道徳的動物日記

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メモ:「性的モノ化」とはなんぞや、村上春樹の『女のいない男たち』

 

女のいない男たち (文春文庫)

女のいない男たち (文春文庫)

 

 

 

 先日に友人とやったラジオで「性的モノ化」に関することを口にしたけれど、自分で言っていてこの言葉についてきちんと理解していないことに気が付いたので、ちょっと調べてメモをまとめることにした。

 

 まず、江口先生の現代ビジネスの記事。

 

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女性を「性的対象物」として描くこと、あるいは「性的モノ化」「性的客体化」などと訳されている言葉と概念は、フェミニズム思想の最重要キーワードの一つだ。

この言葉は英語では”sexual objectification” であり、男性が支配的な社会においては、女性たちが性的な「オブジェクト」、すなわち単なる物体(モノ)として扱われているということを指す。現代社会においては、男性は「能動的な主体」であるのに対し、女性は「受動的(受け身)な客体」であり、眺められ触れられるモノとされている、という発想である。

 

この「性的モノ化」という概念は、性表現や性暴力の問題を論じる文脈で頻繁に使われてきたものの、そのままではぼんやりした概念である。

2016年に京都賞を受賞した哲学者のマーサ・ヌスバウム氏の代表的な業績の一つに、この「性的モノ化」という概念を分析した論文がある。彼女によれば、「性的モノ化」という概念は、実は複数の要素を複合したものだ。

 

 

 複数の要素の内訳は、下記のようになっているらしい。

 

(1)他人を道具・手段として使用する

-これは(2)〜(9)の大前提となっている。また、ここでいう「手段として使用する」の意味合いは、カントの定言命法に基づいている(はず)。

 

(2) 自己決定を尊重しない

(3) 主体性・能動性を認めず常に受け身の存在とみなす

(4)他と置き換え可能なものとみる

(5)壊したり侵入したりしてもよいものとみなす

(6)誰かの「所有物」であり売買可能なものであると考える

(7)当人の感情などを尊重しない

(8)女性をその身体やルックスに還元してしまう

(9)胸や腰や脚などの特に性的な部分やパーツに分けて、その部分を鑑賞する

 

 友人との会話のなかではわたしは「村上春樹の作品では女性がモノ扱いされている」と語ったのだが、そこで言おうとしていたことは、(1)と(2)と(4)と(8)と(9)が混ざりあったものだ。

 たとえば、春樹の作品では女性の登場人物について主人公が「女とはこういうものだ」とか「こういうタイプの女なのだからこうなのだ」とカテゴリにくくって判断することが多い。これは(2)と(4)に関連しているように思える。また、女性の人物のルックスや身体的特徴、あるいは話し方や表情や仕草などが、その人物の人格やアイデンティティと結び付けられて表現されることは、やはり多いような気がするので、(8)と(9)もある。

 そして重要なのは、春樹の作品では、男性の登場人物は基本的にこのように扱われたり表現されたりすることがないということだ。春樹は、男性キャラクターはそれぞれの人格を持った個別の存在として描いている。それに比べて、女性キャラクターの描き方はカテゴリやステレオタイプを前提としたものになっている。つまり根本的には、女性を理性的な存在と見なしたうえでその人格を目的として尊重することを、春樹はおこなっていないのだ。だから(1)も当てはまる。

 カテゴリに収めて判断したりステレオタイプに基づいて判断したりすることもある種の「モノ化(客体化)」である、とわたしは思う。すくなくとも、相手に対して「女だからこうなんだ」と判断することが相手の理性的人格を尊重した行為であるとは思えない(……とはいえ、だいたいの場合においてステレオタイプは事実をおおむね正確に反映している、と議論することも可能であったりするのだが)。

 

 ラジオでわたしは「男性はみんな多かれ少なかれ女性をモノ扱いしている」と主張したうえで、男性による女性に対する性的モノ化やその「嫌さ」を見事に表現しているところが『女のいない男たち』の優れた点である、と語った。

 とはいえ、友人からも指摘があったように、「じゃあ男性はほかの男性のことはモノ扱いしてないのか」ということにもなるし、「女性は男性のことをモノ扱いしていないのか」ということにもなるだろう。

 たしかに、「性的モノ化」の解釈を拡大すればみんながみんなをモノ扱いしていると言うことができるだろうが、そうするとモノ化の何が悪いのかわからなくなる。

 モノ化は程度の問題であり、そして男性からの女性に対するモノ化は程度がひどいので悪い、ということもできるかもしれないが、そうするとなにか重要なものを掴みそこねる気もする。男性→女性のモノ化は、男性→男性や女性→男性に比べてなにか異質さがあるような気もするからだ。

 功利主義者のジョシュア・グリーンは、「権利」や「尊厳」を強調するカント的な義務論の発想は直感(システム1の思考)に沿ったものではあるものの、そもそも直感が正しいとは限らず、道徳的な問題については論理(システム2の思考)に基づいて考えるべきであり、カント的な義務論の発想は放棄するべきだ、と論じていた。それはその通りだと思うのだが、とはいえ、直感というものはやはり強力だ。文学作品について解釈したり日々の人間付き合いをやっていくうえでは、無視できないものであるとも思う。

 

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 また、江口先生の論文「性的モノ化と性の倫理学」も読んでみたので、気に入った箇所を長めに引用する。

不特定多数との行きずりのセックス(casual sex)はしばしば「道徳的」に非難される。多くの男性が、密かに不特定多数とのセックスを望んでおり、また不特定多数との行きずりのセックスはゲイ社会でもよく見られるとされる。売買春や行きずりのセックスにおいては、相手を十分に知らないままにセックスが行なわれるわけだが、仮に双方(あるいはグループ)に完全な同意があったとしても、それが不正であるとされるのはなぜかをヌスバウムは十分に説明できるだろうか。実際に、上の論考のなかでヌスバウムが最も困惑しているように見えるのが、ゲイ社会での乱交的性的関係である。

しばしば、ゲイやレズビアンは平等でデモクラティックな関係であると主張されてきた。 ヌスバウムが題材として選んだホリングハーストの小説 The Swiming-Pool Library では、ゲイたちはシャワールームでの乱交的カジュアルセックスのなかで、相手を互いにモノ化し単なる多様な快楽の手段としてしまう。ここに道徳的問題があるだろうか?ヌスバウムは、控え目ではあるが、そのような関係の道徳性を問題にしている。

ヌスバウムにとって、背景的な歴史をもたないかりそめの一時的な性関係は、道徳的に問題があるように見える。それはその人物との間の継続的な関係から切り離され、単なる一時的な欲望を満たすための道具にしてしまうからである。

というのは、相手との物語的歴史がないとしたら、欲望はどのようにして偶然的なもの 以外に関心を払うことができるだろうか。またひとが単に自分のための道具として他人 の体を使用する以上のことをどうしてできるだろうか。(Nussbaum, 2002, p. 409)

また、乱交的な関係にも問題があるように見える。

セックスを匿名的に(in the anonymous spirit)行なうとしたら、その相手を尊敬と配慮 をもって扱うことができるだろうか。(Nussbaum, 2002, p. 409-10)

 

ヌスバウムはこれらの問いに対して明確に答えることはしないが、そこには道徳的懸念があるべきだと示唆する。

 

人間の道具的な扱い、人間を他の目的のための道具として扱うことは、常に道徳的な問題を含む。それがもし人間性に対するより大きなコンテクストのなかで起こるのでなければ、これはまさに道徳的に反対すべき中心的な形態である。(Nussbaum, 2002, p. 411)

 

 

しかしどの程度の持続的な関係を保ち、どの程度の情報を知りあえば道徳的にヌスバウムが 許容されると考えるような「相互の尊敬と配慮」にもとづいた関係が持てるかはわかりにくい。 もちろん、筆者自身はヌスバウムの立場に直観的には賛成したいところだが、少なくともそれ は現実のひとびとの性や「恋愛」行動とはかけはなれてしまっているように見える。さらに困ったことに、ヌスバウムの観点からは、まだお互いをよく知らない交際のはじまりの時点で 性関係を持つことはつねに不正であるという逆説的な結論が生じることになりそうである。
しかし実際には、性的な関係を持つことは一種の賭けや実験であって、お互いをよく知りあうための手段そのものであるのが実状かもしれない。ある種の人々にとっては、親密さから性的関係をもつというよりは、性的関係が互いについての人格的知識と親密さを作ると言えるかもしれない。性関係をもってから、どのような関係をもつかを判断するという人びとも少なくないだろう。
前に見たようにヌスバウムは、一時的なモノ化はより長い相互の自律を尊重するような関係の一局面としてならば道徳的に問題がないと主張するわけだが、いったん関係をもち、それ以上交際を深めるのをやめる、という(おそらくよくある)ケースでは、事後的にその行為が不正なことになるというのは奇妙である。
このように見てくると、ヌスバウムの「相互の尊敬と配慮にもとづいた関係」や、「ワンダフル」だとして推奨する種類の「モノ化」は、単なるヌスバウム自身の道徳的選好、あるいは 彼女の性的な選好の表明にすぎないのではないかという疑念も出てくる。

