道徳的動物日記

倫理学、社会科学、時事問題、世相などについて論じます。

読書メモ:『ジェンダーの終わり:性とアイデンティティに関する迷信を暴く』(1)

 

 

 裏表紙の賞賛コメントには『人間の本性を考える: 心は「空白の石版」か』の著者でもあるスティーブン・ピンカーや『共感する女脳、システム化する男脳』の著者であるサイモン・バロン・コーエンの名前があるところから、「男女の生物学的な性差に関する本かな」と思って購入してもらったのだが、実際にはトランスジェンダーやノンバイナリー(Xジェンダー)に関する議論が中心の本だった。

 また、内容としては明らかに「保守」寄りのものである(そのためか、ヘザー・マクドナルドやベン・シャピロなどの保守論客も裏表紙に名を連ねている)。そして、この本は2020年の8月に発売されたものであるが、 Amazonには400近くのレビューが付いており(ほとんど五つ星だ)、かなり話題になった本であることがうかがえる。

 トランスジェンダーやノンバイナリーに関する議論はこの1〜2年で日本でもにわかに目立つようになった印象があるが、欧米においてもかなりホットなトピックとなっているようだ。

 

 この本の著者であるデブラ・スー(Debra Soh)はカナダ人であり、性科学や神経科学の研究を行ってきた経験がある。しかし、現在の彼女は研究者ではなくジャーナリストとなっている。

 この本の序文で語られている、著者がジャーナリズムの道を選んだ理由を簡単にまとめると、以下のようになるだろう:性やジェンダーに関する問題について科学に基づいた正確な知識を発表したり広めたりしようとすると、活動家から非難や攻撃を受けてしまい、キャリアにも傷が付く。そのため、性科学を研究している人たちであっても、自分たちの知っている事実について口を噤んでしまうことになり、活動家側による科学的な根拠のない意見ばかりが喧伝されてしまう状況となってしまっている。その状況は、実害を生じさせてもいる。そのような状況を打破するため、自分はジャーナリストとなって事実を広く知らしめることを選んだのだ。

 ……ということで、この本は全体的に「理性的で事実を重んじる科学者の意見」と「非理性的でイデオロギーを優先する活動家の意見」とが対比される、という構図になっているフシがある。一般論を言わせてもらうと、本の著者がこういう構図を作るときには、読者は意見や感情を著者に誘導されないように警戒をした方がいいものだ。

 その一方で、アリス・ドレガー(Alice Dreger)が『ガリレオの中指』で取り上げていたマイケル・ベイリー(Michael Bailey)に対するバッシング事件のように、性的自認や性的嗜好に関する科学的研究を行っている研究者がリスキーな立場にいるということは、事実の一面ではあるだろう*1

 

著者は、性に関する社会構築主義的な議論を強く否定する。

性別とジェンダーに関する著者の定義は、以下のようなものだ。

 

生物学的な性別(biological sex)は、男性か女性かのどちらかである。一般的な通念とは異なり、性別は染色体や生殖器やホルモン像(hormonal profile)ではなく、配偶子によって定義される。男性から生産される小さな配偶子は精子と呼ばれ、女性から生産される大きな配偶子は卵子と呼ばれる。卵子精子のあいだに中間的なタイプの配偶子が存在するわけではない。そのため、性別は二元的(binary)だ。性別は連続的なものではないのである。

ジェンダーアイデンティティとは、自分の性別について抱く感覚であり、自分のことを男性であると感じるか女性であると感じるか、ということである。ジェンダー表現(gender expression)とは、自分のジェンダーアイデンティティについて他の人に言明することや、服装・髪型の選択に話し方や身振りといった外見を通じて自分のジェンダーを表現すること、などである。

性別と同じように、ジェンダーも、……アイデンティティと表現の両方において……生物学的なものである。ジェンダーは社会的に構築されたものではなく、解剖学的構造や性的指向から分け隔てられるものでもない。最近の学者たちによってあなたが信じ込まされているかもしれないことにも関わらず、これらの要素はしっかり関係しているのだ。社会ではなく生物学的な要素が、ある人のジェンダーが典型的なものであるか非典型的なものであるか、自分に生まれつき備わった性別についてどれだけ一致感を抱けるか、どんな相手にパートナー候補としての性的な魅力を感じられるか、などを決定しているのだ。

(p.17)

 

  そして、著者によるトランスジェンダーの定義は、以下のようなものだ。

 

 

……(前略)……この本のなかでわたしがトランスジェンダー・コミュニティについて言及するときには、ジェンダーに関する違和感(dysphoria)を抱いており(生まれ持った性別よりも逆の性別に対してより強く一致感を抱いていること)、社会的なものにせよ医学的なものにせよ逆の性別に移行するための手続きを行っている人々のことを指す。

(p.79 - 80)

 

 

 著者は、トランスジェンダーの人々が存在するという事実自体は、科学的にも確かであると認めている。

 この本のなかで著者が特に強く批判しているのは、トランス「活動家」であったり、トランスジェンダー運動の「行き過ぎ」であったりする。

 この本で「迷信」とされている考えのひとつは、「ジェンダー違和感を抱いている子どもは性移行を行うべきである」というものだ。

 性移行は、手術を行わない社会的なものであっても、いちど移行してしまうと、元に戻ろうとしたときに精神面や対人関係の面において多大な負担がかかるのであり、安直に行うべきではない。特に子どもが若ければ若いほど、本人がほんとうに「ジェンダー違和感」を抱いているかどうかは不確かになるのだから、子どもが意思を確定して表明できる年齢になるまでは、性移行は控えるべきだ。

 ……しかし、活動家たちによって「性別の多様性」や「ジェンダー不定性」が誇張して喧伝されていることから、親たちは「子どもが性的違和感を口にしたら、移行をさせなければいけないかもしれない」という罪悪感を抱くようになっている。「トランスジェンダーの自殺率の高さ」などのショッキングな情報によって親たちの不安が煽られていることや、性移行を検討しない親は「差別的」であるとして活動家たちから非難されることも親を怯えさせて、子どもの性移行が安直に行われる原因となっている、と著者は主張するのだ。

 

 また、著者は「女性として生まれた女性とトランス女性の間に違いは存在しない」という考えも「迷信」として批判している。

 たとえば最近に日本でもすこし話題になった、女性スポーツ競技へのトランス女性の参加については、生物学的女性にとって不公平な施策であると批判されている*2*3。女性用のトイレをトランス女性が利用することや、女性・男性用ではなくジェンダーニュートラルなトイレを普及させることは女性に危害をもたらして、実際の性犯罪にもつながっている、とも論じられている。

 著者が特に問題視しているのは、個々の施策そのものというよりも、トランス女性と生物学的女性の利害が対立する可能性のある施策について、議論することすらできない状況になっていることだ。「トランス女性のことを考慮した施策は、女性に対して不公平なものとなっていないか」いう疑問を呈するだけでもヘイトスピーチと認定されて「TERF」とのレッテルが貼られてしまう状況になっている、と著者は批判するのである。

 

(この段落は著者じゃなくてわたしの私見

 

 ……このあたりの問題意識は、日本のTwitterにおける生物学的女性(及び生物学的女性を支持する男性フェミニスト)とトランス女性(及びトランス女性を支持する両性のフェミニスト)との間での論争を見ていても、「わからなくはない」という感じである。ただし、生物学的女性の側もトランス女性の側に対して「名誉男性」などのレッテルを貼ったり誹謗中傷を行ったりしている、ということには留意するべきだ。

 日本のTwitterを眺めていると、トランス女性の側は生物学的女性の「シス特権」をあげつらい、生物学的女性の側はトランス女性の「トランス特権」をあげつらうことで、不毛な非難の応酬となっている様子がうかがえる。

 この状況については、「特権」概念は他者を非難する武器として使うだけなら便利で強力なものであるが、妥協点を発見したり利害を調整したりする必要がある場合には逆効果しかもたらさないものである、ということが影響しているだろう。「特権」概念にかかると、「ある属性が経験している困難や感じている苦痛を経験したり感じたりせずに済む属性は、特権を持った存在である」とされる*4。特権を指摘された人は、本人がどう振る舞っていて他人に対してどう接しているかに関わらず、反省すべき加害者側であり、弱者である属性に対して譲歩を行なうべき存在であるとされてしまうのだ。特権を指摘された人のなかでも真面目であったり気が弱かったりする人は罪悪感を抱いて、実際に反省や譲歩を行うかもしれないが、大半の人はムッとなってしまい、相手の側に対する反感をむしろ強めてしまうものだ。そうなると妥協や合意は遠ざかってしまう。「白人特権」や「男性特権」といった言説ですら逆効果をもたらしてきたものだが、人種の問題や男女の問題と比べても生物学的女性とトランス女性との間における問題では被害や不利益の状況が複雑に入り組んでいるからこそ、特権概念の悪影響はさらに強くなるのだろう。

 

ジェンダーの終わり』では、トランスジェンダー運動よりもノンバイナリー運動の方が、さらに強く批判されている。

 先述したように、トランスジェンダーの人々が存在すること自体については、事実であると著者も認めている。一方で、ノンバイナリー(Xジェンダー)には科学的な根拠が存在しない、と著者は主張するのだ。

 著者によると、性別とジェンダーは、あくまでバイナリー(二元的)なものである。トランスジェンダージェンダーアイデンティティが生物学的な性別とは逆になっているということであるし、「女性的なゲイ」や「男性的なレズビアン」もジェンダー表現や性的指向が性別とは逆になっているということであるが、「逆」であるということは二元論のフレームに収まっているということなのだ。

 そして、近年のノンバイナリー運動では、ドラァグや異性装者などのように「ジェンダーアイデンティティは性別と一致しているが、ジェンダー表現は性別と逆になっている人」までもが「ジェンダーアイデンティティが他と異なっている人」という括りに入れられている。また、同性愛者の定義がジェンダー表現によって細分化されたりすることで、アイデンティティのカテゴリがどんどん増大している。それによって、性別やジェンダーアイデンティティが二元論的でなく連続的なものであるかのように粉飾されている、と著者は主張するのだ。そして、トランスジェンダーの定義も拡大されており、「自称トランス」は近年になってどんどん増えている、と著者は論じる。

 著者によると、定義上は同性愛者である人が「自分はトランスジェンダーである」と主張したがったり、特に近年の若者が「自分は男性にも女性にも当てはまらない」「自分は第三のジェンダーである」という主張をしたがる背景には、アイデンティティ・ポリティクスやインターセクショナリティなどの左派的なトレンドが関連している。近年ではシスヘテロ男性のみならずシスヘテロ女性や同性愛者すらもマジョリティ側に認定される可能性があるため、より珍しくより"マイノリティ"なアイデンティティを主張することが、自分の個性をお手軽に表現する方法になっているだけでなく、誰からも批判されない居心地の良いコミュニティに属するための方策になっている、ということだ。

