道徳的動物日記

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読書メモ:『ストイック・チャレンジ:逆境を「最高の喜び」に変える心の技法』

 

 

 著者のアーヴァインは『良き人生について - ローマの哲人に学ぶ生き方の知恵』や『欲望について』の著者*1。『ストイック・チャレンジ』では『良き人生について』と同じくストア哲学がテーマとされているが、ストア哲学の歴史や思想などについての含蓄が多く含まれていた『良き人生について』に比べて、『ストイック・チャレンジ』では「ストア哲学を現代で実践するための方法」に関するテクニックに話題が絞られており、自己啓発書という趣が強い。

 

・「アンカリング効果」としてのネガティブ・ビジュアリゼーション

 

企業は製品やサービスを売るのにアンカリングを使う。衣料品店がシャツを販売するにあたり、店長には価格設定の選択肢がふたつあるとしよう。プランAは1枚32ドルの価格をつける。プランBは1枚40ドルの価格をつけ、20パーセントの割引セールをしばしば行う。どちらの場合も客はシャツを32ドルで買えるものの、プランBには客の潜在意識に定価が40ドルという「錨」を沈められる心理面での利点がある。そのため、セールが行われると客は40ドルのシャツをわずか32ドルで買えるという印象を抱く。この印象のおかげでさらに何枚か買いたいと思い、シャツがさらに売れる。それに加えて少量ながら定価の40ドルで買う人もいるので、プランBの方がプランAよりも儲かることになる。

 

古代のストア哲学者たちは、こうした心理学者や企業よりもさらに進んでいた。彼らはシャツを売るためではなく、より満ち足りた人生を送るためにアンカリングを使った。たとえば、定期的に、人生が今よりもつらいものになる場合を想像するようにした。最悪の事態を想像し、潜在意識に錨を沈めれば(このような心理学の用語を使っていたわけではないが)、みじめになるだけのように思うかもしれないが、じつはその反対のことが起こった。錨があることによって、現状をどうとらえるかが変わる。現状をしばしば夢に見る最高の状況と比較するのではなく、より悪い状況と比較すれば、現状もそれほど悪くないと思えるようになった。

これは現代では「ネガティブ・ビジュアリゼーション」と呼ばれる、ストア哲学のツールのうちの、もっともすぐれた心理学的手法だ。とはいえ、状況が悪くなることをつねに考える必要はない。それでは本当にみじめになってしまう。人生や境遇が今よりも悪いものになりうることを、一瞬のあいだ定期的に考えるだけでいい。

(p.95 - 96)

 

・「フレーミング効果」

 

ストア哲学者は、フレーミングの力を十分に理解していた。とはいえ、フレーミングという言葉を使っていたわけではない。エピクテトスは言った。「あなたが望まないかぎり、他者があなたを傷つけることはない。あなたが傷つくのは、傷ついたと認識したときだけだ」こうも述べている。「心を乱すのは出来事ではなく、出来事に対する評価である」セネカも同じように考えていた「不正はいかに行われたかではなく、いかにとらえられたかが重要である」マルクス・アウレリウスも同様のことを言っている。「あなたがなにかの外的な原因で悲しんでいるなら、その痛みは原因自体ではなく、それに対するあなたの評価のせいだ。その評価はあなたの力ですぐに取り消すことができる」つまり、潜在意識はマイナスの感情を呼び起こすような枠組み(フレーム)で出来事を意味づけようとするが、そうした傾向は枠組みを意識的に変えれば弱められることをストア哲学者は知っていたのだ。

(p.104)

 

・「回復力」の重要性、「怒り」のデメリット

 

本書を読んでいるあなたは、おそらく予見できる逆境を防ぐために時間もエネルギーも割いていることだろう。だが、そうしたことが起こった時に受ける感情的な影響を最小化するテクニックを身につけるために、時間やエネルギーを割いているだろうか。逆境のコストを足し合わせてみると、なによりも大きなコストは、逆境によって生じる不安や苦痛だとわかる。だとすれば、感情への影響を減らす方法を身につけるべきだろう。

(p.31)

 

怒りを感じたときには、ふたつの選択肢がある。怒りを表すか、抑えるかだ。怒りを抑えれば、その怒りは心の奥深くに押し込まれて休眠するが、あとからよみがえってくる。逆境に対して覚えた怒りが、1年後にまたふつふつと湧きあがってくるかもしれない。こうした怒りのフラッシュバックは何十年も続く可能性がある。

(……中略……)

怒りを表せばどうなるどうか。法を犯した場合は、投獄されるかもしれない。社会に容認される方法であっても、怒りを表せばマイナスの影響を受ける。怒りを向けた相手が傷ついたとしても、傷つかなかったとしても。

(……中略……)

それでは、自分が不当に扱われたと感じたらどうすればよいのだろうか。まずは怒りの感情を避けるべきだ、とセネカは言う。そうすれば、怒りに対処したり、怒りを表したり、抑えたりする必要もなくなる。

 (p.41-43)

 

 

 さて、先日に書いたジョーダン・ピーターソンの『生き抜くための12のルール』についての書評記事でも論じたように、自己啓発は左派のエートスとは相反するところがある*2

 そして、「怒り」を抑えることを説くストア哲学も、本質的にはかなり反左派的だ。不当な状況や不正な状況についても、怒りを表に示して抗議することよりも、受け取る側の認識を変えて「やり過ごす」ことが推奨されてしまうからである。

『ストイック・チャレンジ』のなかでも、最近のアメリカは自分のことを「犠牲者」と位置付ける人ばっかりになってしまい、そのために人々は逆境に立ち向かう力を失っており、不平不満ばかりを言って自他ともに対して非生産的な影響を生じさせている、ということが述べられている。その代わりに、キング牧師やガンディーなどは自分のことを犠牲者とはみなさずに積極的で前向きなかたちで社会運動をリードしたからこそ変革をもたらすことができたのでエラい、という風に賞賛される。

 同様の議論はジョナサン・ハイトも『アメリカン・マインドの甘やかし』で行なっていた。そして、ハイトの『しあわせ仮説』は『ストイック・チャレンジ』と同じく、古代哲学の知見を現代心理学の知識で説明していることが特徴な自己啓発書だ。ハイトの場合はストア哲学というよりもアリストテレス哲学がメインとなるが、いずれにせよ、「徳」を重要視する哲学であることは間違いない。

 個人が権利を主張して自分の正当性を訴えることは近代以降の民主主義には欠かせないわけではあるが、古代的な徳の観点から言えばそれは本人の幸福に必ずしも益するわけではない、ということだ。マッキンタイアの『美徳なき時代』の頃から言われてきたことではあるだろうが、なかなか考えさせられるものがある。

 

 また、アリストテレス的な中庸の「徳」によると、たとえば「友人や家族とはほどほどに付き合った方がいい」とか「お金はほどほどにあるのが一番だ」ということになる。これは「どんな状態が幸福であるか」ということの記述的な議論としてはおそらく間違っていない。ただし、問題なのは、多くの人にとって人間関係や所得を「ほどほど」の域にまで到達させることは困難であり、場合によっては無理であるということだ。「こういう状態は幸福である」ということと、「その状態にたどり着くためにどうすればいいか」ということは、別々に論じられる必要がある。

 アリストテレス哲学に比べると、ストア哲学は記述的である以上に実践的だ。人間関係や金銭などに問題を抱えている人であっても、その人が「回復力」を鍛えたり物事を認識する「枠組み」を変えたりすることで、幸福でない状態にいることの悪影響を減じることができる。ただし、その実践の仕方はかなり自閉的であり、反社会的ですらある点は、留意するべきだろう。世界中の人のすべてがストア哲学を実践してしまうと、世の中はだいぶ味気のないものになるだろうし、また不正義が放置され続けることにもなるはずだ。

 

左派の思想と自己啓発が相反する理由(読書メモ:『生き抜くための12のルール:人生というカオスの解毒剤』)

 

 

 海外では大ベストセラーになった本であり、日本でも熱心に薦める人が何人かいたので、ほしいものリストから送ってもらった。

 しかし、結論から言うと、かなり期待はずれ。

 

 著者のジョーダン・ピーターソンは心理学者で、前著の Maps of Meaning: The Architecture of Belief は神話や宗教に関する著作であるようだ。

 そして、「インテレクチュアル・ダーク・ウェブ」で「反ポリコレ」な論客としても有名である*1

『生き抜くための12のルール』はタイトル通りの自己啓発書であり、ポリコレとか政治とかが直接的には関わらないが、後述するように、そこで書かれている人生指南の内容は左派的な思想とは相反するものだ。

 そして、ビジネス書的な自己啓発書に比べてかなり分厚く、その内容は実に「衒学的」である。ひとつのルールについて説明されるたびに、聖書だとか神話だとかドストエフスキートルストイなんかの古典文学だとかニーチェの哲学だとかが延々と引用される。この本の最大の欠点はこの「衒学」の部分であり、一行で表現できそうなシンプルなことについても文学や宗教や哲学でいちいち大層な味付けをして表現するので、とにかくくどくて冗長になっている。

「12のルール」の具体例は「背筋を伸ばして、胸を張れ」とか「あなたの最善を願う人と友達になりなさい」とか「自分を今日の誰かではなく、昨日の自分と比べなさい」とかである。これらのルール自体はもっともらしく、他の数多ある自己啓発書でも書き尽くされてきたことであり、誤っているわけではないが目新しさがあるわけでもない。この本の特徴は、これらのありふれた自己啓発指南にもったいぶった衒学的な説明が加えられることで、さぞや大層なものであるかのように演出されていることだ。

