道徳的動物日記

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道徳の問題は科学的に、定量的に考えなければいけない理由

 

 

 

 ビル・ゲイツウォーレン・バフェットが実践していることでも有名な「効果的な利他主義」について書かれた本。パート1では「効果的な利他主義」の考え方について、パート2では具体的な実践方法について書かれている。

「効果的な利他主義」を提唱している哲学者のなかではピーター・シンガーが最も大御所であるだろうが、シンガーにせよこの本の著者であるウィリアム・マッカスキルにせよ、功利主義者である。そして、「同じ金額を寄付するなら、同じ時間だけ慈善行為に関わろうと思うなら、その金額や時間で最大の効果が与えられる対象に寄付したり関わったりせよ」という効果的な利他主義の考え方は、行為の「結果」を強調するという点にせよ結果の「量」を強調するという点にせよ、功利主義にかなり等しいものであることは言うまでもない。

 

…(前略)…トレバー・フィールドの物語が示しているように、必ずしも善意が成功に結びつくとはかぎらない。では、どうすればなるべく効果的に人々の役に立てるのだろう?知らず知らずのうちに危害を及ぼすことなく、世の中に最大限の前向きな影響を及ぼすには?

本書ではこうした疑問に答えていきたいと思う。「心」と「頭」を組みあわせれば、つまり利他的な行為にデータや合理性を取り入れれば、私たちの善意を驚くような成果に変えることはできるのだ。

(p.6)

 

効果的な利他主義で肝要なのは、「どうすれば最大限の影響を及ぼせるか?」と問い、客観的な証拠と入念な推論を頼りに、その答えを導き出そうとすることだ。いわば慈善活動に対して科学的なアプローチを取り入れるわけだ。何が真実なのかを素直で中立的な視点から突き詰め、それがどういう真実であろうと真実だけを信じると誓うのが「科学」であるとするなら、何が世界にとって最善なのかを素直で中立的な視点から突き詰め、それがどういう行動であろうと最善の行動だけを取ると誓うのが「効果的な利他主義」なのだ。

(p.13)

 

 効果的な利他主義が「科学的なアプローチ」を行うことができるのは、効果的な利他主義(ひいては、功利主義)は「結果」の「量」を重視する「定量的」な思考であるから、というところが大きい。

 このブログでは、マイケル・シャーマーの著書『道徳の弧:科学と理性はいかにして私たちを真実と正義と自由に導くか』についても何度か紹介してきた*1。シャーマーの議論のポイントとは、以下のようなものだ:

人間の思考には「定性的」なバイアスがかかっており、程度や可能性の問題を無視した「◯か✖️か」の判断をしてしまいがちであるが、科学的な営みでは定性的なバイアスを是正して「定量的」に物事を扱う必要がある。そして、道徳の問題について考える際にも、状況ごとの固有の事情や条件を考慮に入れながら、科学と同じように定量的に考えなければならない。

 

『<効果的な利他主義>宣言!』では、道徳の問題について定量的に考えることの具体的な方法が詳らかに書かれている。

 定量的な思考で重要となるのは、たとえば、「期待値」の問題だ。寄付をする際には、対象となる問題の規模や深刻さと、寄付によってその問題が解決したり改善したりする可能性の両方を考慮したほうがいい(改善や解決が確実ではあるがそもそも大したことのない問題に寄付することも、深刻ではあるが改善や解決の余地がない問題に寄付することも、どちらも非効率的であるからだ)。

 また、「反事実的思考」も重要となる。行為を評価するためには「その行為をしたことによって、もたらされた結果」だけではなく「その行為をしなかった場合に、もたらされたであろう結果」についても考えなければならないのだ。行為をしなかったほうが良い結果がもたらされていたであろう可能性が高かったり、行為をしてもしなくても同じような結果になっていたであろう可能性が高かったりする場合もあるかもしれない。

 定量的に考えるための材料としては、諸々のデータをはじめとする「証拠」が必要となる。しかし、大半の場合において、100%に確実に結果が予測できるほど充分に証拠が揃っていることはない。そのため、いま手に入れられる限りの限定された証拠に基づいて判断を下さなければならないのだ。だから、その判断は確実なものだとは言えず、「蓋然的」な判断に留まらざるを得ない。しかし、蓋然的な判断と、適当でデタラメな判断は、全く異なるものであるのだ。

 

 道徳の問題を科学的・定量的に思考することは、「効果的な利他主義」に限らない。たとえば、動物倫理の分野でも、科学的で定量的な思考は重要視されているのである。

 

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 上記の記事をはじめとして、このブログでも何度か紹介しているゲイリー・ヴァーナーの『人格、倫理学、動物の認知能力:ヘアの二層功利主義で動物を位置付ける』では、各種の動物の認知能力について調べた心理学や動物行動学などの様々なデータを参照したうえで、人間と動物が「人格(Peson)」「準-人格(Near-Peson)」「感覚だけの存在(Merely Sentient)」の三つのカテゴリに分けられている。そして、それぞれの個体にとっての本人の「生」の価値は、「人格」である人間にとってや「準-人格」である動物にとっては大きい一方で、「感覚だけの存在」にとっては大きくない。そのため、(苦痛の問題などは差し置いて)「殺すこと」の悪さを考量する際には、「人格」や「準-人格」に与えられる危害は「感覚だけの存在」にとって与えられる危害よりも大きいと考えなければいけない、という議論をヴァーナーは行なっている。

 ヴァーナーの議論に対して、ひいては動物倫理や「パーソン論」全般に対してよく行われる批判が、「特定の尺度によって一方的に基準を設けて、他者の生の価値を線引きする、傲慢な発想だ」というものである。この批判は動物倫理の内側からも行われることが多い。たとえば、『荷を引く獣たち』ではシンガーの主張が障害学の観点から批判されていたし、フェミニズム倫理でもポストモダン倫理でも「尺度」や「基準」は批判される*2

 しかし、物事を定量的に扱うためには、尺度や基準は欠かせない。また、「どんな行為が、どんな動物に対して、どんな危害をもたらすか」ということは「どこに寄付することが、どんな結果を生み出すか」ということと同じくらいには不確実で蓋然的な事象だ。個々の動物にどのような感覚が備わっていたり、自分の生に対してどのような認識を抱いているかは、わたしたちは外部から推し量るしかないためである。……そして、科学的な思考は、蓋然的な事象を考慮するための最善のツールなのだ。

 以前にも引用したが、ヴァーナーの著書のなかでもわたしのお気に入りの箇所である、「ラムズフェルドの返答」について述べている部分を、改めて紹介しよう。

 

基準に基づいた私の議論に対する、哲学者のコリン・アレンによる批判に対する私の最初の返答は、「ラムズフェルドの返答」と呼ぶことができるかもしれない。最高の装備や改良型の高機動多用途装輪車両が、イラクに向かうアメリカ軍の全軍に対しては配備されていない、という批判に対してアメリカの元国防長官のドナルド・ラムズフェルドが言ったとされる返答に由来しているからである。ラムズフェルドはこう言ったのだ。「君も知っているように、戦争には手元にある軍隊で行かなければならないんだ。自分がこれだけ欲しいと思っている軍隊や、後からこれだけ欲しかったと思うことになる軍隊で戦争に行ける訳じゃないんだ」。ラムズフェルドと同様に、私もこう言おう。倫理的な判断は、自分が欲しいと思っている証拠ではなく、自分が手にしている証拠に基づいて行わなけばならない。

 科学者や、心の哲学を専門にしている哲学者なら、無期限に結論を保留する余裕があるかもしれない。しかし、倫理学者や立法者は、その判断を下すときに入手可能な最善の証拠に基づいて判断を下さなければならない。そして、日々の生活においては全ての人が倫理学者なのだ。私はいつも自分のことを「倫理学者」ではなく「倫理理論学者(ethical theorist)」と呼んでいる。ポピュラーメディアは、「倫理学者」のことを自分に投げかけられた全ての倫理的問題についての答えを持っている人だと描写するからだ。しかし、問題が投げかけられた時の私の答えとは、多くの場合は「その答えは、事実がどんなものであるかということによる」というものだ。「日々の生活においては全ての人が倫理学者なのだ」という私の主張は、全ての倫理的問題に対して表明できる意見を全ての人が持っている、ということは意味していない。私が言いたいのは、私たちの全員が、倫理的な議論の対象となる判断を数え切れないほど多く下している、ということなのだ。その判断の多くは待つヒマのないものであるし、その問題に関して必要であったり求められたりする情報を全て集める前に判断を下す必要がある。このことは、立法者にとっては明白なことだ。立法者は、広い範囲に重大な結果をもたらす政策や法律を不完全な情報に基づいて頻繁に制定しなければならない。しかし、立法者に比べると判断の与える影響は少ないといえ、同じことは私たちの全員に当てはまるのだ。

(p.115-116)

 

 

「その基準は妥当なものであるのか」「基準にはバイアスがかかっているのではないか」と指摘して、基準の修正を要請する、ということもあり得るだろう。そのような批判であるなら、正当な批判であると思う。たとえば『荷を引く獣たち』でも、シンガーのパーソン論は障害が障害者本人にもたらす危害を重く見積もりすぎるという「健常者中心主義」のバイアスがかかっている、ということを指摘しているところはおおむね妥当であった。