 そして、ジェンダーに関する議論や学問では生物学的・科学的事実が無視されており、事実と主観との間の境目を無視してしまう社会構築主義が跋扈していることもノンバイナリー運動が隆盛する原因となっている、と著者は論じるのである。

 

 ……この議論に関しては、わたしも、「まあそういう側面はあるだろうな」とは思う。ノンバイナリーやクィアが「トレンディ」なものになっているという風潮は、たしかにあるだろう。……一方で、性別やジェンダーについて著者が与える二元論的な定義がすべての場面において有用であるかどうかはわからない。ちょっと定義として狭すぎたり、捉えるべきところを捉えきれていないのではないかとも思える。

 また、二元論に当てはまるか当てはまらないかに限らず、自分のジェンダーアイデンティティについて悩んでいる人が多くいることも事実であるはずだ。著者による批判はそういう人たちにも飛び火してしまって、無用な加害を生じさせるおそれがあるとは思う。同じく、上述してきたようなトランス「活動家」に対する批判も、そうではないトランスジェンダーの人々に飛び火して加害となる可能性は大いにあるだろう。

 ……とはいえ、ノンバイナリー運動に対して違和感を抱いている人は多くいるだろうし、その運動に不自然なところがあったり科学的な事実と反しているところがあるとすれば、誰かがどこかで批判をしなければならないことでもあるとも思う。

 

*1:ガリレオの中指』に関して紹介している記事はこちら。

davitrice.hatenadiary.jpまた、以下のブログでもマイケル・ベイリーに関する記事が訳されている。

annojo.hatenablog.com

*2:

togetter.com

*3:ただし、著者も、「トランス女性であるスポーツ選手の大半について、彼女たちが不当な利益を得ることを目的として性移行したとは、わたしは考えない」(p.215)としている。著者が批判している対象はあくまでトランス「活動家」であり、トランスの人々一般については共感的・同情的な筆致も節々にある。

*4:

davitrice.hatenadiary.jp

読書メモ:『恋人選びの心:性淘汰と人間性の進化』

 

恋人選びの心―性淘汰と人間性の進化 (1)

恋人選びの心―性淘汰と人間性の進化 (1)

 

 

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

『Virtue Signaling』の書評で書いたようにわたしはジェフリー・ミラーは文筆家としてはあまり好ましく思っていないところがある。『恋人選びの心』も、「人間に特有の知性や言葉や芸術性やユーモアはすべて性淘汰の産物として進化してきた」という理論でなんでもかんでもされており、「牽強付会」という感が付きまとう。

 とはいえ、ミラーが提示しているのあくまで仮説であり「この仮説を使えばあんなこともこんなことも説明できますよ」というデモンストレーションとして、批判は承知のうえで、あえていろんな物事について「性淘汰とシグナリング」の理論を当てはめて説明しているのかもしれない。

 

 この本の1〜3章では、ダーウィンによる性淘汰の発見にまで遡りながら、ダーウィン以後の進化理論では自然淘汰ばかりが強調されて性淘汰が無視されてきた、という歴史が振り返られる。また、性淘汰やシグナリング理論、ランナウェイ進化などの考え方が解説される。

 そして、本番となる4章以降では、人間のさまざまな特徴が「性淘汰」によって解説されることになるのだ。

 

 面白いと思ったところをいくつか紹介しよう。 

 

性淘汰は、性的不誠実に対して二段階の防衛を用意している。一つは大恋愛であり、もう一つは親密な性的コミットメントである。大恋愛は、他の誰でもないたった一人の相手に向かって、すべての求愛努力を強力に向けさせる。少なくとも数週間から数カ月にわたって、これは不誠実を抑制する。大恋愛が性的な魅力であることは言うまでもない。これは、それ以外の点で魅力的でない人物を結婚へとこぎつかせることはできないかもしれないが、他のすべてが同じだとすると、明らかに恋人選びでは評価されている。愛は性淘汰によって進化したが、とりわけ、誠実さの信号として進化したのである。

(p.469)

 

 上記は、「ロマンティック・ラブ」の進化的な説明であると言えるだろう。そして、ロマンティック・ラブを「イデオロギー」として軽率に退けようとする言説や、「恋愛という考え方は西欧由来であり、近代化するまで日本には恋愛というものは存在しなかった」という言説に対するいい反論になると思う。

 わたしが大学の学部生だった頃、「世界中のまったく異なる文化圏におけるフィクションや物語に、なぜ共通点が多く存在するのか」ということが授業で説明されるときには、ジョーゼフ・キャンベル的な「神話学」ばっかり聞かされていた。当時から、わたしにはキャンベルの議論は胡散臭く物足りないものであるように思えていた*1

 また、文学研究者たちが「恋愛は西欧由来」という言説に考え方を縛られてきたとすれば、かなり多くの読み違えが発生してきたということになるはずだ。「ある物語の構造を多くの人が面白いと感じるなら、それはなぜか」「なぜ、ある特定のテーマは人を惹きつけて、それについての物語が多く書かれているのか」ということを論じるうえでは、心理学的・進化的な解釈は欠かせないように思える*2

 

性淘汰がなければ、人間が慈善を行う傾向は、ずっと進化的な謎としてとどまっただろう。

(……中略……)

慈善によって、与え手から受け手に資源がどれほど委譲されるかということに、多くの人々があまり注意を払わないのは不思議なことだ。

(……中略……)

人間の慈善のもう一つの特徴は、寄付者が寄付したことを示す何らかのしるしをもらうことができ、それを公的に表示することができるということだ。

(……中略……)

人間の慈善に関する、これらの奇妙な性質をどのように説明したらよいだろう?これが、血縁淘汰や互恵性から出ているとはとても思えない。また、真の利他性を身につけさせようという社会化の結果とも思えない。そうではなくて、これらの多くは、慈善もまた別の形の無駄に満ちた見せびらかしであることを示している。慈善の本質が、他者に真の利益をもたらすことではなく、寄付者にコストをかけさせることにあるのだとすれば、人々がなぜ慈善事業の効率のよさに注意を払わないのか、金を寄付するべきときにどうして時間を寄付するのか、などといったことが理解できるようになるだろう。慈善への寄付が、信号として有効であることを宣伝しなければならないのであれば、寄付者がどうしてその善意を表示するための小さなバッジをもらうのかも理解できるし、慈善事業が強力なブランド名を作り出すためにこれほどの大金を基金集めに使うのはなぜかなども理解することができるだろう。慈善もまた、それを認識してもらい、記憶に残っていてもらわなければならない信号であるとするならば、なぜ人々が、本当に必要性が高いにもかかわらず地味な団体よりも、有名ですでに巨額の基金を持っている団体に寄付するのかということも理解できる。慈善は求愛誇示であるとすると、慈善が流行のサイクルにのっていることも理解できる。このことは、とくに、若くて独身の寄付者の間で明らかである。私たちのほとんどにとって、慈善は化粧品のようなものだ。

(p.452 - 457)

 

 なぜ大半の人々は「効果的ではない利他主義」を実践してしまうか、ひいては道徳的な性質全般についての、性淘汰に基づいた説明である。

 人々が慈善行為や利他的行為の「効果」を気にしないこと、それよりもそれらの行為を「見せびらかす」ことの方が重要なのだ、という指摘については考える余地もあるかもしれない。……とはいえ、たとえば「効果的な利他主義」について書かれた本を読んでみると、人々が「効果的ではない利他主義」を行ってしまう理由は、性淘汰とは関係のないヒューリスティックスやバイアスによって説明されている*3。性淘汰の理論にかかると、慈善や道徳に限らず、勇気や知性など、わたしたちが「徳」であるとみなして望ましく思っている性質のすべてが、「異性に対するアピール」に還元されてしまう。これは、理論の長所ではなく欠点だと見なされるべきだろう。

 

進化的な視点から言えば、芸術家が直面しているもっとも本質的な挑戦は、適応度の低い競争者には作れないような何かを作ることにより、彼らの適応度を誇示し、それによって自分を社会的にも性的にもより魅力的に見せることである。この挑戦は、視覚芸術だけにとどまらず、音楽、物語、ユーモアその他、本書で論じたさまざまな行動のどれにおいても同じである。適応度指標の原理は、誇示の仕方が異なる領域でも似通っている。だからこそ、美学的な原理の大多数は同じなのである。

(……中略……)

美は真実を伝えている。しかし、それは、私たちが考えるようにではない。審美的重要性は、人間の条件一般についての真実を提供しているのではない。それは、芸術家本人という、特定の人間の条件についての真実を提供しているのだ。芸術の美的な性質は、その芸術家の技巧の表出としておもに意味をなすのであって、啓蒙、宗教的霊感、社会的な批評、精神分析的発露、政治的革命などを伝える媒体としてではない。プラトンヘーゲルは、彼らが哲学なら生み出せると思っていた真実と同じ真実を芸術は提供することができないといって、芸術をおとしめた。彼らは、芸術の意味を誤解したのである。生物学的適応度の誇示として進化した媒体に、抽象的哲学的真実を伝えるようによく適応しろと言っても、それは不公平というものだ。

(p.397-398)

 

 芸術家や小説家はモテるのに学者や批評家はモテない理由、芸術系のサークルが性的に爛れがちな理由の説明になっていると思う。もう少し深く考えれば、大御所の芸術家がハラスメント体質になりがちな理由も説明できるかもしれない。

 また、美的感覚の進化心理学的解釈は、ブルデューのような社会学者や、美学者たちによる芸術論とある面では一致していて、ある面では矛盾しているように思える*4。芸術や美を鑑賞する感覚が進化的に身についたものであれば、「文化資本」とか芸術に関する前知識がなくても、ある作品の芸術的良さが理解できるはずだろう。一方で、"高度な"芸術はあえて進化的な美の感覚からは乖離して作られており、理解するのに知識や前提を要求することで、庶民とエリートを分別する機能を担わされている……という考え方をすることもできるかもしれない。

 

私たちの恋人選びのメカニズムが似たようなものであり続ける限り、先史時代に恋人選びで形成された性質は、今日でも性的に魅力的なはずである。さまざまな文化や歴史時代を通じて、ある身体形質が性的魅力だと見なされていれば、その形質はおそらく人間の進化の過程において、ずっとそう思われてきたのだろう。たとえば、女性の乳房と臀部が性的魅力であることは、異性愛者の男性のすべてにとって主観的には明らかなことであるが、明らかだということは、これらの形質が男性の恋人選びで生じてきたことのよい証拠であろう。世界中で、個体が自分を魅力的に見せようとするときには、同じ身体形質が強調され、個体が性的な注目を受けたくないときには同じ身体形質が隠され、性的な犯罪に対する罰として、同じ身体形質が切断される傾向があるのだ。