 わたしとしては、衒学的な本は必ずしも嫌いではない。スティーブン・ピンカーの『暴力の人類史』とかジャレッド・ダイヤモンドの『銃・病原菌・鉄』とか、ああいうのはむしろ好きな方だ。しかし、ピンカーやダイヤモンドの本が衒学的になっていたのは、自説の論証や補強のためであったり、読者に自説をわかりやすく伝える具体例を示したりするためであった。

 その一方で、ピーターソンの衒学は、あくまでも「演出」のためにしかなっていないのである。もともと書かれていることは難しくもなければ常識に反することでもないのだから、妙な具体例なんて出さなくても明確にすっきりと自説を書いた方が読者にも伝わりやすくなるはずだ。また、聖書や文学から引用したところで、それがピーターソンの主張のどこをどう裏付けるかというのも、わたしにはよく分からない。心理学の知見の引用もそれなりに含まれており、そちらについては多少は主張の裏付けになっているとは思うのだが、そこで引用される知見はかなり古典的でありふれたものであり、知的好奇心をそそられるものではない。

 したがって、学問的な自己啓発書を読むのならこの本じゃなくて諸々のポジティブ心理学の本や現代版ストア哲学の本を読んだ方がいい。あちらには大層な演出は含まれていない代わりに、心理学や哲学の知見がすっきりとわかりやすく示されているので実用的なだけじゃなく読書の喜びもきちんと得られる。一方で、「学問的な知見について知ったり正確な知識がほしいんじゃなくて、とにかく自己啓発されたいんだ」という人であったとしたら、こんな分厚い本をわざわざ手に取らなくても他に候補がいっぱいあるだろう。

 

 というわけで、この本そのものの評価は、わたしのなかではかなり低い。

 しかし、先述したように、この本で書かれていること自体は、目新しくはないものの、誤っているわけでもない。

 そして、「反ポリコレ」な論者によって書かれているためか、「自己啓発書」というものにもともと含まれがちな保守性やリバタリアニズムがかなり強いかたちで表れている点は、なかなか興味深い。

 たとえば、ルールのひとつは「世界を批判する前に家のなかの秩序を正す」だ。

 また、以下の引用箇所は、左派の人ならとうてい書かないものだろう。

 

誰かを助ける前に、なぜその人が困っているのかを知るべきだ。はなから、その人が不当な状況や搾取の被害者であると仮定すべきではない。その可能性もあるが、高い可能性ではない。わたしの経験では、臨床患者やその他の例からみて、そんな単純な話だったためしはない。それに、起こったひどい出来事がすべて、被害者の個人的な責任ではないという話を鵜呑みにするとしたら、その人はあらゆる過去において(さらには現在や将来において)、動作主体ではないとみなすことになる。その人の力を全面的に剥ぎ取っているわけだ。

 (p.114)

 

不幸を見せびらかすことが、ある種の武器なのかもしれない。自分が待ちぼうけて沈み込む一方で上昇していく人々を見て、憎悪のなかからそんな武器を生み出した可能性もある。自身の罪を、不適切さを、懸命に生きようとしていないことを立証する代わりに、世界の不公正さを証明しようと、不幸をアピールしているのかもしれない。苦しみをそういう証明に使っているのなら、いつまででも苦しみを受け入れる気になっているも同然だろう。それは「ビーイング」への復讐なのかもしれない。そんな立ち位置にいる者に、誰かが友情を差し向ける必要があるだろうか?

(p.115)

 

 自己啓発の基本は、「他人や社会を非難したり変えようとしたりするのではなく、自分を変えようとするべきである」ということにある。いまいる環境が自分に適していないなら、その環境を変えようとするのではなく、自分の問題点を改めるか別の環境へと自分から移動するかのどちらかを行うべきだ。ロクでもない人間が周りにいるなら、その人が改心することを期待するのではなくて、さっさと縁を切って新しい人と付き合うべきである。

 そして、大半の自己啓発書は、多かれ少なかれ自己責任論的である。自分の人生の舵は自分が取るべきだ、とされるのだ。

 自己啓発書が「批判」よりも自己改善を志向して、他責よりも自責を強調するのは、個人の人生という見地から考えれば、大半の場合においてそちらの方が生産性も実現可能性も高くて、効率が良い選択肢であるからだ。

 

 一方で、左派の思想では、問題の責任を個人よりも社会や構造に見出して、「大きな枠組み」に目を向けることが推奨されて、自己責任論は忌み嫌われる*2

 そのため、左派からすると、自己啓発書やポジティブ心理学は、リバタリアニズム的でネオラリベラリズム的なイデオロギー装置に思えてしまうのである。

 たしかに、みんながみんな自己啓発を実践すると、社会や構造を批判して変えようとする人はいなくなってしまうだろう。そうなると、現状の不正なり不平等なりが放置されてしまう。だから、マクロな単位で見れば、社会を批判する人が一定数存在することは必要なのだ。

 しかし、個人の人生というミクロな単位で見ると、左派の思想は不適応的な側面が多い。自分ではなく周りを変えようとする行為が成功する保証はないし、成功するとしても時間がかかる。

 さらに言えば、左派の思想は他責を推奨するために、人から活力やモチベーションを奪ってしまう。結局のところ、自己責任論を信じて「自分の人生は自分で舵を取るべきだ」と思っている人の方が、成功に向かって努力する意志を持ち続けられるのだ。

 具体例をあげると、インターネットでは「文化資本」の格差について貧乏人や田舎者が恨み言を書き連ねるのが昔ながらの定番となっている*3。「文化資本の格差」的な現象が実際に存在すること、そこに不平等や不正義や不公平が含まれていることはたしかだ。……しかし、同じように「文化資本がない人」同士の間では、文化資本の格差について不平不満を言い続ける人と、自分に与えられたカードで割り切って勝負をできる人とでは、後者の方がずっと有利であるだろう。社会問題の存在を表現する概念について知ってしまうこと自体が足枷となる、という可能性すらあるのだ。

 左派の人は自己啓発を「資本主義的」なものであると思っていることが多い。しかし、自己啓発の思想が適応しているのは、資本主義ではなく世界そのものである。おそらく、どんな構造の社会においても、意志力や活力のある人がそうでない人よりも成功や幸福に近いことは変わらないのだ。

 

 主張の内容が正しいかどうかとは別として、左派の思想は「被害者性の文化」や他責志向と結びやすく、その主張に賛同する人の精神や生活によからぬ影響をもたらす、という副作用があることは意識されるべきだろう*4

 ついでに書いておくと、一昨年くらいからやたらと流行するようになってきた反出生主義をわたしが警戒しているのも、同様の理由によるものだ。哲学的には反出生主義は興味深く検討に値するものであるし、特に動物倫理の分野においては、具体的な行動や政策の是非について考えるうえで避けられないものである*5。だが、「個人の考え方や心理に与える影響」という観点で見てみると、反出生主義は左派の思想よりもさらに他責的な傾向へと人々を導いて活力を奪うものであることは間違いない。反出生主義の思想は、「二分割思考」「マイナス思考」「過度の一般化」「拡大解釈」など、うつ病に特有な「認知の歪み」とあまりにも相性が良すぎるのだ*6。そして、反出生主義がミームとして広まることで、多くの人々がうつに導れたりうつが悪化したりしてしまう危険性は、かなり高そうである。だから、公衆衛生的な観点からすると、反出生主義についてあまり語られ過ぎるのもどうかと思うのだ。

 

ケアの倫理と二層理論/「アイデンティティ哲学」がつまらない理由

 

link.springer.com

 

 ヘルガ・クーゼ、ピーター・シンガー、モーリス・リカードによる共著論文 "Reconciling Impartial Morality and a Feminist Ethic of Care" (「公平な道徳と、フェミニストによるケアの倫理を調和させる」)を読んだのでメモ的に内容を記録。

 

 この論文では、公平さや抽象性や客観性を重視する「正義」の倫理に対する、当事者同士の関係性や文脈依存性や主観性を重視すべきだと強調する「ケア」の倫理による批判が取り上げられながら、「けっきょく道徳は公平であるべきか(impartial)、偏ったものであるべきか(partial)」ということが問われる。

 この問題に対して著者が提示する解決方法は「二層理論」だ。日々の生活や現場における直観レベルの道徳は偏っていて限定的であるくらいの方がうまく機能するので、その観点からすれば「ケア」のように偏りや不公平を含む倫理も認められる(自分の家族を他の人よりも優先すべき、など)。しかし、複雑な問題に時間をかけて対処したり制度設計をしたりなどの批判的思考が必要となるレベルにおける道徳は公平なものであらねばならない。そして、直観レベルにおけるケアの実践のあり方も、批判的のレベルの道徳(つまり、正義の倫理)による精査の対象とされなければならない。

 著者たちは「調和」と主張しているが、ケアの倫理の提唱者たちからすれば、これは「取り込み」としか思えないだろう。ケアの倫理の存在意義を認めはするものの、あくまで直観レベルという「下位」のものとしての存在意義しか与えない考え方だからだ。……とはいえ、倫理学道徳心理についてまじめに考えれば、結局のところ、著者たちのような結論にしか至るはずである。これまでにも述べてきたように、ケアの倫理は全面的に肯定することがかなり難しい主張であるからだ*1

