道徳的動物日記

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「恋愛」とは自然なものなのか(読書メモ:『女と男のだましあい:ヒトの性行動の進化』)

 

 

 原著は1994年、邦訳も2000年とかなり古く、進化心理学の本のなかでは「古典」の部類に入るものだ。そして、古典なだけあって、進化心理学の考え方のなかでももっとも基本となる部分が詳しく紹介されているところが参考になる。

 タイトル通り、人間の男女の性行動について、繁殖を成功させるための「戦略」という観点から分析する議論が主となっている。

 

・冒頭の、「恋愛」や「愛情」の自然性(実在性)を論じる箇所はとくに興味深い。

 

さらに問題を複雑にしているのは、愛情というものが、人間の生活のなかで中心的な役割を果たしていることだろう。恋愛という感情を体験しているとき、人間はその虜となってしまう。また、愛情を向ける対象が存在していないときには、恋愛の空想が頭のなかを占めてしまう。愛ゆえの苦悩は、おそらく他のどんなテーマにもまして、詩や音楽、文学、メロドラマやロマンス小説などの大きな主題になっている。とはいえ、ふつう思われているのとは異なり、恋愛は西欧の有閑階級が近代になって「発明」した感情ではない。恋愛はあらゆる文化において見られ、この感情を言いあらわすための特別な単語が、どの文化にも存在している。こうした普遍性は、愛情ーーおよびその主要な構成要素である相手への献身、優しさ、情熱といったものーーが人間の感情に不可欠な部分であり、すべての人間が体験するものであることを示している。

(p. 9-10)

 

 その一方で、一般に、進化心理学とは「愛」の欺瞞や虚仮を暴く考え方であるとも捉えられがちだ。

 

最後にもうひとつ、進化心理学への抵抗を生みだしているものを指摘しておこう。それは、男女間のロマンスや性的な調和、生涯変わらぬ愛情といった、だれもが抱きつづけている理想である。私自身、こうした見方を捨て切れずにいるし、愛情こそが人間の性心理学の核心となるものだと信じてもいる。配偶者との結びつきは、人生においてもっとも深い満足感をもたらしてくれるし、それを欠いた人生はひどく空虚なものに思えるだろう。結局のところ、ひとりの配偶者とうまく幸福に暮らしていける人々も少なからず存在するのだ。しかし、われわれはあまりに長いあいだ、人間の配偶行動の真実から目をそらしつづけてきた。不和や競争、そして駆け引きといったものも、配偶行動において普遍的に見られる要素なのである。もし、男女関係という人生でもっとも魅惑的なものを真に理解しようとするなら、勇気をもってそうした要素を直視しなければならない。

(p.39)

 

 たしかに、世間一般の人が進化心理学に抵抗感を抱くとすれば、あまりに生々しく即物的な説明によって「愛情」に対して抱いている幻想を壊されることにあるだろう。

 一方で、もうすこし意識が高かったり人文的な発想に馴染んでいる人であれば、「恋愛」や「愛情」とは文化や社会によって構築されるものではなくわたしたちの自然な生き方において否応なく発生するものである、という考え方に対して反感を抱くはずだ。とくに最近の女性向けコンテンツでは、異性愛から女性を「解放」させるストーリーを描くことがトレンドになっている。そして、社会構築主義の魅力とは、わたしたちを縛り付けていたり苦悩させていたりする諸々の価値や考え方について「社会的な規範を押し付けられることによって生み出されるもの」だと定義することで、「では社会的な規範を変えたり押し付けから逃れたりすることができれば、厄介な価値や考え方からわたしたちを解放させることができる」という「希望」を与えることにある。……だけれどそんなにうまくいくものではないかもしれない、と進化心理学は示唆するわけだ。

 

・『女と男のだましあい』のなかでは、男性は女性に対して若さと容姿を求める傾向があって、女性は男性に対して資産と権力を求める傾向があるという、進化心理学の男女論としてもスタンダードなものが展開される。「女性の上方婚志向」の問題についてもバッチリ書かれている。

 とはいえ、女性は資産と権力だけを男性に求めているわけではなく、熱意や優しさなどの「献身」も求めているのだ。

 

愛情や献身のディスプレイは、女性を強く惹きつける。それは、男性がその女性のために、時間やエネルギー、労力を長期間にわたって提供する意志があることを意味するものだからだ。献身的であることを示すのはなかなかむずかしく、偽ってそう見せかけようとするのはかなりの努力を要する。それは、ある程度の期間を通じてくりかえし送られるシグナルによって判断されるからである。ただカジュアル・セックスだけを求めている男性は、あまり多くの努力を注ぎこもうとはしない。献身のディスプレイは、女性から見ればシグナルとして信頼がおけるものなので、女性を惹きつけるためのきわめて強力なテクニックとして機能するのだ。

(……中略……)

献身を強くあらわすシグナルのひとつは、求愛期間中の男性の「熱意」である。これは、なるべく多くの時間を相手の女性と過ごすというかたちで表現される。他のどんな女性よりも頻繁に彼女と会い、なるべく長い時間をかけてデートし、ことあるごとに電話をかけ、何十通もの手紙を書く。この戦術は、永続的な配偶者を獲得する場合にはきわめて有効であり、平均すると七点満点で五・四八点という高い効果を示している。

(……中略……)

検診を示すもうひとつの要素である「優しさ」のディスプレイも、効果的な誘惑のテクニックとしてあげられる。女性の抱えている問題を理解し、彼女が求めていることに敏感で、同情的にふるまい、救いの手をさしのべるような男性は、長期的な配偶者にふさわしい存在として女性の心をつかむことができる。優しさが効果を発揮するのは、それが、男性が女性のことを気にかけ、必要なときはかならずそばにいて、資源を提供してくれることを暗示するものだからだ。優しさは、たんなるカジュアル・セックスへの興味ではなく、長期にわたるロマンティックな愛情の証なのである。

(p. 170-172)

 

 引用部分のすぐ後には「とはいえ、一部の男性は、カジュアル・セックスのパートナーを誘惑するのにも、この戦術を用いている」と指摘されているように、ほんとうの意味で「優しい男」よりも「優しいフリをするのが上手な男」の方がモテる、というのはありそうなことだ(あった)。しかしながら、上述の引用部分は、たとえば「暴力的な男のほうがモテる」といった弱者男性論者やインセルが陥りがちな発想に釘をさすものであることは間違いないだろう。資産や地位があまりない男性は、コンプレックスや不安を乗り越えて熱意や優しさをしぶとくアピールし続けることが大切だ、みたいな教訓を引き出すこともできるかもしれない。

 

・この本の後半部分では「嫉妬」という感情が引き起こす問題についても述べられている。一般的に、男性は女性よりも性的な嫉妬を感じやすく、そして男性の嫉妬は殺人を頂点とする暴力的で危険な行動に結びつきやすい。著者は「嫉妬」や「男性による性的暴力」をテーマにした本も書いており、この部分には特に気合が入っている*1。一般的なカップルでは男性から女性に資源が提供されるために、配偶者を奪われたり寝取られたりすることのデメリットは、男性の方が大きい。これまでに提供してきた資源がすべて無駄になってしまうからだ。それだけでなく、「妻を寝取られた男」という評判がコミュニティのなかでたってしまうと、周りの人物からもナメられて、社会的地位が下がってしまい、次の配偶者を獲得するのも難しくなってしまう。そのために男性は暴力を用いてでも女性のパートナーを自分のもとに縛り付けて他の男から遠ざける傾向があり、ときには「他の男に奪われる前に殺してしまう」ということが合理的な選択になってしまう場合すらもあるのだ。

 同様の理由から、配偶者の浮気によって本人に与えられる精神的ダメージも、男性のほうがずっと高い。男性のほうが浮気する割合や可能性は高いが、女性の浮気のほうが離婚のきっかけにはなりやすいのだ。

 ちなみに、女性が浮気をもっとも行いやすいのは三十代だ。この年齢になった妻の繁殖能力は減りつつあり、また容姿も下り坂になっていくために、夫は妻への興味をこれまでにくらべて失って、セックスの回数を減らしたり妻に近づいてくる男に対するガードを緩めてしまったりする。だが、減ったとはいえ繁殖能力がまったく無くなっているわけでもない妻にとっては、夫よりも良い相手と番ってその子供を妊娠する最後のチャンスであり、さらに夫のガードが緩んだことで実行可能性も上がっているのだ。もちろん実際には浮気相手の子を妊娠する女性は稀であるだろうが、浮気への欲求の背景にはこのようなメカニズムがあるということである(なお、男性は年齢に関係なく常に浮気をしたがる)。

 

・感情を表に出すか出さないか、という戦略の男女差についての記述。

 

男性が自分の感情を表に出さない理由のひとつは、配偶者への投資に際して感情を排することで、残りの資源を他の女性や別の目的に振り向けやすくなるからだ。一般に、男性が行う交渉の場では、自分の願望がどれほど強いのか、どれほど支払う用意があるか、どれだけ熱心に取引を望んでいるかを相手に知らさずにおくのが最良の手段であることが多い。トルコの絨毯商人は自分の関心を悟られないように濃いサングラスをかける。ギャンブラーは感情を表に出して手の内を読まれることのないよう、ポーカーフェイスを通そうとする。感情は、しばしばどの程度の投資をしようとしているかをあらわにしてしまう。感情を隠しておければ、自分の性的戦略も知られずにすむ。女性は情報の欠落に苦しみながら、手がかりを選り分けて男性の本心をつきとめようとせざるをえない。大学生の男女を対象に調査したところ、女子学生は男子学生にくらべて、デートした相手との会話を反芻し、相手の「本当の」意図や目的、動機などを探りだそうとしがちであることがわかった。男性が感情を表に出さないことにたいする不満の奥底には、献身の度合いをめぐる軋轢が潜んでいるのである。

(p.244)

 

 上述のように男性は一般的に感情を隠そうとするために、感情を表に出したり素直に振る舞ったりする男性のほうが女性に好印象を抱かれてパートナーを得られやすい、という逆説的な現象についても書かれている。男女の戦略は軍拡競争的なメカニズムになっているために、戦略的には不利であるはずの特徴が一周回って有利になる、ということがあり得るわけだ(もちろん、「素直に感情を表に出している」フリをすることができる男性が戦略的には最も有利である、ということも言えるだろう)。

 

気分屋のパートナーをもつことは、時間と労力を浪費させられるため、高くつくものになる。自分の希望はとりあえず横においてパートナーの機嫌を直そうとする融和行動は、他の目的を犠牲にしてエネルギーを浪費する。女性は相手の誠意を確認する戦術として、こうしたコストを男性に課すのである。感情の起伏の激しい女性は、おそらくほんとうはこう言いたいのであろう。「あなたがもっと献身的にふるまわないと、私は感情的になってあなたにコストを支払わせるわよ」。感情の起伏を激しくするのは、男性の献身を確実なものにするために女性が用いる戦術のひとつなのだ。男性が気分屋の女性を嫌うのは、本来他の目的にまわすはずだった労力を、そのために費やさざるをえないからである。

(P.245 - 246)

 

読書メモ:マーサ・ヌスバウムによる「性的モノ化」論

davitrice.hatenadiary.jp

 

↑ ひと月ほど前にこのブログに掲載した記事でも間接的に取り上げた、マーサ・ヌスバウムによる「性的モノ化」論文について、以下の書籍に収録されているバージョンを読んでみたので、感想や考えたことを書いておこう。

 

 

Sex and Social Justice

Sex and Social Justice

 

 

 この論文のポイントは、ポルノグラフィティやセックスにおける性的モノ化を一概に「悪い」とみなすキャサリン・マッキノンやアンドレア・ドウォーキンの主張、その背景にあるイマニュエル・カントの議論を取り上げながら、性的モノ化が悪いかどうかは文脈により、ときによっては『チャタレイ夫人の恋人』で描かれるような「ワンダフルな」性的モノ化が成立する場合もあり得る、と主張されているところにあるだろう*1

 ヌスバウムは「モノ化」という言葉が意味し得る具体的な事柄を七種類に分けてリストアップしたうえで、そのなかでも「相手を道具として使用すること(instrumentality)」にはたしかに道徳的な問題があるが、他の種類のモノ化は許容され得る、と論じるのだ。

 

チャタレイ夫人の恋人』では、コンスタンス・チャタレイという女性と森番のメラーズという男性のそれぞれが相手の性器に名前を付けて、互いの性器を求め合う場面が描かれている。この状況について、「セックスの当事者の双方が互いの個人性(individuality)を放棄して、互いのことを性器に還元して扱っている」とヌスバウムは表現する。

 カントであれば、相手の人格ではなく性器という身体の部分だけに注目して相手を扱うことは非倫理的であると言うだろう。しかし、ヌスバウムによると、コンスタンスとメラーズが行なっているモノ化は対称的で相互的であり、相互の敬意や平等を前提として成立しているものであるからOKだ。むしろ、セックスの最中に自律性(autonomy)や主体性(subjectivity)を放棄することは、セックスに含まれる自然な喜びを存分に味わえることにつながり得る。相手のことを受動的(passive)な存在として扱ったり、自発的な行為者性(agency)や能動性(activity)を認めずに不活性(inertness)な存在として扱うことも、セックスにおいては許される可能性がある。性生活においては、相手の感情的・身体的な境界に侵入する(penetration)という行為が重要な価値を持つ場合もあるからだ。

