道徳的動物日記

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読書メモ:『<効果的な利他主義>宣言!:慈善活動への科学的アプローチ』

 

 

 この本についてはこちらの記事でも紹介した。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 また、「効果的な利他主義」の考え方そのものについては、今後に某社から公開される原稿でも取り上げる予定なので、こっちでは取り上げない。

 

もちろん、効果的な利他主義には賛否両論がある。

…(中略)…また、効果的な利他主義は貧困の根本原因(教育の不足、政府の腐敗、圧政、戦争など)ではなく貧困の症状(健康障害など)に着目しすぎているという批判もある。彼らは貧困の根本原因に対処するには制度的な変革が必要だと主張している。

…(中略)…

貧困の根本原因に目を向けるべきだという意見に関しては、貧困の根本原因などわからない、というのが私の答えだ。20世紀、韓国や台湾などの国々は貧困から脱げ出したが、エチオピアケニアなどの国々は抜け出せなかった。その理由はほとんど解明されていない。貧困の根本原因がわからないとすれば、個人がその根本原因に対処するのはとても難しい。

(p.211-212)

 

 「対処療法を行うことで、不公平な現状を結果的に肯定しているから、効果的な利他主義はダメだ」という批判については、わたしも書いたことがある。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 しかし、多くの人は、「道徳」や「思想」は現状を否定するラディカルなものでなければいけない、と思っているようだ。そのために、現状を直視して、解決の仕方がわからなかったり現実的な事情から対処できない問題は後回しにして対処可能な問題から手を付ける、という効果的な利他主義は因縁を付けられてしまうのである。

 

人々の役に立つということに関していえば、「無分別」と「無意味」はイコールであることが多い。

プレイポンプはその典型的な例だ。トレバー・フィールドと彼の支援者たちは、客観的な事実ではなく感情に流されていた。遊ぶという単純な行為を通じて、村に綺麗な飲み水を提供する楽しげな子どもたち。その魅力的なイメージに心を揺さぶられたのだ。

…(中略)…しかし、善意だけに頼って判断を下すのは、災難を招く可能性もある。

(p.10-11)

 

「プレイポンプ」とはどのようなアイデアで、そのアイデアがどのように失敗したかは、解説が面倒なのでググってほしい。

 マッカスキルはプレイポンプに発案したり賛成したりした人の「善意」に注目するが、わたしはむしろ「クールさ」や「気が利いている感」が、合理的な判断にとっての罠であると思う。

 この本のなかでは「エシカル消費」も批判されるが、寄付や募金よりもエシカル消費が人気になってしまう理由は「金を募金箱に入れるのではなく、質の良いものを買うことにその金を使いながら、現地の人々も救えるって一石二鳥で最高!」という(表面的で浅はかな)「合理的っぽさ」によるところが大きいだろう。

 大阪維新の会がコロナ問題に対して思いつきで「画期的」で「イケてる」対策を取ろうとしては失敗していること、はてはGo To イートやGo To トラベルを行なっている日本政府にも言えることではあるだろうが、道徳の問題にせよ政治や経済の問題にせよ、有意義な効果をもたらす対処や実践というものは、本来、地道でつまらなくて、淡々としているものであることが多い。しかし多くの人はそれに耐えられないので、ついつい、小賢しいアイデアに飛びついてしまうのだ。

 

ルワンダ虐殺が起こっていたとき、傷付いた市民の処置を赤十字病院で行なっていた医師、ジェームズ・オルビンスキーのエピソードに続く文章)

 しかし、オルビンスキーと私たちの状況はある意味で似ている。死傷者が続々と運ばれてくるのを見て、彼は全員を助けられないと悟った。そして、難しい選択を迫られた。誰を救うか?誰を見殺しにするか?全員を助けることはできない。そこで、彼はトリアージを行い、治療の優先順位をつけた。患者を1、2、3に振り分けることはどうしても必要だった。もし彼がこの冷酷で計算高い行動を取らなければ、死者の数はいったいどれだけ膨らんでいただろう?もし彼が何も選択を行わなかったら?両手をあげて敗北宣言を出していたら?先着順で治療を行なっていたら?きっと最悪の選択になっていただろう。

世界をよりよい場所にしようと思うなら、私たちもオルビンスキーと同じような選択をしなければならない。それがこの世界の現実だ。

(…中略…)

オルビンスキーの状況は、相手が目の前で泣いて助けを求めているという点で、私たちの置かれている状況よりもずっと切迫していた。何かを選択せざるをえないという事実、そして選択しないという決断自体もまたひとつの選択であるという事実からは逃れようがなかった。しかし、慈善活動や寄付の場合、恩恵を受ける相手が私たちの目の前にいるわけではないので、オルビンスキーの身になって考えたときと比べると状況を軽くとらえてしまいがちだ。それでも、状況は同じぐらいリアルだ。世界では文字どおり数十億人が助けを求めている。その一人ひとりが助けに値するし、現実的な問題を抱えていて、私たちの行動ひとつでその生活を向上させることができる。だから、私たちは誰を助けるかを決めなければならない。それを決めないのは最悪の決断だからだ。

(p.32-33)

 

 いまは懐かしの「トリアージ論争」を思い出す一節だ。

「選択をしない」ことも選択であること、それも最悪の選択であるということが強調されているのは、傾聴に値する。社会的・政治的な問題をトリアージ(あるいはトロッコ問題など)に例えながらトレードオフの必要性を強調する言説について、批判側は「それは構造や権力の要素を無視した擬似問題である」と答えがちだ。実際、コロナ禍に際して大阪維新の会の吉村知事が「トリアージ」を言い出したのは批判されて当然ではある*1。政治家はそんなことを言い出すヒマがあるならまともで合理的な対策を取るべきだからだ。……しかし、現実世界では常にトリアージの状況が起こり続けていることは、一面の真実であるのだ。それを忘れて「権力」や「構造」への批判に明け暮れるのも、無益で空虚なことではある。

 

たとえば2009年、「ギビング・ワット・ウィー・キャン」を創設するとき、私は同じ1ドルで最大限によいことをしてくれる慈善団体を探そうとしてた。そんなとき、私は「フィスチュラ財団」という組織を見つけた。産科フィスチュラ(瘻孔)はとても恐ろしい疾患だ。

…(中略)…フィスチュラ財団の資金を主に受け取っていたのがエチオピアの首都・アディスアベバにあるハムリン・フィスチュラ病院だった。この病院は手術によるフィスチュラ治療を行い、アフターケア、カウンセリング、教育を提供している。明らかに価値の暑活動だし、とてつもなく人々の役に立っていたが、私は結局、ほかの組織に寄付するほうが人々の生活を大きく向上させられるだろうと結論づけた。

しかし、ひとつ問題があった。数年前にエチオピアを訪問したとき、私はその病院を訪れたことがあったのだ。私はこの病気に苦しむ女性たちとハグをし、訪問への感謝を述べられた。それは忘れられない経験だった。世界の問題の深刻さをまざまざと痛感させられた。フィスチュラは私にとって個人的な結びつきのある問題だった。

では、ほかの組織に寄付したほうがもっと人々の役に立てると知りつつ、フィスチュラ財団に寄付するのが正しかったのだろうか?私はそうは思わない。もし、もっと効果的だと思う慈善団体があるのに、フィスチュラ財団に寄付するとしたら、私はたまたま困っている本人と会ったことがあるという理由だけで、一部の人々のニーズを優先していることになる。これでは、もっと効果的に手を差し伸べられる人々に対して不公平だ。もし私がエチオピア、またはほかの国の別の施設を訪れていたら?きっとまた別の心の結びつきが芽生えていただろう。私が世界の別の問題ではなくこの問題を目にしたというのは、単なる偶然にすぎない。

(p.42-43)

 

「ケアの倫理」だとか「共感の倫理」だとかに対する「理性の倫理」や「正義の倫理」の優位性を力強く主張している一節であろう。

 

福島の安全対策技術者たちは安全性を評価して被害を防ごうとしたが、低確率ではあるが重大な出来事を無視したために失敗した。同じように、何かよいことをしようとするときには、成功の確率とその成功の度合いの両方に敏感にならなければならない。 つまり、成功は確実だがたいして見返りのない活動よりも、成功の確率は低いが成功した場合の見返りが大きな活動を優先すべきケースもあるのだ。この事実は、「一人じゃ何も変わらない」とよく言う人々が大きな誤解をしていることも示している。

(p.88)

 

「期待値」を重視したこの発想は類書のなかでもなかなか見られないものであり、マッカスキルの議論のオリジナリティがあらわれている箇所である。具体的には、「投票行動」や「商品のボイコット(ベジタリアンがスーパーで肉を買い控えるなど)」が、行動が結果につながる可能性が低いとしてももし成功した場合には見返りが大きいために、期待値の観点からすれば行うべきである行動の例として挙げられている。

 

(「エシカル消費」運動に関して)

この運動には高貴な目的がある。搾取工場に反対する活動家たちは、人々がこれほど劣悪な環境で働いていることにゾッとしている。それはもっともなことだ。しかし、不買活動を通じて搾取工場に抗議する人々は、第5章で説明したとお理、「この行動を取らなければどうなるか?」という視点が抜けている。私たちは、自分たちが搾取工場の商品をボイコットすれば、工場は経済的な圧力に負けて廃業し、労働者たちはもっとましな就職先を見つけるだろうと思いこんでいる。

しかし、それは正しくない。発展途上国では、搾取工場の仕事はむしろよい仕事なのだ。工場で働けなくなれば、低賃金で肉体を酷使する農業労働、ごみあさり、失業など、ふつうはいっそう劣悪な状況が待ち受けている。

(……中略……)搾取工場が比較的よい仕事を提供しているという明確な証が、発展途上国の人々からの巨大な需要だ。搾取工場の労働者のほぼ全員が自分の意思で働いており、なかにはあの手この手で工場の仕事にありつこうとする人々もいる。

(……中略……)搾取工場の状況はとても劣悪なので、人々が国外追放のリスクを冒してまでそこで働こうとするのは、私たちにとって想像しにくい。しかしだからこそ、第1章で説明したとおり、世界の貧困は想像を超えるほど激しいのだ。

