道徳的動物日記

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愛情と結婚の進化論と人類史

 

 

『ブループリント:「よい未来」を築くための進化論と人類史』では、基本的には進化心理学や文化進化論などの考え方に基づきながら、人間には「社会性」がどのような形で備わっていて、どういう条件が揃えばそれらが表出されるか、といったことが論じられている。

 この本のメインとなる主張は、"私たちの遺伝子には社会や集団の「青写真(ブループリント)が組み込まれている"、というものだ。

 世界には様々なかたちの社会があるとはいえ、どんなかたちの社会でも存続できるというわけではない。現に存続してきた社会とは、それが表面上はどれだけ多様であっても、根本となる構造は共通しており「青写真」に基づいているのだ。逆に言うと、「青写真」を無視した構造の社会(人工的に作られたコミューンや、漂流者たちが急造した社会など)は存続することが困難であり、早い段階で崩壊してしまうのである。

 また、「青写真」は「社会性一式(ソーシャル・スイート)」とも呼称されている。

 

これから示すように、あらゆる社会の核心には以下のような社会性一式が存在する。

 

(1)個人のアイデンティティを持つ、またそれを認識する能力

(2)パートナーや子供への愛情

(3)交友

(4)社会的ネットワーク

(5)協力

(6)自分が属する集団への好意(すなわち内集団バイアス)

(7)ゆるやかな階級制(すなわち相対的な平等主義)

(8)社会的な学習と指導

 

(上巻、p.37)

※以下、引用はすべて上巻から。

 

これらの特徴は団結することにかかわっており、不確実な世界で生き延びるためにきわめて有益なものである。知識をより効率的に獲得・伝達する方法を提供し、リスクを共有できるようにしてくれるからだ。言い換えれば、これらの特質は進化の観点から見て合理的であり、私たちのダーウィン適応度〔訳注:ある遺伝子型を持つ個体が次代にどれだけ残るかを示す尺度〕 を高め、個人的・集団的利益を促進する。人間の遺伝子は、社会的な感性や行動を私たちに授けることによって、私たちが大小の規模でつくる社会の形成を助けてくれるのである。

こうしてつくりだされた社会環境が、今度は、進化的時間を通じたフィードバック・ループを生み出す。歴史を通じて、人間は社会集団に囲まれて暮らしてきたが、同胞ーー私たちが交流し、協力し、あるいは避けなければならない人びとーーの存在は、遺伝子の形成においてどんな捕食者にも劣らないほど大きな影響力を持っていた。進化論的に言えば、私たちが社会環境を形成してきたのと同様に、社会環境が私たちを形成してきたのだ。

(p.39)

 

 進化心理学の考え方にしたがって、この本のなかでは人間というものには生物学的に決定された共通の特徴が存在しており、古今東西のどこであっても人間の本質が変わらない、とされている。以下の引用部分はドナルド・ブラウンの「ヒューマン・ユニヴァーサル」論について紹介する箇所だ*1

 

一九九一年、文化人類学者のドナルド・ブラウンは、文化人類学の分野で普遍的特性を探ることへの「タブー」と称するものに挑んだ。彼は、文化的特徴を普遍的なものとした可能性のある三つの広範なメカニズムの概略を描いた。そうした文化的特徴は、(1)ある場所で使われはじめ、広く拡散していったものかもしれない(たとえば車輪のように)。(2)環境によって課される、あらゆる人間が直面する話題(たとえば住みかを見つける、料理をつくる、子の父であることを確定するなどの必要性)に対して一般に見いだされる解決法を反映しているのかもしれない。(3)あらゆる人間に共通する生来の特徴(たとえば音楽に惹かれる、友人を欲しがる、公正の実現に尽くすなど)を反映しているのかもしれない。すべてではないにしても一部の普遍的特性は、進化した人間本性の産物に違いない。

仮説上の「普遍的人間」について詳しく説明するなかで、ブラウンは、言語、社会、行動、認識にかかわる表面的な普遍的特性を数十も列挙している。

 

 人間の普遍的特性として挙げられるものには、文化の領域では、神話、伝説、日課、規則、幸運や先例の概念、身体装飾、道具の使用と製作などがある。言語の領域では、文法、音素、多義性、換喩、反意語、単語の使用頻度と長さの反比などがある。社会的領域では、分業、社会集団、年齢階梯、家族、親族制度、自民族中心主義、遊び、交換、協力、互恵主義などがある。行動の領域では、攻撃、身ぶり、うわさ話、顔の表情などがある。精神の領域では、感情、二分法的思考、ヘビへの警戒や恐怖、感情移入、心理学的な防御機構などがある。

 

(p.33)

 

 

 さて、この本の第5章「始まりは愛」 では、人間(と動物)が異性のパートナーに対して抱く愛情、そして人間の様々な社会における結婚制度というトピックが論じられている。

 そもそも、「恋愛」や「結婚」といったテーマは、進化論的に考えるうえではかなり興味深く、そして厄介なものである。わたしたちがだれかに恋をして求愛するときに抱く感情とは、あきらかに身体的なものだ。恋愛で悩んでいる人は、相手のことばかり考えて他のことが考えられなくなるだけでなく、食欲も失ったりしてしまう。「恋愛とはロマンティック・ラブ・イデオロギーといった文化的規範によって押し付けられるものに過ぎない」という風の主張をする人は多いが、ふつう、文化的規範といったものが思考や生理的機能にここまでの影響を与えることはない。そして、恋愛をした人がのぼせ上がったり食欲を失ったりする姿は、大昔から世界各地の様々な物語や記録のなかで描かれてきたのだ。恋愛という現象が自然なものであり、普遍的なものであることは明白だろう*2

 恋愛に比べると、結婚を普遍的なものであると主張することは難しい。婚姻とは法律で定められる「制度」であり、そのかたちも社会によって様々だ。一夫一妻制の社会もあれば、一夫多妻制や多夫多妻制の社会もある。どこの社会でもなんらかのかたちで結婚制度が存在するという事実は結婚も「青写真」に基づいていることを示すかもしれないが、モノガミーとポリアモリーという真逆に見える制度のどちらもが存在し得るというのは、どういうことだろうか。

 

 実際のところ、わたしたちが「これは世界中のみんながやっていることだろう」と思っている慣習や行動ですら、一部の社会では実践されていなかったりタブー視されていたりすることがある。たとえば、アフリカ南部に住むツォンガ族はキスを気持ち悪く思ってタブー視しているし、アフリカのほか地域や中南米に暮らす狩猟採集民や農耕民たちの多くにも愛情のキスや性的なキスの習慣はないそうだ。……とはいえ、普遍的な要素もやっぱり存在するのである。

 

人間の条件の大きな謎の一つ、すなわち、単なる「性的な関係」ではなく「愛情のある関係」を他人と築こうとする衝動の根底にあるものは何だろう。進化の観点からすると、人間がパートナーを欲しがる理由を説明するのは簡単だ。しかし、どうして人間はパートナーに特別な愛着を抱くのだろう?どうしてパートナーに愛情を感じるのだろう?

愛したい、所有したい、交わりたいという人間のせめぎ合う欲望を理解するには、人間の恋愛・性愛の多様性と、それらに通底する核心にあるものーー何かがあるとすればだがーーの両方について考える必要がある。

キスだけにとどまらず、セックスや結婚にまつわる多くの規範や慣習は世界中で異なっている。だが、異なってはいない別の特徴もある。オーガズムの生理といった不変の特徴は、地域にかかわらず同じはずであり、人類の進化した生態や心理から生じるものだ。こうした普遍的特徴のなかでもカギとなるのが「夫婦の絆」を結ぼうとする傾向だ。これは、パートナーと強固な社会的愛着関係を築きたいという生物学的な衝動であり、ますます理解が進んでいる分子と神経のメカニズムによって促進される。進化は文化に対して連携して機能すべき「原料」を提供し、その基盤のうえに配偶システムが築かれる。第11章で考察するように、それに次いで今度は配偶システムが進化を形成することもある(たとえば、いとこ結婚を禁じる一部の文化的規則は子孫の生存に影響を与える)。

(p.179)

 

 結婚という慣習には、文化的規範と進化的基盤が絡み合っている。さらに、環境という要素が与える影響も大きい。アウストラロピテクスは一夫多妻制であったようだが、移動しながら狩猟採集を営むという生活様式を取り入れたホモ・サピエンスは一夫一妻制となった。これには、食糧源の変化が影響している(狩猟は集団で協力しておこなう行為なので集団に平等主義をもたらし、パートナーのために食糧を採集して与えるという行為は一対一の排他的な関係の価値を高める)。しかし農業革命が起こった一万年前や民族国家が興隆した五千年前は、社会経済的不平等をもたらして一夫多妻制を復活させた。一夫一妻制がふたたび戻ってきたのは、西洋諸国では二千年前から、他の地域では数百年前からである。

 

人類学的・歴史的記録のなかで一夫一妻制をとっていた少数派の社会は、両極端の二つの大きなカテゴリーに分けられる。かたや、男性間の身分格差がほとんどなく、生体的に厳しい環境にある小規模な社会、かたや、ギリシャやローマのように繁栄をきわめた大規模な古代社会。「生態的に押しつけられた」一夫一妻制が採用されるのは、環境のせいでほかの選択肢を選ぶのが難しい場合だ。これは、食べ物が手に入らないせいで痩せてしまう人に似ている。ギリシャ・ローマのような「文化的に押しつけられた」一夫一妻制は、一つの規範として採用される。これは、容貌や健康上の理由で痩せているほうが好ましいため、体重を落とすことを選ぶ人に似ている。文化的に押しつけられた一夫一妻制は、現在主流となっている形だ。

(p.185)

 

自然人類学者のジョゼフ・ヘンリックらによれば、文化的な一夫一妻制が広がった一因は、一夫一妻制が集団どうしの競争で有利だという点にあるという。配偶者がいない男性は、自分が属する集団内で暴力に訴えるか、ほかの集団を襲撃するかして、紛争を引き起こす。一夫一妻制を採用した政治体、国家、宗教では、このような暴力の発生率が下がり、内部にも外部にも資源をより生産的にふり分けることができる。こうした観点からすれば、一夫一妻婚にかんする現代の規範と制度は、集団間の競争と集団内の利益という圧力に呼応した一連の進化のプロセスによってつくられてきたのである。

(p.188)

 

 というわけで、一夫一妻制は「普遍的」なものとまでは言えない。『ブループリント』のなかでは、一夫一妻制である狩猟採集民のハッザ族、一夫多妻制である牧畜民のトゥルカナ族、土地や食料が不足している状況に対応するために一妻多夫制を営む部族たち(パラグアイアチェ族など)、そして結婚という制度がそもそも存在せず父親や夫という概念もなくポリアモリー的な関係を営むヒマラヤ山脈のナ族が、具体例として紹介されている*3

 このなかでも、ナ族に関する記述はとりわけ興味深い。一見すると、現代の先進国社会でポリアモリーを復活させたいと企む人たちにとっては、「結婚」という概念から解放されたかのように見えるナ族のような社会が存在することは朗報だ。人間社会における結婚や愛情のあり方はひとつに固定されているわけではなく、どんな形にでもどうとでも変えられる、という期待を抱けるからである。……しかし、(ほかの社会に比べるとずっと少ないとはいえ)ナ族のあいだですら性的な嫉妬は存在するし、社会の規範に逆らって排他的で独占的な関係を結ぼうとする男女もいるのだ。

 