 とくに女性の場合、セックスにおいて自律性を放棄してモノ化されて喜びを味わうことは、人生全体を充実させたり自由にすることにつながるし、自己表現を実現する生き方をするためのエネルギーとなり得る、という風なことをヌスバウムは主張している。

 ただし、セックスにおける性的モノ化がよいものとして認められるためには、行為の当事者同士が互いに尊重しあう関係性が成立していることが前提とされる。そのため、「相手が誰であってもいい」という匿名性を前提とした乱交的なセックスは問題視される。また、相手との関係について物語的な歴史(narrative history)を築いていない状態でセックスをすることは、相手の人格に対する敬意や配慮が背景に存在しないということなので、そのセックスは互いが相手の身体を欲求を満たす道具として使用するという行為以外のなにものでもない。これは道徳的に許容されない悪い意味での「性的モノ化」であるのだ。

 

 というわけで、ヌスバウムによれば、相互の敬意や配慮が成立しており対等で信頼のおける恋人関係や夫婦関係であれば、ふたりのセックスのプレイの一環として性的モノ化が行われることはOKとされるのだ。一方で、よく知らなかったり信頼関係が成立していなかったりする相手との行きずりのセックスや乱交は、どんなプレイであるかに関わらずそのセックス自体が性的モノ化であるためにNGとなり得る(実際にはヌスバウムは「行きずりのセックスや乱交は道徳的に認められない」とまでは主張しておらず、「道徳的に問題がある」と示唆している程度であるのだが)。

 カントであれば「すべてのセックスは、性的欲求を満たすために相手の身体を道具として使用する行為であるから、性的モノ化行為であり、すなわち不当な行為である」と主張しそうなものだ。……それに対してヌスバウムは「すべてのセックスは性的モノ化であるが、正当な性的モノ化もあり得る」と主張しているのか、それとも「セックスはプレイによって性的モノ化を含まない場合と含む場合に分けられるが、後者であっても正当であり得る」と主張しているのかは、ちょっとわからない。

 一般的な男女のセックスに、『チャタレイ夫人の恋人』のように互いの性器に名前を付けて呼びあったりするなどのプレイが含まれるとは限らないだろう。すくなくともわたしはそんなプレイをしたことはない*2

  また、ヌスバウムは、セックスにおいて自律性や主体性を放棄することはワンダフルさとか自然な喜びとか生のエネルギーとかを得るために必要である、そのようなプレイは道徳的に許容されるだけでなく積極的に行うことが推奨される、というくらいに思っているようだ。この感覚もわたしにはちょっとわからない。ベッドの上であっても相互の自律性や主体性を尊重しあいたいという生真面目さや誠実さ、あるいはセックスのときだけ関係性をガラリと豹変させることに対する気恥ずかしさや照れから、そういうプレイを実践しないカップルは多くいそうなものである。そのようなカップルは、互いの性器に名前をつけて呼び合っているカップルに比べて、ワンダフルさや喜びやエネルギーに乏しい性生活を過ごしているのだろうか?

 

 ところで、この論文で批判の対象となっているカントの議論について、ヌスバウムは以下のようにまとめている。

 セックスに関するカントの分析の中核となっているのは、性的な欲求(傾向性)は人のことをモノとして扱ってしまうことについての非常に強力な動因となる、という考え方である。性欲の存在は、「異性のことを自分の性欲を満たすための道具として扱うという行為」を誘発しかねない。相手をそのように道具扱いしているときには、快楽を満たすという目的のために、相手がどう思っていたりどう感じていたりするかは気にならなくなる(相手の主体性の否認)。また、相手に命令して振る舞いをコントロールしたくなる(相手の自律性の否認)。このことは、男性に限らず女性にも当てはまる。したがって、性欲に導かれてセックスすることとは、男女の双方が互いを道具として扱いあうために自分も道具として扱われることを許容する、自分のことも相手のことも非人間化(dehumanize)する行為であるのだ。

 セックスによる自他のモノ化に対するカントの解決策とは「結婚」である。結婚とは男女が相互に尊重することを法的な制度によって促進するものだ。婚姻関係にある者たちが相互に築く尊重は堅固なものであり、セックスによって相互を道具扱いした程度では崩されなくなるから、セックスは「無害」とされるのである。

 

 カントの主張は男女の双方に当てはまるものだとはいえ、彼の議論はやはり男性的なものであるように思える。というのも、「自分の性的な欲求が、異性の主体性や自律性を否認するという非道徳的な行為につながってしまうかもしれない」ということについての警戒心や恐怖心を抱いているのは男性の方が多いはずであるからだ。

 性犯罪をおこなう人の大多数が男性であるほか、通常のセックスにおいても、相手のことを身体的・精神的に傷付けてしまうリスクは男性の方が高いものである*3。逆に、男性の側がセックスによって傷付けられるということは、あり得なくはないが珍しいことだ。だから、大半の女性は、相手が未成年であったりよっぽど年齢差があったりしない限りは「自分の性欲によって相手のことを傷付けてしまうかもしれない」という恐れを抱かずに生きているものだろう。

 カントの主張は明らかに抑圧的であり、現代の感性からは受け入れ難いものではあるが、その主張は保守性とか非近代性というよりかは生真面目さゆえの潔癖性に由来するものであるように思える。

 言うまでもなく、ヌスバウムはカントのように結婚を絶対視してはおらず、婚外交渉まで否定しているわけではない。とはいえ、セックスにおける性的モノ化が許容されるためには相互を尊重する関係や二人のあいだの物語的な歴史が必要であるとして、行きずりのセックスや乱交を問題視する彼女の議論は、なかなかに保守的である。大衆的というか小市民的でもあり、現代で哲学とか文学とか芸術とかをやっているようなタイプの人はそうそう主張しない議論ではある。その一方で、「結婚前のカップルであっても愛があるならセックスしてもいいと思うけど、行きずりのセックスや乱交はよくないものだ」という意見は、かなり多くの人が共感するであろうごく一般的なものでもある*4。カントが当時のヨーロッパにおける一般的な価値観に理屈を付けて正当化したのと同じように、ヌスバウムは現代の先進国における一般的な価値観に理屈を付けて正当化している、とも言えるかもしれない。

 

 やや余談になるが、「モノ化という問題については、文脈がすべてなのだ」(p.227)とヌスバウムが言い切っているところは面白い。たとえば、就職の面接を控えた女性に対して「君は美人なんだから、写真を送るだけでも合格するに決まっているよ」という言葉を与えることは、通常ならば相手のことを能力や人格を無視して外見(性的特徴)に還元する侮辱的な行為になりえるが、恋人同士のピロートークや気心の知れた友人同士の会話なら言われた本人を喜ばせたり嬉しがらせたりする行為になり得るのだ。

 実際問題、性や恋愛の問題なんて(あるいは人間関係の問題全般について)、文脈やニュアンスがすべてであるだろう。しかし、アカデミックなものにせよインターネットにおけるアマチュアなものにせよ、「議論」というものにおいては「文脈」や「ニュアンス」というものはとにかく理解されない。したがって、「愛のあるセックス」なんて存在せずセックスそのものを加害行為とみなすか、「愛のあるセックス」も行きずりのセックスも乱交もセックスという点では同価値とみなすか、どっちかの極に振れてしまい、現実性や常識からかけ離れた主張がメジャーとなってしまいがちなのだ。

 ヌスバウムの議論にも独特の偏向は感じられるし「それってお前の好みの問題じゃん」と言えるところもなくはないのだが、彼女なりに真面目に誠実に中道的で妥当な着地点を見出そうとしている様子は伝わってきて、好感が抱ける。これくらい常識的な議論がもっとメジャーになってほしいものだ。

 

 

*1:わたしはポルノグラフィの問題には基本的に関心がないためにマッキノンやドウォーキンの議論にもあまり興味がなく、なのでこの二人の議論についてはこの記事では特に紹介しない。

*2:こういうのはそもそも「平均」や「普通」というものがどこあるかが誰にもわからなくて論じづらいことではある。わたしの経験上、セックスにおいて相手のことを性器に還元して扱うという行為は、「男性→女性」よりも「女性→男性」においてずっと一般的なのではないかという気がする。行為の際に性器に視線を向けたり、相手の性器について言及したりするのは、女性側のほうがずっと頻度が高いからだ。

*3:わたし自身、このリスクをかなり意識している方だ。以前に付き合っていた女の子で、(おそらくAVの見過ぎが原因で)行為の最中にこちらの加虐心を煽る言動を行ってくる相手がいたものだが、「プレイであっても傷付ける真似事なんてしたくないんだから勘弁してくれよ」としか感じなかったのでノラなかった。しかし、お互いに信頼関係が成立しているのであれば、行為の最中にはそういう道徳的配慮は捨てて性の喜びを味わうことに専念するべきだ、というのがヌスバウムの言いたいことであるかもしれない。

*4:そういえば、ヌスバウムの主張に基づけば、不倫や浮気であっても愛(相互の信頼や尊重)があるなら認められそうなものだし、乱交はダメでもお互いによく知り合う相手同士なら複数人での性的関係も認められそうなものである。ここら辺は人によるだろうが、「愛があるなら不倫も仕方がない」はわりと一般的な価値観であるような気がしなくもない。

読書メモ:『意志の倫理学:カントに学ぶ善への勇気』

 

意志の倫理学――カントに学ぶ善への勇気 (シリーズ〈哲学への扉〉)

意志の倫理学――カントに学ぶ善への勇気 (シリーズ〈哲学への扉〉)

  • 作者:秋元康隆
  • 発売日: 2020/01/27
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 

 カント「哲学」の入門書は数あれど、カント「倫理学」の入門書はほとんど存在しないので、この本は実にありがたい。

 こっちは「倫理学の本でいつも出てくる"義務論"ってカントの議論に基づいているらしいけれど、具体的にはどういうことなのだろう?」ということを知りたくて入門書を探しているのに、カント「哲学」の入門書だとアンチノミーとか空間論や時間論とか、倫理とあまり関係なさそうな部分の解説がセットでついてきてしまうので、読んでいてまだるっこしかったのだ。

 

 特定の理論に限定しない倫理学全般の入門書ではカント的な義務論が功利主義や徳倫理と並べて紹介されることが多いが、紙幅の都合などから「それぞれの倫理学理論はどのような問題意識を背景にしており、どういう理路で成立しているのか」ということに関する解説は薄いまま、各理論の長所と短所や、「特定の問題について各理論を応用して考えるとどうなるか」ということについて解説されることが多い。

 通常の学問における「理論」の扱いとしてはそれでいいかもしれないが、よく指摘されるように、義務論や功利主義や徳倫理の提唱者ではそれぞれの問題意識どころか扱っている対象すらまったく異なっているところがある。ひとくちに「倫理」といっても、意志と行為と人格のそれぞれに関する議論は、様子がかなり異なってくるものだ。そのため、ひとつの理論を対象にして、その内側に分け入って解説する本も必要となるのである。

 

 この本の第一部や第二部では「善意志」や「傾向性」などのキーワードを用いながら、カント倫理学の基本がかなりわかりやすく説明されている。

 冒頭の用語集にて、「仮言命法」と「定言命法」、「完全義務」と「不完全義務」などの概念が表の形式でまとめられているのも便利だ。本文の最中にもイラストによる解説が大量に挟まれており、わかりやすい。

 

『意志の倫理学』というタイトル通り、カント倫理学では「意志」がとにかく重要であるようだ。

 

 

先ほど例として挙げた「見返りを求めて」「下心から」 といった利己的な欲求のことを、カントは「傾向性」(独:Neigung)と呼びます。(日本語でも、ドイツ語でも)見慣れない表現ですが、漢字を見て分かるように、これは「傾き」という意味であり、人間は油断をしていると、自らの欲望の方に転がっていってしまうというニュアンスがあるのです。この利己的な感情である傾向性に発した行為が、倫理的価値を持つということはありえないのです。

では我々は、どのようにして傾向性から行為することを避けることができるのでしょうか。ーー傾向性とは、自然に発する感情(感性)です。人は感情の赴くままに動いている限り、傾向性を抑えることはできません。その傾向性を抑えるために必要なのは、(感情の対概念である)理性なのであり、具体的には、それに発する意志(独:Wille)なのです。

(……中略……)

道徳的な善さとは、先ほど挙げたような、それ以外の良さとは根本的に異なり、無制限に善く、絶対的な価値を有するのです。そして、その道徳的善の正体とは、利己的である傾向性に由来しない純粋な意志、すなわち、善意志(独:gutter Wille)に他ならないのです。

(p.35 - 37)

 

 また、主体性も、カント倫理学においては重大なポイントになるようである。

 