(p.136 - 137)

 

 この後のページでも、「モラル・ライセンシング」現象を指摘しながら、「エシカル消費」は目的とは逆の効果をもたらしてしまうことが論じられている。

 なお、引用部分の議論は「労働者側が、他の可能な仕事と比較したうえで自発的に選択した仕事」に対してのみ当てはまることに注意。中国で行われているウイグル族の強制労働や、畜産業(言うまでもなく、家畜は肉になることを自発的に選択しているわけではない)については、「エシカル消費」やボイコットが目的通りの効果をもたらす可能性があるはずだ。

 そして、発展途上国貧困層の人々には「劣悪な仕事」か「もっと劣悪な仕事」の選択肢が存在しないという事実も、規範的には不当であるだろう。それを不当であると認めることと、(他に可能な手段がなければ)「もっと劣悪な仕事」を避けさせて「劣悪な仕事」に就かせることが正当であることは、両立する。グローバルな経済格差や搾取の構造について非難するのもいいかもしれないし、「将来的にはこうあるべきだ」ということを論じるのもいいかもしれないが、「いまできることで最善なのはなにか」ということにも注目しなければいけないのである。

 

研究を通じて世の中に影響を及ぼすひとつの効果的な方法は、複数の研究分野を組みあわせるというものだ。当然、複数の分野の組みあわせのほうが個々の分野よりもはるかに種類が多い。そして、研究活動は伝統的な学問分野の分け方に左右されやすいので、ふたつの学問分野を組みあわせた研究は特に見過ごされていることが多く、非常に大きな影響を及ぼせる可能性もある。

(p.183)

 

「ふたつの学問分野を組みあわせた研究」の例が、行動経済学(心理学と経済学の組み合わせ)や、効果的な利他主義(道徳哲学と経済学の組み合わせ)である。わたし個人としても、このテの「学際的」な研究には昔から魅力を感じてきた。些細な一説だが、学問論として新鮮で、なかなか面白いと思う。

 

 第10章では、「極度の貧困」「アメリカ刑事司法制度の改革」「気候変動」の様々な問題について、「どの問題に優先的に取り組むべきか?」と読者が判断するための指標として、規模・見過ごされている度合い・解決可能性がそれぞれランク付けされている。

 移民問題(貧困国から富裕国への移民を認めることには貧困国の人々の生活が大きく向上するというメリットがあるが、富裕国側の移民政策によってそれが阻害されている)は、規模はかなり大きいものであるのに、解決可能性は極度の貧困や気候変動よりも少ないとされている。一方で、工場式畜産も規模はかなり大きいが、解決可能性は高いものとされている。ここら辺の判断基準も常識からはちょっと外れていて、なかなか新鮮だった。

 

 

読書メモ:『孤独の科学:人はなぜ寂しくなるのか』

 

 

 トマス・ジョイナーの『Lonley at the Top』と同じく「孤独」が人の心身に与える悪影響について書かれた本であるが、ジョイナーの本では人(男性)が孤独になる「原因」や「過程」についての議論が豊かであったのに比べて、こちらでは孤独がもたらす「結果」についての生理学的な説明に焦点があてられている感じ。

「なぜ孤独は人に悪影響を与えるのか」「孤独感が生じる進化的な理由」という観点からの説明は行われているが、ジョイナーの本でなされていたように、人(男性)が孤独に至るまでの心理的な原因と社会的な過程に関する奥深い考察は少なめ。

 それは著者の専門分野の違いということでいいとしても、こちらの本は同じような話をずっと繰り返している感じがちょっと強くて、読みものとしてやや退屈ではあった。

 

 この本のメインとなる主張は、「主観的な孤独感は、それ自体が"痛み"のような感覚を本人にもたらす。また、孤独感は自己調節や自己コントロールに関する機能を低下させる。それは、本人に健康的な行動を取りづらくさせたり、ストレス要因への抵抗力を弱めたり、睡眠のような治癒機能の働きを低下させたりするだけでなく、社会的なコミュニケーションにも悪影響をもたらす。これらが相まって、孤独感の高さは、様々な病気や死亡のリスクにつながる」というものだ。

 また、この本では、社会的帰属に対する欲求の強弱は「サーモスタット」に例えられている。そして、サーモスタットの敏感さは個人によって異なる。孤独の程度が客観的には同じであっても、敏感なサーモスタットを持っている人の方が、「わたしは孤独である」と感じやすく、それによる悪影響も生じやすいのだ。

 なお、ジョイナーもこの本の著者と同じく「孤独感のサーモスタット」という表現を使っているが、ジョイナーの説によると、サーモスタットが鈍感であることもそれはそれで危険だとされる。男性は女性に比べて孤独感のサーモスタットが鈍感であるが、そのために、手遅れになるまで孤独の状況を放置してしまいがちであるのだ。逆に言うと、女性は敏感なサーモスタットを持っているために、すぐに「わたしは孤独だ」と思ってしまうが、コミュニティに接近するなどして孤独な状況に対処することも早々に行うのである。

 一方で、この本では、「敏感なサーモスタットにより強い孤独感を抱くことは、自己コントロール能力にも悪影響を生じさせるので、コミュニケーション能力にも支障をきたし、コミュニティからの離脱にもつながる」というようなことが論じられている。そのため、ジョイナーの主張とこの本の主張とでは、微妙な点で矛盾が起こっているのかもしれない。

 

 

心理学者のドナルド・ヘッブは「個人の性質に、より大きな影響を与えるのは、生まれか育ちか」という疑問を、長方形の面積に、より大きな影響を与えるのは縦の長さと横の長さのどちらか、という問いになぞらえた。答えは、どちらか一方、ではない。だが、それぞれが別個に、という話でもない。一般に、個性のごく基本的な側面の発現を左右するのは、たんに「環境+遺伝」ではなく、遺伝子と環境の 相互作用 なのだ。遺伝が及ぼす影響力とは、特定の個人がその遺伝的な資質のせいで、社会的なつながりを人より余計に必要としたり、そうしたつながりがない状態に人一倍敏感だったりする、というだけだ。短期間にしろ生涯にわたってにしろ、人が実際に孤独感を覚えるかどうかは、社会的な環境を含めてそれぞれの環境次第だ。そして環境は、本人の考えや行動など、じつにさまざまな要因に左右される。

(p.41)

 

 この本の本題とは関係がないが、長方形で例えることは、「生まれか育ちか」論、あるいは進化心理学的と社会構築主義の対立に対する良い解毒剤である。わたしも、機会があればこの例えを使ってみたいと思う。

 

ここでもまた、現代思想のじつに多くが賛美する「実存主義のカウボーイ」、つまり全世界を相手に回す一匹狼としては人間がうまくやっていかれない理由がわかる。「人は独りで生まれてくる」ことも「人は独りで死ぬ」ことも文字通り真実かもしれないが、他者とのつながりは進化の過程で人類が今の姿になる一助となっただけでなく、現在も私たち一人ひとりがどんな人間になるのかを決めるカギも握っているのだ。どちらの場合にも、人間どうしのつながりや精神の健康、生理的な健康、情動面での健全性はすべて、互いに切り離せないほど密接に結びついている。

(p.173)

 

 ジョイナーも指摘していたように、現代思想や文学は孤独を美化してしまいがちである。それを真に受けてしまった読者は孤独リスクへの対策を怠ってしまったりあるいは自ら孤独に突き進んでしまい、不健康になって、不幸になって、場合によっては自殺してしまうのだ(特に昔の文学者はよく自殺していたことは、文学者はもともと孤独になりやすい傾向があるから作品のなかでも孤独を美化してしまうことを示しているかもしれないし、孤独を美化する文学サークルに関わっているうちに不健全で破滅的な思考や行動パターンをインストールしてしまったということであるかもしれない)。

 

…(前略)…孤独は私たちから自己調節と実行制御の機能を奪い、自主抑制と粘り強さを損なう。認知と感情移入を歪め、そのせいで社会的調節に貢献するほかの認識も支障を来す。その中には、社会的同調をする上での妥協と互恵、適切なさじ加減で行われる服従と支配、仲裁、社会的制裁、同盟の形成などが含まれる。

ようするに、自分自身の集団への「適合性」を高めるだけではなく、集団の全体的な適合性も高める、つまり実現可能な社会的な調和のレベルへと導くには、こうした高度な能力が必要なのだ。

孤独感は、他者とかかわることで得られる報酬の感覚を弱め、逆に、中毒と関係した脳のいくつかの部位に支配されている、他者を不快にさせることの多い反応を引き起こす。もし私が他者の心を正確に読めなければ、ニュアンスをつかめず、双方にメリットのある解決法を直感的に見つけてより望ましい結果を生むことができない。その鈍感さのせいで、協調性のあるパートナーとは思ってもらえなくなる。自分自身の反応と自分が他者から引き出す反応のせいで、私は人とのやりとりに不満を抱くようになるかもしれない。なぜなら、他者が受ける報酬の感覚を私は得られないだろうから。そして孤立した私にとってのそのような喪失感は、その後しっかりと根づき、私の人間関係全体に広がっていくかもしれない。

(p.279)

 

 この本では、「孤独感は人と怒りっぽくさせたりネガティブにさせたりして、対人関係能力も損なわせることで、人をコミュニティから遠ざけるという悪循環をもたらす」ということが何度か強調されている。そして、実際にわたしが孤独であったときのことや周りの孤独な人のことを思い浮かべてみても、この現象はたしかに起こっていたように思える。

 

自己防衛的で他者から孤立する行動をやめるのにはリスクがある。人間が防衛メカニズムにしがみつくのは、短い間だけでもそのメカニズムには効果があるように思えるからだ。しかし、防衛メカニズムによる一時的な「保護」は、長期的には高くつくことが立証されている。