 しかし、道徳の問題において「尺度」や「基準」を設けることそのものを否定してしまう議論は、だいたいにおいて的外れだ。『荷を引く獣たち』でもフェミニズム倫理・ポストモダン倫理でも、「基準によって判断するのではなくそれぞれの動物たちの"個別性"や"他者性"について向き合わなければいけない、いや、感覚の有無を重要視すること自体が人間中心主義であるから動物たちのことだけでなく植物や生態系も重要視しなければいけない」などと倫理的行為の対象を無限に拡大してしまう議論になってしまっていった。わたしに言わせれば、このような議論はおためごかしの八方美人であり、耳心地はいいかもしれないが具体的な行動の指針とは全くならない、頼りなくて無意味なものである。

 このような主張は、問題について自分が"深く"考えていることのアピールとはなるかもしれないが、「他者」のことを真剣に考慮している主張であるとは全く思えない。ほんとうに他者のことを考慮しているなら、自分の行為がもたらす結果について知ろうとするはずであるからだ*3。そして、行為がもたらす結果について知るためには……そう、尺度や基準を設けながら、科学的に定量的に考えることが必要となるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:

 

The Moral Arc

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  • 作者:SHERMER, MICHAEL
  • 発売日: 2016/01/26
  • メディア: ペーパーバック
 

 

*2:

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*3:気にかけよう(ケアしよう)とするのではなくて。

読書メモ:『自殺の対人関係理論:予防・治療の実践マニュアル』

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※自殺について扱っている記事なので要注意

 

 この本の代表著者のトマス・ジョイナーは Why People Die by Suicide Lonley at the Top の著者でもあり、このブログでもこれまでに何度か取り上げてきた*1。ジョイナーの本で邦訳が出ているのはいまのところこの本だけであり、Why People Die by Suicide がエッセイや概説書としての要素が強く読みものとしても興味深かったのに比べると、こちらは副題から想定される通りカウンセラーなどの本職の人が現場で使用するためのガチガチの実践書だ。そのため、読みものとしての面白さがあるわけではないのだが、ジョイナーの提唱する「自殺の対人関係理論」について再確認することができた。メモがてら、紹介しよう。

 

「自殺の対人関係理論」は、人に自殺願望をもたらす要因として負担感の知覚所属感の減弱の二つを挙げる。そして、自殺願望を持っており、かつ自殺潜在能力を身に付けている人が、自殺するリスクが高い人であると見なされる。

 

 自殺潜在能力とは、「自殺しよう」と思ったときに、それに伴う痛みや恐怖を乗り越えで自殺を遂行することができる能力、ということだ。逆に言えば、この能力が身についていなければ、いくら自殺願望を抱いていても自殺を実行することが困難になるのである。

 

自殺の対人関係理論によると、自殺によって死ぬことができるのは、過去において疼痛と刺激誘発的体験(自殺行為がその最たるものであるが、それに限らない)を十分にくぐり抜けてきたため自傷行為の恐怖と疼痛が習慣になり、それゆえ自己保存の要請が押し込められてしまった人たちのみである。私たちが示すように、自己保存本能はそのすべてを取り除くことができないほどに強く、常にその頭をもたげてくる。通常、自己保存本能は広く存在するが、なかにはそれをねじ伏せることができる選ばれたわずかな人々がいて、そうした人たちは、自殺の対人関係理論によれば恐怖と疼痛に慣れることによってこの危険な能力を獲得してしまったのである。その後の自傷行為に対する疼痛と恐怖を減少させるという点で、自傷の既往(特に死ぬことを意図した自傷)が最も強力な習慣化体験ではあるものの、それが唯一のものではないことを強調することは重要である。怪我、事故、暴力、命知らずな言動、軍隊での活動や、医師としての仕事などはわずかな例であるが、様々な程度の恐怖や疼痛を伴う体験が習慣化体験となりうる。

(p.5-6)

 

 自殺願望の要因のひとつである「負担感の知覚」については、以下のように解説されている。

 

負担感の知覚とは、自己についてのひとつの見方であり、それは自尊感情の低下を含んで入るが、さらにそれを超えるものである。この考えは、その人が不完全で欠点があるために自己価値が含められるだけでなく、さらに悪いことには、その人の存在が、家族、友人、社会にとってお荷物であるというものである。この見方は「家族、友人、社会やそういった人たちにとって、私が生きているより死んだほうが、価値がある」という決定的な計算を心の中で生み出すのである。自殺の危険性のある人たちはこの計算結果が正しいと信じているが、それは致命的になりかねない誤った認識を表している。

(p.6-7)

 

 「所属感の減弱」については、以下の通り。

 

所属感の減弱とは、孤独や社会的疎外と完全に一致しないまでも、おおよそ同義である。これはある人物が、家族の一部でもなく、仲間の輪、価値のある集団などの他者から疎外されているという体験である。人々が、負担感の知覚所属感の減弱を同時に体験した時、つまり彼らが自分自身の他者に対する心遣いが重要でなくむしろ害を及ぼすとさえ感じ、彼ら自身も気遣われていないと感じた時、それが命にとって重要なつながりのすべてを断ち切り、その結果、死への願望が生じると自殺の対人関係理論は提唱するのである。

(p.7)

 

 自殺の対人関係理論のポイントは、自殺願望についての分析だけでなく、自殺潜在能力という観点を発見したことにもあるようだ。たしかに、自殺潜在能力という考え方を用いることで、「自殺者は男性の方が多いが、自殺未遂者は女性の方が多い」というよく知られた現象を説明することができそうである(自殺願望は女性の方が多く抱いているかもしれないが、自殺潜在能力を身に付けている人が男性の方が多いのであろう)。

 また、『経済政策で人は死ぬか?:公衆衛生学から見た不況対策』では「不況であるからといってただちに自殺者が増えるわけではないが、失業状態が長引くことは、人々を自殺に追い込む」ということが論じられていた。そして、失業状態が「負担感の知覚」と「所属感の減弱」を人々に引き起こすことは疑いないように思える。コロナ禍が始まった当初には日本では自殺者が減少していて、「自粛要請やリモートワークによって労働負荷が減少して、人々が生きやすくなったからだ」という議論がなされていたものだが、けっきょく、2020年の自殺者は男女ともに増えることとなってしまった*2。失業者が増えたことはもちろん、自粛に伴う社交の減少が人々に「所属感の減弱」を引き起こしていることは疑いの余地はないだろう(もちろん、だからといって、「自粛をするな」と言いたいわけではない)。

 過去の記事でも強調したが、「孤独」というものは安易に美化されがちだ。コロナ禍のインターネットにおいても「出勤や飲み会がなくなって、人と会わずに引きこもることが許されるようになって、ラクになって最高だね」みたいなセリフをあまりに安直に吐く人々が散見される。しかし、わたしはーー実のところ、たしかに「ラクになったなあ」と思ってはいるのだがーーそういうセリフはなるべく吐かないようにしている。インターネットにおいても主流メディアにおいても、「孤独」はたやすく美化されて、そのリスクが見逃される傾向があるからだ。

 

 また、第六章における以下の箇所も印象に残った。

 

……本書を通じての私たちの立場は、少なくとも可能な限り、すべての自殺は予防されるべきであるということを前提としている。しかしこの立場は普遍的なものではなく、より自由放任主義的な見方(生死の決断は個人に任されているという見方)をする者もいる。

……(中略)自殺の対人関係理論は、負担感の知覚(死のほうが生よりも価値があると考えること)を経験することが大きく誤った見方から発生しており、私たちは自殺死する人が正しい情報に基づいた合理的な決断を下してそれを行なっているとは考えられないと仮定している。また私たちは自殺の観念から直接影響される人だけでなく、その愛する人にまで多大な苦しみを生み出すのを予防することの価値を強く信じている。

(p.214-215)

 

「自殺を企図する人は合理的な判断を下していない≒自殺を企図する人は認知が歪んでいる」という観点は示唆的だ。たとえば、わたしが反出生主義は理論的には認めておきながらも反出生主義を唱えている人のだいたいが苦手であるのは、Twitterなどで反出生主義を繰り返し唱えている人のだいたいは明らかに鬱状態であったりして「認知の歪み」を抱えているように見えるからである。というか、わたし自身、鬱状態に近づいていたときには反出生主義にいまよりもシンパシーを感じていた。

 しかし、そもそも、学問という営みには、査読や討論や指導によって「認知の歪み」を修正することで、客観的で合理的な考え方にたどりつく、という側面がある*3。だからこそ、病んでいる状態の人たちから発せられる考え方には、それが表面的には論理的に聞こえるとしても、(いまの時点では精神が比較的健康であるわたしは)あまり価値を見出すことができないのだ。学問的な査定を通り抜けたうえで反出生主義について書かれた論文などは興味深く読むことはできるだろうけれど。

 

 また、自殺は、自殺する本人に対する影響だけでなく周りの人に対する影響という観点からも行わなければならない、というのは当たり前のことかもしれないが、ともすると忘れがちな点でもある。

 

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「自殺」に関する思想史について書かれた上記の本でも、自殺を否定するうえで「他人に対する影響」が強調されていた。しかし、自殺の対人関係理論にも届くと、自殺願望を抱いている人は「負担感の知覚」を抱いてしまい「自分が死んだほうが周りの人にとってもマシになる」と(誤って)認識しているからこそ自殺を企図するのであろう。だから、「他人に対する影響」を強調したロジックが本人に対して説得力を発揮することは難しいであろう。

 この本では、よりプラグマティックに、「負担感の知覚」や「所属感の減弱」に対処する方法が記されている。

 

 

 

「ラディカル」な議論が左翼やフェミにウケる理由(読書メモ:『荷を引く獣たち:動物の解放と障害者の解放』)

 