 

 実のところ、ヌスバウムの持っているような「道徳的選好」や「性的な選好」は、わたし自身もかなり持っている。

 すくなくとも酒を飲んでいなくて素面のうちは、「行きずりのセックスってよくないなあ」と思っている。だから、村上春樹の小説を読んで面白いと思ったりすごいと思ったりしつつも嫌な気持ちになったり不快感を抱いたりするし、多くのアメリカ映画に対して「ヤリチンとアバズレばっかりでいやだなあ」と思ったりするのだ。さいきんはヤングジャンプも不純異性交遊を描く漫画が増えてきたから嫌気が差して読まなくなってきた。

 とはいえ、江口先生の論文でも指摘されているように、この道徳的選好を論理的な議論によって倫理学的に正当化することができるかというと、かなり微妙なところだ。それに、不道徳だからといって世の中から行きずりのセックスが失われるといろんな人たちの楽しみがなくなって、やっぱりよくないような気もする。

 

 また、「性的モノ化」の概念をあまりに意識し過ぎて、相手を理性的な人格として尊重しようとし過ぎると、本来なら相手を楽しませられたはずの場面で相手を楽しませることができなくなる、ということにもなりかねない(男女関係では、どこかの時点で理性をある部分まで捨てることが必要とされる場合もあるし、相手をカテゴリやステレオタイプに基づいて扱うことが正解である場合もあるからだ)。カント主義的にはそれでよくても、功利主義的にはよくないだろう。

 ここから、「なんだい、相手の人格を尊重して丁寧に接しているおれたちは女たちにモテなくて、それよりも相手を軽んじてステレオタイプ的に扱ってモノ扱いしている男たちの方が女たちにモテるじゃないか」と言い出して、ミソジニー的な非モテ論や恋愛工学論をおこなうことも可能ではあるだろう。さすがにみっともないのでそれはしたくないのだが、とはいえ、ある種のジレンマやトレードオフみたいなものがカント主義と恋愛とのあいだには存在するというのも、たしかであるようには思える。

(なお、徳倫理学だとこういうジレンマは存在しない。モテていてなおかつ女の子を傷付けていない男を探し出して、その男の真似をすればいいだけであるからだ。)

 

 

覚え書き:なぜ功利主義者がいないと動物の権利は発見されなかったか

 

動物の解放 改訂版

動物の解放 改訂版

 

 

 某所の連載で動物倫理についても何回か書くことになりそうなので、ピーター・シンガーの『動物の解放』を久しぶりに読み直している。

 

『動物の解放』では『実践の倫理』ほどに倫理学的な議論が詳細に行われているわけではないが、動物倫理の問題について語るうえで必要となるポイントは、第一章でばっちりと示されている。シンガーの主張の根幹である「利益に対する平等な配慮」の原理についても説明されているし。

 そして、改めて読んでいて思ったのだが、以下の箇所はとくに重要だ。

 

多くの哲学者や著述家たちが、基本的な道徳原則として、なんらかの形で、利益に対する同等の配慮という原則を提唱してきた。しかしこの原則が私たちの種に対してと同様に他の種の成員にも適用されるということを認識した人は多くはなかった。ジェレミーベンサムは、このことを認識した少数者の一人である。黒人奴隷たちがフランス領では解放されたが、イギリス領ではまだ私たちが今日動物を扱うようなやり方で扱われていた時代に書かれた進歩的な文章の中で、ベンサムは次のように述べている〔P・シンガー編『動物の権利』戸田清訳、二三〜二十四頁)。

 

人間以外の動物たちが、暴政によっておしとどめることのできない諸権利を獲得する時がいつかくるかもしれない。皮膚の色が黒いからといって、ある人間にはなんらの代償も与えないで、気まぐれに苦しみを与えてよいということにはならない。フランス人たちはすでにこのことに気づいていた。同様に、いつの日か、足の本数や皮膚の毛深さがどうであるから、あるいは仙骨の末端〔尾の有無〕がどうであるからというので、ある感覚をもった生きものをひどい目にあわせてよいということにはならないということが、認識される時がくるかもしれない。いったいどこで越えられない一線を引くことができるのだろうか?分別をもっていることだろうが、それともおそらく演説する能力だろうか?しかし、成長した馬や犬は、生後一日や一週間、さらには生後一ヶ月の人間の乳児に比べても、明らかに高い理性をもち、大人の人間との意思の疎通もスムーズにできる。だが馬や犬がそうした意思疎通の能力を持っていないとしたら、人間の役に立つだろうか?問題となるのは、理性を働かせることができるかどうか、とか、話すことができるかどうか、ではなくて、苦しむことができるかどうかということである。

(『動物の解放(新版)』、p.28から。強調は私がつけた。)

 

 関連するものとして、ちょっと前に公開されたわたしの文章も引用しよう。

 

功利主義は、私たちの意識の外側にある「結果」をも考慮に入れる。そのために、ある社会ですっかり定着していて常識とされている慣習や制度についても、それが引き起こしている結果を冷静に見つめ直すことで問題の存在を発見して、異議を唱えることが可能になるのだ。創始者であるベンサムやJ・S・ミルの時代から、功利主義奴隷制度に反対して、女性を男性と平等に扱うことを求めて、同性愛者に対する差別を非難して、さらには動物に対しても道徳的に配慮する必要性を説くことができた。功利主義者は権利を批判するとはいえ、現代の社会に定着している「権利」 の多くは、功利主義者たちによって発見されてきたものであるのだ。

一方で、「権利」という発想だけに頼る人は、すでに制度的に認められている権利ばかりを重視してしまい、法律などで権利が制定されていない存在に対しては目を向けられなくなってしまうおそれがある。18世紀にアメリカやフランスで採択された「人権宣言」が、女性の権利も、白人以外の人々の権利も考慮に入れていなかったことは象徴的だ。現代においても、動物の権利運動は、「肉を食べる権利」などの「人権」が障壁となって阻まれている状態にあるといえるだろう。

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 功利主義には他の倫理学理論にはない特徴と利点がいくつかある。実用性という観点から言えば、トレードオフの問題についてスタックやバグを起こさずに考えられる、というところが最大の利点であるだろう*1

 その一方で、功利主義は「社会ではまだ気付かれていない道徳的な問題を"発見"する」 という機能を持っている点でも優れている。功利主義によれば、だれかが苦しんでいて、なにかの利益が平等に配慮されていないなら、それだけでなんらかの道徳的な問題が存在することになる。「権利」や「尊厳」をベースとした道徳では、道徳的な問題を発生させるための条件がくどくどと付け足されてしまうために、こうはいかないのだ。

 そして、功利主義がきわめて理性的な道徳であるというのも、もちろん重要だ。スナウラ・テイラーローリー・グルーエンが行なっていたような「ケア」や「共感」のような感情に訴える倫理にせよ、トサヒ・ザミールバーナードー・ロリンが行なっていたような「広く共有された信念」や「常識」に訴える倫理にせよ、その感情や常識を共有しない相手には、まったく通じようがない。「自分はそうは思わない、自分はそうは考えない」と言われたらそれで終わりだ。しかし、感情や常識とは違い、理性は有無を言わせずに伝播させることができるものだ。ある人が誤った価値判断をしていたとしても、その人が想定している前提やおこなっている推論に間違いがることを示されたら、その人は価値判断を修正せざるを得なくなる。すくなくとも「自分が間違っている」ということを認めざるを得なくなるし、それを嫌がって理性的であることを放棄したとしてもその人が「負けた」ということは本人も周囲も認めることになるだろう。

 スティーブン・ピンカーマイケル・シャーマーは、シンガーが『輪の拡大』でおこなった議論を下敷きとしながら、人類による道徳的配慮の対象の拡大の歴史は感情ではなく理性によってドライブされていることを論じていた、という点も忘れるべきではない*2

 

 以上のことをふまえると、『動物の解放』の序章で「動物好きといいながらハムサンドウィッチを食べる女性」が当て馬として紹介されながら、感情や共感ではなく理性に基づいた道徳が強調されている、というところにはかなりの慧眼や洞察が含まれているということがわかる。一部のフェミニスト倫理学者たちはそれに反発を抱いて「動物に対するケアの倫理」を説いたわけだが、いつまで経っても、わたしには彼女たちのやっている議論は本末転倒なものであるとしか思えない。いま現在、彼女たちのおこなっている議論がバカにされたり矮小化されたりせずにまともに耳を傾けるべき議論として真剣に扱われているのは、その前にシンガーのような論客たちが理性によって動物への配慮が「真剣に扱われるべき問題」であるということを人々に説得できたからなのだ。

 

 

「社会学叩き」についての私見

 

 出勤前に、サクッとメモ的に書いておこう。

 