〔ナ族について調査した文化人類学者の〕蔡はこう結論している。人間にはいくつかの根本的なーーそして私に言わせれば、生物ならではのーー欲求があり、そのうちの二つがパートナーを余裕したいという欲求と、複数のパートナーを持ちたちという欲求であると。同じ集団内で、一見矛盾するこれらの二つの衝動と折り合いをつけるのは難しいし、実のところ選択肢は二つしかない。多様性を楽しむことなく所有するか、所有することなく多様性を楽しむかだ。

進化の過程を通じ、愛着には強い力があることがわかっている。しかも、社会は制度的に言って両方を満足させることはできないため、ナ族はーー おそらく社会としては唯一 ーー後者を選んでこのジレンマを解決したように思える。

 

(……中略……)

 

それでも、正式な制度によって、(パートナーを愛することと所有することの両方に対する)これらの人間的欲求のどちらかを根絶することはできない。これらの欲求は、人間本性の最も根源的な部分から発しているからだ。人は、あらゆる社会であらゆる種類の規範を破る。そこでナ族は、走婚だけでも社会は十二分に機能するにもかかわらず、人目をはばからない訪問という制度を認めることで、所有欲もある程度は満たせるようにしている。さらにはナ族のあいだですら、「燃えさかる愛の炎にわれを忘れた」カップルが、お互いを完全に所有すべく駆け落ちすることがある。彼らは相手を訪問するだけでは飽き足らず、複数の相手を持つことには興味がない。こうした状況は、多くの社会がパートナーの変更を可能にするために、結婚制度に便宜的要素を与えるのと似ている。たとえば離婚を許したり、男性が内妻を迎えることを認めたりといったことだ。

多くの人びとがこう論じてきた。きわめて珍しいナ族の性的慣行は、結婚の普遍性を反証するものであり、一夫一妻制に生物学的根拠などありえないことを示していると。だが、変り種が存在するからといって、人類に中心的傾向がないとは限らない。科学者として私たちは、まとめることもできれば分割することもできるーーつまり、共通点を探すこともできれば差異を探すこともできるのだ。人間の青写真は私たちの現実の原案であって、最終版ではない。

ナ族の関係構造の根底にある動機は、複数のパートナーが欲しいという人間の基本的な欲求であり、結婚制度の根底にある動機は、パートナーを所有したいという同じく基本的な欲求だ。ナ族の例外的ケースは次のことを証明している。愛着への欲求ーー実はパートナーと絆を結びたいという欲求ーーほど深く根本的な人間性の一面は、完全に抑圧することも置き換えることもできない。まさにその絆を断ち切るために、きわめて精巧につくられた一連の文化的規則をもってしても、絶対に不可能なのだ。

(p.219 - 220)

 

 第6章の「動物の惹き合う力」では、人間と一部の動物が異性に対して抱く「絆を結びたいという欲求」のあり方について、詳細に論じられる。ここで主に取り上げられるのは、以前にもこのブログで紹介した、人間と同じように一夫一妻制を営む哺乳類でありプレーリーハタネズミを用いた、ラリー・ヤングの研究だ*4

 

 この本のなかでもとくにオリジナリティがあって印象にのこる主張が、「人間が他人や自集団に対して抱く愛情は、パートナーに対して抱く愛情を基盤として、進化していった」というものである。

 

進化の過程で、人間はまず自分の子供、次に配偶者を愛するようになり、続いて血のつながった親戚、さらに婚姻によってできた親戚(姻族)、最後に友人や集団に愛着を感じるようになったらしい。私たちは、ますます多くの人々に愛着を感じる種になるための長期的な移行のまっただなかにいるのではないかと、ときどき思うことがある。だが性的関係以外の人間関係を理解するためには、まず性や恋愛による結びつきを理解しなければならない。こうした結びつきは、進化の過程においてそれ以外の絆に先行していた。配偶者への愛情は、青写真のカギとなる要素なのだ。

(p.183)

 

……ほかの霊長類とくらべると、人類の社会組織の顕著な特徴は、血縁関係のない大勢の個体と共に暮らすことだ。正確に言えば、人間はオスもメスも複数いる集団で生活し、配偶者との間に夫婦の絆を結ぶため、その集団は厳密には複数家族集団だと言える。 さらに、ほかの霊長類とは異なり、人間の家族は父系のみ、母系のみの親族と共に過ごす必要はなく、いわゆる多所居住の形をとって一方から他方へと移ることができる。

そうした住み方の特徴の起源は複雑だが、一つの経路として、夫婦の絆と両親による子育てへの共同投資の結果、両性が特に居住にかんする意思決定でより平等になったことが挙げられる。母親と父親の双方が、自分の親族と一緒の生活をーー別々の時期にかもしれないがーー選択できるのだ。長きにわたって各集団の多くのメンバーがこの選択権を行使した結果、かなり混成された、おおむね血縁関係のない一連の集団ができ上がったのだろう。ようするに、狩猟採集民の野営集団内に見られる血縁関係の度合いの低さは、男性と女性がそれぞれの親族と共に時間を過ごそうとするうちに、自然に生じたのだ。こうして、夫婦の絆と共同の子育てが、血縁関係のない人たちとの協力と友情の土台となったのである。

おおむね非血縁者から成るそのような集団の中で、人びとは血縁関係のない友人を持てるようになった。それについては第8章と第9章で見ていく。感情と愛着の輪を広げることが可能となった。人間の集団にとって大切な協力の方法である食物の分かち合いについて考えてみよう。食物を入手したその場で一緒に食べるだけでなく、他者と分け合うためには、ある場所から別の場所へと運べなくてはならない。したがって、分け合う目的での食物の採集はおそらく、二足歩行と共進化したのだろう。二足歩行により、両手が空いて、パートナーや子のもとへ食物を持ち帰ることができるようになったからだ。

(p.259 - 260)

 

 著者の議論は、どことなく、ピーター・シンガーの著書『輪の拡大』を思い出させるところがある*5。シンガーも、人間が道徳的配慮の対象を自分自身から身近な家族や親族へ、そして自集団へと拡大させていった進化的な歴史について記述していた。……とはいえ、進化によって備わった感情に基づいた道徳配慮には限界があり、これからは感情ではなく理性に基づいて世界中の人々や動物へと配慮の対象を拡大しなくてはならない、というのが主な論点であるのだが。『ブループリント』のなかでシンガー(や最近の「進化論的倫理学」の議論)があまり参照されていないのはやや残念なことではある。

 

 

*1:

 

 

この本はいつか読みたいと思っているのだけれど、どこの図書館にも置いていないし中古価格は高騰しているしで、なかなか手が出せなくて困る。

*2:

davitrice.hatenadiary.jp

*3:ナ族では、結婚の代わりに走婚(通い婚)が行われている。男性は日が暮れてから女性の家に行って、相手の家族とは接触しないように注意して、セックスだけして夜明け前に帰るのである。

*4:

davitrice.hatenadiary.jp

*5:

econ101.jp

経済的不平等のなにが悪いのか?(読書メモ:『21世紀の啓蒙:理性、科学、ヒューマニズム』)

 

 

 原著が出たあとに寄せられた反論に対してピンカーが行なった再反論を紹介したり*1、現代ビジネスの記事でピンカーについて書いたりしたけれど*2、『21世紀の啓蒙』を通して読むのは今回がはじめて。……とはいえ、前著『暴力の人類史』に比べると、読み物としての面白さは数段劣ると言わざるをえない内容だ。

 

『21世紀の啓蒙』にせよ『暴力の人類史』にせよ、核となる主張は「人類は進歩してきて、世界はどんどん平和になってきた」というものであるが、『暴力の人類史』ではこの主張を説得的に「論証」するためにかなりの努力がなされており、ノルベルト・エリアスの『文明化の過程』を引用している部分や「道徳的フリン効果」についての議論をはじめとして、印象に残る箇所が多々あった。読者たちの常識に反する主張を伝えるためには、単にデータやグラフを延々と示し続けるだけだとダメで、認識を一変させるくらいにビビッドなエピソードを示したりエキサイティングな主張を展開したりするなどの「工夫」が必要とされたわけである。

 ……しかし、『21世紀の啓蒙』を読む読者の大半は『暴力の人類史』も読んでいるということをピンカーも理解しているので、この本を書くときにはもはや「論証」や「工夫」は必要とされなかった。したがって、『21世紀の啓蒙』のとくに第二部では延々とグラフやデータが示され続けるということになるし、しかも主張の大半は「『暴力の人類史』の出版以後にも暴力が減り続けて社会が豊かになり続けていることを示す」というものだから、新鮮味がほとんど感じられない。

 第一部と第三部では「啓蒙主義」の意義が説かれて、科学的かつ理性的に考えて議論することの大切さが語られる。その主張に異論はないが、ピンカーが自分の言いたいことをゴリ押ししているだけという感も否めない。たとえばジョセフ・ヒースが『啓蒙思想2.0』で展開した議論の方がずっと含蓄があったしウィットにも富んでいた。

 というわけで全体的にはあまり評価できない本ではあるのだが、分厚いわりにスラスラと読めるのはいいところだ。また、進歩の指標として取り上げられているトピックの数は『暴力の人類史』のときからさらに増えているので、情報量が盛り沢山であることはたしかだ。

 

 しかし、第二部第九章の「不平等は本当の問題ではない」は、『暴力の人類史』でもあまり取り上げられなかったトピックである「不平等」にスポットをあてたものであるが、この章で展開されている議論は例外的に新鮮味があって、なかなか面白かった。

「経済的不平等は深刻な問題である」という主張は左からも右からも連呼されていてすっかり定番な議論になっているが、ピンカーは果敢にもこの主張に対して反論しようとするのだ。

 

格差という概念の範疇に入る現象は山ほどあるが、そのなかに深刻なものがあることは確かだ。それらに対して何らかの対処が求められるのは、人々が不平等感に煽られて「市場経済も技術進歩も対外貿易も放棄せよ」といった破壊的な考えに走るのを防ぐためでもある。格差というのは分析が非常に困難で(人口が一〇〇万なら九九万九九九九通りの不平等がありうるのだから)、これを扱う本も数が多い。だがわたしがこのテーマに一章を割くべきだと思ったのは、あまりにも多くの人がディストピア論に惑わされ、格差を「現代社会が人間のありようを改善できていない証拠」ととらえているからだ。このあと論じるように、その考え方は多くの点で間違っている。

(上巻、p.189)

※以下、引用はすべて上巻から。

 

哲学者のハリー・フランクファートが二〇一五年の『不平等論』でこうした問題を堀り下げ、次のように論じている。不平等それ自体は道徳上好ましくないわけではない。 好ましくないのは「貧困」である。長生きで、健康で、楽しく、刺激的な人生を送れるなら、お隣さんがいくら稼いでいても、どれほど大きな家に住んでいても、車を何台もっていても、道徳的にはどうでもいい。「道徳的見地からすれば、誰もが"同じだけ"もつことは重要ではない。道徳上重要なのは誰もが"十分に"もつことである」と。

(p.190)

 

このような格差と貧困の混同は、「富は猛獣にとってのアンテロープの死骸と同じように有限で、その分配はゼロサム競争であり、誰かの取り分が増えれば他の取り分が減る」という考え方ーー仕事量についていわれる「労働塊の誤謬」のような考え方ーーから生じる。しかし前章で述べたように、富とはそういうものではなく、産業革命以降に指数関数的に増えたのだった。つまり裕福な人がさらに裕福になるときには、貧しい人も裕福になりうる。専門家でさえ塊の誤謬に陥ったような表現をよく使うが、それは概念を混同しているというより、修辞上の熱意の表れかもしれない、