忍耐は、人間関係で大きな喜びが感じられるようになってからも、不要にはならない。たとえ私たちがみな完璧だったとしても、やがて知り合うことになる相手には、必ずその人なりの物の見方がある。「良いときも悪いときも」という典型的な結婚の誓いは、対人関係で永久に摩擦は無くならないと、おおっぴらに宣言しているようなものだ。刺入やおしどり夫婦にも意見の食い違いはあるし、ときには互いを傷つけることもある。こうした現実にもかかわらず成功する秘訣は、摩擦の瞬間を拡大解釈して大げさに受け取らないことだ。

(p.312)

 

 なかなか含蓄のある一節だ。

 

孤独だと批判的になる

 

社会的幸福度の高いカップルは、パートナーを理想化する術を見出し、いわゆる「ポジティブな幻想」を持ち続ける(この架空の要素があるからこそ、恋愛をロマンスと言う。ロマンスとはもともと、空想的な内容を扱った物語のことだ)。十三年間に及ぶ結婚の研究の結果によれば、パートナーを理想化すると、愛情が持続するだけでなく、離婚の確率も低くなるという。パートナーを理想化するというのは、ごまかしや虐待などの深刻な問題に目をつぶることではない。相手の脂肪が増えてきた事実や髪の毛が薄くなってきた事実を気にする代わりに、今も変わらない相手の魅力的な笑顔に注意を向けたり、たとえ言葉のほうが感情をうまく表せるときでも、車に張りついた氷を落として愛情を示してくれる相手のやり方を認めたりすることだ。私たちは、実行制御能力を持った脳のおかげで、何を強調するかに関してかなり融通が利く。しかしそれも、恐れからくる孤独感が原因の、実行制御能力の混乱を防げれば、だが。

(p.314)

 

 ここもなかなか深い一節だと思う。

 

不確かで不安な愛着の持ち方をする人は、安定した愛着の持ち方をする人よりテレビの登場人物と社会的な絆で結ばれているという感覚を持ちやすい。

…(中略)…つながりを求める心は何よりもまず、肉体あってのものであり、肉体を除外すれば、人間のつながりから得られる満足感が損なわれる可能性がある。

物理的にいっしょにいることが不可能なとき、私たちは電話で短い会話をしたり、インスタントメッセージを送ったり、愛する人の写真を見たりという、「社会的間食」と呼ばれてきた習慣によって、自分の切望を満足させようとするが、間食は食事ではない。

…(中略)…インターネットがもっと有形の人間の触れ合いに取って代わったとき、インターネット利用の増加が社会的孤立感とともに鬱病の増加ももたらしうるという調査結果があるが、電子的コミュニケーション特有の抽象化された性質、つまりつながりにおける物理的な背景と形態の欠如を考えると、その結果がある程度説明できるかもしれない。

たしかに、ペットやネット上の友人と、あるいは神とさえつながりを結ぶことは、群居せざるを得ない生き物が抑えきれない欲求を満足させるための、りっぱな試みではある。しかし代用品はけっして本物の不在を完全に埋め合わせることはできない。

(p.333-334)

 

 わたしもゲーム実況はよく見るし一部の実況者のファンであるのであんまり人のことは言えないのだが……アイドルファンや、YouTuberだかVTuberだかに課金をしたがるファンたちによく当てはまる分析だと言えるだろう。

 また、Zoom飲み会が一見すると安上がりで楽しそうに思えるわりに、実際にやってみると本物の飲み会のような満足感は得られない、という事象の説明にもなっていると思う。けっきょくのところ、物理的な要素や身体的な要素は、コミュニケーションや社会的帰属に対する欲求の大きな部分を占めているからだ。

 先日に「男性同士のケア」について論じた記事を書いたとき、「バ美肉であれば、男性同士のケアの不在を埋め合わせることができるかもしれない」という趣旨のコメントがついた。しかし、人間同士の関係性の問題や孤独の問題が、テクノロジーだとか「ネットによって培われる新しいコミュニケーション」だとかで解決されるという言説に対して、わたしは概して懐疑的である。

 

さらに著者は、孤独感に苦しむ人に対する暖かい配慮を終始一貫して見せながら、その苦しみから脱する方法を、多くの事例とともに紹介する。その核心をひと言で言えば、逆説的に聞こえるかもしれないが、「他者に手を差し伸べること」となる。

…(中略)…他者に対する善意に満ちた行為は次々に広がっていくとともに、自分にも恩恵をもたらす。

(訳者あとがき、p.349)

 

 人間にとっての幸福のカギは他人のために尽くすこと、という主張はダグラス・ケンリックの『野蛮な進化心理学』やジョナサン・ハイトの『しあわせ仮説』などの他の心理学の本でも強調されていた。これだけ多くの心理学者がそう主張するのだから、おそらく事実であるのだろう。

 とはいえ、アメリカ社会はキリスト教的な秩序や規範がベースとなっているわりには自己中心的な人が多くて、自己利益を追求してしまうことで逆に不幸になるというジレンマに陥っている人が多いからこそ、アメリカの心理学者たちは同胞への戒めとしてこの主張を口酸っぱく強調したがる、ということも考えられるかもしれない。

 アメリカに比べると日本は、なんだかんだ言って自己中心的な人は未だに少ないように思える。しかし、だからこそ、近年になって「日本人は他人に尽くすことはやめて、自分を大事にするべきだ」みたいな主張が盛んになっているのだ。そして、この主張はフェミニズムと結び付きがちでもある(「女性はこれまでケア役割を強制されてきて〜」云々)。では、その主張が日本の女性たちに幸福をもたらしているかというと……それは他人事なので、わたしにはわからない。

 

…(前略)…若者では、孤独な人と孤独でない人の食習慣にあまり差はなかった。だが中高年では、孤独は、前述のように一日のカロリーのうち脂肪から摂取する割合の高さと相関していた。

孤独な人が健康に良い行動をしなくなるのは、催眠で社会的疎外感を抱かせた人に見られた、実行制御機能の、ひいては自己調節能力の低下が一因になっているのかもしれない。たんにその時点で気持ち良く思えることではなく、自分にとって良いことをするには、規律正しい自己調節が必要となる。ジョギングに行くのは、終えたときには気持ちが良いかもしれないが、ほとんどの人にとっては、そもそもドアから外に出るには意志の力による行動が必要だ。そうした規律に必要な自己制御は孤独感によって低下する。孤独感には自己評価を低下させる傾向もある。他者に無価値だと思われていると感じると、自己破壊的行動をしがちで、自分の体をあまり大事にしなくなる。

そのうえ、孤独な中高年の人は、孤独感についての苦悩と実行機能の衰えが相まって、気持ちを紛らわそうとして喫煙や飲酒や過食、性的行動に走ることがあるようだ。気分を高揚させるには運動のほうがはるかに良いだろうが、規律正しい運動にも実行制御が必要だ。週に三回ジムやヨガ教室に通うのも、体調を保とうとするのを励ましてくれる友人とそこで会って楽しめるなら、ずっと楽になるだろう。

(p.138-139)

 

  ときおりやたらと肥満体型で不健康なオタクがいることの説明になっていると思う。

 また、わたしは仕事を辞めて無職になっていた期間に「自分だけの時間がたっぷりあるんだから、このタスクを達成するぞ」と、とある計画を立てていたのだが、見事に失敗して、ダラダラと過ごしてしまった。飲酒量も無職期間の方が明らかに増えていた。あれも、孤独感により自己制御機能を損なっていたせいであったのだろう。

 

「ナオミ・クライン的なるもの」に対するジョセフ・ヒースの解毒剤

 

「経済学101」では、政治や経済について論じるカナダの哲学者、ジョセフ・ヒースのブログも訳されている。

 

 

econ101.jp

econ101.jp

 

 上記の記事ではどちらもかなり重要なことが書かれていると思うが、その一方で(特に日本の読者にとっては)さして重要でないことや時節が過ぎたことも書かれていたりするし、なにしろ長い。というわけで、残念ながら、訳者(わたしや青野さん)が期待したほどには読まれていないようだ。

 どちらの記事も訳してから数年経過していることだし、「有益であるな」と特にわたしが思う部分を、こちらのブログに引用してしまおう(読みやすくなるように改行も加えている)。

 

私が最終的に辿り着いた答えは、価格付けシステムは大半の人々が持っている道徳的直感に反するということであり、そしてクラインはその道徳的直感を物事に対して徹底的に当てはめているということだ。

彼女は「汚染者支払い」の原則を熱心に支持しているのにもかかわらず、実際にはその原則が論理的に導き出す結論の一つを拒否している。つまり、もしあなたが支払うことを嫌だと思わなければ、あなたは汚染をしてもいいということだ。この結論は、ある行為が非道徳的であるとすれば非道徳的であることそれ自体がその行為を行なわないための充分な理由となる、という道徳的直感と相反する。あなたは非道徳的な行為を止めるためのインセンティブを他人に要求することはできないのであり、それどころか、非道徳的な行為を止めない場合にはあなたを処罰する権利を他の人たちは持っている…これが、私たちの道徳的直感が教えるところだ。

たとえば、市場において奴隷に価格を付けたり税金を課しても奴隷という存在を無くすことはできなかったのであり、奴隷制そのものを撤廃することしか方法はなかったのだ、とクラインは指摘する。環境規制についても彼女は同じ考えを抱いている。たとえば、彼女は以下のようなレトリック的な質問を読者に行っている。「なぜ私たちは自分たちの未来を危険に晒すなと企業に命じているのではなく、企業に賄賂を贈ったり甘い言葉で丸め込んだりしようとしているのだろうか?」。つまり、根本的にはクラインが炭素価格付けに反対しているのは単に価格付けという考えそのものが道徳的に不愉快であるからだ、と私は推測する。彼女にとっては、それは子供を取り返すために誘拐犯に身代金を払うのと同じようなことに思えるのだ。

この点については彼女のみならず多くの人々が同じ直感から思考を始めている。しかし、その直感を解体する議論は広く知られたものであるし、それは環境経済学にとって最も基本的なことですらある。"撤廃主義"的なアプローチは、対象とする物質や習慣を完全に禁止することが可能でありまたそれらが完全に禁止されなければならない時にしか機能しない…それこそ、奴隷制のように。だが、二酸化炭素やメタンガスを放出することはそれ自体が本質的に有害なことではないのであり、ゼロになるまでそれらを削減したいと望んでいる人もいない。