 Twitterはてなブックマークをはじめとしたネット・SNS界隈では、十年一日という感じで、相変わらず「社会学叩き」が盛んだ。

 といっても他人事ではなくて、このブログでも、過去に、社会学や社会科学の現状について批判するHeterodox Academyの記事を訳したことがある。

 

davitrice.hatenadiary.jp

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 また、わたしもちょっと関わっている『経済学101』でも、社会学を批判する記事が訳されて投稿されることがある。代表的なものは、ジョセフ・ヒースによる以下の記事だろう。

 

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 ヒースの記事における「規範的社会学」という言葉に示されているように、これらの記事で問題視されていることは、「社会学(社会科学)が、特定の道徳的規範・政治的規範に影響を受けすぎている」ことであるだろう。つまり、社会学に関わる人の多数派が左翼的であったりフェミニスト的であったり反レイシズム的な問題意識を強く抱いていることで、社会学における議論には偏りや論点先取が生じて、個々の論者は自分が取り上げようとしている問題について客観的で正確に論じることができなくなっており、学問全体にも停滞が生じている、ということである。

 具体的にいうと、クリス・マーティンの記事では、社会学の内部にイデオロギー多様性が存在しないことで「タブーの共有」が発生して、「性別間や人種間には生物学的に違いがある」などのタブーとなっている主張を支持する議論が排除される状態になっている、ということが指摘されている。また、みんなが同じ問題意識を持っているために利用可能性ヒューリスティックの問題が集団的に発生して、すでに賛同を得ている結論に合致する証拠ばかりが集められる代わりに不都合な事実が無視されている、ということも指摘されている。さらに、保守的な意見を持つ人をはじめとする「少数派」に関して非難的でないかたちで理解するための研究が阻害されている、という問題も論じられているのだ。

 ワインガードの記事では、社会科学に関わる人たちが「パラノイド平等主義的改善説」に影響されるあまり、「性別間や人種間には生物学的に違いがある」といった議論について検討することすらできない状態になっている、ということが指摘されている。そして、ヒースの記事では、社会学では「何が問題を引き起こしている”べき”なのか」という論点先取に基づいた議論が大手を振るっていることについて、詳細に指摘されている。

 いずれの記事でも共通して指摘されている問題は、「規範的主張が事実的主張よりも優先されて、事実に関する分析に歪みや偏りが生じていたり、特定の事実的主張があらかじめ排除されていたりする」ということであるだろう。

 

 ……とはいえ、このような問題は、「社会学」にのみ指摘されることではない。わたしが観察したところ、英語圏では、人類学も同様の批判を受けることが多々あるようだ。また、「ジェンダースタディーズ」や「ブラック・スタディーズ」などのクリティカル・スタディーズ系統も、批判の対象となっている。

 

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 さて、日本のネットにおける「社会学叩き」の方に目を向けていると、叩いている側の問題意識はいくつかのパターンに分けられるようだ。

 上述したような、事実と規範の混同の問題が日本の社会学でも発生していると考えて、それを指摘したり、「胡散臭くない?」「おかしくない?」という疑念を表明したりする人もいる。

 その一方で、メディアでよく取り上げられる有名でスター的な社会学者の主張の問題を取り上げて、その問題を社会学全体に投影して非難する人もいる。また、「宇崎ちゃんポスター」事件をはじめとする「表現の自由」案件に絡めて、「社会学者の一部が表現規制を支持して、他の社会学者たちもそれを黙認してきたのだから、日本の社会学は内部批判のできない腐った集団だ」的な主張をしている人もいるようだ。

 わたしとしては、この種の「連帯責任」的な発想に基づく非難はとうてい支持できない。

 また、「社会学には査読がないからダメだ」「論文を書いていない人でも有名になったり権威を得たりしているからダメだ」という批判もよく見かけるところだ。しかし、「査読がない」はそもそも事実でないようだし、この種の批判は理系的な学問における評価ルールを思考停止的にほかの学問に押し付けているようで、不当であるようにしか思えない。

 そして、批判者の多くは「日本の社会学はどうなっているか」「誰がどのようなことを言っていて、それと反対のことを言っている人はどれくらいいるか」「社会学に特有の問題であるのか、それとも他の学問分野でも見受けられる問題なのか」「問題の深刻さの程度はどれくらいなのか」などなどの事実や詳細にはまったく興味もないようだ。結局のところ、ネットにおける「叩き」の大半がそうであるように、「叩いていいやつ」を見付けたら「叩く理由」やその根拠については深く考えずに批判のテンプレをコピペして集団で叩きまくる、という有様になっている。なので、現在の日本のネットにおける「社会学叩き」にわたしがノる気は、まったくない。

 

 それはそれとして、以下のツイートに示されているように、「規範的社会学」の問題は、日本でもやはり深刻であるようだ(このツイートをした人は社会学者ではなく文化人類学者ではあるのだけれど)。わたしとしては、この問題は批判されるに値する問題だと考えているし、批判された側も真剣に考えて応答すべき問題であると考えている。

 

 

 

 

社会学の方法―その歴史と構造 (叢書・現代社会学)

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「マイノリティの被害者意識」に関する議論のジレンマ

 

 

『良き人生について:ローマの哲人に学ぶ生き方の知恵』については以前にも紹介したが、あらためて、この本の第11章「侮辱」からちょっと気になったところを引用しよう。

 

今日では、侮辱に対してユーモアで応えるとか、何も言わないとかいった対応は、ほとんどの人から好まれないだろう。とくに差別的表現の撤廃(ポリティカル・コレクトネス)を求める人びとは、一定の侮辱については罰を与えるべきだと考える。彼らの矛先が向かうのは、マイノリティ・グループや心身障害者をはじめ社会的・経済的に困難をかかえた人びとなど、「恵まれない」人びとに向けられた侮辱である。彼らはこう主張するーー恵まれない人びとは、心理的に傷つきやすい、したがって世間からの侮辱を放置していたら深刻な心理的ダメージを被るだろう。そのために彼らは、恵まれない人々を侮辱する者たちへの処罰を求めて、政府、雇用者、学校行政当局に請願するのである。

エピクテトスならば、この対応はきわめて逆効果だとして拒むだろう。たぶん彼は次のように指摘するのではないか。まず第一に差別的表現撤廃運動にはいくつかの厄介な副作用がある。その副作用のひとつは、恵まれない人びとを侮辱から守るプロセスが、逆に彼らを侮辱に対して過敏にさせる傾向があることだ。その結果彼らは、直接の侮辱だけでなく、侮辱のほのめかしにさえ、針を感じることになる。ふたつめの副作用は、恵まれない人びとが、自分だけでは侮辱に対処できないと思い込んでしまうことである。当局に介入してもらわない限り、無力な自分にはどうすることもできない、と。

エピクテトスならばこう言うだろう。最も良い方法は、侮辱する人間を罰するのではなく、恵まれない人びとに侮辱から身を守るテクニックを教えることである。彼らに一番必要なのは、自分に向けられた侮辱から針を取り除く方法を学ぶことだ。そうしない限り、彼らは侮辱に対して過剰に敏感になり、その結果、侮辱されれば相当な苦痛を経験することだろう。

じつはエピクテトス自身もまた、現代の基準で言えば二重に恵まれない人間であった。彼は足が悪かったばかりか、奴隷でもあった。こうした障害にもかかわらず、彼は侮辱を超越する方法を考え出した。もっと重要なのは、運命が彼に与えた悪い手札にもかかわらず、喜びを経験する方法を見いだしたことである。現代の「恵まれない」人びとは、エピクテトスから多くを学ぶことができるはずだ。

(p.159 - 160)

 

 ここでアーヴァインが問題視していることは、「マイクロ・アグレッション」という概念に関して心理学者のジョナサン・ハイトが問題視していることと同様のものであるだろう*1

 

マイクロアグレッションという概念にかかると、「自分が傷ついた」という感情が、相手を非難することを正当化する根拠になってしまう。最初は不愉快であったり攻撃的に聞こえた発言であっても、相手の発言についての真意をたずねたり「どのようなことを主張しようとしているのか」と冷静に解釈したりすることで誤解が解けたり建設的な対話がスタートする可能性はあるものだが、その可能性が閉ざされてしまうのである。

さらに、マイクロアグレッションのような概念は、学生たち自身の精神的健康にも良からぬ影響をもたらす。他人に対する非難を優先して自分の感情の正当性を吟味することを怠らせるだけでなく、「自分が被害者である」とか「自分は傷つけられた」といった意識が他人を批判する根拠になると思わせることは、そのような意識を積極的に持つように本人を動機付けてしまうのである。その結果、学生たちは、「自分は被害者である」という意識から逃れなくなるのだ。

そして、自分の内面や感情が他人の言動にいちいち左右されてしまうことは、本人に無力感を与えてしまうことにもつながる。相手の言動によって傷ついたことを重視するような受け身の姿勢ではなく、相手の言動を冷静に受け止めて対処できるような考え方を養うことの方が、本人にとっても有益であるのだ。