(……中略……)

塊の誤謬よりさらに有害なのが、裕福になった人は本来の取り分以上のものを他人から奪っているという考え方である。これがなぜ間違っているかについては、哲学者のロバート・ノージックの有名な論述があるが、それを二一世紀版に書き換えるとこうなる。今日の世界的な富豪の一人に『ハリー・ポッター』シリーズの著者、J・K・ローリングがいる。このシリーズは四億部以上を売り上げ、さらに映画化されて同じくらいの観客を動員した。仮に一〇億人が『ハリー・ポッター』のペーパーバックか映画のチケットのために一〇ドルずつ支払い、その一割がローリングの収入になったとしよう。当然のことながら彼女は大富豪となり、格差を拡大させたことになるわけだが、人々を不幸にしたわけではなく、むしろ幸福にした(すべての富豪が人々を幸せにしたという意味ではない)。この説明はローリングの所得が努力や能力の成果にすぎないとか、彼女が世界に提供した情報や幸福の対価にすぎないといっているのではない。どこかの委員会が彼女は富豪になるにふさわしいと決めたわけでもない。彼女が得た富は、一〇億人の読者や鑑賞者の自発的行為から生まれた副産物である。

(p.191 - 192)

 

 フランクファートのような「経済的不平等それ自体が悪ではない」という主張に対する反論として考えられるのは、経済的不平等が存在すること自体によって人々の福利にもたらされる悪影響を主張する議論であるだろう。邦訳されている本としては、リチャード・ウィルキンソンとケイト・ピケットの『平等社会』や『格差は心を壊す:比較という呪縛』、アンガス・ディートンの『大脱出』、ロバート・フランクの『ダーウィン・エコノミー:自由、競争、公益』などでこのような議論が展開されている*3。具体的な主張の内容としては、「経済格差の存在は個人の精神に悪影響を与えて、身体的な健康も害する」といったミクロなものも、「経済格差の存在は社会の紐帯を破壊して、民主主義を機能不全に陥らせる」といったマクロなものもある。

 これらの主張に対して、ピンカーは以下のように反論する。

 

『平等社会』 および類似の著書の理論は「左派の万物の新理論」と呼ばれていて、複雑に絡み合う相関関係をいきなり一つの原因で説明しようとするところに問題がある

(……中略……)

また、スウェーデンやフランスのように経済的に平等主義の国々と、ブラジルや南アフリカのような不平等な国々とでは、所得分配以外にも数々の相違点があるが、そこが無視されている。平等主義の国には、豊か、教育レベルが高い、良い統治がなされている、文化的に均質といった特徴も見られる。つまり不平等と幸福度(あるいは他の社会善)の見た目の相関は、ウガンダよりデンマークで暮らすほうがいい理由はたくさんあるということを示しているにすぎないかもしれない。

(……中略……)

いや、「不平等が悪を生む」という主張に対しては、もっと決定的な反論の根拠がある。社会学者のジョナサン・ケリーとマリア・エヴァンズが三〇年にわたって六八の社会の二〇万人を対象に調査を行い、その結果を分析したところ、不平等と幸福度の相関は疑似相関であって因果関係ではないことがわかった。(……中略……)発展途上国においては、格差は人々の気力をくじくのではなく逆に鼓舞していて、不平等な社会のほうがかえって人々の幸福度が高いという結果も生じている。

(p.194-195)

 

「不平等な社会の方が人々を幸福にする」という主張に対しては「ほんとかよ」と思わなくもない。とはいえ、ウィルキンソンとピケットの本は読んでいてもあまり説得力が感じられず、なんでもかんでも悪いことを不平等というひとつの原因に押し付けている感が強かったこともたしかだ。

 事実の問題として「不平等は人を不幸にする」論と「不平等は人を不幸にするわけではない」論のどちらの方が正しいかということは、経済学や統計学の門外漢であるわたしとしては、結局のところは判断がつきかねる問題だ。……とはいえ、昨今の言論では経済的不平等はもっとも憎まれている事柄であり(擁護するのはごく一部の経済学者だけだ)、それに対する批判は精度が低くても甘めに扱ってもらえがち、というのはありそうな話であると思う。

 

 また、ピンカーは、「人が稼ぐ額」ではなく「人が消費する額」に注目すればアメリカの貧困率は現在では3%しかない、とも主張している。グローバル化と技術の進歩によりモノの値段が安くなったことで、所得が少ない人でも昔に比べて豊かな生活ができるようになったということだ。とはいえ、この議論はさすがに「定義のすり替え」という感が強いし、不平等を問題視している人たちに対する反論にもなっていなさそうに思える。

 しかしながら、数十年前の社会がいまよりも生活水準が高かったり、過去の世紀は現代に比べて不平等がずっと激しかったという事実を指摘することは、安直な現代文明批判や反資本主義運動を牽制するという点において、重要であるだろう。

 

 

 

 他の章についても軽く言及しておくと、犯罪の問題について扱った第一二章「世界はいかにして安全になったか」*4。マーサ・ヌスバウムのケイパビリティ論が取り上げられる第一七章「生活の質と選択の自由」や、「世界がいくら進歩してもわたしたちはぜんぜん幸福になっていないじゃないか?」という疑問に答える第一八章「幸福感が豊かさに比例しない理由」、キリスト教イスラム教にニーチェ信者をこきおろす第二三章「ヒューマニズムを改めて擁護する」はそれなりに面白かった(しかし、いずれの章についても内容はやや船舶であり、別の専門家がその章のテーマを題材にした一冊の本を読んだ方がいいような気はする)。

 第一部における「啓蒙」や「エントロピー」「情報」の定義論に、チャールズ・P・スノーの『二つの文化と科学革命』を紹介してくれるところとかもタメにはなる。

 

*1:

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

*2:

gendai.ismedia.jp

*3:

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

*4:一二章のなかでもとくに興味深い文章。

高い犯罪率が続いたその何十年かのあいだ、たいていの専門家は「暴力犯罪には対処しようがない」というだけだった。それによると、暴力犯罪は暴力的なアメリカ社会と一体化したものなので、人種差別や貧困や格差などの根本にある原因を解決しないかぎり、抑えることはできないとされていた。このタイプの歴史悲観論は<根本原因論>と呼んでもいい。それは見かけ上は深遠な考え方で、「社会の病とはすべて根深い道徳的病であり、単純な治療などでは決して病状が和らぐことはない。そんなことをすればかえって病の核心にある壊疽を治療できなくする」とするものだ。こうした<根本原因論>が問題なのは、現実世界の問題がその想定より単純なことではなく、むしろ逆であることだ。つまり典型的な<根本原因論>が考える以上に、現実問題は複雑なのである。とりわけ<根本原因論>が道徳を基盤に論じられてデータを取り入れていない場合は、現実問題をとらえきれていない。

実は現実世界の問題は複雑すぎて、対処するには原因ではなく症状に直接働きかけるのが最善の方法である。そうすれば、病巣のなかで複雑に絡みあう原因をすべて熟知していなくてすむからだ。

(p.317)

読書メモ:『尊厳ーーその歴史と意味』

 

 

 海外の哲学者が「尊厳」という概念について主にカントとカソリック哲学を参照しながら解説した本の邦訳。新書本ではあるが、内容はそれなりに専門的で、なかなか堅い。

 この本は「尊厳」という概念についての入門であると同時に、カント倫理学の考え方についてもある種の入門となっている。

 著者は、カントの尊厳論について、以下のように要約している。

 

カントが道徳性を展望する際の基本的な出発点は、私たちが自らのうちに「無条件的で比較できない」価値をもつ何ものかーー「人格性」あるいは「人間性の尊厳」ーーを抱えているということである。その価値は手段としてではなく「目的」として扱われなければならない。 しかし、それは人間の行動によって増加したり、人間によって達成されるべき目標として機能したりするものではない。それは、私たちの「動物としての生命」と同一のものではないし、私たちが物理的な破壊から守るべきものでもないーー逆に、それは私たちに、自分の命を犠牲にすることを要求するかもしれないのである。したがって、人間性の尊厳は私たちの振る舞いの指針として機能するが、それはあまり直接的なものではない。それは私たちに、人格のなかの人間性に「名誉」を与えたり「敬意」を払ったりするように振る舞うことを求めるのである。「私たちの人格のなかの人間性」は、それ自体として追求されるべき、あるいは増進されるべき目的ではないが、カントによれば、それを敬うことは、特定の目的ーー「自己の感性と他者の幸福」ーーを追求することを、そして、自然だとされる特定の目標(評判がよくない例をあげれば、自らの性的能力を「不自然に」使用しないこと)に従うことを、私たちに求める。もちろん、私たちはまた、適切に普遍化されうる原理や、「利己心、意地悪さ、他者の利用、他者の権利の無視」を確実に禁止するような原理にもとづいて行動することが求められる。しかし私は、この種の自己中心的な振る舞いこそが「カントの不道徳な振る舞いのモデル」だするコースガードには同意できない。それどころか、そのような義務は、カントにとって、他のより基本的な要件の文脈において生じてきたものとして理解されるべきである。

(p.198 - 199)

 

 カントは「人間が自らの内部に侵しがたく有しているような、法をつくる道徳性の機能」(p.35)こそが敬うべき対象であり、人間に尊厳を与えるものだと論じた。わたしたちが「法をつくる」能力を持っていることは、他人を敬う義務を基礎づけるだけでなく、自分自身のなかに崇高さを感じて自尊心を抱くべき根拠ともなっている。

 また、フリードリッヒ・フォン・シラーは『優美と尊厳について』という著作のなかで、「自発的に立派に行動できる能力」を「優美」と、「自らの自然な傾きの抵抗にもかかわらず立派に行動できる能力」を「尊厳」と定義付けた。カントは「よい行動をしようとする自発的で反省に欠ける気質」には道徳的価値はないと論じたが(カントは「傾向性」にはいかなる場合にも道徳的価値はないとみなしているからだ)、シラーは「優美な人とは、ただ正しいことをするだけでなく、内的葛藤や苦しい選択の過程なしにそれを行う人のことである」と論じることで、傾向性にも道徳的価値が含まれる可能性を主張した(p.45)。けっきょくカントはシラーの「優美」論を否定するのだが、「尊厳」論に関してはカントもシラーも主張は似通っている。どうすれば道徳的に生きれるかということを自分の頭で考えて道徳的に行為をするためのルールを作ったり、自分のなかに生じた欲求や自分の性格や気質に備わっている欠点に抗いつつ道徳的に行為しようとしたりする有り様のなかに、わたしたちの尊厳が見出されるということだ。

 カントの尊厳論は、現代でも、人間が権利を持つことの根拠として持ち出される定番の議論となっている。

 また、現代のカント倫理学者たちは以下のような主張をしている。

 

[クリスティン・]コースガードと[オノラ・]オニール(ともにジョン・ロールズの弟子である)のふたりは、カント的な道徳理論の最も洗練された今日的提唱者である。人間それ自身を目的として扱うことが何であるかについての彼女たちの説明は、合理的な行為主体としての人間の性質に結びついているーーコースガードの場合、それは、ものに価値を与える合理的な選択の力に結びついているし、オニールの場合は、諸個人が(合理的に)同意できるような方法でかれらを扱う必要性に結びついている(もちろん、これらの説明が相互補完的であることは容易に理解できる)。どちらも大まかにいえば、人間それ自身が目的であることが何であるかについて、主意主義(voluntaristic)な説明をしていることになるーーもちろんそれは、恣意的な選択によるあれこれの行動が絶対的な価値をもつという意味ではなく、人間には、一般的な意志の力と、自分たちの望みを理性の原理によって制限する力の両方を有することによって、内在的な価値がそなわっているという意味である。