 

 それはそれとして、この論文では、フェミニズム思想には男女の共通点を強調して公平な取り扱いを求める運動(平等派フェミニズム)と、男女の差異を強調して女性ならではの価値観や経験を重視する運動(差異派フェミニズム)の両方が存在しているということや、二つの派閥の間にあるジレンマについても触れられている。この点に関する著者たちの結論もやはり「二層理論」であり、フェミニズムの原則的な目標(=批判的思考レベル)は「平等派フェミニズム」であるべきだが、それに違反しない範囲内であれば「差異」を強調することも認められる、といったものだ。

 

 実際、「差異」の強調はこれまでにフェミニズムが培ってきた平等に関する達成を台無しにしかねない点があり、取り扱いには注意を要する。「ケアの倫理」は差異を強調するキャロル・ギリガンやネル・ノディングスを元祖としているからこそ、この問題には悩まされているようだ。先日に読んだ『ケアの倫理:ネオリベラリズムへの反論』からも、苦労している様子がうかがえた。

 

ケアの倫理 (文庫クセジュ)

ケアの倫理 (文庫クセジュ)

 

 

 この本のなかでは、ギリガンに関しては肯定的に扱われている。

ギリガンの議論は、「ケア」においてアイデンティティを獲得する女性、認められていない配慮の役割を担う人びとを勇気づけた。彼女が意識したことは、このような女性たちは、自己を犠牲にして他者を援助し、配慮する力を搾取されているということだ。

(……中略……)

ギリガンはみずからの『異なる声』について回想したときに指摘しているが、「ケア」の倫理は根本的に民主主義的であり、多元主義的であって、市場社会におけるジェンダーの二元性と序列に対して抵抗する声である。それゆえ、「ケア」の倫理は、多文化主義的であり、差異を承認する政治なのだ。さらに、「ケア」の倫理は、女性の徳を称賛する自然主義ではなく、フェミニズムの政治闘争に関わる。「『ケア』のフェミニストの倫理は、異なる声だ。なぜなら、それは、家父長制の規範や価値とは無関係だからだ。それは、ジェンダーの二元性と序列に従わず、民主主義の規範と価値を明らかにしようとする。」

(p.35)

 

 それに比べて、ノディングスはずいぶんと否定的に扱われる。

 

ネル・ノディングスは、女性が母親となることを理論展開の基軸にすえる。配慮、他者への関心の価値は女性の価値とされる。その価値は母性愛にかかわる女性の偉大な道徳的感情を表わす。出産、そして母親になることが重要なのだ。女性は母性の価値を実現するロボットであり、その価値は女性の本質とされるから、このイメージから外れる女性は、女性として考慮されない。こういった女性の価値を主張することは異性愛を前提とすることなしにはありえない。

このように配慮の関係を記述することは、道徳の自然主義をめざす愛の倫理のなかに埋め込まれている。配慮する態度は他者を受容する態度であり、その態度が感情移入を可能とする。そして、配慮が自然なこととして他者の立場にたってなされるとされる。すなわち、配慮の関係は、配慮を受ける人の依存する生命に対して、配慮する側の人が権力を行使する関係とは考えられない。

(p.23 -24)

 

 ところで、「民主主義的」で「多元的」で「市場社会」に抵抗する主張ならオッケーであり、「異性愛を前提すること」や「道徳の自然主義」を肯定するような主張ならダメである、ということは、誰がいつ決めたのだろうか?

 本来であれば、民主主義や多元性を肯定する主張を是として、市場社会や異性愛自然主義を肯定する主張を否とするためには、それぞれの項目について規範的な議論を行うことが要請されるはずだ。しかし、著者は「これらがオッケーでこれらがダメなのは、説明するまでもなく、読者も理解しているはずだ」という前提で筆をすすめているのである。

 そして、『ケアの倫理:ネオリベラリズムへの反論』における「ネオリベラリズム」とは、世の中で「ネオリベラリズム」について書かれた大半の著作のなかでそうなっているように、現代社会で起こっている悪い物事をひとまとめにして放り込められる、ゴミ箱のような概念と化している。

 

 たとえば、ギリガンやノディングスが展開した主張は、サイモン・バロン=コーエンの『共感する女脳、システム化する男脳』に代表されるような、現代の発達心理学進化心理学が培った「男性のシステム化思考/対物志向」と「女性の共感思考/対人志向」との対比に関する研究などを参照すればより奥深く面白いものに発展させられそうなものである。しかし、「ケアの倫理」を主張する人たちのほぼ全員がフェミニストであるために、こちらの方向で研究が発展することは望み薄である。なぜなら、「自然主義」はイケないこととされているからだ。彼女らは「女脳」という単語を耳にしただけで、頭ごなしにその研究を否定することだろう。

 

 問題なのは、「ネオリベラリズムはイケないことだ」とか「自然主義はイケないことだ」とかいった発想が、議論を経て提示されているのではなく、無条件の前提となっていることだ。これは、特に哲学の本においては不適切なことである。

 そして、同様の問題は『荷を引く獣たち:動物の解放と障害者の解放』にも通底していた。

 

davitrice.hatenadiary.jp

『ケアの倫理』も『荷を引く獣たち』も、それぞれ、フェミニズム/障害者運動というアイデンティティ・ポリティクスに絡んだ議論を展開している、ということでは軸を一にしている。

 そして、わたしが思うに、これらの本がつまらない最大の理由は、哲学の議論であるくせにアイデンティティ・ポリティクスに主張を引きづられていることだ。何が是とされて、何が否とされるかという前提は、本が書かれる前から運動論的なアジェンダによって定められている。著者たちはそれに配慮して帳尻を合わせられる範囲でしか、議論を展開できない。だから、哲学の本や学問的な本に本来ならあるはずの、議論や思考が自由に展開されることで生じる面白さや豊かさや意外さみたいなものが、まったく期待できないのである。

 

econ101.jp

アイデンティティ哲学」がはらむ問題をもう一つ挙げると、ジョセフ・ヒースが「『じぶん学』の問題」で論じたように、そのアイデンティティの部外者からの批判が差別的・抑圧的なものとして自動的に排除される構造になっていることだ。この構造により、通常の学問的営みにおいては他者からの批判によって修正されるはずの、感情的推論などの「認知の歪み」が修正されずに放置されて、ひたすらエコーチャンバーとなってしまう。

 

 無論、特定のアイデンティティを重視した主張を展開することで、「中立」で「主流」とされていた議論に存在している偏りを暴き出し、修正できる、という生産的な展開が生じることもある(「ケアの倫理」に関しては、たとえばエヴァ・キティによるロールズ批判がそうだ)。しかし、そうだとしてもアイデンティティには批判的視座の一角としての役割しかなく、それそのものを中心した主張を展開することは難しいだろう。やはり、客観性や普遍性を志向した議論がメインとなるべきで、アイデンティティ的な議論は存在するにしても下位ジャンルに留まるべきであるように、わたしには思える。

 

女性のための進化心理学?:『ジェンダーの終わり』読書メモ(2)

 

 

 

 先日の記事で書いたように、『ジェンダーの終わり:性とアイデンティティに関する迷信を暴く』ではトランスジェンダーやノンバイナリーに関する話題がメインとなるが、第7章や第8章ではヘテロセクシャルの女性や男性に関する進化心理学的な議論がなされる。6章以前のセンシティブな議論に比べると他愛のない話題になるのだが、個人的には7章以降の方が面白かった。

 

 第7章では「デートとセックスにおいて女性は男性のように行動しなければならない」という、ジェンダー平等的な規範が「迷信」として批判される。

 この章で著者が主張しているのは、「恋愛や性に関するジェンダー平等的な規範は、大半の女性や男性に生来的に備わっている志向や行動傾向を無視した空論であり、デートやセックスにおいてジェンダー平等的な規範を意識し過ぎることは女性自身の意志を抑圧したり女性に不利益をもたらしたりする場合がある」といったものだ。

 たとえば、「最初のデートでは男性は女性に奢るべきだ」という規範は男女平等には反するものであるが、著者はこの規範を支持する。進化心理学の観点からすれば男性とは隙あらば不特定多数の女性とセックスをしたがる存在であり、「複数人の異性と不誠実な関係を結ぶ」ことを企む可能性が女性よりも高いからこそ、女性は目の前の男性が「自分に対して誠実に接してくれるか」ということを見定めなければならない。

 最初のデートで奢ることは「自分がコストを払ってでも、相手との関係を真剣に育みたい」と思っていることを示す行為であり、誠実さや忠実さのディスプレイとなる。逆に言うと、最初のデートですら奢らないような男性は、口ではどれだけ甘いことを言っているとしても、女性側からすれば、自分との関係を真剣に育もうとしてくれることを示す保証がない危うい相手であるのだ。

 同様に、「デートの誘いは女性側からではなく男性側から行うべきだ」という規範も男女平等には反するが、誘うという行為のコストを男性に負わせることで真剣に付き合う気のない男性のいくぶんかを事前に排除できるという点で、女性が時間を無駄にすることを防いだり女性の身を守る効果があったりする。

 著者が懸念しているのは、女性の身を守るのに効果的であった旧来的な規範がジェンダー平等的な規範に取って代わられてしまうことで、若い女性たちがロクでもない男たちに捕まってしまうことである。

