壊して、人々が「人生の本質」を見失って「建国の美徳」が失われていく……と嘆く様子は、まさに保守のおっさんのそれだ。ロバート・パットナムの『孤独なボウリング』にかなり依拠した議論でありながら、提案する解決策は「小さな政府の実現」と、パットナムが主張するのとは真逆の方向であるところもどうかと思う*3

 しかし、以下のような文章は良くも悪くもウッとくる。

 

ソーシャル・キャピタルの衰退によって、白人下層階級の人々は、従来アメリカ人が幸福追求のために用いてきた基本的手段を奪われつつある。結婚、勤勉、正直、信仰の衰退についても同じことがいえるのではないだろうか。人生におけるこれら四つの側面は、個々人の好みで重要性が決まるたぐいのものではない。この四つは一体となって、人生の本質を形成しているのである。

(p.368)

 

人が人生で深い満足を得られるーーつまり幸福を得られるーー領域は何だろうか?その答えは四つしかない。家族、仕事、コミュニティ、そして信仰である。

(p.371)

 

 ウッときたのは、わたし自身が、結婚からも仕事からもコミュニティからも見事に疎外された人生を歩んできており、もちろん信仰なんてものも持っていないためである(なお、わたしは日本に生まれて日本で育ってきたので、アメリカにおける階級の分断とかソーシャル・キャピタルの崩壊とかは、わたしが「人生の本質を形成している」ものから縁遠い人生を送ってきたこととは、無論なんの関係もない。ただたまたま運が悪かったり自分自身の意志でいろんなことから逃げてしまったりなどの色々な事情が重なってそうなったということだ)。

 そして、自分自身がさして幸福でないことも自覚している。だからこそ、幸福に関する哲学や心理学の本も色々と読んでいるわけだが*4、それらの本のなかでも「幸福を得るためには、家族や友達や共同体と関わりながら、価値のある仕事を勤勉に真っ当に続けて、ほどほどに生きるのがいちばん」という主張がされているのである。そして『階級「断絶」社会アメリカ』でもアリストテレスの幸福論が引用されているように、幸福って良くも悪くも"保守的"なものであることは間違いないのだ。マレーとは真逆のカウンターカルチャー的な主張が、社会の分断をすすめて秩序を毀損することでけっきょく人々を生きづらく不幸にしてきた、ということも確かであるし*5

 わたし自身、そもそも保守的な傾向が強くて*6、たとえばアメリカの映画を見ていてどの登場人物も言葉使いが汚かったり不特定多数とセックスしまくっていたりドラッグや酒に溺れていたりすると「やあねえ」と眉をひそめてしまうタイプの人間である。だから、マレーの保守的で前時代的な問題意識には共感できるところもある。婚外子の増加が社会に悪影響を与えることを「進化心理学」と「遺伝学」に基づいて示唆しているところも(p.432~433)、やや危ういと思うがそういう言いづらい問題に切り込んでいこうとするところは評価できるだろう。

 ……しかし、だからといって、「ヨーロッパ・モデル」な福祉国家を否定して、「アメリカン・プロジェクト」を体現した小さな政府を押し出されるのはやっぱり勘弁してほしい。わたしが思い浮かぶ限り、マレーと同様の幸福論や社会論を語っている論者(ロバート・パットナム、ロバート・フランク、ジョセフ・ヒース、ジョナサン・ハイトなどなど)の大半はリバタリアニズムの問題点も重々承知しており、穏当な福祉国家の必要性を強調している。「結婚、勤勉、正直、信仰」と福祉国家も、両立できないことはないだろう*7

*1:

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*2:

cruel.hatenablog.com

*3:パットナムは社会福祉や再分配の重要性を強調する論者であるはずだ。

togetter.com

*4:

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*5:

davitrice.hatenadiary.jp

*6:

note.com

*7:スウェーデンのように「大きな政府」が整った福祉国家では必然的に宗教の影響力が失われていくという議論もあるのだが、それはそれとして。

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現実の問題を解決することから遠ざかるラディカリズム(『反逆の神話』読書メモ:後半)

  

 

カウンターカルチャー的な分析からは、決まったパターンが浮かびあがってくる。社会問題はどれも、大量生産、マスメディア、自然の技術的支配、または単に回帰や同調への欲求かもしれないが、いずれにせよ大衆社会の基本的特徴が原因と考えられる。だが、こうした説明がきわめて問題含みなのは、経験上正しくないことに加えて、具体的な社会問題一つ一つを、当然誰も変えようとは思わない(求めない)ような現代社会の特色と結びつける効果があるからだ。つまり、この説明は、あたかも「体制」がまるごと社会問題全般の原因であり、したがって体制の完全な転覆に達しない方策では問題を解決できないように思わせるのだ。そうして、多数のごく扱いやすい問題をとうてい解決不能なもののように見せてしまう。

(p.368)

 

したがって、本書の中心となるカウンターカルチャー的思考への批判は、それが混乱を巻き起こし、「ディープさ」も「ラディカルさ」も足りないという理由で、あらゆる社会問題に対する実践的な解決策を左派に拒否させていることだ。このせいでマイケル・ムーアは、法律はアメリカに存在する「恐怖の文化」という、より根深いとされる問題を扱わないからと言って、『ボウリング・フォー・コロンバイン』で銃規制に反対している。このせいで主要な環境保護団体は、ディープエコロジーという名目で、排出量取引に反対している。このせいでフェミニストたちは、それが家父長主義的な抑圧の、深い文化的要因なのだと確信して、ポルノグラフィーに神経をとがらせることに何年も無駄に費やした(この伝でいけば、ポルノグラフィーにとっての家父長主義は広告にとってのテクノクラシーである)。もっと一般的にいえば、このせいで左派は、非難すべきあらゆる不作法や社会的逸脱を擁護するか、少なくとも根拠のない弁明をさせられるはめに陥っている。これはほかの何より選挙上の大きな障害となった。