荷を引く獣たち: 動物の解放と障害者の解放

荷を引く獣たち: 動物の解放と障害者の解放

 

 

 版元による紹介はこんな感じ。

 

スナウラ・テイラーは、一人の障害当事者として、障害者運動と動物の権利運動の担い手として、そして一人の芸術家として、読者に問いかける。もし動物と障害者の抑圧がもつれあっているのなら、もし健常者を中心とする制度と人間を中心とする倫理とがつながっているのなら、解放への道のりもまた、交差しているのではないか、と。

 彼女は考えつづける。デモに参加しながら、絵を描きながら、対話しながら、食べながら。いったい何が、動物たちから人間を、障害者ではない人たちから障害者を、区別しているのだろうか、と。

 彼女は考えつづける。身体的・精神的な能力の有無や高低(世界の中でどのように動いたり、動けなかったりするか)を基準にして、私たちは、自分を「人間」として意識し、他なる者を「動物」として値踏みしてしまっているのではないか、と。「人間」としての自分という自負を保つために、私たちは、「動物」との違いを際立たせることに、どれほど血道をあげているのだろうか、と。

 この『荷を引く獣たち』には、「障害」と「動物」という、これまで対立すると見なされてきた問題が、実際には深く結びついているということが、テイラー自身の体験にもとづいて、丁寧に書かれている。
 そのうえで彼女は、もっと風通しのよい、ゆたかな経験と共感にくつろぐ未来を、読者に語りかける。目前の世界の姿を、荷車や車椅子の輪のように、ぐるりと回転させ、しなやかに変えてみせるのである。おおらかに、エレガントに。

  壊れやすく、依存的なわたしたち動物は、ぎこちなく、不完全に、互いに互いの世話をみる。本書は、そのような未来への招待状である。

 

  関節拘縮症を持って生まれてきたために車椅子に乗って生活する著者の個人的な体験やそこから発展した思いや考えについて書かれたエッセイ的な要素と、現代社会において動物や障害者を取り巻く問題について論じる政治的な要素、そしてピーター・シンガー功利主義に基づく理論を否定して代わりにフェミニズムや障害学の要素を取り入れた倫理学である「ケアの倫理」を主張するという倫理学的な要素、それぞれが入り混じっている本である。

 

『荷を引く獣たち』を書評している人の顔ぶれを見てみると、どうやらこの本は左翼の人やフェミニストの人にとってかなりウケが良いようだ。この本では「すべての差別問題はつながっており、原因は一緒である」というインターセクショナリティ(交差性)理論が用いられていること、そして功利主義や権利論のような既存の倫理を否定する代わりに「依存」や「感情」を重視するケアの倫理学フェミニズム倫理学を主張していること、などがウケの良さの主な理由だろう。ただ単に動物の問題についてだけ語っている本であったなら注目されていなかったかもしれないが、良識のある人なら否定することができない障害者の権利の問題とか、最近になってとりわけ注目度が高くなっているフェミニズムの問題とか、あるいは昔からおきまりの西洋中心主義批判や資本主義批判なんかに接続することで、「動物の問題は、わたしたちが取り上げるべき重大な問題であるんだ」と左翼やフェミニストの人たちを説得することができる、ということである。

 裏を返せば、左翼やフェミニストの人たちは、フェミニズムや資本主義批判などの「自分たちが関心を抱いている問題」や「重大な問題であるとすでに仲間内で認定されていてるので、取り上げても恥ずかしくない問題」に接続されない限りは、動物の問題をはじめとする新たな問題に注目することができない、ということだ。動物倫理の本が数多も出版されているなかで、理論的な精緻さとか問題分析の正確さなどの点で『荷を引く獣たち』に取り分け優れているところがあるとは思えないが、そもそも読者の大半は「理論的に妥当であるか」とか「問題が鮮やかに分析されているか」とかいったことには興味はないのだろう。それよりも、すでに自分たちの側で設定している問題認識や自分たちのなかで築かれている価値体系に抵触する内容でないことや、自分たちが使っているような言葉を用いながら議論が展開されている、ということの方が重要であるみたいだ。

 

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『荷を引く獣たち』を読んでいたわたしが思い出したのは『ブルシット・ジョブ』だ。どちらの本でも、扱われている問題(動物の問題/労働疎外の問題)はわたしが大いに関心を抱いていることである。しかし、どちらの本を読んでいても、それらの問題について新しい理解が得られたという感覚はついぞ抱けなかった。

 批判対象となるナントカ主義(人間中心主義や健常者中心主義/新自由主義)を藁人形として設定したうえで、それを叩きつつ、議論している問題(労働の問題/動物の問題とか障害者の問題)とは別の問題(貧困、性差別、西洋中心主義、植民地主義...)についても八方美人的にあちこちで言及される。だが、問題が起こる理由についての合理的で客観的な分析や、その問題に対処するための現実的で持続的な解決策についての議論がなされることはない。これらの本で読者に提供されているのは、物事についての正確な知識や理解ではなく、アジテーションであるからだ。

 そして、『ブルシット・ジョブ』の書評を書いたときにも触れたが、どうやら多くの読者はアジテーション的な文章に触れることに楽しみや快感を見出しているようである。本を読んだところで現実の問題がなにか解決するということではないのだが、既存の制度や価値観を徹底的に否定して代わりとなる「ラディカル」な価値観や社会設計を述べ立てる本を読んでいるその間だけは、解放感を抱くことができるらしいのだ。逆に言うと「ねえねえ、その問題ってほんとうに人間中心主義が原因なの?」「当たり前のように健常者中心主義が問題を引き起こしているという前提で議論がすすんでいるけど、他の可能性については検討しないの?」などといちいち引っかかりながら読んでしまうような読者は、最初から対象とされていないのである。

 

 この本で展開されているような「インターセクショナリティ(交差性)理論」の問題点については、以下の記事で指摘している。

 

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 インターセクショナリティは「あらゆる問題は交差している」と主張する。だが、『荷を引く獣たち』を読んでいて気が付かされたのは、大半の場合においてインターセクショナリティは「類似」を「交差」と取り違えている、ということだ。たしかに、動物に対する差別と、障害者に対する差別や女性に対する差別には、似ているところがあるかもしれない。しかし、似ているからといって、それが本質的につながっていたり原因を同じくしたりしているとは限らないはずであるのだ。

 

 そして、この本の終盤で展開されている、動物の問題に「ケアの倫理」を持ち込む議論については、以下の記事で批判している。実を言うと、わたしが修士論文であつかったテーマが、まさに、動物の問題に関する「ケアの倫理」の議論であったのである。そんなわたしだからこそ自信を持って言えるのだが、すくなくとも動物の問題については、他の規範倫理理論を差し置いて「ケアの倫理」を主張することはまったく得策ではない。

 

 

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「ケアの倫理」に利点があるとすれば、「耳心地の良さ」であるだろう。ケアの倫理を用いれば、理性中心主義とか男性中心主義とかのいかにも"悪そう"な主義を批判して否定する(最近のケア倫理では、そこに新自由主義批判を加えることがトレンドとなっている)。その代わりに提唱される「ケア」は、いかにも優しそうで、深そうだ。さらに言うと、ケアの倫理は最近流行りのフェミニズムと関係が深い。だから、ケアの倫理を主張することでフェミニストや左翼の仲間からの評判が悪くなることは、まずない。「ケア」の意義や必要性について論じることで批判をされて損をしたりすることもないのだから、とりあえず言っておけば得をすることができるのだ(グレーバーが『ブルシット・ジョブ』のなかで「ケア」について触れていた理由も、大方そんなものだろう)。

 

 問題なのは、特に動物実験や工場畜産などの多数の存在が関わっている社会制度を考える際には「ケア」は具体的な指針をまったく提供してくれないことである。また、「ケア」は、トレードオフや利害調整などが関わり、優先順位を設けなければならない問題に対応することについても、全く無力だ……そして、倫理的な問題の大半においては、その問題が深刻になればなるほど、トレードオフや優先順位について考える必要性が増すものである。

 ケアの倫理では、「ケア」の対象にすべき弱者やマイノリティの利害が重大なものであるとされる一方で、ケアの対象となる強者やマジョリティの利害は重要性に乏しいものであると、論点先取的に設定される。だからトレードオフや利害調整などについては「考えなくていい」ものとされるのだ。

 

(2020/11/30:追記)

 ただし、『荷を引く獣たち』について書かれている内容のすべてがダメだというわけではない。たとえば、著者がピーター・シンガー本人と対話している箇所はなかなか興味深かった。シンガー思想そのものについては批判的であっても、シンガーの人格を悪人として糾弾しているわけではないところは好感が抱ける。

 また、著者本人の経験に基づきながら、「障害者としての生の豊かさ」を説き、「障害の社会モデル」的な観点からシンガーを批判する議論については、ある程度までは妥当であり説得力もあるように思えた。とはいえ、これは障害学にありがちな問題であるのだが、「自分の生は豊かである」と思えるレベルの障害を持っている人が、より深刻で苦痛の多い生涯を強制される障害を持った人のことまでをも勝手に代表している、という感は否めない。また、「適応的選好」の問題は常に残り続ける。

 ……それでも、やはり、シンガーの主張に対する障害学的な観点からの批判はなされ続けるべきであるだろう。著者は比較的フェアにその批判を行なっているのでそこが良かった。

 