…我々が則るべき最上位の格率の実例として、カントは以下の三つを具体的に挙げています。

一:自分で考える。

二:(人々と交流する際に)自らあらゆる他人の立場になって考える。

三:常に、自分自身と一致した考えをする〔自分自身を誤魔化すような考え方はしない〕。

(p.149 - 150)

 

 大学生の頃に石川文康の『カント入門』を読んだときにも思ったが、カントの考え方は、功利主義や徳倫理に比べるとある種のアツさがある。実存主義的であるし、物語的でもあるのだ。

『意志の倫理学』では著者がかなりカントにのめり込んでいることがうかがえる。また、「はじめに」や第五部などで紹介される個人的なエピソードからは、著者本人がかなりアツくて善人であることが伝わってくる。著者の人格やタイプとカント倫理学の特徴が共鳴して、その魅力がよく表現された本になっていると言えるだろう。

 

自らがいかに生きるべきか考え、それを行動に移すのに、一部の人のみが有するような特別な才能や能力など必要ありません。そこで必要となるのは誰もが本来それを行使する権能を持つ「勇気」(独:Mut)と「決意」(独:Entschilebung)なのです。その本来「やろう」と意志さえすれば誰もができるはずのことを、やろうとしないことは「怠惰」(独:Faulheit)と「怯懦」(独:Feigheit)に他ならないのであり、その責任は本人に着せられるのです。

(p. 253)

 

 ただし、魅力的であることと、妥当であることや正確であることはイコールではない。

 カント倫理学はわたしたちに「意志」や「勇気」を持って「自分で考えること」を要請するが、その要請を満たせられたら、わたしたちの行為の結果がどうであったり判断にミスが含まれていたりしてもわたしたちは道徳的で有り得る、ということになる。これは、わたしたちの意図がどれだけ素晴らしくても結果が悪ければダメだとする功利主義や、そもそも道徳的な人間で有り得るかどうかが性格や能力の観点から厳しくジャッジされる徳倫理に比べれば、ずいぶんと優しくて理想主義的だ。だからこそ、不安や頼りなさも感じるのだ。

 たとえば、「カントの功績は、誰もがなんとなく分かっていることを理論的にまとめ、それを文字に起こそうとした点にあるのです。我々はそこから学ぶことによって、より自覚と確信に満ちた生き方ができるようになるのです。」(p. 92- 93)ということは、カント倫理学の弱点を示している可能性もある。倫理や道徳について"誰もがなんとなく分かっていること"ではなく"誰もがなんとなくそうであってほしいと願っていること"を、"理論的にまとめている"のではなく"理論付けて正当化している"と解釈することもできるからだ*1。……これはわたしのオリジナルの発想ではなく、ジョシュア・グリーンが『モラル・トライブズ』で行なった批判である。

 

インタビュアー:道徳的な問題について自分たちは感情ではなく理性を用いて解決している、と哲学者たちは誇ってきました。ですが、あなたは著書『モラル・トライブズ』のなかで、理性の支持者のなかでも最も象徴的な存在であるイマニュエル・カントの議論の内実を効果的に暴いています。カントの議論の多くは、彼自身が暮らしていた文化に由来する感情や直感を難解な言葉で正当化したに過ぎない、とあなたは書いています。カントの主張のなかであまり有名でないものには、現代ではその結論を真面目に受け止められないような主張…例えば、マスターベーションは「自分の体を手段として使用する」から道徳的に不正である、という主張…がありますが、カントの有名な議論(訳注:人権についての主張など)も、マスターベーションについての議論と根本的には変わらない、とあなたは主張しています。これについて、人々はどのように反応しましたか?

 

グリーン:お察しの通り、私の議論をまったく気に入らない哲学者たちもいます。ですが、一部の人々の考えを変えることはできたとは思いたいです。私が著書のなかで書いているような議論や主張に初めて直面するが、読む前から既に特定の立場には立っていなくて、そして科学を理解できる人なら、私の議論を読んでこのように言います。「うん、たしかに筋が通っているね」と。

 

 

 この本の第三部ではカント倫理学の細かいポイントまで分け入りながら、「カントの至らなかった点」について補いつつ著者なりに訂正・補修したバージョンの新・カント倫理学が提示されるのだが、ここは、カント倫理学に深く賛同している人以外にとってはあまり興味の惹かれないパートであろう。また、第四部では他の倫理学説とカント倫理学が比較されるのだが、ここではミルやアリストテレスロールズの議論が比較のためだけに取って付けたように紹介されている感があって、いまいち面白くない。

 一方で、カントの啓蒙思想や教育論が紹介される第五部は教育者としての著者のスタンスや矜恃なども感じられて、なかなかに面白かった。

 

 

*1:

davitrice.hatenadiary.jpヌスバウムによる「性的モノ化」論もカント主義的なものであったが、それについて江口さんが「単なるヌスバウム自身の道徳的選好、あるいは 彼女の性的な選好の表明にすぎないのではないか」と示唆していたことも、すこし思い出した。性の問題に限らず、生命倫理などのほかの応用倫理の問題においても、カント主義的な議論は理性的なものというよりかは「道徳的選好」を表明しているだけに思えるときがある。

「弱者男性」でありたがることのなにが問題か

gendai.ismedia.jp

 

 ↑ 「弱者男性論」に関するわたしの記事が講談社現代ビジネスに掲載されてからちょうど一ヶ月になるが、この記事をきっかけに「弱者男性論」が盛り上がったようで、SNSや個人ブログに匿名ダイアリーなどで、弱者男性について書かれた文章がいくつも登場することになった。

 そのなかでも特に重要なのは、文春オンラインに掲載された杉田俊介さんの記事だろう。

 

 

bunshun.jp

 

 また、はてなブックマークでは以下のツイートに数百以上のブクマが付いている。

 

 

 

 

 

「はまりー」さんのこのツイートはなかなかに興味深いと思うので、これをテコにしてちょっと考えてみよう。

 

 上記のツイートは批判しようとすればいくらでも批判できるものではある。

 たとえば、「誰かがおれを愛してくれないかなとぼーっと思い煩う」という表現は弱者男性に対して侮蔑的で攻撃的なものであると言えるだろう。

 また、このツイートの論調について、「"つらい"と言っている人に対して、その"つらさ"の原因を他人や社会ではなく自分のなかに見い出させたうえで、自分が工夫することによって解決することを求めているものだ」と指摘することもできる。はてなブックマークのコメントでも示唆されている通り、もっと具体的であり社会的に問題視されているトピック(女性や外国人などのマイノリティへの差別に絡んだ問題や、貧困に絡んだ問題など)についてこのような論調で議論してしまうと、ただちに「自己責任論」や「新自由主義的発想」として批判されてしまうはずだ。

 

 実際のところ、弱者男性に特有の"つらさ"とは「異性からの承認を得られないこと」であると考えた場合には、クロワッサン的なテクニックや思想に基づいて生活を工夫してラクにすることでその"つらさ"を解消できるかどうかは、かなり微妙であるだろう。

 わたし自身、異性のパートナーが長期間いなかった時期に、料理を工夫したり酒を節制したり早起きして筋トレする習慣を取り入れたりすることで生活のクオリティを上げる試みを実践していたことはある。すると、たしかに日々の気分は良くなったし、「今日は家に帰ったらなにを作ろう」とか「きょう酒を飲まずに早寝して、明日は早起きしてこんなことしよう」などと1日単位で計画を立てながら生活することでメリハリの効いた毎日を過ごせられて、なにかしらの幸福感や自己肯定感を得られているという実感が抱けたものだ。

 ……しかし、それによって異性のパートナーがいないことの孤独感が埋め合わせられたかというと、そうではなかった。「生活のクオリティ」と「パートナーの存在」は、どちらも幸福感や自己肯定感に関連しているとはいえ、本質的には別のレイヤーに属するものだ。それぞれから得られる幸福や自己肯定などの感覚の質もかなり異なるものであるように思える。たとえてみると、睡眠欲と食欲くらいにはちがう。どれだけたっぷり寝ても空腹は満たせないし、いくら食べたところで睡眠時間が足りていないならしんどいままだ。同じように、個人的な生活のレベルをいくら上げたところで、パートナーという社会関係が存在しないことによるつらさは残り続けるものではないだろうか。

 とはいえ、食欲と睡眠欲のどちらかひとつが満たせている方がどちらも満たせないよりかはマシであるように、パートナーもおらず良いクオリティの生活も過ごせていない人生よりかはせめて後者だけでも実現できている人生のほうがマシであることには変わりない。実際、酒を飲み過ぎていたり運動が足りていなかったり野菜を食べていなかったり日光を浴びていなかったりするせいで心身が不健康になっている人がやるべきことなのは、酒を控えたり運動をしたり野菜を食べたり日光を浴びたりすることなのだ。彼がパートナーが欲しがっているとしても、まだそれを求める以前の段階にいるとしか言いようがないのである。

「自分で解決できる問題は自分で解決すべきであり、他人を必要とする問題にはその後に取り組むべきである」と指摘することは、多少パターナリスティックに聞こえるとしても、正論であることには変わりない。なにより、この指摘は有効だ。だれがどう文句を付けたところで、クロワッサンを読んで家事を軽くしようとしたり冬の食卓をラクしておいしくしようとしたりする実践に踏み出せている人は、そうでない人よりかは幸福に近付いているはずなのだ。

 

 ある人がなにかの問題に苦しめられているとして、大概の場合は、性格や行動や考え方などのその人自身の「内側」にも原因があるし、他人や社会や時代などの「外側」にも原因がある。内と外のどちらにより強い原因があるかは場合によるだろうし、問題について分析する際の枠組みとか物の見方とかにもよっても判断が変わってくるだろう。そして、「自己責任論」批判が盛んな現代では、本を読んでいたり議論が好きであったりする人たちの間では、「外側」にある原因を強調して個人の責任を問わない物言いが好まれるようになっている*1

 しかし、問題の原因が外にあるということは、問題の原因が内にある場合と比べて解決が困難になるということでもある。単純に言って、他人や社会を動かすことは、自分を動かすことよりも何十倍も難しいからだ。「自分のつらさの責任や原因は、自分の内側ではなく外側に存在する」と言ってもらえることで、ある種の安心や救いは与えられるかもしれない。しかし、「自分の外側に原因があるのだとすれば、自分がなにをどうがんばったところで、問題は解決できない」という考えも同時に浮かぶものだろう。したがって、他人や社会に対する敵意や怒りを抱いてしまうだけでなく、無力感も生じてしまうことになるのだ。

 

gendai.ismedia.jp

 

 昨年の秋頃には、ジョナサン・ハイトとグレッグ・ルキアノフの著書『アメリカン・マインドの甘やかし』について紹介する記事が講談社現代ビジネスに掲載された。この本ではいわゆる「反ポリコレ」的な議論が展開されており、わたしの書いた記事の内容も「反ポリコレ」的なものとして受け止められたようだ。

 たしかに、ハイトとルキアノフは、現代の若者やマイノリティが「弱さ」を強調して「被害者意識」を抱きがちであることが生じさせる問題について議論している。彼らの議論のポイントは、弱さや被害を強調されることは学問のあり方や民主主義などの社会的な制度に良からぬ影響を与えるだけでなく、若者やマイノリティたち当人の精神的健康にも支障を生じさせる、という点にあった。

 

さらに、マイクロアグレッションのような概念は、学生たち自身の精神的健康にも良からぬ影響をもたらす。他人に対する非難を優先して自分の感情の正当性を吟味することを怠らせるだけでなく、「自分が被害者である」とか「自分は傷つけられた」といった意識が他人を批判する根拠になると思わせることは、そのような意識を積極的に持つように本人を動機付けてしまうのである。その結果、学生たちは、「自分は被害者である」という意識から逃れなくなるのだ。

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/77812

 

 そして、現代のアメリカではマイノリティたちの主張に呼応するかたちでマジョリティたちも自身の弱さや被害を強調し始めたことにより互いに足を引っ張りあう泥沼的な状況が生じている、ということも『アメリカン・マインドの甘やかし』のなかでは論じられているのだ。

「弱者男性論」のなかにもハイトとルキアノフが批判するような「虚弱性の不真実」や「感情的推論の不真実」が含まれていることは、言うまでもないだろう。

 

fuyu.hatenablog.com

 環さんによる上述のブログ記事では、「(ネット論客が行うような一部の)弱者男性論のなかでは、"弱者男性"という言葉は、フェミニズムに対するカウンターという文脈で用いられている」ということが指摘されている。

 実際、一部の弱者男性論者たちは、「弱者男性論とはフェミニズムに対する異議申し立てである」「自分たちはフェミニズムの議論のミラーリングを行なっているだけであり、弱者男性論に対して指摘される問題点はすべて裏返せばフェミニズムにも当てはまるものだ」と言ったことを公言しているのだ。

 もちろん、フェミニズムと弱者男性論はどっちもどっちで同じレベルの議論をしている、とはわたしは考えていない。現代ビジネスの記事でも書いたように、男性と女性のそれぞれが感じているつらさの種類やそのつらさが生じるにいたった経緯とはそもそも異なっているものだ。客観的に見て、女性側のつらさは男性側のつらさよりも「外側」に原因が存在するところが大きい。現代のフェミニズム運動に「感情的推論の不真実」や「虚弱性の不真実」が含まれていることは否定できないが、とはいえ、社会の制度や構造が男女不平等の実際の原因になっていることを指摘して、さらには社会運動を通じてそれを改善してきた/改善し続けているという功績も、たしかにフェミニズムには存在しているのだ。