(p.391)

 

これこそが僕らがカウンターカルチャーの重罪と呼ぶものの典型例ーーつまり、ラディカルさが足りないとか人々の意識を充分に変えないという理由で、現実の社会問題に有効な解決策をはねつける傾向だ。

(p.395)

 

 カウンター・カルチャーの影響力が減退してきたフシのある昨今でも、「ラディカルさ」を要求する傾向は健在であるように思われる。

 わたしが思うに、イマドキの左派の「ラディカル」嗜好は「インターセクショナリティ」という概念に体現されているように思われる*1。つまり、性差別の問題にせよ人種差別の問題にせよ植民地主義の問題にせよ環境問題にせよなんにせよ、すべての問題を"つながっている"と見なしたうえで、自分が興味のある問題だけでなくほかの問題についても目を向けて批判できる人の方がエラい、さらにはすべての問題の"つながり方"を見出してそれを述べたてられる人はもっとエラい……みたいな風潮だ。

 言うまでもなく、"問題はすべてつながっている"と頭から決めつけたうえで、その"つながり"を血眼になって探したり無理矢理に結びつけるほどに、その考え方は陰謀論に近づいていき、個々の問題の具体的な原因について考慮して適切な対処策や解決策を実行していくことからは遠ざかっていく。さらに問題なのは、「お前は充分にラディカルではない」とか「お前は目の前の問題ばかりに注目していてその根源にあるインターセクションが見えていない」などと言って、具体的な問題に対処している他人を非難して邪魔してしまうことだ。そのような言いがかりをつけることが"クール"とされてしまう風潮は、やはり存在するように思える。

 ラディカリズムは人々の"意識"や"文化"にばかり注目するという点も、この傾向を助長させる。つまり、具体的な対処策や解決策が功を奏して、問題となっている制度が変更したり人々の問題行動が減少したりしたとしても、「いや、根本にある意識や文化は変わっていないのだから、またいつ同じような問題が発生するかわからないし、あるいは別のかたちで問題が噴出しているのだ」といくらでも言えてしまうのである。

 

ニューヨーク在住のジャーナリスト、アリッサ・クォートはその著書『ブランド中毒にされる子どもたち』で現代の若者文化に厳しい目を向け、発見したことにショックを受けている。化粧をする十二歳以下の子供たち。企業の「トレンド予測者」として働くティーンエイジャーたち。ステロイドを常用したり、美容整形をしたり、モデル体型になるために断食する高校生たちーーみんな、どこもかしこもブランドだらけの海へと足を踏み入れている。

(中略)

クォートはちょっとしたパラドクスに自ら陥っている。彼女はもともと、周囲に同調しクールでいたいというティーンの欲望につけ込んでブランドを売りつける企業を批判している。それはけっこうだ。だが、その問題には手っとり早い解決策がある。教室からブランドを締め出す最も簡単な方法は、単に子供たちがそれを身につけるのを禁じることだ。制服を着せることだ。しかしこの解決策もまた、順応を課す訓練だからと認められない。そうして、生徒に自分の着る服を選ばせるのも制服を着せるのも、どちらも順応につながるのだとしたら、いったいどうすればいいのか?

クォートによれば、生徒たちがすべきことは反逆である。彼女は、地下室で音楽を演奏したり、街頭パーティーを催したり、お互いの髪を切りあったりすることで、社会批判と文化的創造性を結びつける「ドゥ・イット・ユアセルフ」パンクの活動や「カルチャー・ジャマー」を称賛する。これは以前どこかで聞いたことがあるぞ。六〇年代からずっとしていることじゃないか?

(p.213)

 

 中学や高校で学ランを着せられていたわたしとしては、実はを言うとヒースのような論者による「制服必要論」にはあまり賛同しない。学ランは暑いし重苦しいし不潔だし、女子の学校制服には痴漢などの性犯罪を誘発する側面がやはりあるだろう。また、「制服がないことで学校の規律が乱れたり過度なファッション競争が繰り広げられたりすることよりも、制服によって個人の自由や自律が抑圧されることの方がよっぽど深刻な問題だ」という主張はそれはそれでもっともなものであると思っている。その結論は、リバタリアニズムだけでなく、より穏当なリベラリズムからも導き出されるものであるだろう。……とはいえ、上記に引用した箇所は、「パンク」な活動を称賛する人々の滑稽さをうまくあらわしているようには思うけれど。

 

覚え書き:ポストモダンの「ごにょごにょ規範主義」、サンドバッグとしてのネオリベラリズム(と優生思想)

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econ101.jp

 

 先ほどの記事でジョセフ・ヒースの「『批判的』研究の問題」を取り上げたことなので、この記事から面白いところをいくつか引用しよう。

 

さっき言ったように,「批判的社会科学」の志は,たんに規範的な決意に導かれた社会科学をもたらすことだけではなくて,そういう規範的な決意を明示的にすることでもある.ぼくが読んだこの手の本でいちばん大きな問題なのは,ほぼ例外なく,この後半部分〔明示化〕で失敗している点だ.著者たちは――ほんのひとにぎりの法学教授たちをのぞいて――規範的な論証をどう展開すればいいのかまるでわかっていなかった.それどころか,じぶんたちが採用しようとしている規範的な基準がどういうものなのかをはっきり述べるのを信じられないくらい忌避していた.その結果どうなるかといえば,本まるまる一冊を費やして,「ネオリベラリズム」だなんだといったものへの抵抗をもっと強めようとする.ところが,その「ネオリベラリズム」がいったいどういうものなのかは一向に述べられない.まして,それのなにがいけないのかなんてまるで示されない.