 問題なのは、むしろ、ゲイリー・フランシオンによる廃止論を批判している箇所だ。畜産に関するフランシオンの主張とは、「家畜は脆弱で依存的な生を強調されるから、存在するだけでリスクにさらされている。だから、究極的には家畜は存在するべきでない」というものだ(「彼らが望んでいるのは『今より大きな檻』ではなく『空っぽの檻』である」というスローガンに象徴される)。

 これに対して、「依存」を肯定するケア倫理を重視する著者は、フランシオンの主張は「自律」を信奉する健常者中心主義に基づいていると批判する。……しかし、3.11の福島に取り残された家畜たち、災害が起こったりウイルス騒ぎが起こったりするたびに万単位で大量に処分される家畜のことたちを考えると、「依存」状態でしか生きられないということが家畜たち本人にもたらすリスクは、どう考えても無視できない。それを、「依存を否定するのは自立を重視する健常者中心主義だ」と否定するのは、はっきり言って無茶苦茶だ。

 同様の主張は著者だけでなくドナルドソンとキムリッカも行なっていたが、現実に起こってきた悲惨や起こり得る可能性の高い悲惨から目を背けて「動物たちの豊かな生」や「多様な在り方」などの綺麗事を語るのは欺瞞であるとしか思えない。

 ドナルドソンとキムリッカは『人と動物の政治共同体』の冒頭で「これまでの動物倫理はあまりに否定的で消極的であったから、積極的で肯定的な動物倫理を打ち立てよう」として、シンガーのような功利主義によるものにせよフランシオンのような権利主義によるものにせよ「解放論」を否定して、動物に危害を与えない方法で動物の利用を持続することを模索していた。しかし、動物の利用に伴うリスクについて真剣に考慮したら、否定的で消極的な答えしか導かれないものであるかもしれないのだ。肯定的で積極的な答えの方がより多くの読者の関心を惹けたり批判を回避したりすることはできるかもしれないが、それよりも、正しい答えを求めることの方が重要であるはずだ。

 

 さらに言うと、肉を摂取することに関する生物学的必要性や欲求に関する議論をすべて「自然を装って問題を脱政治化しようとしている」というところもダメダメ。

 ここは、労働に関する問題の経済学的な分析をほとんど拒否して、すべてを政治的な観点から論じようとする『ブルシット・ジョブ』の悪癖とも共通している。

 生物学にせよ経済学にせよ「都合の悪い真実」を指摘する理論を拒否して、問題をなんでもかんでも「政治化」してしまい、「いま覇権を占めている悪い考え方や権力を握っている悪いやつらをやっつければ問題は解決する」という偽りの希望ばかりを論じるからこそ、議論ではなくアジテーションしかできない本になってしまうのだ。

(追記終わり)

 

 けっきょく、客観性や具体性に乏しい代わりに耳心地だけはいい「ラディカル」な議論でないと、左翼やフェミニストの大半は読んだり聞いたりしてくれない。問題が生じるメカニズムについての地道な分析や、漸進的な解決策についての検討を行う本は、地味でまだるっこしく思われてしまうのだろう。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 あるいは、「新自由主義批判」的な本に対してジョセフ・ヒースが行ったような以下の指摘を、『荷を引く獣たち』に向けることもできるだろう。

 

econ101.jp

 

たとえば,ずいぶん前から,批判的研究で「ネオリベラル」という言葉が最重要語として機能しているのは気づいていた.事情を知らない人に説明しよう.「ネオリベラリズム」の基本的な問題はこういうことだ.この言葉はでっちあげだ.フーコーによって人口に膾炙するようになった単語で,実はフーコー当人も理解してなかった経済的なあれこれの考えについて語るのに使われているにすぎない.じぶんから「はい自分がネオリベラルです」と称している人たちなんて,どこにもいない.そのため,それが指す事柄にはなんの制約もかかっていないし,「ネオリベラリズム」について主張される批判に応えるべき人間もいない.「ネオリベラル」を,他の「保守」「リバタリアン」といった言葉と比べてみるといい.「リバタリアン」を自称する人たちは実在するから,もしもリバタリアニズムを批判する文章を書けば,現実のリバタリアンが「おまえの言い分はおかしい」と言って反論を書いてよこすかもしれない.一方,「ネオリベラリズム」の場合には,なんでも好き放題に言える.なにを言っても,生身のネオリベラルが「お前の言い分はおかしい」と反論を書いてよこす心配はない――そんな人がどこにもいないからだ.その結果,著作でこの言葉を使う人たちはようするにこうあけすけに宣言しているにひとしくなっている.「私が意図している読者層は,同じ左派のエコーチャンバーですよ.」 エコーチャンバー外の人たちとやりとりしようとのぞんでいるなら,エコーチャンバー外にいる人たちがみずから自覚して実際に掲げているイデオロギーをとりあげないといけないだろう.(この点で,ネオリベラリズムを批判する人たちは大学業界の臆病ライオンだ.そんないわれはないと思うなら,実際の右派を見つけて議論してみてはいかが?)

ただ,ネオリベラルを自認する人がどこにもいないおかげで叶ってしまった望みが1つある.「ネオリベラル」という言葉を使うと,その文章を届ける相手がせばめられて,根っこの規範的な判断を共有している人たちに限定される.すると,この大学教員たちは「ネオリベラリズムはわるいもの」という信念にみんながすっかり賛同している気分になれる.

 

 

 上記の指摘は、「ネオリベラリズム」を「人間中心主義」や「理性中心主義」や「健常者中心主義」に置き換えれば『荷を引く獣たち』にも当てはまる。というか、左翼やフェミニストが好むような「ラディカル」な議論の大半に、この指摘は当てはあまっているのだ。

 わたしが抱く最大の疑問は「いつもいつもこんな中身のないアジテーションを読んで面白いと思い続けられるの?飽きたりしないの?」ということだ。でも、たぶん、彼女らは飽きることなくアジテーションを書いたり読んだりしつづけられるんだろう。読書や学問に求めるものがまったく一致していなくて、価値観が根本的に違うんだと思う。

 

 

読書メモ:『モラル・トライブズ:共存の道徳哲学へ』

 

 きのうからはじまった某所での連載の次々回くらいの原稿の元ネタとして『モラル・トライブズ:共存の道徳哲学へ』を借りて読み直しているうちに、図書館からお怒りの電話が来てしまった。

 しかし『モラル・トライブズ』は細部まで刺激と啓発に満ちたおもしろい本であるので、原稿に使わないであろう部分についても、こちらにてメモ的に記録・紹介しておこう。

 

…生物学的適応である以上、道徳は《私たち》を《私》より優先させる装置としてだけでなく、《私たち》を《彼ら》より優先させる装置として進化した。

…(中略)…奇妙に思える第二の点は、道徳が《彼ら》を打ち負かすための装置であることだ。まるで道徳が「無道徳」か「不道徳」でさえあるように思える。しかし、どうしてこんなことがありうるのか?

(p.32-33)

 

『モラル・トライブズ』では、全編にわたっていわゆる「進化論的暴露論法」が行われている。一見すると正しく素晴らしいと思える「道徳」的な感情や考えが、それが出来上がった過程をつぶさに見てみると道徳的でもなんでもなかった、というのは進化論的暴露論法の考え方のコアとなる部分だろう。

 

人種的偏見が強く、また広く見られることから、人種差別は私たちにもとから「組み込まれている」と思われるかもしれない。しかし考えてみれば、これは筋の通らない話である。狩猟採集民族だった私たちの祖先の世界では、異なる人種の成員として分類される人々に遭遇する機会はほとんどなかった。むしろ、丘の反対側に住む《彼ら》は、《私たち》と身体的にほとんど見分けがつかない場合が多かっただろう。このことから、人種は生得的な引き金などではなく、集団の一員である目印としてこんにちたまたま利用されているに過ぎないとわかる。

…(中略)…同じ論理は男性と女性を区別する性別にはあてはまらない。狩猟採集民族であった私たちの祖先は日常的に男性と女性に遭遇していた。さらに、男性と女性は生物学的に重要な点で異なっている。これは性別に基づく分類が、人種と基づく分類と比べて変えにくいはずであることを示唆する。

(p.69-70)

 

 上記については、進化心理学のファンとかアンチ・ポリコレな人も失念しがちであるように思われる。

 

たとえばあなたが、住民が気候変動に懐疑的で、おまけに気候変動に懐疑的でない人に対しても懐疑的な共同体で生活しているとしよう。気候変動を信じるのと懐疑的であるのと、どちらが楽だろうか?ひとりの一般市民として、あなたが気候変動について考えていることが、地球の気候に影響を及ぼすことはまずないだろう。しかし、気候変動に関するあなたの考えは、周囲の人との付き合いにかなり影響しそうだ。

…(中略)…だから、多くの人が気候変動に懐疑的なのは、地球の物理的環境ではなく、自分の社会的環境に対処しようとしているのだと考えれば、完璧に筋が通る…

(p.120)

 

 この現象はたとえばビーガンの生きづらさと関わってくるだろう。また、アカデミアにおいて特定の誤っていたり極端であったりする理論や主張が異様に支持を集めてしまい自浄作用が起きないという現象も、学問のパラダイムなり大学という業界に存在する深い欠陥の産物というよりかは、学者や院生として生きるうえでの「社会的環境」や人間関係に対応するため、ということで説明できるような気がする。アメリ言語学会で起きたスティーブン・ピンカーに対する除名請求なんかはまさにそうだろうし。

 

幸福を測定するのは簡単だ。難しいのは、望ましい正確さで測定することだ。 幸福を少しの誤差もない正確さで測定することはできない。そのため、実際に何かしようとするとおそろしくたくさんの困難が生じるわけだが、できないからといって深刻な哲学上の問題が生じるわけではない。