 一方の弱者男性論はその出発点が「フェミニズムに対するカウンター」であるために、結局のところ、議論のための議論に終始している。弱者男性論がフェミニズムのような功績を残すことはこの先もないだろうし、弱者男性論者たち自身も、本心では自分たちの議論がなにかしらのかたちで社会を変えられるとは思っていないだろう。

 厄介なのは、議論のための戦略という観点だけで見れば、マジョリティである男性の「弱者性」を強調するのはたしかに有効であるということだ。現代の議論の状況は、弱者性や被害者性を「切り札」として使うことを許してしまっているからである。……しかし、先述したように、自分たちの弱者性を強調することは無力感につながり、自分たちの問題に自分たち自身で向き合って解決することから遠ざけてしまうのだ。

 要するに、弱者男性論は、当の弱者男性たちを問題解決から遠ざけて不幸にするという代償を生み出している。その見返りに得られるのは、インターネット上の議論でフェミニストたちを"論破"してちょっとした優越感に浸れるとか、益体もない愚痴を匿名ダイアリーに書き込んだりはてブやTogetterのコメントで揚げ足を取って憂さ晴らしできたりするとか、そんなのだけだ。弱者男性論は「個人を幸福にすること」も「社会を変えること」のどちらも志向していないために、いくら唱えたところで、いつまで経っても「出口」に辿り着きようがない。そのような思想や議論には存在意義がないのだ。

 

アメリカン・マインドの甘やかし』の著者であるハイトは、古代からの哲学や思想と現代の心理学を合体させることで、『しあわせ仮説』という自己啓発の名著を生み出した。この本のなかでは古代ギリシア的な「徳」の理念や現代の認知行動療法が積極的に肯定されており、自分の「弱さ」よりも「強さ」に目を向けてそれを日々の生活のなかで活かしていくことや、自分で対処できる問題についてはつべこべ言わずに自分で行動を起こすことの重要性が強調されている。

アメリカン・マインドの甘やかし』を読んだあとに『しあわせ仮説』を読み返してみると、ハイトの議論の一貫性や、その議論のバックボーンにある「徳倫理」の骨太さがよく理解できるようになった。わたしが思うに、弱者男性についてもその他のマイノリティについても、いま必要とされているのは、「弱さ」を肯定したり自己責任を否定したりする議論ではなくその逆である。もちろん、「強さ」や自己責任を強調する議論ばかりになってしまったら、それはそれで問題が生じるだろう。しかし、ネット上で繰り広げられるような低レベルなものにせよ思想や文学の場で繰り広げられるようなハイレベルなものにせよ、今時の「議論」には徳や強さの価値を認める視点がちょっと足りてなさ過ぎるのだ。

 

しあわせ仮説

しあわせ仮説

 

 

*1:

非正規的で「弱者」的な男性たちには、もしかしたら、男性特権に守られた覇権的な「男らしさ」とは別の価値観――たとえば成果主義能力主義や優生思想や家父長制などとは別の価値観、オルタナティヴでラディカルな価値観――を見出すというチャンス=機縁が与えられているかもしれないのだ(もちろんそうした著作や思想はすでに様々にあるが、それらを具体的に点検していくことは、別の場で行おうと思う)。

 もはや、そういうことを信じていいのではないか。いや、「私たち」はそう信じよう。

 誰からも愛されず、承認されず、金もなく、無知で無能な、そうした周縁的/非正規的な男性たちが、もしもそれでも幸福に正しく――誰かを恨んだり攻撃したりしようとする衝動に打ち克って――生きられるなら、それはそのままに革命的な実践そのものになりうるだろう。後続する男性たちの光となり、勇気となりうるだろう。

https://bunshun.jp/articles/-/44981?page=5

 このブログ記事の本題とは外れるので脚注で言及してしまうが……上記に引用した、杉田さんの記事の結論部分については、わたしとしては賛否半々な気持ちを抱いている。既存の「価値観」を否定しながら自身の「弱さ」をテコにして新しい価値観を示そうとしたり、「弱さ」を否定することなく逆転的に前向きな生き方の実践に接続させる、といった発想はたしかに感動的ではある。また、ある程度までならそのような生き方も実現可能であるだろう、とも思う。……しかし、上述の発想には、いかにも思想好きで文学好きな文系人が有り難がりそうな「お話」や「綺麗事」という感じもつきまとう。このブログの他の記事でもいろいろと書いてきたが、わたしは「能力主義」をはじめとする「覇権的な価値観」の正当性や自然さを一概には否定しない立場であるし、それに対抗して人工的に作られる「オルタナティヴでラディカルな価値観」とは結局のところ持続性がなく頼りのないものであると考えている。だから、「弱者の"弱さ"を肯定する」というタイプの主張よりも、「弱者であってもセルフヘルプによって"強さ"を身に付けられる」というタイプの主張の方が有効であると思うのだ。

サンデル教授の「大学入試くじ引き論」

 

 

 

『実力も運のうち』の第六章「選別装置」で、サンデルは以下のような提案をしている(太字部分は強調のためにわたしがつけたもの)。

 

 四万人超の出願者のうち、ハーバード大学スタンフォード大学では伸びない生徒、勉強についていく資格がなく、仲間の学生の教育に貢献できない生徒を除外する。そうすると、入試委員会の手元に適格な受験者として残るのは三万人、あるいは二万五〇〇〇人か二万人というところだろう。そのうちの誰が抜きん出て優秀かを予測するという極度に困難かつ不確実な課題に取り組むのはやめて、入学者をくじ引きで決めるのだ。言い換えれば、適確な出願者の書類を階段の上からばらまき、そのなかから二〇〇〇人を選んで、それで決まりということにする。

(p.266)

 

  サンデルがこのような提案をする根拠のひとつは、「受験者である若者たちの学術的才能を正確に測る方法なんて存在しない」ということである。明らかに優秀な受験者たちと、それに比べると劣る若者たちとの間には違いが存在するだろうが、トップレベルの受験者たちの違いを見極めて公平にランキングして、入学できる2000位以内までと入学できない2001位以降を確実に選り分ける、ということは土台不可能であるのだ。

 しかし、不可能であっても、現状の大学入試は「公平で正確に、受験者たちの能力を適切に測って、ランキングしている」という建前を捨てることはできない。すると、合格した若者は「わたしの能力が優れていることと、がんばって努力したことのおかげで、トップの2000位に入れることができたんだ」という認識を持つことになる。逆に、不合格になってしまった若者は、「自分の能力や努力が足りなかったから、トップの2000位から漏れてしまったんだ」と思ってしまう。大学入試という制度には曖昧さや運の要素が存在しているはずなのに、建前としては公正で確実な制度であると言い張っているために、合格者には慢心や優越感を、不合格には屈辱や劣等感を与えてしまうのだ。

 それならいっそ大学に合格するかどうかをくじ運に任せることで、曖昧さや運の要素が含まれるということを白日の下に晒すべきだ、というのがサンデルの主張だ。

 

しかし、適格者のくじ引きを支持する最も説得力ある根拠は、能力の専制に対抗できることだ。適格性の基準を設けて、あとは偶然に任せれば、高校生活は健全さをいくらか取り戻すだろう。心を押し殺し、履歴を詰め込み、完璧性を追求することがすべてとなってしまった高校生活が、少なくともある程度は楽になるだろう。能力主義によって膨らんだ慢心をしぼませる効果もある。頂点に立つものは自力で登り詰めたのではなく、家庭環境や生来の素質などに恵まれたおかげであり、それは道徳的に見れば、くじ運がよかったに等しいという普遍的真実がはっきり示されるからだ。

(p.267 -268)

 

 日本でいうところのAO入試の要素も強いアメリカの名門大学の受験システムは、ペーパーテストと人物評価の両方が課されるため、受験する高校生たちは生活のすべてを大学受験に合格するという目標に注ぎ込むことになる。寝る間を惜しんで勉強するのはもちろんのこと、面接や小論文で語る題材にするために、ボランティアやスポーツなどの課外活動をしたり海外経験を積んだりしなければいけない。一度きりの青春時代が、競争のために犠牲にさせられているのだ。

 大学受験という輪くぐりに成功したあとも、その成功体験は強迫観念となり得る。サンデルは自分の教え子たちが輪くぐり依存症になっていることを指摘している。彼らは、大学に合格してからも「もっと競争しなければならない」「努力を続けて、自分の能力を社会に対して示さなければならない」と思い込み、心身を削り続けているのだ。

 

能力の戦場で勝利を収める者は、勝ち誇ってはいるものの、傷だらけだ。それは私の教え子たちにも言える。まるでサーカスの輪くぐりのように、目の前の目標に必死で挑む習性は、なかなか変えられない。多くの学生がいまだに競争に駆り立てられていると感じる。そのせいで、自分が何者であるか、大切にする価値があるのは何かについて思索し、探求し、批判的に考察する時間として学生時代を利用する気になれない。

 (p.260)

 

 現代の学生は成績評価に過剰にこだわり、基準が曖昧な科目は敬遠する。また、文系の学生であっても、サンデルが教えているような哲学や政治思想の授業を敬遠して、より実利的なことを教えてくれる授業ばかりを選択するようになっている。いまの若者は自分の能力の糧となり、結果につながるようなことしか勉強したがらない。

 人文学とは「そもそも自分がこんなにがんばって追い求めるものはどんな価値があるんだろう?」とか「自分はいったいどのように生きるべきなのか?」といった自己批判と価値の探求につながるものであるが、「努力して、能力を発揮して、結果を出す」という行程を繰り返すことにしか興味のない若者たちにとっては、自己批判や価値の探求は役に立たないどころか足を引っ張るものでしかないのだ。

 社会の支柱となるべきエリートの卵たちがこんな体たらくなのだから、アメリカでは価値に関する議論が行われることがなくなって、禅に関する共通の認識も失われて、政治においてはテクノクラシーが蔓延するし市民たちも実利と数字でしか物事を判断しなくなって民主主義とか社会の連帯とかが失われて……云々、というのがサンデルの主張だ。

 

 人文学の価値を主張するサンデルの議論はあきらかにナイーブなものであるし、説教臭く、牽強付会な感じもある。とはいえ、実はわたしもそういうナイーブな人文学観を抱いているので、彼の議論に賛成だ*1

 また、受験という制度が若者たちの心情に与える影響についてのサンデルの議論にも、わたしはかなり同意している*2。受験競争に勝ち抜いた若者たちが「輪くぐり依存症」になってしまうこと、本来は曖昧で運の要素も大きいはずの受験制度が人間として能力や価値を図る絶対的にでブレのない指標として扱われてしまっていることは、アメリカだけでなく日本にも当てはまるはずだ。人物評価の要素が少なくペーパーテストの要素が強い日本の受験制度は、アメリカのそれに比べるとまだしも公平に見えるかもしれないが、表面上の公平さが強ければ強いほどそれに勝ち抜いたものの優越感や慢心と負けてしまったものの劣等感や屈辱は強まってしまうものである。

 日本における「受験」をめぐる言説にわたしはとことんうんざりしているので、ぜひとも、大学入試くじ引き論は日本でも盛り上がってもらいたい*3

*1:

s-scrap.comサンデルの議論はヌスバウムによる人文学擁護論とかなり近い。

*2:

davitrice.hatenadiary.jp村上春樹が日本の「超エリート」について述べている箇所は、サンデルによる「優秀な若者たち」についての議論と共通するところがあるだろう。

*3:

note.com

能力主義は魅力的である(読書メモ:『実力も運のうち』②)

 

 

 

 前回の記事で論じたように、サンデルによる能力主義批判の核心は、能力主義が人々の「心情」に与える影響についての議論にある。

 生まれ落ちた環境のちがいや才能の有無などの「運」の要素を無いものとする能力主義では、ある人の成功はその人自身の能力と努力と意志が成せるものだと認識されて、ある人の失敗はその人自身の無能さや怠惰さが原因であると認識されてしまう。結果として、能力主義社会の勝者たちは驕りを抱き、敗者のことを侮蔑するようになる。そして、能力主義のロジックを内面化した敗者たちは屈辱を感じるようになるのだ……というのが、サンデルの主張のポイントだ。

 

 とはいえ、『実力も運のうち』という本の面白いところは、批判対象である能力主義のロジックの魅力についても、ある程度までは説明されているところにある。

 日本における政治に関する議論に親しんでいる人であれば、能力主義とはすなわちネオリベラリズムであり、自民党や維新の会といった保守政党が福祉を削減する名目で提案するものである、と考えてしまう人もいるかもしれない。しかし、サンデルが『実力も運のうち』のなかでとくに槍玉に挙げているのはバラク・オバマヒラリー・クリントンを代表とする、民主党のリベラルな政治家たちだ。

 たしかに、オバマやヒラリーは能力主義を謳ってきた。

 