ずいぶん前のことだけど,ハーバマースがフーコーを批判する論稿を書いた.そこでハーバマースはフーコーのことを「ゴニョゴニョ規範主義」だと言って非難していた.どういうところを非難しているのかと言うと,フーコーの著作は明らかにあれやこれやの道徳的な懸念・関心にかきたてられて生まれているのに,当人はそうして傾倒している道徳的な事柄がどういうものなのか頑としてはっきり述べようとしなかった.そのかわりに,とかく「権力」「体制」といった規範的な意味合いがにじむ語彙を修辞的な装置に使って,じぶんの規範的な判断を読者が共有するよう仕向けつつ,その一方で,公式にはじぶんはべつにそんなことをしちゃいないと否認していた.つまり,問題は,フーコーがじぶんの価値観をこっそり忍び込ませつつそんなまねはしてませんとうそぶいていたところだ.ハーバマースに言わせれば,まがいものでない批判理論にそんなごまかしは無用だ.規範的な原理原則を明示的に導入して,それを擁護する合理的な議論を提示すべきだとハーバマースは論じた.

 

 この記事では社会科学に対する批判理論が取り上げられているが、倫理学におけるポストモダニズムや批判理論でも「ごにょごにょ規範主義」を感じることはある。たとえば、肉食と菜食の問題についてのポストモダニズム的(デリダ的)な主張だ*1。あるいは、功利主義や権利論に対するフェミニズム的批判理論である*2

 前者は明らかに「動物の苦しみのことについて気にかける必要はなく、肉食には何の問題もない」という主張を含有する議論であるが、その主張を表立って出してしまうと色々と批判にさらされて自分の主張の脆弱さがバレてしまうので、主流派の動物倫理の"差別性"とか"欺瞞"をあれこれと並べ立てることで「なるほど、菜食の義務を主張する動物倫理の主張は一見反差別でありながら実は差別的な発想が隠されているんだ、じゃあそんな差別的な発想に従っちゃいけないからこれまで通りに肉を食べてもいいんだね」と誘導するような議論であった(ゲイリー・シュタイナーが言うところの「気分を良くするための倫理学」である)。

 後者は動物の道徳的地位を認めてはいるものの、「動物には痛覚や意識能力があるから、動物には道徳的地位がある」と言明してしまうことで優生思想だとか選別の思想だとか批判されることを避けるために、主流派の理論を批判しつつ自分たちの具体的な理路や結論は曖昧なところに隠してしまって、「わたしは動物への道徳的配慮の必要性を認めていますが、功利主義者や権利論者のような差別的な理路には与しませんよ」という体裁だけを整えて「いい顔」をするのだ。

 結論を明示することで露わになってしまう自分の主張の脆弱さを隠して、批判に対する応答責任を避けること、そして他の理論よりも一方上なメタ的な立場に身を置くことで体裁を良くすること……ここら辺が「ごにょごにょ規範主義」のキモであるのだろう。

 

 また、生命倫理においても、安楽死や中絶をめぐる議論で「ごにょごにょ規範主義」を感じることがある。安楽死については、あきらかに「安楽死は認められない」と考えているであろう人が、そこの結論はごまかしたまま、自己決定権の幻想や"生権力"を云々しつづける*3。中絶についても、「女性の自己決定権は胎児の生きる権利に優先する」と言明してしまえばいいものを、それだけは言わずに、女性の身体に対する"生権力"の介入を論じたり「権利と権利の対立という発想自体に男性的な発想が隠されている」などと批判したりしながら外堀を埋めていって、「中絶に反対するやつは悪どいやつだ」という結論をなんとなく匂わせたりする。生命倫理は文字通り生命に関わる問題であるために、結論を言明してしまうと冷酷さや悪人っぽさが生じてしまうおそれがあるので、それをごまかすことに腐心するのだ。

 ついでに言うと、トロッコ問題に対するよくある批判も「ごにょごにょ規範主義」の一種かもしれない。たとえば、「人間を目的ではなく手段として扱うことは許されない」「5人を救うためであっても、1人を犠牲にすることは許されない」という主張は一見すると立派で見栄えがいいが、「じゃあこれこれこういう場合でも"手段として扱う"ことになるからダメなんですか?」「1人を犠牲にすればこれだけの人が助かる場合であっても、犠牲にすることは許されないと言い続けるんですか?」などの批判が発生して、それに応答するうちに立場が苦しくなってくる。その逆の立場(「5人を救うためなら、1人を犠牲にすることは許される」)も事情は一緒だ。だから、トロッコ問題という思考実験の恣意性とか権力性を批判することで、トロッコ問題を出してくる相手の悪人っぽさを指摘しつつ、自分の抱いている結論を言明することは回避するのだ*4

 