(p.215)

 

『モラル・トライブズ』では、功利主義は非の打ち所のない完璧な哲学的理論としてではなく、実際に世界で起こっている問題について考えて解決するための「深遠な実用主義」として扱われている。なので、倫理学の議論においては功利主義に対する致命的な弱点と見なされていること…幸福を正確に測ることはできないこととか、功利主義では奴隷制を原理的に否定することはできないこととか、ノージックの「経験機械」の思考実験とかパーフィットの「いとわしい結論」とか…は、「実際の問題について功利主義を使って考えるときにはそんなことが問題になるわけないんだからいいじゃん」といった感じの扱いを受けているのだ。この点が、この本を凡百の哲学本よりもずっと面白くて有意義なものにしている秘訣だろう。

 

を評価するにあたり、行為と不作為の区別、手段と副次的影響の区別、そして人身的な力と人身的でない力の区別を重くみることには意味がある。それは、これらの区別が深遠な道徳的真理を反映するからではなく、こうした区別を無視する人たちが道徳的に異常で、そのため問題を起こす可能性がきわめて高いからだ。

(p.331)

 

 広くいえば、自称"合理主義者"や自称"理系な人に対しても当てはまることだろう。 

 

…「権利」に訴えることは知的フリーパスとして、すなわち証拠を無効にする切り札として機能する。あなたたちは常に自分の感情に対応する権利の存在を想定できる。中絶が間違っていると感じるなら「生きる権利」を語ることができる。 中絶の非合法化が間違っていると感じるなら「選択する権利」を語ることができる。イラン人なら「核を保有する権利」を、イスラエル人なら「自衛する権利」を語れる。「権利」はまったくすばらしい。余計なことをしなくても、私たちの直感を合理化できる。

(p.403)

 

こんにち、私たちは、いや私たちの一部は、同性愛者や女性の権利を確信を持って擁護する。しかし、私たちが感情をこめてこうしたことが行えるようになる前に、私たちの感情が「権利」のように感じられるようになる前に、誰かがこれを思考で行わなくてはならなかった。

 

 功利主義による「権利」批判については、原稿の方で本格的に紹介するつもりだ。しかし、「常に自分の感情に対応する権利の存在を想定できる」とはなかなか本質的である。『モラル・トライブズ』を読むたびに、「せめて自分だけは、できるだけ"権利"という言葉を避けながら、難しい問題について考えたり語れたりできるようになろう」と身が引き締まる思いになる。

 

 なお、『モラル・トライブズ』の著者ジョシュア・グリーンに関しては、インタビュー記事を過去にふたつ訳して紹介している。

 

davitrice.hatenadiary.jp

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「男性同士のケア」が難しい理由

 

 

 

 近頃では、「これからは男性同士でもケアし合わなければならない」と言った主張がちらほらとされるようになっている。

 この主張がされる文脈は様々だ。「これまでの社会は女性にケア役割を押し付けていたが、これからは男性も平等にケア役割を担うべきである」という問題意識に連なる主張である場合もあるだろう。

 また、女性の恋人や妻がいないことで「女性からの承認」を得られないと悩んだり「孤独」になることを恐れる男性に対して、「そもそも"自分は異性のパートナーにケアしてもらうべきだ"という発想を捨てて、同性との相互にケアし合う関係を築く可能性に目を向けてみるべきだ」という批判込みのアドバイス的な意味合いで、「男性同士のケア」が提唱される場合もある。

 そして、「マウントを取り合う」「互いに褒め合わない」といった男性同士のコミュニケーションの特徴を批判したり、男性は友人同士で互いに触れ合ったり親密な関係を築くことを恐れがちであるということを指摘したうえで、既存の「男同士の関係性」に対する代替案として「男性同士のケア」の重要性が指摘される場合もあるようだ*1

 

 いずれの主張にせよ、「現時点では、男性同士でケアが成立している関係は貴重であり、多くの男性たちは互いにケア関係を築く気がなく、また築こうとしても失敗がちである」といった事実認識が背景にあるようだ。

 その事実認識については、わたしもおおむね同意している。男性同士で理想的なケア関係を築けている実例を目にしたことはほとんどないし、「男性同士でケア関係を築こう」と思っていたり試みていたりする男性にもほぼ会ったことがない。自分自身もそうであるし。

 そして、女性同士でのケア関係については、なかなかうまく行っている実例を目にしたことが何度かある。わたしはあくまでその関係の外側にいており、内部が実際のところどんな感じになっているのかは未知ではあるのだが、女性同士でシェアハウスやルームシェアなどを楽しく順調に長期間続けられている、という話を聞いたことが度々あるのだ。

 比較すると、男性に関しては、シェアハウスやルームシェアをしていたけど破綻した、という話を聞くことの方が多い。かろうじて続けている人たちについても、女性同士のそれに比べて、ぜんぜん楽しそうではない。ふつう共同生活に必要とされるはずの気遣いやコミュニケーションができていなくて、冷淡でギスギスした関係になったり片方がワリを食っていたりする、ということの方が多いのだ。

 

 男性同士のケア関係が成立しない理由については、ジェンダー論的な説明がなされることが多い。たとえば、男性たちは社会から課された「男らしさの呪縛」にとらわれており、互いに感情を打ち明けたり優しさを示したり弱みを見せ合ったりすることに抵抗感を抱いてしまう、という説明がされる。あるいは、男性社会のあいだに存在する「ホモフォビア」のために、スキンシップを含めた親密なコミュニケーションを同性と取ることに拒否や嫌悪の気持ちを抱いてしまう、という説明がなされたりする。

「男らしさの呪縛」にせよ「ホモフォビア」にせよ、男性たちのあいだにそういうものが存在するという点に関しては、わたしも全否定はしない。わたし自身としてもそういうものを感じなくはないし、たとえば企業で出世コースを歩んでいてバリバリと活躍して妻も子供もいるような「正常値」のタイプの男性については、男らしさやホモフォビアにより強くとらわれている人が多いだろう。

 しかし、男性が抱える問題について語る言葉が、いつもいつも「男らしさの呪縛」や「ホモフォビア」といったもっともらしい用語に回収されることには、違和感や物足りなさも感じる。

 わたしの周りには立身出世や家庭を持つことをあきらめた代わりに好きなことをしてラクに生きることを望む「外れ値」な男性が多く(そのなかにはわたし自身も含まれている)、彼らが「男らしさ」にとらわれている度合いは「正常値」な男性に比べるとずっと小さなものであるはずだ。ホモフォビアについても、三十代前半であるわたしと同年代かわたしより若い世代であり、四大卒であり都会に住んでいて映画や小説にも親しんでいて……という属性であれば大半はリベラルな考え方を持つものであり、同性愛を嫌悪しているという感じは薄い。男性同士でスキンシップをすることには抵抗感を抱かない人もふつうに沢山いる。

 しかし、そんな彼らにとっても、やはり「男性同士のケア」は難しいのだ。普段からナヨナヨしていて、弱音や愚痴を吐くことに抵抗感を抱かなくて、スキンシップを拒まない男性であっても、それで同性とのケア関係が成立するかどうかは別の話なのである。

 

 この問題を解くために、前回にも紹介したトマス・ジョイナーの『Lonely at the Top: The High Cost of Men's Success(てっぺんで一人ぼっち:男性の成功の高い代償)』に基づいて論じよう。

 この本の主題は、「男性の高い自殺率は、男性は女性に比べて孤独になりがちであるから」というものである。そして、男性が孤独になりやすい理由のなかでも大きなものが、「男性はコミュニケーション能力に欠けているから」ということだ。

 男性がコミュニケーション能力に欠ける理由には、生得学的な要因もあれば、環境的な要因もある。

 生得学的な要因としては、「男性は女性に比べて生来的に物質主義的であり(instrumentalism)、人間に対する興味が薄い」という点がある。おもちゃ箱にいくつもおもちゃが入っているとき、女の赤ちゃんは人形やぬいぐるみなどの「人(人格)」が関わるおもちゃを選びがちな一方で、男の赤ちゃんはミニカーやボールなどの「物」らしいおもちゃを選びがちなことは、普遍的な傾向だ*2

 この傾向は成長してからも男女の興味や行動や志向に様々な影響を与え続ける。女性が他人に目を向ける一方で、男性は地位や金にばかり目を向けるのである(これも物質主義の副産物だ)。進学や就職の男女差……看護学や心理学などの「人」が関わる学問の志望者には女性が多く、数学や哲学などの抽象的な学問の志望者には男性が多い、など……には、社会や環境の影響だけでなく生得的な志向にも影響されているのだ。

 環境的な要因としては、もともとが人に対する興味が少ない男性たちが、それでも他人に対して関心を向けてコミュニケーションする方法を学ばずに大人にまで成長できる環境が現代の社会には用意されてしまっている、ということがある。これについてはジョイナーの本を紹介する記事に詳細を書いているので、詳しくはそちらを参照してほしい。以下では要旨だけを書こう。

 小学校から大学までは周りに同世代の若者がたくさんいるため、男性は「友人を作ろう」と意識して努力しなくても友人を作れてしまい、「友人は特に自分から働きかけなくても自然と作れてしまうものだ」と考えるようになる。そして、特に若い男性同士の間では、互いのことをさして考えずに好き勝手なことをする粗野で気さくな友人関係が定番になるものだ。