 そして、著者によると、極左的なフェミニズムイデオロギーに賛同していたり「自分はアライだ」などと言ってくる男性こそが、女性が最も警戒しなければならない相手である。口先だけはイデオロギーに賛同したり、相手に合わせた主張をすることには、なんの負担もかからない。男性側からすれば、自分はいっさいコストを払わずに特定の女性の気を惹けるという点で、これほどおトクな手段はないのだ。

 同じく著者が懸念しているのが、「これまで女性の性の自由は家父長制によって抑圧されてきたが、女性だって男性と同じよう自由にカジュアルにセックスを愉しむべきだ」といったフェミニズム的な規範を信じた若い女性たちが、カジュアルなセックスに勤しんだり自分からすすんで「ビッチ」になろうとしたりすることだ。

 女性もセックスを愉しめることは事実だとしても、結局のところは、大半の女性には、男性ほどには「不特定多数の異性とのセックスを愉しみたい」という嗜好は備わっていない。そのため、女性が「先進的な人間であるためには、ビッチにならなければ」というプレッシャーから無理してカジュアルなセックスを求め過ぎることは、本人の内心や身体的な欲望に反している可能性が高い。「女性も男性と同じようにカジュアルなセックスを愉しむべきだ」という規範は、結局のところ、男性の側ばかりを利しているおそれがあるのだ*1

 

 また、第7章では、「化粧や美容を重視する文化は、家父長制による女性への抑圧の産物である」というタイプの意見も批判される。

 基本的には、化粧や美容とは、男性が普遍的に「魅力的だ」と思うような外見(赤く艶やかな唇、汚れのない肌、大きい胸と尻に引っ込んだ腹からなるボディラインなど)を女性が獲得するためのものとして発達してきた。そして、現代社会で女性が化粧や美容にかける費用・時間がどんどん増大していて女性の生活に多大な負担をかけているのは、家父長制のせいではなく、他の女性と比べてより魅力的になることを目指す女性たち同士の競争が激化していった結果である。

 とはいえ、著者は、化粧や美容による金銭的・時間的なコストが女性にだけ押し付けられており、女性の精神や身体にも悪影響を与えていることは道徳的には不当である、とも論じている。「女性が化粧や美容に熱心になることは進化心理的に自然なことであるから、間違ったことではない」とまでは主張していないことがポイントだ。

 また、ジェンダー平等的な価値観においては「男性っぽい装いをする」や「髪の毛を不自然な色に染める」タイプの化粧・美容は「旧来のジェンダー規範に逆らっている」ということで肯定されるが、それらが金銭的・時間的なコストという点では旧来の化粧や美容と変わらない場合には、化粧や装いの種類を変えたところで女性に対する負荷は残り続ける、とも指摘されている*2

 

 著者自身が女性だということもあって、進化心理学の知見を事実として肯定したり社会構築主義的なジェンダー論の悪影響を批判したりしながらも、「それらの知見をふまえたうえで、女性たちの利益について配慮するためには、どう考えればいいか」という点に主眼があたっているのがユニークなところだ。

 とはいえ、ジェンダー論やフェミニズムなどの思想にあまり触れたことがなさそうな女性であっても不特定多数とのカジュアルなセックスを純粋に楽しんでいる場合はあるようだし、セルフイメージの演出などの「思想」込みの化粧はたとえ金銭や時間的なコストがかかるとしても女性の自己肯定感を高めるという効果があったりもするようであるらしい。

 もちろん、著者も「進化心理学の知見はあくまで平均的・一般的なものであり、女性にせよ男性にせよ、進化的心理学が明らかにするような男女の傾向に当てはまらない人も存在する」という点を読者に留意させてはいる。

 いずれにせよ、わたし自身は男性ということもあって、若い女性たちに対する著者のアドバイスがどこまで的を得ているかということは、ちょっと判断がつかない。

 

 第8章では「ジェンダーニュートラルな養育は機能する」という主張が迷信であると批判される。子どもの男女差は社会的な刷り込みの結果ではなく生得的なものなので、たとえ男の子にお人形を与えていても男の子は車のおもちゃで遊びたがったり「男らしさ」的な特徴を自然と身につけていくようになったりするし、逆もまた然り、という議論だ。

 ジェンダーニュートラルな養育をしたがる親は、「子どもの性自認は多様でありえるから、生物学的な性別と性自認が同じであると前提した養育を行うと、実はトランスジェンダーである子どもに対する抑圧につながるかもしれない」という主張を真に受け過ぎている、という場合もある(子どもがトランスジェンダーなどである可能性は存在するが、その可能性は本来はごく僅かであるものが、活動家によって大げさに誇張されている、ということだ)。

 しかし、子どものことを心から思っているためというよりも、「自分はいかにジェンダーの多様性について理解があるか」ということを他の人たちにアピールするためにジェンダーニュートラルな養育をする親の方が多いだろう、ということを著者は指摘している。

 そして、ジェンダーニュートラルな養育を支持する言説には、ダブル・スタンダードが内包されている。子どもが自分の性別に典型的な振る舞いをすることは「社会による刷り込みの結果だ」として否定的に見られる一方で、自分とは逆の性別に典型的な振る舞いをすることは「社会に影響されていない、自分の生まれ持った性自認が自然に表出されている」として肯定的に見られるのだ。つまり、社会構築主義と生物学的決定論がご都合主義的に使い分けられているのである。

 

 9章や結論の章では、社会正義運動やポリティカル・コレクトネスが科学や学問の自由などに対して与えている悪影響などについて論じられている。

 9章では『アメリカン・マインドの甘やかし』の著者であるジョナサン・ハイトが登場したりすることもあって、論じられている物事の趣旨はわたしがこのブログや現代ビジネスの記事などで散々紹介してきたのとだいたい同じようなもの*3

 とはいえ、「哲学、英語学、教育学などの学際的な分野の学者」や「ジェンダースタディーズやクィアスタディーズなどの"スタディーズ"系の学者」や「自分のWebサイトのプロフィール欄に"不平等"や"生きた経験 (lived experience)"や "家父長制"などの社会正義的なバズワードを含めている学者」などは、イデオロギーに影響され過ぎているおそれが高くて科学者が共同研究をする相手として適切ではない、と論じている箇所は歯に衣着せぬ感じがなかなか刺激的だ。

 

 

*1:同様の指摘は、ジョセフ・ヒースも『反逆の神話:カウンターカルチャーはいかにして消費文化になったか』のなかで行なっている。

 多くのフェミニストは早くから気づいていた。「自由恋愛」がこの社会における大規模な女性の性的搾取を可能にしてしまったのだ。フェミニストの当初の考えは、男は抑圧する側だから、男女関係を律するルールはすべて男に都合がいいように操作されたはず、ということだった。そんなルールの多くが明らかに女性の防衛のために、女性を男性から守るために作られたという事実は、なぜか見落とされた。社会学者でフェミニストカミール・パーリアは八〇年代に、こうしたやかましい古くからの社会慣習の多くは、実のところレイプの危険性を減らす重要な機能を担っていたのだと指摘して、騒動を巻き起こした。同様に、昔ながらの「できちゃった結婚」ルールは、子供の父親としての責任を男性たちに取らせた。この規範が崩れてきたことも、西洋世界に「貧困の女性化」が広がっていることの主要因である。

実際、もし男性の一団に理想のデートのルールを考えるように頼んだとしたら、たぶん性革命によって出現した「自由恋愛」にそっくりの設定を選ぶことだろう。女性の感性に配慮しなくてよければ男はどういう性生活を送ろうとするのかを調べるには、ゲイ浴場を見学すればいい。しかし、このような可能性は、主としてカウンターカルチャー的分析の支配力のせいで黙殺されていた。女性は抑圧される集団であり、社会規範は迫害のメカニズムであると、カウンターカルチャーは主張した。だから解決策は、すべてのルールを廃止することだ。したがって、女性の自由は、すなわち社会規範からの自由と同一視される。

結局、これは悲惨な同一視だった。そのせいで全く受け入れがたい状態が理想的な解放と称されたばかりか、現実に女性の生活の確かな改善につながりそうな改革の受容を「取り込み」や「裏切り」として斥ける傾向を生み出した。どうしてここまでひどく道を誤ってしまったのだろう?