たとえば,ずいぶん前から,批判的研究で「ネオリベラル」という言葉が最重要語として機能しているのは気づいていた.事情を知らない人に説明しよう.「ネオリベラリズム」の基本的な問題はこういうことだ.この言葉はでっちあげだ.フーコーによって人口に膾炙するようになった単語で,実はフーコー当人も理解してなかった経済的なあれこれの考えについて語るのに使われているにすぎない.じぶんから「はい自分がネオリベラルです」と称している人たちなんて,どこにもいない.そのため,それが指す事柄にはなんの制約もかかっていないし,「ネオリベラリズム」について主張される批判に応えるべき人間もいない.「ネオリベラル」を,他の「保守」「リバタリアン」といった言葉と比べてみるといい.「リバタリアン」を自称する人たちは実在するから,もしもリバタリアニズムを批判する文章を書けば,現実のリバタリアンが「おまえの言い分はおかしい」と言って反論を書いてよこすかもしれない.一方,「ネオリベラリズム」の場合には,なんでも好き放題に言える.なにを言っても,生身のネオリベラルが「お前の言い分はおかしい」と反論を書いてよこす心配はない――そんな人がどこにもいないからだ.その結果,著作でこの言葉を使う人たちはようするにこうあけすけに宣言しているにひとしくなっている.「私が意図している読者層は,同じ左派のエコーチャンバーですよ.」 エコーチャンバー外の人たちとやりとりしようとのぞんでいるなら,エコーチャンバー外にいる人たちがみずから自覚して実際に掲げているイデオロギーをとりあげないといけないだろう.(この点で,ネオリベラリズムを批判する人たちは大学業界の臆病ライオンだ.そんないわれはないと思うなら,実際の右派を見つけて議論してみてはいかが?)

ただ,ネオリベラルを自認する人がどこにもいないおかげで叶ってしまった望みが1つある.「ネオリベラル」という言葉を使うと,その文章を届ける相手がせばめられて,根っこの規範的な判断を共有している人たちに限定される.すると,この大学教員たちは「ネオリベラリズムはわるいもの」という信念にみんながすっかり賛同している気分になれる.ざっくり言えば,「ネオリベラリズムはなにか市場原理主義に関連していて,マーガレット・サッチャーロナルド・レーガンにはじまって,それ以来,公共のすみずみにまで侵入しはじめた」と考えられている.それにとどまらず,「ネオリベラリズム」は実にいろんなものを意味して使われている.(一例:政府の社会プログラムで〔受給資格を満たしているかどうか確かめるために〕家計調査をするのは「ネオリベラル」だろうか? 「ネオリベラルだ」と考える著者たちもいるし,そう考えない著者たちもいる.どちらにしても,どうしてその結論になるのか説明する人はいない.どうやら,直感で判定しているらしい――「家計調査は給付を拒否する手段なんだ」と考えるか,それとも「家計調査をすることで社会プログラムは累進的になり格差是正がはかられるんだ」と考えるかでちがってくるわけだ.ともあれ,福祉給付の申し込みにあたって書類記入が必要になるという事実だけでも,批判的研究をやっている人たちは「従順な身体の(再)生産につながる」「ネオ植民地国家(だかなんだか)を正常化する目的を推し進めるねらいである」といって非難しがちだ.

段ボールいっぱいの本を読んでみてなによりびっくりしたのは,「ネオリベラル」という言葉を侮蔑的に使っていた10冊のうち,この言葉で意図される意味についてなにかしら説明している本が1冊しかなかったことだ(興味深いことに,その1冊は,マルクス主義の視座をとると明言して書かれていた唯一の本だった).おそらくいちばんわけがわからない本は,「新保守主義〔「ネオコン」〕」という用語も定義抜きで――しかも国際関係論の意味ではなく――使っていた1冊だった.議論を追いかけてみると,どうやら著者が新保守主義をとてつもなくわるいものだと考えているのはありありとわかるし,ネオリベラリズムとはどこかちがうものと考えているのもわかる.けれど,どこがどうちがうと考えているのかはまるっきり不明だった.

 

 ……実はいうと、わたし自身も「ネオリベラリズム」という単語を藁人形的に使用してしまったことはあるので、これに関してはあまり強いことは言えない*5。しかし、たしかに、「ネオリベラリズム」という単語が都合のいいサンドバッグとして使われていることは色々な本やネット上での議論を見ていても良く感じるところだ。ヒースの言うように、自分のことを「ネオリベラリストです」と自称する人なんていないんだから、サンドバッグとして無限に叩ける概念ではあることは否めない。

 同じようにサンドバッグとして用いられている概念はというと……またもや生命倫理の話題になってしまうが、「優生思想」がそれだろう。ナチス以前の時代には優生学に対して現在のような負のイメージはなかったので、優生学者を自称して優生学運動を行う人たちはいた。しかし、ナチス以後の現在では、自分のことを優生学者だとか優生主義者だなんて自称する人なんてほぼ皆無である。……だが、安楽死出生前診断の問題に関する議論では、批判すべき行動のラベリングとして「優生思想」という言葉がかなり頻繁に用いられる。はては、恋愛や子作りのパートナー選びすら「優生思想」とラベリングされるようになった始末だ*6

 優生思想には"内なる"という修飾語が用いられることが多いことも象徴的だ*7。自分自身の価値観や考え方について反省する文脈で「内なる優生思想」という言葉を用いるのに留めるなら、問題ないだろう。だが、議論において、他人の主張に対して「内なる〇〇思想」や「内なる〇〇主義」を見出すことは禁じ手である。それを言い出したらなんだって言えてしまうし、議論というものが成立しなくなってしまうからだ。

 

 

 

*1:

davitrice.hatenadiary.jp

*2:

davitrice.hatenadiary.jp

*3:

davitrice.hatenadiary.jp

*4:

davitrice.hatenadiary.jp

*5:

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

ただし、「若者はなぜネオリベ化するのか?」の記事ではある種の"性向"とか"心情"をあらわす言葉として、あえて"ネオリベ"という言葉を採用した、というつもりではある。

*6:

anond.hatelabo.jp

*7:

news.yahoo.co.jp

d4p.world

ポストモダンの右と左

 