(p.320)

 

 上記は、「性」や「好み」に関する社会構築論を真っ向から否定している一節だ。

 

性淘汰の観点からすれば、クリトリスは、時間をかけたエネルギッシュなセックスに必要な肉体的適応度と、女性が何を欲していて、どうすればそれを提供できるのかを理解するのに必要な心的適応度との両方を備えていることを示した男性にのみ反応すべきである。選り好みの激しいクリトリスは、女性が本当に相手の男性のからだと心と性格のすべてに強く惹かれ、その男性が自分の魅力と適応度とを正しい刺激によって示したときのみオルガズムを生み出すべきなのである。

(p.336)

 

 女性は男性の「からだ」だけでなく「心」と「性格」を選り好みしている、という点は要注目だ。

 進化心理学による男女論というと、「女性は肉体的で暴力的な男性にオスとしての魅力を感じる」的な言説がよくなされる。また、たとえば恋愛工学では「男性の稼得能力や社会的地位に、女性は魅力を感じる」ということが強調される。たしかにそういう側面はあるのだろうが、それだけではなく、女性は男性の誠実さとか気遣いとかもちゃんと見ているのだ。

 リチャード・プラムの『美の進化:性選択は人間と動物をどう変えたか』でも、人間やほかの動物が異性のどのようなポイントに対して魅力を感じるかは、性淘汰によって実に多様で幅広くなっている、ということが論じられていた。

 恋愛工学的な男女論は「生存と繁殖」を強調する自然淘汰の観点ばかりを強調するから、皮相で一面的な男女論になってしまうのだろう。この点では、性淘汰の方に分があると言える。

 

 

 

 

ランナウェイ性淘汰は、脳の大きさや知能に直接働いたのではなく、高度な創造的知能の行動表現に対して働いたのだと論じることもできるだろう。こう考えると、男性のほうが女性よりも、美術、音楽、文学などにおいて作品を発表したり、富を蓄積したり、政治的地位を得たりすることを通して、自分の創造的知性を宣伝したがる傾向が強いことは、ランナウェイ性淘汰で説明できるかもしれない。この理論をもっと押し進めると、人間の文化がずっと男性によって支配されてきたのは、文化のほとんどが求愛行動だからであり、ほとんどの哺乳類のオスが求愛により多くのエネルギーを費やすことと同じである、と論じることができるだろう。男性は、女性よりも多くの絵を描き、多くのジャズ・アルバムを録音し、多くの小説を書き、多くの殺人を犯し、ギネスブックにのる妙な技をより多く行う。人口学的なデータをとると、このような行動が誇示される率には大きな性差があるばかりでなく、男性のこれらの行動の率は、性的な競争と求愛の努力がもっとも激しくなる二〇代から三〇代にピークがあることもわかる。この効果は、世界中のどこの横丁でも見られることだ。もしも、大きな音で音楽を鳴らしながら近づいていくる車があったら、それはたいてい、音楽を性的な誇示に使っている若い男性が運転する車である。

(p.115)

 

 

 この説明が正しいとすれば、特にアートの世界で男女のアファーマティブ・アクションクォータ制を実施することにはデメリットがある、と論じられるかもしれない。アートの世界に女性が少ないのは、アートの世界が女性を排除する構造になっているからではなく、ただ単にアートをやりたがる人には男性が多いから、ということになるためだ*5

 ……しかし、たとえば美術大学では、志願者も入学者も、女性の割合の方が男性の割合よりもずっと高い、ということはよく知られている*6。となると、この議論は通じない。

 あるいは、アートをしたがる人には女性が多いが、アートを「誇示」したがる人には男性が多い、ということかもしれない。

 

*1:

 

神話の力

神話の力

 

 

*2:わたしは未読だけど、「進化心理学の観点からの文学解釈」としては、たとえばこのような本が存在する。

 

 

*3:

davitrice.hatenadiary.jp

*4:

togetter.com

*5:

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

*6:

partner-web.jp

bijutsutecho.com

スピーチ・コードはニューロダイバーシティに反しているのか?

davitrice.hatenadiary.jp

 

 先ほど書いた記事ではジェフリー・ミラーの『Virtue Signaling:Essays on Darwinian Politics & Free Speech』の辛口な感想を書いたが、この本のなかでも「The Neurodiversity Case for Free Speech(ニューロダイバーシティの観点に基づく、言論の自由の擁護)」というエッセイは異色で興味深かったので、わたしなりに紹介してみよう。

 なお、もともとはQuilletteに発表された文章を転載したものであり、タダで読むこともできるので、興味を持った人はそちらも参照してほしい。

 

quillette.com

 

「ニューロダイバーシティ」とは、性的特徴に関するダイバーシティや人種に関するダイバーシティなどと並列する、神経学的特徴に関するダイバーシティのことを指す。「アスペルガー症候群自閉症ADHDや発達障がいなどの神経学的特徴を持つ人も多様性の観点から包摂すべきであり、学校や職場から排除すべきではない」という考え方だ。

「ニューロダイバーシティ」という考え方には、人権や道徳といった規範的な観点からの「ふつうと違うからと言って、障害であるとみなして、排除してはいけない」という主張が含まれている。その一方で、これらの神経疾患を持った人たちは共感能力やコミュニケーション能力などに欠ける代わりに抽象的な物事を扱う作業や理数系の能力が優れている点に注目して、組織が成果を生み出すためには神経疾患を持つ人も積極的に組織に取り入れてうまくマネジメントするべきである、という観点も含まれているようである*1

 

 アスペルガー症候群自閉症の人々は、「モノ」や「抽象的な概念」に対する興味が強い代わりに「人」や「感情」に対する興味が薄い。「システム化」思考(抽象化、論理思考)に長けている代わりに、「共感」思考が苦手である。

 ミラー本人も、自身がアスペルガー症候群であることを、エッセイの冒頭で告白している。自身の神経学的特徴のために、ミラーは子供の頃からコミュニケーションの仕方が特殊であり、他人の気持ちを察したり非言語コミュニケーションを行うことがヘタであって、ユーモアのセンスも他人とズレていた。そのために彼は気まずい状況を発生させたり他人を不愉快にさせたりして、トラブルを誘発することが多かったそうだ。

 そして、アイザック・ニュートンをはじめとした歴史上の天才的な学者たちの多くも、現代でいえばアスペルガー症候群自閉症であったことが、記録や伝記から推察されている。彼らの脳は通常の人々とは異なる極端な特性を備えていたのであり、だからこそ、学問的偉業を成し遂げられたのであった。

 

 しかし、もし現代にニュートンアメリカの大学に所属していたとしても、彼は早々に大学から追い出されてしまうであろう……とミラーは論じる。

 歴史的には、大学こそが、ニューロダイバーシティの花開く場所であった。大学に在籍する学者がまず求められるのは、論文を書いて学問的業績を挙げることだ。逆にいうと、学問的業績を挙げてさえいれば、どんなにコミュニケーションがヘタな人であったりエキセントリックな人であったりしても、大学での地位を確保することができたのである。そして、特に理数系分野はアスペルガー症候群自閉症にとっての得意分野であるからこそ、大学は彼らがもっとも活躍できる場所となっていた。

 だが、現代のアメリカでは、ほぼ全ての大学に「スピーチ・コード」が存在する。「他者の尊厳を傷つけることを言ってはいけない」「ハラスメントとなるようなことを言ってはいけない」という、言説に関するルールが、大学に所属する教授と学生たちに課されているのだ。

 問題なのは、「スピーチ・コード」では具体的にどのような単語や言葉が「他者の尊厳を傷つける」ものであったり「ハラスメントとなる」ものであったりするかが指定されておらず、恣意的で曖昧なものになっていることだ。

 実際のところ、スピーチ・コードは「この言葉で傷ついた」「この言動でハラスメントを受けた」と被害者側が告発することで、遡及的に「この言動は攻撃的だった」「この言動はハラスメントだった」と認定される、という運用になっているフシが強い。また、「オルトライト運動を批判してもスピーチ・コードに違反する危険性は少ないが、ブラック・ライヴズ・マター運動を批判するとコード違反の危険性が高い」「プロライフ運動をするキリスト教徒を非難するのは無難だが、シャリーアを主張するイスラム教徒を非難するのは危うい」という具体的な可否がスピート・コードに明言されているわけでもないので、違反をしないためには時勢について敏感であらなければいけない。

 そうなると、スピーチ・コードに違反しないために求められることは、たとえば「最近は女性差別やアフリカ系差別にみんなが敏感になっているから、この問題に関して誤解される可能性のあることは言わないでおこう」という"空気を読む"能力であったりする。また、目の前にいる相手が自分の言動で不愉快になっていないかどうかに気が付けたり、不愉快になるであろうことを予測するための、共感能力や「心の理論」が必要となってくる。

 そして、アスペルガー症候群自閉症の人々は、共感能力や「心の理論」に欠けているのだ。だから、ふつうの人であれば「最近はこういう空気であるから、こういうことを言わない方がいいな」と判断したり「授業中にこんなことを言ったり、ツイッターでこんなことを呟いたら、不快に思う学生やフォロワーがいるだろうな」と予測したりして、余計なことを言わずに保身ができるところを、アスペルガー症候群自閉症の人々はそれができないことが多い。そのために、彼らは舌禍事件を起こすことが多いのである。

 ミラーによると、スピーチ・コードは 神経学的定型的neurotypical)な規範であり、神経学的多様性(neurodivergence)に相反するものである。スピーチ・コードを理解するためには、パーソナリティの特性が「ふつう」の範囲内で、ほどほど以上に共感能力があり、「心の理論」を充分に発達させていなければならない。そうでない神経学的マイノリティの人々は、自分の発言がスピーチ・コードに違反するかしないかを判断することができない。つまり、スピーチ・コードは神経学的マイノリティに対して差別的に機能するのだ。これにはアメリカ障害者法(ADA)に違反している側面がある、とミラーは論じる。

 そして、学問的な成果を成し遂げている人が本人の意図していないところでスピーチ・コードに違反して大学を追い出されることは、本人の人権侵害であり道徳的に不当であるだけでなく、学術的にも大きな損失となるはずである。

 

 スピーチ・コードには「ナード」に対するふつうの人々の復讐という側面もある、とミラーは指摘している。学問の外のビジネスの世界でも、近年ではマーク・ザッカーバーグイーロン・マスクのようにパーソナリティに問題を抱えている人がそのハンディキャップをものともせず技術や才覚を活かして出世することができていた。だが、スピーチ・コードが厳しくなった昨今では、彼らのような人間は若いうちからバッシングにあって芽を摘まれていたかもしれない。