 しかし、社会人以降の環境は学生時代のようにはいかず、新たに友人を作ろうとすればそのことにコミットメントしなければいけない。だが、大半の男性は友人の作り方や関係の維持の仕方を学生時代のうちに習得していないから、新たな友人を作ることが困難なのだ。そして、歳を取るにつれて、昔からの友人は疎遠になったり病気で死んでしまったりして、いなくなる。だから、男性は友人のいない孤独な老後へと一直線に進んでしまうことになるのである。

 一方で、女性たちは、友人の作り方や関係の維持の仕方を学生の時点で学んでいる。「人への関心」が高い女性同士の関係では、互いに気を遣いあったり感情を察知しあったりコミュニケーションの工夫をしたりなどの労力を払うことが必要とされる。これについては「女性同士の関係はドロドロしている」「女の友情は本物じゃない」などとのネガティブ・イメージが持たれがちであるが、若い頃からそのような関係を築くことは、歳を取ってからもメリットをもたらす。女性は、友人ができたり友情が続くことは自然で当たり前のことだとは見なさず、労力を支払う必要があるものだという事実を、人生の早い段階で学習することになるのだ。

 そのため、女性は社会人になっても、男性のように友人に困ることはない。女性は人生のどのステージであっても新しく友人を作ることができる。さらに、女性同士の友人関係は、男性同士の友人関係に比べて長続きしやすい(関係維持のための労力を互いに払っているからである)。これが、男性に比べて女性が孤独になりにくい理由のひとつであり、ひいては女性が男性に比べて自殺のリスクが低い理由にもつながっているのである。

 

 そして、男性は人間に対する関心が生得的に薄いこと、男性がコミュニケーション能力を培わないまま成長してしまえる環境が存在することは、男性たち本人だけでなく周りの人たちにも影響を与えることになる。男性は女性に比べて人間関係の面で無能となり、他人にとって助けとならない存在となるからだ。

「自分がつらいときや苦しいとき、男性に相談しても助けにならないから、女性に相談した方がいい」という知恵は、女性も男性も若いうちから学習することになる。だから、女の子は女の子同士で相談をしたり悩み事を打ち明けたりする一方で、男の子は同性にではなく女の子に相談や悩み事を持ちかける、という不均衡な状態が出現するのである。

 この事実は、友人関係だけでなくきょうだい関係にも影響をもたらす。一般的に、男性であっても女性であっても、姉か妹がいる人は「自分は不幸である」「自分には頼れる相手がいない」という感情を抱くことが他の人たちより少ないのである。しかし、兄や弟の存在は、男性に対しても女性に対してもこのような効果をもたらさないのだ。

 そう、他人を支えたり他人を幸せにしたり他人をケアするという点では、女性に比べて男性は無能な存在であるのだ。……ケアすることへの関心を持たず、ケアするための能力を習得してもこなかったから。

 

 わたしが思うに、「男性同士のケアが難しい理由」の説明としては、「男性はケア能力に欠ける無能な存在である」という事実に注目することの方が、「男らしさの呪縛」や「ホモフォビア」を持ち出すよりもずっと的を得ている。

「これからは男性同士でも相互にケア関係を築くべきだ」という主張自体は正論であるかもしれない。多くの男性も「それはそうだな」と納得するかもしれない。しかし、正論であるからといって、実際にそれを実行できるかどうかはまた別の話なのだ。

 相互のケア関係を成立させるためには、以下の三点を満たす必要がある。

(1)自分が他人をケアできること

(2)自分以外で、他人をケアできる男性が身近にいること

(3)その相手と「互いにケア関係を築こう」と相互に了承すること

 

 仮に(1)がクリアできていたとしても、(2)や(3)までクリアできるかどうかは至難の業だ。所属している環境によって多少の差はあるだろうが、運の要素も大きいだろう。大概の男性にとっては「男性の友人」という選択肢のプールは小さく、そして大概の男性がケア能力に欠けていることをふまえると、条件を満たす相手と出会うこと自体が至難の業である。そして、仮に出会えたとしても、シェアハウスやルームシェアなどの深いケア関係を築こうと思ったらそのための現実的な条件(住んでいるところ、ライフスタイル、相手側の人間関係的な事情などなど)を満たさなければいけない。

 シェアハウスやルームシェアとまでは行かなくても、友人に対して「互いにマウントを取り合ったり貶しあったり好き勝手なことを言い合ったりするのはやめて、これからはお互いに思いやり合う関係に変わろう」と言い出すことだって、あまり現実的ではないはずだ。相手も同性同士でのケアの重要性を理解していて問題意識を共有していない限り、ポカンとした顔になるのがオチだろう。そして、仮に合意が取れたとしても、「お互いに思いやり合う関係」を続けられるほどの能力が互いに備わっているとは限らないのである。

 

 というわけで、「これからは男性同士でもケアし合わなければならない」論は、耳触りのいい正論ではあるかもしれないが、実行に移せる機会はごく限られており、多くの男性にとっては役に立たないアイデアであるかもしれない。

 そして、「異性からの承認」を得られない男性が苦悩するのは、もっともなことであるかもしれない。男性は、自分自身について内省したり自分の友人関係を振り返ったりすることで、自分の性別があまりに頼りにならない存在であるということを重々承知しているからだ。そのため、男性が女性からのケアを求めるのは、本人の自己利益や自己防衛という観点からすればしごく合理的な選択であるかもしれないのである。……もちろん、この「合理的な選択」によって「女性に対するケア役割の押し付け」という現象が社会的に発生しており、それについて不利益を感じた女性が反発することも、もっともなことではあるのだが。

 

 

 

*1:この記事の執筆時点で「男性同士のケア」でGoogle検索して1ページ目に出てくる記事の多くでも、そういう文脈で話がされていた。

www.asahi.com

cakes.mu

*2:

benesse.jp

ジェンダー論が男性を救わない理由

 

Lonely at the Top: The High Cost of Men's Success

Lonely at the Top: The High Cost of Men's Success

 

 思うところあって、トマス・ジョイナーの『Lonely at the Top: The High Cost of Men's Success(てっぺんで一人ぼっち:男性の成功の高い代償)』を数年ぶりに読み返している。

 2017年に、この本の内容を紹介する記事を書いた*1。そのしばらく後には、社会学者の平山亮による「男性が自殺するのは支配欲が原因」発言を批判した*2。そして2019年には「有害な男らしさ」概念がフェミニズムジェンダー論の文脈で流行するようになり、「有害な男らしさ」概念についての批判記事を書いたり、流行の発信源のひとつと思しきレイチェル・ギーザの『BOYS 男の子はなぜ「男らしく」育つか』を読んだりした*3

 ジョイナーにせよ、平山やギーザにせよ、「男性が直面している問題」であったり「"男らしさ"や、男性に特有な価値観や行動様式が本人たちに与える影響」という物事を取り上げている点では共通していると言えるだろう。

 しかし、ジョイナーと平山・ギーザとの間では、その議論の内容に大きな違いがある。ジョイナーの本では問題が生じる原因や構造について正確に分析されているし、提示されている解決策も妥当で実践可能なものだ。その一方で、平山の言説やギーザの本では問題が生じる原因や構造の分析がまるで的外れであり、解決策も美辞麗句で彩られているわりに曖昧で具体的に実践する方法がとんと見えてこないものとなっているのである。

 取り上げている問題は同じでも、ジョイナーと平山・ギーザとでは、問題への取り組み方がまったく異なっているのだ。そして、平山やギーザのような言説の問題は、それが「ジェンダー論」の典型的な枠組みから脱せていないことにある。

 世の中には「男性学」や「メンズリブ」について書かれた本が数多く存在するが、その大半もやはり「ジェンダー論」的な枠組みに従って書かれているために、的外れな分析と役に立たない解決策しか提示されていない。そして、わたしの見たところ、男性にとってジェンダー論が役に立たない理由は、ジェンダー論がフェミニズムイデオロギーに拘束され過ぎていることにある*4

 

 具体的に述べると、ジェンダー論は「原因の分析」と「問題設定」および「解決策の提示」のそれぞれにおいて、フェミニズムイデオロギーの影響を受けてしまっているのだ。一見すると男性による男性のための議論である「男性学」ですら、実際にはフェミニストたちの規範に従ったものとなっている。そのために、ジェンダー論は男性を救わないものとなっているのだ。

 

「原因の分析」に対するフェミニズムの影響:問題の"原因"はあらかじめ決まっており、それ以外の"原因"を分析することは許されない

 

 フェミニズム的な発想の大半は、社会構築主義や「反・本質主義」を前提としたものだ。そのため、男性と女性のそれぞれに特徴的な思考や行動や志向、「男らしさ」「女らしさ」などはすべて社会や文化によって構築されたものである、とされる。なので、男性たちの問題を引き起こしている男性ならではの価値観や行動パターンなどについては、社会という「外」から押し付けられたものであることを認識することで、そこから脱却して問題を解決することができる……という風に議論がすすむことになる。

 社会構築主義的な考え方と対になるのが、「男性と女性のそれぞれに特徴的な思考や行動や志向は、生まれた時点から備わっている生得的なものである」という考え方だ。この考え方は、進化心理学を代表とする心理学や、あるいは脳科学などの研究で示された証拠によって、大なり小なり裏付けられているだろう。