真実の終わり

真実の終わり

 

 

 

 ようやく『真実の終わり』が図書館で借りれるようになったので、パラパラと読んでみた。内容としては大したことがなくて、HONZの書評にまとめられている以上のものはほとんど得られない。要するに、ポストモダニズム的な相対主義のためにフェイクニュースや知識に対する軽視がまかり通ってドナルド・トランプのような人間が大統領に選出されてしまった、というアメリカの現状を嘆く本だ。

ポストモダンの右傾化」という問題はミチコ・カクタニ以外の論者もよく指摘するものではある。このブログでも、フーコーとかデリダとかを批判しながら「ポストモダニズムが民主主義を毀損して右翼の増長を許したんだ」と主張する記事を紹介したことがある*1

 それとは別に、読んでいてわたしが思い出したのがジョセフ・ヒースの「『批判的』研究の問題」というエッセイだ。このエッセイでは直接には「批判理論」が問題視されているが、フーコーなども取り上げられていることだし、ポストモダニズムにもあてはまる問題が指摘された記事だといえるだろう。

 

econ101.jp

 

 最初の段落は、特に印象的だ。

 

学部生だった頃,こんな風に思っていた――《「客観的」「価値自由」なやり方で社会現象を研究する実証主義が社会科学で蔓延しているのは世界の災厄だ.そんなものは幻想だ,というか有害な幻想だ.だって,客観性をよそおいつつ,その裏には隠れた目標があるんだから.つまり,支配しようという利害関心をもってるんだ.人々を主体ではなく研究の対象として扱うなんて政治的に中立じゃない,だってそうやってうみだされる知識ってのは,どういうわけかうまいぐあいに,まさに人々を操作し管理するために必要とされるたぐいの知識になってるもの.つまり,「客観的な」社会科学はちっとも価値自由なんかじゃない,むしろ抑圧の道具になってるじゃないか.》

 

 さて、実は、わたしも学部生だった頃には上記のような"批判理論的"なマインドを持ってる時期があった。

 デリダとかアガンベンとかの、大元の思想家自身が書いた本にも手を出したりはしたが、難しかったし読みにくかったのでほとんど理解できなかった。とはいえ、彼らの思想についてわかりやすく説明する入門書とか彼らの理論を具体的な問題に援用した本はいっぱいあった。だから、社会科学のイデオロギー性とかアメリカ文学の"キャノン"に隠されたレイシズムとか諸々の政策や施策に潜む"生権力"などなど、そういうものを暴き立てるような議論にばかり触れていた時期があったのである。つまり、一見すると当たり前であったり中立であったりする制度や事象のなかに潜む隠された意図や権力を見出すこと、それもナショナリズムであったりレイシズムであったりセクシズムであったりなどなどのできるだけ悪どい意図や権力を見出して批判すること、ということこそが"文系"の勉強である、と思っていたフシが自分のなかにあったのだ。

 学部の友人たちには、上記のような文字通りの"批判理論マインド"を持つ人はいなかったように思える。その代わりに、価値や知識に対する批判理論的/ポストモダニズム的な相対主義を、多かれ少なかれ抱いている人が多かった。そういう考え方は、たとえば大学の一般教養で「科学と現代社会」といった題名の授業を受けたり、大学受験の現代国語科目の模試や過去問でそれらしい評論文を解いたり、あるいは少し賢しらな作家が書いた漫画や小説なんかを読んでいくうちに、目端の利く学生であれば自然と身に付けていくものなのだ。

 ……理系の学生であったり、文系であっても歴史学や経済学などを真面目に勉強する学生であれば、ゼミでの指導や卒論の執筆を通じて「研究って思った以上に大変だし、ちゃんとした手続きや制度があるし、根拠とか論証とかも求められたりするし、好き勝手になんでも言えるものじゃないんだなあ」と気が付くかもしれない。しかし、すべての学生が真面目に勉強しているわけじゃないし、哲学や文学などの場合にはいくら勉強しても「でもこの内容が実際のところどれくらい確かで客観的であるかなんて、わかったものじゃないよなあ」というモヤモヤを抱えたまま大学を卒業する、という人も多いことだろう。

 そして、"批判理論マインド"を持っていた頃のわたしはサヨクであった……すくなくとも、サヨクを目指していた。それに対して、わたしの周りの"相対主義者"な連中の大半は程度の差はあれどもウヨク的な人間が多かった。同級生のほとんどは「正義の反対には別の正義がある」「善悪の基準は時代によって変わる」という価値相対主義的なことを言いたがっていたし、当時流行っていた歴史修正主義の問題についても「でも歴史の教科書ってけっきょくその時代の主流なイデオロギーや権力によって書き換えられるし、歴史学の人たちがいくら議論したところで結局のところ歴史的な事実なんて確かめられるはずがないよね」と、(本人が自覚しているかどうかはともかく)歴史修正主義に親和的なことを言う人が多かったのである。

 

 しかし……いまから思うと、ポストモダニズム的な考え方に触れたのなら"相対主義者"になる方が自然なのであり、"批判理論マインド"を持つようになる方が不自然であったのだ。

 前者はポストモダニズムの考え方を額面通りに受け入れた結果、右も左も関係なく、なんにでも疑いや批判の目を向けている。一方で、後者は疑いや批判を向ける対象を「権力っぽいもの」「強者っぽいもの」「マジョリティっぽいもの」に限定して、そうでないものはスルーしている。なにを批判してなにをスルーするか、という選別には明確な基準があったわけでなく、"お約束"や"空気"になんとなく従っていた。「これは悪どいから批判の目を向けるべし」という対象とそうでない対象とをあらかじめ選別していて、前者にだけ批判の目を向けていたのだ。

