道徳的動物日記

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幸福には「仕事」が欠かせない理由

 

しあわせ仮説

しあわせ仮説

 

 

 

『しあわせ仮説:古代の知恵と現代科学の知恵』の第10章から、仕事(労働)に関する議論を紹介しよう。

 

カール・マルクスによる資本主義批判は、産業革命が、職人と生産物とのあいだの歴史的な関係性を壊してしまったというもっともな主張に基づいている。組み立てラインは人を巨大な機械の歯車へと貶め、機械は労働者の効力感に対する欲求など気にかけなかった。その後の労働満足度に関する研究は、マルクスの批判を支持しているが、微妙な追加がある。1964年に社会学者のメルヴィン・コーンとカーミ・スクーラーが3100名のアメリカ人男性の職業について調査し、「職業的な自己主導性」と名づけたものが、職業の満足度の高さを知るためのキーとなっていることを見出した。複雑度が低く、ルーチン性の高い仕事に従事し、きっちりと管理されている人はもっとも高い度合いの疎外感(仕事から切り離され、無力で、不満足に感じること)を示した。変化に富んだ難しい仕事で取り組み方により多くの裁量を持つ人たちは、その仕事をより楽しむ傾向にあった。労働者は、職業的な自己主導性を有している時、その仕事により満足していた。

もっと最近の研究では、ほとんどの人は仕事に対して、労働、キャリア、天職の三つのうちのどれかのアプローチをしているということがわかった。仕事を労働と見なす人は、お金のためだけに働き、週末を夢見ながら頻繁に時計を眺め、おそらくは、仕事上よりも効力感に対する欲求を包括的に満たしてくれる趣味を追求するだろう。仕事をキャリアと見なす人は、進歩や昇給、名声といったより大きな目標を持っている。これらの目標の追求がしばしばエネルギーを与え、業務を適切に完了したいがために時おり家に仕事を持ち帰る。しかしたまに、なぜこんなに一生懸命に仕事をしなければならないのか疑問に思う。仕事が、競争のために競争をするラット・レースのように見えてしまうこともある。しかしながら、仕事を天職と見なす人は、その仕事自体に本質的に満足している。何か別のことを達成するために行うのではない。仕事を、大いなる善行への貢献や、明らかに価値があると思える何らかのより大きな計画への貢献だと考えている。仕事中に頻繁にフローを体験する。「退社時間」を楽しみに待ったり、「やった、神様、金曜日だ!」と叫びたくなったりしない。急にとても裕福になったとしたら、おそらく給料がもらえなくても、その仕事を続けるだろう。

(p.318 - 319)

 

 マルクスが示した「労働疎外」の問題は実際にはたらく労働者のかなり多くが感じていることのはずであり、2021年の現在でも、労働に関する議論では重大なテーマとなっている。デビッド・グレーバーの『ブルシット・ジョブ:クソどうでもいい仕事の理論』だって、「疎外された労働」の現代風な言い換えに過ぎない。

 ただし、『ブルシット・ジョブ』や植村邦彦の『隠された奴隷制』など、労働と疎外に関するマルクス主義者たちの議論は「制度」や「構造」の問題にばかり注目し過ぎる、という欠点がある。

 たとえば植村の議論は「仕事による自己実現」という考え方自体を資本家たちにとって都合の良いイデオロギーであるとみなすものであった。つまり、労働者にとって仕事が「キャリア」や「天職」となり得るという考え方は、資本家たちが労働力を体良く搾取するために振りまいた幻想に過ぎない。だから、労働者は自分の仕事はあくまで「労働」であるという事実を直視したうえで、自分の心身や利益を守るためには労働へのコミットメントを避けたり場合によっては労働から逃避したりするべきである……といった議論が展開されていたのだ。

 しかし、「自分のやっている仕事はキャリアや天職なんかではなく、労働でしかありえない」という考え方を抱いてしまうと、疎外の感覚から逃れることはいよいよ不可能になるはずだ。

 それに、そもそも、「キャリア」や「天職」という発想はイデオロギーや幻想である、という考え方自体が疑わしいものだ。

 

ブルーカラーの労働者が労働と感じ、管理職がキャリアと感じ、より尊敬される専門家(医者、科学者、聖職者)が天職だと感じると思うかもしれない。その予想は多少は当たっているが、それでもなお、マルクス・アウレリウスのことばをもじって「仕事それ自身はあなたがそう見なしている以外のものである」と言えるだろう。ニューヨーク大学の心理学者であるエミー・ウェズニスキーは、彼女が研究したすべての職業に、この三つの指向がほぼすべて見られることを発見した。たとえば、病院労働者の研究では、嘔吐物を拭いたりベッド用の痰受け皿を清掃したりする、おそらくは病院でもっともランクの低い労働者である清掃員の中にも、人を治癒するという目標を持つチームの一員であると考えている人がいた。彼らは、最低限要求されていることをはるかに上回る仕事をしていた。たとえば彼らは、重病人の病室を明るくしようとしたり、命令を待つよりもむしろ、医者や看護婦の要求を予想したりした。それによって、職業的な自己主導性を増加させ、効力動機づけを満足させる労働を創り出していた。このような方法で働いていた清掃員は彼らの仕事を天職として見なしており、それを労働として見なしている人たちよりもずっと楽しんでいた。

(p. 319 -320)

 

 要するに、仕事によって「疎外」されるかどうかはその仕事の種類や性質だけに左右されたり構造のみによって決定されたりするものではなく、本人の態度や行動などの「気の持ちよう」が大きく関係してくる、ということだ。

 先日の記事でも指摘した通り、社会の制度や構造を批判するための左派的な思想と、社会の一員として活躍したり幸福で充実した生活を送ったりするための自己啓発的な思想は、相反する性質を持っている。どちらかが正確でどちらかが間違っているということではなく、問題としている物事のレイヤーや問題について論じるための視角が異なっているのだ。……だが、左派的な「構造批判」の発想に振りまわされ過ぎると、仕事に対して前向きな気を持つことが困難になってしまうものである。

 

「労働」を「キャリア」や「天職」とするためには、その仕事の内容が自分の性質や特徴と合っているかどうか、という問題も関わってくる(ハイトはこれを「自分の強み」と表現している)。とはいえ、一見すると自分の強みが活かせられないように思える仕事であっても、自分の強みと合致するように仕事について再解釈したり仕事への向き合い方を変えられることが可能な場合もある。

 また、「天職」である仕事とは、「その仕事の内容自体に没頭できて楽しめること」と「自分の人生の意味づけに合致していること」の両方から成り立つ、「バイタル・エンゲージメント」というものを備えた仕事のことである。

 自分が興味を持ったことや経験したことなどに基づきながら「自分の人生にはこういう意味がある」「自分は人生においてこういう目標を持ちたい」などといった考えを形成したうえで、自分のやっている仕事がそれにマッチしたものであれば、仕事に対して前向きな気持ちで接することができて仕事から幸福感を得ることも容易になる、ということだ。

 要するに、仕事には「意義」や「やり甲斐」が必要だ、という話である。そして、バイタル・エンゲージメントは主観的な要素に左右されるものであるとはいえ、ふつうの仕事に比べて意義ややり甲斐を感じることが難しい仕事というものもある。

良いことをする(他者に対して役だつものを生産する、質の高い仕事をする)ことが良い結果(富の達成や専門家としての向上)に結びつく時、その分野は健全である」(p.324 - 325) 。ハイトは、やり甲斐が感じられやすい健全な分野の例として「遺伝学」を挙げており、その逆の分野の例として「ジャーナリズム」を挙げている。質が良くて社会的に有益な記事を提供することは会社やジャーナリスト個人の金銭的利益とは相反することが多いために、大半のジャーナリストは質の悪い記事や社会的に有害な記事を量産する羽目になって、自分のなかの道徳的基準が破られることに苦しむのだ。

 

 グレーバーが『ブルシット・ジョブ』のなかで並べ連ねていた「クソどうでもいい仕事」の大半も、「良いこと」と「良い結果」が結び付いていないために、その仕事をしている本人たちに疎外の感覚を抱かせる仕事であった。

 しかし、グレーバーの議論は「クソどうでもいい仕事」が発生する原因をすべて「新自由主義」に押し付けたうえで、「新自由主義さえ打ち倒せば、クソどうでもいい仕事はなくなる」とアジテーションする内容であった。だが、その議論は、「ネオリベ批判」的な議論の大半がそうであるように藁人形論法的で陰謀論的でイデオロギッシュなものである

 また、『ブルシット・ジョブ』では看護や介護などの「ケア労働」を「エッセンシャル・ワーク」であると定義したうえで、ケア労働者の待遇が悪かったり賃金が低かったりするのも新自由主義だか資本家たちだかの悪どい陰謀のせいである、とされていた。しかし、ケア労働は数ある仕事のなかでも「良いこと」が「良い結果」にかなり直接的に結びやすいタイプの仕事である。つまり、意義ややり甲斐が感じやすくて、バイタル・エンゲージメントが得られやすい職業であるということだ。ケア労働を「天職」であると感じてケア労働に就き続けたいと思う人の数は多いだろう。だからこそ、待遇が悪くなったり賃金が下げられたりしても(ある程度までは)我慢してしまえる人が多い。つまり、ケア労働の待遇の悪さは、新自由主義を持ち出さなくとも、「需要と供給の法則」という経済学の基本的な発想で説明することができるのだ*1

 

 さて、最後に、ハイトによる「階層間コヒーレンス」に関する議論を紹介しよう。

 