 また、一般的に、男性は「システム化」思考に傾きがちであり、女性は「共感」思考に傾きがちである。そして、アスペルガー症候群自閉症の割合は男性の方が高いこともふまえると、「共感」思考を強要するスピーチ・コードには男性差別的な側面が存在するといえるのだ。

 

 上記が、ミラーの主張である。

 ミラーの提示している問題は、なかなか厄介だ。

 スピーチ・コードは恣意的で曖昧な運用をされているために、神経学的マイノリティにとって不利にはたらいている、というのはミラーの言う通りだろう。その一方で、ある人が他人のどんな言葉で「傷つく」かということは、場の状況や文脈や相手との関係性にも左右される曖昧なものである、ということも確かなのである。「このような言葉は差別である、このような表現は差別である」とあらかじめ指定して硬直的な運用をしようとしても、スピーチ・コードはまったく機能しないはずだ。それはそれで「言葉狩り」となってまた別の問題も発生するだろうし。

 そして、ごくまともな一般論として、誰かが傷つけることはよくないことであるし、ハラスメントはよくないことである。その人の神経学的特徴やパーソナリティがどんなものであったとしても、暴力や性的侵害は許されない。それを非難することは「差別」には当たらない。そして、他人を傷つけることを意図した発言も許容されるわけではない。さらに言えば、意図しない舌禍であっても、他人を傷つける発言を何度も繰り返されるようであれば、その人は注意されるべきだし非難されるべきだろう。

 とはいえ、意図せずに他人を傷つける言葉や他人に対するハラスメントとなる言葉を一度や数度言ったりしただけで大学(や職場)から追い出されることは、やはり不当だろう。その舌禍の原因に神経学的な特徴が多かれ少なかれ関わっているとすれば、その不当さはさらに増す。近年ではスピーチ・コードに違反した人に対する制裁がどんどん性急で厳しいものになっている。それは深刻な問題なのだ。

 

 また、近年のポリティカル・コレクトネスの風潮のなかで目立つ特徴のひとつが、差別やハラスメントに関する議論のなかで加害者側の「意図」の要素が無視されること、である。

 

 

gendai.ismedia.jp

たとえば、デラルド・ウィン・スー教授が発明した「マイクロアグレッション」という概念では、日常的な言動のなかで行われる些細な見下しや侮辱も攻撃(aggression)の一種であるとされる 。しかし、マイクロアグレッションという概念は、発話者が攻撃を意図していなくても聞き手が傷つけばそれが攻撃である、としてしまう。つまり、「攻撃」の定義を発言者の意図や客観的な基準にではなく、聞き手の主観に委ねてしまう概念であるのだ。

マイクロアグレッションという概念にかかると、「自分が傷ついた」という感情が、相手を非難することを正当化する根拠になってしまう。最初は不愉快であったり攻撃的に聞こえた発言であっても、相手の発言についての真意をたずねたり「どのようなことを主張しようとしているのか」と冷静に解釈したりすることで誤解が解けたり建設的な対話がスタートする可能性はあるものだが、その可能性が閉ざされてしまうのである。

 

 差別やハラスメントの定義について、「意図」の代わりに持ち出されるのが、「システム」なり「特権」なりの社会学的なタームだ。

 これらのタームについては、一部は妥当であったり納得できたりするところもある。……だが、「意図」の問題は、無視するには大きすぎる要素であるだろう。

 そして、ミラーがスピーチ・コードを「男性差別的」であると指摘していることは重要だ。実際問題として、舌禍事件は女性よりも男性の方がより多く起こしていることは否めない。その原因の一部には「男性は他人に対して配慮しないことが許されてしまう、社会的に特権を持った存在である」という「男性特権」の問題もあるかもしれない。……しかし、男性のなかには共感能力に欠けており空気を読むことができない人が多い、という要素も、原因の一部となっているはずであるのだ。

 最近のフェミニズムは、「ミソジニー」や「家父長制」の概念を再定義したり「マンスプレイニング」や「有害な男らしさ」という新用語を作ったりしながら、男性が引き起こす問題を「特権」や「構造」という枠組みに回収することに躍起となっている。……しかし、男性が舌禍事件などの問題を引き起こす原因は、彼らの神経学的・パーソナリティ的な特徴や傾向の方にも存在するかもしれない。

 もちろん、特権や構造の問題を全く無視して、すべてを神経学的・パーソナリティ的な枠組みに回収しようとすることは見当外れで馬鹿らしいことではあるのだろうが、逆もまた然りなのだ。

 

 アメリカほどにはスピーチ・コードが強くない日本であっても、たとえば公共の場における萌え絵・性的表現の掲示に関するフェミニストとオタクの論争という問題の背景には、通底する要素があるかもしれない。「どのような表現が性差別・性暴力であるか」という「コード」にはどこかに曖昧な部分が残り続けざるを得ないだろうし、萌え絵・性的表現の掲示を擁護するオタクには男性が多いだろう*2

 また、「ニューロダイバーシティ」を盾にして、自分の言動を顧みずに他人を傷つけることを繰り返すことが正当化されてしまう危険性もある。

 諸々のことを考えると、「ニューロダイバーシティも大切だけど、誰かが不当に傷つくこともよくないから、ほどほどの着地点を見つけるべきだね」というのが穏当で妥当な回答になるだろう。しかし、それが簡単にできれば苦労しない。だからこそ、厄介な問題であるのだ。

 

 

*1:

jinjibu.jp

ja.wikipedia.org

*2:スピーチ・コードの問題に比べるとこの問題についてはわたしは「規制派」に近い立場であるのだが、それはまた別の話だ。

davitrice.hatenadiary.jp

ひとこと感想:『Vitrtue Signaling: Essays on Darwinian Politics & Free Speech』

 

 

 以前からすこし気になっていた本であり、ほしいものリストから頂いたので、読んだ。しかし、贈ってくれた方には申し訳ないのだが、かなりキツい本であった。本や文章としての魅力があまりにもなさ過ぎる*1

 

 この本は、進化心理学者であるジェフリー・ミラーがネットなどで発表した論考やエッセイを集めてまとめたもの。

 ミラーは『恋人選びの心:性淘汰と人間性の進化』や『消費資本主義!:見せびらかしの進化心理学』の著者であり、これまでにも人間が持っている様々な特質を性淘汰やシグナリング理論で説明する議論を展開してきた。

 この本でも、「道徳的な徳の性淘汰(Sexual Selection for Moral Virtues)」の章を中核としながら、人間の持つ道徳的な特徴が性淘汰とシグナリング理論によって説明される。優しさや正直さ、気前の良さや寛容さ、勇気や理想主義などの道徳的な特徴、そしてリベラリズム保守主義などの政治的な特徴は、異性に対して「自分は良い遺伝子を持っており、パートナー関係の相手としても望ましい性質をしている」という信号を送って配偶子として選ばれるために進化してきた、と論じられるのだ。

「人間の道徳的な特徴はなぜ進化してきたのか?」ということについては、これまでにも、多くの進化心理学者が論じてきた。その多くは、「人間は他の動物と比べて社会的な生き物であるゆえに、集団を維持したり集団から排斥されるのを防いだりするために道徳的な特徴が進化してきた」と議論してきた。それに対して、道徳的な特徴は男女間でのパートナー選びや求愛に関わる性質として進化してきた、と論じているところがミラーの議論の特徴である。

 シグナリング理論を使えば、「コストのかかるシグナル」という観点によって、それ自体は本来は個体の生存にとって有利にならないはずのコストのかかる特徴も、「そのコストを問題としないほど健康であったり有能であったりする」ことを示すシグナルだとみなすことができる。これにより、利他性や自己犠牲など、個体の生存にとっては不利であるために進化によって培われるのは難しいと考えられてきた道徳的特徴が存在する理由を説明することができるのだ。

 逆にいうと、道徳的な特徴が進化してきた理由は、道徳そのものではなく、あくまで「配偶者として選択される」という性的な側面にある、ということになる。これは、『消費資本主義!』で行われてきた「ファッションや贅沢品の購入も、読書などの高尚な趣味も、それらの商品や趣味自体に備わる内在的な価値のためではなく、自分のパーソナリティや知性を他者にディスプレイするために行われている」という議論の道徳版だと言えるであろう。

 

 また、第一章の「政治的なクジャク(Political Peacocks)」というエッセイでは、「学生時代、リベラルな同級生たちは政治信条を口で言ったり抗議活動をしてアピールしたりすることには熱心であったが、その政治信条に対して長期にわたって持続的にコミットメントする人はほとんどいなかった。しかし、彼らの大半は抗議運動を通じて異性をゲットすることに成功していた」というミラー自身の思い出が持ち出されながら、政治的な信条や活動の真の機能は求愛のためのディスプレイである、といった議論が展開される。

 この観点は、たとえば男性に保守が多くて女性にリベラルが多いということの説明にもなる。妻子を養い守る性である男性は地位と安定性を女性にアピールすることが重要になり、子供を育てる性である女性は優しさや配慮を男性にアピールすることが重要になるが、男性にとって望ましい特徴と保守主義者の特徴、女性にとって望ましい特徴とリベラリストの特徴は、それぞれ重なっているためだ。(ただし、リベラルか保守かに関わらず政治的な活動をすること自体に、その他の道徳的特徴をアピールする機能が備わっているので、リベラルな政治的活動をすることは男性にとっても女性に対するアピールとなり得る)。

 また、この観点によると、政治活動に最も熱心な属性は若い男性とされる。多くの動物はオスの側が求愛のディスプレイやアピールをするものであり、それに比べると人間にはメスの側もディスプレイやアピールをする必要性があるという特徴はが存在する。それでも、最も熱心にアピールをしなければいけないのは若い男性であるのだ。そして、年齢を経ると若い頃ほどにはアピールの必要性が少なくなるので、政治活動からは遠ざかっていくのである。

 

『Virtue Signaling』にせよ『消費資本主義!』にせよ、ミラーの議論にはそこそこの納得感があることは否めない。たしかに、道徳的な性質には恋愛でアピールするためのシグナリングという要素が含まれてはいるだろうし、趣味だって他人に性格や知性をひけらかすシグナリングという要素が含まれてはいるだろう。この議論は、自分が進化心理学の考え方を知る前から実際の恋愛や人間関係における経験をふまえて考えたり悩んだりしてきたこととも矛盾していないようだし、人間の恋愛や趣味について文学で描かれてきたり社会学で論じられたりしてきたことをうまく補完しているようにも思える。