(p.114)

 

 

 社会における具体的な問題のなかで「尊厳」という概念が特にキーとなるのは、医療に関する諸問題(安楽死インフォームド・コンセントなど)、そして戦争や刑罰などの「本人たちが望む扱いとはかけ離れた方法で人びとを扱うことが正しいとされる事例」(p.161)だ。つまり、敵国の兵士だろうが犯罪者だろうが、かれらを殺したり行動を制限したりすることは認められても辱めたり貶めたりすることは認められない、ということだ。ときと場合によっては、人の尊厳を傷付けることは、人を殺すことよりもさらに重大な道徳的問題を引き起こすのだ。

 そして、わたしたちは生きている人間だけでなく死んでいる人間に対しても尊厳を見出す。この本の第3章では、「だれかの遺体を埋葬せずに放置することも尊厳の侵害になるはずだ」という問題意識から出発して、そのような事例ではわたしたちはだれの尊厳が侵害されていて、わたしたちはだれに対して義務を負っているのか、という難題に挑まれる。この章では進化心理や功利主義、内在主義や外在主義に義務論などの様々な倫理学理論が答えの候補として取り上げられては却下されるということが繰り返されており、にわかに応用倫理学っぽい内容になっている。

「尊厳を傷付ける」という行為の問題点についての著者の最終的な見解とは、そのような行為は人から「人間性」を奪って「動物的」なレベルに貶めようとするものであるから許されない、というところであるようだ。

 

人間に対する侮蔑をどのように表現するかは、当然のことながら、文化や文脈によって異なる。しかし、そこには一定の目立った共通のテーマがある。人間の間に社会的な地位の顕著な区分がある(あった)場所において誰かの尊厳を奪う際には、表現あるいは象徴として、かれらを、典型的に非常に低い社会的な地位に位置づけるようなやり方で扱うことになるのだーーかれらは、文字通り、貶められるのである。もうひとつの特徴的な区分(それは、すでに見たようにキケロの『義務について』にまでさかのぼる)においては、人間の尊厳は、人間と動物を区別する振る舞いーーたとえば、直立して歩く、衣服を着用する、テーブルマナーに沿って食事をとる、プライベートな空間で排泄し、性行為を行うーーによって表現される。拷問者や殺人者は、ここに狙いをつける。大量虐殺のプロパガンダのレトリックは、週刊誌『シュテュルマー』のユダヤ人を昆虫にみたてた漫画から、ルワンダのフツ人がツチ人を「ゴキブリ」に見立てた描写まで、その犠牲者の人間性を否定するという点では、まったくもって似通ったものになっている。

シラーが認識していたように、人間性に対する敬意は、私たちが動物的な存在であるという紛れもない物質的な事実を避けることができない場合においてさえーー死や苦しみといった文脈においてさえーー(あるいは、実際、そのような場合においてこそ)、私たちに人間の価値を際立たせることを求める。そこで、私がとても感動した(そして勇気づけられた)カントについての有名な話でこの本を締めくくりたい。それは彼の死の九日前のことだった。その偉大な男は年老いて、絶望的に衰弱していた。にもかかわらず、彼は客人(彼の医者)が先に席に着くまで、自分が座ることを拒んだ。最終的に座るよう説得されたとき、カントはこう言ったという。「人間性の感覚はまだ私を見捨てていない」、と。

(p.206 - 207)

 

 

なぜ、不倫されたら傷付いて、嫉妬するのか?(読書メモ:『不倫と結婚』)

 

不倫と結婚

不倫と結婚

 

 

 著者のエスター・ペレルはセラピストであり、多数のカップルの不倫問題について現場で扱ってきた。この本は著者がセラピーしてきた男女たちによる様々な事例に基づきながら、「不倫」という事象についていくつもの角度から分析されている。

 内容は理論的なものではなく、事例の紹介がダラダラと続くだけという感じもあるのだが、実際の男女がおこなう不倫を直視してきた人ならではの、含蓄のある考察も豊富に挿入されている。

 

離婚の即断は人間のあやまちや弱さをまったく酌量しない。それはまた、二人の関係を修復することでより強い関係を作って立ち直る余地をまったく残さない。

(……中略……)

「こんなふうに互いに対して真に正直になるためには、不倫を経験するしかなかったのでしょうか?」私はこの台詞を頻繁に耳にし、そして彼らの後悔を共有する。しかし、恋人/夫婦関係についての語られない真実がここにあるーーすなわち、多くのカップルにとっては、パートナーの注意を喚起し、淀んだシステムを揺さぶるパワーは、不倫くらい極端なものにしかないのだ。

(p.25)

 

・第二章では「不倫の定義」について論じられ、第三章では過去から現代における不倫の定義の変化が扱われる。

 結婚や一夫一婦制に対して著者が抱いている見解はどちらかというと社会学的なものであるが、ヘレン・フィッシャーなどの心理学者/進化論者による生物学的な見解についても言及されている。

 また、著者はギデンズの『親密性の変容』などを参照しながら、現代ではセックスは自己表現やアイデンティティと分かちがたく結びついていることを指摘している。

 そして、現代人は、自分がセックスによる欲望や満足を追求することは、なにがしかの「権利」と保証されるべき行為だ、という感覚も持つようになった。……そのために、パートナーとのセックスや生活に不満を抱いた人は、「自分はほかの相手とセックスするべきではないか」と思うようになる。自分には幸福を追求する権利が保証されているのなら、その権利を活用しないほうがむしろ間違っている、というわけだ。

 しかし、結婚とは「互いを束縛して、性的な自由を手放す」という決断をすることのはずである。結婚の意義のひとつは「自分はほかの人を伴侶に選ぶという可能性を捨てて、あなたを選んだ」という忠誠を相手に示して、そして相手からも同じように忠誠を示されることにある。だが、不倫をされてしまったら、「自分は相手にとって特別な人なんだ」という気持ちが吹っ飛んでしまうだろう。

「幸福を追求する権利」に基づく自由主義的な考え方と、ロマンチック・ラブの理想に基づいた結婚とは、そもそもが相容れないものであるのだ。

 

昨今の個人主義社会は不思議な矛盾を生み出している。貞節へのニーズが激しく高まっているのに、不倫の引力もまた強くなっているのだ。人々が心理的にパートナーに大きく依存している今ほど、不倫が強い破壊力をもったことはない。しかし同時に、自己の充足を命じられ、もっと幸せになれるという約束に誘惑される文化の中にいる今ほど、人々が不倫したい気持ちにさせられたこともないのだ。きっとこれが、人々がかつてないほど不倫に走りながらも、かつてないほど不倫を糾弾する理由なのだろう。

(p.71)

 

 ……とはいえ、上記のような事情はすべての先進国で普遍的であるというわけでもなく、とりわけアメリカで極端になっているものだろう。幸福という事柄については他の国々の人たちはアメリカ人よりも賢いので、「欲望を追求してばかりいたら逆に不幸になってしまう」というパラドックスの存在に多かれ少なかれ気が付いているはずだ*1

 

・第四章の章題は「なぜこんなにも傷つくのか」であり、不倫をされた側の人々が負う心の痛みについて書かれている。

 不倫はカップルの現在や未来だけでなく、ふたりで一緒に築いてきた過去の思い出も遡及的にダメージを与えてしまう、という指摘は重要だ。相思相愛だと信じながらおこなっていたデートやセックスのあいだにも、相手は別の異性のことを想っていたかもしれない。そのような疑念が芽生えると、想い出は心の支えにならなくなり、それどころか、過去を思い出すたびに傷付いて現在の相手に対する怒りや失望が増してしまう。

 人間のアイデンティティの大部分はその人のライフストーリーに占められていることを考慮すると、不倫されることは、自分のアイデンティティを剥奪されてしまうことでもある。……そして、個人主義の社会ほど、不倫によるアイデンティティの剥奪で受けるダメージは大きい。伝統的社会の場合には地域や親族のコミュニティにアイデンティティの拠り所を分散させることができる(また、「男は浮気するものだ」という昔ながらの通念が強い社会では、そもそも女性は結婚しても男性に対する期待や信頼を抱かないので、不倫によるダメージも減る)。しかし、地域や親族との縁が薄い現代人にとっては、「自分が選んだ人」が自分のアイデンティティ支柱となってしまうのである。

 というわけで、パートナーに捨てられてしまったときのダメージを抑制するためにも、あらかじめアイデンティティを分割して別のところにも預けておくべきだ。その対象は、同性の友人が特におすすめであるだろう*2。また、もし不倫されてしまったら、自分が前からしたいと思っていたことをしたり贅沢をしたりするなど、「自分がどんな人間であるかは自分が決める」という考え方を行動によって実践して、自尊心を取り戻すことも大切である。

 なお、相手が過去の恋人と「焼けぼっくいに火が付いた」的に不倫してしまったときには、受けるダメージはとりわけ深刻なものとなる。相手に選ばれて結婚したときにも相手は過去の相手のことを想っていたのかもしれず、自分が相手にとっての「最愛の人」であったというタイミングは一度たりともなかったかもしれない、という疑念が強くなってしまうからだ。

 

・第六章では「嫉妬」というテーマが扱われる。

 著者は、現代の人間は「自分が嫉妬の感情を抱いていること」をなかなか認めようとしない、という点を指摘している。

 たとえばパーティーで自分の恋人がほかの男女とイチャついている姿を見たときに、不愉快になったりイラっとしたりしても、大半の人は嫉妬の感情を表に出そうとはしない。嫉妬していることがバレてしまうと、自分の感情の支配権を相手に握られているということが伝わってしまう。プライドが傷付くだけでなく、パーティーが終わったあとにも、カップルにおける自分の立場が不利なものになってしまいかねない。だから、嫉妬していてもおくびに出さず、ポーカーフェイスであるように努める……とはいえ、ほとんどの場合、努力も虚しく自分が嫉妬をしていることは恋人からは筒抜けであるのだけれど。

 さらに、現代では、嫉妬の感情は非倫理的なものであるとされている。

 

だが、嫉妬はいつの時代にも否定されていたわけではなかった。社会学者のゴードン・クラントンはそのテーマについて、過去四五年間分のアメリカの人気雑誌を分析した。一九七〇年代までは、嫉妬は一般的に愛に内在する自然な感情だと見なされていた。嫉妬についてのアドバイスは、はたしてほぼすべてが女性に向けられていて、そんな感情は自分の中に抑えて、夫に挑戦することは避けるよう助言されていた。 一九七〇年代以降、嫉妬は嫌われるようになり、しだいに古いタイプの結婚ーー男性の所有権が中枢にあり、女性の依存が避けられないーーのあるまじき遺物だと見なされるようになった。自由選択と平等主義の新時代になると、嫉妬は正当性を失い、恥ずべきものになった。「もし私が自由意志で他のすべての人を捨ててあなたを選び、あなたも自由意志で私を選んだのなら、あなたに対し独占欲を覚える必要はないはず」というロジックだ。

[イタリア人の哲学者であるジュリア・]シッサは嫉妬をテーマとした爽快な著書の中で、嫉妬はそれ自体がパラドックスだと言っている。つまり、嫉妬するには愛していなくてはならないが、愛しているなら嫉妬すべきでない。それでも私たちは嫉妬する。誰もが嫉妬のことを悪く言う。だから私たちは嫉妬を「許せない激情」として経験する。私たちは単に「嫉妬している」と認めることを許されないだけでなく、「嫉妬を感じる」ことも許されない。今日、嫉妬は政治的に正しくないのだと、彼女は警告する。