 さらに言えば、対象が「悪どいものである」という結論が先立っていて、そのうえで「悪どいものがやっていることだから、なにかしらの悪どい意図や悪どい目標が隠されているはずだ」とみなして、がんばってそれを見つけ出してあばき立てる、というかたちで思考を展開していた気がする。……すくなくともわたしはそうであったし、また、わたしが本や授業やネットで触れていた批判理論的/ポストモダニズム的な議論も、だいたいはそういう論点先取的な発想に基づいて編み出されたものであったように思える。

 

 さて、最近はあまり話題にならなくなってきたが、ひと昔前のネット論壇……というかはてな論壇では「歴史修正主義」をめぐる議論が盛んに行われていた。

 それも、単純な右派と左派の対立ではなく、歴史修正主義を肯定/容認する"わかっていない"ポストモダン相対主義者と、それを批判する"ただしい"批判理論家の対立が主であった(というか、大学にポストを得ていたり主流メディアで発表する機会のある前者に対して、ネットが主な活動の場である"はてサ"がブログなどで批判する、という構図であったような記憶もある)。

 いまから思うと奇妙であるのは、ポストモダニズムそのものに対してまで批判が向けられるのではなく、あくまで「日本のポモ」だけが槍玉に上がっていたことだ。ポストモダニズムそのものについては「デリダはそんなこと言わない」などと擁護されており、左翼であり反権力であるデリダとかフーコーとかの「意図」や「動機」を無視して当人たちが望んだのとは正反対の方向に理論をはたらかせたから日本のポモはダメだ、というかたちで批判がおこなわれていたのである。

 しかし、ある理論の使い道や用途はその理論を生み出した当人の意図や動機に基づいて制約されなければならない、なんてことはないだろう。

 たとえば、西洋の思想家たちは古代から近代にいたるまでおおむね女性差別的であったり人種差別的であったりしたが、彼らが生み出した理論がいまでは性差別の問題や人種差別の問題を分析して批判することに用いられている。問題点を修正したりアップデートしたりしながら、その理論を生み出した当人には予想もつかないところへと適用されるようになっていく、という発展性とか拡張性とかが、理論というものの性質であり面白さでもあるだろう(だから、理論を応用した相手に対して「それは換骨奪胎というものであり、その応用の仕方は間違っている」と批判することも、大概は不当であるのだ)。

 そして、ポストモダニズム理論(あるいは批判理論)を生み出した人たちが左派だったとしても、その理論が右派にとっても都合よく使えるものであることは、火を見るより明らかであったのだ。

フーコーデリダ歴史修正主義者を支持するわけないから、ポストモダニズム歴史修正主義を擁護するのは無効です」なんて通じるわけがない。理論を生み出した人たちの意図や動機を持ち出さなければ"悪用"することを防げないのだとしたら、その理論自体がもとからガバガバで問題のあるものだった、ということである。……だから、日本における歴史修正主義の問題だけでなく、海のむこうで"ポスト・トゥルース"や"オルタナティブ・ファクト"な風潮を生み出してしまうことも必然だったといえよう。

 

 ポストモダニズムや批判理論に基づいて、相手のことを「客観性をよそおいつつ、その裏には隠れた目標がある」という風に批判することには、自家中毒の危険がある。

「すべての理論や議論には意図や目標が隠れているのであり、相手だって俺だって客観的な事実を論じることはできない。相手にも意図や目標があり、俺にも意図や目標があるのだ。そして、俺も相手も自分の意図や目標を遂行するために議論を展開しているのだとすれば、アカデミアは真実を追求する場ではなく、どちらがよりもっともらしいことを言って主導権や影響力を握るかという闘争の場である。だから、確かさや客観性を保ちながら真実を追求するのではなく、自分の派閥の力を強めて相手の派閥の力を弱めることをがんばろう。批判の目も、相手にだけ向けるのが正しい。自分の側の議論にも批判の目を向けると敵に塩を送ることになってしまい、敗北につながりかねないからだ」となってしまうのだ。……ごく一部ではあるだろうが、こんな認識でがんばっている人はアカデミアのなかにもマジで存在していることだろう。

 マルクーゼの名前は忘れられても、彼の生み出した「抑圧的寛容」の発想はいまでも影響力を発揮しつづけている*2。あるいは、ジョナサン・ハイトが指摘するように、マルクスは「社会正義大学」の守護聖人でありつづけている*3。近年におけるポスト・トゥルースの問題とか、ちょっと前のポストモダン論争とかも、大元はこのあたりにあるのだろう。

 

 

読書メモ:『反逆の神話:カウンターカルチャーはいかにして消費文化になったか』(前半)

 

 

 

  数年ぶりに読み返しているが、やはり面白い。著者であるヒースの嫌味さや性格の悪さが存分に発揮されている。

 全体の論旨ももちろん重要なのだが、細かい部分でのネチネチとした指摘や皮肉がたまらなくて、都度引用したくなる。なので、おもしろいところを引用したうえで、自分のコメントや感想を付け加える形式にした。全体の論旨が気になる人は他の人の書評や感想を探せばよい。

 

 

「抑圧の政治」は「搾取の政治」と似ている。ただし、違うのは、抑圧の政治では不正の源を社会的ではなく心理的なものと考えるところだ。したがって、まず必要なのは、具体的な制度の変更ではなくて、抑圧された人たちの意識の変革である(だから初期のフェミニズム運動で「意識覚醒」グループが絶大な人気を博した)。政治は、依存症回復プログラムに似てきている。昔ながらの富と貧しさへの関心はいまや「うすっぺら」と見なされている。