 

「ポリコレ」を重視する風潮は「感情的な被害者意識」が生んだものなのか?(ベンジャミン・クリッツァー) | 現代ビジネス | 講談社(2/6)

 

 

 

 マイクロアグレッションをはじめとして、「マイノリティに対する差別的表現と、それによって生じる被害」に関する議論には、ある種のジレンマが付きまとう*2

 

 まず指摘されるであろう事実として、アーヴァインもハイトも白人男性であり、基本的にはマイノリティではなくマジョリティの側に属する人物だ。そんな彼らが上記のような主張をすることには、どうしても「面の皮の厚さ」が伴うし、ある種の不正義や不公正を見出さないことは難しい。

「特権」に守られて安全圏にいる人間が、そうでない人びとに対して、「侮辱や差別的発言の深刻さは、聞き手の側がそれをどう受け取るかによって左右される。侮辱を深刻にとらえてしまい、すぐにダメージを受けて他人を非難するような人間になることは、本人にとってもよくない。それよりも、侮辱を冷静に受け止められてうろたえなくなるようなタフさを身に付けたほうが、本人にとってもよい」と言っているようなものであるからだ。

 差別に関する問題への意識が高い人であれば、アーヴァインやハイトのような言説は、侮辱や差別的表現に対する正当な抗議に対しても「感情的」「弱さのあらわれ」というレッテルを貼ってしまい、マイノリティの人びとがマジョリティに対して抗議することを躊躇わせてしまう「抑圧」として機能する、ということを指摘するはずだ。マジョリティとマイノリティとの間に存在する非対称性や構造の問題を無視して、個人の受け取り方や心理といったレベルにまで問題を矮小化しようとすることは、けっきょくは差別に加担している、などなどと批判はつづくであろう。

 

 このような批判にはたしかに一理あるし、おそらく、正当でもある。……とはいえ、社会の構造がどうなっていようと、侮辱や差別的表現が個人に対して与える影響は、最終的には受け取り手がどう捉えるかということ次第である、ということもまた事実であるのだ。ハイトが呈している懸念はもっともなものであるし、アーヴァインが行なっているアドバイス実際に有効なものであるだろう。

 

 アーヴァインにせよハイトにせよ哲学と心理学の両方に造詣が深い論客であり、彼らは、フレーミングが人々の認識に与える効果や認知の歪みが人々のメンタルに与える悪影響について熟知している。アーヴァインが参照しているストア哲学も、ある意味では、「何事も気の持ちよう次第」という考え方を徹底して極めたものといえるのだ。

 一方で、左派的な問題意識を土台としている社会学や応用哲学(概念工学)などでは、「被害のあり方」や「不正のあり方」に注目して、それを分析したのちに様々なかたちで概念化して名詞化している。……だが、被害や不正に関する意識を強くして、名詞化された被害や不正を実体のものとして認識すること自体が、個人レベルで言えば、ネガティブなフレーミングや認知の歪みをもたらして、活き活きとして幸福な人生を送るには足かせとなる可能性が高い*3

 

 左派の議論は社会関係や権力勾配などのマクロに注目している一方で、アーヴァインやハイトのような議論は個人の心理というミクロに注目しているのであり、「どこに注目するか」の違いでしかなく、どちらの議論もそれぞれになされる必要があるのだ、といった中立的で折衷的な考え方をすることもできるかもしれない。

 ……しかし、ミクロな視点とは違い、マクロな視点には限界がない。やろうと思えば無限に問題を発見して概念化して名詞化して、つまり問題を「創造」してしまうことができるのだ。

 左派の議論を行っている人たちも、マイノリティを支援したいマジョリティとしての善意や義務感、あるいは自身のマイノリティとしての経験などがモチベーションとなっているのだろうが、彼らの意図していないところで悪影響が生じているおそれがある。

 

 近年の左派のあいだでは、たとえば自律を重視する旧来の考え方を否定する代わりに依存を重要視するケアの倫理とか、そうでなくとも男性っぽいものは否定して女性っぽいものを持ち上げる風潮などと絡んで、「弱さ」を表明したり受け入れたりすることが賛美される傾向にある。

 一方で、アーヴァインやハイトのような論者たちは、ストア哲学の実践や忖度のない議論への参加などを通じて、外界の物事にいちいち左右されて悪影響を受けてしまうことを抑えるために「強さ」を身に付けることを強調している。

 前者の議論には新鮮味があって人の耳目を集めやすい一方で、後者の議論は昔ながらの保守的なものであり注目されづらいかもしれない。……でも、結局のところ、だいたいの物事については昔から言われていることの方が正しいものであるだろう。

 

 

*1:こちらも参照:

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

*2:そして、似たようなかたちのジレンマは、マイノリティへの侮辱や差別に対する「怒り」の表明の問題についても付きまとう。「差別を受けたマイノリティが怒りを表明することはもっともなものであり、マジョリティや社会は、表現の仕方がどうであろうとマイノリティの怒りに耳を傾けるべきだ」という主張と、「そうはいっても、敵意に満ちた怒りをただ表明するだけでは実際に人々に耳を傾けさせて共感させて意見を変えさせることはできないのであり、冷静さや表明の仕方の工夫は必要とされる」という主張との間のジレンマだ。

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

*3:

davitrice.hatenadiary.jp

『男にいいところはあるのか?:文化はいかに男性を搾取して繁栄するか』

 

 

 前回の記事でも紹介した、心理学者のロウ・バウマイスターの著作『Is There Anything Good About Men? :How Cultures Flourish by Exploiting Men(男にいいところはあるのか?:文化はいかに男性を搾取して繁栄するか)』を読み終えたので、軽く内容をまとめてみよう。

 

 この本では、進化心理学と文化進化論の考え方を用いながら、社会における男性と女性それぞれの役割や扱われ方などが分析されている。バウマイスターは「エッセイ」であると表現しているが、学術的な文献からの引用も多く、セミアカデミックな内容だといえるだろう。

 

 この本の前半では、まず、男性と女性に関するいくつかの生物学的な事実が提示される。

 

・男性と女性とで、どちらかの方が能力が優れている、ということはない。

 ・男性と女性との間に能力の優劣はないが、関心や傾向には男女差が存在する。

 ・男性の間の能力や性質の差のばらつきは、女性のそれよりも大きい。多くの能力や性質について、両極にいるのは、どちらも男性である。

 ・繁殖の成功については、女性は安定しているが、男性は不安定である。女性の場合は、生涯で産める子供の数に限りはあるが、多くの女性は子供を残すことができてきた。男性の場合は、性に関する競争の勝者たちが大量の子供を残してきた一方で、まったく子供を残さないまま死んでいった敗者たちの数はそれ以上に多い。

 ・繁殖戦略の違いから、男性はライバルである他の男性たちに対して優位に立とうとする。そのため、男性はリスク追求的であり、競争的で、野心的で、積極的である。

 ・「社会性がある」ということには二つの意味がある。親密な関係を築けている相手が複数いるということか、親密ではないが数多くの相手と関わったり名を知られたりしているか。女性は社交的な存在であるとよく言われるが、多くの女性は、前者の意味での社会性を志向しても、後者の意味での社会性は志向していない。一方で、多くの男性は後者の意味での社会性を志向している。

 

 これらの生物学的な事実を前提としたうえで持ち出されるのが、「文化進化論」的な考え方だ。

 ここでいう「文化」とは、衣食住や言葉や芸術などのいかにも文化っぽいものに限らず、政治や経済や法律などに関する諸々の社会制度を含めた、広い意味での「文化」である。

 人間の社会は、文化を生み出すことで、生産力を高めて飢えや欠乏を防いだり、安定性を高めて人々が共同作業を行いさせやすくした。根本的には、文化とは、人間の生存と繁殖を有利にするために存在している。

 そして、文化は、異なる文化と競合する。異なる集団が二つあるとき、どちらかが生き残るかは、「どちらの人口の方が多いか」ということや、どちら武器の方が発達しているか、どちらの戦士たちの方がより秩序立っていて命令に従うか、ということによって決まる。そして、効率的に機能する文化ほど、その集団の人口を増やして、優れた武器を生み出して、構成員を従わせる秩序を成立させることができる。逆に言えば、非効率的な文化は、それよりも効率的な文化によって淘汰されてしまうのだ。

 具体的には、「情報の蓄積と伝達」「分業、専門化」「交換、交易」といったことをより効率的に実現できる文化の方が、生産力を上げて集団の人口を増やしやすい。

  また、文化が効率的であるいうことは、たとえば「集団の人口を増やす」という目的を達成するために、その集団の構成員をより効率的に利用・搾取する方法を編み出している、ということである。文化は集団を存続させることに貢献するものであるが、個々の構成員を幸福にするとは限らない。

 そして、他の文化との競争に勝って現在まで生き残ってきたような文化は、生産や秩序や発明を効率的に達成するために、男性を搾取してきた

 

 なぜ、女性ではなく、男性の方が文化によって搾取されてきたのか?