 ただ、あくまで、「そういう側面もあるかもしれない」「そういう説明もできるかもしれない」という程度の納得感だ。

 これは特に『消費資本主義!』を読んでいるときに思ったのだが、ミラーの本には「それがシグナリングだって言えるんだったらなんだってシグナリングだって言えちゃうじゃん」という感想が付きまとい、読んでいて虚しくつまらない。シグナリング理論は、趣味や道徳が存在する理由を内在的なもの(趣味そのものの価値や道徳が社会維持にもたらす機能など)から外在的なもの(異性から配偶者として選ばれるという機能)に置き換える。それにより、趣味や道徳についての内在的な議論を無効化する側面がある。そして、この論法だと世の中のありとあらゆることをシグナリングとして片付けてしまうことができるし、無敵論法だということになれば途端に胡散臭くなってしまう。

 そもそも、ミラーの文章はまわりくどくて読みづらい。その割にくだらない下ネタとか浅い皮肉が入ったりするので格調が高くもない。そんな文章で、いろんな物事について「あれもシグナリング、これもシグナリング」と繰り返されてしまうと、うんざりしてすぐ飽きてしまうのだ。

 

 わたしは進化心理学の専門家でもなんでもなくて、在野で勉強している身だ。それでも、「どの人の意見が専門家たちからも評判が良くて信頼できそうであり、どの人の意見は専門家たちから評判が悪くて警戒するべきであるか」ということは自分なりにチェックしている。そして、ミラーは専門家からの評判は決して悪くない学者であるらしい。

 しかし、本として読む以上は、専門家としての能力だけでなく文筆家としての能力も評価したくなるところだ。たとえばジョナサン・ハイトは進化心理学の専門家としては「要警戒」な扱いを受けているようだが、なにしろ文章がうまくて本の構成が優れている。それはつまり、「読者はどのような問題意識を抱いており、どのような議論を求めているか」をわかったうえで、語り口や主張の提示の仕方を工夫できているということなのだ。

 もちろん、ストーリーテリングの能力と、正確で妥当な学問的知見を提示する能力とはイコールではない。というか、むしろ、相反することも多いだろう。……しかし、ミラーは「オレは他の学者たちが避がちである性的な話題にも臆せずに突っ込むぜ」というキャラをしているからこそ、文章がつまらなかったり品がなかったりすることは残念だ*2

『野蛮な進化心理学』の著者であるダグラス・ケンリックも同じようなキャラをしているが、彼の方がずっとうまく書いていたと思う。

 

*1:「The Neurodiversity Case for Free Speech(ニューロダイバーシティの観点に基づく、言論の自由の擁護)」というエッセイだけは例外的に興味深かったが、これに関しては次の記事で紹介する。

*2:当日の夕方に追記:

とはいえ、この直後の記事を書いていて思ったのだが、ミラーの神経学的・パーソナリティ的な特徴を考えると「キャラ」について批判を行うことには差別的な側面もある。これはよくなかった。

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読書メモ:『<効果的な利他主義>宣言!:慈善活動への科学的アプローチ』

 

 

 この本についてはこちらの記事でも紹介した。

 

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 また、「効果的な利他主義」の考え方そのものについては、今後に某社から公開される原稿でも取り上げる予定なので、こっちでは取り上げない。

 

もちろん、効果的な利他主義には賛否両論がある。

…(中略)…また、効果的な利他主義は貧困の根本原因(教育の不足、政府の腐敗、圧政、戦争など)ではなく貧困の症状(健康障害など)に着目しすぎているという批判もある。彼らは貧困の根本原因に対処するには制度的な変革が必要だと主張している。

…(中略)…

貧困の根本原因に目を向けるべきだという意見に関しては、貧困の根本原因などわからない、というのが私の答えだ。20世紀、韓国や台湾などの国々は貧困から脱げ出したが、エチオピアケニアなどの国々は抜け出せなかった。その理由はほとんど解明されていない。貧困の根本原因がわからないとすれば、個人がその根本原因に対処するのはとても難しい。

(p.211-212)

 

 「対処療法を行うことで、不公平な現状を結果的に肯定しているから、効果的な利他主義はダメだ」という批判については、わたしも書いたことがある。

 

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 しかし、多くの人は、「道徳」や「思想」は現状を否定するラディカルなものでなければいけない、と思っているようだ。そのために、現状を直視して、解決の仕方がわからなかったり現実的な事情から対処できない問題は後回しにして対処可能な問題から手を付ける、という効果的な利他主義は因縁を付けられてしまうのである。

 

人々の役に立つということに関していえば、「無分別」と「無意味」はイコールであることが多い。

プレイポンプはその典型的な例だ。トレバー・フィールドと彼の支援者たちは、客観的な事実ではなく感情に流されていた。遊ぶという単純な行為を通じて、村に綺麗な飲み水を提供する楽しげな子どもたち。その魅力的なイメージに心を揺さぶられたのだ。

…(中略)…しかし、善意だけに頼って判断を下すのは、災難を招く可能性もある。

(p.10-11)

 

「プレイポンプ」とはどのようなアイデアで、そのアイデアがどのように失敗したかは、解説が面倒なのでググってほしい。

 マッカスキルはプレイポンプに発案したり賛成したりした人の「善意」に注目するが、わたしはむしろ「クールさ」や「気が利いている感」が、合理的な判断にとっての罠であると思う。

 この本のなかでは「エシカル消費」も批判されるが、寄付や募金よりもエシカル消費が人気になってしまう理由は「金を募金箱に入れるのではなく、質の良いものを買うことにその金を使いながら、現地の人々も救えるって一石二鳥で最高!」という(表面的で浅はかな)「合理的っぽさ」によるところが大きいだろう。

 大阪維新の会がコロナ問題に対して思いつきで「画期的」で「イケてる」対策を取ろうとしては失敗していること、はてはGo To イートやGo To トラベルを行なっている日本政府にも言えることではあるだろうが、道徳の問題にせよ政治や経済の問題にせよ、有意義な効果をもたらす対処や実践というものは、本来、地道でつまらなくて、淡々としているものであることが多い。しかし多くの人はそれに耐えられないので、ついつい、小賢しいアイデアに飛びついてしまうのだ。

 

ルワンダ虐殺が起こっていたとき、傷付いた市民の処置を赤十字病院で行なっていた医師、ジェームズ・オルビンスキーのエピソードに続く文章)

 しかし、オルビンスキーと私たちの状況はある意味で似ている。死傷者が続々と運ばれてくるのを見て、彼は全員を助けられないと悟った。そして、難しい選択を迫られた。誰を救うか?誰を見殺しにするか?全員を助けることはできない。そこで、彼はトリアージを行い、治療の優先順位をつけた。患者を1、2、3に振り分けることはどうしても必要だった。もし彼がこの冷酷で計算高い行動を取らなければ、死者の数はいったいどれだけ膨らんでいただろう?もし彼が何も選択を行わなかったら?両手をあげて敗北宣言を出していたら?先着順で治療を行なっていたら?きっと最悪の選択になっていただろう。

世界をよりよい場所にしようと思うなら、私たちもオルビンスキーと同じような選択をしなければならない。それがこの世界の現実だ。

(…中略…)

オルビンスキーの状況は、相手が目の前で泣いて助けを求めているという点で、私たちの置かれている状況よりもずっと切迫していた。何かを選択せざるをえないという事実、そして選択しないという決断自体もまたひとつの選択であるという事実からは逃れようがなかった。しかし、慈善活動や寄付の場合、恩恵を受ける相手が私たちの目の前にいるわけではないので、オルビンスキーの身になって考えたときと比べると状況を軽くとらえてしまいがちだ。それでも、状況は同じぐらいリアルだ。世界では文字どおり数十億人が助けを求めている。その一人ひとりが助けに値するし、現実的な問題を抱えていて、私たちの行動ひとつでその生活を向上させることができる。だから、私たちは誰を助けるかを決めなければならない。それを決めないのは最悪の決断だからだ。

(p.32-33)

 

 いまは懐かしの「トリアージ論争」を思い出す一節だ。

「選択をしない」ことも選択であること、それも最悪の選択であるということが強調されているのは、傾聴に値する。社会的・政治的な問題をトリアージ(あるいはトロッコ問題など)に例えながらトレードオフの必要性を強調する言説について、批判側は「それは構造や権力の要素を無視した擬似問題である」と答えがちだ。実際、コロナ禍に際して大阪維新の会の吉村知事が「トリアージ」を言い出したのは批判されて当然ではある*1。政治家はそんなことを言い出すヒマがあるならまともで合理的な対策を取るべきだからだ。……しかし、現実世界では常にトリアージの状況が起こり続けていることは、一面の真実であるのだ。それを忘れて「権力」や「構造」への批判に明け暮れるのも、無益で空虚なことではある。

 

たとえば2009年、「ギビング・ワット・ウィー・キャン」を創設するとき、私は同じ1ドルで最大限によいことをしてくれる慈善団体を探そうとしてた。そんなとき、私は「フィスチュラ財団」という組織を見つけた。産科フィスチュラ(瘻孔)はとても恐ろしい疾患だ。

…(中略)…フィスチュラ財団の資金を主に受け取っていたのがエチオピアの首都・アディスアベバにあるハムリン・フィスチュラ病院だった。この病院は手術によるフィスチュラ治療を行い、アフターケア、カウンセリング、教育を提供している。明らかに価値の暑活動だし、とてつもなく人々の役に立っていたが、私は結局、ほかの組織に寄付するほうが人々の生活を大きく向上させられるだろうと結論づけた。

しかし、ひとつ問題があった。数年前にエチオピアを訪問したとき、私はその病院を訪れたことがあったのだ。私はこの病気に苦しむ女性たちとハグをし、訪問への感謝を述べられた。それは忘れられない経験だった。世界の問題の深刻さをまざまざと痛感させられた。フィスチュラは私にとって個人的な結びつきのある問題だった。

では、ほかの組織に寄付したほうがもっと人々の役に立てると知りつつ、フィスチュラ財団に寄付するのが正しかったのだろうか?私はそうは思わない。もし、もっと効果的だと思う慈善団体があるのに、フィスチュラ財団に寄付するとしたら、私はたまたま困っている本人と会ったことがあるという理由だけで、一部の人々のニーズを優先していることになる。これでは、もっと効果的に手を差し伸べられる人々に対して不公平だ。もし私がエチオピア、またはほかの国の別の施設を訪れていたら?きっとまた別の心の結びつきが芽生えていただろう。私が世界の別の問題ではなくこの問題を目にしたというのは、単なる偶然にすぎない。

(p.42-43)

 