 

 

第一に、クラインと同様に私も気候危機は非常に深刻な問題であると考えているし、現状の様々な物事に対して変化を強いる問題であるとも考えている。気候危機は「自由市場至上主義」の説得力を過去最弱にしている。

しかし、同時に、気候危機は「反市場-至上主義」の説得力も弱めたのだ。特に、企業の行動を変える手段として価格付けメカニズムを用いることを極端に嫌っていた左派の人々の多くが、考えを変えて価格メカニズムに対する嫌悪感を払拭せざるを得なくなった。価格付けメカニズムに反対する議論は道徳的なものだけであるとすれば…つまり、価格付けには問題を解決する可能性があるとしても、私たちの道徳的純粋さの基準を満たすような形では解決しないということであれば…それは問題の解決方法に対する反対意見としてはかなり弱いものだ。

気候危機は充分に深刻な問題なのであり、大半の人々は解決方法の形に関わらずとにかく解決されることを望んでいるだろう、と私は推測する。いくつかの大企業が正しくない動機から正しい行為を行うことを容認するための取り決めを結ぶ、などの解決方法であったとしてもだ。 

 

第二に、そして最後に、『これがすべてを変える』は一から十まで問題の"つながり"について書かれた本である。様々な種類の闘争のそれぞれに参加しているそれぞれの人々に対して、自分たちはみんな実は一つの同じ目的のために戦っているのである、と説得させるための本なのだ。そのこと自体には何も問題はない。

それに、多くの場合には、様々な要求を記したリストを提示することには(そのリストが短いものではなく長いものであったとしても)何の問題もない。

しかし、政策としての価値も疑わしく実際問題として実行不可能な政策の名の下に、実行可能であり有効な政策に対してあなたが反対をし始めるとすれば、それは、巨大な害を支持するものであるとあなた自身が批判している物事を実際にはあなた自身の手で引き起こすことになってしまうのだ。 

『ブランドなんか、いらない』にまで遡るクラインの一連の著作に対して私が批判を行い続けているのは、彼女が間違った方向にへと読者を活気付けて動かしていることにある。風車に向かって対決したドンキホーテのような一人相撲を自分が取っているという可能性についてクラインはもっと時間を割いて考えるべきだと私は常々思ってきたし、『これがすべてを変える』にもクラインに対する私の評価を変えるようなことは何も含まれていなかった。

 

 以上、「ナオミ・クラインの気候問題論」の記事から。

 特に、最後の箇所でクラインの「つながり」論を批判している箇所は、わたしがこのブログでしつこく批判している「インターセクショナリティ」論とも関わってくることだろう(原文では"intersectionality"ではなく"linkage"であるが)*1

 

クラインの見解では、(ギリシャで抗議デモに催涙ガスが使われて子供達が被害を受けたことは)気候変動と結びついているのだ。

私の推測であるが、このようなエピソード描写には、彼女の道徳的指向が示されている。何が善くて何が悪いかということについての、彼女の感覚が示されているのだ。高潔な抗議運動家たちがファシストな警察と対決するというドラマが提供するものこそが、暴力的な抗議活動にクラインがここまで執着している理由だ(世界における善の追求と悪との戦いが、抗議運動に催涙ガスが使われることに最も具現化されている、とクラインは考えているわけである。

要するに、彼女にとって、この件は「明白な道徳」が示されているのだ。誰が正しい側に立っていて、誰が間違った側に立っているのかということを、彼女は疑うことなく自明視している。彼女にとって、全ての物事は自身の自明視された道徳見解に従属しているわけである。

要するに、社会正義についてのクラインの意見は、二つの自明な命題から始まっている。抗議者は善であり、警察(または「抑圧の暴力」)は悪である、と。

 

クラインは抗議運動に参加している時に、文字通りの善と悪との戦いを目撃している訳である。そして、抗議運動は善であり警察は悪であるという命題に基づきながら、彼女はより幅広い世界観や社会正義についてのより精巧な意見を構築しようとする。

その世界観や見解のかなり多くは寄せ集めにすぎない。基本的には、クラインは抗議運動家が要求していることの全てを取り上げ、繋ぎ合わせてから、なんらかの形の一貫した一つの見解や、一連の要求としてまとめあげようとする。

ここで問題となるのは、言うまでもなく、抗議者達は実に様々なことについて要求しているということだ。一部の要求は理に適ったものであるし、別の要求はそうではない。全ての要求が矛盾なく共存する訳ではないし、全ての要求が善であることはあり得ない。

だから、最終的には、クラインの見解には矛盾を避けるための大げさなごまかしが含まれることになる。そのごまかしが、私のような人々を苛立たせるのだ。

 

一方で、クラインの論じ方をこのように認識することで、なぜ彼女が抗議運動家たち(また、自分で時間を割いてまで抗議に行くことはないが、抗議運動家を応援している人たち)からこれ程までに支持されているのかということを理解する助けになる。

まず第一に、抗議運動家たちはクラインの描く物語の中では常に英雄である。抗議運動家たちが間違いを犯すことは有り得ない。

第二に、クラインは抗議運動家たちの見解を受け入れ、少しだけ知的で整った一貫した見解に編み出してくれる存在でもある。同時に、全ての抗議運動には一貫性があるのだとクラインは保証もしてくれる。

全く異なった抗議者達が、全く異なった物事を求めて闘っているように見えても、それは正しい社会実現への要求において通底しており、彼らの努力は共通していることになるのだ。クラインは具体的なビジョンを何も語っていないように見える。しかし、なんらかのビジョンに至る大まかな目標を知っているかのようにも見える。なのでクラインの著作活動を追いかければいつか「見解」を示してくれるかもしれない…。

 

 以上、「ナオミ・クラインについての最終論考」から。

 

 なぜこのブログの方でヒースの記事をわざわざ取り上げたかというと、ヒースが批判の対象としているような議論は、ナオミ・クライン本人に限らず、最近になって"流行"している様々な思想家が行なっているものであるからだ。たとえば、(もう死去されてしまったが)デヴィッド・グレーバーはかなりナオミ・クライン的な論客であった*2。また、本邦では斎藤幸平がナオミ・クライン的な論客としての活躍を始めているようだ*3。どちらの論客も「資本主義」の問題を論じているが、正当な経済学の理論を参照しながら問題について地道かつ合理的に分析していくということは行わず、その代わりにラディカルなお題目をぶちあげることで、(左派の)読者の支持を得ている。

 ところで、このブログでは「インターセクショナリティ」論だけでなく「ケアの倫理」論もしつこく批判している*4。そして、最近ではナオミ・クラインは「ケア」や「愛」の重要性を説いているらしいし、『ブルシット・ジョブ』でもケア労働に関する議論に紙幅が割かれていた*5。グレーバーにせよクラインにせよ、「ケア」や「愛」の重要性について最近になって急に気が付いたので、それを著作に取り入れた、という可能性もあるかもしれない。……しかし、おそらく、フェミニズムの議論を経たのちに「ケア」論(あるいは「愛」や「共感」論)が近年になって左翼の間で流行っているのを目にしたから、左派の読者が気持ち良くなるような物語を提供するために「ケア」や「愛」についても本のなかで触れることにした、というところが正解であるように思える。

 

 とはいえ、最近に限らず、クラインが登場する前からナオミ・クライン的なポジションの思想家はいたであろうし、クラインや斎藤が退場した後にも同じようなポジションの思想家があらわれることも想像に難くない。そう考えると、彼女らや彼らを批判することは徒労で無駄であるようにも思える。

 ……しかし、ナオミ・クライン的なるものたちは、社会問題や正義・倫理に関心のある読者に対して、問題について冷静に考えて向き合うための「議論」を提供するのではなく読者を気持ち良くするための「物語」を提供することによって、正しい方向に向けられていれば社会をより良く改善できていたかもしれないエネルギーをみすみす無駄にしてしまっている*6。そう考えるとやはり放っておくべきではない。だから、ナオミ・クライン的なるものがあらわれるたびに、あるいは「インターセクショナリティ」が論じられるたびに、しつこくネチネチと批判を行い続けるべきであるのだろう。

 

 

 

*1:

davitrice.hatenadiary.jp

*2:

davitrice.hatenadiary.jp

*3:

gendai.ismedia.jp

*4:

davitrice.hatenadiary.jp

*5:

note.com

斎藤:もう一点、ナオミ・クラインが素晴らしいなと思うのは、『NOでは足りない』のなかで、「愛」の概念を重視しているところです。いまの状況を変えるにはNOと言うだけではなくて、やっぱりYESに変えていくことが必要だと。他者と繋がっていくための概念は愛なのだ、という話をしています。最近だと、ネグリとハートが強調するキーワードの一つも、やっぱり愛です。
 では「愛」とは何か。重要なのは、ケア労働だと言われています。人間が生きていくために必要な根源はケア労働だと。保育や看護、介護はわかりやすいですが、そういったケアなしに、私たちの生活は成り立ちません。ですが、現実にはそういった労働に従事する人々は、低賃金しか得られず、過酷な労働を強いられています。
 こうしたいまの社会における労働の評価や、何が社会にとって有意義なのかを抜本的に価値転換していく必要があります。これは、我々が何に依拠して生きているのかということだと思います。つまり、貨幣を通じてしかつながり合えないような社会を選ぶのか、それともケアを通じてつながりあう社会であるのか、といった大きな話につながってきます。そういう意味で、クラインは本当に深いことを言っています。

*6:まさに「アヘン」だ。

道徳の問題は科学的に、定量的に考えなければいけない理由

 

 

 

 ビル・ゲイツウォーレン・バフェットが実践していることでも有名な「効果的な利他主義」について書かれた本。パート1では「効果的な利他主義」の考え方について、パート2では具体的な実践方法について書かれている。

「効果的な利他主義」を提唱している哲学者のなかではピーター・シンガーが最も大御所であるだろうが、シンガーにせよこの本の著者であるウィリアム・マッカスキルにせよ、功利主義者である。そして、「同じ金額を寄付するなら、同じ時間だけ慈善行為に関わろうと思うなら、その金額や時間で最大の効果が与えられる対象に寄付したり関わったりせよ」という効果的な利他主義の考え方は、行為の「結果」を強調するという点にせよ結果の「量」を強調するという点にせよ、功利主義にかなり等しいものであることは言うまでもない。

 

…(前略)…トレバー・フィールドの物語が示しているように、必ずしも善意が成功に結びつくとはかぎらない。では、どうすればなるべく効果的に人々の役に立てるのだろう?知らず知らずのうちに危害を及ぼすことなく、世の中に最大限の前向きな影響を及ぼすには?