 主たる点は、男性は女性よりもリスク追求的であり競争的な性質を持つ、ということにある。たとえば、効率的な文化には発明や投資が欠かせないが、発明や投資は当たれば得るものが大きい代わりに外れたら得られるものが何もない、リスクの大きい行為である。また、公立的な文化は宗教的権威や政治体制などによる権力を通じて秩序をもたらすものであるが、権力者になろうとするためには他の相手との競争に勝たなければならない。勝者になる可能性もあれば、敗者になる可能性もある。

 平均的に見れば、女性たちは複数の相手と親密な関係を築ければ満足できて、発明や権力といった競争的な世界には興味を示さない。一方で、リスク追求的であり不特定多数のなかで抜きん出た存在になることを望む男性たちは、競争的な世界に惹き付けられる。そのために、「男は仕事、女は家庭」式の性別分業が発達するようになった。

 また、男性は女性よりも特徴にばらつきがあり極端であるということは、多様なアプローチを生み出させて、発明やイノベーションを効果的に機能させやすくする。

 こうして、文化が効率的であるために欠かせない富・知識・権力は、競争的な男たちの世界で築かれていったのである。これが、女性たちを富・知識・権力にアクセスさせない、ジェンダー不平等の起源でもある。

 

 文化は、競争に勝ち抜いた男たちには、報酬を与えてきた。

 しかし、勝ち抜くまで至らない大半の男性たちは、使い捨ての消耗品のように扱われる。

 そもそも、「集団の人口を増やす」という観点からすれば、女性は一人につき生涯で出産できる数に限りがあるために、女性の数は多ければ多いほどよい。一方で、一人あたりの男性の精子はほとんど尽きることがないから、多数の男性が必要ということはない。つまり、男性の生命は、女性の生命に比べて価値がないのだ。

 そのために、他集団との戦闘や、生死に関わる危険な仕事に駆り出されるのは、大半が男性である。文化からすれば、個々の男性の生命を守る理由は乏しいのだ。

 ただし、いくら男性がリスク追求で競争的であるとしても、なんのメリットも見えないことに対して自分の人生を犠牲にするということはできない。そのため、効率的な文化であればあるほど、集団の発展と防衛のために欠かせない、危険な領域や当たり外れの大きい領域に男性たちを飛び込ませるための「誘因」を発展させてきた。

 競争に勝ち抜いた者に多大な報酬を与えることも、誘因のひとつだ。その報酬は、物質的なものであるとは限らず、評価や名誉に関するものでもあり得る。家事や再生産労働などの「女の世界」に属するものよりも、富・知識・権力などの「男の世界」に属するものの方が社会的に尊重されて高評価されてきたのは、そうした方がより多くの男性たちを「男の世界」に飛び込ませることができるからだ。

 さらに、文化は「男らしさ(Manhood)」に関する社会規範を構築してきた。たとえば、「男たるもの、自分が消費するよりも多くのものを生産しなければならない」という規範などである。女性は子供を産むことさえできればそれで「生産的」な存在となり得るが、男性はそうではないので、規範によるプレッシャーを与えて生産的な領域へと追い立てなければいけない。

 つまり、「男らしさ」とは男性が生まれつき身につけているものではなく、獲得しなければならないものである、と設定されたのだ。男性は、なにかをしなければ、一人前の男であるとは見なされない。これにより、競争やリスク追求に対する志向に乏しい男性たちであっても、それらの世界に飛び込まざるを得なくなる。

 また、すべての男性が平等に尊敬されるのではなく、勝者のみが尊敬されて敗者は軽蔑されるような規範を成立させることで、「負け犬」とみなされることを恐れる男性たちの競争に対するプレッシャーを増させられる。これにより、男性同士の競争を激しくさせて、経済や投資や発明などをより効率的に機能させることができるのだ。

 そして、結婚制度は、男性が「男の世界」で獲得してきた富を、女性の性的資本と交換するためのシステムであるといえる。女性は、男性の性的な欲求を利用して、結婚を通じて男性から物質的な財産を搾取している、と捉えられる。

 

 バウマイスターの問題意識の主たる点は、フェミニズム理論による、「家父長制」などの用語を用いた社会分析に対する不満にある。

 フェミニストたちは、男性社会を一枚岩であると捉えて、「男同士は結託して共謀しており、女性たちを富や権力や知識から排除して、抑圧して差別している」と考えがちだ。最近では「男性特権」という言葉も使われるようになってきたが、この言葉も「男性は男性であるというだけで、女性に対して構造的に優位に立っている」ということを指し示している*1。そして、男性は自分たちの特権を放棄して、現時点で構造的に劣位にいる女性たちを引き上げるために彼女たちを手助けしたり自分たちの利益を後回しにしたりすべきだ、ということが論じられるのだ。

 しかし、この本のなかでバウマイスターが繰り返し強調しているように、「男性たちは共通の利益を確保するために共謀しあっている」ということも「男性は男性であるというだけで、男性特権の恩恵にあずかれる」ということも、事実からは程遠い。

 この本のなかでよく引用されるのが、レズビアン女性でありながら一年弱のあいだ男性に扮して「男として生きるとはどういうことであるか」を体験した作家、ノラ・ヴィンセントによる Self-Made Man という著作だ*2フェミニズムの考え方に影響されて「男として生きるということは、特権にあずかれてラクなことであるに違いない」と考えていたノラは、実際には「男性としての人生」は熾烈な競争にさらされており、誰かが世話したり構ってくれたりすることもなく、自分の存在価値を自分自身で証明しなければならないものであることを発見して衝撃を受けたのだ。

 集団内では、個人としての男性は他の男性と競争しあっている。他の男性との競争に勝てば富や権力や名誉などの報酬が得られて繁殖にも成功するが、負けてしまうと、手元にはほとんど何も残らず繁殖をすることもできない。前回の記事でも書いたように、フェミニストたちの考え方の問題点のひとつは、社会で成功を収めたこと富や権力を握っている「上」の立場にいる男性ばかりを見てしまい、「下」の立場にいる男性は目を向けない、というバイアスがかかっていることだ。そのため、男性内に競争が存在するという事実、そして競争に負けて惨めな状態で生きる男性たちが数多く存在しているという事実を考慮することができなくなっているのである。

 また、集団同士の争いを見ても、ある集団内における「男性たち」がグループとして争いの対象とするのは、同じ集団内の「女性たち」というグループではなく、別の集団の「男性たち」というグループだ。だからこそ、男性たちは、女性たちを含む自分の集団を守るために自らの生命を危険に晒すのである。

 社会において男性たちが優位であるように見えるとしたら、その理由の一部は、富や知識や権力の大半は実際に男性たちによって創造されてきたこと、女性たちは(能力ではなく関心や傾向のために)それらの創造に貢献してこなかったことに由来している。また、「男の世界」に属する物事に高い評価を与えて報酬を吊り上げなければ、そこに男性たちを飛び込ませることができず、他の文化に比べて非効率的な文化となって淘汰されてしまう、ということもある。

 いずれにせよ、ジェンダー不平等は、男性たちに対する女性への陰謀ではなく、男性と女性の両方を効率的に利用する文化進化のメカニズムによって作られてきたのである。

 

 バウマイスターも、富・知識・財産に関心のある女性たちがその世界から弾かれてきたという事実が存在してきたことは認めている。ただし、それは現時点で効率的に動くシステムに変更をもたらすことを拒む現状維持バイアスによって説明できる、ともしている。女性に対する「抑圧」が歴史上に存在してきたことは否定できないとしても、それはあくまで二次的なものである、と論じているのだ。

 一方で、「女性の目」に基づいて世界を分析するフェミニズムは、主観性のバイアスにより抑圧の存在を実際以上に過大評価してしまう。

 1970年代頃から、フェミニズムによって「社会における様々な分野に女性の数が少ないのは、構造的な女性差別が原因だ」という考え方が浸透したことにより、欧米の先進国では多くの領域で女性に対する優遇措置が取られるようになった。教育の場でも、男の子は後回しにされて、女の子を応援して自信を身に付けさせることが優先されるようになった。

 しかし、たとえば政治や自然科学を志す女性たちの数が少ない原因は女性差別ではなく彼女たち自身の志向や傾向に存在するとしたら、いくら優遇措置を取ったところでその効果には限界がある。

 さらに、女性に対して優遇措置をとるということは、男性たちからすればその領域にコミットしても得られるメリットが少なくなるということだ。そのために、本来ならその領域で活躍していたかもしれない男性たちが立ち去ってしまい、結果として、その領域の効率性や生産性が下がってしまうかもしれない。文化進化論の観点からすれば、そのような優遇措置をとる集団は、やがて他の集団に負けてしまう可能性が高いのである。

 