(p.79-80)

 

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*2:化粧や美容が「家父長制によって女性に押し付けられたもの」であるという主張を否定している点では、キャサリン・ハキムが『エロティック・キャピタル』で論じた主張と近い。しかし、ハキムの主張は女性同士の間で起こる「美の過当競争」を肯定しかねないものであった。その一方で、『ジェンダーの終わり』の著者は化粧が女性にとって負担になる可能性を考慮して「行き過ぎは抑えるべきだ」「女性だけが一方的にルックスを評価される社会が不当であることはたしかだ」といった穏当な主張をしている。わたしとしてはこっちの方が好ましいと思う。

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*3:

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読書メモ:『ジェンダーの終わり:性とアイデンティティに関する迷信を暴く』(1)

 

 

 裏表紙の賞賛コメントには『人間の本性を考える: 心は「空白の石版」か』の著者でもあるスティーブン・ピンカーや『共感する女脳、システム化する男脳』の著者であるサイモン・バロン・コーエンの名前があるところから、「男女の生物学的な性差に関する本かな」と思って購入してもらったのだが、実際にはトランスジェンダーやノンバイナリー(Xジェンダー)に関する議論が中心の本だった。

 また、内容としては明らかに「保守」寄りのものである(そのためか、ヘザー・マクドナルドやベン・シャピロなどの保守論客も裏表紙に名を連ねている)。そして、この本は2020年の8月に発売されたものであるが、 Amazonには400近くのレビューが付いており(ほとんど五つ星だ)、かなり話題になった本であることがうかがえる。

 トランスジェンダーやノンバイナリーに関する議論はこの1〜2年で日本でもにわかに目立つようになった印象があるが、欧米においてもかなりホットなトピックとなっているようだ。

 

 この本の著者であるデブラ・スー(Debra Soh)はカナダ人であり、性科学や神経科学の研究を行ってきた経験がある。しかし、現在の彼女は研究者ではなくジャーナリストとなっている。

 この本の序文で語られている、著者がジャーナリズムの道を選んだ理由を簡単にまとめると、以下のようになるだろう:性やジェンダーに関する問題について科学に基づいた正確な知識を発表したり広めたりしようとすると、活動家から非難や攻撃を受けてしまい、キャリアにも傷が付く。そのため、性科学を研究している人たちであっても、自分たちの知っている事実について口を噤んでしまうことになり、活動家側による科学的な根拠のない意見ばかりが喧伝されてしまう状況となってしまっている。その状況は、実害を生じさせてもいる。そのような状況を打破するため、自分はジャーナリストとなって事実を広く知らしめることを選んだのだ。

 ……ということで、この本は全体的に「理性的で事実を重んじる科学者の意見」と「非理性的でイデオロギーを優先する活動家の意見」とが対比される、という構図になっているフシがある。一般論を言わせてもらうと、本の著者がこういう構図を作るときには、読者は意見や感情を著者に誘導されないように警戒をした方がいいものだ。

 その一方で、アリス・ドレガー(Alice Dreger)が『ガリレオの中指』で取り上げていたマイケル・ベイリー(Michael Bailey)に対するバッシング事件のように、性的自認や性的嗜好に関する科学的研究を行っている研究者がリスキーな立場にいるということは、事実の一面ではあるだろう*1

 

著者は、性に関する社会構築主義的な議論を強く否定する。

性別とジェンダーに関する著者の定義は、以下のようなものだ。

 

生物学的な性別(biological sex)は、男性か女性かのどちらかである。一般的な通念とは異なり、性別は染色体や生殖器やホルモン像(hormonal profile)ではなく、配偶子によって定義される。男性から生産される小さな配偶子は精子と呼ばれ、女性から生産される大きな配偶子は卵子と呼ばれる。卵子精子のあいだに中間的なタイプの配偶子が存在するわけではない。そのため、性別は二元的(binary)だ。性別は連続的なものではないのである。

ジェンダーアイデンティティとは、自分の性別について抱く感覚であり、自分のことを男性であると感じるか女性であると感じるか、ということである。ジェンダー表現(gender expression)とは、自分のジェンダーアイデンティティについて他の人に言明することや、服装・髪型の選択に話し方や身振りといった外見を通じて自分のジェンダーを表現すること、などである。

性別と同じように、ジェンダーも、……アイデンティティと表現の両方において……生物学的なものである。ジェンダーは社会的に構築されたものではなく、解剖学的構造や性的指向から分け隔てられるものでもない。最近の学者たちによってあなたが信じ込まされているかもしれないことにも関わらず、これらの要素はしっかり関係しているのだ。社会ではなく生物学的な要素が、ある人のジェンダーが典型的なものであるか非典型的なものであるか、自分に生まれつき備わった性別についてどれだけ一致感を抱けるか、どんな相手にパートナー候補としての性的な魅力を感じられるか、などを決定しているのだ。

(p.17)

 

  そして、著者によるトランスジェンダーの定義は、以下のようなものだ。

 

 

……(前略)……この本のなかでわたしがトランスジェンダー・コミュニティについて言及するときには、ジェンダーに関する違和感(dysphoria)を抱いており(生まれ持った性別よりも逆の性別に対してより強く一致感を抱いていること)、社会的なものにせよ医学的なものにせよ逆の性別に移行するための手続きを行っている人々のことを指す。

(p.79 - 80)

 

 

 著者は、トランスジェンダーの人々が存在するという事実自体は、科学的にも確かであると認めている。

 この本のなかで著者が特に強く批判しているのは、トランス「活動家」であったり、トランスジェンダー運動の「行き過ぎ」であったりする。

 この本で「迷信」とされている考えのひとつは、「ジェンダー違和感を抱いている子どもは性移行を行うべきである」というものだ。

 性移行は、手術を行わない社会的なものであっても、いちど移行してしまうと、元に戻ろうとしたときに精神面や対人関係の面において多大な負担がかかるのであり、安直に行うべきではない。特に子どもが若ければ若いほど、本人がほんとうに「ジェンダー違和感」を抱いているかどうかは不確かになるのだから、子どもが意思を確定して表明できる年齢になるまでは、性移行は控えるべきだ。

 ……しかし、活動家たちによって「性別の多様性」や「ジェンダー不定性」が誇張して喧伝されていることから、親たちは「子どもが性的違和感を口にしたら、移行をさせなければいけないかもしれない」という罪悪感を抱くようになっている。「トランスジェンダーの自殺率の高さ」などのショッキングな情報によって親たちの不安が煽られていることや、性移行を検討しない親は「差別的」であるとして活動家たちから非難されることも親を怯えさせて、子どもの性移行が安直に行われる原因となっている、と著者は主張するのだ。

 

 また、著者は「女性として生まれた女性とトランス女性の間に違いは存在しない」という考えも「迷信」として批判している。

 たとえば最近に日本でもすこし話題になった、女性スポーツ競技へのトランス女性の参加については、生物学的女性にとって不公平な施策であると批判されている*2*3。女性用のトイレをトランス女性が利用することや、女性・男性用ではなくジェンダーニュートラルなトイレを普及させることは女性に危害をもたらして、実際の性犯罪にもつながっている、とも論じられている。

 著者が特に問題視しているのは、個々の施策そのものというよりも、トランス女性と生物学的女性の利害が対立する可能性のある施策について、議論することすらできない状況になっていることだ。「トランス女性のことを考慮した施策は、女性に対して不公平なものとなっていないか」いう疑問を呈するだけでもヘイトスピーチと認定されて「TERF」とのレッテルが貼られてしまう状況になっている、と著者は批判するのである。

 

(この段落は著者じゃなくてわたしの私見

 

 ……このあたりの問題意識は、日本のTwitterにおける生物学的女性(及び生物学的女性を支持する男性フェミニスト)とトランス女性(及びトランス女性を支持する両性のフェミニスト)との間での論争を見ていても、「わからなくはない」という感じである。ただし、生物学的女性の側もトランス女性の側に対して「名誉男性」などのレッテルを貼ったり誹謗中傷を行ったりしている、ということには留意するべきだ。

 日本のTwitterを眺めていると、トランス女性の側は生物学的女性の「シス特権」をあげつらい、生物学的女性の側はトランス女性の「トランス特権」をあげつらうことで、不毛な非難の応酬となっている様子がうかがえる。

 この状況については、「特権」概念は他者を非難する武器として使うだけなら便利で強力なものであるが、妥協点を発見したり利害を調整したりする必要がある場合には逆効果しかもたらさないものである、ということが影響しているだろう。「特権」概念にかかると、「ある属性が経験している困難や感じている苦痛を経験したり感じたりせずに済む属性は、特権を持った存在である」とされる*4。特権を指摘された人は、本人がどう振る舞っていて他人に対してどう接しているかに関わらず、反省すべき加害者側であり、弱者である属性に対して譲歩を行なうべき存在であるとされてしまうのだ。特権を指摘された人のなかでも真面目であったり気が弱かったりする人は罪悪感を抱いて、実際に反省や譲歩を行うかもしれないが、大半の人はムッとなってしまい、相手の側に対する反感をむしろ強めてしまうものだ。そうなると妥協や合意は遠ざかってしまう。「白人特権」や「男性特権」といった言説ですら逆効果をもたらしてきたものだが、人種の問題や男女の問題と比べても生物学的女性とトランス女性との間における問題では被害や不利益の状況が複雑に入り組んでいるからこそ、特権概念の悪影響はさらに強くなるのだろう。

 

ジェンダーの終わり』では、トランスジェンダー運動よりもノンバイナリー運動の方が、さらに強く批判されている。

 先述したように、トランスジェンダーの人々が存在すること自体については、事実であると著者も認めている。一方で、ノンバイナリー(Xジェンダー)には科学的な根拠が存在しない、と著者は主張するのだ。

 著者によると、性別とジェンダーは、あくまでバイナリー(二元的)なものである。トランスジェンダージェンダーアイデンティティが生物学的な性別とは逆になっているということであるし、「女性的なゲイ」や「男性的なレズビアン」もジェンダー表現や性的指向が性別とは逆になっているということであるが、「逆」であるということは二元論のフレームに収まっているということなのだ。