「男性と女性との違いはすべて生物学的に決定されており、社会や文化は何も影響をもたらさない」という主張であれば極端であり、間違っているだろう。だが、「男性と女性との違いはすべて社会や文化に決定されており、生得的な違いなど存在しない」という主張も同じように極端で間違っているはずだ。まともに本を読んできて、まともに人間を観察してきて、まともに物事を考えてきた人であれば、「男性と女性との違いには、生物学的な側面も社会構築的な側面もどちらも存在するな」と判断するはずである。だから、性別が関わる問題についてまともに考えようとしたら、「生物学的な原因と社会的な原因がどちらも存在する可能性がある」ということを前提としたうえで、より細かで具体的な問題における生物学的な原因と社会的な原因をそれぞれ分析しつつ、どちらの原因も考慮したうえでの解決策を検討する……という道筋になるはずなのだ。

 ところが、ジェンダー論の大半では、生物学的な要因はほとんど丸々無視されて、社会構築的な要因ばかりが取り上げられることになる。ギーザの『BOYS:男の子はなぜ「男らしく」育つか』では、「本当に"生まれつき"?―ジェンダーと性別の科学を考える」という章題で、わざわざ一章を割いて「生物学的な原因は存在しないと見なして、社会構築的な原因だけを分析する」という宣言がなされていたくらいだ。

 しかし、問題を解決しようと本気で思っているのであれば、問題の原因をあらかじめ指定することは、どう考えても悪手のはずである。もし問題の原因が指定されていないところに存在するとすれば、その原因を分析して扱うことができなくなり、有効な解決策を提示することも不可能になるからだ。

 ……逆に言えば、ギーザのようなフェミニストは、男性の問題を本気で解決する気はない、ということなのである。それよりも、社会構築的主義的で「非・本質主義」なフェミニズムイデオロギーを展開して披露することの方が重要なのであろう*5

 

「問題設定」および「解決策の提示」に対するフェミニズムの影響:男性は"強者"であり"加害者"であるから、手放しで救済の対象にしてはならない

 

 フェミニズムとは、社会構築主義や「非・本質主義」であるだけでなく、「家父長制」や「男性の特権」などの概念を前提とする考え方でもある。

 これらの概念は、男性を「強者/加害者/抑圧者/搾取者」などと位置付けて、女性を「弱者/被害者/被抑圧者/被搾取者」などと位置付ける。弱者や被害者であるということは、逆に言えば、悪いことをしていない無謬の存在であるということだ*6

 さらに、フェミニズムの理論に従えば、「男らしさ」や「女らしさ」なども、単なる社会構築物であるだけでなく、家父長制や男性の特権を強化するという目的のために作られたものであるとされる。

 すると、弱者である女性たちは、強者である男性たちから「女らしさ」を強制されている存在として扱われる。「女らしさ」は男性たちの利益のために作られたものであり、女性には不利益や抑圧をもたらすものとされる。だから、女性が「女らしさ」の束縛から解放されたり女性に特有の苦悩が解決されることは、手放しで肯定される。女性が不当に被らされている被害を解決して、不正で不平等な状態を正当で平等な状態にまで是正することだと見なされるからだ。

 しかし、「男らしさ」に悩む男性たちの問題を解決することは、手放しでは肯定されない。家父長制概念や特権概念に基づいて考えると、男性はけっきょく強者である以上、「男らしさ」も男性たちに利益をもたらすために作られたものだ。そのなかで「男らしさ」にマッチせずに悩む男性がいたとしても、不利益な「女らしさ」を強制されている女性たちの苦悩に比べれば、大した問題でないとされてしまう。

 そして、女性たちが被っているより深刻な問題を解決せずに男性たちの被っている問題を先に解決してしまうことは、現在の不正で不平等な状態を悪化させてしまうことであるので、認められない。だから、男性の問題は解決するにしても女性の問題とセットで同時に解決するか、あるいは先に女性の問題が解決するまで「順番待ち」するべきものであるとして扱われてしまうのだ。

 さらに、家父長制概念や特権概念は、男性にも「被害」や「苦悩」が発生することがあるという事実を認めることすらを原理的に拒否してしまう。たとえば、「男性の自殺率が高い」という事実はどう考えても男性側の「被害」の存在を示しているはずだが、平山は自殺の原因すらも「男性が支配の志向にこだわり続けてしまうことが原因だ」ということに帰着させて、男性側の「加害」の問題であると言い張った。

 平山ほど極端ではなくても、「男性は特権を持ちゲタを履かされている存在である以上は、男性が自らの被害や苦悩を訴えることは特権を自覚しない存在の甘えた言動であり、まずは女性の被害や苦悩に目を向けるべきだ」という言説はよく見かけるところである。

 

 そもそも、「家父長制」や「男性の特権」などという概念の妥当さや正確さ自体が、まず疑われるべきだろう。わたしとしては、これらの概念はかなりイデオロギー的なものであり、現実に起こっている問題を分析するうえではほぼ的外れなものであると思っている。

 さらに、仮にこれらの概念が妥当で正確なものであるとしても、個人としての男性が感じている被害や苦悩の問題を解決するという文脈では役に立たない。これらの概念が役に立つとすれば、「男性」という集団や属性としての責任を問い、「男性は強者であり加害者の立場であるからこそ、女性たちや社会に対してこれこれこういうことをしなければならない」という「べき論」や規範的な議論を論じようとしている場合であるだろう。

 しかし、被害感情や苦悩を抱いている個人に対して「べき論」を述べ立てたところで、問題の解決に寄与しないことは明白だ。そこで必要とされるのは、その個人の抱えている問題を解決するための実際的な議論であるからだ(とはいえ、ジェンダー論に限らず、ある場面において規範的な議論と実際的な議論のどちらが必要とされているか、ということはいともたやすく混同されがちであるのだが)。

 実のところ、女性の抱えている問題にすら、フェミニズムジェンダー論は大して役に立たない結論しか導き出せないことが多い。前述したように社会構築的な原因だけしか分析しないために問題の全体像を把握できないということもあり、社会制度やメディア・創作物における表現や家庭・学校での教育などの漠然とした話題に関する議論に終始して、個々人のレベルの問題に対応した解決策を考えることを怠ってしまいがちであるからだ。……とはいえ、女性にとっては、とりあえず問題を社会と男性の責任に帰することで「あなたは悪くない」と言ってもらえたり、性差別がない社会を達成するための展望を述べられて(実現可能性はともかく)エンパワメントしてもらえたりするといった、「気晴らし」としての効果はあるかもしれない。だが、男性にとっては、ジェンダー論は気晴らしにもなりはしないのだ。

 

 

 上述したようなジェンダー論の問題をふまえたうえでジョイナーの本を読み返すと、そのまっとうさが以前よりもよく理解できる。

 ジョイナーの議論の道筋をごく短くまとめてみよう。

 

 (1)解決すべき問題の設定:多くの男性は人生の後半になればなるほど強い苦悩を感じるようになり、自殺率も男性は女性より高い。これは問題である。

 

 (2)問題の原因の分析:(a)男性の苦悩や自殺の原因は、男性が女性に比べて、歳を取るにつれて孤独になりやすいことにある。

(b)男性が孤独になりやすい原因は、まず、男性は女性に比べて他人に対する関心が欠如しており地位や物質に執着しやすく自己防衛的である、という生得的な傾向にある。そして、ここに社会的な要因が加わって、多くの男性が他人との関係やコミュニケーションを維持する方法を学ばないまま成長してしまうことも、孤独をもたらす原因となっている。

 

(3)問題に対する解決策の提示:高齢になっても他人との関係やコミュニケーションを維持するための、具体的な生活習慣の提示など。

 

 重要なのは、ジョイナー自身が自殺に関する心理学的研究の第一人者であり、また彼自身の父親が自殺したという事情もあって、「男性の自殺」という問題を真剣に捉えていることだ。

 そのため、ジョイナーの議論はイデオロギーに左右されない。例えば、ジェンダー論なら(1)の問題設定の時点で揉めかねないところを、ごく素直に問題設定している。(2)についても、生物学的な原因と社会的な原因のどちらかにあらかじめ限定することなく、両方の原因を冷静に考慮している。そして、(3)では規範的な主張ではなく実際的な主張がなされている。「社会がこのように変えることで、男性の問題も解決される」などの大言壮語を吐かずに、個人としての男性たちがそれぞれに実践できる具体的なライフハックを提案していることは大切だ。

 

 男性の問題だとかジェンダーの問題だとかに関わらず、なんらかの「問題」を取り上げて、「問題」について分析して、「問題」に対する解決策を提示する、という議論をするのであれば、ふつうはジョイナーの本のようになるはずだろう。

 しかし、世の中の「問題」に関する様々な言説が、ふつうのものではなくなっている。イデオロギーだとか思想の流行とか学界や業界の力関係・人間関係に左右されてか、見当外れな分析と的外れな解決策に満ち満ちている状況にあるのだ。

 この状況に我々はどう立ち向かうべきかというと……批判的思考を学んで他人の行なっている議論の前提や立論について論理的に整理する能力を身に付けるとか、なるべく多くの本を読んで「うさんくさい議論」を嗅ぎ分ける嗅覚を鍛えるとか、それくらいしかないのかもしれない。

 

 

*1:

davitrice.hatenadiary.jp

*2:

davitrice.hatenadiary.jp

*3:

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

*4:同じような主張をしている記事:

fuyu.hatenablog.com

*5:『BOYS:男の子はなぜ「男らしく」育つか』は、そのタイトルとは裏腹に、「男の子」の方を見て書かれた本ではないという印象が強かった。結局のところ、フェミニストのママ友に向けて書かれた本でしかなく、「男の子」はフェミニズム的なイデオロギーを展開するためのコマやダシとしてしか扱われていなかったのだ。