コヒーレンス」という単語は一緒にまとまること、くっつくことを意味しているが、たいていは、体系(システム)や思想や世界観の各部分が一貫した効果的なかたちで適合していることを指して用いられる。コヒーレントな物事はうまく機能する。インコヒーレント(コヒーレンでない)な世界観は内なる矛盾によって妨害されるのに対して、コヒーレントな世界観は、ほとんど何でも説明することができる。遺伝学のようなコヒーレントな専門職は、遺伝学のビジネスと歩を揃えて進めていくことができる一方で、ジャーナリズムのようなインコヒーレントな専門職では、自己分析や自己批判に多くの時間を割くことになる。ほとんどの人が、問題があると知りながらも、どうしていいのかについては意見がまとまらない。

多階層でのシステムの分析が可能な時は常に、階層同士が調和して相互にうまく連動する時、特別なコヒーレンスが起こる。性格の分析に、この階層間コヒーレンスを見ることができる。下層である性格が、対処メカニズムとうまく調和し、それがあなたのライフストーリーと一貫している場合、性格はうまく統合されており、日常生活をうまくこなしていくことができる。これらの階層がコヒーレントでないと、内部矛盾とその神経症的な葛藤に引き裂かれたりしがちだ。その調整のためには、逆境が必要なこともある。

(……中略……)

人は別の面でも多階層なシステムと言える。私たちは、物理的なもの(肉体と脳)であり、どういうわけかそこからが出現する。そして、心から何らかのかたちで、社会や文化が形成される。

 (……中略……)

 人生が、その人の存在の三層間でコヒーレントである時、人生の意味が感じられるというものである

(p.326 -327)

 

 この引用部分のあとで、ハイトはコヒーレンスの三階層目にあたる「社会や文化」の具体例として、宗教的な儀式やコミュニティを挙げている。そして、デュルケームによる「アノミー」論的な、「保守的なものとして軽蔑されがちな伝統や社会規範などは、人々の幸福のためには欠かせない」という議論が展開されるのだ。

 

 さて、グレーバーは「クソどうでもいい仕事」の問題を論じたのちに、新自由主義が生じさせる問題を一挙に解決する秘策として「ベーシック・インカム」を持ち出していた。

 ベーシック・インカム論に対しては、その実現可能性への疑念や「ベーシック・インカム自体がネオリベラリズム的な発想だ」という批判のほかに、「労働がなくなって社会から切り離された人々は、搾取の対象になったり疎外を味わないとしても、それで本当に幸福になれるのだろうか?」という批判がなされている。この問題意識から、「勤労の権利」や「ジョブ・ギャランティー」という考えが提示されることもある

 実のところわたしはベーシック・インカム論を支持しているので、「ジョブ・ギャランティー」論のパターナリズム性を批判してきた。とはいえ、ベーシック・インカムアノミーを生み出すということも充分にありえそうな話であるし、仕事や職業を抜きにして「バイタル・エンゲージメント」や「階層間コヒーレンス」を成立させることはおそらくかなり難しいだろうとも思う。実際、失業状態である人々は自殺率が高い、ということも論じられているし。

 

 ということで、仕事は疎外や搾取によって人を不幸にする可能性が高いが、仕事がなかったらなかったで人は幸福から遠ざかる、というのが実情であるように思える。

 バイタル・エンゲージメントが得られるような仕事が日本にどれだけ存在するのかって話でもあるし、「気の持ちよう」であることはある程度までは事実であるだろうけれどそれだけでは何ともならない仕事というものも多いだろうし。

 わたしが労働や仕事に関する哲学や社会科学の本を積極的に読むようになって2〜3年ほどになるが、どうにも結論は毎回同じようなところに辿り着いてしまうようだ。それはそれとして、グレーバーのような「新自由主義批判者」に対するわたしの敵意だけは、着実に積み重ねられている。仕事という問題に伴う根源的なジレンマや「難しさ」をわざと無視して、仮想敵を作ってそれに対する敵意を煽って「こいつらをやっつければみんな幸せになる」という幻想を人々に振りまいているというのが、偽善者や嘘吐きにしか思えないからだ。それにまんまと扇動されて空虚な「新自由主義批判」を唱え続けている人たちのことも、愚かであるとしか思えないし。

 

*1:特に日本では、(文系の)アカデミアも、バイタル・エンゲージメントが高いがために需要と供給の法則から待遇や賃金が低劣なものに下げ留められている業界の代表例となっている。海外に比べて日本のアカデミシャンの待遇がとりわけ悪い理由には、もしかしたら「反知性主義」が関わっているのかもしれないし、日本人特有の妬み嫉み根性なんかも関わっているのかもしれない。だが、おそらく、アカデミシャンの賃金や待遇とは放っておいたらどんどん下がるのが「自然」なことであり、それは新自由主義のせいではない。むしろ、他国ではアカデミシャンが放っておかれていないことの方が、「基礎科学の重要性に対する認識」とか「他国に対して科学技術競争に勝利したいという野心」とか「伝統的に醸成されてきた人文学に対する敬意」などなどの理由がなければ起きない事態なのであり、「不自然」なことだと言えるかもしれない。

誰もが平等に幸福になれるわけではない

 

(某所に掲載する原稿として書きはじめたのだが、書いているうちに論旨が迷子になって自分でも無理を感じる内容になってしまったので、「これじゃダメだな」と判断して取り止めた。でもせっかく書いたのが無駄になるのもイヤなので、無理やりにまとめて、こちらに放流する)。

 

 インターネットが発達した現代では、Twitterやブログなどを通じて、だれもが自分の思いや考えを発信している。自分の生活や人間関係についてつぶやくだけでなく、仕事やキャリアについて熱く論じられたり、社会や政治に関する問題について意見が表明されたりしている。

 民主主義の視点からすれば、「多くの人が、自分の価値観や主張をを他人に対して表明している」という状況は、基本的には望ましいことである。多様な意見が提示されたうえで、それらの意見の間の妥協点を見つけて利害の調整をはかろうとしたり、意見を競合させて「もっとも正しい意見はいずれであるか」ということを決めたりするのが、民主主義というものであるからだ。

 

 しかし、「だれもが自分の意見を発信できること」には弊害も伴う。どんな人でも好きなことについて意見を発信できるということは、自分がよくわかっていない問題や知識の足りていない問題についても意見を発信する人が出てきてしまう、ということだ。

 疑似科学フェイクニュース陰謀論などの問題は、ネットの時代にはじまったことではない。テレビや新聞や書籍などの昔ながらのメディアにおいても、ジャーナリストや活動家といった怪しい肩書きの人々がフェイクニュース陰謀論を喧伝したり大学教授や物書きが疑似科学を広めたりすることはあった。

 それでも、意見を発信できる人の数が限られていた時代においては、誰がどんなことについて意見を発信できるかということには「選抜」がはたらいていたはずだ。「他の人たちに比べてこの人の方が、その意見について発信できるほどの知識や経験を持っている」と見なされなければ、メディアで意見を発信する機会を得ることは難しい。なかには適当な主張をしたり嘘を吐いたりする人がいるとしても、メディアを通じて発信されている意見であれば、それは信頼できるものである可能性が高いはずである。つまり、テレビや書籍といったメディアは意見に意見の質を保証して、意見に「権威」を与えるものであった。一方で、インターネットに書き込まれる意見には「選抜」がはたらかず、その意見を書いている人がその問題について発言するに足る知識や経験を持っている、ということは保証されていない。

 そして、意見を受信する側の人々も、意見に「権威」があるかどうかということには無頓着になって、自分の考えや気持ちを肯定してくれる意見の方にばかり流されるようになっていった。これが、インターネットの時代において陰謀論疑似科学が蔓延する構造であるだろう。

 

 とはいえ、政治や科学に関する誤情報やフェイクニュースという問題については、「そういう問題が存在する」ということは多くの人に意識されるようになっている。

 しかし、「だれもが自分の意見を発信できること」は、より微妙で曖昧な物事に関する人々の認識や考え方にも影響を生じさせているようだ。

 たとえば、「幸福」に関する考え方だ。

 

  インターネットを覗いてみると、人々は「幸福とはこういうものだ」ということに関する自分の意見を、直接的なかたちにせよ間接的なかたちにせよ、様々に表明している。だが、そこで表明される幸福観には、独特の偏向や歪みが存在している。そして、その幸福観は、哲学者や科学者が幸福について論じてきたこととは様相が異なっている。その「幸福」のかたちはかなり視野が狭く、短絡的で、不健康ですらあるのだ*1

 

 幸福についての考え方で昔から存在する典型的なものは、「快楽主義」だ。快い感覚をより多く得られたり、より多くの欲望を満たせたりすることが幸福である、という考え方である。

 快楽主義の考え方はシンプルであるだけに理論として強力な側面があり、古来から理論としての快楽主義を擁護する哲学者は存在してきた。その一方で、快楽主義は子どもでも簡単にたどり着ける考え方であることもたしかだ。そして、インターネットを覗いてみれば、まさに子どものように単純な「幸福」が提示されていることが多い。

 快楽や欲望という言葉からは、食事や酒、あるはセックスが想像されるだろう。性欲はともかく、食欲や飲酒欲については、現代では簡単に満たせることができる。特に日本では質の高い食事を安価で提供されているとされており、数百円も出せばチェーン店で牛丼やイタリア料理が食べられるということが、「日本人は他の国と比べて幸福である」という主張の根拠とされる場合もある*2

 そして、酒についても、日本は度数が高く飲みやすい缶チューハイが安価に手に入れられる。ストロングゼロで宴会をする若者たちの姿や、コンビニで買ってきたつまみを片手に週末にひとり酒をするOLなどの姿は、退廃的でありながらも、たしかな幸福のイメージとして提示されているのである。

 一方で、おなじ食事や飲酒であっても、個人経営のレストランで提供される上等な料理や、高価なワインや蒸留酒など、クオリティの高いものを味わうことに関する幸福について主張することは、必ずしも主流派でない。