 そして、近年のノンバイナリー運動では、ドラァグや異性装者などのように「ジェンダーアイデンティティは性別と一致しているが、ジェンダー表現は性別と逆になっている人」までもが「ジェンダーアイデンティティが他と異なっている人」という括りに入れられている。また、同性愛者の定義がジェンダー表現によって細分化されたりすることで、アイデンティティのカテゴリがどんどん増大している。それによって、性別やジェンダーアイデンティティが二元論的でなく連続的なものであるかのように粉飾されている、と著者は主張するのだ。そして、トランスジェンダーの定義も拡大されており、「自称トランス」は近年になってどんどん増えている、と著者は論じる。

 著者によると、定義上は同性愛者である人が「自分はトランスジェンダーである」と主張したがったり、特に近年の若者が「自分は男性にも女性にも当てはまらない」「自分は第三のジェンダーである」という主張をしたがる背景には、アイデンティティ・ポリティクスやインターセクショナリティなどの左派的なトレンドが関連している。近年ではシスヘテロ男性のみならずシスヘテロ女性や同性愛者すらもマジョリティ側に認定される可能性があるため、より珍しくより"マイノリティ"なアイデンティティを主張することが、自分の個性をお手軽に表現する方法になっているだけでなく、誰からも批判されない居心地の良いコミュニティに属するための方策になっている、ということだ。

 そして、ジェンダーに関する議論や学問では生物学的・科学的事実が無視されており、事実と主観との間の境目を無視してしまう社会構築主義が跋扈していることもノンバイナリー運動が隆盛する原因となっている、と著者は論じるのである。

 

 ……この議論に関しては、わたしも、「まあそういう側面はあるだろうな」とは思う。ノンバイナリーやクィアが「トレンディ」なものになっているという風潮は、たしかにあるだろう。……一方で、性別やジェンダーについて著者が与える二元論的な定義がすべての場面において有用であるかどうかはわからない。ちょっと定義として狭すぎたり、捉えるべきところを捉えきれていないのではないかとも思える。

 また、二元論に当てはまるか当てはまらないかに限らず、自分のジェンダーアイデンティティについて悩んでいる人が多くいることも事実であるはずだ。著者による批判はそういう人たちにも飛び火してしまって、無用な加害を生じさせるおそれがあるとは思う。同じく、上述してきたようなトランス「活動家」に対する批判も、そうではないトランスジェンダーの人々に飛び火して加害となる可能性は大いにあるだろう。

 ……とはいえ、ノンバイナリー運動に対して違和感を抱いている人は多くいるだろうし、その運動に不自然なところがあったり科学的な事実と反しているところがあるとすれば、誰かがどこかで批判をしなければならないことでもあるとも思う。

 

*1:ガリレオの中指』に関して紹介している記事はこちら。

davitrice.hatenadiary.jpまた、以下のブログでもマイケル・ベイリーに関する記事が訳されている。

annojo.hatenablog.com

*2:

togetter.com

*3:ただし、著者も、「トランス女性であるスポーツ選手の大半について、彼女たちが不当な利益を得ることを目的として性移行したとは、わたしは考えない」(p.215)としている。著者が批判している対象はあくまでトランス「活動家」であり、トランスの人々一般については共感的・同情的な筆致も節々にある。

*4:

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読書メモ:『恋人選びの心:性淘汰と人間性の進化』

 

恋人選びの心―性淘汰と人間性の進化 (1)

恋人選びの心―性淘汰と人間性の進化 (1)

 

 

 

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『Virtue Signaling』の書評で書いたようにわたしはジェフリー・ミラーは文筆家としてはあまり好ましく思っていないところがある。『恋人選びの心』も、「人間に特有の知性や言葉や芸術性やユーモアはすべて性淘汰の産物として進化してきた」という理論でなんでもかんでもされており、「牽強付会」という感が付きまとう。

 とはいえ、ミラーが提示しているのあくまで仮説であり「この仮説を使えばあんなこともこんなことも説明できますよ」というデモンストレーションとして、批判は承知のうえで、あえていろんな物事について「性淘汰とシグナリング」の理論を当てはめて説明しているのかもしれない。

 

 この本の1〜3章では、ダーウィンによる性淘汰の発見にまで遡りながら、ダーウィン以後の進化理論では自然淘汰ばかりが強調されて性淘汰が無視されてきた、という歴史が振り返られる。また、性淘汰やシグナリング理論、ランナウェイ進化などの考え方が解説される。

 そして、本番となる4章以降では、人間のさまざまな特徴が「性淘汰」によって解説されることになるのだ。

 

 面白いと思ったところをいくつか紹介しよう。 

 

性淘汰は、性的不誠実に対して二段階の防衛を用意している。一つは大恋愛であり、もう一つは親密な性的コミットメントである。大恋愛は、他の誰でもないたった一人の相手に向かって、すべての求愛努力を強力に向けさせる。少なくとも数週間から数カ月にわたって、これは不誠実を抑制する。大恋愛が性的な魅力であることは言うまでもない。これは、それ以外の点で魅力的でない人物を結婚へとこぎつかせることはできないかもしれないが、他のすべてが同じだとすると、明らかに恋人選びでは評価されている。愛は性淘汰によって進化したが、とりわけ、誠実さの信号として進化したのである。

(p.469)

 

 上記は、「ロマンティック・ラブ」の進化的な説明であると言えるだろう。そして、ロマンティック・ラブを「イデオロギー」として軽率に退けようとする言説や、「恋愛という考え方は西欧由来であり、近代化するまで日本には恋愛というものは存在しなかった」という言説に対するいい反論になると思う。

 わたしが大学の学部生だった頃、「世界中のまったく異なる文化圏におけるフィクションや物語に、なぜ共通点が多く存在するのか」ということが授業で説明されるときには、ジョーゼフ・キャンベル的な「神話学」ばっかり聞かされていた。当時から、わたしにはキャンベルの議論は胡散臭く物足りないものであるように思えていた*1

 また、文学研究者たちが「恋愛は西欧由来」という言説に考え方を縛られてきたとすれば、かなり多くの読み違えが発生してきたということになるはずだ。「ある物語の構造を多くの人が面白いと感じるなら、それはなぜか」「なぜ、ある特定のテーマは人を惹きつけて、それについての物語が多く書かれているのか」ということを論じるうえでは、心理学的・進化的な解釈は欠かせないように思える*2

 

性淘汰がなければ、人間が慈善を行う傾向は、ずっと進化的な謎としてとどまっただろう。

(……中略……)

慈善によって、与え手から受け手に資源がどれほど委譲されるかということに、多くの人々があまり注意を払わないのは不思議なことだ。

(……中略……)

人間の慈善のもう一つの特徴は、寄付者が寄付したことを示す何らかのしるしをもらうことができ、それを公的に表示することができるということだ。

(……中略……)

人間の慈善に関する、これらの奇妙な性質をどのように説明したらよいだろう?これが、血縁淘汰や互恵性から出ているとはとても思えない。また、真の利他性を身につけさせようという社会化の結果とも思えない。そうではなくて、これらの多くは、慈善もまた別の形の無駄に満ちた見せびらかしであることを示している。慈善の本質が、他者に真の利益をもたらすことではなく、寄付者にコストをかけさせることにあるのだとすれば、人々がなぜ慈善事業の効率のよさに注意を払わないのか、金を寄付するべきときにどうして時間を寄付するのか、などといったことが理解できるようになるだろう。慈善への寄付が、信号として有効であることを宣伝しなければならないのであれば、寄付者がどうしてその善意を表示するための小さなバッジをもらうのかも理解できるし、慈善事業が強力なブランド名を作り出すためにこれほどの大金を基金集めに使うのはなぜかなども理解することができるだろう。慈善もまた、それを認識してもらい、記憶に残っていてもらわなければならない信号であるとするならば、なぜ人々が、本当に必要性が高いにもかかわらず地味な団体よりも、有名ですでに巨額の基金を持っている団体に寄付するのかということも理解できる。慈善は求愛誇示であるとすると、慈善が流行のサイクルにのっていることも理解できる。このことは、とくに、若くて独身の寄付者の間で明らかである。私たちのほとんどにとって、慈善は化粧品のようなものだ。

(p.452 - 457)

 

 なぜ大半の人々は「効果的ではない利他主義」を実践してしまうか、ひいては道徳的な性質全般についての、性淘汰に基づいた説明である。

 人々が慈善行為や利他的行為の「効果」を気にしないこと、それよりもそれらの行為を「見せびらかす」ことの方が重要なのだ、という指摘については考える余地もあるかもしれない。……とはいえ、たとえば「効果的な利他主義」について書かれた本を読んでみると、人々が「効果的ではない利他主義」を行ってしまう理由は、性淘汰とは関係のないヒューリスティックスやバイアスによって説明されている*3。性淘汰の理論にかかると、慈善や道徳に限らず、勇気や知性など、わたしたちが「徳」であるとみなして望ましく思っている性質のすべてが、「異性に対するアピール」に還元されてしまう。これは、理論の長所ではなく欠点だと見なされるべきだろう。

 

進化的な視点から言えば、芸術家が直面しているもっとも本質的な挑戦は、適応度の低い競争者には作れないような何かを作ることにより、彼らの適応度を誇示し、それによって自分を社会的にも性的にもより魅力的に見せることである。この挑戦は、視覚芸術だけにとどまらず、音楽、物語、ユーモアその他、本書で論じたさまざまな行動のどれにおいても同じである。適応度指標の原理は、誇示の仕方が異なる領域でも似通っている。だからこそ、美学的な原理の大多数は同じなのである。