嫉妬にまつわる社会的バランスの見直しは、家父長制度的特権から抜け出す重要なシフトの一部だったが、おそらく度を越したのだろう。私たちの文化的理念は、時に私たち人間の傷つきやすさに我慢しきれなくなる。そして、愛につきものの傷つきやすやさ、心が自己弁護を必要とすることを、計算に入れ損なう。私たちがもし希望のすべてを一人の人間に託したら、私たちの依存性はいや増す。あらゆるカップルが、認めようが認めまいが、第三の人物の存在に脅かされながら暮らしている。そしてある意味、カップルの絆を強くしているのは、そんな潜在的な他者の存在なのである。

(……中略……)

嫉妬は矛盾だらけだ。ロラン・バルトの鋭い舌鋒によれば、嫉妬している人物は「四倍苦しむーー嫉妬しているから、嫉妬している自分を責めるから、自分の嫉妬が相手を傷つけるのではないかと恐れるから、そんな陳腐な感情に支配されているから。そしてのけ者にされることを恐れ、攻撃的になることを、気が変になることを、並の人間に成り下がることを恐れる」

(p.125 - 126)

 

 著者は嫉妬を「エロスの火花」とも形容している。

 不倫は、ときと場合によっては、消えていた情熱を再び燃え上がらせてカップルのセックスをより濃密なものとする。「自分を見捨てたばかりの相手と肉体的につながりたいという欲求は驚くほど一般的だ」(p.132)。間男とどんな行為をしていたかを問い詰めて言葉責めしながら妻を抱く男もいれば、夫が抱いていた自分よりも若くてスタイルのいい女になりきって行為する女性もいる。そうでなくても、手元にあって当たり前のものだと思っていた相手の身体が自分の手に届かないところにいってしまう可能性を直視させられることで、その貴重さや有り難さを再認識することができる。セックスレスを脱却するきっかけにもなる。嫉妬は、カップルの絆の修復剤にもなり得るのだ。

 なお、多夫多妻的な関係における嫉妬については、以下のように論じられている。

 

過去数年間、嫉妬についての昔ながらの考えや態度を打破しようと決意している人々に数多く出会った。そういった人々は、合意のもとノンモノガミー(非一夫一婦)を実行しているカップルの中に特に多く見られた。そのうち何人かはポリーの体験をもう一段レベルアップさせ、故意に嫉妬をセックスの刺激剤として使っていた。他の人々は嫉妬を超越しようと大変な努力をしていた。ポリアモリー[多重的恋愛や性愛を認め合う関係性]を実行する人々の多くが、自分たちは"コンパージョン"と呼ばれる新しい情動反応を身につけたと主張した。それは、パートナーが他の人とセックスを楽しんでいる場面を見て幸福を感じるという反応である。複数の性愛関係を認め合おうとする彼らは、積極的に嫉妬を乗り越えようとしている。嫉妬を、自分たちが超えようとしている所有的関係の枠組みの本質的な一部だと見なしているのだ。

「時には、彼女が私以外の(女性の)恋人たちの一人といるのを見ると、確かに嫉妬を感じるわ」アナは私に言った。「でも、そんなときは自分に言い聞かせるの。それは私の気持ちだから、それをどう扱うかは私にかかってるんだって。彼女が誰かを誘惑したからって彼女を責めはしないし、彼女の自由を制限するような行動をとることを私は自分に許さない。彼女は私にそんな行動をとらせるような挑発的なことをわざとはしないし、私も彼女に対してそれは同じ。でも、互いの気持ちまでは責任はもてない」これは従来型のカップルから典型的に耳にする態度ではない。彼らは相手を不必要に動揺させるような態度は慎むことを互いに求める傾向にある。とはいえ、私は強烈な嫉妬の攻撃に苦しむノンモノガミーのカップルに数多く会ってきた。

(p.142-143)

 

・不倫をされたこと自体よりも、相手が不倫の事実を隠すために嘘を吐きつづけたことのほうで傷付いてしまう人も多い。これもアメリカでは特に顕著だ(他の国に比べても、アメリカでは「嘘」はとりわけ不道徳的な行為とされている)。そのため、不倫が発覚したあとには、「もう嘘を吐く余地を残させないため」という名目で相手のことを徹底的にコントロールしようとする人もいる。……とはいえ、離婚せずに結婚生活を継続する気があるなら、このような行為は信頼が回復するスピードを遅くして正常な関係への復帰を妨げるものでしかない。それに、いくらコントロールしたところで、相手がまた「不倫したい」と思ってしまったら、止めることはできないのだ。

 

・結婚生活に問題なく、カップルの双方が互いに対して不満を抱いていなかったり、精神的にも安定していても、不倫が起こる場合はある。不倫は、不健康な結婚生活が引き起こす「症状」であるとは限らないのだ。

 たとえば、相手ではなく現在の自分自身に対して不満を抱いている人が、「自分さがし」の一環として不倫をしてしまうことは多い。先述したように、現代ではセックスは自己表現に欠かせないものとされている。そして、現実と切っても離せない結婚生活と比べて不倫関係には空想的な要素が強いために、よりロマンティックでドラマチックなものとなりやすいのだ。映画『マディソン郡の橋』では保守的な田舎町の人妻(メリル・ストリープ)が、たまたま町を訪れた冒険的で都会的なカメラマン(クリント・イーストウッド)と数日間だけの情熱的な不倫関係を経験するが、非日常的な関係によって日々の倦怠から「脱却」することは、物語のなかに限らず現実の不倫においてもメジャーな要素となっているのである。

 らに、配偶者に対して秘密を抱えたり社会の良識を破ったりなどの逸脱行為をすること自体に、高揚や性的な興奮を感じてしまう人も多い。つまり、愛する相手との結婚生活という真っ当な方法では味わえない快感が不倫のなかには存在している。だから、配偶者がどれだけ素晴らしい人でありその人のことを愛しているとしても、不倫ならではのファンタジーや快感を求めてしまう人はいるものなのだ。

 

・そのほかにも、不倫の「共犯者」である愛人たちの側の言い分とか、不倫の後の結婚生活がどうなるか、などなどの様々なトピックについて章ごとに考察がなされている。冒頭にも書いたように所詮は事例集であり、アカデミックな理論が背景にあるわけでもないから、物足りないところも多い。だけどまあ不倫というテーマに興味がある人は必読な本であることは間違いないだろう。 

 

*1:「自分は幸福になれる権利があるはずだ」と思って幸福を追求し過ぎることで不幸になってしまうアメリカ人たちの姿は、映画の題材としても定番のものだ。

theeigadiary.hatenablog.com

theeigadiary.hatenablog.com

*2:

gendai.ismedia.jp

妻(家族)への依存と同性の友人の少なさは、男性の自殺率の高さの一因ともなっている。

芸術家やリベラルが不倫をしやすい理由(読書メモ:『もっと!愛と創造、支配と進歩をもたらすドーパミンの最新脳科学』)

 

 

 

研究者らが発見したのは、ドーパミンの本質は快楽ではまったくないという事実だった。ドーパミンは、それよりもはるかに影響の大きい感情を生み出している。これから紹介するように、ドーパミンに対する理解こそが、さまざまな領域での人類の努力を説明し、さらには予測するための鍵を握っているのだ。 その領域は、目をみはるほどに広い。たとえば、芸術、文学、音楽の創造。成功の追求。新世界や自然の法則の発見。神をめぐる思考。そして、恋もそのひとつだ。

 (p.14)

 

このシンプルな概念は、大昔からある疑問ーー愛はなぜ色褪せるのかという疑問を化学的に説明している。私たちの脳は予想外のものを希求し、ひいては未来に、あらゆるエキサイティングな可能性がはじまる未来に関心を向けるようにプログラムされている。だが、愛であれなんであれ、それがおなじみのものになったら、その興奮は薄れ、新たな対象が私たちの関心を引きはじめる。

この現象を研究する科学者たちは、私たちが目新しいものから得る幸運を「報酬予測誤差」と名づけた。その意味するところは、まさに名前のとおりだ。私たちはつねに、次に来るものを予測している。たとえば、何時に退社できるのか。あるいは、ATMで残高照会したときに名にするはずの金額もそうだ。実際に起きたことが予測よりも良ければ、それは文字どおり、未来予測の誤差ということになる。もしかしたら、早めに退社できるかもしれないし、予測より一〇〇ドル多い残高を目にするかもしれない。その幸せな誤差こそ、ドーパミンを始動させているものの正体だ。おまけの時間やおまけの金額そのものではない。ポイントは、予想外の良いニュースがもたらすぞくぞくするような快感にある。

(p.18)

 

 ……というわけで、わたしたちの生活や人生に関わる諸々の事象についてドーパミンがいかに影響を及ぼしているか、ということを説明する本である。

 とはいえ、この本で登場するのはドーパミンだけではない。対になる存在として頻繁に登場するのが、セロトニンオキシトシンなど、著者が「H&N」と名付けたホルモン群だ。

 

ドーパミンは愛の扇動者であり、その後に続くあらゆることを始動させる大もとのひとつだ。だが、その段階を越えて愛を継続させるためには、愛にもとづく人間関係の性質を変えなければならない。なぜなら、背後で流れる化学の交響曲が変化するからだ。ドーパミンは快楽物質などではない。まったく違う。ドーパミンの本質は、期待物質だ。可能性にすぎないものではなく、いま手にしているものを楽しむためには、未来志向のドーパミンから現在志向の化学物質に脳を移行させる必要がある。そうした現在志向の神経伝達物質を、ここではまとめて「ヒア&ナウ(いまここ:H&N)」と呼ぶことにする。ほとんどの人は、H&Nの名を耳にしたことがあるはずだ。たとえば、セロトニンオキシトシン、エンドルフィン(モルヒネの脳内バージョン)、そしてエンドカンナビノイドマリファナの脳内バージョン。「内因性カンナビノイド」とも)呼ばれる一群の化学物質だ。ドーパミンのもたらす期待の快楽とは対照的に、これらの化学物質は感覚や感情から生まれる喜びをもたらす。

(p.34-35)

 

 ドーパミンはいま手にしていないものや遠くにあるものなどの新奇性に対する期待をもたらす。一方で、H&Nは身近にあるものへの愛着や、それを通じた幸福や安心感をもたらす。

 重要なのは、わたしたちはしばしばドーパミンがもたらす期待に振りまわされて、手にしたところで実際には大した快楽が得られないものを追い求めてしまったり、いま手にしている幸福をないがしろにしてしまうということだ。

 

愛の第二段階でH&Nが仕事を引き継ぐと、ドーパミンは抑制される。そうでなければならない。なにしろ、ドーパミンは私たちの頭のなかで薔薇色の未来図を描き、その実現に必要な努力へと私たちを駆り立てるのだから。現在の関係に対する不満は、変化を起こす重要な動機だ。新しい恋愛の本質はそこにある。それに対し、H&Nの司る友愛の特徴は、いまの現実に対する深く永続的な満足感、変化に対する嫌悪、少なくともパートナーとの関係という点での変化に対する嫌悪だ。実際、ドーパミン回路とH&N回路は連携することもあるものの、ほとんどの状況では互いに打ち消しあう。H&N回路が活性化しているときには、私たちは周囲にある現実の世界を体験するように促され、ドーパミンは抑制される。ドーパミン回路が活性化しているときには、わたしたちは未来の可能性へと突き進み、H&N回路は抑制される。