「ケアの倫理」だとか「共感の倫理」だとかに対する「理性の倫理」や「正義の倫理」の優位性を力強く主張している一節であろう。

 

福島の安全対策技術者たちは安全性を評価して被害を防ごうとしたが、低確率ではあるが重大な出来事を無視したために失敗した。同じように、何かよいことをしようとするときには、成功の確率とその成功の度合いの両方に敏感にならなければならない。 つまり、成功は確実だがたいして見返りのない活動よりも、成功の確率は低いが成功した場合の見返りが大きな活動を優先すべきケースもあるのだ。この事実は、「一人じゃ何も変わらない」とよく言う人々が大きな誤解をしていることも示している。

(p.88)

 

「期待値」を重視したこの発想は類書のなかでもなかなか見られないものであり、マッカスキルの議論のオリジナリティがあらわれている箇所である。具体的には、「投票行動」や「商品のボイコット(ベジタリアンがスーパーで肉を買い控えるなど)」が、行動が結果につながる可能性が低いとしてももし成功した場合には見返りが大きいために、期待値の観点からすれば行うべきである行動の例として挙げられている。

 

(「エシカル消費」運動に関して)

この運動には高貴な目的がある。搾取工場に反対する活動家たちは、人々がこれほど劣悪な環境で働いていることにゾッとしている。それはもっともなことだ。しかし、不買活動を通じて搾取工場に抗議する人々は、第5章で説明したとお理、「この行動を取らなければどうなるか?」という視点が抜けている。私たちは、自分たちが搾取工場の商品をボイコットすれば、工場は経済的な圧力に負けて廃業し、労働者たちはもっとましな就職先を見つけるだろうと思いこんでいる。

しかし、それは正しくない。発展途上国では、搾取工場の仕事はむしろよい仕事なのだ。工場で働けなくなれば、低賃金で肉体を酷使する農業労働、ごみあさり、失業など、ふつうはいっそう劣悪な状況が待ち受けている。

(……中略……)搾取工場が比較的よい仕事を提供しているという明確な証が、発展途上国の人々からの巨大な需要だ。搾取工場の労働者のほぼ全員が自分の意思で働いており、なかにはあの手この手で工場の仕事にありつこうとする人々もいる。

(……中略……)搾取工場の状況はとても劣悪なので、人々が国外追放のリスクを冒してまでそこで働こうとするのは、私たちにとって想像しにくい。しかしだからこそ、第1章で説明したとおり、世界の貧困は想像を超えるほど激しいのだ。

(p.136 - 137)

 

 この後のページでも、「モラル・ライセンシング」現象を指摘しながら、「エシカル消費」は目的とは逆の効果をもたらしてしまうことが論じられている。

 なお、引用部分の議論は「労働者側が、他の可能な仕事と比較したうえで自発的に選択した仕事」に対してのみ当てはまることに注意。中国で行われているウイグル族の強制労働や、畜産業(言うまでもなく、家畜は肉になることを自発的に選択しているわけではない)については、「エシカル消費」やボイコットが目的通りの効果をもたらす可能性があるはずだ。

 そして、発展途上国貧困層の人々には「劣悪な仕事」か「もっと劣悪な仕事」の選択肢が存在しないという事実も、規範的には不当であるだろう。それを不当であると認めることと、(他に可能な手段がなければ)「もっと劣悪な仕事」を避けさせて「劣悪な仕事」に就かせることが正当であることは、両立する。グローバルな経済格差や搾取の構造について非難するのもいいかもしれないし、「将来的にはこうあるべきだ」ということを論じるのもいいかもしれないが、「いまできることで最善なのはなにか」ということにも注目しなければいけないのである。

 

研究を通じて世の中に影響を及ぼすひとつの効果的な方法は、複数の研究分野を組みあわせるというものだ。当然、複数の分野の組みあわせのほうが個々の分野よりもはるかに種類が多い。そして、研究活動は伝統的な学問分野の分け方に左右されやすいので、ふたつの学問分野を組みあわせた研究は特に見過ごされていることが多く、非常に大きな影響を及ぼせる可能性もある。

(p.183)

 

「ふたつの学問分野を組みあわせた研究」の例が、行動経済学(心理学と経済学の組み合わせ)や、効果的な利他主義(道徳哲学と経済学の組み合わせ)である。わたし個人としても、このテの「学際的」な研究には昔から魅力を感じてきた。些細な一説だが、学問論として新鮮で、なかなか面白いと思う。

 

 第10章では、「極度の貧困」「アメリカ刑事司法制度の改革」「気候変動」の様々な問題について、「どの問題に優先的に取り組むべきか?」と読者が判断するための指標として、規模・見過ごされている度合い・解決可能性がそれぞれランク付けされている。

 移民問題(貧困国から富裕国への移民を認めることには貧困国の人々の生活が大きく向上するというメリットがあるが、富裕国側の移民政策によってそれが阻害されている)は、規模はかなり大きいものであるのに、解決可能性は極度の貧困や気候変動よりも少ないとされている。一方で、工場式畜産も規模はかなり大きいが、解決可能性は高いものとされている。ここら辺の判断基準も常識からはちょっと外れていて、なかなか新鮮だった。

 

 

読書メモ:『孤独の科学:人はなぜ寂しくなるのか』

 

 

 トマス・ジョイナーの『Lonley at the Top』と同じく「孤独」が人の心身に与える悪影響について書かれた本であるが、ジョイナーの本では人(男性)が孤独になる「原因」や「過程」についての議論が豊かであったのに比べて、こちらでは孤独がもたらす「結果」についての生理学的な説明に焦点があてられている感じ。

「なぜ孤独は人に悪影響を与えるのか」「孤独感が生じる進化的な理由」という観点からの説明は行われているが、ジョイナーの本でなされていたように、人(男性)が孤独に至るまでの心理的な原因と社会的な過程に関する奥深い考察は少なめ。

 それは著者の専門分野の違いということでいいとしても、こちらの本は同じような話をずっと繰り返している感じがちょっと強くて、読みものとしてやや退屈ではあった。

 

 この本のメインとなる主張は、「主観的な孤独感は、それ自体が"痛み"のような感覚を本人にもたらす。また、孤独感は自己調節や自己コントロールに関する機能を低下させる。それは、本人に健康的な行動を取りづらくさせたり、ストレス要因への抵抗力を弱めたり、睡眠のような治癒機能の働きを低下させたりするだけでなく、社会的なコミュニケーションにも悪影響をもたらす。これらが相まって、孤独感の高さは、様々な病気や死亡のリスクにつながる」というものだ。

 また、この本では、社会的帰属に対する欲求の強弱は「サーモスタット」に例えられている。そして、サーモスタットの敏感さは個人によって異なる。孤独の程度が客観的には同じであっても、敏感なサーモスタットを持っている人の方が、「わたしは孤独である」と感じやすく、それによる悪影響も生じやすいのだ。

 なお、ジョイナーもこの本の著者と同じく「孤独感のサーモスタット」という表現を使っているが、ジョイナーの説によると、サーモスタットが鈍感であることもそれはそれで危険だとされる。男性は女性に比べて孤独感のサーモスタットが鈍感であるが、そのために、手遅れになるまで孤独の状況を放置してしまいがちであるのだ。逆に言うと、女性は敏感なサーモスタットを持っているために、すぐに「わたしは孤独だ」と思ってしまうが、コミュニティに接近するなどして孤独な状況に対処することも早々に行うのである。

 一方で、この本では、「敏感なサーモスタットにより強い孤独感を抱くことは、自己コントロール能力にも悪影響を生じさせるので、コミュニケーション能力にも支障をきたし、コミュニティからの離脱にもつながる」というようなことが論じられている。そのため、ジョイナーの主張とこの本の主張とでは、微妙な点で矛盾が起こっているのかもしれない。

 

 

心理学者のドナルド・ヘッブは「個人の性質に、より大きな影響を与えるのは、生まれか育ちか」という疑問を、長方形の面積に、より大きな影響を与えるのは縦の長さと横の長さのどちらか、という問いになぞらえた。答えは、どちらか一方、ではない。だが、それぞれが別個に、という話でもない。一般に、個性のごく基本的な側面の発現を左右するのは、たんに「環境+遺伝」ではなく、遺伝子と環境の 相互作用 なのだ。遺伝が及ぼす影響力とは、特定の個人がその遺伝的な資質のせいで、社会的なつながりを人より余計に必要としたり、そうしたつながりがない状態に人一倍敏感だったりする、というだけだ。短期間にしろ生涯にわたってにしろ、人が実際に孤独感を覚えるかどうかは、社会的な環境を含めてそれぞれの環境次第だ。そして環境は、本人の考えや行動など、じつにさまざまな要因に左右される。

(p.41)

 

 この本の本題とは関係がないが、長方形で例えることは、「生まれか育ちか」論、あるいは進化心理学的と社会構築主義の対立に対する良い解毒剤である。わたしも、機会があればこの例えを使ってみたいと思う。

 

ここでもまた、現代思想のじつに多くが賛美する「実存主義のカウボーイ」、つまり全世界を相手に回す一匹狼としては人間がうまくやっていかれない理由がわかる。「人は独りで生まれてくる」ことも「人は独りで死ぬ」ことも文字通り真実かもしれないが、他者とのつながりは進化の過程で人類が今の姿になる一助となっただけでなく、現在も私たち一人ひとりがどんな人間になるのかを決めるカギも握っているのだ。どちらの場合にも、人間どうしのつながりや精神の健康、生理的な健康、情動面での健全性はすべて、互いに切り離せないほど密接に結びついている。

(p.173)

 

 ジョイナーも指摘していたように、現代思想や文学は孤独を美化してしまいがちである。それを真に受けてしまった読者は孤独リスクへの対策を怠ってしまったりあるいは自ら孤独に突き進んでしまい、不健康になって、不幸になって、場合によっては自殺してしまうのだ(特に昔の文学者はよく自殺していたことは、文学者はもともと孤独になりやすい傾向があるから作品のなかでも孤独を美化してしまうことを示しているかもしれないし、孤独を美化する文学サークルに関わっているうちに不健全で破滅的な思考や行動パターンをインストールしてしまったということであるかもしれない)。

 

…(前略)…孤独は私たちから自己調節と実行制御の機能を奪い、自主抑制と粘り強さを損なう。認知と感情移入を歪め、そのせいで社会的調節に貢献するほかの認識も支障を来す。その中には、社会的同調をする上での妥協と互恵、適切なさじ加減で行われる服従と支配、仲裁、社会的制裁、同盟の形成などが含まれる。

ようするに、自分自身の集団への「適合性」を高めるだけではなく、集団の全体的な適合性も高める、つまり実現可能な社会的な調和のレベルへと導くには、こうした高度な能力が必要なのだ。