(……中略……)

美は真実を伝えている。しかし、それは、私たちが考えるようにではない。審美的重要性は、人間の条件一般についての真実を提供しているのではない。それは、芸術家本人という、特定の人間の条件についての真実を提供しているのだ。芸術の美的な性質は、その芸術家の技巧の表出としておもに意味をなすのであって、啓蒙、宗教的霊感、社会的な批評、精神分析的発露、政治的革命などを伝える媒体としてではない。プラトンヘーゲルは、彼らが哲学なら生み出せると思っていた真実と同じ真実を芸術は提供することができないといって、芸術をおとしめた。彼らは、芸術の意味を誤解したのである。生物学的適応度の誇示として進化した媒体に、抽象的哲学的真実を伝えるようによく適応しろと言っても、それは不公平というものだ。

(p.397-398)

 

 芸術家や小説家はモテるのに学者や批評家はモテない理由、芸術系のサークルが性的に爛れがちな理由の説明になっていると思う。もう少し深く考えれば、大御所の芸術家がハラスメント体質になりがちな理由も説明できるかもしれない。

 また、美的感覚の進化心理学的解釈は、ブルデューのような社会学者や、美学者たちによる芸術論とある面では一致していて、ある面では矛盾しているように思える*4。芸術や美を鑑賞する感覚が進化的に身についたものであれば、「文化資本」とか芸術に関する前知識がなくても、ある作品の芸術的良さが理解できるはずだろう。一方で、"高度な"芸術はあえて進化的な美の感覚からは乖離して作られており、理解するのに知識や前提を要求することで、庶民とエリートを分別する機能を担わされている……という考え方をすることもできるかもしれない。

 

私たちの恋人選びのメカニズムが似たようなものであり続ける限り、先史時代に恋人選びで形成された性質は、今日でも性的に魅力的なはずである。さまざまな文化や歴史時代を通じて、ある身体形質が性的魅力だと見なされていれば、その形質はおそらく人間の進化の過程において、ずっとそう思われてきたのだろう。たとえば、女性の乳房と臀部が性的魅力であることは、異性愛者の男性のすべてにとって主観的には明らかなことであるが、明らかだということは、これらの形質が男性の恋人選びで生じてきたことのよい証拠であろう。世界中で、個体が自分を魅力的に見せようとするときには、同じ身体形質が強調され、個体が性的な注目を受けたくないときには同じ身体形質が隠され、性的な犯罪に対する罰として、同じ身体形質が切断される傾向があるのだ。

(p.320)

 

 上記は、「性」や「好み」に関する社会構築論を真っ向から否定している一節だ。

 

性淘汰の観点からすれば、クリトリスは、時間をかけたエネルギッシュなセックスに必要な肉体的適応度と、女性が何を欲していて、どうすればそれを提供できるのかを理解するのに必要な心的適応度との両方を備えていることを示した男性にのみ反応すべきである。選り好みの激しいクリトリスは、女性が本当に相手の男性のからだと心と性格のすべてに強く惹かれ、その男性が自分の魅力と適応度とを正しい刺激によって示したときのみオルガズムを生み出すべきなのである。

(p.336)

 

 女性は男性の「からだ」だけでなく「心」と「性格」を選り好みしている、という点は要注目だ。

 進化心理学による男女論というと、「女性は肉体的で暴力的な男性にオスとしての魅力を感じる」的な言説がよくなされる。また、たとえば恋愛工学では「男性の稼得能力や社会的地位に、女性は魅力を感じる」ということが強調される。たしかにそういう側面はあるのだろうが、それだけではなく、女性は男性の誠実さとか気遣いとかもちゃんと見ているのだ。

 リチャード・プラムの『美の進化:性選択は人間と動物をどう変えたか』でも、人間やほかの動物が異性のどのようなポイントに対して魅力を感じるかは、性淘汰によって実に多様で幅広くなっている、ということが論じられていた。

 恋愛工学的な男女論は「生存と繁殖」を強調する自然淘汰の観点ばかりを強調するから、皮相で一面的な男女論になってしまうのだろう。この点では、性淘汰の方に分があると言える。

 

 

 

 

ランナウェイ性淘汰は、脳の大きさや知能に直接働いたのではなく、高度な創造的知能の行動表現に対して働いたのだと論じることもできるだろう。こう考えると、男性のほうが女性よりも、美術、音楽、文学などにおいて作品を発表したり、富を蓄積したり、政治的地位を得たりすることを通して、自分の創造的知性を宣伝したがる傾向が強いことは、ランナウェイ性淘汰で説明できるかもしれない。この理論をもっと押し進めると、人間の文化がずっと男性によって支配されてきたのは、文化のほとんどが求愛行動だからであり、ほとんどの哺乳類のオスが求愛により多くのエネルギーを費やすことと同じである、と論じることができるだろう。男性は、女性よりも多くの絵を描き、多くのジャズ・アルバムを録音し、多くの小説を書き、多くの殺人を犯し、ギネスブックにのる妙な技をより多く行う。人口学的なデータをとると、このような行動が誇示される率には大きな性差があるばかりでなく、男性のこれらの行動の率は、性的な競争と求愛の努力がもっとも激しくなる二〇代から三〇代にピークがあることもわかる。この効果は、世界中のどこの横丁でも見られることだ。もしも、大きな音で音楽を鳴らしながら近づいていくる車があったら、それはたいてい、音楽を性的な誇示に使っている若い男性が運転する車である。

(p.115)

 

 

 この説明が正しいとすれば、特にアートの世界で男女のアファーマティブ・アクションクォータ制を実施することにはデメリットがある、と論じられるかもしれない。アートの世界に女性が少ないのは、アートの世界が女性を排除する構造になっているからではなく、ただ単にアートをやりたがる人には男性が多いから、ということになるためだ*5

 ……しかし、たとえば美術大学では、志願者も入学者も、女性の割合の方が男性の割合よりもずっと高い、ということはよく知られている*6。となると、この議論は通じない。

 あるいは、アートをしたがる人には女性が多いが、アートを「誇示」したがる人には男性が多い、ということかもしれない。

 

*1:

 

神話の力

神話の力

 

 

*2:わたしは未読だけど、「進化心理学の観点からの文学解釈」としては、たとえばこのような本が存在する。

 

 

*3:

davitrice.hatenadiary.jp

*4:

togetter.com

*5:

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

*6:

partner-web.jp

bijutsutecho.com

スピーチ・コードはニューロダイバーシティに反しているのか?

davitrice.hatenadiary.jp

 

 先ほど書いた記事ではジェフリー・ミラーの『Virtue Signaling:Essays on Darwinian Politics & Free Speech』の辛口な感想を書いたが、この本のなかでも「The Neurodiversity Case for Free Speech(ニューロダイバーシティの観点に基づく、言論の自由の擁護)」というエッセイは異色で興味深かったので、わたしなりに紹介してみよう。

 なお、もともとはQuilletteに発表された文章を転載したものであり、タダで読むこともできるので、興味を持った人はそちらも参照してほしい。

 

quillette.com

 

「ニューロダイバーシティ」とは、性的特徴に関するダイバーシティや人種に関するダイバーシティなどと並列する、神経学的特徴に関するダイバーシティのことを指す。「アスペルガー症候群自閉症ADHDや発達障がいなどの神経学的特徴を持つ人も多様性の観点から包摂すべきであり、学校や職場から排除すべきではない」という考え方だ。

「ニューロダイバーシティ」という考え方には、人権や道徳といった規範的な観点からの「ふつうと違うからと言って、障害であるとみなして、排除してはいけない」という主張が含まれている。その一方で、これらの神経疾患を持った人たちは共感能力やコミュニケーション能力などに欠ける代わりに抽象的な物事を扱う作業や理数系の能力が優れている点に注目して、組織が成果を生み出すためには神経疾患を持つ人も積極的に組織に取り入れてうまくマネジメントするべきである、という観点も含まれているようである*1

 

 アスペルガー症候群自閉症の人々は、「モノ」や「抽象的な概念」に対する興味が強い代わりに「人」や「感情」に対する興味が薄い。「システム化」思考(抽象化、論理思考)に長けている代わりに、「共感」思考が苦手である。

 ミラー本人も、自身がアスペルガー症候群であることを、エッセイの冒頭で告白している。自身の神経学的特徴のために、ミラーは子供の頃からコミュニケーションの仕方が特殊であり、他人の気持ちを察したり非言語コミュニケーションを行うことがヘタであって、ユーモアのセンスも他人とズレていた。そのために彼は気まずい状況を発生させたり他人を不愉快にさせたりして、トラブルを誘発することが多かったそうだ。

 そして、アイザック・ニュートンをはじめとした歴史上の天才的な学者たちの多くも、現代でいえばアスペルガー症候群自閉症であったことが、記録や伝記から推察されている。彼らの脳は通常の人々とは異なる極端な特性を備えていたのであり、だからこそ、学問的偉業を成し遂げられたのであった。

 

 しかし、もし現代にニュートンアメリカの大学に所属していたとしても、彼は早々に大学から追い出されてしまうであろう……とミラーは論じる。

 歴史的には、大学こそが、ニューロダイバーシティの花開く場所であった。大学に在籍する学者がまず求められるのは、論文を書いて学問的業績を挙げることだ。逆にいうと、学問的業績を挙げてさえいれば、どんなにコミュニケーションがヘタな人であったりエキセントリックな人であったりしても、大学での地位を確保することができたのである。そして、特に理数系分野はアスペルガー症候群自閉症にとっての得意分野であるからこそ、大学は彼らがもっとも活躍できる場所となっていた。