出世や「値すること」について語りながらも、アメリカの政治家の大半は能力主義については明言しない。オバマは例外だった。たとえば、ESPNの解説者によるインタビューで、彼は感慨深げにこう語った。スポーツが人びとを引きつけるのは「スポーツが真の能力主義の支配する数少ない場所の一つだからです。理学士号を持つ者は多くありません。最終的に、誰が勝つか、誰が負けるか、誰がいいプレーをするか、誰がミスをするかーーそのすべてが目の前で展開されるのです」。

二〇十六年の大統領選挙戦のあいだ、ヒラリー・クリントンは出世と「値すること」のレトリックをしばしば口にした。「私たちの選挙戦は基本的信念に関わる戦いです。つまり、ここアメリカでは、どんな見た目であろうと、誰であろうと、誰を愛していようと、努力と夢の許すかぎり前進できる機会を誰もが持つべきだという信念です」。彼女は、自分が当選したら「みなさんが享受するに値する機会を必ず手にできるようにします」と誓った。選挙中のある集会では、こう明言した。「この国に真の能力主義を根付かせたいのです。不平等にはもううんざりです。努力すれば成功できるとみなさんに感じてほしいのです」

(p.106)

 

 ヒラリーが「どんな見た目であろうと」や「誰であろうと」と論じていることは重要だ。リベラルな政治家であっても能力主義を称えるのは、機会の平等を保証する能力主義とは、人種や性別、性的指向などに基づいた差別に反対するものであるからだ。

 アメリカ人たちが昔から経済的な格差に寛容であり、所得の再分配に抵抗感を抱くことはよく知られている。そのため、オバマやヒラリーのようなリベラリストが提案してきた政策も、経済的不平等の是正をして「結果の平等」を追求するものではなく、「機会の平等」を実現する障壁となっている人種差別や性的な差別を撤廃しようとするものでありつづけてきた。

 また、この本の結論部分では、人種差別にもめげずに活躍した野球選手ハンク・アーロンのエピソードを紹介したうえで、サンデルは以下のように書いている。

 

このくだりを読めば、能力主義を愛さずにはいられないし、能力主義こそ不正義への最終回答ーー才能は偏見にも、人種差別にも、機会の不平等にも打ち勝つという証明ーーだと思わずにはいられない。そして、その考えからは、正義にかなう社会とは能力主義社会であり、自分の才能と努力の許すかぎり出世できる平等な機会が誰にでもある社会だという結論に至るまで、ほんの一歩である。

だが、それは間違っている。ヘンリー・アーロンの物語が示す道徳は、能力主義を愛するべきだというものではない。本塁打を打つことでしか乗り越えられない正義にもとる人種差別制度を憎むべきだというものだ。機会の平等は、不正義を正すために道徳的に必要な手段である。とはいえ、それはあくまでも救済のための原則であり、善き社会にふさわしい理想ではない。

(p.317 - 318)

 

「そもそも差別のある社会が悪いのであり、機会の平等は不正義を正すための手段に過ぎない。それを過度に理想化して、手段ではなく目的として扱うのは本末転倒だ」というサンデルの批判は、たしかに正論だ。

 また、とくにアメリカで能力主義や「機会の平等」が魅力的に映るのは、アメリカとは他の国に比べて差別の問題が表面化しやすい国であるからだろう*1。人種的マイノリティや性的マイノリティに対する抑圧が現に存在しているからこそ、マイノリティを抑圧から解き放って出世や活躍のチャンスを与える「機会の平等」のレトリックが魅力的に映るのである。逆に言うと、そもそも差別が無い状態であったなら、「天賦の才と決意の許すかぎり出世する」ことを称える能力主義のストーリーにわたしたちが誘惑されることもないのかもしれない。

 

 だけれど、正論はしょせん正論でしかない。

 わたしには、サンデルですら、能力主義のストーリーに含まれる魅力を過小評価しているように思える。

 漫画や映画などのエンターテイメントな物語においては、主人公が時代や環境に由来する様々な障害や逆境にもめげずに、本人の意志と才能と努力を発揮することで活躍して、目標を実現したり夢をつかんだり成功したりする、というストーリーが定番のものとなっている。このストーリー自体は「立身出世もの」などといったかたちで古今東西の物語に見受けられるが、アメリカの映画では主人公が受ける人種的・性的な差別が「障害や逆境」として設定されていることが多い。そして、そのような映画はアメリカ人のみならず世界中の人々を魅了している。

 観客が自分の人生で対峙している問題は映画のなかの主人公が直面しているものとは厳密には異なるかもしれないが、差別に屈せずに自身の能力を活かして道を切り拓く主人公の姿に、観客は感情移入することができる。そのような物語は、実際に多くの人々を鼓舞して、勇気付けているのだ。

 

 差別に抗う能力主義の魅力を描いた作品のなかでも、とくに印象に残るのがディズニーアニメの『ズートピア』だ。

 

ズートピア (字幕版)

ズートピア (字幕版)

  • 発売日: 2016/07/11
  • メディア: Prime Video
 

 

 

  動物が二足歩行をして人語を話す世界を舞台にしたこの映画では、現実における諸々の差別を「体の小さな草食動物(ウサギ)に対する差別」や「いつ凶暴になるかわからない肉食動物に対する差別」という架空の設定に置き換えたうえで、差別にもめげない意志を持って努力して自分の能力を発揮することで周囲からも認められて活躍していく主人公たちの姿が描かれている。『ズートピア』は架空の世界を題材にすることで、現実世界の具体的な問題を取り上げた作品よりもさらに普遍的な内容を描くことに成功したのであり、アメリカに限らず世界中の子どもたちや大人たちを共感させて勇気付けたのだ。

 ……とはいえ、わたしは『ズートピア』が劇場で公開された5年前からこの作品を面白いと思いつつもノリきれない気持ちを抱いている。昨年に再視聴したときには、以下のような感想を書いた。

 

もうひとつ、この作品のところどころに垣間見える「ネオリベ」っぽさも気になるところだ。主人公のジュディの特徴が「あきらめない」ことや努力家であるところも、裏を返せば、普通なら他の動物から軽んじられるウサギである彼女が周りから認められたのは彼女の「能力」ありきだ、ということになる。警察署長が就任初日のジュディに交通整理を命じることが悪行のように描かれているが、それも、警察学校を首席で卒業した彼女の「能力」が正当に認められるべきだ、ということが前提となっている。『ビリーブ 未来への大逆転』を観たときにも思ったが、性差別の克服のために能力主義が取り入れられる、というのはなかなか世知辛い話である。

この作品における「多様性」讃歌にも、やはり資本主義と能力主義ありきな雰囲気が感じられる。あるいは、ニューヨークや東京などの現実の都会における「多様性」も所詮は資本と労働力を前提にしたものに過ぎないかもしれない。そういう点ではファンタジックなヴィジュアルからは想像できないほどのリアルさを描けている作品であるかもしれないが、この作品で描かれている価値観を手放しで称賛するわけにはいかないこともたしかである。

 

『ズートピア』 - THE★映画日記

 

 ついでに書いておくと、主人公のジュディが映画の冒頭で「交通整理」の仕事を担当させられる場面が否定的に描かれている点には、アメリカ的な能力主義の悪いところが象徴されている。

 サンデルが批判する「能力主義」とは厳密には メリトクラシー(meritocracy) であり、meritとは功績のことだ。つまり、「ある人の価値は、社会に対してその人が成した功績によってはかられる」という考え方である。そして、メリトクラシーのもとでは、「職業には貴賤がある」という発想は堂々と正当化される。たとえば同じ警察官であっても交通整理と犯罪捜査とでは社会に対する貢献度が違うのであり、だれにでもできる前者に比べて、限られた人にしかできない後者の方が価値のある仕事だ。犯罪捜査をおこなうだけの実力のある警官が交通整理しかさせてもらえないとすれば、その警察官の価値は不当に低くさせられているので、警察官本人は自分の価値を社会に示すために抗議して、交通整理から犯罪捜査へと配属を移してもらうべきである。……ここでは、「交通整理も犯罪捜査も社会を維持するために必要な仕事であるという点では変わりがないのであり、どちらかがどちらよりも大事だということはなく、等しく価値のある仕事である」という発想はないのだ。

 わたしが思うに、子ども向けのアニメ映画のなかですら「職業の貴賎」を描写することは、きわめてアメリカ的な発想にもとづいたものである*2。『実力の運のうち』のなかでも論じられているように、アメリカの知的エリートは、人種的マイノリティや性的マイノリティの権利には敏感で配慮を欠かさないが、(白人)労働者のことはためらいもなく馬鹿にする。わたし自身、個人的な来歴から知的エリートなアメリカ人の言動を身近に見聞する機会があったからこそ、彼らの「職業に貴賎あり」なスタンスには見覚えがある。

 さらに、アメリカ映画においては「田舎」も労働者階級と結び付けられて、バカにされて、否定されることが多い。「本来は能力を秘めている主人公が、機会に乏しく無知で偏狭な人に囲まれた田舎に生まれ育ったために頭角を現せてこれなかったが、都会の大学に合格して引っ越しをすることで夢へと一歩を踏み出す」といったストーリーは、アメリカ映画では定番のものとなっているのだ。たとえば、恋愛映画である『
ハーフ・オブ・イット:面白いのはこれから』でも、同性愛者でありアジア系である主人公が田舎から都会へと「脱出」することがオチになっていた。

 

ただし、エンディングは「秀才だけど諸々の事情で田舎でくすぶっていた主人公が、学識や才能を認められて理解者に後押しされて、晴れて都会の大学に進学する」というアメリカの青春映画のテンプレート通りである。メリトクラシーを讃えるアメリカ的な価値観からすれば、ハイスクールの物語がハッピーエンドで終わるには「能力を認められて良い大学に進学する」ことが絶対的であるのだろう。しかし、いつもいつもこういう終わり方になるのにはやっぱり辟易する。移民や同性愛を描きながら「多様性」を賞賛する風味なこの作品ですらも、より根源的なイデオロギーからは抜け出せられていないのだ。

『ハーフ・オブ・イット 面白いのはこれから』 - THE★映画日記

 

 そして、近年では、「差別に抗う能力主義」という発想や都市部の知的エリートの文化をこれでもかとばかりに肯定した映画として『ブックスマート:卒業前夜のパーテイーデビュー』が存在する。

 

theeigadiary.hatenablog.com

 

 サンデルは、能力主義が勝者たちに驕りをもたらしてしまうことは避けられず、知的エリートたちが労働者や田舎をバカにすることも能力主義に必ず含まれる副作用である、と思っているようだ。

 しかし、実際には、わたしやサンデルが問題視していることは能力主義に由来しているのではなく、アメリカという国に特有な要素から生じていることかもしれない。たとえば国内産のビールをバカにして外国産のビールやワインを飲むことがマナーである、といったアメリカのエリート文化は他の国にはないちょっと独特なものであり、その背景には能力主義のほかにももっと具体的で個別的な歴史的・文化的な事情が関わっているだろう*3

 逆に言うと、アメリカ以外の国では、エリートたちはアメリカほどには労働者や田舎をバカにしているわけではない。はてなの匿名ダイアリーでは自称知的階級の人による労働者に対する侮蔑や田舎に対する怨嗟が毎週のように書き込まれているかもしれないが、それだって「チラシの裏じゃないと言えないことだ」という認識があるからこそ、匿名ダイアリーに書かれているわけである。たとえば日本の映画や漫画では「田舎」は肯定すべき暖かな場所として描かれていることが多いし、労働者階級の登場人物はエリート以上に主人公の理解者であることが多い*4TwitterなどのSNSでは田舎に対して否定的な意見が多いが、それはあくまで少数派の意見であって、その意見が新聞やテレビといった主要メディアに反映されているわけではないのだ。

 

 閑話休題

 さて、『ズートピア』にせよ『ハーフ・オブ・イット』にせよ、単純労働や田舎を否定的に描くというアメリカ映画特有の欠点があるわけだが、それでも、これらの映画は面白い

 わたしがこれらの映画について否定的なコメントができるのは、自分自身が異性愛者の男性であり、「自分の属性が原因で、能力を発揮して活躍をする機会が妨げられた」という経験が自分にはあまりないからだ*5。たとえば、日本においてキャリアを志向していたり学問の世界で活躍したいと思っていたりする女性のなかには、諸々の障壁に活躍を妨害された経験があって、不公平感や歯がゆさなどを強く感じながら生きている人も多いことだろう。そのような人たちが『ズートピア』の物語から勇気や元気を得たり、オバマやヒラリーが主張するような「機会の平等」を強調したレトリックに惹き付けられたりすることは、わたしにも想像できるし、共感もできる。

 

 ジョナサン・ハイトとグレッグ・ルキアノフの著書『アメリカン・マインドの甘やかし』では、「結果の平等」と「機会の平等」についてわたしたちが抱く直感の違いについて論じられていた*6倫理学や政治哲学の世界においては「結果の平等」についても「機会の平等」についても同じくらいに筋が通っていて妥当な理論を展開することができるかもしれないが、その理論に対してわたしたちが抱く感覚はだいぶ異なる。わたしたちには「分配的正義の直感」が備わっているからだ。