 クオリティの高さよりも「均一化されたチェーン店で、誰でもおなじものが味わえる」ということの方が強調される理由のひとつは、効率の良さや簡便さといった「合理性」自体に対してポジティブなイメージを抱く人が多いことにあるだろう*3。そして、チェーン店での食事やコンビニで買える酒という幸福は誰にも平等に手が届くものである、ということも大きい。レストランでの食事や高価な酒の良さを理解できるようになるためには経験や資金が必要とされるが、それには生まれ育ちや収入による不平等が存在する。

 

 インターネットの「幸福」観では安価で効率の良い飲食の快楽が重視される一方で、「キャリア」や「家族」、あるいは「人間関係」に関する幸福は軽視されがちである。

 ポジティブ心理学をはじめとする幸福についての科学的研究に目を向けると、快楽は幸福のなかでもかなり頼りないものであることが示されている。人間はすぐに快楽に適応してしまうのであり、快楽から得られる幸福感は短期的で持続性のないものであるからだ。

 快楽という感覚ではなく、「行動」や「態度」から得られる幸福の方が、安定性があって満足度が高い。具体的には、自分の性質に向いていてやり甲斐のある仕事に就くことや、人生における目標を定めてそれに向けて努力をし続ける生活を送ることが、幸福な人生を過ごすためには重要となるのだ。

 また、人間はきわめて社会的な生き物であるために、家族と社交は人間の幸福にとって欠かせない。ポジティブ心理学の本を開いてみると、「子どもを持つこと」が幸福につながるかはケースバイケースであるが、「配偶者を持つこと」はかなり高い確率で幸福度を上げる、ということが示されている。また、ネットでは「煩わしい人間関係を排除して、自室で趣味に没頭する」ことの幸福が強調されがちだが、孤独になることが人の心身に与える悪影響はおどろくほどに軽視されがちだ。

 しかし、よいキャリアを手に入れたり家族や友人と健全な経験を築き続けるためには、継続的な努力が必要となる。それ以上に重要なのは、生まれ育った環境や社会・経済の状況や本人の能力や精神的問題などのために、いくらがんばってもそれらを手に入れることができず、快楽よりも上等な「幸福」とは無縁のまま人生を終わらせてしまう、という人が必ず発生するということだ。

「幸福は誰にも平等に訪れるわけではない」ということは、世の真理であるとわたしは思う。現代では、おそらくかなりの人が、無意識的にまたははっきりと「自分には幸福になる権利がある」と考えている。しかし、そういう人たちにとっては、キャリアや家族は幸福な人生には欠かせない重大な要素である、という事実は不都合なものとなるだろう。幸福は態度や努力や行動から訪れる、ということすらからも目を背けようとするかもしれない。

 逆に言えば、飲食による快楽……それも、チェーン店での食事やコンビニで買える酒から得られる快楽は、数百円さえあれば誰でも得られるという点で、民主主義的で平等主義的な「幸福」である。そして、キャリアや家族による幸福を無視して快楽だけを「幸福」と定義してしまえば、「誰もが平等に幸福になれる」という命題を真とすることができてしまうし、自分が幸福になる権利を守ることもできてしまうのだ。

 要するに、インターネットにおける幸福論で起きていることは、凡庸で無能で哀れな庶民たちによる、幸福の「引き下げ」だ。キャリアや家族や人間関係に恵まれている人が感じている豊かで充実した幸福は無視してしまい、幸福と快楽を同一視することで、ほんとうの意味で幸福である人とそうでない人との間に存在する差を無くそうとしているのである。これは、ニーチェが言うところの「ルサンチマン」がただしく当てはまる現象であるだろう*4

 

 ポジティブ心理学は、アリストテレスストア派などの古代ギリシャの時代の徳倫理学者たちの議論を大いに参考にしている。

 そして、現代の徳倫理学者たちの議論も、幸福という概念についてはなかなかに鋭いことを言っているものだ。

 ここまでに書いてきたような議論に関係あることを引用してみると、たとえばジュリア・アナスは『徳は知なり』でこんなことを書いている。

 

いかに生きるべきかを真剣に考えるときに、快い感覚はどうみても私たちにとって重要なものにはならない。快楽は、人生のなかでもっとも重要なもの、あるいはそれを中心として人生が組織立てられる目標となるにはあまりに取るに足らない代物である。人生のなかでもっとも重要なものは快楽であり、快楽こそが最優先の目的であると考える人のことを聞いたと想像しよう。私たちは、この人はわがままな二歳児と同じ精神構造をもった大人であると結論するだろう。また、この人はどのようにして現実の世界を生き抜くつもりなのだろうかと不思議に思うだろう(わがままな二歳児の方ですら、あまりうまくいかないにちがいない。どの子育て本でも指摘されているように、常に快楽を与えようとすることによって子どもを幸福にしようとしても、実際のところそのやり方では功を奏さない)。

(p.222)

 

 

徳は知なり: 幸福に生きるための倫理学

徳は知なり: 幸福に生きるための倫理学

 

 

 

 あるいは、リチャード・テイラーの『卓越の倫理』もなかなか刺激的だ。

 

…古代の哲学者のほとんど誰も疑問に思わなかった「ある種の人々は他の人々より本当に優れており、したがってより大きな値打ちがある」という信念がなかったとしたら、アリストテレスの重要な特徴が失われてしまうであろう。まことに、これこそ「気概」という観念自体に内在しているものなのである。アリストテレス以上に気概の倫理を見事に表現している道徳哲学などないのだ。

古代の道徳学者たちが考えていたように、道徳哲学の目的が「人間の自然本性」についての理想を描き、その実現への道筋をつけることであるとするなら、「賢者も愚者もみな等しく理想に到達できる」と想定するのはほとんど不可能である。事実はその反対であって、「少数の人を除けば、どのような人でもいずれは理想に到達できる」などということはなさそうだ。だから、理想を実現した人は理想を実現できなかった大多数の人々よりも文字通り「より善い」のである。このような前提なしに古代の道徳哲学者たちを理解しようとするのは、義務の観念を削除してカントの道徳哲学を理解しようとするようなものである。

 

このようなエリート主義、すなわちアリストテレスが価値ある人々とそうでない人の間にはっきりとした不公平な区別を設けたことは、決して気まぐれではないし特異な嗜好でもない。これと同じようなことは、「奴隷と友人になれるか」ーーアリストテレスによると奴隷とは「生きた道具」にすぎないーーという難しい問題をやや苦心しながら論じた箇所で繰り返されているし、アリストテレスが真の友人関係は比較的少数の「善き」人々、つまり「個人の卓越」の厳格な水準に達した人々の間でしか成り立たないとしている箇所にも見られる。まさしくエリート主義はアリストテレスの倫理概念全体に固有なものなのである。

仮にアリストテレスに対して「経験上はそうではないが、全ての人間は本来的に、あるいは自然本性によって、平等である」と仮定するよう求めたとすれば、彼にとって最も基本的な倫理の諸問題は存在さえしなかったであろう。アリストテレスにとって倫理の役目とは「人間の間の不平等を助長し増大させること」、つまり「自然本性的により善き人々が、他の人々よりも個人的価値をできるだけ高められるようにすること」に他ならなかった。

(p.110 - 111)

 

子供、白痴、未開人、さらには動物にも快苦を経験する能力が完全にある。しかし彼らのいずれも、本書における意味で「幸福」になることはできないのである。確かに「幸福な子供」とか、「幸福な知恵遅れ」と言うのは正しいのだが、そうした事例には注意する必要がある。

例えば「幸福な子供」とは、良い生活をしている子供である。言い変えれば、「しあわせ」の条件に合致している子供のことである。これらの条件には愛情、信頼感と安心感、愛情のこもった躾などが含まれている。実際こうした恵まれた条件にある子供は不機嫌でも不安でも憂鬱でも陰気でもない。これは明らかに幸福を意味するから、その意味では「幸福な子供」と言えるのかもしれない。

しかしながら、やはりこの子は哲学的に重要な意味においては「幸福」ではない。すなわち「何かを実現している」とか「最高の個人的善に恵まれている」という意味では「幸福」ではないのである。この種の「幸福」は子供の場合は、将来に期待するしかない。「幸福な子供」という場合の「幸福」とは、確かに現実的なものであるから大切ではある。だが所詮は「気持ちいいい感じ」、つまりある種の健全な生活を送る時に感じる「感覚」の域を出るものではないのである。もちろんそれはそれでよいことなのだが、道徳的生活の目的である「偉大な善」ではない。偉大な善を獲得するには通常、人生の大半の時間を要するのである。

(p.183)

 

 

 

卓越の倫理―よみがえる徳の理想

卓越の倫理―よみがえる徳の理想

 

 

 テイラーの主張は、最初に読んだときにはわたしもギョッとなった。しかし、読んでから一年ほど経ったいまとなっては、「こういう議論も必要であるな」と思うようになっている。

  すくなくとも、自然科学や社会問題に関する意見には信頼性や権威を求めるのと同じくらい、幸福に関する意見にも信頼性や権威を求めるべきだ、とは思うようになった。あるいは道徳に関してであったり恋愛に関してであったり、なんにしても「だれもが自分の意見を発信できること」という状況には、よくない面もあるかもしれない。

 

*1:主語を「インターネット」と大きくしているが、実のところここでわたしが想定しているのは、主にTwitterはてなで散見される、特殊なタイプの意見だ。以降の文章では特殊なタイプの意見がインターネットの代表的な意見であるかのようにして議論を展開してしまっているので、その時点でこの文章は破綻しているといえる。

*2:

pret.yakan-hiko.com

*3:

davitrice.hatenadiary.jp

*4:といっても、わたしはニーチェを読んだことがないのだけれど。

読書メモ:『ストイック・チャレンジ:逆境を「最高の喜び」に変える心の技法』

 

 

 著者のアーヴァインは『良き人生について - ローマの哲人に学ぶ生き方の知恵』や『欲望について』の著者*1。『ストイック・チャレンジ』では『良き人生について』と同じくストア哲学がテーマとされているが、ストア哲学の歴史や思想などについての含蓄が多く含まれていた『良き人生について』に比べて、『ストイック・チャレンジ』では「ストア哲学を現代で実践するための方法」に関するテクニックに話題が絞られており、自己啓発書という趣が強い。