 だが、現代のアメリカでは、ほぼ全ての大学に「スピーチ・コード」が存在する。「他者の尊厳を傷つけることを言ってはいけない」「ハラスメントとなるようなことを言ってはいけない」という、言説に関するルールが、大学に所属する教授と学生たちに課されているのだ。

 問題なのは、「スピーチ・コード」では具体的にどのような単語や言葉が「他者の尊厳を傷つける」ものであったり「ハラスメントとなる」ものであったりするかが指定されておらず、恣意的で曖昧なものになっていることだ。

 実際のところ、スピーチ・コードは「この言葉で傷ついた」「この言動でハラスメントを受けた」と被害者側が告発することで、遡及的に「この言動は攻撃的だった」「この言動はハラスメントだった」と認定される、という運用になっているフシが強い。また、「オルトライト運動を批判してもスピーチ・コードに違反する危険性は少ないが、ブラック・ライヴズ・マター運動を批判するとコード違反の危険性が高い」「プロライフ運動をするキリスト教徒を非難するのは無難だが、シャリーアを主張するイスラム教徒を非難するのは危うい」という具体的な可否がスピート・コードに明言されているわけでもないので、違反をしないためには時勢について敏感であらなければいけない。

 そうなると、スピーチ・コードに違反しないために求められることは、たとえば「最近は女性差別やアフリカ系差別にみんなが敏感になっているから、この問題に関して誤解される可能性のあることは言わないでおこう」という"空気を読む"能力であったりする。また、目の前にいる相手が自分の言動で不愉快になっていないかどうかに気が付けたり、不愉快になるであろうことを予測するための、共感能力や「心の理論」が必要となってくる。

 そして、アスペルガー症候群自閉症の人々は、共感能力や「心の理論」に欠けているのだ。だから、ふつうの人であれば「最近はこういう空気であるから、こういうことを言わない方がいいな」と判断したり「授業中にこんなことを言ったり、ツイッターでこんなことを呟いたら、不快に思う学生やフォロワーがいるだろうな」と予測したりして、余計なことを言わずに保身ができるところを、アスペルガー症候群自閉症の人々はそれができないことが多い。そのために、彼らは舌禍事件を起こすことが多いのである。

 ミラーによると、スピーチ・コードは 神経学的定型的neurotypical)な規範であり、神経学的多様性(neurodivergence)に相反するものである。スピーチ・コードを理解するためには、パーソナリティの特性が「ふつう」の範囲内で、ほどほど以上に共感能力があり、「心の理論」を充分に発達させていなければならない。そうでない神経学的マイノリティの人々は、自分の発言がスピーチ・コードに違反するかしないかを判断することができない。つまり、スピーチ・コードは神経学的マイノリティに対して差別的に機能するのだ。これにはアメリカ障害者法(ADA)に違反している側面がある、とミラーは論じる。

 そして、学問的な成果を成し遂げている人が本人の意図していないところでスピーチ・コードに違反して大学を追い出されることは、本人の人権侵害であり道徳的に不当であるだけでなく、学術的にも大きな損失となるはずである。

 

 スピーチ・コードには「ナード」に対するふつうの人々の復讐という側面もある、とミラーは指摘している。学問の外のビジネスの世界でも、近年ではマーク・ザッカーバーグイーロン・マスクのようにパーソナリティに問題を抱えている人がそのハンディキャップをものともせず技術や才覚を活かして出世することができていた。だが、スピーチ・コードが厳しくなった昨今では、彼らのような人間は若いうちからバッシングにあって芽を摘まれていたかもしれない。

 また、一般的に、男性は「システム化」思考に傾きがちであり、女性は「共感」思考に傾きがちである。そして、アスペルガー症候群自閉症の割合は男性の方が高いこともふまえると、「共感」思考を強要するスピーチ・コードには男性差別的な側面が存在するといえるのだ。

 

 上記が、ミラーの主張である。

 ミラーの提示している問題は、なかなか厄介だ。

 スピーチ・コードは恣意的で曖昧な運用をされているために、神経学的マイノリティにとって不利にはたらいている、というのはミラーの言う通りだろう。その一方で、ある人が他人のどんな言葉で「傷つく」かということは、場の状況や文脈や相手との関係性にも左右される曖昧なものである、ということも確かなのである。「このような言葉は差別である、このような表現は差別である」とあらかじめ指定して硬直的な運用をしようとしても、スピーチ・コードはまったく機能しないはずだ。それはそれで「言葉狩り」となってまた別の問題も発生するだろうし。

 そして、ごくまともな一般論として、誰かが傷つけることはよくないことであるし、ハラスメントはよくないことである。その人の神経学的特徴やパーソナリティがどんなものであったとしても、暴力や性的侵害は許されない。それを非難することは「差別」には当たらない。そして、他人を傷つけることを意図した発言も許容されるわけではない。さらに言えば、意図しない舌禍であっても、他人を傷つける発言を何度も繰り返されるようであれば、その人は注意されるべきだし非難されるべきだろう。

 とはいえ、意図せずに他人を傷つける言葉や他人に対するハラスメントとなる言葉を一度や数度言ったりしただけで大学(や職場)から追い出されることは、やはり不当だろう。その舌禍の原因に神経学的な特徴が多かれ少なかれ関わっているとすれば、その不当さはさらに増す。近年ではスピーチ・コードに違反した人に対する制裁がどんどん性急で厳しいものになっている。それは深刻な問題なのだ。

 

 また、近年のポリティカル・コレクトネスの風潮のなかで目立つ特徴のひとつが、差別やハラスメントに関する議論のなかで加害者側の「意図」の要素が無視されること、である。

 

 

gendai.ismedia.jp

たとえば、デラルド・ウィン・スー教授が発明した「マイクロアグレッション」という概念では、日常的な言動のなかで行われる些細な見下しや侮辱も攻撃(aggression)の一種であるとされる 。しかし、マイクロアグレッションという概念は、発話者が攻撃を意図していなくても聞き手が傷つけばそれが攻撃である、としてしまう。つまり、「攻撃」の定義を発言者の意図や客観的な基準にではなく、聞き手の主観に委ねてしまう概念であるのだ。

マイクロアグレッションという概念にかかると、「自分が傷ついた」という感情が、相手を非難することを正当化する根拠になってしまう。最初は不愉快であったり攻撃的に聞こえた発言であっても、相手の発言についての真意をたずねたり「どのようなことを主張しようとしているのか」と冷静に解釈したりすることで誤解が解けたり建設的な対話がスタートする可能性はあるものだが、その可能性が閉ざされてしまうのである。

 

 差別やハラスメントの定義について、「意図」の代わりに持ち出されるのが、「システム」なり「特権」なりの社会学的なタームだ。

 これらのタームについては、一部は妥当であったり納得できたりするところもある。……だが、「意図」の問題は、無視するには大きすぎる要素であるだろう。

 そして、ミラーがスピーチ・コードを「男性差別的」であると指摘していることは重要だ。実際問題として、舌禍事件は女性よりも男性の方がより多く起こしていることは否めない。その原因の一部には「男性は他人に対して配慮しないことが許されてしまう、社会的に特権を持った存在である」という「男性特権」の問題もあるかもしれない。……しかし、男性のなかには共感能力に欠けており空気を読むことができない人が多い、という要素も、原因の一部となっているはずであるのだ。

 最近のフェミニズムは、「ミソジニー」や「家父長制」の概念を再定義したり「マンスプレイニング」や「有害な男らしさ」という新用語を作ったりしながら、男性が引き起こす問題を「特権」や「構造」という枠組みに回収することに躍起となっている。……しかし、男性が舌禍事件などの問題を引き起こす原因は、彼らの神経学的・パーソナリティ的な特徴や傾向の方にも存在するかもしれない。

 もちろん、特権や構造の問題を全く無視して、すべてを神経学的・パーソナリティ的な枠組みに回収しようとすることは見当外れで馬鹿らしいことではあるのだろうが、逆もまた然りなのだ。

 

 アメリカほどにはスピーチ・コードが強くない日本であっても、たとえば公共の場における萌え絵・性的表現の掲示に関するフェミニストとオタクの論争という問題の背景には、通底する要素があるかもしれない。「どのような表現が性差別・性暴力であるか」という「コード」にはどこかに曖昧な部分が残り続けざるを得ないだろうし、萌え絵・性的表現の掲示を擁護するオタクには男性が多いだろう*2

 また、「ニューロダイバーシティ」を盾にして、自分の言動を顧みずに他人を傷つけることを繰り返すことが正当化されてしまう危険性もある。

 諸々のことを考えると、「ニューロダイバーシティも大切だけど、誰かが不当に傷つくこともよくないから、ほどほどの着地点を見つけるべきだね」というのが穏当で妥当な回答になるだろう。しかし、それが簡単にできれば苦労しない。だからこそ、厄介な問題であるのだ。

 

 

*1:

jinjibu.jp

ja.wikipedia.org

*2:スピーチ・コードの問題に比べるとこの問題についてはわたしは「規制派」に近い立場であるのだが、それはまた別の話だ。

davitrice.hatenadiary.jp