研究室における実験でも、この概念が裏づけられている。熱愛の段階にある人から採取した血球を調べたところ、H&Nであるセロトニンの受容体が健康な人よりも少なくなっていたのだ。これは、H&Nが退却していることを示している。

新しいパートナーや情熱的なあこがれというドーパミン的スリルに別れを告げるのは簡単ではないが、それができるのは成熟の証であり、長続きする幸福への一歩でもある。

(p.35 - 36)

 

人は長期的な友愛を求めているのか?その答えがイエスであることを示す絶好の証拠がある。複数のパートナーを持つことは一見すると魅力的に思えるが、にもかかわらず、ほとんどの人は最終的には身を落ち着ける。国連のある調査では、九〇%を超える男女が四九歳までに結婚することがわかっている。人は友愛がなくても生きていけるが、私たちの大多数は、友愛を見つけて維持するための努力に人生の大部分を割いている。それ可能にしているのがH&Nだ。H&Nのおかげで私たちは自分の感覚が伝えるものーーいま目の前にあるもの、もっとほしいという渇望感を抱かずに体験できるものに満足を見いだすことができるのだ。

(p.38)

 

性的な体験がーー特に継続的な関係の場合にはーードーパミンの見せる幻影の犠牲になることは多い。一四一人の女性を対象にした調査では、被験者の六五%が性交中に夢想し、別の人を相手にしている、もしくはまったく別のことをしているところを想像していることが明らかになった。別の研究では、その数字は九二%にものぼった。男性がセックス中に夢想する割合も、女性とほとんど変わらない。そして、男女ともに、セックス回数の多い人ほど夢想する傾向が強い。

(p.42)

 

 この本のなかでは、人間はドーパミンが優勢な人とH&Nが優勢な人とに分けられることが示唆されている。……たとえば、大半のクリエイターはドーパミンのほうが優勢だ。想像の世界にある「まだ見ぬもの」への期待がなければ、それを現実化させてやろうと思って創造行為に踏み出すことはできない。同様に、真理を追求する学者や神の教えを追求する宗教指導者もドーパミン的な人たちであると言える。そして、ドーパミンは金銭や社会的地位や権力といった世俗的なものに対する期待(欲望)も喚起する。そのため、起業家や政治家たちだってドーパミン的であるのだ。

 このことは、大物政治家だけでなく芸術家たちやハリウッドのセレブたちにもセックス・スキャンダルが多く、また彼らの離婚率が高い理由を示してもいる。要するに、創造性が高い人というのは、現状に満足せずに「次」や「もっと」を追い求めてしまう傾向がある人だということだ。芸術や権力を追い求めるような人は、セックスや愛にも新奇性を期待してしまう。芸術家とは性に対する欲求を芸術に昇華している人たちのことではなく、ただ単に全方向に欲求過多な人たちのことであるかもしれない。

 この本の第5章のタイトルは「政治」だ。ドーパミンは未来志向である一方で、H&Nは現在志向だ。というわけで、リベラルにはドーパミン的な人が多いし、保守にはH&N的な人が多い*1。保守的な人のほうが結婚率が高いが、不倫率はリベラルな人のほうが高い。また、保守的な人のほうがセックスの回数は少ないらしいが、「保守的な人はリベラルな人よりもセックス中に絶頂を体験する確率が高かった」(p.229)らしい。H&N的な人はセックスするときには相手を受け入れて、「いま」に集中することができる。比べると、ドーパミン的な人はセックスすること自体よりもだれかとベッドインするまでの過程のほうを楽しんでいる可能性が高い。ドーパミンは「いま自分が手に入れていない相手を獲得する」ことへの期待を高まらせるが、いざベッドインした段階でその役割を終えて期待を消失させてしまうわけだ。

 ここでわたしの頭に浮かぶのが、「H&N的な人が持っている価値観や性道徳は、芸術や言論の世界では公平に反映されているのだろうか?」という疑問だ。ポリティカル・コレクトネスが浸透したことでセクシュアル・ハラスメントや性暴力や合意のないセックスに対する批判の意識は高まり、映画やドラマでもそういうものは強く否定されるようになったが、不倫や放埓なセックスはいまだに肯定的に描かれることが多い。もちろん、危害原則などに基づけば、性暴力と不倫は性質が異なる事象であると論じることはできる。どれだけ理屈をこねても性暴力を擁護することは不可能だろうが、不倫を擁護する理屈はいくつもあることだろう。とはいえ、性暴力と不倫のどちらについても、それに対してなんらかの不道徳さ不快感を感じる人はいることはたしかだ。しかし不倫のほうだけ野放しにされがちなのは、たぶん、ドラマや映画の制作者たちとはけっきょくのところ性的に放埓な傾向が強い人たちであるからだ。それはほかの芸術の世界でもそうだし、学問の世界ですら多かれ少なかれそうであろう。市井のH&N的な人たちが不倫に対して不道徳さを感じるとしても、象牙の塔にいるドーパミン的な人たちは不道徳さを感じないので、不倫の不道徳さを言語化したり理論化したりすることには労力が割かれず、むしろ不倫を擁護することのほうにエネルギーが注がれているのかもしれない。

 

  保守的な人はH&N傾向が強いために、身近な同胞のことを重視して、外国人や移民という外集団のことは敵視する。しかし、保守的な人の多くも、個人としての移民や外国人に対して攻撃的な態度を取るとは限らない。むしろ、その人たちがご近所に生活していたり、そうでなくても実際に相手が目の前にあらわれて会話をする機会があったりすれば、H&Nの回路が活性化して同情や共感を抱くことができるのだ。一方で、リベラルな人たちはドーパミンの影響によって具体的な思考よりも抽象的に思考する傾向が強いから、「すべての人は平等だ」「外国人にも移民にもわたしたちと同じだけの権利がある」といった理屈に基づいて、遠くにいるか目の前にいるかに関係なく外集団の人たちのことを擁護するのである。抽象的な「人類愛」は抱ける一方で、個別具体的な個人に対する愛が薄いことも、ドーパミン的な人々の特徴だ。

 というわけで、保守的な人々をリベラル寄りにするための、真逆ともいえるふたつの道筋が考えられる。ひとつは、抽象的な思考をするように促すことだ。もうひとつは、共感を活性化させることである。LGBTなどのマイノリティがドラマや映画の登場人物になる頻度が増えたことで、物語のなかに存在する具体的なひとりのキャラクターへの共感を通じて、その属性の人々全般に対する共感や理解が増すようになった。「抽象的な集団を具体的な個人に変える手法は、H&Nの共感回路を活性化させる手っとりばやい方法なのだ」(p.252)。

 

 現代ではH&N的な物事が軽視されやすく、ドーパミン的な物事が重視されやすい。資本主義とは消費者の欲望を喚起しつづけることで成立しているのを考えるとむべなるかなというところもある。ギャンブルやテレビゲームがドーパミンを煽るメカニズムになっていることも、言うまでもない。そして、わたしのような人間からすればどう見ても金と時間の無駄でしかないようなギャンブルやスマホゲーやそのほかの消費行動について、その価値や崇高さを熱く語る人は一定数いるものだ。もしかしたら、情熱的な恋愛について語る芸術家とスマホゲーについて語るオタクのあいだには、たいした違いはないかもしれない……どちらも、ドーパミンによってもたらされる期待と幸福を混同しており、自分が追い求めているものの虚妄を直視することは避けて、自分の行動を後付けの理屈によって正当化しようとしているわけだ。

 また、ドーパミンは「自己効力感」や「努力」、そして「環境や他者の支配」とも関わっている。ドーパミン的な人のほうが自信家であり、また努力を通じて高い社会的地位にもつきやすいのだ。これも、ドーパミン的な人のほうが高い地位に就きやすかったたり発言力を持ちやすかったりするという作用をもたらしているだろう。さらには、ドーパミン的な人たちのほうが口達者でありやすいだろうと想定すると、表象やイデオロギーの世界でもドーパミン的な物事はH&N的な物事よりも有利に立っていると考えられる。

 

 ……もちろん、H&Nと同じくらいにはドーパミンも人生において重要だ。何事もそうだが、バランスがいちばん大切なのである。

 ドーパミンが私たちにもたらす「楽しさ」については、以下のように描写されている。

 

仕事へ向かう途中の女性の例を考えてみよう。車で駅まで行く彼女は、朝のラッシュ時の渋滞を避ける迂回ルートを走っている。駅に着くと、知る人ぞ知る駐車場のすいている一画に向かい、やすやすと駐車スペースを見つける。ホームで通勤電車を待つときには、車両のドアが目の前で開くまさにその場所に立つ。 そこで待てば、列の先頭で乗り込み、残っている空いた座席を確保し、街までの長い乗車時間を座って過ごせるとわかっているからだ。彼女は快感を覚えるーー通勤という状況を支配したことから生まれる快感だ。

ものごとを解明するのは楽しいし、自動車購入や毎日の通勤の複雑さを「勝ち抜く」ための戦略を実行するのも楽しい。それはなぜか?このドーパミンのはたらきも、やはり進化と生存の必須要件から生まれている。ドーパミンは資源を最大限に活用するように私たちを駆り立て、私たちがそうしたときには報酬を与える。なにかをうまくやるという行為、未来をより良く、より安全にするための行為が、ドーパミン性の「ほろ酔い」気分を私たちに味わせているのだ。

(p.97)

 

かつては、多くの人がガレージに父親の使う作業台がある家で育った。それもいまやあまり一般的ではなくなっているが、何かを直すという作業には独特の喜びがある。ひとつひとつの作業に、解決すべき問題ーードーパミン志向の活動ーーがあり、その解決策が現実に実行される。不具合を修理するときには、必要な工具や部品が手に入らず、創造性が求められることもある。たとえば、つめ切りをワイヤーカッターとして使えることに気づいたりする。何かを修理するときには、自己効力感と支配の感覚も高まる。H&Nがドーパミン作動性の満足を生むというわけだ。

料理、庭仕事、スポーツも、知的な刺激と身体的な動きを兼ね備え、満足感をもたらして心と身体をひとつにしてくれる活動だ。そうした活動は古くさくなることがなく、生涯にわたって追求することができる。高価なスイス製時計を買えば、数週間はドーパミン作動性の興奮を味わえるかもしれないが、それが過ぎればただの時計だ。地域マネージャーに昇進すれば、当初は仕事に興奮を覚えるだろうが、最終的には変わりばえのしない単調な仕事になる。だが、創造は違う。なぜなら、H&Nとドーパミンが一体となって呼び覚まされるからだ。言ってみれば、鉄に少量の炭素を混ぜて鋼鉄をつくるようなものだ。その結果、より強く、耐久性のあるものができる。ドーパミン的な快楽に身体的なH&Nを加えたときにも、まさにその現象が起こる。

だが、ほとんどの人は、絵画や音楽、飛行機模型の製作といった創造活動をわざわざしようとはしない。それをする実用的な理由がないからだ。そうした活動は、少なくともはじめのうちは難しいし、金や名声が得られるわけでもないし、より良い未来を保証してくれるわけでもない。けれども、私たちを幸せにしてくれるかもしれない。

(p.313 - 314)

 

 この本で提示される幸福論はポジティブ心理学や徳倫理における幸福論とかなり近い。また、保守とリベラルに関する分析はジョナサン・ハイトの『社会はなぜ左と右にわかれるのか』を思い出させるところがある。心理学の世界ではそれほど突飛な主張ではないということなのだろうが、人文学や社会学における常識や標準的見解を相対化するものであることは間違いない。この種類の主張にはじめて触れる人にとっては特に刺激的な本であるだろう。