(……中略……)チャールズ・ライクは『緑色革命』に書いている。「革命というものは文化的でなければならない。なぜなら、文化が経済的・政治的機構をコントロールするのであって、その逆ではないからだ。いまは生産機構が自ら気に入ったものを生産し、人々にそれを買わせている。けれども、文化が変革されれば、機構はその変化に従わざるをえない」。誰も特別なことだとは思わなかった。ビートルズが「レボリューション」で「憲法」やほかのそういう「制度」を変えるより「むしろ自分の心を解放」したほうがいいと主張した時代だったから。

ここに、社会制度と、文化と、そして最後に個人心理学のあいだの階層的依存関係で、社会が機能している様子が見てとれる。文化と心理学が、制度を決定づけると考えられている。だから経済を変えたければ文化を変えることが必要だ。そして文化を変えたければ、基本的に人々の意識を変えなければならない。ここから、二つの決定的な結論が導かれる。第一に、文化的な政治のほうが伝統的な分配の構成の政治よりも根本にかかわる、ということ。どんな非順応主義の行為も、たとえそれが伝統的な意味で「政治的」とか「経済的」とされるものとは関係がないように見えても、重要な政治的結果をもたらすと考えられた。第二に、そしてもっと役に立たないのが、人の意識を変えることは、文化を(いわんや政治経済システムを)変えるより重要ということだ。

(p.71-72)

 

 2020年現在の左派や若者たちがカウンターカルチャーにどれだけ影響を受けているかはわからないが、「政治や経済ではなく、文化や意識を変える方が重要だ」的な発想ではいまでも目立つところである。ヒースも指摘していることではあるが、文化や意識を変えることは政治や経済を変えるよりも「簡単」であること、また地道な政治的活動に比べて文化的活動は「楽しい」こと、などが大きいだろう。

 ちなみに、活動だけではなく、議論や執筆というレベルでも、文化や意識について取り上げることは政治や経済について取り上げることより簡単だ。政治や経済について語るうえでは明確なエビデンスが求められたり諸々のお固い資料や統計を集めなければならないが、文化や意識については頭のなかでちょろちょろっと考えるだけで論じることができる。だれだってなにかしらの文化に日々触れているからなにか言えるような気になるし、意識なんてもともとがほとんど証明不可能なものだから逆になんだって言えるというものだ。

 

麻薬取締法に対するカウンターカルチャー流の見方の根底には、アルコールも含めて、薬物の作用に対するとんでもない解釈があった。マリファナが精神を解放するとの考えは、マリファナで頭がぼーっとなった人くらいしか信じないようなことだ。まともな人なら、マリファナ使用者が世界でいちばん退屈な話し相手だと知っている。もっと言えば、アルコールは麻薬や幻覚剤よりは破壊活動的じゃないと何となく考えるのは、アルコールの歴史に対するひどい無知の表れだ。

(……中略……)共産主義者アナーキストも、アルコール依存になるよう労働者に説いてまわったりはしなかった。彼らには、もっと公正な社会を創り出すには、もっと広く国民の協力が必要になるとわかっていた。だがアルコールは断じて助けにならないと。残念ながら、ヒッピーはそれを苦い経験を通して知ることになる。

(p.73-74)

 

 Twitterを眺めているとストロングゼロを飲むことがなんらかの反体制的行為であると思っていそうなアホがいまだにいたりするし、自分が学生の頃には、さも誇らしげに大学の構内で酒を飲んでいる連中をよく目にしたものだ(自分もそのなかのひとりだったけど……)。

 また、「カウンターカルチャー的な思考は、犯罪については若干の認識の甘さをもたらしただけだが、精神病に関してはとんでもなく美化してきた」(p.166)。これも、一昔前の日本のインターネットのことを考えさせられる一文だ。「メンヘラ」がやたらと美化される傾向があったし、特に女性のメンヘラには逆説的な規範や体制への反逆を見出す風潮もあったような気がする。

 

多くのフェミニストは早くから気づいていた。「自由恋愛」がこの社会における大規模な女性の性的搾取を可能にしてしまったのだ。フェミニストの当初の考えは、男は抑圧する側だから、男女関係を律するルールはすべて男に都合がいいように操作されたはず、ということだった。そんなルールの多くが明らかに女性の防衛のために、女性を男性から守るために作られたという事実は、なぜか見落とされた。社会学者でフェミニストカミール・パーリアは八〇年代に、こうしたやかましい古くからの社会慣習の多くは、実のところレイプの危険性を減らす重要な機能を担っていたのだと指摘して、騒動を巻き起こした。同様に、昔ながらの「できちゃった結婚」ルールは、子供の父親としての責任を男性たちに取らせた。この規範が崩れてきたことも、西洋世界に「貧困の女性化」が広がっていることの主要因である。

実際、もし男性の一団に理想のデートのルールを考えるように頼んだとしたら、たぶん性革命によって出現した「自由恋愛」にそっくりの設定を選ぶことだろう。女性の感性に配慮しなくてよければ男はどういう性生活を送ろうとするのかを調べるには、ゲイ浴場を見学すればいい。しかし、このような可能性は、主としてカウンターカルチャー的分析の支配力のせいで黙殺されていた。女性は抑圧される集団であり、社会規範は迫害のメカニズムであると、カウンターカルチャーは主張した。だから解決策は、すべてのルールを廃止することだ。したがって、女性の自由は、すなわち社会規範からの自由と同一視される。

結局、これは悲惨な同一視だった。そのせいで全く受け入れがたい状態が理想的な解放と称されたばかりか、現実に女性の生活の確かな改善につながりそうな改革の受容を「取り込み」や「裏切り」として斥ける傾向を生み出した。どうしてここまでひどく道を誤ってしまったのだろう?