 

・「アンカリング効果」としてのネガティブ・ビジュアリゼーション

 

企業は製品やサービスを売るのにアンカリングを使う。衣料品店がシャツを販売するにあたり、店長には価格設定の選択肢がふたつあるとしよう。プランAは1枚32ドルの価格をつける。プランBは1枚40ドルの価格をつけ、20パーセントの割引セールをしばしば行う。どちらの場合も客はシャツを32ドルで買えるものの、プランBには客の潜在意識に定価が40ドルという「錨」を沈められる心理面での利点がある。そのため、セールが行われると客は40ドルのシャツをわずか32ドルで買えるという印象を抱く。この印象のおかげでさらに何枚か買いたいと思い、シャツがさらに売れる。それに加えて少量ながら定価の40ドルで買う人もいるので、プランBの方がプランAよりも儲かることになる。

 

古代のストア哲学者たちは、こうした心理学者や企業よりもさらに進んでいた。彼らはシャツを売るためではなく、より満ち足りた人生を送るためにアンカリングを使った。たとえば、定期的に、人生が今よりもつらいものになる場合を想像するようにした。最悪の事態を想像し、潜在意識に錨を沈めれば(このような心理学の用語を使っていたわけではないが)、みじめになるだけのように思うかもしれないが、じつはその反対のことが起こった。錨があることによって、現状をどうとらえるかが変わる。現状をしばしば夢に見る最高の状況と比較するのではなく、より悪い状況と比較すれば、現状もそれほど悪くないと思えるようになった。

これは現代では「ネガティブ・ビジュアリゼーション」と呼ばれる、ストア哲学のツールのうちの、もっともすぐれた心理学的手法だ。とはいえ、状況が悪くなることをつねに考える必要はない。それでは本当にみじめになってしまう。人生や境遇が今よりも悪いものになりうることを、一瞬のあいだ定期的に考えるだけでいい。

(p.95 - 96)

 

・「フレーミング効果」

 

ストア哲学者は、フレーミングの力を十分に理解していた。とはいえ、フレーミングという言葉を使っていたわけではない。エピクテトスは言った。「あなたが望まないかぎり、他者があなたを傷つけることはない。あなたが傷つくのは、傷ついたと認識したときだけだ」こうも述べている。「心を乱すのは出来事ではなく、出来事に対する評価である」セネカも同じように考えていた「不正はいかに行われたかではなく、いかにとらえられたかが重要である」マルクス・アウレリウスも同様のことを言っている。「あなたがなにかの外的な原因で悲しんでいるなら、その痛みは原因自体ではなく、それに対するあなたの評価のせいだ。その評価はあなたの力ですぐに取り消すことができる」つまり、潜在意識はマイナスの感情を呼び起こすような枠組み(フレーム)で出来事を意味づけようとするが、そうした傾向は枠組みを意識的に変えれば弱められることをストア哲学者は知っていたのだ。

(p.104)

 

・「回復力」の重要性、「怒り」のデメリット

 

本書を読んでいるあなたは、おそらく予見できる逆境を防ぐために時間もエネルギーも割いていることだろう。だが、そうしたことが起こった時に受ける感情的な影響を最小化するテクニックを身につけるために、時間やエネルギーを割いているだろうか。逆境のコストを足し合わせてみると、なによりも大きなコストは、逆境によって生じる不安や苦痛だとわかる。だとすれば、感情への影響を減らす方法を身につけるべきだろう。

(p.31)

 

怒りを感じたときには、ふたつの選択肢がある。怒りを表すか、抑えるかだ。怒りを抑えれば、その怒りは心の奥深くに押し込まれて休眠するが、あとからよみがえってくる。逆境に対して覚えた怒りが、1年後にまたふつふつと湧きあがってくるかもしれない。こうした怒りのフラッシュバックは何十年も続く可能性がある。

(……中略……)

怒りを表せばどうなるどうか。法を犯した場合は、投獄されるかもしれない。社会に容認される方法であっても、怒りを表せばマイナスの影響を受ける。怒りを向けた相手が傷ついたとしても、傷つかなかったとしても。

(……中略……)

それでは、自分が不当に扱われたと感じたらどうすればよいのだろうか。まずは怒りの感情を避けるべきだ、とセネカは言う。そうすれば、怒りに対処したり、怒りを表したり、抑えたりする必要もなくなる。

 (p.41-43)

 

 

 さて、先日に書いたジョーダン・ピーターソンの『生き抜くための12のルール』についての書評記事でも論じたように、自己啓発は左派のエートスとは相反するところがある*2

 そして、「怒り」を抑えることを説くストア哲学も、本質的にはかなり反左派的だ。不当な状況や不正な状況についても、怒りを表に示して抗議することよりも、受け取る側の認識を変えて「やり過ごす」ことが推奨されてしまうからである。

『ストイック・チャレンジ』のなかでも、最近のアメリカは自分のことを「犠牲者」と位置付ける人ばっかりになってしまい、そのために人々は逆境に立ち向かう力を失っており、不平不満ばかりを言って自他ともに対して非生産的な影響を生じさせている、ということが述べられている。その代わりに、キング牧師やガンディーなどは自分のことを犠牲者とはみなさずに積極的で前向きなかたちで社会運動をリードしたからこそ変革をもたらすことができたのでエラい、という風に賞賛される。

 同様の議論はジョナサン・ハイトも『アメリカン・マインドの甘やかし』で行なっていた。そして、ハイトの『しあわせ仮説』は『ストイック・チャレンジ』と同じく、古代哲学の知見を現代心理学の知識で説明していることが特徴な自己啓発書だ。ハイトの場合はストア哲学というよりもアリストテレス哲学がメインとなるが、いずれにせよ、「徳」を重要視する哲学であることは間違いない。

 個人が権利を主張して自分の正当性を訴えることは近代以降の民主主義には欠かせないわけではあるが、古代的な徳の観点から言えばそれは本人の幸福に必ずしも益するわけではない、ということだ。マッキンタイアの『美徳なき時代』の頃から言われてきたことではあるだろうが、なかなか考えさせられるものがある。

 

 また、アリストテレス的な中庸の「徳」によると、たとえば「友人や家族とはほどほどに付き合った方がいい」とか「お金はほどほどにあるのが一番だ」ということになる。これは「どんな状態が幸福であるか」ということの記述的な議論としてはおそらく間違っていない。ただし、問題なのは、多くの人にとって人間関係や所得を「ほどほど」の域にまで到達させることは困難であり、場合によっては無理であるということだ。「こういう状態は幸福である」ということと、「その状態にたどり着くためにどうすればいいか」ということは、別々に論じられる必要がある。

 アリストテレス哲学に比べると、ストア哲学は記述的である以上に実践的だ。人間関係や金銭などに問題を抱えている人であっても、その人が「回復力」を鍛えたり物事を認識する「枠組み」を変えたりすることで、幸福でない状態にいることの悪影響を減じることができる。ただし、その実践の仕方はかなり自閉的であり、反社会的ですらある点は、留意するべきだろう。世界中の人のすべてがストア哲学を実践してしまうと、世の中はだいぶ味気のないものになるだろうし、また不正義が放置され続けることにもなるはずだ。

 

左派の思想と自己啓発が相反する理由(読書メモ:『生き抜くための12のルール:人生というカオスの解毒剤』)

 

 

 海外では大ベストセラーになった本であり、日本でも熱心に薦める人が何人かいたので、ほしいものリストから送ってもらった。

 しかし、結論から言うと、かなり期待はずれ。

 

 著者のジョーダン・ピーターソンは心理学者で、前著の Maps of Meaning: The Architecture of Belief は神話や宗教に関する著作であるようだ。

 そして、「インテレクチュアル・ダーク・ウェブ」で「反ポリコレ」な論客としても有名である*1

『生き抜くための12のルール』はタイトル通りの自己啓発書であり、ポリコレとか政治とかが直接的には関わらないが、後述するように、そこで書かれている人生指南の内容は左派的な思想とは相反するものだ。

 そして、ビジネス書的な自己啓発書に比べてかなり分厚く、その内容は実に「衒学的」である。ひとつのルールについて説明されるたびに、聖書だとか神話だとかドストエフスキートルストイなんかの古典文学だとかニーチェの哲学だとかが延々と引用される。この本の最大の欠点はこの「衒学」の部分であり、一行で表現できそうなシンプルなことについても文学や宗教や哲学でいちいち大層な味付けをして表現するので、とにかくくどくて冗長になっている。

「12のルール」の具体例は「背筋を伸ばして、胸を張れ」とか「あなたの最善を願う人と友達になりなさい」とか「自分を今日の誰かではなく、昨日の自分と比べなさい」とかである。これらのルール自体はもっともらしく、他の数多ある自己啓発書でも書き尽くされてきたことであり、誤っているわけではないが目新しさがあるわけでもない。この本の特徴は、これらのありふれた自己啓発指南にもったいぶった衒学的な説明が加えられることで、さぞや大層なものであるかのように演出されていることだ。

 わたしとしては、衒学的な本は必ずしも嫌いではない。スティーブン・ピンカーの『暴力の人類史』とかジャレッド・ダイヤモンドの『銃・病原菌・鉄』とか、ああいうのはむしろ好きな方だ。しかし、ピンカーやダイヤモンドの本が衒学的になっていたのは、自説の論証や補強のためであったり、読者に自説をわかりやすく伝える具体例を示したりするためであった。