*6:マジョリティ女性vsマイノリティ女性やシスヘテロ女性vsレズビアン女性・トランスジェンダー女性という構造になると、女性も「無謬の弱者」であるとは限らなくなるし、現代のフェミニズムはこれらの問題についても意識的であることは事実であるのだが。

アファーマティブ・アクションとクオータ制が支持されない理由

 

 

 

 

 前回に引き続き、先日から、社会心理学者ジョナサン・ハイトと憲法学者グレッグ・ルキアノフの共著、『アメリカン・マインドの甘やかし:善い意図と悪い理念は、いかにしてひとつの世代を台無しにしているか』で行われている議論を紹介。

 

 この本の第11章「正義の探求」では、2010年代のアメリカは「ウォール街を占拠せよ」運動から始まって#MeToo運動やLGBT運動、そしてブラック・ライヴズ・マター運動と、社会正義を求める運動がこれまでの時代に比べてずっと盛んになっていることが指摘されている。その背景には、2010年代という時代ならではの特徴があるのだが……この点に関するルキアノフとハイトの分析はこんど別のところで紹介する予定なので、ここではヒミツ。

 今回は、『アメリカン・マインドの甘やかし』の11章のなかでも後半部分、人間の直感や道徳感覚と社会正義運動との関係について述べられた部分を紹介しよう。

 

 正義に対して人間が持つ直感は、「分配的正義」に関するものと「手続的正義」に関するものに分けられる。

 分配的正義の直感とは、「人々はそれぞれが払った労力や努力に応じた報酬を手に入れるべきだ」というものだ。頑張って成果を出している人は報いられるべきであり、努力せず成果も出していない人たちは他の人たちと同じだけの報酬を手に入れるべきではない、という直感は、子どもでも身に付けている。

 この直感は自分自身にも向けられるのであり、たとえば給料が過剰に多く支払われてしまったら「その給料に見合うだけの努力をしなきゃ」と頑張ってしまうのが、人間というものなのだ。また、労力を払っているのに充分な報酬が得られていない人がいれば、その人が正当な報酬を得ることを、自分が余分な報酬を得ることよりも優先する。そして、この直感が「不当に得している」と見なされる人に対して向けられたときには、その相手に対して強い反発が抱かれてしまうことになる。

 手続的正義の直感とは、「物事が決定されるときには客観的で中立的に判断されるべきであり、関わる全ての人間のことが平等に扱われるべきだ」というものだ。意思決定をする人がその決定で影響を受ける可能性のある人々のことみんなについて考慮しているのか、すべての人々に発言権が保証されているのか、すべての人々が尊厳を持って扱われているのか……このようなことを気にかけて平等を重んじる発想は、近代の人権思想の産物であるとは限らず、古来から人間に備わっているのだ。

 たとえば「警察」に対する市民の態度は、手続き的正義の直感に大きく左右される。「警察はすべての市民に対して平等に接している」と市民たちが信じられれば彼らは警察に対して協力的になるが、「警察は特定の属性の市民を不当に扱っている」と思われてしまったら、その"特定の属性"に当てはまらない市民も警察に対して非協力的になるのだ。

 つまり、人間の直感は必ずしも利己的であったり独善的であったりするのではない。自分だけでなく他人がどのような報酬を得ていてどのように扱われているかということにも、人は強い関心を抱くのだ。だからこそ、社会正義を実現するためには、これらの直感に訴えることが不可欠となるのである。

 

正義の名を冠した新しい政策を支持したり、運動に参加するように他の人たちを動機付けたいのなら、得られるべきものを得られていない人がいる(分配的正義)、または不公平な手続きの犠牲になった人がいる(手続き的正義)、ということについての明らかな理解や直感を他の人たちが持てるようにするべきだ。特定の人々や特定のグループが他よりも多くの資源を得ていたり高い地位にいたりするという状況であっても、分配的正義か手続き的正義のどちらに関する感情も人々から引き起こせない場合には、人々は現状維持に甘んじてしまう可能性がずっと高くなってしまうのだ。

(p.220)

 

 そのため、成功する社会正義運動とは、「分配-手続き的社会正義(Proprtional-Procedural Social Jutice)」に関するものであるのだ。その定義は、以下のようなものである。

 

ある人々が貧困に生まれついたか社会的に不利なカテゴリーに所属しているという理由でその人々への分配的正義や手続き的正義が否定されているような事態を発見して、その事態を修正するための活動

(p.221)

 

 たとえば、過去にアメリカで行われた公民権運動は「分配-手続き的社会正義」に適った運動であるからこそ、多数の支持を得て成功した。当時のアメリカの白人たちは黒人差別の事実を直視しないように動機付けられてもいたが、アメリカの憲法にも書かれているような平等や権利の理念に訴えかけられたら、黒人差別が不正義であることを認めざるを得なくなった、ということだ。ブラック・ライヴズ・マター運動が多数派の支持を得ているのも、同様の理由による。

 また、「分配-手続き的社会正義」とは、人々の社会的権利が平等に保護されて(手続き的正義)、機会の平等が保証される(分配的正義)ことに焦点を当てたものである点も重要だ。

 

 そして、現在の社会正義運動の一部は、機会の手続き的正義の直感にも分配的正義の直感にも適わないものとなっている。「機会の平等」ではなく「結果の平等」を求める運動となっていることが、その原因だ。

「結果の平等」を求める運動の具体的な帰着が、組織の成員の一定数以上を女性にすることを求めるクォータ制と、入学試験などにおいて黒人やラティーノに優遇措置を与えるアファーマティブ・アクションである。これらの制度はアメリカでは数十年前から実施されてきて、今ではすっかり定着した。

 しかし、クォータ制アファーマティブ・アクションの下では、人々は人種や性別などの「属性」によって判断されて、不平等に取り扱われることになる。この点では、手続き的正義の直感に反している。また、同じだけの労力や努力を払ったり成果を出していたりする人であっても、報酬(組織への参入、大学への入学など)が得られるかどうかは属性によって左右されてしまう。頑張っているマジョリティよりも頑張っていないマイノリティの方が有利になり得るという点で、分配的正義の直感にも反しているのだ。

 これが、クォータ制アファーマティブ・アクションを求める運動が、公民権運動やブラック・ライヴズ・マター運動のようには支持されない理由である。

「逆差別」という日本語は、これらの制度に対する反感を端的に表現したものであるだろう。

 

 では、一部の人々は、なぜ直感に反する「結果の平等」を求める運動を行なっているのか?

 その背景には、「不平等な結果は、社会に制度的なバイアスが存在することによってもたらされている」という前提がある。つまり、たとえば白人が黒人やラティーノよりも大学入学率が高かったり、女性よりも男性の方が特定の組織の成員になりやすいことは、一見すると白人や男性の方が能力が高かったり頑張ったりしていることの結果であるように見えるが、実は現状の制度や構造がマジョリティにとって有利な仕組みとなっていることに起因している……という考え方だ。

 これは、近年では「マジョリティは"特権"を持っている」という言葉で表現されることが多いし、日本のフェミニストがよく口にする「男は下駄を履かされている」という主張もこれの一種と言えるだろう。

 そして、現状の制度によって不当な結果がもたらされているなら、その結果に介入することの方がむしろ正義に適っている、ということになるのだ。

 特にアメリカの大学では、「結果の平等」とその前提である「不平等な結果は、制度的なバイアスによってもたらされている」という考え方が支配的になっている。そのために、「不平等な結果がもたらされていることは、制度的なバイアスではなく、他のことが原因であるかもしれない(男性と女性との間における、学問や趣味や職業に関する志向の生得的な差など)」という仮説を提示すること自体が、非難されて抑圧される傾向にあるのだ*1
 つまり、制度的なバイアスについての議論そのものに、バイアスがかかっている。そして、大学内で学生たちや学者たちがバイアスのかかった議論を繰り返すほどに、「正義」に対する彼らの要求は大学の外にいる人々の実感から乖離したものになっていくのだ。

 

 ……と言いつつも、ルキアノフやハイトだって、アファーマティブ・アクションやクオータ制がすべて間違っていると論じているわけではない。「制度的なバイアス」なり「不平等な制度」なりが存在しない場合もあるが、存在する場合もある。「不平等な結果は、不平等な制度のせいだ」と決めつける発想は間違っているが、どこかしらに不平等な制度が存在している可能性を排除することも、また間違っているのだ。

 とはいえ、仮に不平等な制度の存在が事実であり、アファーマティブ・アクションやクオータ制が不平等な制度に対して実際に有効な対抗策であるとしても、「結果の平等を求める社会正義運動は、人々の正義の直感に反しない」という問題が舞い戻ってくる。こうなると、望ましい目標を実現するために多数の支持を得るためのレトリックをいかにして構築するか、ということが重要になってくるだろう*2

 

 わたし自身の感想を付け加えると……クオータ制については、以前まではまさに「直感的」に反発を抱いていたのだが、多少の勉強をしていくうちに「ケース・バイ・ケースで判断するべきだな」というくらいに思うようになった。たとえば日本の政治の世界にはジェンダー・クオータ制が必要であると思うし*3医学部入試の女性差別問題は誰がどう見ても「制度的なバイアス」そのものだ。アファーマティブ・アクションに関しては、ピーター・シンガーが『実践の倫理』などで昔から擁護していたのを読んでいるので、以前からわりと理解は抱いているつもりである。

 社会運動、ひいては民主主義や政治全般に関する直感とレトリックの問題については、社会心理学の発展に伴って、これからも面白くて有意義な論考が出てくることだろう。