本書ではこうした疑問に答えていきたいと思う。「心」と「頭」を組みあわせれば、つまり利他的な行為にデータや合理性を取り入れれば、私たちの善意を驚くような成果に変えることはできるのだ。

(p.6)

 

効果的な利他主義で肝要なのは、「どうすれば最大限の影響を及ぼせるか?」と問い、客観的な証拠と入念な推論を頼りに、その答えを導き出そうとすることだ。いわば慈善活動に対して科学的なアプローチを取り入れるわけだ。何が真実なのかを素直で中立的な視点から突き詰め、それがどういう真実であろうと真実だけを信じると誓うのが「科学」であるとするなら、何が世界にとって最善なのかを素直で中立的な視点から突き詰め、それがどういう行動であろうと最善の行動だけを取ると誓うのが「効果的な利他主義」なのだ。

(p.13)

 

 効果的な利他主義が「科学的なアプローチ」を行うことができるのは、効果的な利他主義(ひいては、功利主義)は「結果」の「量」を重視する「定量的」な思考であるから、というところが大きい。

 このブログでは、マイケル・シャーマーの著書『道徳の弧:科学と理性はいかにして私たちを真実と正義と自由に導くか』についても何度か紹介してきた*1。シャーマーの議論のポイントとは、以下のようなものだ:

人間の思考には「定性的」なバイアスがかかっており、程度や可能性の問題を無視した「◯か✖️か」の判断をしてしまいがちであるが、科学的な営みでは定性的なバイアスを是正して「定量的」に物事を扱う必要がある。そして、道徳の問題について考える際にも、状況ごとの固有の事情や条件を考慮に入れながら、科学と同じように定量的に考えなければならない。

 

『<効果的な利他主義>宣言!』では、道徳の問題について定量的に考えることの具体的な方法が詳らかに書かれている。

 定量的な思考で重要となるのは、たとえば、「期待値」の問題だ。寄付をする際には、対象となる問題の規模や深刻さと、寄付によってその問題が解決したり改善したりする可能性の両方を考慮したほうがいい(改善や解決が確実ではあるがそもそも大したことのない問題に寄付することも、深刻ではあるが改善や解決の余地がない問題に寄付することも、どちらも非効率的であるからだ)。

 また、「反事実的思考」も重要となる。行為を評価するためには「その行為をしたことによって、もたらされた結果」だけではなく「その行為をしなかった場合に、もたらされたであろう結果」についても考えなければならないのだ。行為をしなかったほうが良い結果がもたらされていたであろう可能性が高かったり、行為をしてもしなくても同じような結果になっていたであろう可能性が高かったりする場合もあるかもしれない。

 定量的に考えるための材料としては、諸々のデータをはじめとする「証拠」が必要となる。しかし、大半の場合において、100%に確実に結果が予測できるほど充分に証拠が揃っていることはない。そのため、いま手に入れられる限りの限定された証拠に基づいて判断を下さなければならないのだ。だから、その判断は確実なものだとは言えず、「蓋然的」な判断に留まらざるを得ない。しかし、蓋然的な判断と、適当でデタラメな判断は、全く異なるものであるのだ。

 

 道徳の問題を科学的・定量的に思考することは、「効果的な利他主義」に限らない。たとえば、動物倫理の分野でも、科学的で定量的な思考は重要視されているのである。

 

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 上記の記事をはじめとして、このブログでも何度か紹介しているゲイリー・ヴァーナーの『人格、倫理学、動物の認知能力:ヘアの二層功利主義で動物を位置付ける』では、各種の動物の認知能力について調べた心理学や動物行動学などの様々なデータを参照したうえで、人間と動物が「人格(Peson)」「準-人格(Near-Peson)」「感覚だけの存在(Merely Sentient)」の三つのカテゴリに分けられている。そして、それぞれの個体にとっての本人の「生」の価値は、「人格」である人間にとってや「準-人格」である動物にとっては大きい一方で、「感覚だけの存在」にとっては大きくない。そのため、(苦痛の問題などは差し置いて)「殺すこと」の悪さを考量する際には、「人格」や「準-人格」に与えられる危害は「感覚だけの存在」にとって与えられる危害よりも大きいと考えなければいけない、という議論をヴァーナーは行なっている。

 ヴァーナーの議論に対して、ひいては動物倫理や「パーソン論」全般に対してよく行われる批判が、「特定の尺度によって一方的に基準を設けて、他者の生の価値を線引きする、傲慢な発想だ」というものである。この批判は動物倫理の内側からも行われることが多い。たとえば、『荷を引く獣たち』ではシンガーの主張が障害学の観点から批判されていたし、フェミニズム倫理でもポストモダン倫理でも「尺度」や「基準」は批判される*2

 しかし、物事を定量的に扱うためには、尺度や基準は欠かせない。また、「どんな行為が、どんな動物に対して、どんな危害をもたらすか」ということは「どこに寄付することが、どんな結果を生み出すか」ということと同じくらいには不確実で蓋然的な事象だ。個々の動物にどのような感覚が備わっていたり、自分の生に対してどのような認識を抱いているかは、わたしたちは外部から推し量るしかないためである。……そして、科学的な思考は、蓋然的な事象を考慮するための最善のツールなのだ。

 以前にも引用したが、ヴァーナーの著書のなかでもわたしのお気に入りの箇所である、「ラムズフェルドの返答」について述べている部分を、改めて紹介しよう。

 

基準に基づいた私の議論に対する、哲学者のコリン・アレンによる批判に対する私の最初の返答は、「ラムズフェルドの返答」と呼ぶことができるかもしれない。最高の装備や改良型の高機動多用途装輪車両が、イラクに向かうアメリカ軍の全軍に対しては配備されていない、という批判に対してアメリカの元国防長官のドナルド・ラムズフェルドが言ったとされる返答に由来しているからである。ラムズフェルドはこう言ったのだ。「君も知っているように、戦争には手元にある軍隊で行かなければならないんだ。自分がこれだけ欲しいと思っている軍隊や、後からこれだけ欲しかったと思うことになる軍隊で戦争に行ける訳じゃないんだ」。ラムズフェルドと同様に、私もこう言おう。倫理的な判断は、自分が欲しいと思っている証拠ではなく、自分が手にしている証拠に基づいて行わなけばならない。

 科学者や、心の哲学を専門にしている哲学者なら、無期限に結論を保留する余裕があるかもしれない。しかし、倫理学者や立法者は、その判断を下すときに入手可能な最善の証拠に基づいて判断を下さなければならない。そして、日々の生活においては全ての人が倫理学者なのだ。私はいつも自分のことを「倫理学者」ではなく「倫理理論学者(ethical theorist)」と呼んでいる。ポピュラーメディアは、「倫理学者」のことを自分に投げかけられた全ての倫理的問題についての答えを持っている人だと描写するからだ。しかし、問題が投げかけられた時の私の答えとは、多くの場合は「その答えは、事実がどんなものであるかということによる」というものだ。「日々の生活においては全ての人が倫理学者なのだ」という私の主張は、全ての倫理的問題に対して表明できる意見を全ての人が持っている、ということは意味していない。私が言いたいのは、私たちの全員が、倫理的な議論の対象となる判断を数え切れないほど多く下している、ということなのだ。その判断の多くは待つヒマのないものであるし、その問題に関して必要であったり求められたりする情報を全て集める前に判断を下す必要がある。このことは、立法者にとっては明白なことだ。立法者は、広い範囲に重大な結果をもたらす政策や法律を不完全な情報に基づいて頻繁に制定しなければならない。しかし、立法者に比べると判断の与える影響は少ないといえ、同じことは私たちの全員に当てはまるのだ。

(p.115-116)

 

 

「その基準は妥当なものであるのか」「基準にはバイアスがかかっているのではないか」と指摘して、基準の修正を要請する、ということもあり得るだろう。そのような批判であるなら、正当な批判であると思う。たとえば『荷を引く獣たち』でも、シンガーのパーソン論は障害が障害者本人にもたらす危害を重く見積もりすぎるという「健常者中心主義」のバイアスがかかっている、ということを指摘しているところはおおむね妥当であった。

 しかし、道徳の問題において「尺度」や「基準」を設けることそのものを否定してしまう議論は、だいたいにおいて的外れだ。『荷を引く獣たち』でもフェミニズム倫理・ポストモダン倫理でも、「基準によって判断するのではなくそれぞれの動物たちの"個別性"や"他者性"について向き合わなければいけない、いや、感覚の有無を重要視すること自体が人間中心主義であるから動物たちのことだけでなく植物や生態系も重要視しなければいけない」などと倫理的行為の対象を無限に拡大してしまう議論になってしまっていった。わたしに言わせれば、このような議論はおためごかしの八方美人であり、耳心地はいいかもしれないが具体的な行動の指針とは全くならない、頼りなくて無意味なものである。

 このような主張は、問題について自分が"深く"考えていることのアピールとはなるかもしれないが、「他者」のことを真剣に考慮している主張であるとは全く思えない。ほんとうに他者のことを考慮しているなら、自分の行為がもたらす結果について知ろうとするはずであるからだ*3。そして、行為がもたらす結果について知るためには……そう、尺度や基準を設けながら、科学的に定量的に考えることが必要となるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:

 

The Moral Arc

The Moral Arc

  • 作者:SHERMER, MICHAEL
  • 発売日: 2016/01/26
  • メディア: ペーパーバック
 

 