 その一方で、ピーターソンの衒学は、あくまでも「演出」のためにしかなっていないのである。もともと書かれていることは難しくもなければ常識に反することでもないのだから、妙な具体例なんて出さなくても明確にすっきりと自説を書いた方が読者にも伝わりやすくなるはずだ。また、聖書や文学から引用したところで、それがピーターソンの主張のどこをどう裏付けるかというのも、わたしにはよく分からない。心理学の知見の引用もそれなりに含まれており、そちらについては多少は主張の裏付けになっているとは思うのだが、そこで引用される知見はかなり古典的でありふれたものであり、知的好奇心をそそられるものではない。

 したがって、学問的な自己啓発書を読むのならこの本じゃなくて諸々のポジティブ心理学の本や現代版ストア哲学の本を読んだ方がいい。あちらには大層な演出は含まれていない代わりに、心理学や哲学の知見がすっきりとわかりやすく示されているので実用的なだけじゃなく読書の喜びもきちんと得られる。一方で、「学問的な知見について知ったり正確な知識がほしいんじゃなくて、とにかく自己啓発されたいんだ」という人であったとしたら、こんな分厚い本をわざわざ手に取らなくても他に候補がいっぱいあるだろう。

 

 というわけで、この本そのものの評価は、わたしのなかではかなり低い。

 しかし、先述したように、この本で書かれていること自体は、目新しくはないものの、誤っているわけでもない。

 そして、「反ポリコレ」な論者によって書かれているためか、「自己啓発書」というものにもともと含まれがちな保守性やリバタリアニズムがかなり強いかたちで表れている点は、なかなか興味深い。

 たとえば、ルールのひとつは「世界を批判する前に家のなかの秩序を正す」だ。

 また、以下の引用箇所は、左派の人ならとうてい書かないものだろう。

 

誰かを助ける前に、なぜその人が困っているのかを知るべきだ。はなから、その人が不当な状況や搾取の被害者であると仮定すべきではない。その可能性もあるが、高い可能性ではない。わたしの経験では、臨床患者やその他の例からみて、そんな単純な話だったためしはない。それに、起こったひどい出来事がすべて、被害者の個人的な責任ではないという話を鵜呑みにするとしたら、その人はあらゆる過去において(さらには現在や将来において)、動作主体ではないとみなすことになる。その人の力を全面的に剥ぎ取っているわけだ。

 (p.114)

 

不幸を見せびらかすことが、ある種の武器なのかもしれない。自分が待ちぼうけて沈み込む一方で上昇していく人々を見て、憎悪のなかからそんな武器を生み出した可能性もある。自身の罪を、不適切さを、懸命に生きようとしていないことを立証する代わりに、世界の不公正さを証明しようと、不幸をアピールしているのかもしれない。苦しみをそういう証明に使っているのなら、いつまででも苦しみを受け入れる気になっているも同然だろう。それは「ビーイング」への復讐なのかもしれない。そんな立ち位置にいる者に、誰かが友情を差し向ける必要があるだろうか?

(p.115)

 

 自己啓発の基本は、「他人や社会を非難したり変えようとしたりするのではなく、自分を変えようとするべきである」ということにある。いまいる環境が自分に適していないなら、その環境を変えようとするのではなく、自分の問題点を改めるか別の環境へと自分から移動するかのどちらかを行うべきだ。ロクでもない人間が周りにいるなら、その人が改心することを期待するのではなくて、さっさと縁を切って新しい人と付き合うべきである。

 そして、大半の自己啓発書は、多かれ少なかれ自己責任論的である。自分の人生の舵は自分が取るべきだ、とされるのだ。

 自己啓発書が「批判」よりも自己改善を志向して、他責よりも自責を強調するのは、個人の人生という見地から考えれば、大半の場合においてそちらの方が生産性も実現可能性も高くて、効率が良い選択肢であるからだ。

 

 一方で、左派の思想では、問題の責任を個人よりも社会や構造に見出して、「大きな枠組み」に目を向けることが推奨されて、自己責任論は忌み嫌われる*2

 そのため、左派からすると、自己啓発書やポジティブ心理学は、リバタリアニズム的でネオラリベラリズム的なイデオロギー装置に思えてしまうのである。

 たしかに、みんながみんな自己啓発を実践すると、社会や構造を批判して変えようとする人はいなくなってしまうだろう。そうなると、現状の不正なり不平等なりが放置されてしまう。だから、マクロな単位で見れば、社会を批判する人が一定数存在することは必要なのだ。

 しかし、個人の人生というミクロな単位で見ると、左派の思想は不適応的な側面が多い。自分ではなく周りを変えようとする行為が成功する保証はないし、成功するとしても時間がかかる。

 さらに言えば、左派の思想は他責を推奨するために、人から活力やモチベーションを奪ってしまう。結局のところ、自己責任論を信じて「自分の人生は自分で舵を取るべきだ」と思っている人の方が、成功に向かって努力する意志を持ち続けられるのだ。

 具体例をあげると、インターネットでは「文化資本」の格差について貧乏人や田舎者が恨み言を書き連ねるのが昔ながらの定番となっている*3。「文化資本の格差」的な現象が実際に存在すること、そこに不平等や不正義や不公平が含まれていることはたしかだ。……しかし、同じように「文化資本がない人」同士の間では、文化資本の格差について不平不満を言い続ける人と、自分に与えられたカードで割り切って勝負をできる人とでは、後者の方がずっと有利であるだろう。社会問題の存在を表現する概念について知ってしまうこと自体が足枷となる、という可能性すらあるのだ。

 左派の人は自己啓発を「資本主義的」なものであると思っていることが多い。しかし、自己啓発の思想が適応しているのは、資本主義ではなく世界そのものである。おそらく、どんな構造の社会においても、意志力や活力のある人がそうでない人よりも成功や幸福に近いことは変わらないのだ。

 

 主張の内容が正しいかどうかとは別として、左派の思想は「被害者性の文化」や他責志向と結びやすく、その主張に賛同する人の精神や生活によからぬ影響をもたらす、という副作用があることは意識されるべきだろう*4

 ついでに書いておくと、一昨年くらいからやたらと流行するようになってきた反出生主義をわたしが警戒しているのも、同様の理由によるものだ。哲学的には反出生主義は興味深く検討に値するものであるし、特に動物倫理の分野においては、具体的な行動や政策の是非について考えるうえで避けられないものである*5。だが、「個人の考え方や心理に与える影響」という観点で見てみると、反出生主義は左派の思想よりもさらに他責的な傾向へと人々を導いて活力を奪うものであることは間違いない。反出生主義の思想は、「二分割思考」「マイナス思考」「過度の一般化」「拡大解釈」など、うつ病に特有な「認知の歪み」とあまりにも相性が良すぎるのだ*6。そして、反出生主義がミームとして広まることで、多くの人々がうつに導れたりうつが悪化したりしてしまう危険性は、かなり高そうである。だから、公衆衛生的な観点からすると、反出生主義についてあまり語られ過ぎるのもどうかと思うのだ。

 

ケアの倫理と二層理論/「アイデンティティ哲学」がつまらない理由

 

link.springer.com

 

 ヘルガ・クーゼ、ピーター・シンガー、モーリス・リカードによる共著論文 "Reconciling Impartial Morality and a Feminist Ethic of Care" (「公平な道徳と、フェミニストによるケアの倫理を調和させる」)を読んだのでメモ的に内容を記録。

 

 この論文では、公平さや抽象性や客観性を重視する「正義」の倫理に対する、当事者同士の関係性や文脈依存性や主観性を重視すべきだと強調する「ケア」の倫理による批判が取り上げられながら、「けっきょく道徳は公平であるべきか(impartial)、偏ったものであるべきか(partial)」ということが問われる。

 この問題に対して著者が提示する解決方法は「二層理論」だ。日々の生活や現場における直観レベルの道徳は偏っていて限定的であるくらいの方がうまく機能するので、その観点からすれば「ケア」のように偏りや不公平を含む倫理も認められる(自分の家族を他の人よりも優先すべき、など)。しかし、複雑な問題に時間をかけて対処したり制度設計をしたりなどの批判的思考が必要となるレベルにおける道徳は公平なものであらねばならない。そして、直観レベルにおけるケアの実践のあり方も、批判的のレベルの道徳(つまり、正義の倫理)による精査の対象とされなければならない。

 著者たちは「調和」と主張しているが、ケアの倫理の提唱者たちからすれば、これは「取り込み」としか思えないだろう。ケアの倫理の存在意義を認めはするものの、あくまで直観レベルという「下位」のものとしての存在意義しか与えない考え方だからだ。……とはいえ、倫理学道徳心理についてまじめに考えれば、結局のところ、著者たちのような結論にしか至るはずである。これまでにも述べてきたように、ケアの倫理は全面的に肯定することがかなり難しい主張であるからだ*1

 

 それはそれとして、この論文では、フェミニズム思想には男女の共通点を強調して公平な取り扱いを求める運動(平等派フェミニズム)と、男女の差異を強調して女性ならではの価値観や経験を重視する運動(差異派フェミニズム)の両方が存在しているということや、二つの派閥の間にあるジレンマについても触れられている。この点に関する著者たちの結論もやはり「二層理論」であり、フェミニズムの原則的な目標(=批判的思考レベル)は「平等派フェミニズム」であるべきだが、それに違反しない範囲内であれば「差異」を強調することも認められる、といったものだ。

 

 実際、「差異」の強調はこれまでにフェミニズムが培ってきた平等に関する達成を台無しにしかねない点があり、取り扱いには注意を要する。「ケアの倫理」は差異を強調するキャロル・ギリガンやネル・ノディングスを元祖としているからこそ、この問題には悩まされているようだ。先日に読んだ『ケアの倫理:ネオリベラリズムへの反論』からも、苦労している様子がうかがえた。

 

ケアの倫理 (文庫クセジュ)

ケアの倫理 (文庫クセジュ)

 

 

 この本のなかでは、ギリガンに関しては肯定的に扱われている。

ギリガンの議論は、「ケア」においてアイデンティティを獲得する女性、認められていない配慮の役割を担う人びとを勇気づけた。彼女が意識したことは、このような女性たちは、自己を犠牲にして他者を援助し、配慮する力を搾取されているということだ。