 ジェンダーに関する議論は、フェミニズムのものにせよ「男性学」や「弱者男性論」のものにせよ、自身が性役割に苦しんでいたり性規範を不愉快に思っている人たちによって主導されることが多い。そのため、性規範や性役割のミクロなデメリットが強調されてそれらを解体する必要性が論じられることが多く、性規範や性役割が社会にもたらすマクロなメリットについては無視されてしまいがちだ。

 一方で、バウマイスターの議論では、消耗品として文化から使い捨てられる「負け犬」男性たちに対する同情は強く感じられるものの、男性が「男らしさ」への渇望を捨てて社会から競争が失われたり、いざという時に自分を犠牲にして身近な人や社会を守ろうとする人がいなくなることについての懸念も強く示されている。性役割ジェンダー不平等の「罪」だけでなく「功」についても紙幅を割いているところが、文化進化論の枠組みを採用したこの本ならではのオリジナリティだと言えるだろう。

 

 とはいえ、バウマイスターの議論にもいろいろと懸念点はある。

 前回に紹介したように、この本の冒頭では「男性と女性は対立している、という見方は採用しない」という主張が打ち出されるが、最後まで読んでみると、かなり「男性寄り」で自己憐憫的な議論がされている感は否めない。

 たとえば、「男性は女性と対立していない」ということの根拠として持ち出されるのが、女性参政権運動では男性の多数派も女性に参政権を与えることに賛成したということであったり、男性によって発明・発展させられてきた医療によって女性たちも救われてきたということであったりする。これらの議論は、率直に言って、恩着せがましくて面の皮が厚いものであるように思われる。

 また、政治や経済や発明などの領域から女性が弾かれてきた理由を「現状維持バイアス」や「二次的なもの」として説明している点にも、不安がのこるところだ。

 たとえば2018年に発覚した日本の大学の医学部不正入試問題などは、女性への排除が現代でも意識的に行われていることを明らかに示す事例であるように思われる。アファーマティブ・アクションなどによって女性を優遇しすぎることが非効率的であるとしても、女性の排除を継続することで能力がある女性たちを活用する機会を失いつづけることは、さらに非効率的であるだろう。実際、現代の先進国を比較しても、女性が政治やビジネスの領域で支障なく活躍できている国は、そうでない国に比べて生産性や効率性が高くなっているように思われる。それにも関わらず女性の排除を継続している国や領域が存在しているという点は、効率の観点だけからは説明できないはずだ。

 結局のところ、フェミニズムが指摘するような「女性に対する抑圧」や「ミソジニー」などの問題が多かれ少なかれ存在することは否定できないのである。その影響力や規模は、バウマイスターが想定しているよりもずっと大きいものであるはずだ。

 

男性と女性は対立していない

 

 

 昨日からロイ・バウマイスターの『Is There Anything Good About Men? :How Cultures Flourish by Exploiting Men(男にいいところはあるのか?:文化はいかに男性を搾取して繁栄するか)』を読みはじめた。

 

 まだ読んでいる途中なので詳しくは紹介できないが、この本は、ジェンダーの問題について進化心理学や文化進化論的な考え方から論じたものである。男性と女性との間にはリスク追求的-リスク回避的であったりシステム思考的-共感的であったりなどの志向や傾向の違いが生得的に存在することを前提としたうえで、両性のそれぞれの特徴を効率的に“利用(Exploit) ”する仕組みを発達させた文化が他の文化との競争に勝ち残ってきたことで、現行の社会制度ができあがってきた、というような議論をバウマイスターは行なっているのだ。

 この議論の詳しい内容についてはまた後日に紹介することにして、今回は、この本の第一章で展開されている、ジェンダーの問題に関して論じられるとき採用されがちな「男性と女性は対立している」という枠組みに対する批判を紹介しよう。

 

 ジェンダーに関する議論は、男性と女性のどちらかが「加害者」でありどちらかが「被害者」である、という風に展開されがちだ。

 従来のフェミニズムの理論では、男女の賃金格差や政治におけるジェンダーギャップは、社会は「家父長制」によって成り立っているために男性が厚遇されて女性が冷遇されていることが原因で生じる、と説明されてきた。

「家父長制_論においては、男性たちは結託して陰謀をはたらいて女性を排除することで利益や権力を独占している、とみなされる。そして、女性は男性によって抑圧されている存在なのであるから、男性が不当に占めている利益や権力を奪い返すべきである、と論じられるのだ。

 フェミニズムが「女性」という集団と「男性」という集団との対立を強調してきたことは、副作用として、「いいや、実際には女性の方が男性を搾取しているのであり、男性の方が犠牲者なのだ」という主張を一部の男性に行わせることになった。

 二つの性別は対立しているという考え方をいちど採用してしまうと、「自分の側の方が被害者である」というかたちでしか自分たちの利益や権利を主張することはできなくなる、ということだ。

 現在の日本のインターネットにおいては、男性の「被害者性」を主張するタイプの論客が複数存在しており、彼らはnoteなどを利用してけっこうな小銭を稼げているようである。

 

 バウマイスターの議論では、「男性」と「女性」のほかに「文化」とう第三者を加えて論じることで、男女の対立という枠組みが回避されている。

 むしろ、男性も女性も、それぞれの特徴を文化によって利用されているという点では同じであるのだ。

 ただし、その「利用のされ方」は同じではない。男性は女性よりもリスク追求的で競争的であるために、危険ではあるが給与の高い仕事を選びやすい。政治家になろうとする人には女性よりも男性の方が多いのも同様の理由に基づく。権力をめぐる競争は、勝ち残りさえすれば多くの利益が得られるが、負けてしまうと何も得られない。リスク回避的な人々は、そのようなリスキーな世界には飛び込みたがらない、ということだ。

 そして、政治システムや資本主義市場などの文化は、男性のリスク追求志向を利用することで発展してきた。

 

 だが、男性の方がリスク追求的な傾向があるということは、「勝者」と同時にそれ以上の数の「敗者」も生み出されている、ということでもある。

 

 フェミニズムとは、「女性の目」から世界を見つめなおす考え方でもある。

 そして、ビジネスや政治の世界でトップに立っている男性たちのことは女性の目に映るかもしれないが、労働災害や戦争で死んだり警察に捕まって投獄されたりしている男性のことは、彼女たちの眼には映らない*1。つまり、「下」には目を向けないで、「上」ばかりを見上げているということだ。そのために、「女性の目」だけで世界を見ていれば、「家父長制」は実在するように感じられてしまうのである。

 この問題は、たとえばジョナサン・ハイトが感情的な被害者意識の問題として指摘していたり、ジョセフ・ヒースが「じぶん学」の問題と指摘していたりすることと、同様のものであるだろう。

 結局のところ、「当事者」としての意識や立場というものは、問題について冷静で客観的に考えて事実についての理解を得られることに寄与するとは限らない(むしろ、逆効果を与えることの方が多い)。

 バウマイスターは、社会科学において「抑圧」や「偏見」といった事柄に関する主張がなされるときには、他の事柄に関する主張でなされているような「他の仮説を検証する」という過程が省かれがちであることも指摘している。

 ついでに書いておくと、最近になって流行しているらしい「分析フェミニズム哲学」も、「女性の目」という主観性を哲学の世界に持ち込んでいるということに、ほかのフェミニズム理論と同じような問題があるように思われる*2

 そして、「女性の目」には男性の有利性や男性が握っている権力しか映らないために、男性が自分たちの苦難や不利益を訴えても、耳が傾けられない。

 だからこそ、フェミニズムに対する反動として、「男性の権利」論や「弱者男性論」が発達することになったわけである。

 

 だが、実際のところ、異性に対して対立的な態度をとろうとする人はごく一部に過ぎない。大半の男性は女性のことを理解したり女性と適切な関係を築いたりすればどうすればいいかということを気にかけているものであるし、男性の苦難や不利益に共感を示す女性だって多くいるのだ。

 このブログではフェミニズムに対して批判的な記事をよく書いているが、「弱者男性論」に対して批判的な記事もいくつか書いてきた*3。特に日本のインターネットにおける「弱者男性論」をわたしが嫌っている主たる理由は、それが大半のフェミニズム理論以上に針小棒大的であったり事実に基づいていなかったりしていて、さらには弱者男性論者たちはそのことに自分で気が付いておきながら小銭稼ぎのために男女間の対立を煽る記事を量産し続けているフシがある、ということだ。このような行為は道徳的に不当であるだけでなく、そこでなされている議論はつまらなくて知的好奇心をそそらない。おもしろい議論やためになる議論というものには、事実を志向することや書き手自身が誠実であろうとすることが必要とされるものなのだ。

 バウマイスターのように進化心理学の視点からフェミニズムジェンダー論を捉えなおしたり批判したりするアカデミックな論客は他にも多く存在するが、たとえば「男性女性と同様に不利益を被っている」という主張をする人や「男性は女性とは別のかたちで不利益を被っている」と主張する人は多くいても、「男性の方が女性と同様に不利益を被っている」とまで主張する人はほとんどいないようだ。まじめに考えれば、そういう結論にたどり着くということだろう。