*2:

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*3:気にかけよう(ケアしよう)とするのではなくて。

読書メモ:『自殺の対人関係理論:予防・治療の実践マニュアル』

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※自殺について扱っている記事なので要注意

 

 この本の代表著者のトマス・ジョイナーは Why People Die by Suicide Lonley at the Top の著者でもあり、このブログでもこれまでに何度か取り上げてきた*1。ジョイナーの本で邦訳が出ているのはいまのところこの本だけであり、Why People Die by Suicide がエッセイや概説書としての要素が強く読みものとしても興味深かったのに比べると、こちらは副題から想定される通りカウンセラーなどの本職の人が現場で使用するためのガチガチの実践書だ。そのため、読みものとしての面白さがあるわけではないのだが、ジョイナーの提唱する「自殺の対人関係理論」について再確認することができた。メモがてら、紹介しよう。

 

「自殺の対人関係理論」は、人に自殺願望をもたらす要因として負担感の知覚所属感の減弱の二つを挙げる。そして、自殺願望を持っており、かつ自殺潜在能力を身に付けている人が、自殺するリスクが高い人であると見なされる。

 

 自殺潜在能力とは、「自殺しよう」と思ったときに、それに伴う痛みや恐怖を乗り越えで自殺を遂行することができる能力、ということだ。逆に言えば、この能力が身についていなければ、いくら自殺願望を抱いていても自殺を実行することが困難になるのである。

 

自殺の対人関係理論によると、自殺によって死ぬことができるのは、過去において疼痛と刺激誘発的体験(自殺行為がその最たるものであるが、それに限らない)を十分にくぐり抜けてきたため自傷行為の恐怖と疼痛が習慣になり、それゆえ自己保存の要請が押し込められてしまった人たちのみである。私たちが示すように、自己保存本能はそのすべてを取り除くことができないほどに強く、常にその頭をもたげてくる。通常、自己保存本能は広く存在するが、なかにはそれをねじ伏せることができる選ばれたわずかな人々がいて、そうした人たちは、自殺の対人関係理論によれば恐怖と疼痛に慣れることによってこの危険な能力を獲得してしまったのである。その後の自傷行為に対する疼痛と恐怖を減少させるという点で、自傷の既往(特に死ぬことを意図した自傷)が最も強力な習慣化体験ではあるものの、それが唯一のものではないことを強調することは重要である。怪我、事故、暴力、命知らずな言動、軍隊での活動や、医師としての仕事などはわずかな例であるが、様々な程度の恐怖や疼痛を伴う体験が習慣化体験となりうる。

(p.5-6)

 

 自殺願望の要因のひとつである「負担感の知覚」については、以下のように解説されている。

 

負担感の知覚とは、自己についてのひとつの見方であり、それは自尊感情の低下を含んで入るが、さらにそれを超えるものである。この考えは、その人が不完全で欠点があるために自己価値が含められるだけでなく、さらに悪いことには、その人の存在が、家族、友人、社会にとってお荷物であるというものである。この見方は「家族、友人、社会やそういった人たちにとって、私が生きているより死んだほうが、価値がある」という決定的な計算を心の中で生み出すのである。自殺の危険性のある人たちはこの計算結果が正しいと信じているが、それは致命的になりかねない誤った認識を表している。

(p.6-7)

 

 「所属感の減弱」については、以下の通り。

 

所属感の減弱とは、孤独や社会的疎外と完全に一致しないまでも、おおよそ同義である。これはある人物が、家族の一部でもなく、仲間の輪、価値のある集団などの他者から疎外されているという体験である。人々が、負担感の知覚所属感の減弱を同時に体験した時、つまり彼らが自分自身の他者に対する心遣いが重要でなくむしろ害を及ぼすとさえ感じ、彼ら自身も気遣われていないと感じた時、それが命にとって重要なつながりのすべてを断ち切り、その結果、死への願望が生じると自殺の対人関係理論は提唱するのである。

(p.7)

 

 自殺の対人関係理論のポイントは、自殺願望についての分析だけでなく、自殺潜在能力という観点を発見したことにもあるようだ。たしかに、自殺潜在能力という考え方を用いることで、「自殺者は男性の方が多いが、自殺未遂者は女性の方が多い」というよく知られた現象を説明することができそうである(自殺願望は女性の方が多く抱いているかもしれないが、自殺潜在能力を身に付けている人が男性の方が多いのであろう)。

 また、『経済政策で人は死ぬか?:公衆衛生学から見た不況対策』では「不況であるからといってただちに自殺者が増えるわけではないが、失業状態が長引くことは、人々を自殺に追い込む」ということが論じられていた。そして、失業状態が「負担感の知覚」と「所属感の減弱」を人々に引き起こすことは疑いないように思える。コロナ禍が始まった当初には日本では自殺者が減少していて、「自粛要請やリモートワークによって労働負荷が減少して、人々が生きやすくなったからだ」という議論がなされていたものだが、けっきょく、2020年の自殺者は男女ともに増えることとなってしまった*2。失業者が増えたことはもちろん、自粛に伴う社交の減少が人々に「所属感の減弱」を引き起こしていることは疑いの余地はないだろう(もちろん、だからといって、「自粛をするな」と言いたいわけではない)。

 過去の記事でも強調したが、「孤独」というものは安易に美化されがちだ。コロナ禍のインターネットにおいても「出勤や飲み会がなくなって、人と会わずに引きこもることが許されるようになって、ラクになって最高だね」みたいなセリフをあまりに安直に吐く人々が散見される。しかし、わたしはーー実のところ、たしかに「ラクになったなあ」と思ってはいるのだがーーそういうセリフはなるべく吐かないようにしている。インターネットにおいても主流メディアにおいても、「孤独」はたやすく美化されて、そのリスクが見逃される傾向があるからだ。

 

 また、第六章における以下の箇所も印象に残った。

 

……本書を通じての私たちの立場は、少なくとも可能な限り、すべての自殺は予防されるべきであるということを前提としている。しかしこの立場は普遍的なものではなく、より自由放任主義的な見方(生死の決断は個人に任されているという見方)をする者もいる。

……(中略)自殺の対人関係理論は、負担感の知覚(死のほうが生よりも価値があると考えること)を経験することが大きく誤った見方から発生しており、私たちは自殺死する人が正しい情報に基づいた合理的な決断を下してそれを行なっているとは考えられないと仮定している。また私たちは自殺の観念から直接影響される人だけでなく、その愛する人にまで多大な苦しみを生み出すのを予防することの価値を強く信じている。

(p.214-215)

 

「自殺を企図する人は合理的な判断を下していない≒自殺を企図する人は認知が歪んでいる」という観点は示唆的だ。たとえば、わたしが反出生主義は理論的には認めておきながらも反出生主義を唱えている人のだいたいが苦手であるのは、Twitterなどで反出生主義を繰り返し唱えている人のだいたいは明らかに鬱状態であったりして「認知の歪み」を抱えているように見えるからである。というか、わたし自身、鬱状態に近づいていたときには反出生主義にいまよりもシンパシーを感じていた。

 しかし、そもそも、学問という営みには、査読や討論や指導によって「認知の歪み」を修正することで、客観的で合理的な考え方にたどりつく、という側面がある*3。だからこそ、病んでいる状態の人たちから発せられる考え方には、それが表面的には論理的に聞こえるとしても、(いまの時点では精神が比較的健康であるわたしは)あまり価値を見出すことができないのだ。学問的な査定を通り抜けたうえで反出生主義について書かれた論文などは興味深く読むことはできるだろうけれど。

 

 また、自殺は、自殺する本人に対する影響だけでなく周りの人に対する影響という観点からも行わなければならない、というのは当たり前のことかもしれないが、ともすると忘れがちな点でもある。

 

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「自殺」に関する思想史について書かれた上記の本でも、自殺を否定するうえで「他人に対する影響」が強調されていた。しかし、自殺の対人関係理論にも届くと、自殺願望を抱いている人は「負担感の知覚」を抱いてしまい「自分が死んだほうが周りの人にとってもマシになる」と(誤って)認識しているからこそ自殺を企図するのであろう。だから、「他人に対する影響」を強調したロジックが本人に対して説得力を発揮することは難しいであろう。

 この本では、よりプラグマティックに、「負担感の知覚」や「所属感の減弱」に対処する方法が記されている。

 

 

 

「ラディカル」な議論が左翼やフェミにウケる理由(読書メモ:『荷を引く獣たち:動物の解放と障害者の解放』)

 

荷を引く獣たち: 動物の解放と障害者の解放

荷を引く獣たち: 動物の解放と障害者の解放

 

 

 版元による紹介はこんな感じ。

 

スナウラ・テイラーは、一人の障害当事者として、障害者運動と動物の権利運動の担い手として、そして一人の芸術家として、読者に問いかける。もし動物と障害者の抑圧がもつれあっているのなら、もし健常者を中心とする制度と人間を中心とする倫理とがつながっているのなら、解放への道のりもまた、交差しているのではないか、と。

 彼女は考えつづける。デモに参加しながら、絵を描きながら、対話しながら、食べながら。いったい何が、動物たちから人間を、障害者ではない人たちから障害者を、区別しているのだろうか、と。

 彼女は考えつづける。身体的・精神的な能力の有無や高低(世界の中でどのように動いたり、動けなかったりするか)を基準にして、私たちは、自分を「人間」として意識し、他なる者を「動物」として値踏みしてしまっているのではないか、と。「人間」としての自分という自負を保つために、私たちは、「動物」との違いを際立たせることに、どれほど血道をあげているのだろうか、と。

 この『荷を引く獣たち』には、「障害」と「動物」という、これまで対立すると見なされてきた問題が、実際には深く結びついているということが、テイラー自身の体験にもとづいて、丁寧に書かれている。
 そのうえで彼女は、もっと風通しのよい、ゆたかな経験と共感にくつろぐ未来を、読者に語りかける。目前の世界の姿を、荷車や車椅子の輪のように、ぐるりと回転させ、しなやかに変えてみせるのである。おおらかに、エレガントに。