(……中略……)

ギリガンはみずからの『異なる声』について回想したときに指摘しているが、「ケア」の倫理は根本的に民主主義的であり、多元主義的であって、市場社会におけるジェンダーの二元性と序列に対して抵抗する声である。それゆえ、「ケア」の倫理は、多文化主義的であり、差異を承認する政治なのだ。さらに、「ケア」の倫理は、女性の徳を称賛する自然主義ではなく、フェミニズムの政治闘争に関わる。「『ケア』のフェミニストの倫理は、異なる声だ。なぜなら、それは、家父長制の規範や価値とは無関係だからだ。それは、ジェンダーの二元性と序列に従わず、民主主義の規範と価値を明らかにしようとする。」

(p.35)

 

 それに比べて、ノディングスはずいぶんと否定的に扱われる。

 

ネル・ノディングスは、女性が母親となることを理論展開の基軸にすえる。配慮、他者への関心の価値は女性の価値とされる。その価値は母性愛にかかわる女性の偉大な道徳的感情を表わす。出産、そして母親になることが重要なのだ。女性は母性の価値を実現するロボットであり、その価値は女性の本質とされるから、このイメージから外れる女性は、女性として考慮されない。こういった女性の価値を主張することは異性愛を前提とすることなしにはありえない。

このように配慮の関係を記述することは、道徳の自然主義をめざす愛の倫理のなかに埋め込まれている。配慮する態度は他者を受容する態度であり、その態度が感情移入を可能とする。そして、配慮が自然なこととして他者の立場にたってなされるとされる。すなわち、配慮の関係は、配慮を受ける人の依存する生命に対して、配慮する側の人が権力を行使する関係とは考えられない。

(p.23 -24)

 

 ところで、「民主主義的」で「多元的」で「市場社会」に抵抗する主張ならオッケーであり、「異性愛を前提すること」や「道徳の自然主義」を肯定するような主張ならダメである、ということは、誰がいつ決めたのだろうか?

 本来であれば、民主主義や多元性を肯定する主張を是として、市場社会や異性愛自然主義を肯定する主張を否とするためには、それぞれの項目について規範的な議論を行うことが要請されるはずだ。しかし、著者は「これらがオッケーでこれらがダメなのは、説明するまでもなく、読者も理解しているはずだ」という前提で筆をすすめているのである。

 そして、『ケアの倫理:ネオリベラリズムへの反論』における「ネオリベラリズム」とは、世の中で「ネオリベラリズム」について書かれた大半の著作のなかでそうなっているように、現代社会で起こっている悪い物事をひとまとめにして放り込められる、ゴミ箱のような概念と化している。

 

 たとえば、ギリガンやノディングスが展開した主張は、サイモン・バロン=コーエンの『共感する女脳、システム化する男脳』に代表されるような、現代の発達心理学進化心理学が培った「男性のシステム化思考/対物志向」と「女性の共感思考/対人志向」との対比に関する研究などを参照すればより奥深く面白いものに発展させられそうなものである。しかし、「ケアの倫理」を主張する人たちのほぼ全員がフェミニストであるために、こちらの方向で研究が発展することは望み薄である。なぜなら、「自然主義」はイケないこととされているからだ。彼女らは「女脳」という単語を耳にしただけで、頭ごなしにその研究を否定することだろう。

 

 問題なのは、「ネオリベラリズムはイケないことだ」とか「自然主義はイケないことだ」とかいった発想が、議論を経て提示されているのではなく、無条件の前提となっていることだ。これは、特に哲学の本においては不適切なことである。

 そして、同様の問題は『荷を引く獣たち:動物の解放と障害者の解放』にも通底していた。

 

davitrice.hatenadiary.jp

『ケアの倫理』も『荷を引く獣たち』も、それぞれ、フェミニズム/障害者運動というアイデンティティ・ポリティクスに絡んだ議論を展開している、ということでは軸を一にしている。

 そして、わたしが思うに、これらの本がつまらない最大の理由は、哲学の議論であるくせにアイデンティティ・ポリティクスに主張を引きづられていることだ。何が是とされて、何が否とされるかという前提は、本が書かれる前から運動論的なアジェンダによって定められている。著者たちはそれに配慮して帳尻を合わせられる範囲でしか、議論を展開できない。だから、哲学の本や学問的な本に本来ならあるはずの、議論や思考が自由に展開されることで生じる面白さや豊かさや意外さみたいなものが、まったく期待できないのである。

 

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アイデンティティ哲学」がはらむ問題をもう一つ挙げると、ジョセフ・ヒースが「『じぶん学』の問題」で論じたように、そのアイデンティティの部外者からの批判が差別的・抑圧的なものとして自動的に排除される構造になっていることだ。この構造により、通常の学問的営みにおいては他者からの批判によって修正されるはずの、感情的推論などの「認知の歪み」が修正されずに放置されて、ひたすらエコーチャンバーとなってしまう。

 

 無論、特定のアイデンティティを重視した主張を展開することで、「中立」で「主流」とされていた議論に存在している偏りを暴き出し、修正できる、という生産的な展開が生じることもある(「ケアの倫理」に関しては、たとえばエヴァ・キティによるロールズ批判がそうだ)。しかし、そうだとしてもアイデンティティには批判的視座の一角としての役割しかなく、それそのものを中心した主張を展開することは難しいだろう。やはり、客観性や普遍性を志向した議論がメインとなるべきで、アイデンティティ的な議論は存在するにしても下位ジャンルに留まるべきであるように、わたしには思える。

 

女性のための進化心理学?:『ジェンダーの終わり』読書メモ(2)

 

 

 

 先日の記事で書いたように、『ジェンダーの終わり:性とアイデンティティに関する迷信を暴く』ではトランスジェンダーやノンバイナリーに関する話題がメインとなるが、第7章や第8章ではヘテロセクシャルの女性や男性に関する進化心理学的な議論がなされる。6章以前のセンシティブな議論に比べると他愛のない話題になるのだが、個人的には7章以降の方が面白かった。

 

 第7章では「デートとセックスにおいて女性は男性のように行動しなければならない」という、ジェンダー平等的な規範が「迷信」として批判される。

 この章で著者が主張しているのは、「恋愛や性に関するジェンダー平等的な規範は、大半の女性や男性に生来的に備わっている志向や行動傾向を無視した空論であり、デートやセックスにおいてジェンダー平等的な規範を意識し過ぎることは女性自身の意志を抑圧したり女性に不利益をもたらしたりする場合がある」といったものだ。

 たとえば、「最初のデートでは男性は女性に奢るべきだ」という規範は男女平等には反するものであるが、著者はこの規範を支持する。進化心理学の観点からすれば男性とは隙あらば不特定多数の女性とセックスをしたがる存在であり、「複数人の異性と不誠実な関係を結ぶ」ことを企む可能性が女性よりも高いからこそ、女性は目の前の男性が「自分に対して誠実に接してくれるか」ということを見定めなければならない。

 最初のデートで奢ることは「自分がコストを払ってでも、相手との関係を真剣に育みたい」と思っていることを示す行為であり、誠実さや忠実さのディスプレイとなる。逆に言うと、最初のデートですら奢らないような男性は、口ではどれだけ甘いことを言っているとしても、女性側からすれば、自分との関係を真剣に育もうとしてくれることを示す保証がない危うい相手であるのだ。

 同様に、「デートの誘いは女性側からではなく男性側から行うべきだ」という規範も男女平等には反するが、誘うという行為のコストを男性に負わせることで真剣に付き合う気のない男性のいくぶんかを事前に排除できるという点で、女性が時間を無駄にすることを防いだり女性の身を守る効果があったりする。

 著者が懸念しているのは、女性の身を守るのに効果的であった旧来的な規範がジェンダー平等的な規範に取って代わられてしまうことで、若い女性たちがロクでもない男たちに捕まってしまうことである。

 そして、著者によると、極左的なフェミニズムイデオロギーに賛同していたり「自分はアライだ」などと言ってくる男性こそが、女性が最も警戒しなければならない相手である。口先だけはイデオロギーに賛同したり、相手に合わせた主張をすることには、なんの負担もかからない。男性側からすれば、自分はいっさいコストを払わずに特定の女性の気を惹けるという点で、これほどおトクな手段はないのだ。

 同じく著者が懸念しているのが、「これまで女性の性の自由は家父長制によって抑圧されてきたが、女性だって男性と同じよう自由にカジュアルにセックスを愉しむべきだ」といったフェミニズム的な規範を信じた若い女性たちが、カジュアルなセックスに勤しんだり自分からすすんで「ビッチ」になろうとしたりすることだ。

 女性もセックスを愉しめることは事実だとしても、結局のところは、大半の女性には、男性ほどには「不特定多数の異性とのセックスを愉しみたい」という嗜好は備わっていない。そのため、女性が「先進的な人間であるためには、ビッチにならなければ」というプレッシャーから無理してカジュアルなセックスを求め過ぎることは、本人の内心や身体的な欲望に反している可能性が高い。「女性も男性と同じようにカジュアルなセックスを愉しむべきだ」という規範は、結局のところ、男性の側ばかりを利しているおそれがあるのだ*1

 

 また、第7章では、「化粧や美容を重視する文化は、家父長制による女性への抑圧の産物である」というタイプの意見も批判される。

 基本的には、化粧や美容とは、男性が普遍的に「魅力的だ」と思うような外見(赤く艶やかな唇、汚れのない肌、大きい胸と尻に引っ込んだ腹からなるボディラインなど)を女性が獲得するためのものとして発達してきた。そして、現代社会で女性が化粧や美容にかける費用・時間がどんどん増大していて女性の生活に多大な負担をかけているのは、家父長制のせいではなく、他の女性と比べてより魅力的になることを目指す女性たち同士の競争が激化していった結果である。