 

分配的正義の直感とは、「人々はそれぞれが払った労力や努力に応じた報酬を手に入れるべきだ」というものだ。頑張って成果を出している人は報いられるべきであり、努力せず成果も出していない人たちは他の人たちと同じだけの報酬を手に入れるべきではない、という直感は、子どもでも身に付けている。

この直感は自分自身にも向けられるのであり、たとえば給料が過剰に多く支払われてしまったら「その給料に見合うだけの努力をしなきゃ」と頑張ってしまうのが、人間というものなのだ。また、労力を払っているのに充分な報酬が得られていない人がいれば、その人が正当な報酬を得ることを、自分が余分な報酬を得ることよりも優先する。そして、この直感が「不当に得している」と見なされる人に対して向けられたときには、その相手に対して強い反発が抱かれてしまうことになる。

アファーマティブ・アクションとクオータ制が支持されない理由 - 道徳的動物日記

 

 わたしたちが「分配的正義の直感」を自然に身に付けているとしても、その直感が正しいものであったり倫理的に肯定されるものであるとただちに結論付けようとすると、自然主義的誤謬になってしまうだろう。しかし、能力主義のレトリックやそれを反映した映画のストーリーが魅力的である理由は、それがわたしたちの直感にかなうものであるからかもしれない。とすれば、理屈のうえでいくら否定したところで、能力主義を社会から排除することは難しいであろう。

 たとえばネオリラベリズムだとか社会ダーウィニズムだとかの政治的イデオロギー能力主義をもたらしているとすれば、論争によってそのイデオロギーの力を弱めさせることで能力主義を社会から取り除くこともできるかもしれない。だが、能力主義イデオロギーよりも根深い感情のレベルに由来するものであるとすれば、表面上の議論をなんとかしたところで根本の問題に対処することはできないのだ。

 

 この記事の冒頭でも書いたように、サンデルが能力主義が驕り・侮蔑・屈辱などのネガティブな心情を人々にもたらすことを批判している。

 しかし、前回の記事でも言及したように、たとえば勝者たちの感じる「誇り」などのポジティブな感情については、サンデルは意図的に無視しているように思える。また、彼は市民たちに「共通善」を教育することで勝者たちに「謙虚さ」を身に付けさせることができると論じていたが、その議論は現実味のない綺麗事であるというきらいが強いものであった。

 

 意志を持って努力をして、自分の能力を発揮することは、その人の人生に活力を与えることでもある。結局のところ、勝者は敗者よりも幸福だ。その幸福は、競争の結果として得られる資産や社会的地位だけからではなく、競争に勝ち抜くこと自体や、勝ち抜くために能力を発揮したり努力をしたりすること自体から訪れるものであろう。

 サンデルは、現代の能力主義は勝者たちに「自分の成功は、運の良さや他の人々の助力のおかげではなく、自分自身の意志や才能や努力によるものである」と思わせることを批判していた。この批判自体はとくにオリジナリティのあるものではなく、現代の「ネオリベ批判」や「自己責任論批判」などにおいては定番のものでもある*7

 たしかに、この批判は間違ってはいない。……しかし、正確に言えば、ある人が成功する背景には、運や他の人々の助力といった外部的な要因と意志や才能や努力といった内部的な要因の両方が関わっているものであるだろう*8。どちらの要因をどれだけ強調するかは程度問題といったところもある。そして、「自分の成功は自分の力によるものである」と信じやすい人は、そうでない人よりも成功しやすくて、自己肯定感を抱いて幸福に生きられやすいという点も、見逃すべきではないのだ。

 

『実力も運のうち』は政治哲学の本ではあるが、第5章でロールズハイエクが批判的に取り上げられる点をのぞけば思想家や哲学者の主張が紹介されることはあまりない。アリストテレスについても、「共通善」を主張するくだりで肯定的に言及されるくらいだ。しかし、サンデルは公正や正義などの「正」の問題に関する主張だけでなく価値観や心情などの「善」に関する主張についても積極的に展開しているのだから、彼はアリストテレスのような哲学者たちが徳や幸福について論じた主張も紹介するべきなのだ。

 たとえば、このブログでも以前に紹介したリチャード・テイラーの『卓越の倫理』では、古代ギリシャの哲学者たちの幸福論とはエリート主義的なものであったことが示されている。

 

 …古代の哲学者のほとんど誰も疑問に思わなかった「ある種の人々は他の人々より本当に優れており、したがってより大きな値打ちがある」という信念がなかったとしたら、アリストテレスの重要な特徴が失われてしまうであろう。まことに、これこそ「気概」という観念自体に内在しているものなのである。アリストテレス以上に気概の倫理を見事に表現している道徳哲学などないのだ。

古代の道徳学者たちが考えていたように、道徳哲学の目的が「人間の自然本性」についての理想を描き、その実現への道筋をつけることであるとするなら、「賢者も愚者もみな等しく理想に到達できる」と想定するのはほとんど不可能である。事実はその反対であって、「少数の人を除けば、どのような人でもいずれは理想に到達できる」などということはなさそうだ。だから、理想を実現した人は理想を実現できなかった大多数の人々よりも文字通り「より善い」のである。このような前提なしに古代の道徳哲学者たちを理解しようとするのは、義務の観念を削除してカントの道徳哲学を理解しようとするようなものである。

 

このようなエリート主義、すなわちアリストテレスが価値ある人々とそうでない人の間にはっきりとした不公平な区別を設けたことは、決して気まぐれではないし特異な嗜好でもない。これと同じようなことは、「奴隷と友人になれるか」ーーアリストテレスによると奴隷とは「生きた道具」にすぎないーーという難しい問題をやや苦心しながら論じた箇所で繰り返されているし、アリストテレスが真の友人関係は比較的少数の「善き」人々、つまり「個人の卓越」の厳格な水準に達した人々の間でしか成り立たないとしている箇所にも見られる。まさしくエリート主義はアリストテレスの倫理概念全体に固有なものなのである。

(p.110 - 111)

『卓越の倫理:よみがえる徳の理想』

 

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 また、ジュリア・アナスの『徳は知なり』では、テイラーに比べれば現代人にも受け入れやすいマイルドで穏当なかたちでアリストテレスの徳倫理学が解釈されているが、それでも、「ある人が幸福に生きるためには、当人の意志や才能や努力が欠かせない」ということが論じられていた。

 

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 現代の能力主義に代わるものとしてサンデルが提案する「共通善」とは、『実力も運のうち』ではその中身が曖昧にごまかされているが、あきらかにキリスト教的なものである。たしかに、キリスト教道徳は弱者に優しいものであるかもしれない。しかし、だからこそ、ニーチェによって「ルサンチマン道徳」と批判されたわけでもある。テイラーは徳の倫理とルサンチマン倫理を対比させて論じたが、能力主義を批判して共通善を主張するサンデルの議論では、その構図が奇しくも再現されているのだ。

『実力も運のうち』の発売前から、SNSの一部では、「サンデルは日本のインターネット論客と同じことを言っている」という話題が盛り上がっていた。それは与太話や悪ノリと断じて切り捨てられるものでもなく、たしかに一面の真実を突いている。実際のところ、日本のインターネットで展開される幸福論や倫理論とはルサンチマン的なものであり、うだつがあがらなくて後ろ向きに生きている凡人たちの気持ちに寄り添う主張を展開しているからこそネット論客たちは人気を博していると言えるだろう*9*10。サンデルの議論も、ネット論客たちが行なっているものに比べるとずっと丁寧で生産的なものではあるとはいえ、弱者のルサンチマンに寄り添ったものであることには変わりない。

 だからこそ、わたしはサンデルの議論に対して「こんなことばっかり言っていても、ほんとうにみんなを幸福することにつながるのか?」という疑問を抱かずにはいられない。彼が能力主義がもたらすネガティブな心情ばかりをことさらに取り上げて、誇りや幸福といったポジティブな心情を意図的に無視していることには、読者の気持ちを慰撫するほかには意味がないように思えるのだ。

 

 たしかに、所得の格差や経済的な不平等が人々の心身に悪影響を与えて不平等をもたらすことは様々に指摘されており、それを改善することは必要だろう。だから、たとえばロールズ福祉国家リベラリズム(平等主義リベラリズム)の主張にはわたしも賛成する。しかし、サンデルが展開する主張の対象は再分配や平等などの制度的なものを超えており、市場における競争の存在や、強者が活躍して幸福になること自体を否定したがっているように見えるのである。

 ……だが、意志や努力や才能の力を信じて「自分の人生は自分で切り拓くものだ」という考え方をして自己肯定感を得ることは、強者にとってだけでなく弱者にとっても、幸福になるためには欠かせないことであるだろう。彼らが現に劣等感や敗北感を抱いているからといって、それに寄り添うことがただしいとは限らないのだ*11

 

*1:単純に「アメリカは差別の問題が他の国よりも多くて深刻である」と言ってしまうこともできるが、あえてこういう書き方にした。

*2:たとえば日本のアニメ映画だったら、前半で交通整理の仕事をさせられたことで得た技術や発想が意外なかたちで役に立って後半で事件を解決するきっかけとなる……といった展開にすることだろう

*3:

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*4:さいきん流行っている『呪術廻戦』では田舎がけっこうdisられているんだけれど、それは例外として置いておこう。

*5:人種の問題について話し出すとちょっと面倒なのでノーコメント。

*6:

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*7:

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*8:「意志力」や「努力する才能」の有無も生得的に分配されているから究極的にはすべて運の良し悪しの問題だ、と主張する人もいるが、その主張はあまりに不毛に過ぎる。

*9:インターネットには「幸福という概念の引き下げ」という傾向があることは、以前の記事で論じている。

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*10:ただし、ネット論客の議論とは「マジョリティのなかの弱者」のためのものである、という点には留意するべきだ。

*11:サンデルは「現在の社会で弱者が屈辱の気持ちを抱いているのは能力主義イデオロギーを内面化しているからであり、能力主義がなくなりさえすれば彼らも屈辱を抱かずに自分を肯定することができるようになる」と考えているようだ。しかし、彼の主張が心理学的に正しいものであるかどうかは疑わしい。たとえば、イデオロギーと関係なく、「人間はついつい自分と他人を比較してしまうものであり、自分よりも所得や社会的地位が高い人の存在を見聞するとストレスを感じてしまうものである」という事実はよく指摘されている。このことは、所得や資産の(過大な)不平等を是正することを肯定する論拠とはなる。しかし、能力主義そのものを否定する論拠になるかどうかは、また別の話なのである。

「共通善」で問題が解決できるなら苦労はしないよ(読書メモ:『実力も運のうち』①)

 

 

 

能力主義」に対する批判には、二つのパターンが考えられる。「不徹底な能力主義」に対する批判と、「能力主義」そのものに対する批判だ。

 

 学問的なものにせよインターネットなどにおける世俗的なものにせよ、能力主義に関する昨今の議論でなされている批判の大半は、「不徹底な能力主義」に対する批判である。

 この批判は、「能力主義は出自や属性に縛られずに自分の意志と努力と才能で自分の人生を決定するチャンスを人々に与えるのであり、機会の平等を保証して、社会の流動性を高めるものだ」という主張に対して、「実際には能力主義の社会でも人々は出自や属性に縛られており、生まれ落ちた環境や場所によって人々の人生はあらかた決定されている」、という事実を突きつけるものだ。

 たとえば、アメリカでは大学受験は階層移動のチャンスを人々にもたらして社会の流動性を担保するための制度と見なされているが、実際には、入学のために求められる試験や人物評価はどんどん複雑化して高コストなものとなっているために、富裕層にとって有利なものとなっている。それどころか、該当の大学のOBである親が多額の献金をすればその子どもが入学をしやすくなるという制度は「レガシー制」として合法的に認められているし、富裕層たちは法律のグレーゾーンを突く「裏口」入学や違法な「通用口」入学も大金を払って利用しているのである。

 こうした事情から、アメリカでは他の国よりもむしろ社会的流動性が低くなっており、人生の選択肢は生まれた家の経済的事情に左右されるようになっている。能力主義は、「だれであっても勉強さえすれば良い大学に入って良い仕事に就く機会を得られる。勉強を怠った人は良い大学に入れずその後の人生のチャンスが狭まるかもしれないが、それは自己責任だ」という主張にお墨付きを与えながらも、実際には不平等なシステムである大学入試を正当化してしまうことで、不当な格差を肯定しているのだ。

 

 不徹底な能力主義に対する批判は、さらに二つのパターンに分かれる。ひとつめは、「徹底した能力主義を実現せよ」という批判だ。この場合、試験の内容を変えたりレガシー制を廃止したり裏口入学を禁止したりするなどの処置をとることは要求するが、大学受験のシステムや「入った大学によって将来の人生の機会が大幅に変動する」という状態を保つことはヨシとされる。能力主義が理想通りに実現すれば機会の平等が保証されるという主張は肯定したうえで、理想にそぐわない現状の方を改善すべきだ、と主張するわけである。