孤独感は、他者とかかわることで得られる報酬の感覚を弱め、逆に、中毒と関係した脳のいくつかの部位に支配されている、他者を不快にさせることの多い反応を引き起こす。もし私が他者の心を正確に読めなければ、ニュアンスをつかめず、双方にメリットのある解決法を直感的に見つけてより望ましい結果を生むことができない。その鈍感さのせいで、協調性のあるパートナーとは思ってもらえなくなる。自分自身の反応と自分が他者から引き出す反応のせいで、私は人とのやりとりに不満を抱くようになるかもしれない。なぜなら、他者が受ける報酬の感覚を私は得られないだろうから。そして孤立した私にとってのそのような喪失感は、その後しっかりと根づき、私の人間関係全体に広がっていくかもしれない。

(p.279)

 

 この本では、「孤独感は人と怒りっぽくさせたりネガティブにさせたりして、対人関係能力も損なわせることで、人をコミュニティから遠ざけるという悪循環をもたらす」ということが何度か強調されている。そして、実際にわたしが孤独であったときのことや周りの孤独な人のことを思い浮かべてみても、この現象はたしかに起こっていたように思える。

 

自己防衛的で他者から孤立する行動をやめるのにはリスクがある。人間が防衛メカニズムにしがみつくのは、短い間だけでもそのメカニズムには効果があるように思えるからだ。しかし、防衛メカニズムによる一時的な「保護」は、長期的には高くつくことが立証されている。

忍耐は、人間関係で大きな喜びが感じられるようになってからも、不要にはならない。たとえ私たちがみな完璧だったとしても、やがて知り合うことになる相手には、必ずその人なりの物の見方がある。「良いときも悪いときも」という典型的な結婚の誓いは、対人関係で永久に摩擦は無くならないと、おおっぴらに宣言しているようなものだ。刺入やおしどり夫婦にも意見の食い違いはあるし、ときには互いを傷つけることもある。こうした現実にもかかわらず成功する秘訣は、摩擦の瞬間を拡大解釈して大げさに受け取らないことだ。

(p.312)

 

 なかなか含蓄のある一節だ。

 

孤独だと批判的になる

 

社会的幸福度の高いカップルは、パートナーを理想化する術を見出し、いわゆる「ポジティブな幻想」を持ち続ける(この架空の要素があるからこそ、恋愛をロマンスと言う。ロマンスとはもともと、空想的な内容を扱った物語のことだ)。十三年間に及ぶ結婚の研究の結果によれば、パートナーを理想化すると、愛情が持続するだけでなく、離婚の確率も低くなるという。パートナーを理想化するというのは、ごまかしや虐待などの深刻な問題に目をつぶることではない。相手の脂肪が増えてきた事実や髪の毛が薄くなってきた事実を気にする代わりに、今も変わらない相手の魅力的な笑顔に注意を向けたり、たとえ言葉のほうが感情をうまく表せるときでも、車に張りついた氷を落として愛情を示してくれる相手のやり方を認めたりすることだ。私たちは、実行制御能力を持った脳のおかげで、何を強調するかに関してかなり融通が利く。しかしそれも、恐れからくる孤独感が原因の、実行制御能力の混乱を防げれば、だが。

(p.314)

 

 ここもなかなか深い一節だと思う。

 

不確かで不安な愛着の持ち方をする人は、安定した愛着の持ち方をする人よりテレビの登場人物と社会的な絆で結ばれているという感覚を持ちやすい。

…(中略)…つながりを求める心は何よりもまず、肉体あってのものであり、肉体を除外すれば、人間のつながりから得られる満足感が損なわれる可能性がある。

物理的にいっしょにいることが不可能なとき、私たちは電話で短い会話をしたり、インスタントメッセージを送ったり、愛する人の写真を見たりという、「社会的間食」と呼ばれてきた習慣によって、自分の切望を満足させようとするが、間食は食事ではない。

…(中略)…インターネットがもっと有形の人間の触れ合いに取って代わったとき、インターネット利用の増加が社会的孤立感とともに鬱病の増加ももたらしうるという調査結果があるが、電子的コミュニケーション特有の抽象化された性質、つまりつながりにおける物理的な背景と形態の欠如を考えると、その結果がある程度説明できるかもしれない。

たしかに、ペットやネット上の友人と、あるいは神とさえつながりを結ぶことは、群居せざるを得ない生き物が抑えきれない欲求を満足させるための、りっぱな試みではある。しかし代用品はけっして本物の不在を完全に埋め合わせることはできない。

(p.333-334)

 

 わたしもゲーム実況はよく見るし一部の実況者のファンであるのであんまり人のことは言えないのだが……アイドルファンや、YouTuberだかVTuberだかに課金をしたがるファンたちによく当てはまる分析だと言えるだろう。

 また、Zoom飲み会が一見すると安上がりで楽しそうに思えるわりに、実際にやってみると本物の飲み会のような満足感は得られない、という事象の説明にもなっていると思う。けっきょくのところ、物理的な要素や身体的な要素は、コミュニケーションや社会的帰属に対する欲求の大きな部分を占めているからだ。

 先日に「男性同士のケア」について論じた記事を書いたとき、「バ美肉であれば、男性同士のケアの不在を埋め合わせることができるかもしれない」という趣旨のコメントがついた。しかし、人間同士の関係性の問題や孤独の問題が、テクノロジーだとか「ネットによって培われる新しいコミュニケーション」だとかで解決されるという言説に対して、わたしは概して懐疑的である。

 

さらに著者は、孤独感に苦しむ人に対する暖かい配慮を終始一貫して見せながら、その苦しみから脱する方法を、多くの事例とともに紹介する。その核心をひと言で言えば、逆説的に聞こえるかもしれないが、「他者に手を差し伸べること」となる。

…(中略)…他者に対する善意に満ちた行為は次々に広がっていくとともに、自分にも恩恵をもたらす。

(訳者あとがき、p.349)

 

 人間にとっての幸福のカギは他人のために尽くすこと、という主張はダグラス・ケンリックの『野蛮な進化心理学』やジョナサン・ハイトの『しあわせ仮説』などの他の心理学の本でも強調されていた。これだけ多くの心理学者がそう主張するのだから、おそらく事実であるのだろう。

 とはいえ、アメリカ社会はキリスト教的な秩序や規範がベースとなっているわりには自己中心的な人が多くて、自己利益を追求してしまうことで逆に不幸になるというジレンマに陥っている人が多いからこそ、アメリカの心理学者たちは同胞への戒めとしてこの主張を口酸っぱく強調したがる、ということも考えられるかもしれない。

 アメリカに比べると日本は、なんだかんだ言って自己中心的な人は未だに少ないように思える。しかし、だからこそ、近年になって「日本人は他人に尽くすことはやめて、自分を大事にするべきだ」みたいな主張が盛んになっているのだ。そして、この主張はフェミニズムと結び付きがちでもある(「女性はこれまでケア役割を強制されてきて〜」云々)。では、その主張が日本の女性たちに幸福をもたらしているかというと……それは他人事なので、わたしにはわからない。

 

…(前略)…若者では、孤独な人と孤独でない人の食習慣にあまり差はなかった。だが中高年では、孤独は、前述のように一日のカロリーのうち脂肪から摂取する割合の高さと相関していた。

孤独な人が健康に良い行動をしなくなるのは、催眠で社会的疎外感を抱かせた人に見られた、実行制御機能の、ひいては自己調節能力の低下が一因になっているのかもしれない。たんにその時点で気持ち良く思えることではなく、自分にとって良いことをするには、規律正しい自己調節が必要となる。ジョギングに行くのは、終えたときには気持ちが良いかもしれないが、ほとんどの人にとっては、そもそもドアから外に出るには意志の力による行動が必要だ。そうした規律に必要な自己制御は孤独感によって低下する。孤独感には自己評価を低下させる傾向もある。他者に無価値だと思われていると感じると、自己破壊的行動をしがちで、自分の体をあまり大事にしなくなる。

そのうえ、孤独な中高年の人は、孤独感についての苦悩と実行機能の衰えが相まって、気持ちを紛らわそうとして喫煙や飲酒や過食、性的行動に走ることがあるようだ。気分を高揚させるには運動のほうがはるかに良いだろうが、規律正しい運動にも実行制御が必要だ。週に三回ジムやヨガ教室に通うのも、体調を保とうとするのを励ましてくれる友人とそこで会って楽しめるなら、ずっと楽になるだろう。

(p.138-139)

 

  ときおりやたらと肥満体型で不健康なオタクがいることの説明になっていると思う。

 また、わたしは仕事を辞めて無職になっていた期間に「自分だけの時間がたっぷりあるんだから、このタスクを達成するぞ」と、とある計画を立てていたのだが、見事に失敗して、ダラダラと過ごしてしまった。飲酒量も無職期間の方が明らかに増えていた。あれも、孤独感により自己制御機能を損なっていたせいであったのだろう。

 

「ナオミ・クライン的なるもの」に対するジョセフ・ヒースの解毒剤

 

「経済学101」では、政治や経済について論じるカナダの哲学者、ジョセフ・ヒースのブログも訳されている。

 

 

econ101.jp

econ101.jp

 

 上記の記事ではどちらもかなり重要なことが書かれていると思うが、その一方で(特に日本の読者にとっては)さして重要でないことや時節が過ぎたことも書かれていたりするし、なにしろ長い。というわけで、残念ながら、訳者(わたしや青野さん)が期待したほどには読まれていないようだ。

 どちらの記事も訳してから数年経過していることだし、「有益であるな」と特にわたしが思う部分を、こちらのブログに引用してしまおう(読みやすくなるように改行も加えている)。

 

私が最終的に辿り着いた答えは、価格付けシステムは大半の人々が持っている道徳的直感に反するということであり、そしてクラインはその道徳的直感を物事に対して徹底的に当てはめているということだ。

彼女は「汚染者支払い」の原則を熱心に支持しているのにもかかわらず、実際にはその原則が論理的に導き出す結論の一つを拒否している。つまり、もしあなたが支払うことを嫌だと思わなければ、あなたは汚染をしてもいいということだ。この結論は、ある行為が非道徳的であるとすれば非道徳的であることそれ自体がその行為を行なわないための充分な理由となる、という道徳的直感と相反する。あなたは非道徳的な行為を止めるためのインセンティブを他人に要求することはできないのであり、それどころか、非道徳的な行為を止めない場合にはあなたを処罰する権利を他の人たちは持っている…これが、私たちの道徳的直感が教えるところだ。