 とはいえ、著者は、化粧や美容による金銭的・時間的なコストが女性にだけ押し付けられており、女性の精神や身体にも悪影響を与えていることは道徳的には不当である、とも論じている。「女性が化粧や美容に熱心になることは進化心理的に自然なことであるから、間違ったことではない」とまでは主張していないことがポイントだ。

 また、ジェンダー平等的な価値観においては「男性っぽい装いをする」や「髪の毛を不自然な色に染める」タイプの化粧・美容は「旧来のジェンダー規範に逆らっている」ということで肯定されるが、それらが金銭的・時間的なコストという点では旧来の化粧や美容と変わらない場合には、化粧や装いの種類を変えたところで女性に対する負荷は残り続ける、とも指摘されている*2

 

 著者自身が女性だということもあって、進化心理学の知見を事実として肯定したり社会構築主義的なジェンダー論の悪影響を批判したりしながらも、「それらの知見をふまえたうえで、女性たちの利益について配慮するためには、どう考えればいいか」という点に主眼があたっているのがユニークなところだ。

 とはいえ、ジェンダー論やフェミニズムなどの思想にあまり触れたことがなさそうな女性であっても不特定多数とのカジュアルなセックスを純粋に楽しんでいる場合はあるようだし、セルフイメージの演出などの「思想」込みの化粧はたとえ金銭や時間的なコストがかかるとしても女性の自己肯定感を高めるという効果があったりもするようであるらしい。

 もちろん、著者も「進化心理学の知見はあくまで平均的・一般的なものであり、女性にせよ男性にせよ、進化的心理学が明らかにするような男女の傾向に当てはまらない人も存在する」という点を読者に留意させてはいる。

 いずれにせよ、わたし自身は男性ということもあって、若い女性たちに対する著者のアドバイスがどこまで的を得ているかということは、ちょっと判断がつかない。

 

 第8章では「ジェンダーニュートラルな養育は機能する」という主張が迷信であると批判される。子どもの男女差は社会的な刷り込みの結果ではなく生得的なものなので、たとえ男の子にお人形を与えていても男の子は車のおもちゃで遊びたがったり「男らしさ」的な特徴を自然と身につけていくようになったりするし、逆もまた然り、という議論だ。

 ジェンダーニュートラルな養育をしたがる親は、「子どもの性自認は多様でありえるから、生物学的な性別と性自認が同じであると前提した養育を行うと、実はトランスジェンダーである子どもに対する抑圧につながるかもしれない」という主張を真に受け過ぎている、という場合もある(子どもがトランスジェンダーなどである可能性は存在するが、その可能性は本来はごく僅かであるものが、活動家によって大げさに誇張されている、ということだ)。

 しかし、子どものことを心から思っているためというよりも、「自分はいかにジェンダーの多様性について理解があるか」ということを他の人たちにアピールするためにジェンダーニュートラルな養育をする親の方が多いだろう、ということを著者は指摘している。

 そして、ジェンダーニュートラルな養育を支持する言説には、ダブル・スタンダードが内包されている。子どもが自分の性別に典型的な振る舞いをすることは「社会による刷り込みの結果だ」として否定的に見られる一方で、自分とは逆の性別に典型的な振る舞いをすることは「社会に影響されていない、自分の生まれ持った性自認が自然に表出されている」として肯定的に見られるのだ。つまり、社会構築主義と生物学的決定論がご都合主義的に使い分けられているのである。

 

 9章や結論の章では、社会正義運動やポリティカル・コレクトネスが科学や学問の自由などに対して与えている悪影響などについて論じられている。

 9章では『アメリカン・マインドの甘やかし』の著者であるジョナサン・ハイトが登場したりすることもあって、論じられている物事の趣旨はわたしがこのブログや現代ビジネスの記事などで散々紹介してきたのとだいたい同じようなもの*3

 とはいえ、「哲学、英語学、教育学などの学際的な分野の学者」や「ジェンダースタディーズやクィアスタディーズなどの"スタディーズ"系の学者」や「自分のWebサイトのプロフィール欄に"不平等"や"生きた経験 (lived experience)"や "家父長制"などの社会正義的なバズワードを含めている学者」などは、イデオロギーに影響され過ぎているおそれが高くて科学者が共同研究をする相手として適切ではない、と論じている箇所は歯に衣着せぬ感じがなかなか刺激的だ。

 

 

*1:同様の指摘は、ジョセフ・ヒースも『反逆の神話:カウンターカルチャーはいかにして消費文化になったか』のなかで行なっている。

 多くのフェミニストは早くから気づいていた。「自由恋愛」がこの社会における大規模な女性の性的搾取を可能にしてしまったのだ。フェミニストの当初の考えは、男は抑圧する側だから、男女関係を律するルールはすべて男に都合がいいように操作されたはず、ということだった。そんなルールの多くが明らかに女性の防衛のために、女性を男性から守るために作られたという事実は、なぜか見落とされた。社会学者でフェミニストカミール・パーリアは八〇年代に、こうしたやかましい古くからの社会慣習の多くは、実のところレイプの危険性を減らす重要な機能を担っていたのだと指摘して、騒動を巻き起こした。同様に、昔ながらの「できちゃった結婚」ルールは、子供の父親としての責任を男性たちに取らせた。この規範が崩れてきたことも、西洋世界に「貧困の女性化」が広がっていることの主要因である。

実際、もし男性の一団に理想のデートのルールを考えるように頼んだとしたら、たぶん性革命によって出現した「自由恋愛」にそっくりの設定を選ぶことだろう。女性の感性に配慮しなくてよければ男はどういう性生活を送ろうとするのかを調べるには、ゲイ浴場を見学すればいい。しかし、このような可能性は、主としてカウンターカルチャー的分析の支配力のせいで黙殺されていた。女性は抑圧される集団であり、社会規範は迫害のメカニズムであると、カウンターカルチャーは主張した。だから解決策は、すべてのルールを廃止することだ。したがって、女性の自由は、すなわち社会規範からの自由と同一視される。

結局、これは悲惨な同一視だった。そのせいで全く受け入れがたい状態が理想的な解放と称されたばかりか、現実に女性の生活の確かな改善につながりそうな改革の受容を「取り込み」や「裏切り」として斥ける傾向を生み出した。どうしてここまでひどく道を誤ってしまったのだろう?

(p.79-80)

 

davitrice.hatenadiary.jp

*2:化粧や美容が「家父長制によって女性に押し付けられたもの」であるという主張を否定している点では、キャサリン・ハキムが『エロティック・キャピタル』で論じた主張と近い。しかし、ハキムの主張は女性同士の間で起こる「美の過当競争」を肯定しかねないものであった。その一方で、『ジェンダーの終わり』の著者は化粧が女性にとって負担になる可能性を考慮して「行き過ぎは抑えるべきだ」「女性だけが一方的にルックスを評価される社会が不当であることはたしかだ」といった穏当な主張をしている。わたしとしてはこっちの方が好ましいと思う。

davitrice.hatenadiary.jp

*3:

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読書メモ:『ジェンダーの終わり:性とアイデンティティに関する迷信を暴く』(1)

 

 

 裏表紙の賞賛コメントには『人間の本性を考える: 心は「空白の石版」か』の著者でもあるスティーブン・ピンカーや『共感する女脳、システム化する男脳』の著者であるサイモン・バロン・コーエンの名前があるところから、「男女の生物学的な性差に関する本かな」と思って購入してもらったのだが、実際にはトランスジェンダーやノンバイナリー(Xジェンダー)に関する議論が中心の本だった。

 また、内容としては明らかに「保守」寄りのものである(そのためか、ヘザー・マクドナルドやベン・シャピロなどの保守論客も裏表紙に名を連ねている)。そして、この本は2020年の8月に発売されたものであるが、 Amazonには400近くのレビューが付いており(ほとんど五つ星だ)、かなり話題になった本であることがうかがえる。

 トランスジェンダーやノンバイナリーに関する議論はこの1〜2年で日本でもにわかに目立つようになった印象があるが、欧米においてもかなりホットなトピックとなっているようだ。

 

 この本の著者であるデブラ・スー(Debra Soh)はカナダ人であり、性科学や神経科学の研究を行ってきた経験がある。しかし、現在の彼女は研究者ではなくジャーナリストとなっている。

 この本の序文で語られている、著者がジャーナリズムの道を選んだ理由を簡単にまとめると、以下のようになるだろう:性やジェンダーに関する問題について科学に基づいた正確な知識を発表したり広めたりしようとすると、活動家から非難や攻撃を受けてしまい、キャリアにも傷が付く。そのため、性科学を研究している人たちであっても、自分たちの知っている事実について口を噤んでしまうことになり、活動家側による科学的な根拠のない意見ばかりが喧伝されてしまう状況となってしまっている。その状況は、実害を生じさせてもいる。そのような状況を打破するため、自分はジャーナリストとなって事実を広く知らしめることを選んだのだ。

 ……ということで、この本は全体的に「理性的で事実を重んじる科学者の意見」と「非理性的でイデオロギーを優先する活動家の意見」とが対比される、という構図になっているフシがある。一般論を言わせてもらうと、本の著者がこういう構図を作るときには、読者は意見や感情を著者に誘導されないように警戒をした方がいいものだ。

 その一方で、アリス・ドレガー(Alice Dreger)が『ガリレオの中指』で取り上げていたマイケル・ベイリー(Michael Bailey)に対するバッシング事件のように、性的自認や性的嗜好に関する科学的研究を行っている研究者がリスキーな立場にいるということは、事実の一面ではあるだろう*1

 

著者は、性に関する社会構築主義的な議論を強く否定する。

性別とジェンダーに関する著者の定義は、以下のようなものだ。

 