 ふたつめの批判は、能力主義が徹底したものになることなどありえず、不平等な入試制度のような問題は必ずどこかで発生するのだから、能力主義は絵に描いた餅であり実現不可能なものである、という批判である。理想的な条件下では能力主義が機能して「努力ができて才能のある人が報われる」という機会の平等が保証されるとしても、現実では制度を悪用する人があらわれたり既得権益が介入したりしてくる事態は必ず起きるのであり、理論通りに機会の平等が保証されるわけではない。むしろ、能力主義は不純物の存在を見過ごして計算を行ってしまうために、必ず間違った結果を生み出してまう。いわば、「摩擦のない平面の誤謬」を犯しているのだ、と批判者たちは主張するのだ*1

 議論の場でなされている「不徹底な能力主義」に対する批判の多くは、ふたつめのものであるようだ。批判者たちは「能力主義が理想とするような平等な競争なんて、実現されるはずがない」と冷静に認識したうえで、能力主義者たちの欺瞞を糾弾しているのである。……とはいえ、厳密にいえば、「不徹底な能力主義」に対する批判は能力主義そのものに対する批判ではない。「理想通りに実現することが不可能だから能力主義は問題である」という批判は、「もし理想通りに実現することができるなら、能力主義は正当である」という主張に対する反論にはなっていないのだ。

 

 サンデルの『実力も運のうち』のポイントは、不徹底な能力主義に対する批判だけでは済まさずに、能力主義そのものに対する批判にまで踏み込んでいることにある。

 たしかに、この本の「序論」では裏口入学がまかり通るアメリカの入試制度が批判されており、前半を読む限りでは「不徹底な能力主義」を批判する本であるかのように思える。各種の新聞記事やWeb媒体に掲載されるサンデルへのインタビューも、「不徹底な能力主義」批判に焦点をあてた内容となっていることが多い。……しかし、裏口入学は不当で非道徳的であることなんて誰にとっても明白だろうし、アメリカン・ドリームの理想とは裏腹にアメリカは格差が固定化されて機会の平等が保証されていない国になっていることも、ちょっとでもアメリカの社会や文化に興味がある人ならみんな知っている。そんなことをいまさらドヤ顔で指摘したところで、なんの新鮮味もありはしない。サンデルの議論の要点も、そこにはないのだ。

 

 この本の前半では、(不徹底な)能力主義が現実の社会に引き起こしている様々な問題について詳細に議論されている。そして、後半にさしかかる第5章の「成功の倫理学」では、現実の問題から離れて、倫理学や政治哲学における規範的主張としての能力主義が槍玉に挙げられることになる。つまり、サンデルは摩擦のない平面においてのみ実現する「完全な能力主義」を想定したうえで、そのような能力主義ですらも否定されるべきである、と論じるのである。

 すこし長くなるが、彼の批判を引用しよう。

 

だが、その強い魅力にもかかわらず、能力主義が完全に実現しさえすれば、その社会は正義にかなうという主張はいささか疑わしい。まず第一に、能力主義の理想にとって重要なのは流動性であり、平等ではないことに注意すべきである。金持ちと貧乏人のあいだの大きな格差が悪いとは言っていないのだ。金持ちの子供と貧乏人の子供は、時を経るにつれ、各人の能力に基づいて立場を入れ替えることが可能でなければーーつまり、努力と才能の帰結として出世したり没落したりしなければーーおかしいと主張しているにすぎない。誰であれ、偏見や特権のせいで、底辺に留め置かれたり頂点に祭り上げられたりすべきではないのである。

能力主義社会にとって重要なのは、成功のはしごを上る平等な機会を誰もが手にしていることだ。はしごの踏み板の間隔がどれくらいであるべきかについては、何も言わない。能力主義の理想は不平等の解決ではない。不平等の正当化なのだ。

このこと自体は、能力主義に反対する議論ではない。だが、それはある疑問を提起する。能力主義的な競争の結果として生じる不平等は、正当化されるだろうか?能力主義の擁護者は「イエス」と答える。全員が平等な条件で競い合うかぎり、その結果は正義にかなっているというのだ。

(……中略……)

この議論に説得力があるかどうかは、才能の道徳的地位にかかっている。最近の公的言説において非常に目につく出世のレトリックを思い起こしてみよう。政治家たちはこんなふうに公言する。出自がどんなに卑しくても、われわれは誰もが、才能と努力の許すかぎり出世できなければならない、と。だが、そもそも才能と努力の許す限りであるのはなぜだろうか?自分の才能が自分の運命を決めるのであり、人は自分の才能がもたらす褒賞に値するのだと仮定するのはなぜだろうか?

この仮定を疑うのには二つの理由がある。第一に、私があれこれの才能を持っているのは、私の手柄ではなく、幸運かどうかの問題であり、私は運から生じる恩恵(あるいは重荷)を受けるに値するわけではない。

(……中略……)

第二に、自分がたまたま持っている才能を高く評価してくれる社会に暮らしていることも、自分の手柄だとは言えない。これもまた運がいいかどうかの問題なのだ。

(……中略……)

能力主義の擁護者が応戦のために持ち出すのは、努力と勤勉だ。彼らはこう主張する、勤勉なおかげで出世する人びとは、自らの努力が生む成功に貢献しているのだから、彼らの勤勉さは称賛に値すると。この主張はある程度まで正しい。努力は大切だ。どんなに才能があろうと、それを開花させる努力なくして成功はおぼつかない。すばらしい才能に恵まれた音楽家であっても、カーネギー・ホールで演奏するほどの腕前になるには長い時間をかけて練習しなければならない。ずば抜けた素質を持つアスリートであっても、オリンピック代表になるには何年にもわたる厳しい練習に耐える必要がある。

だが、努力が大切であるとはいえ、勤勉なだけで成功が手に入ることはめったにない。オリンピックのメダリストやNBAのスター選手が二流の選手と異なるのは、厳しいトレーニング法だけではない。多くのバスケットボール選手がレブロンに劣らず厳しい練習を積んでいるにもかかわらず、コート上で彼に匹敵する偉業をなしとげられる者はほとんどいない。私が昼夜を問わず練習に励んだところで、マイケル・フェルプスより速く泳ぐことは決してできないだろう。金メダル保持者で世界最速のスプリンターと考えられているウサイン・ボルトは、同じく才能あるスプリンターでトレーニング・パートナーのヨハン・ブレークが自分より熱心に練習していることを知っている。努力がすべてではないのである。

(……中略……)

能力主義の理想に欠陥があるのは、才能の道徳的恣意性を無視し、努力の道徳的意義を誇張しているためだとすれば、ほかにはどんな正義概念がありうるかーーまた、そうした正義概念が代わって提示する自由や報いの概念はどんなものになるかを問う必要がある。

(p.180 - 185)

 

 既得権益などの社会的な障壁を取り除いて、徹底した能力主義を実現できたとしても、どんな「才能」を持って生まれて落ちるかは本人の意志にはよらない運の問題だ。いくら努力をしたところで、結果は才能の有無によっても左右される。本人の意志によらない出自や属性を理由とする不平等が道徳的に不当であるなら、同じく、才能を理由とする不平等も道徳的に不当であるはずだ。……これが、サンデルによる能力主義批判の、ひとつめの論点である。

 この批判は、「正義」や「公正」といった規範的な概念に関わるものだ。

 ただし、サンデル自身も留意しているように、才能が本人の意志によらず不平等に分配されているという事実に基づいた能力主義批判は、倫理学や政治哲学の世界ではとくに目新しいものではない。

 実のところ、サンデルにとっての主要な論敵であるジョン・ロールズこそが、才能の不平等の問題に取り組んだ政治哲学者のなかでももっとも有名で代表格であるひとだ。また、サンデルはフリードヒ・ハイエクについても紹介している。ハイエクが『自由の条件』で展開した自由市場リベラリズムでも、ロールズが『正義論』で展開した福祉国家リベラリズム(平等主義リベラリズム)でも、才能に基づいた所得や資産の不平等を正当化しようとする能力主義に対する反論がなされているである。

 ロールズどころかハイエクですら、「市場において、人々はどんな才能を持っていてそれを市場でどのように活かすことができているか」という能力の問題と、「道徳的には、人々はどれだけの資産や所得を得られることに値するべきか」という価値の問題とを区別している(ハイエクは再分配に否定的であり、ロールズは再分配の重要性を強固に主張しているという点では真逆であるのだが)。

 

 しかし、サンデルは、ハイエクロールズの議論ですら能力主義に対する有効な反論になっていないと批判するのだ。ここで、サンデルによる能力主義批判のふたつめの論点が顔を出してくる。ひとつめの批判は規範的な概念に関わるものであったのに対して、ふたつめの批判は、能力主義が現実の人々に発生させる「心情」に関わるものである。そして、こちらの批判の方がずっとオリジナリティがあって、『実力も運のうち』で展開される議論の核心となっているのだ。

 

 サンデルによると、能力主義は勝者と敗者のそれぞれに次のような心情を生み出す点で、有害である。

 能力主義を前提とする社会では、ある人がどれだけの収入を得られていたりどのような社会的地位についているかは、その人の才能と努力をただしく反映したものであるとされる。勝者はその能力と努力のゆえに勝者としての地位に値して、敗者は能力と努力の欠如ゆえに敗者としての地位に値する、と見なされるのだ。つまり、能力主義社会においては、ある人の社会的地位や所得はその人自身の価値を示している、と判断される。

 そのために、能力主義社会の勝者たちは驕りを感じる。「自分がいまこんなに収入を得ていてこんな地位についているのは、生まれつきのアドバンテージや運の問題などではなく、自分自身の力を発揮して戦って勝ち抜いた結果であるのだ」と思うことが許されてしまうからだ。

 また、能力主義社会の勝者たちは、敗者を侮蔑するようになる。能力主義のロジックでは、「運」は原則的に不在とされる。ある人の賃金や社会的地位が低く、ほかの人たちに比べて不幸で惨めな生活を過ごしているとしても、それはその人の能力のなさや努力不足、意志の欠如や怠惰さがもたらしたものであると見なされる。したがって、これまでの人生でがんばったり自分なりに能力を活かそうとしてきたけれど、巡り合わせやタイミングが悪かったりがんばる方向を間違えたりした結果として敗者になる、という可能性は想定されないのだ。

 そして、能力主義社会の敗者たちは屈辱を抱くようになる。たとえば宗教的規範が強くて、「神の恩寵は人の努力とは関係なくわたしたちには与り知らない理由で与えられる」といった考え方が通底している社会では、弱者は苦しくはあっても惨めさや屈辱を感じることはないかもしれない。どんな社会であっても賃金や社会的地位の低さは本人の生活を制限して様々なストレスを与えることにはなるだろうが、「わたしはたまたま神の恩寵に恵まれなかった」「自分は運が悪かだっただけだ」と思えることができれば、自分が弱者であることは自己否定につながらない。しかし、能力主義のロジックでは、自分の賃金や社会的地位が低いことは運や巡り合わせの悪さによるものではなく、自分の無能さや怠惰さをただしく反映したものであるとされる。したがって、能力主義社会の敗者たちは自分に言い訳をすることができない。彼らは、勝者たちからの侮辱に耐えつつ、「おれに能力がないのが悪いんだ、おれが頑張らなかったのがいけないんだ」と思いながら生きていかなければならないのだ。

『実力も運のうち』では、アメリカ社会における労働者の「絶望死」の問題などが取り上げられながら、敗者たちが抱く屈辱の感情は彼らの健康や生死にまで影響を与えていることが指摘されている。また、強者が驕りや侮蔑の感情を抱くことで、彼らとそうでない人たちとの対立はますます深まる。もし仮に能力社会は公正や正義などの観点では問題ないものだとしても、人々の間に分断を招いて社会の連帯を破壊するために、とうてい受け入れることはできない。……これこそが、サンデルの主張の要点である。

 

 この本のなかでもとくに批判の対象となっているのは、ドナルド・トランプの前の大統領であるバラク・オバマであり、また大統領選でトランプと対峙したヒラリー・クリントンである。たしかに、彼や彼女の発言のなかには、サンデルが指摘するような「驕り」が滲み出ていることがある。たとえば、ヒラリーは大統領選でトランプ支持者たちを「みじめな人たち」と呼ばわったことで反感を買った*2。また、オバマペンシルバニアの人々を「銃や宗教にすがる、田舎町の人たち」と表現したことで批判された*3

 アメリカの知的エリートは人種的マイノリティや性的マイノリティには同情的で寛容であり、彼らの権利を尊重したり彼女らを傷付けないように配慮した言葉を用いたりするが、労働者階級の白人のことはためらいもなくバカにする。フィクションのなかでも、労働者階級の父親は道化としての役割が与えられていることが大半であるし(サンデルは『ザ・シンプソンズ』のホーマー・シンプソンを例に挙げている)、中西部の田舎町などが映画に登場する際には「まともな人間がいてはいけない場所」や「脱出すべき場所」として描かれていることが多い*4