 

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*1:ただし、政治家は保守政党に属していてもリベラル政党に属していてもドーパミン的な人が多い。わたしたちはついつい政治家の言動とその政党の支持者の言動を直結させて考えてしまうが、政治家には「保守」や「リベラル」以前に「政治家」としての独自な傾向があることを失念するべきではないのだ。

「恋愛」とは自然なものなのか(読書メモ:『女と男のだましあい:ヒトの性行動の進化』)

 

 

 原著は1994年、邦訳も2000年とかなり古く、進化心理学の本のなかでは「古典」の部類に入るものだ。そして、古典なだけあって、進化心理学の考え方のなかでももっとも基本となる部分が詳しく紹介されているところが参考になる。

 タイトル通り、人間の男女の性行動について、繁殖を成功させるための「戦略」という観点から分析する議論が主となっている。

 

・冒頭の、「恋愛」や「愛情」の自然性(実在性)を論じる箇所はとくに興味深い。

 

さらに問題を複雑にしているのは、愛情というものが、人間の生活のなかで中心的な役割を果たしていることだろう。恋愛という感情を体験しているとき、人間はその虜となってしまう。また、愛情を向ける対象が存在していないときには、恋愛の空想が頭のなかを占めてしまう。愛ゆえの苦悩は、おそらく他のどんなテーマにもまして、詩や音楽、文学、メロドラマやロマンス小説などの大きな主題になっている。とはいえ、ふつう思われているのとは異なり、恋愛は西欧の有閑階級が近代になって「発明」した感情ではない。恋愛はあらゆる文化において見られ、この感情を言いあらわすための特別な単語が、どの文化にも存在している。こうした普遍性は、愛情ーーおよびその主要な構成要素である相手への献身、優しさ、情熱といったものーーが人間の感情に不可欠な部分であり、すべての人間が体験するものであることを示している。

(p. 9-10)

 

 その一方で、一般に、進化心理学とは「愛」の欺瞞や虚仮を暴く考え方であるとも捉えられがちだ。

 

最後にもうひとつ、進化心理学への抵抗を生みだしているものを指摘しておこう。それは、男女間のロマンスや性的な調和、生涯変わらぬ愛情といった、だれもが抱きつづけている理想である。私自身、こうした見方を捨て切れずにいるし、愛情こそが人間の性心理学の核心となるものだと信じてもいる。配偶者との結びつきは、人生においてもっとも深い満足感をもたらしてくれるし、それを欠いた人生はひどく空虚なものに思えるだろう。結局のところ、ひとりの配偶者とうまく幸福に暮らしていける人々も少なからず存在するのだ。しかし、われわれはあまりに長いあいだ、人間の配偶行動の真実から目をそらしつづけてきた。不和や競争、そして駆け引きといったものも、配偶行動において普遍的に見られる要素なのである。もし、男女関係という人生でもっとも魅惑的なものを真に理解しようとするなら、勇気をもってそうした要素を直視しなければならない。

(p.39)

 

 たしかに、世間一般の人が進化心理学に抵抗感を抱くとすれば、あまりに生々しく即物的な説明によって「愛情」に対して抱いている幻想を壊されることにあるだろう。

 一方で、もうすこし意識が高かったり人文的な発想に馴染んでいる人であれば、「恋愛」や「愛情」とは文化や社会によって構築されるものではなくわたしたちの自然な生き方において否応なく発生するものである、という考え方に対して反感を抱くはずだ。とくに最近の女性向けコンテンツでは、異性愛から女性を「解放」させるストーリーを描くことがトレンドになっている。そして、社会構築主義の魅力とは、わたしたちを縛り付けていたり苦悩させていたりする諸々の価値や考え方について「社会的な規範を押し付けられることによって生み出されるもの」だと定義することで、「では社会的な規範を変えたり押し付けから逃れたりすることができれば、厄介な価値や考え方からわたしたちを解放させることができる」という「希望」を与えることにある。……だけれどそんなにうまくいくものではないかもしれない、と進化心理学は示唆するわけだ。

 

・『女と男のだましあい』のなかでは、男性は女性に対して若さと容姿を求める傾向があって、女性は男性に対して資産と権力を求める傾向があるという、進化心理学の男女論としてもスタンダードなものが展開される。「女性の上方婚志向」の問題についてもバッチリ書かれている。

 とはいえ、女性は資産と権力だけを男性に求めているわけではなく、熱意や優しさなどの「献身」も求めているのだ。

 

愛情や献身のディスプレイは、女性を強く惹きつける。それは、男性がその女性のために、時間やエネルギー、労力を長期間にわたって提供する意志があることを意味するものだからだ。献身的であることを示すのはなかなかむずかしく、偽ってそう見せかけようとするのはかなりの努力を要する。それは、ある程度の期間を通じてくりかえし送られるシグナルによって判断されるからである。ただカジュアル・セックスだけを求めている男性は、あまり多くの努力を注ぎこもうとはしない。献身のディスプレイは、女性から見ればシグナルとして信頼がおけるものなので、女性を惹きつけるためのきわめて強力なテクニックとして機能するのだ。

(……中略……)

献身を強くあらわすシグナルのひとつは、求愛期間中の男性の「熱意」である。これは、なるべく多くの時間を相手の女性と過ごすというかたちで表現される。他のどんな女性よりも頻繁に彼女と会い、なるべく長い時間をかけてデートし、ことあるごとに電話をかけ、何十通もの手紙を書く。この戦術は、永続的な配偶者を獲得する場合にはきわめて有効であり、平均すると七点満点で五・四八点という高い効果を示している。

(……中略……)

検診を示すもうひとつの要素である「優しさ」のディスプレイも、効果的な誘惑のテクニックとしてあげられる。女性の抱えている問題を理解し、彼女が求めていることに敏感で、同情的にふるまい、救いの手をさしのべるような男性は、長期的な配偶者にふさわしい存在として女性の心をつかむことができる。優しさが効果を発揮するのは、それが、男性が女性のことを気にかけ、必要なときはかならずそばにいて、資源を提供してくれることを暗示するものだからだ。優しさは、たんなるカジュアル・セックスへの興味ではなく、長期にわたるロマンティックな愛情の証なのである。

(p. 170-172)

 

 引用部分のすぐ後には「とはいえ、一部の男性は、カジュアル・セックスのパートナーを誘惑するのにも、この戦術を用いている」と指摘されているように、ほんとうの意味で「優しい男」よりも「優しいフリをするのが上手な男」の方がモテる、というのはありそうなことだ(あった)。しかしながら、上述の引用部分は、たとえば「暴力的な男のほうがモテる」といった弱者男性論者やインセルが陥りがちな発想に釘をさすものであることは間違いないだろう。資産や地位があまりない男性は、コンプレックスや不安を乗り越えて熱意や優しさをしぶとくアピールし続けることが大切だ、みたいな教訓を引き出すこともできるかもしれない。

 

・この本の後半部分では「嫉妬」という感情が引き起こす問題についても述べられている。一般的に、男性は女性よりも性的な嫉妬を感じやすく、そして男性の嫉妬は殺人を頂点とする暴力的で危険な行動に結びつきやすい。著者は「嫉妬」や「男性による性的暴力」をテーマにした本も書いており、この部分には特に気合が入っている*1。一般的なカップルでは男性から女性に資源が提供されるために、配偶者を奪われたり寝取られたりすることのデメリットは、男性の方が大きい。これまでに提供してきた資源がすべて無駄になってしまうからだ。それだけでなく、「妻を寝取られた男」という評判がコミュニティのなかでたってしまうと、周りの人物からもナメられて、社会的地位が下がってしまい、次の配偶者を獲得するのも難しくなってしまう。そのために男性は暴力を用いてでも女性のパートナーを自分のもとに縛り付けて他の男から遠ざける傾向があり、ときには「他の男に奪われる前に殺してしまう」ということが合理的な選択になってしまう場合すらもあるのだ。

 同様の理由から、配偶者の浮気によって本人に与えられる精神的ダメージも、男性のほうがずっと高い。男性のほうが浮気する割合や可能性は高いが、女性の浮気のほうが離婚のきっかけにはなりやすいのだ。

 ちなみに、女性が浮気をもっとも行いやすいのは三十代だ。この年齢になった妻の繁殖能力は減りつつあり、また容姿も下り坂になっていくために、夫は妻への興味をこれまでにくらべて失って、セックスの回数を減らしたり妻に近づいてくる男に対するガードを緩めてしまったりする。だが、減ったとはいえ繁殖能力がまったく無くなっているわけでもない妻にとっては、夫よりも良い相手と番ってその子供を妊娠する最後のチャンスであり、さらに夫のガードが緩んだことで実行可能性も上がっているのだ。もちろん実際には浮気相手の子を妊娠する女性は稀であるだろうが、浮気への欲求の背景にはこのようなメカニズムがあるということである(なお、男性は年齢に関係なく常に浮気をしたがる)。

 

・感情を表に出すか出さないか、という戦略の男女差についての記述。

 

男性が自分の感情を表に出さない理由のひとつは、配偶者への投資に際して感情を排することで、残りの資源を他の女性や別の目的に振り向けやすくなるからだ。一般に、男性が行う交渉の場では、自分の願望がどれほど強いのか、どれほど支払う用意があるか、どれだけ熱心に取引を望んでいるかを相手に知らさずにおくのが最良の手段であることが多い。トルコの絨毯商人は自分の関心を悟られないように濃いサングラスをかける。ギャンブラーは感情を表に出して手の内を読まれることのないよう、ポーカーフェイスを通そうとする。感情は、しばしばどの程度の投資をしようとしているかをあらわにしてしまう。感情を隠しておければ、自分の性的戦略も知られずにすむ。女性は情報の欠落に苦しみながら、手がかりを選り分けて男性の本心をつきとめようとせざるをえない。大学生の男女を対象に調査したところ、女子学生は男子学生にくらべて、デートした相手との会話を反芻し、相手の「本当の」意図や目的、動機などを探りだそうとしがちであることがわかった。男性が感情を表に出さないことにたいする不満の奥底には、献身の度合いをめぐる軋轢が潜んでいるのである。

(p.244)

 

 上述のように男性は一般的に感情を隠そうとするために、感情を表に出したり素直に振る舞ったりする男性のほうが女性に好印象を抱かれてパートナーを得られやすい、という逆説的な現象についても書かれている。男女の戦略は軍拡競争的なメカニズムになっているために、戦略的には不利であるはずの特徴が一周回って有利になる、ということがあり得るわけだ(もちろん、「素直に感情を表に出している」フリをすることができる男性が戦略的には最も有利である、ということも言えるだろう)。

 

気分屋のパートナーをもつことは、時間と労力を浪費させられるため、高くつくものになる。自分の希望はとりあえず横においてパートナーの機嫌を直そうとする融和行動は、他の目的を犠牲にしてエネルギーを浪費する。女性は相手の誠意を確認する戦術として、こうしたコストを男性に課すのである。感情の起伏の激しい女性は、おそらくほんとうはこう言いたいのであろう。「あなたがもっと献身的にふるまわないと、私は感情的になってあなたにコストを支払わせるわよ」。感情の起伏を激しくするのは、男性の献身を確実なものにするために女性が用いる戦術のひとつなのだ。男性が気分屋の女性を嫌うのは、本来他の目的にまわすはずだった労力を、そのために費やさざるをえないからである。