生物学的な性別(biological sex)は、男性か女性かのどちらかである。一般的な通念とは異なり、性別は染色体や生殖器やホルモン像(hormonal profile)ではなく、配偶子によって定義される。男性から生産される小さな配偶子は精子と呼ばれ、女性から生産される大きな配偶子は卵子と呼ばれる。卵子精子のあいだに中間的なタイプの配偶子が存在するわけではない。そのため、性別は二元的(binary)だ。性別は連続的なものではないのである。

ジェンダーアイデンティティとは、自分の性別について抱く感覚であり、自分のことを男性であると感じるか女性であると感じるか、ということである。ジェンダー表現(gender expression)とは、自分のジェンダーアイデンティティについて他の人に言明することや、服装・髪型の選択に話し方や身振りといった外見を通じて自分のジェンダーを表現すること、などである。

性別と同じように、ジェンダーも、……アイデンティティと表現の両方において……生物学的なものである。ジェンダーは社会的に構築されたものではなく、解剖学的構造や性的指向から分け隔てられるものでもない。最近の学者たちによってあなたが信じ込まされているかもしれないことにも関わらず、これらの要素はしっかり関係しているのだ。社会ではなく生物学的な要素が、ある人のジェンダーが典型的なものであるか非典型的なものであるか、自分に生まれつき備わった性別についてどれだけ一致感を抱けるか、どんな相手にパートナー候補としての性的な魅力を感じられるか、などを決定しているのだ。

(p.17)

 

  そして、著者によるトランスジェンダーの定義は、以下のようなものだ。

 

 

……(前略)……この本のなかでわたしがトランスジェンダー・コミュニティについて言及するときには、ジェンダーに関する違和感(dysphoria)を抱いており(生まれ持った性別よりも逆の性別に対してより強く一致感を抱いていること)、社会的なものにせよ医学的なものにせよ逆の性別に移行するための手続きを行っている人々のことを指す。

(p.79 - 80)

 

 

 著者は、トランスジェンダーの人々が存在するという事実自体は、科学的にも確かであると認めている。

 この本のなかで著者が特に強く批判しているのは、トランス「活動家」であったり、トランスジェンダー運動の「行き過ぎ」であったりする。

 この本で「迷信」とされている考えのひとつは、「ジェンダー違和感を抱いている子どもは性移行を行うべきである」というものだ。

 性移行は、手術を行わない社会的なものであっても、いちど移行してしまうと、元に戻ろうとしたときに精神面や対人関係の面において多大な負担がかかるのであり、安直に行うべきではない。特に子どもが若ければ若いほど、本人がほんとうに「ジェンダー違和感」を抱いているかどうかは不確かになるのだから、子どもが意思を確定して表明できる年齢になるまでは、性移行は控えるべきだ。

 ……しかし、活動家たちによって「性別の多様性」や「ジェンダー不定性」が誇張して喧伝されていることから、親たちは「子どもが性的違和感を口にしたら、移行をさせなければいけないかもしれない」という罪悪感を抱くようになっている。「トランスジェンダーの自殺率の高さ」などのショッキングな情報によって親たちの不安が煽られていることや、性移行を検討しない親は「差別的」であるとして活動家たちから非難されることも親を怯えさせて、子どもの性移行が安直に行われる原因となっている、と著者は主張するのだ。

 

 また、著者は「女性として生まれた女性とトランス女性の間に違いは存在しない」という考えも「迷信」として批判している。

 たとえば最近に日本でもすこし話題になった、女性スポーツ競技へのトランス女性の参加については、生物学的女性にとって不公平な施策であると批判されている*2*3。女性用のトイレをトランス女性が利用することや、女性・男性用ではなくジェンダーニュートラルなトイレを普及させることは女性に危害をもたらして、実際の性犯罪にもつながっている、とも論じられている。

 著者が特に問題視しているのは、個々の施策そのものというよりも、トランス女性と生物学的女性の利害が対立する可能性のある施策について、議論することすらできない状況になっていることだ。「トランス女性のことを考慮した施策は、女性に対して不公平なものとなっていないか」いう疑問を呈するだけでもヘイトスピーチと認定されて「TERF」とのレッテルが貼られてしまう状況になっている、と著者は批判するのである。

 

(この段落は著者じゃなくてわたしの私見

 

 ……このあたりの問題意識は、日本のTwitterにおける生物学的女性(及び生物学的女性を支持する男性フェミニスト)とトランス女性(及びトランス女性を支持する両性のフェミニスト)との間での論争を見ていても、「わからなくはない」という感じである。ただし、生物学的女性の側もトランス女性の側に対して「名誉男性」などのレッテルを貼ったり誹謗中傷を行ったりしている、ということには留意するべきだ。

 日本のTwitterを眺めていると、トランス女性の側は生物学的女性の「シス特権」をあげつらい、生物学的女性の側はトランス女性の「トランス特権」をあげつらうことで、不毛な非難の応酬となっている様子がうかがえる。

 この状況については、「特権」概念は他者を非難する武器として使うだけなら便利で強力なものであるが、妥協点を発見したり利害を調整したりする必要がある場合には逆効果しかもたらさないものである、ということが影響しているだろう。「特権」概念にかかると、「ある属性が経験している困難や感じている苦痛を経験したり感じたりせずに済む属性は、特権を持った存在である」とされる*4。特権を指摘された人は、本人がどう振る舞っていて他人に対してどう接しているかに関わらず、反省すべき加害者側であり、弱者である属性に対して譲歩を行なうべき存在であるとされてしまうのだ。特権を指摘された人のなかでも真面目であったり気が弱かったりする人は罪悪感を抱いて、実際に反省や譲歩を行うかもしれないが、大半の人はムッとなってしまい、相手の側に対する反感をむしろ強めてしまうものだ。そうなると妥協や合意は遠ざかってしまう。「白人特権」や「男性特権」といった言説ですら逆効果をもたらしてきたものだが、人種の問題や男女の問題と比べても生物学的女性とトランス女性との間における問題では被害や不利益の状況が複雑に入り組んでいるからこそ、特権概念の悪影響はさらに強くなるのだろう。

 

ジェンダーの終わり』では、トランスジェンダー運動よりもノンバイナリー運動の方が、さらに強く批判されている。

 先述したように、トランスジェンダーの人々が存在すること自体については、事実であると著者も認めている。一方で、ノンバイナリー(Xジェンダー)には科学的な根拠が存在しない、と著者は主張するのだ。

 著者によると、性別とジェンダーは、あくまでバイナリー(二元的)なものである。トランスジェンダージェンダーアイデンティティが生物学的な性別とは逆になっているということであるし、「女性的なゲイ」や「男性的なレズビアン」もジェンダー表現や性的指向が性別とは逆になっているということであるが、「逆」であるということは二元論のフレームに収まっているということなのだ。

 そして、近年のノンバイナリー運動では、ドラァグや異性装者などのように「ジェンダーアイデンティティは性別と一致しているが、ジェンダー表現は性別と逆になっている人」までもが「ジェンダーアイデンティティが他と異なっている人」という括りに入れられている。また、同性愛者の定義がジェンダー表現によって細分化されたりすることで、アイデンティティのカテゴリがどんどん増大している。それによって、性別やジェンダーアイデンティティが二元論的でなく連続的なものであるかのように粉飾されている、と著者は主張するのだ。そして、トランスジェンダーの定義も拡大されており、「自称トランス」は近年になってどんどん増えている、と著者は論じる。

 著者によると、定義上は同性愛者である人が「自分はトランスジェンダーである」と主張したがったり、特に近年の若者が「自分は男性にも女性にも当てはまらない」「自分は第三のジェンダーである」という主張をしたがる背景には、アイデンティティ・ポリティクスやインターセクショナリティなどの左派的なトレンドが関連している。近年ではシスヘテロ男性のみならずシスヘテロ女性や同性愛者すらもマジョリティ側に認定される可能性があるため、より珍しくより"マイノリティ"なアイデンティティを主張することが、自分の個性をお手軽に表現する方法になっているだけでなく、誰からも批判されない居心地の良いコミュニティに属するための方策になっている、ということだ。

 そして、ジェンダーに関する議論や学問では生物学的・科学的事実が無視されており、事実と主観との間の境目を無視してしまう社会構築主義が跋扈していることもノンバイナリー運動が隆盛する原因となっている、と著者は論じるのである。

 

 ……この議論に関しては、わたしも、「まあそういう側面はあるだろうな」とは思う。ノンバイナリーやクィアが「トレンディ」なものになっているという風潮は、たしかにあるだろう。……一方で、性別やジェンダーについて著者が与える二元論的な定義がすべての場面において有用であるかどうかはわからない。ちょっと定義として狭すぎたり、捉えるべきところを捉えきれていないのではないかとも思える。

 また、二元論に当てはまるか当てはまらないかに限らず、自分のジェンダーアイデンティティについて悩んでいる人が多くいることも事実であるはずだ。著者による批判はそういう人たちにも飛び火してしまって、無用な加害を生じさせるおそれがあるとは思う。同じく、上述してきたようなトランス「活動家」に対する批判も、そうではないトランスジェンダーの人々に飛び火して加害となる可能性は大いにあるだろう。

 ……とはいえ、ノンバイナリー運動に対して違和感を抱いている人は多くいるだろうし、その運動に不自然なところがあったり科学的な事実と反しているところがあるとすれば、誰かがどこかで批判をしなければならないことでもあるとも思う。

 

*1:ガリレオの中指』に関して紹介している記事はこちら。

davitrice.hatenadiary.jpまた、以下のブログでもマイケル・ベイリーに関する記事が訳されている。

annojo.hatenablog.com

*2:

togetter.com

*3:ただし、著者も、「トランス女性であるスポーツ選手の大半について、彼女たちが不当な利益を得ることを目的として性移行したとは、わたしは考えない」(p.215)としている。著者が批判している対象はあくまでトランス「活動家」であり、トランスの人々一般については共感的・同情的な筆致も節々にある。

*4:

davitrice.hatenadiary.jp