 サンデルは、2016年にトランプが大統領選で勝利したことを、都会的で成功した知的エリートに対する田舎の労働者たちの反逆であるという風に論じている。能力主義社会の勝者たちはあまりにも明け透けに「驕り」を表明していたために、敗者たちの「屈辱」の気持ちを逆撫でして、彼らの怒りに火を付けたのだ。

 ……とはいえ、実のところ、トランプが勝利した理由を「驕れるエリートに対する労働者の反逆」というストーリーで解釈すること自体は、とくにオリジナリティのある発想ではない。この本のなかでも引用されているアーリー・ラッセル・ホックシールドの『壁の向こうの住人たち:アメリカの右派を覆う怒りと嘆き』や、J・D・ヴァンスによる『ヒルビリー・エレジーアメリカの繁栄から取り残された白人たち』のの原著が出版されたのが2016年であるように、トランプが大統領選に勝利する前から、アメリカ社会の「分断」や「アイデンティティ・ポリティクス」は意識されてきた*5むしろ、最近ではそのような分析が実際に妥当なものであったかどうかが疑われるようになっているくらいだ。『実力も運のうち』の原著が出版されたのは2020年であるが、学問的なトレンドからみれば、「心情」に関するサンデルの議論それ自体には、やや時代遅れな感がある。

 彼の議論にオリジナリティがあるとすれば、心情に関する議論を政治哲学の規範的な議論と結び付けて論じている点にあるだろう。

 

 サンデルによると、能力主義を批判しているはずのハイエクロールズですら、勝者の「驕り」や敗者の「屈辱」を発生させないような理論を構築することには失敗している。両者とも、「経済的報酬は人びとが値するものを反映すべきだという考え方」を拒絶しており、ある人が社会に対する功績(=merit≒能力)を通じて得た所得や資産とその人自身の価値を結び付けて考える「世間一般の素朴な見解」を否定している(p.197)。しかし、彼らの議論は人間の心情について充分に考慮したものではない、とサンデルは批判するのだ。

 

功績と価値の違いを心に留めておけば、所得の不平等もそれほど不愉快なものではなくなるとハイエクは言う。こうした不平等が人びとの功績とは無関係であることを誰もが知っていれば、知らない場合とくらべ、金持ちはもっと謙虚であり、貧乏人はもっと心穏やかであるはずだ。だが、ハイエクが言うように、経済的価値が不平等の正当な根拠だとすれば、成功をねたむ姿勢が弱まるかどうかはそれほど明らかではない。

こう考えてみよう。成功者が、自分の成功は美徳や功績ではなく貢献の価値を測るものだと考えている場合、彼らが自らに語る物語は実のところどう違うだろうか?また、恵まれない人びとが、自分の悪戦苦闘は自らの人格をおとしめるものではなく、自分が提供するものの乏しい価値を反映しているにすぎないと考えている場合、彼らが自ら語る物語はどう違うだろうか?

道徳的にも心理的にも、功績と価値の区別は無視できるほど小さくなっている。これは、お金がほぼあらゆるものの尺度となる市場社会にとりわけ当てはまる。こうした社会では、裕福な人びとに、彼らの資産は社会への貢献の優れた価値(だけ)を反映しているにすぎないと気づかせても、おごりや自己満足の解毒剤にはなりそうにない。いっぽう、貧しい人びとに、彼らの貧しさは彼らの貢献の低い価値(だけ)を反映していると悟らせたところで、自尊心を回復させる強壮剤となることはほとんどない。

(p.200)

 

依然として、次のような問いが残っている。人びとは市場がもたらす経済的報酬に道徳的に値するという考え方を拒否するにもかかわらず、平等主義リベラリズム能力主義的おごりをかき立ててしまうのはどうしてだろうか?まず、ロールズが正義の基盤としての功績を否定することで、何を言おうとしているのかを明らかにすることが重要だ。ロールズは、自分で手にする所得や地位を正当に要求する権利は誰にもないと言いたいわけではない。正義にかなう社会にいて、懸命に働き、ルールを守って行動する人は、自分で獲得するものを得る資格がある。

ここでロールズは、微妙だが重要な区別をするーー道徳的功績と、彼の言う「正当な期待に対する資格」のあいだに。その違いとは、功績の主張とは異なり、資格が生じるのはゲームの一定のルールが定められている場合に限られるという点にある。そもそものルールを設定する方法は、われわれにはわからない。ロールズの論点はこうだ。われわれはそうしたルールを、さらに広く見れば社会の基本構造を規定すべき正義の原理をまず初めに特定するまで、誰にどんな資格があるかを知ることはできないのである。

この区別と能力主義をめぐる議論との関わり方は次のようなものだ。すなわち、道徳的功績を正義の基盤とすることは、高潔な人々や功績のある人びとに報いるためにルールを設定することだろう。ロールズはこれを拒絶する。彼は経済システムをーーさらに言えば国家構造をーー美徳を称えたり品格を育んだりするためのスキームと見なすのは間違いだと考えている。正義についての考慮は、功績や美徳についての考慮に先立つのである。

これが、能力主義に対するロールズの反対論の核心だ。正義にかなう社会において、裕福になったり特権的地位を得たりする人びとにその成功を手にする資格があるのは、そうした成功によって彼らの優れた功績が証明されるからではない。そうではなく、それらの利益が、社会の最も恵まれないメンバーを含むあらゆる人びとにとって公正な仕組みの一部である場合に限られるのだ。

(……中略……)

一見すると、経済的成功をめぐるロールズの非能力主義的な考え方は、成功者には謙虚さを、恵まれない人びとには慰めをもたらすはずだ。それはエリートにありがちな能力主義的おごりを抑制し、権力や資産を持たない人たちが自尊心を保てるようにするに違いない。私が、自分の成功は自分の手柄ではなく幸運のおかげだと本気で信じていれば、この幸運をほかの人たちと分かち合う義務があると感じる可能性が高いだろう。

こんにち、こうした感情は不足している。成功者の謙虚さは、現代の社会・経済生活において目立つ特徴ではない。ポピュリストの反発を誘発した要因の一つは、労働者のあいだにエリートに見下されているという感覚が広がっていることだ。それが事実であるかぎり、現代の社会保障制度が、正義にかなう社会というロールズの理念に達していないことを示すものだろう。あるいは、平等主義リベラリズムは結局のところ、エリートの自己満足をとがめていないことを示唆しているのかもしれない。

(……中略……)

〔労働者による、エリートに対する〕こうした反発を招く、成功に対する思い上がった態度は、ロールズ哲学が肯定する資格の意識によって助長されてもおかしくないーーたとえ、その哲学が道徳的功績を拒否したとしても。

(p.207 - 212)

 

 サンデルによるロールズ批判の核心は、以下の通りである(重要なので太字にした)。

 

善に対する正の優先を強調すれば、社会的評価は個人の道徳観の問題となり、そのせいでリベラル派はおごりと屈辱の政治に目が向かなくなってしまうのだ。

(p.214)

 

 というわけで、ハイエクロールズの主張に対する代替案としてサンデルが持ち出してくるのが「共通善」である。所得や資産の分配のあり方についてばかり議論していても、人々の心情の問題に対処することはできない。ほんとうの意味で真っ当な社会を成立させるためには、政治哲学は価値観の領域にまで踏み込む必要がある。

 たとえば、市民たちを教育して、「わたしたちは同じコミュニティに住んでおり、互いが互いに対して責任を背負っている。社会の連帯はわたしたちの幸福に欠かせないものであり、だからこそわたしたちひとりひとりがそれを守るための努力をしなければならない」といった価値観を植え付ければいい。そうすれば、競争に勝った人であっても「わたしが運良く成功して金持ちになったとしても、それはわたし一人の手柄ではなく、わたしを支えて活躍を後押ししてくれるコミュニティがあってこそだ。わたしが得ているものは、わたしの才能と努力だけでなく、みんなの協力があってこそだ。だから、わたしは自分が得たものを社会に還元しなければならない」という風に寛容で気前のいい考え方をするようになるだろう。なによりも、勝者たちは驕りの代わりに謙虚さを得るようになる。そうなれば敗者に対する侮蔑もなくなるし、すると敗者たちは屈辱も感じずに済むようになるはずだ。……これが、サンデルの言い分である。

 

 Twitterなどで感想を調べてみても、『実力も運のうち』を読んだ人の多くは、「現状の能力主義社会に対する批判は鋭くて優れているし、ロールズハイエクに対する批判も興味深いが、サンデルが提示する解決策には抽象的で具体性がなく曖昧だ」という感想を抱いているようだ。わたしもそう思う。

 とはいえ、サンデルがこの本のなかで「共通善」の中身について明確に論じない理由は、なんとなく察することができる。おそらく、彼の頭のなかにある共通善とは、リベラルな市民の目からみればかなり保守的なものである。それを具体的に述べたうえで「この価値観をみんなに共有させるべきだ」と論じたら、角が立って批判の的となるだろう。そうなると、本の前半で展開される能力主義批判がいくら優れていても、結論部分でミソがつくことになってしまう。だから、予想される批判を避けるために、サンデルは自分が提示したい「共通善」の内容を曖昧にごまかしているのではないだろうか。

 

 さらに、実のところ「共通善」は能力主義社会に対する処方箋としては不充分で頼りない。きっと、サンデル自身もそのことに気が付いている。

 多くの政治哲学者たちが「正」の問題を優先して「善」の問題に踏み込まないのは、個人の価値観に侵入することそのものに不当さを見出しているからだけでなく、個人の価値観を変えることの難しさを理解しているからでもあるだろう。学校での教育をなんとかしたり市民的連帯を感じられるような場を増やしたりするだけで人々の価値観が変えられるとしたら、苦労はしない。だれかがある価値観を成立させる背景には有形無形の文化や慣習が存在するのであり、それを変えるのは社会制度を変えることよりもずっと難しいことだ。さらに言うと、ある人が自分なりの価値観を成立させる背景には、その人なりの人生経験が影響している*6アメリカ社会のエリートにはほかの国のエリート以上に謙虚さがなく驕りが目立つことはたしかであるから、教育や社会的な規範をなんとかすれば人々の心情にある程度までの影響を与えられることは、事実であるのだろう。しかし、その影響力がどれほどのものであるかは、わかったものではないのだ。

 そもそも、起業家や政治家といったエリートの人々は、どこの時代のどこの国でも謙虚さからは程遠い存在であるかもしれない(謙虚な人はそもそも起業家や政治家に適性がない、と考えることもできる)。「不徹底な能力主義」の社会であっても、彼らが活躍したり成功したりするに至るまでには、運の良さや既得権益が関与しているのと同時に、本人自身の意志や努力も関与している。自分が努力をしたすえに成功したという経験は、「共通善」などという綺麗事よりもずっと強く、その人の主観的な認知に影響を及ぼすはずだ。

 そして、エリートたちは驕りというネガティブな感情だけでなく誇りというポジティブな感情も同時に抱くはずである。というか、ある意味では驕りと誇りは表裏一体であり、切り離せないものであるかもしれない。ロールズが「正当な期待に対する資格」を認めたのは、結局のところその「正当さ」は否定しようのないものであり、期待に対する資格という発想を抜きにして人々が努力したり活躍したりする社会を想定することは不可能であるからかもしれないのだ。

 

 いずれにせよ、政治哲学では無視されがちな「心情」の問題に取り組んだのがサンデルの議論の美点である。しかし、その取り組み方が不徹底であり、「能力」や「努力」や「市場」をめぐる人間の心理に存在する難しい問題やジレンマについて、綺麗事や曖昧さによってごまかしているのがサンデルの議論の欠点だ。この問題については、次回の記事でもっと詳しく掘り下げることにしよう*7

 

 

*1:この表現はジョセフ・ヒースの『資本主義が嫌いな人のための経済学』の第3章「摩擦のない平面の誤謬ーーーーなぜ競争が激しいほどよいとは限らないのか?」から拝借した。

*2:

iwllgiveitatry.com

*3:

www.asahi.com

*4:この話題について、以前のブログ記事から引用しよう。

・地方に在住する伝統的で宗教的な白人は、ハリウッド映画に対して「自分たちのような人間が注目されることはない。たまにばかにされるために登場するぐらいだ」と言う感情を抱いているそうだ(p.167)。実際、私もハリウッド映画を見ていると保守的で田舎在住の白人に対する扱いがひどすぎて辟易することは多々ある(イギリスが舞台の映画でわざわざアメリカ南部の教会に行って主人公が(差別主義者の)白人を虐殺する『キングスマン』は最悪だったし、そこまで極端でなくても、保守的な人物がストーリー上の邪魔者や障壁としてしか描かれていない作品は枚挙にいとまがない)。

フランシス・フクヤマの『IDENTITY 尊厳の欲求と憤りの政治』 - 道徳的動物日記

 

*5:この話題についてはこのブログでも散々に扱ってきたが、そのなかからいくつか紹介。

davitrice.hatenadiary.jp

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*6:もっと言えば、人々の価値観の背景には生物学的な要素が影響していることも、近年の心理学ではよく強調されることだ。

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*7:ほんとうは今回の記事で一気に済ませるつもりだったのだけれど、ちょっと長くなり過ぎてしまったので、いったん区切ります。