(P.245 - 246)

 

読書メモ:マーサ・ヌスバウムによる「性的モノ化」論

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↑ ひと月ほど前にこのブログに掲載した記事でも間接的に取り上げた、マーサ・ヌスバウムによる「性的モノ化」論文について、以下の書籍に収録されているバージョンを読んでみたので、感想や考えたことを書いておこう。

 

 

Sex and Social Justice

Sex and Social Justice

 

 

 この論文のポイントは、ポルノグラフィティやセックスにおける性的モノ化を一概に「悪い」とみなすキャサリン・マッキノンやアンドレア・ドウォーキンの主張、その背景にあるイマニュエル・カントの議論を取り上げながら、性的モノ化が悪いかどうかは文脈により、ときによっては『チャタレイ夫人の恋人』で描かれるような「ワンダフルな」性的モノ化が成立する場合もあり得る、と主張されているところにあるだろう*1

 ヌスバウムは「モノ化」という言葉が意味し得る具体的な事柄を七種類に分けてリストアップしたうえで、そのなかでも「相手を道具として使用すること(instrumentality)」にはたしかに道徳的な問題があるが、他の種類のモノ化は許容され得る、と論じるのだ。

 

チャタレイ夫人の恋人』では、コンスタンス・チャタレイという女性と森番のメラーズという男性のそれぞれが相手の性器に名前を付けて、互いの性器を求め合う場面が描かれている。この状況について、「セックスの当事者の双方が互いの個人性(individuality)を放棄して、互いのことを性器に還元して扱っている」とヌスバウムは表現する。

 カントであれば、相手の人格ではなく性器という身体の部分だけに注目して相手を扱うことは非倫理的であると言うだろう。しかし、ヌスバウムによると、コンスタンスとメラーズが行なっているモノ化は対称的で相互的であり、相互の敬意や平等を前提として成立しているものであるからOKだ。むしろ、セックスの最中に自律性(autonomy)や主体性(subjectivity)を放棄することは、セックスに含まれる自然な喜びを存分に味わえることにつながり得る。相手のことを受動的(passive)な存在として扱ったり、自発的な行為者性(agency)や能動性(activity)を認めずに不活性(inertness)な存在として扱うことも、セックスにおいては許される可能性がある。性生活においては、相手の感情的・身体的な境界に侵入する(penetration)という行為が重要な価値を持つ場合もあるからだ。

 とくに女性の場合、セックスにおいて自律性を放棄してモノ化されて喜びを味わうことは、人生全体を充実させたり自由にすることにつながるし、自己表現を実現する生き方をするためのエネルギーとなり得る、という風なことをヌスバウムは主張している。

 ただし、セックスにおける性的モノ化がよいものとして認められるためには、行為の当事者同士が互いに尊重しあう関係性が成立していることが前提とされる。そのため、「相手が誰であってもいい」という匿名性を前提とした乱交的なセックスは問題視される。また、相手との関係について物語的な歴史(narrative history)を築いていない状態でセックスをすることは、相手の人格に対する敬意や配慮が背景に存在しないということなので、そのセックスは互いが相手の身体を欲求を満たす道具として使用するという行為以外のなにものでもない。これは道徳的に許容されない悪い意味での「性的モノ化」であるのだ。

 

 というわけで、ヌスバウムによれば、相互の敬意や配慮が成立しており対等で信頼のおける恋人関係や夫婦関係であれば、ふたりのセックスのプレイの一環として性的モノ化が行われることはOKとされるのだ。一方で、よく知らなかったり信頼関係が成立していなかったりする相手との行きずりのセックスや乱交は、どんなプレイであるかに関わらずそのセックス自体が性的モノ化であるためにNGとなり得る(実際にはヌスバウムは「行きずりのセックスや乱交は道徳的に認められない」とまでは主張しておらず、「道徳的に問題がある」と示唆している程度であるのだが)。

 カントであれば「すべてのセックスは、性的欲求を満たすために相手の身体を道具として使用する行為であるから、性的モノ化行為であり、すなわち不当な行為である」と主張しそうなものだ。……それに対してヌスバウムは「すべてのセックスは性的モノ化であるが、正当な性的モノ化もあり得る」と主張しているのか、それとも「セックスはプレイによって性的モノ化を含まない場合と含む場合に分けられるが、後者であっても正当であり得る」と主張しているのかは、ちょっとわからない。

 一般的な男女のセックスに、『チャタレイ夫人の恋人』のように互いの性器に名前を付けて呼びあったりするなどのプレイが含まれるとは限らないだろう。すくなくともわたしはそんなプレイをしたことはない*2

  また、ヌスバウムは、セックスにおいて自律性や主体性を放棄することはワンダフルさとか自然な喜びとか生のエネルギーとかを得るために必要である、そのようなプレイは道徳的に許容されるだけでなく積極的に行うことが推奨される、というくらいに思っているようだ。この感覚もわたしにはちょっとわからない。ベッドの上であっても相互の自律性や主体性を尊重しあいたいという生真面目さや誠実さ、あるいはセックスのときだけ関係性をガラリと豹変させることに対する気恥ずかしさや照れから、そういうプレイを実践しないカップルは多くいそうなものである。そのようなカップルは、互いの性器に名前をつけて呼び合っているカップルに比べて、ワンダフルさや喜びやエネルギーに乏しい性生活を過ごしているのだろうか?

 

 ところで、この論文で批判の対象となっているカントの議論について、ヌスバウムは以下のようにまとめている。

 セックスに関するカントの分析の中核となっているのは、性的な欲求(傾向性)は人のことをモノとして扱ってしまうことについての非常に強力な動因となる、という考え方である。性欲の存在は、「異性のことを自分の性欲を満たすための道具として扱うという行為」を誘発しかねない。相手をそのように道具扱いしているときには、快楽を満たすという目的のために、相手がどう思っていたりどう感じていたりするかは気にならなくなる(相手の主体性の否認)。また、相手に命令して振る舞いをコントロールしたくなる(相手の自律性の否認)。このことは、男性に限らず女性にも当てはまる。したがって、性欲に導かれてセックスすることとは、男女の双方が互いを道具として扱いあうために自分も道具として扱われることを許容する、自分のことも相手のことも非人間化(dehumanize)する行為であるのだ。

 セックスによる自他のモノ化に対するカントの解決策とは「結婚」である。結婚とは男女が相互に尊重することを法的な制度によって促進するものだ。婚姻関係にある者たちが相互に築く尊重は堅固なものであり、セックスによって相互を道具扱いした程度では崩されなくなるから、セックスは「無害」とされるのである。

 

 カントの主張は男女の双方に当てはまるものだとはいえ、彼の議論はやはり男性的なものであるように思える。というのも、「自分の性的な欲求が、異性の主体性や自律性を否認するという非道徳的な行為につながってしまうかもしれない」ということについての警戒心や恐怖心を抱いているのは男性の方が多いはずであるからだ。

 性犯罪をおこなう人の大多数が男性であるほか、通常のセックスにおいても、相手のことを身体的・精神的に傷付けてしまうリスクは男性の方が高いものである*3。逆に、男性の側がセックスによって傷付けられるということは、あり得なくはないが珍しいことだ。だから、大半の女性は、相手が未成年であったりよっぽど年齢差があったりしない限りは「自分の性欲によって相手のことを傷付けてしまうかもしれない」という恐れを抱かずに生きているものだろう。

 カントの主張は明らかに抑圧的であり、現代の感性からは受け入れ難いものではあるが、その主張は保守性とか非近代性というよりかは生真面目さゆえの潔癖性に由来するものであるように思える。

 言うまでもなく、ヌスバウムはカントのように結婚を絶対視してはおらず、婚外交渉まで否定しているわけではない。とはいえ、セックスにおける性的モノ化が許容されるためには相互を尊重する関係や二人のあいだの物語的な歴史が必要であるとして、行きずりのセックスや乱交を問題視する彼女の議論は、なかなかに保守的である。大衆的というか小市民的でもあり、現代で哲学とか文学とか芸術とかをやっているようなタイプの人はそうそう主張しない議論ではある。その一方で、「結婚前のカップルであっても愛があるならセックスしてもいいと思うけど、行きずりのセックスや乱交はよくないものだ」という意見は、かなり多くの人が共感するであろうごく一般的なものでもある*4。カントが当時のヨーロッパにおける一般的な価値観に理屈を付けて正当化したのと同じように、ヌスバウムは現代の先進国における一般的な価値観に理屈を付けて正当化している、とも言えるかもしれない。

 

 やや余談になるが、「モノ化という問題については、文脈がすべてなのだ」(p.227)とヌスバウムが言い切っているところは面白い。たとえば、就職の面接を控えた女性に対して「君は美人なんだから、写真を送るだけでも合格するに決まっているよ」という言葉を与えることは、通常ならば相手のことを能力や人格を無視して外見(性的特徴)に還元する侮辱的な行為になりえるが、恋人同士のピロートークや気心の知れた友人同士の会話なら言われた本人を喜ばせたり嬉しがらせたりする行為になり得るのだ。

 実際問題、性や恋愛の問題なんて(あるいは人間関係の問題全般について)、文脈やニュアンスがすべてであるだろう。しかし、アカデミックなものにせよインターネットにおけるアマチュアなものにせよ、「議論」というものにおいては「文脈」や「ニュアンス」というものはとにかく理解されない。したがって、「愛のあるセックス」なんて存在せずセックスそのものを加害行為とみなすか、「愛のあるセックス」も行きずりのセックスも乱交もセックスという点では同価値とみなすか、どっちかの極に振れてしまい、現実性や常識からかけ離れた主張がメジャーとなってしまいがちなのだ。

 ヌスバウムの議論にも独特の偏向は感じられるし「それってお前の好みの問題じゃん」と言えるところもなくはないのだが、彼女なりに真面目に誠実に中道的で妥当な着地点を見出そうとしている様子は伝わってきて、好感が抱ける。これくらい常識的な議論がもっとメジャーになってほしいものだ。

 

 

*1:わたしはポルノグラフィの問題には基本的に関心がないためにマッキノンやドウォーキンの議論にもあまり興味がなく、なのでこの二人の議論についてはこの記事では特に紹介しない。

*2:こういうのはそもそも「平均」や「普通」というものがどこあるかが誰にもわからなくて論じづらいことではある。わたしの経験上、セックスにおいて相手のことを性器に還元して扱うという行為は、「男性→女性」よりも「女性→男性」においてずっと一般的なのではないかという気がする。行為の際に性器に視線を向けたり、相手の性器について言及したりするのは、女性側のほうがずっと頻度が高いからだ。

*3:わたし自身、このリスクをかなり意識している方だ。以前に付き合っていた女の子で、(おそらくAVの見過ぎが原因で)行為の最中にこちらの加虐心を煽る言動を行ってくる相手がいたものだが、「プレイであっても傷付ける真似事なんてしたくないんだから勘弁してくれよ」としか感じなかったのでノラなかった。しかし、お互いに信頼関係が成立しているのであれば、行為の最中にはそういう道徳的配慮は捨てて性の喜びを味わうことに専念するべきだ、というのがヌスバウムの言いたいことであるかもしれない。

*4:そういえば、ヌスバウムの主張に基づけば、不倫や浮気であっても愛(相互の信頼や尊重)があるなら認められそうなものだし、乱交はダメでもお互いによく知り合う相手同士なら複数人での性的関係も認められそうなものである。ここら辺は人によるだろうが、「愛があるなら不倫も仕方がない」はわりと一般的な価値観であるような気がしなくもない。