  壊れやすく、依存的なわたしたち動物は、ぎこちなく、不完全に、互いに互いの世話をみる。本書は、そのような未来への招待状である。

 

  関節拘縮症を持って生まれてきたために車椅子に乗って生活する著者の個人的な体験やそこから発展した思いや考えについて書かれたエッセイ的な要素と、現代社会において動物や障害者を取り巻く問題について論じる政治的な要素、そしてピーター・シンガー功利主義に基づく理論を否定して代わりにフェミニズムや障害学の要素を取り入れた倫理学である「ケアの倫理」を主張するという倫理学的な要素、それぞれが入り混じっている本である。

 

『荷を引く獣たち』を書評している人の顔ぶれを見てみると、どうやらこの本は左翼の人やフェミニストの人にとってかなりウケが良いようだ。この本では「すべての差別問題はつながっており、原因は一緒である」というインターセクショナリティ(交差性)理論が用いられていること、そして功利主義や権利論のような既存の倫理を否定する代わりに「依存」や「感情」を重視するケアの倫理学フェミニズム倫理学を主張していること、などがウケの良さの主な理由だろう。ただ単に動物の問題についてだけ語っている本であったなら注目されていなかったかもしれないが、良識のある人なら否定することができない障害者の権利の問題とか、最近になってとりわけ注目度が高くなっているフェミニズムの問題とか、あるいは昔からおきまりの西洋中心主義批判や資本主義批判なんかに接続することで、「動物の問題は、わたしたちが取り上げるべき重大な問題であるんだ」と左翼やフェミニストの人たちを説得することができる、ということである。

 裏を返せば、左翼やフェミニストの人たちは、フェミニズムや資本主義批判などの「自分たちが関心を抱いている問題」や「重大な問題であるとすでに仲間内で認定されていてるので、取り上げても恥ずかしくない問題」に接続されない限りは、動物の問題をはじめとする新たな問題に注目することができない、ということだ。動物倫理の本が数多も出版されているなかで、理論的な精緻さとか問題分析の正確さなどの点で『荷を引く獣たち』に取り分け優れているところがあるとは思えないが、そもそも読者の大半は「理論的に妥当であるか」とか「問題が鮮やかに分析されているか」とかいったことには興味はないのだろう。それよりも、すでに自分たちの側で設定している問題認識や自分たちのなかで築かれている価値体系に抵触する内容でないことや、自分たちが使っているような言葉を用いながら議論が展開されている、ということの方が重要であるみたいだ。

 

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『荷を引く獣たち』を読んでいたわたしが思い出したのは『ブルシット・ジョブ』だ。どちらの本でも、扱われている問題(動物の問題/労働疎外の問題)はわたしが大いに関心を抱いていることである。しかし、どちらの本を読んでいても、それらの問題について新しい理解が得られたという感覚はついぞ抱けなかった。

 批判対象となるナントカ主義(人間中心主義や健常者中心主義/新自由主義)を藁人形として設定したうえで、それを叩きつつ、議論している問題(労働の問題/動物の問題とか障害者の問題)とは別の問題(貧困、性差別、西洋中心主義、植民地主義...)についても八方美人的にあちこちで言及される。だが、問題が起こる理由についての合理的で客観的な分析や、その問題に対処するための現実的で持続的な解決策についての議論がなされることはない。これらの本で読者に提供されているのは、物事についての正確な知識や理解ではなく、アジテーションであるからだ。

 そして、『ブルシット・ジョブ』の書評を書いたときにも触れたが、どうやら多くの読者はアジテーション的な文章に触れることに楽しみや快感を見出しているようである。本を読んだところで現実の問題がなにか解決するということではないのだが、既存の制度や価値観を徹底的に否定して代わりとなる「ラディカル」な価値観や社会設計を述べ立てる本を読んでいるその間だけは、解放感を抱くことができるらしいのだ。逆に言うと「ねえねえ、その問題ってほんとうに人間中心主義が原因なの?」「当たり前のように健常者中心主義が問題を引き起こしているという前提で議論がすすんでいるけど、他の可能性については検討しないの?」などといちいち引っかかりながら読んでしまうような読者は、最初から対象とされていないのである。

 

 この本で展開されているような「インターセクショナリティ(交差性)理論」の問題点については、以下の記事で指摘している。

 

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 インターセクショナリティは「あらゆる問題は交差している」と主張する。だが、『荷を引く獣たち』を読んでいて気が付かされたのは、大半の場合においてインターセクショナリティは「類似」を「交差」と取り違えている、ということだ。たしかに、動物に対する差別と、障害者に対する差別や女性に対する差別には、似ているところがあるかもしれない。しかし、似ているからといって、それが本質的につながっていたり原因を同じくしたりしているとは限らないはずであるのだ。

 

 そして、この本の終盤で展開されている、動物の問題に「ケアの倫理」を持ち込む議論については、以下の記事で批判している。実を言うと、わたしが修士論文であつかったテーマが、まさに、動物の問題に関する「ケアの倫理」の議論であったのである。そんなわたしだからこそ自信を持って言えるのだが、すくなくとも動物の問題については、他の規範倫理理論を差し置いて「ケアの倫理」を主張することはまったく得策ではない。

 

 

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「ケアの倫理」に利点があるとすれば、「耳心地の良さ」であるだろう。ケアの倫理を用いれば、理性中心主義とか男性中心主義とかのいかにも"悪そう"な主義を批判して否定する(最近のケア倫理では、そこに新自由主義批判を加えることがトレンドとなっている)。その代わりに提唱される「ケア」は、いかにも優しそうで、深そうだ。さらに言うと、ケアの倫理は最近流行りのフェミニズムと関係が深い。だから、ケアの倫理を主張することでフェミニストや左翼の仲間からの評判が悪くなることは、まずない。「ケア」の意義や必要性について論じることで批判をされて損をしたりすることもないのだから、とりあえず言っておけば得をすることができるのだ(グレーバーが『ブルシット・ジョブ』のなかで「ケア」について触れていた理由も、大方そんなものだろう)。

 

 問題なのは、特に動物実験や工場畜産などの多数の存在が関わっている社会制度を考える際には「ケア」は具体的な指針をまったく提供してくれないことである。また、「ケア」は、トレードオフや利害調整などが関わり、優先順位を設けなければならない問題に対応することについても、全く無力だ……そして、倫理的な問題の大半においては、その問題が深刻になればなるほど、トレードオフや優先順位について考える必要性が増すものである。

 ケアの倫理では、「ケア」の対象にすべき弱者やマイノリティの利害が重大なものであるとされる一方で、ケアの対象となる強者やマジョリティの利害は重要性に乏しいものであると、論点先取的に設定される。だからトレードオフや利害調整などについては「考えなくていい」ものとされるのだ。

 

(2020/11/30:追記)

 ただし、『荷を引く獣たち』について書かれている内容のすべてがダメだというわけではない。たとえば、著者がピーター・シンガー本人と対話している箇所はなかなか興味深かった。シンガー思想そのものについては批判的であっても、シンガーの人格を悪人として糾弾しているわけではないところは好感が抱ける。

 また、著者本人の経験に基づきながら、「障害者としての生の豊かさ」を説き、「障害の社会モデル」的な観点からシンガーを批判する議論については、ある程度までは妥当であり説得力もあるように思えた。とはいえ、これは障害学にありがちな問題であるのだが、「自分の生は豊かである」と思えるレベルの障害を持っている人が、より深刻で苦痛の多い生涯を強制される障害を持った人のことまでをも勝手に代表している、という感は否めない。また、「適応的選好」の問題は常に残り続ける。

 ……それでも、やはり、シンガーの主張に対する障害学的な観点からの批判はなされ続けるべきであるだろう。著者は比較的フェアにその批判を行なっているのでそこが良かった。

 

 問題なのは、むしろ、ゲイリー・フランシオンによる廃止論を批判している箇所だ。畜産に関するフランシオンの主張とは、「家畜は脆弱で依存的な生を強調されるから、存在するだけでリスクにさらされている。だから、究極的には家畜は存在するべきでない」というものだ(「彼らが望んでいるのは『今より大きな檻』ではなく『空っぽの檻』である」というスローガンに象徴される)。

 これに対して、「依存」を肯定するケア倫理を重視する著者は、フランシオンの主張は「自律」を信奉する健常者中心主義に基づいていると批判する。……しかし、3.11の福島に取り残された家畜たち、災害が起こったりウイルス騒ぎが起こったりするたびに万単位で大量に処分される家畜のことたちを考えると、「依存」状態でしか生きられないということが家畜たち本人にもたらすリスクは、どう考えても無視できない。それを、「依存を否定するのは自立を重視する健常者中心主義だ」と否定するのは、はっきり言って無茶苦茶だ。

 同様の主張は著者だけでなくドナルドソンとキムリッカも行なっていたが、現実に起こってきた悲惨や起こり得る可能性の高い悲惨から目を背けて「動物たちの豊かな生」や「多様な在り方」などの綺麗事を語るのは欺瞞であるとしか思えない。

 ドナルドソンとキムリッカは『人と動物の政治共同体』の冒頭で「これまでの動物倫理はあまりに否定的で消極的であったから、積極的で肯定的な動物倫理を打ち立てよう」として、シンガーのような功利主義によるものにせよフランシオンのような権利主義によるものにせよ「解放論」を否定して、動物に危害を与えない方法で動物の利用を持続することを模索していた。しかし、動物の利用に伴うリスクについて真剣に考慮したら、否定的で消極的な答えしか導かれないものであるかもしれないのだ。肯定的で積極的な答えの方がより多くの読者の関心を惹けたり批判を回避したりすることはできるかもしれないが、それよりも、正しい答えを求めることの方が重要であるはずだ。

 