(p.79-80)

 

 

 #MeToo運動に象徴されるように、現在のフェミニズムの主流は「ルールからの逸脱」ではなくて「ルールの改定、新しいルールの作成」であるように思える。フェミニズムに反対する人たちも「新しいルールは女性にとって有利で男性にとって不利に過ぎる」とは批判するが、ルールが必要なことについては同意しているのだ。

 …… とはいえ、既存のルールを「明らかに女性の防衛のために、女性を男性から守るために作られた」と認めたうえで肯定することは、「家父長制」とか「異性愛規範」の存在などを主張するフェミニストにとっては、認知的不協和をきたす。お仲間からも怒られてしまう。だから、既存のルールをかたちだけは否定したりポーズとしての批判をくわえたりしたうえで、それとほとんど変わらない新しいルールを主張する、という光景を目にするような気がする。従来の規範をそのまま認めることはNGなのであり、諸々の「配慮」をしていることを示さなければいけないのだ。

 また、自分がもはやルールに守られなくても安全な強者の側に属していると自覚している人たちが、相変わらずルールの撤廃を求めたり新しいルールの追加に反対したりする、という光景もまたよく見かけるところかもしれない。

 

……意味のない、もしくは旧弊な慣習に異を唱える反抗と、正当な社会規範を破る反逆行為とを区別することは重要だ。つまり、異議申し立て逸脱は区別しなければならない。 異議申し立ては市民的不服従のようなものだ。それは人々が基本的にルールに従う意思を持ちながら、現行ルールの具体的な内容に心から、善意で反対している時に生じる。彼らはそうした行為が招く結果にかかわらず反抗するのだ。これに対し逸脱は、人々が利己的な理由からルールに従わないときに生じる。この二つがきわめて区別しがたたいのは、人はしばしば逸脱行為を一種の異議申し立てとして正当化しようとするからだが、自己欺瞞の強さのせいでもある。逸脱行為に陥る人の多くは、自分が行なっていることは異議申し立ての一形態だと、本気で信じているのだ。

(p.93-94)

 

  このコロナ禍でマスクをつけず、あまつさえノーマスクで集団化してデモをおこなってそれを正当化しようとする人たちのことが連想されるだろう。「ていねいな暮らし」に対する拒否反応そうだ。ヒースは左派のカウンターカルチャーと右派のリバタリアニズムの類似性を指摘しているが、コロナ禍ではむしろ右派の方が目立っているところだろう。

 

……そうして、あらゆる社会規範に対する反逆は肯定的に評価された。だが、こうした考え方の最大の帰結は、ほかのどこよりアメリカの、礼儀正しさのあきれるほどの減退だった(いまや「ありがとう」と言われたら「どういたしまして」と答える代わりに「うん」とつぶやくお国柄だ)。誰でもよく考えればわかることである。作法の衰退は人間を自由にするどころか、反社会的な態度(と政治方針)に利するようになっただけのことに思われる。
(p.108-109)

 

 これはアメリカ映画を見ているとよくわかる。あいつらすぐにFuckっていうし、アメリカ映画に出てくる若者は未成年飲酒や大麻や窃盗や自動車泥棒などの犯罪をしない方がめずらしい。アメリカという国の文化や歴史には興味があってもアメリカに行ったり住んだりしたくないなと思うのはこのせいだ。
 そして、マイノリティ文化が「作法」や「秩序」を無視・軽視する傾向にあることもカウンターカルチャーの影響があるのだろう(既存の作法や秩序はマジョリティの押し付けで抑圧、と見なしてしまうから)。そして、作法や秩序に欠けているために、その文化内で暮らす人々の教育やキャリアにも影響を与えてしまうおそれがある*1

 

……ムーアにとってコロンバイン高校銃乱射事件は単なる犯罪行為にとどまらず、アメリカの社会と歴史の告発だった。

(……中略……)ムーアによれば、カナダ人はありとあらゆる銃を持っているが、銃による暴力はほとんど起こらない。したがって、問題の「根本原因」をもっと掘り下げることが求められる。アメリカに存在する「恐怖の文化」が元凶だ、とムーアは言う。

(……中略……)ムーアは、銃規制は重要ではない、カナダには数百万挺の銃があるが、銃による暴力がほとんどないのだから、と主張する。この論は不正と言っていいほど率直さを欠いている。カナダにはきわめて厳しい銃規制法があることに、ムーアは言及していない。
(……中略……)つまりカナダとアメリカの最大の違いは、文化的ならぬ制度的なものだ。むしろ文化の違いは、法律と制度の違いの結果である。カナダ人が恐怖の文化のもとで生きてないのは、アメリカとは違うテレビ番組を見ているからでも、奴隷制の遺物がないからでもなく、しじゅう撃たれる心配をしなくていいからなのだ。
(p.164-166)

 

 

 社会問題の原因を文化などの「深い」ところに求めるか、制度などの「浅い」ところに求めるか……という構図は、ブラック・ライヴズ・マターに関する議論(警官による黒人の射殺の原因は、制度的レイシズムという"深い"問題であるか、警官による銃の発砲機会がそもそも多いという"浅い"問題であるか)についても繰り返されているところだろう。

 

*1:エイミー・ワックスによる「ブルジョワ文化」の議論にも関係がありそうだ。

davitrice.hatenadiary.jp