 

*1:バウマイスターは、同じ罪状でも男性の方が有罪になりやすかったり刑が重くなりやすかったりしやすい、ということを指摘している。

*2:

gendai.ismedia.jp

「分析フェミニズム哲学」のなかでも有名なケイト・マンの議論を紹介している記事。

*3:

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

「人生の意味」の進化心理学

 

 

 

 

 ダグラス・ケンリックの『野蛮な進化心理学:殺人とセックスが解き明かす人間行動の謎』の白眉は、やはり、第七章の「マズローと新しいピラミッド」だろう。

 この本について紹介している他のブログの記事やTogetterまとめでも、この章がメインとして扱われている*1

 画像もいろいろとネットに転がっているので、貼り付けてしまおう。上が「マズローのピラミッド」で、下が「ケンリックのピラミッド」だ。

 

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 なお、「ケンリックのピラミッド」は「生活史理論」によって補強されるものである、ということには言及しておくべきだろう。

 生活史理論は、「どんな動物の生涯も二つないし三つの段階に分けられ、それぞれで投資におけるトレードオフが異なる」 (p.237)という発想に基づく。人間の場合は「身体的努力」期、「繁殖努力」期、「子育て努力」期に分けられる。そして、ピラミッドのうちのどの動機がどれだけ強力になるかは、自分がいまどんなライフステージに立っているかということによっても変わってくるのだ。

 

 ケンリックによるマズローに対する批判のなかでも興味深いのが、以下のようなものである。

 

これから数章にわたって論じることになるが、交配という同期は、人間の性質に見られる多くのポジティブな要素ーー音楽や詩をつくったり、慈善活動に参加したり、次の世代のために世界をよくすることーーの背後にある究極の原動力だ。発達心理学者たちは、人間は年をとるにつれて他人の幸福に関心を移すようになると指摘している。してみれば、個人的な喜びの追求としばしば同義になるマズロー自己実現という概念は、もっと高いところにある動機、すなわち、他人の面倒を見ることへの過程にある、自己中心的な段階にすぎないと言えるだろう。

こうして新しく建てなおされた動機のピラミッドは、どん底にある泥だらけのレンガと、星に近い上部のきれいなレンガが、構造的につながっていることを明らかにしてくれる。それによって私たちは、セックスと自己実現という、まったく違うトピックのあいだに強力な関係性を見いだせるのだ。そのピラミッドはまた、人生がもつ高邁な意味を示唆し、目先の欲望から社会における相互関係の重視という高みへと私たちを導くものでもある。

(p.160 -161)

 

環境を軽視するというマズローの傾向は、人間主義運動に見られたある偏見に関係している(ちなみに、その運動にはマズローの著作も大いに影響を与えた)。人間主義を標榜する心理学者たちは、時として、どう見てもひとりよがりとしか思えないほど個人的な現象を重視するーー世界の見え方がお気に召さないなら、考え方を変えればいい。つまり、何事も自分次第というわけだ。自身の心を見つめ、独自の考えにふけり、自分の好きなことをするのは、ある基準においてはけっこうなことだ。だが突き詰めて言えば、人間はそのようにできてはいない。私たちはそこまで自己中心的じゃないのだ。また、周囲の人々と一線を画していると思っている場合でも、それは別に高次の存在になっているのではない。大人になっても他者の要求に気を配れない人は、実は自己実現ができているのではなく、病的な状態であるだけかもしれないのだ。

(p.163)

 

 ここでケンリックが直接の批判としているのは、マズローと、それに影響された自己啓発の理論であるだろう。

 また、配偶者や子ども、社会的地位・社会的承認が人間の幸福にとって重要であるとするケンリックの主張は、ポジティブ心理学における諸々の研究にも連なるところがある。ケンリックの主張はセックスや配偶者の獲得と維持に関する欲求が人間の行動や思考に与える影響をやや強く捉え過ぎている感があり、その点ではなんでもかんでもを性淘汰で説明しようとしてしまうジェフリー・ミラーを思わせるところがあるが、ミラーに比べるとケンリックの方がまだバランスが取れてはいる。

 さらに、ケンリックはマズローのピラミッドのことを「保存に値するもの」と評価しており、それを打ち壊すのではなくあくまで「改築」をしている、という点は重要だ。低次なものにせよ高次なものにせよ「欲求」は人間の幸福や生き方を左右するほどに強い影響を与えるものである、という考え方をしているという点ではケンリックもマズローも軌を一にしているのである。

 

 ポジティブ心理学とは進化心理学だけでなく古代ギリシアの徳倫理や仏教などの思想をも参照する総合的な学問でもある。

 たとえば仏教やストア派などでは欲求を断ち切ったりすることや欲求が人生に影響を与えないようにコントロールしたりすることが重視される。欲求とはせいぜいが生物学的なインセンティブ・システムを維持するための「必要悪」であり、それに振り回されずにエウダイモニアを追求して良き人生を過ごすことが、幸福の秘訣であるとされるのだ。

 一方で、ケンリックのようなタイプの進化心理学者にかかると、人間の行うほとんどすべての行動や思考までもが「欲求」に還元して説明されてしまう。そのために、原理的に、人生において欲求をコントロールすることは不可能になるはずだ。「食欲や性欲などの低次の欲求をコントロールしようとすることは、高次の欲求を達成しようとしているための手段に過ぎないのであるから、欲求に動かされているという点では変わりはない」という風に説明できてしまうからである。

 特にストア派の哲学では、「地位」や「他人」に対する欲求や執着を捨てて自己の心の平穏を保つことに専念するべきであると説かれて、その方法も伝授される。つまり、ストア派の哲学はマズローと同じく「自己実現」をゴールとしているが、マズローのピラミッドの中間にある「愛と所属」はむしろ遠ざけるべきものだとしているのだ。もちろん、ケンリックのピラミッドとストア派の理想も一致しない。一方で、たとえば中庸や諸価値のバランス取りを重視するアリストテレス的なエウダイモニアの発想なら、ケンリックのピラミッドとも相反しないかもしれない。

 

 下記の「深い合理性」に関するケンリックの議論には、一定の説得力を感じられる一方で、「理屈と軟膏はどこへでもつく」という感じもある。

 どうにも、「合理性」という概念には、広くなったり深くなったりするほどに空虚で無意味な概念へと近付いていく、という特徴があるように思われる。

 

深い合理性という観点から見ると、意思決定にはたしかに心理的バイアスが反映されてはいても、そうしたバイアスは決して気まぐれなものでも、不合理なものでもない。それどころか、その心理的バイアスとは、目先の個人的な満足ではなく、遺伝子の長期的な成功を最大化させることを目指す、心的および情緒的メカニズムの産物であるのだ。また、私たちの考えの中心にはモジュール性の概念が据えられている。つまりこの理論では、単一の合理的な意思決定者が効用の最大化というルールに基づいて機能しているわけではなく、私たちの頭の中には問題を経済的に取り扱う多くの下位自己があると仮定しているのだ。各々の下位自己は、人生において出会う代表的な脅威や好機に対応するべく、様々なコストや利益に注意を払い、それらに対しそれぞれ違う価値づけをしている。

(p. 233 -234)

 

 ところで、「ケンリックのピラミッド」と並ぶこの本の見所は、「人生の意味」という問題について進化心理学の観点から取り組んでいるところだろう。

  本書の「はじめに」では、以下のように問題が提起されている。

 

実のところ本書は、私たちが抱く一番大きな問題、つまり人生の意味とは何かという疑問について論じたものだ。この疑問を言い換えると、人生や宇宙や世の中のあらゆるものがどんなふうに関連しあっているのかという話になることもある。この大問題については、進化、認知、複雑性に関する現代の科学的な洞察をいくつか組み合わせることで、実際に答えが出はじめているようだ。でも、それだけでは不十分かもしれない。というのも多くの場合に私たちが知りたいのは、「いったいどうしたら、自分がもっと意義深い人生を送れるのか?」ということだからだ。これまた先に劣らず重要な問題で、だからこそ実に多くの人たちが自己啓発本を読んだり、宗教団体に参加したり、瞑想の仕方を習ったり、精神分析に通ったりするんだろう。

(p.10)

 

「いったいどうしたら、自分がもっと意義深い人生を送れるのか?」という問題に関する回答は、本書の「おわりに」にて提示されている。それは、シンプルではあるがやや曖昧なものでもある。

 ケンリックは、この問いにどう答えるべきかと悩みながら息子の世話を焼いている最中に、「たとえ自分の人生に何が起ころうとも、子供たちの要求は常にほかのどんな要求にも優先するのだ」(p.283)ということに気が付くのだ。

 