たとえば、市場において奴隷に価格を付けたり税金を課しても奴隷という存在を無くすことはできなかったのであり、奴隷制そのものを撤廃することしか方法はなかったのだ、とクラインは指摘する。環境規制についても彼女は同じ考えを抱いている。たとえば、彼女は以下のようなレトリック的な質問を読者に行っている。「なぜ私たちは自分たちの未来を危険に晒すなと企業に命じているのではなく、企業に賄賂を贈ったり甘い言葉で丸め込んだりしようとしているのだろうか?」。つまり、根本的にはクラインが炭素価格付けに反対しているのは単に価格付けという考えそのものが道徳的に不愉快であるからだ、と私は推測する。彼女にとっては、それは子供を取り返すために誘拐犯に身代金を払うのと同じようなことに思えるのだ。

この点については彼女のみならず多くの人々が同じ直感から思考を始めている。しかし、その直感を解体する議論は広く知られたものであるし、それは環境経済学にとって最も基本的なことですらある。"撤廃主義"的なアプローチは、対象とする物質や習慣を完全に禁止することが可能でありまたそれらが完全に禁止されなければならない時にしか機能しない…それこそ、奴隷制のように。だが、二酸化炭素やメタンガスを放出することはそれ自体が本質的に有害なことではないのであり、ゼロになるまでそれらを削減したいと望んでいる人もいない。

 

 

第一に、クラインと同様に私も気候危機は非常に深刻な問題であると考えているし、現状の様々な物事に対して変化を強いる問題であるとも考えている。気候危機は「自由市場至上主義」の説得力を過去最弱にしている。

しかし、同時に、気候危機は「反市場-至上主義」の説得力も弱めたのだ。特に、企業の行動を変える手段として価格付けメカニズムを用いることを極端に嫌っていた左派の人々の多くが、考えを変えて価格メカニズムに対する嫌悪感を払拭せざるを得なくなった。価格付けメカニズムに反対する議論は道徳的なものだけであるとすれば…つまり、価格付けには問題を解決する可能性があるとしても、私たちの道徳的純粋さの基準を満たすような形では解決しないということであれば…それは問題の解決方法に対する反対意見としてはかなり弱いものだ。

気候危機は充分に深刻な問題なのであり、大半の人々は解決方法の形に関わらずとにかく解決されることを望んでいるだろう、と私は推測する。いくつかの大企業が正しくない動機から正しい行為を行うことを容認するための取り決めを結ぶ、などの解決方法であったとしてもだ。 

 

第二に、そして最後に、『これがすべてを変える』は一から十まで問題の"つながり"について書かれた本である。様々な種類の闘争のそれぞれに参加しているそれぞれの人々に対して、自分たちはみんな実は一つの同じ目的のために戦っているのである、と説得させるための本なのだ。そのこと自体には何も問題はない。

それに、多くの場合には、様々な要求を記したリストを提示することには(そのリストが短いものではなく長いものであったとしても)何の問題もない。

しかし、政策としての価値も疑わしく実際問題として実行不可能な政策の名の下に、実行可能であり有効な政策に対してあなたが反対をし始めるとすれば、それは、巨大な害を支持するものであるとあなた自身が批判している物事を実際にはあなた自身の手で引き起こすことになってしまうのだ。 

『ブランドなんか、いらない』にまで遡るクラインの一連の著作に対して私が批判を行い続けているのは、彼女が間違った方向にへと読者を活気付けて動かしていることにある。風車に向かって対決したドンキホーテのような一人相撲を自分が取っているという可能性についてクラインはもっと時間を割いて考えるべきだと私は常々思ってきたし、『これがすべてを変える』にもクラインに対する私の評価を変えるようなことは何も含まれていなかった。

 

 以上、「ナオミ・クラインの気候問題論」の記事から。

 特に、最後の箇所でクラインの「つながり」論を批判している箇所は、わたしがこのブログでしつこく批判している「インターセクショナリティ」論とも関わってくることだろう(原文では"intersectionality"ではなく"linkage"であるが)*1

 

クラインの見解では、(ギリシャで抗議デモに催涙ガスが使われて子供達が被害を受けたことは)気候変動と結びついているのだ。

私の推測であるが、このようなエピソード描写には、彼女の道徳的指向が示されている。何が善くて何が悪いかということについての、彼女の感覚が示されているのだ。高潔な抗議運動家たちがファシストな警察と対決するというドラマが提供するものこそが、暴力的な抗議活動にクラインがここまで執着している理由だ(世界における善の追求と悪との戦いが、抗議運動に催涙ガスが使われることに最も具現化されている、とクラインは考えているわけである。

要するに、彼女にとって、この件は「明白な道徳」が示されているのだ。誰が正しい側に立っていて、誰が間違った側に立っているのかということを、彼女は疑うことなく自明視している。彼女にとって、全ての物事は自身の自明視された道徳見解に従属しているわけである。

要するに、社会正義についてのクラインの意見は、二つの自明な命題から始まっている。抗議者は善であり、警察(または「抑圧の暴力」)は悪である、と。

 

クラインは抗議運動に参加している時に、文字通りの善と悪との戦いを目撃している訳である。そして、抗議運動は善であり警察は悪であるという命題に基づきながら、彼女はより幅広い世界観や社会正義についてのより精巧な意見を構築しようとする。

その世界観や見解のかなり多くは寄せ集めにすぎない。基本的には、クラインは抗議運動家が要求していることの全てを取り上げ、繋ぎ合わせてから、なんらかの形の一貫した一つの見解や、一連の要求としてまとめあげようとする。

ここで問題となるのは、言うまでもなく、抗議者達は実に様々なことについて要求しているということだ。一部の要求は理に適ったものであるし、別の要求はそうではない。全ての要求が矛盾なく共存する訳ではないし、全ての要求が善であることはあり得ない。

だから、最終的には、クラインの見解には矛盾を避けるための大げさなごまかしが含まれることになる。そのごまかしが、私のような人々を苛立たせるのだ。

 

一方で、クラインの論じ方をこのように認識することで、なぜ彼女が抗議運動家たち(また、自分で時間を割いてまで抗議に行くことはないが、抗議運動家を応援している人たち)からこれ程までに支持されているのかということを理解する助けになる。

まず第一に、抗議運動家たちはクラインの描く物語の中では常に英雄である。抗議運動家たちが間違いを犯すことは有り得ない。

第二に、クラインは抗議運動家たちの見解を受け入れ、少しだけ知的で整った一貫した見解に編み出してくれる存在でもある。同時に、全ての抗議運動には一貫性があるのだとクラインは保証もしてくれる。

全く異なった抗議者達が、全く異なった物事を求めて闘っているように見えても、それは正しい社会実現への要求において通底しており、彼らの努力は共通していることになるのだ。クラインは具体的なビジョンを何も語っていないように見える。しかし、なんらかのビジョンに至る大まかな目標を知っているかのようにも見える。なのでクラインの著作活動を追いかければいつか「見解」を示してくれるかもしれない…。

 

 以上、「ナオミ・クラインについての最終論考」から。

 

 なぜこのブログの方でヒースの記事をわざわざ取り上げたかというと、ヒースが批判の対象としているような議論は、ナオミ・クライン本人に限らず、最近になって"流行"している様々な思想家が行なっているものであるからだ。たとえば、(もう死去されてしまったが)デヴィッド・グレーバーはかなりナオミ・クライン的な論客であった*2。また、本邦では斎藤幸平がナオミ・クライン的な論客としての活躍を始めているようだ*3。どちらの論客も「資本主義」の問題を論じているが、正当な経済学の理論を参照しながら問題について地道かつ合理的に分析していくということは行わず、その代わりにラディカルなお題目をぶちあげることで、(左派の)読者の支持を得ている。

 ところで、このブログでは「インターセクショナリティ」論だけでなく「ケアの倫理」論もしつこく批判している*4。そして、最近ではナオミ・クラインは「ケア」や「愛」の重要性を説いているらしいし、『ブルシット・ジョブ』でもケア労働に関する議論に紙幅が割かれていた*5。グレーバーにせよクラインにせよ、「ケア」や「愛」の重要性について最近になって急に気が付いたので、それを著作に取り入れた、という可能性もあるかもしれない。……しかし、おそらく、フェミニズムの議論を経たのちに「ケア」論(あるいは「愛」や「共感」論)が近年になって左翼の間で流行っているのを目にしたから、左派の読者が気持ち良くなるような物語を提供するために「ケア」や「愛」についても本のなかで触れることにした、というところが正解であるように思える。

 

 とはいえ、最近に限らず、クラインが登場する前からナオミ・クライン的なポジションの思想家はいたであろうし、クラインや斎藤が退場した後にも同じようなポジションの思想家があらわれることも想像に難くない。そう考えると、彼女らや彼らを批判することは徒労で無駄であるようにも思える。

 ……しかし、ナオミ・クライン的なるものたちは、社会問題や正義・倫理に関心のある読者に対して、問題について冷静に考えて向き合うための「議論」を提供するのではなく読者を気持ち良くするための「物語」を提供することによって、正しい方向に向けられていれば社会をより良く改善できていたかもしれないエネルギーをみすみす無駄にしてしまっている*6。そう考えるとやはり放っておくべきではない。だから、ナオミ・クライン的なるものがあらわれるたびに、あるいは「インターセクショナリティ」が論じられるたびに、しつこくネチネチと批判を行い続けるべきであるのだろう。

 

 

 

*1:

davitrice.hatenadiary.jp

*2:

davitrice.hatenadiary.jp

*3:

gendai.ismedia.jp

*4:

davitrice.hatenadiary.jp

*5:

note.com

斎藤:もう一点、ナオミ・クラインが素晴らしいなと思うのは、『NOでは足りない』のなかで、「愛」の概念を重視しているところです。いまの状況を変えるにはNOと言うだけではなくて、やっぱりYESに変えていくことが必要だと。他者と繋がっていくための概念は愛なのだ、という話をしています。最近だと、ネグリとハートが強調するキーワードの一つも、やっぱり愛です。
 では「愛」とは何か。重要なのは、ケア労働だと言われています。人間が生きていくために必要な根源はケア労働だと。保育や看護、介護はわかりやすいですが、そういったケアなしに、私たちの生活は成り立ちません。ですが、現実にはそういった労働に従事する人々は、低賃金しか得られず、過酷な労働を強いられています。
 こうしたいまの社会における労働の評価や、何が社会にとって有意義なのかを抜本的に価値転換していく必要があります。これは、我々が何に依拠して生きているのかということだと思います。つまり、貨幣を通じてしかつながり合えないような社会を選ぶのか、それともケアを通じてつながりあう社会であるのか、といった大きな話につながってきます。そういう意味で、クラインは本当に深いことを言っています。

*6:まさに「アヘン」だ。