 さらに言うと、肉を摂取することに関する生物学的必要性や欲求に関する議論をすべて「自然を装って問題を脱政治化しようとしている」というところもダメダメ。

 ここは、労働に関する問題の経済学的な分析をほとんど拒否して、すべてを政治的な観点から論じようとする『ブルシット・ジョブ』の悪癖とも共通している。

 生物学にせよ経済学にせよ「都合の悪い真実」を指摘する理論を拒否して、問題をなんでもかんでも「政治化」してしまい、「いま覇権を占めている悪い考え方や権力を握っている悪いやつらをやっつければ問題は解決する」という偽りの希望ばかりを論じるからこそ、議論ではなくアジテーションしかできない本になってしまうのだ。

(追記終わり)

 

 けっきょく、客観性や具体性に乏しい代わりに耳心地だけはいい「ラディカル」な議論でないと、左翼やフェミニストの大半は読んだり聞いたりしてくれない。問題が生じるメカニズムについての地道な分析や、漸進的な解決策についての検討を行う本は、地味でまだるっこしく思われてしまうのだろう。

 

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 あるいは、「新自由主義批判」的な本に対してジョセフ・ヒースが行ったような以下の指摘を、『荷を引く獣たち』に向けることもできるだろう。

 

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たとえば,ずいぶん前から,批判的研究で「ネオリベラル」という言葉が最重要語として機能しているのは気づいていた.事情を知らない人に説明しよう.「ネオリベラリズム」の基本的な問題はこういうことだ.この言葉はでっちあげだ.フーコーによって人口に膾炙するようになった単語で,実はフーコー当人も理解してなかった経済的なあれこれの考えについて語るのに使われているにすぎない.じぶんから「はい自分がネオリベラルです」と称している人たちなんて,どこにもいない.そのため,それが指す事柄にはなんの制約もかかっていないし,「ネオリベラリズム」について主張される批判に応えるべき人間もいない.「ネオリベラル」を,他の「保守」「リバタリアン」といった言葉と比べてみるといい.「リバタリアン」を自称する人たちは実在するから,もしもリバタリアニズムを批判する文章を書けば,現実のリバタリアンが「おまえの言い分はおかしい」と言って反論を書いてよこすかもしれない.一方,「ネオリベラリズム」の場合には,なんでも好き放題に言える.なにを言っても,生身のネオリベラルが「お前の言い分はおかしい」と反論を書いてよこす心配はない――そんな人がどこにもいないからだ.その結果,著作でこの言葉を使う人たちはようするにこうあけすけに宣言しているにひとしくなっている.「私が意図している読者層は,同じ左派のエコーチャンバーですよ.」 エコーチャンバー外の人たちとやりとりしようとのぞんでいるなら,エコーチャンバー外にいる人たちがみずから自覚して実際に掲げているイデオロギーをとりあげないといけないだろう.(この点で,ネオリベラリズムを批判する人たちは大学業界の臆病ライオンだ.そんないわれはないと思うなら,実際の右派を見つけて議論してみてはいかが?)

ただ,ネオリベラルを自認する人がどこにもいないおかげで叶ってしまった望みが1つある.「ネオリベラル」という言葉を使うと,その文章を届ける相手がせばめられて,根っこの規範的な判断を共有している人たちに限定される.すると,この大学教員たちは「ネオリベラリズムはわるいもの」という信念にみんながすっかり賛同している気分になれる.

 

 

 上記の指摘は、「ネオリベラリズム」を「人間中心主義」や「理性中心主義」や「健常者中心主義」に置き換えれば『荷を引く獣たち』にも当てはまる。というか、左翼やフェミニストが好むような「ラディカル」な議論の大半に、この指摘は当てはあまっているのだ。

 わたしが抱く最大の疑問は「いつもいつもこんな中身のないアジテーションを読んで面白いと思い続けられるの?飽きたりしないの?」ということだ。でも、たぶん、彼女らは飽きることなくアジテーションを書いたり読んだりしつづけられるんだろう。読書や学問に求めるものがまったく一致していなくて、価値観が根本的に違うんだと思う。

 

 

読書メモ:『モラル・トライブズ:共存の道徳哲学へ』

 

 きのうからはじまった某所での連載の次々回くらいの原稿の元ネタとして『モラル・トライブズ:共存の道徳哲学へ』を借りて読み直しているうちに、図書館からお怒りの電話が来てしまった。

 しかし『モラル・トライブズ』は細部まで刺激と啓発に満ちたおもしろい本であるので、原稿に使わないであろう部分についても、こちらにてメモ的に記録・紹介しておこう。

 

…生物学的適応である以上、道徳は《私たち》を《私》より優先させる装置としてだけでなく、《私たち》を《彼ら》より優先させる装置として進化した。

…(中略)…奇妙に思える第二の点は、道徳が《彼ら》を打ち負かすための装置であることだ。まるで道徳が「無道徳」か「不道徳」でさえあるように思える。しかし、どうしてこんなことがありうるのか?

(p.32-33)

 

『モラル・トライブズ』では、全編にわたっていわゆる「進化論的暴露論法」が行われている。一見すると正しく素晴らしいと思える「道徳」的な感情や考えが、それが出来上がった過程をつぶさに見てみると道徳的でもなんでもなかった、というのは進化論的暴露論法の考え方のコアとなる部分だろう。

 

人種的偏見が強く、また広く見られることから、人種差別は私たちにもとから「組み込まれている」と思われるかもしれない。しかし考えてみれば、これは筋の通らない話である。狩猟採集民族だった私たちの祖先の世界では、異なる人種の成員として分類される人々に遭遇する機会はほとんどなかった。むしろ、丘の反対側に住む《彼ら》は、《私たち》と身体的にほとんど見分けがつかない場合が多かっただろう。このことから、人種は生得的な引き金などではなく、集団の一員である目印としてこんにちたまたま利用されているに過ぎないとわかる。

…(中略)…同じ論理は男性と女性を区別する性別にはあてはまらない。狩猟採集民族であった私たちの祖先は日常的に男性と女性に遭遇していた。さらに、男性と女性は生物学的に重要な点で異なっている。これは性別に基づく分類が、人種と基づく分類と比べて変えにくいはずであることを示唆する。

(p.69-70)

 

 上記については、進化心理学のファンとかアンチ・ポリコレな人も失念しがちであるように思われる。

 

たとえばあなたが、住民が気候変動に懐疑的で、おまけに気候変動に懐疑的でない人に対しても懐疑的な共同体で生活しているとしよう。気候変動を信じるのと懐疑的であるのと、どちらが楽だろうか?ひとりの一般市民として、あなたが気候変動について考えていることが、地球の気候に影響を及ぼすことはまずないだろう。しかし、気候変動に関するあなたの考えは、周囲の人との付き合いにかなり影響しそうだ。

…(中略)…だから、多くの人が気候変動に懐疑的なのは、地球の物理的環境ではなく、自分の社会的環境に対処しようとしているのだと考えれば、完璧に筋が通る…

(p.120)

 

 この現象はたとえばビーガンの生きづらさと関わってくるだろう。また、アカデミアにおいて特定の誤っていたり極端であったりする理論や主張が異様に支持を集めてしまい自浄作用が起きないという現象も、学問のパラダイムなり大学という業界に存在する深い欠陥の産物というよりかは、学者や院生として生きるうえでの「社会的環境」や人間関係に対応するため、ということで説明できるような気がする。アメリ言語学会で起きたスティーブン・ピンカーに対する除名請求なんかはまさにそうだろうし。

 

幸福を測定するのは簡単だ。難しいのは、望ましい正確さで測定することだ。 幸福を少しの誤差もない正確さで測定することはできない。そのため、実際に何かしようとするとおそろしくたくさんの困難が生じるわけだが、できないからといって深刻な哲学上の問題が生じるわけではない。

(p.215)

 

『モラル・トライブズ』では、功利主義は非の打ち所のない完璧な哲学的理論としてではなく、実際に世界で起こっている問題について考えて解決するための「深遠な実用主義」として扱われている。なので、倫理学の議論においては功利主義に対する致命的な弱点と見なされていること…幸福を正確に測ることはできないこととか、功利主義では奴隷制を原理的に否定することはできないこととか、ノージックの「経験機械」の思考実験とかパーフィットの「いとわしい結論」とか…は、「実際の問題について功利主義を使って考えるときにはそんなことが問題になるわけないんだからいいじゃん」といった感じの扱いを受けているのだ。この点が、この本を凡百の哲学本よりもずっと面白くて有意義なものにしている秘訣だろう。

 

を評価するにあたり、行為と不作為の区別、手段と副次的影響の区別、そして人身的な力と人身的でない力の区別を重くみることには意味がある。それは、これらの区別が深遠な道徳的真理を反映するからではなく、こうした区別を無視する人たちが道徳的に異常で、そのため問題を起こす可能性がきわめて高いからだ。

(p.331)

 

 広くいえば、自称"合理主義者"や自称"理系な人に対しても当てはまることだろう。 

 

…「権利」に訴えることは知的フリーパスとして、すなわち証拠を無効にする切り札として機能する。あなたたちは常に自分の感情に対応する権利の存在を想定できる。中絶が間違っていると感じるなら「生きる権利」を語ることができる。 中絶の非合法化が間違っていると感じるなら「選択する権利」を語ることができる。イラン人なら「核を保有する権利」を、イスラエル人なら「自衛する権利」を語れる。「権利」はまったくすばらしい。余計なことをしなくても、私たちの直感を合理化できる。

(p.403)

 

こんにち、私たちは、いや私たちの一部は、同性愛者や女性の権利を確信を持って擁護する。しかし、私たちが感情をこめてこうしたことが行えるようになる前に、私たちの感情が「権利」のように感じられるようになる前に、誰かがこれを思考で行わなくてはならなかった。

 

 功利主義による「権利」批判については、原稿の方で本格的に紹介するつもりだ。しかし、「常に自分の感情に対応する権利の存在を想定できる」とはなかなか本質的である。『モラル・トライブズ』を読むたびに、「せめて自分だけは、できるだけ"権利"という言葉を避けながら、難しい問題について考えたり語れたりできるようになろう」と身が引き締まる思いになる。

 

 なお、『モラル・トライブズ』の著者ジョシュア・グリーンに関しては、インタビュー記事を過去にふたつ訳して紹介している。

 

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