快楽を求めて行ったその他多くの行為と違って、息子たちのために費やした時間について、私はこれっぽっちも後悔したり失望したことはない。息子たちの要求に応えることが幸せな陶酔感をもたらしたわけではないが、本当に満たされた気持ちに間違いなくしてくれる人生で唯一のことではあった。進化や行動に関する知見から考えれば、別に驚く必要はない。結局、人間は我を忘れるような喜びを朝から晩まで求めるようにではなく、他の人間を支える網の目に組み込まれるようにできているのだ。実際、進化生物学には血族選択と互恵的利他行動という二つの根本原理がある(前者はなぜ私たちが家族の面倒を見たがるかを説明したもので、後者はなぜ人が友人や同僚のために苦労したがるかを解明したもの)。それ以外にも性淘汰と親の差別的投資という重要な原理があり、通常は誇示行動とセックスに関係すると考えられているが、それらでさえ人間の男女双方にとって、親になる資格を獲得するプロセスと密接に結びついている。

私はなにも、みんなどんどん繁殖すべきだとか、人口過剰問題なんか無視すればいいとか、フェイスブックでさっさと「友達」を五〇〇人つくれと言っているわけではない。むしろ私が言いたいのは、すでに仲良くなった仲間たちの世話をやくという自然な喜びを楽しみなさいということだ。家族や友人と過ごす時間は、人生の中心的業務から気をそらしてしまうものと考えることもできる。でももっとゆったりと構えて、あなたの脳が持つ社会的メカニズムに、そのような体験を満喫させる機会だと考えることだってできるのだ。

(p.283 - 284)

 

 要するに、「ケンリックのピラミッド」の頂上部に近い動機や欲求を満たせば満たすほど、人生の意味は感じられやすくなる、ということである。

 なお、「人生の意味」とはややずれるかもしれないが、ポジティブん心理学の本を開いてみると、子どもがいることが「幸福」につながるかどうかは五分五分である、といった調査結果が示されていることが多い(その一方で、配偶者がいることはかなり多くの場合に幸福につながる、とされている)。

 とはいえ、物事について「浅い合理性」で考えてしまうと、「子どもを作ろうとしても、その子が不幸に育ったり親に逆らったりいじめの加害者や被害者になったり身体障害を負って生まれてきたり精神障害になったりするかもしれない」などなどのリスクばかりに注目してしまうことになりがちだ。また、「浅い合理性」に基づいた思考では短期的で即物的な快楽ばかりを重視してしまうがために長期的で持続的な生き甲斐というものについて考えることができないので、「独り身だと時間があって責任はなくて好きなことができて充分楽しいのに、なんでわざわざ結婚をしたり子どもをつくったりして自分の自由や快楽を制限しなくてはならないのか?」という風に考えてしまいがちである。

 ……しかし、ケンリックの議論はシンプルながらも説得力があり、結婚したり子どもを持ったりすることの意義を現時点で理解できない人に対する、程よい啓発や警告になっているように思える。実際、わたしが『野蛮な進化心理学』をはじめて読んだときには、「いまのままのキャリアじゃ家庭を持てるという見込みはないし、現時点だとそれで問題ないように感じられているけど、のちのちに後悔してしまう可能性があるな」という危機感を抱くことができたものだ。

 さらに、たとえば反出生主義が理論としては筋が通っても多くの人から説得力を感じられず実践もされない理由の一部も、「ケンリックのピラミッド」によって説明することができるかもしれない。

 

 さて、哲学的には、「人生の意味」に対するケンリックの回答は不充分なものである。その回答は、あくまで「意義深い人生を送れている、と自分が感じられるようなるためにはどうすればいいか?」という問いにしか答えられておらず、「自分が意義深い人生を送るためにはどうすればいいか?」という問いそのものには答えられていないからだ。

 とはいえ、人生の意味という問いに対して本気で回答しようとするなら、「意味」とはなにかということについての厄介で錯綜した哲学的議論に向き合わなければならない。そこまでくると、そもそも進化心理学者には役者不足な問題となって、哲学者の出番ということになるだろう。

 ……といいつも、たとえば『幸福と人生の意味の哲学』『若者のための〈死〉の倫理学 』など、「人生の意味」について哲学的な観点から本気で取り組もうとした議論を読んでみたところで、問題意識を深刻にし過ぎたために逆に「深さ」や「感動」を安直に求めた議論になっている感が強く、すくなくともわたしは白けてしまい参考にもならなかった。

 ジョシュア・グリーンは『モラル・トライブズ:共存の道徳哲学へ』のなかで功利主義を擁護しながらも、道徳に関する普遍的な真理が存在するという主張を展開することは避けて、あくまで「実用主義」の観点から功利主義の利点を強調していた*2。同様に、「人生の意味」という問題に関しても、哲学的な真理を求めようとしたがために袋小路に入った不毛な議論を行うよりかは、実用主義的に考えた方がよさそうだ。

 

 ジョナサン・ハイトの『しあわせ仮説:古代の知恵と現代科学の知恵』では、 ケンリックやマズローと同じく、「人生の意味」についての心理学的な観点からの回答が試みられている。

 ハイトはケンリックに比べて哲学的な議論についての造詣も深いだけに、問題の設定や定義に関して慎重で丁寧だ。

 また、ハイトの議論はケンリックの議論に比べて幅広い要素に目配りされたものであり、結論もやや複雑なものとなっているが、そのぶん説得力が増したものとなっている*3

 

 

青年期における実存主義において、私はその二つの二次的質問をごちゃまぜにしていた。人生目的という問いに対して科学的な答えを採用したことで、人生における目的を見つけることは除外されたと考えた。多くの宗教がその二つの問いは分離できないものであると説いているため、犯しやすい誤りであった。もし、神が「神の」計画の一部としてあなたを創造したと信じるなら、自分の役割を適切に全うするためにいかに生きるべきかを見つけ出すことができるだろう。『人生を導く5つの目的』は、人生目的という問いに対する神学的な答えの中から、いかに人生における目的を見つけるかを読者に教えてくれる40日のコースである。

しかしながら、それら二つの問いは分割できる。一つ目は人生についての外側からの問いである。人、地球、星などを、「なぜそれらは存在しているのか」という問いの対象と見なし、神学者、物理学者、生物学者によって適切に探求される。二つ目の問いは、人生についての内側からの問いである。主体としての「いかにして意味や目的の感覚を見出すことができるのか?」という問いであり、神学者、哲学者、心理学者によって適切に探求される。二つ目の問いは実に経験的、つまり科学的な手段によって研究されうる事実としての問いである。だがなぜ活力、献身、意味に満ちた人生を送る人がいる一方、人生が空虚で定まらないものであると感じる人がいるのだろうか?この章の残りの部分では、人生目的は無視して、人生における目的の感覚を生じさせる要因を探し求めていく。

(p. 314 -315)

 

豊かで、幸せで、満たされていて、そして意味のある人生を送るために、何ができるのだろうか?人生における目的という問いに対する答えは何だろう?私たちがこうして分割されているように、多種多様に分割された私たちという生物種について理解することによってのみ、その答えは見出すことができるのではなかろうか。私たちは、個人淘汰によって、資源や快楽や名声のために闘う利己的な生物へと形成された。また群淘汰によって、より大きな何かに自己を犠牲にすることを望む群生物として形成された。私たちは、愛や愛着を必要とする社会的な生物であり、仕事でバイタル・エンゲージメント状態に入ることが可能な効力感を必要とする産業的な生物である。私たちは、象使いであると同時に象でもあり、精神的健康はその二者が一緒に機能して、互いに他方の強みを活用することに依存している。私は、「人生目的とは何か?」という問いに対してなるほどという答えがあるとは思わない。しかし古代の知恵と現代科学を利用して、人生における目的という問いに対する説得力のある答えを見出すことはできる。幸福仮説の最終バージョンは、幸福はあいだから訪れるというものである。幸福はあなたが直接的に見つけたり、獲得したり、達成したりできるものではない。正しい条件を整えた上で、待たなければならない。性格の階層やその要素間のコヒーレンスのように、あなたの中の条件もある。他の条件はあなたを超越した物事との関係性が必要となる。ちょうど植物が成長するために日光、水、良い土壌を必要とするように、人には愛と仕事と自分より大きな何かとのつながりが必要だ。あなたと他者、あなたと仕事、そしてあなたとそれよりも大きな何かとのあいだに正しい関係性を築くように努力することには価値がある。もしこれらの正しい関係を得られれば、人生の目的と意味の感覚はおのずと湧いてくるだろう。

(p. 341  - 342)

 

 これまでにわたしが読んできた、「人生の意味」という問題に関して書かれた文章のなかでは、ハイトが『しあわせ仮説』で行なった上記の議論が、もっとも優れたものであるように思われる。

"「人生目的とは何か?」という問いに対してなるほどという答えがあるとは思わない。"と言い切ってしまっている点にも、深く同意できるところだ。

 

*1:

goldhead.hatenablog.com

togetter.com

*2:

s-scrap.com

*3:群淘汰を肯定していることには賛否両論があるだろうが。