道徳的動物日記

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さいきん読んだ本シリーズ:『リベラルとは何か』とか

・『リベラルとは何か』

 

 

この本はなかなか面白かった。もう図書館に返却してしまったけれど、ブログ記事にしてもよかったくらい。アメリカとヨーロッパとのリベラルの違い(や、その違いをあまり強調するのも間違っているということ)や「ネオリベラリズム」についてもきちんと解説されている。

リベラリズム」というとつい価値観の多元性を前提にした思想であるとイメージしてしまいがちだが、最初のほうのリベラルとは「人々が善い人生を送るためには事由が必要であり、だから社会や国家はこれこれこうして自由を保証しなければならない」という考え方をしていたようであり、道徳的に優れた生のためには事由が必要だという理論建てをしていたらしく、つまり一定の価値観の範囲内での自由や「積極的自由」が必要であるという主張をしていたようだ。わたしとしても最近はそういう考え方のほうに共感する。そのうち「徳倫理学リベラリズム」でも提唱してみようかな。

 

・『感情の哲学入門講義』

 

 

 

 タイトル通り、大学での哲学入門講義に使用することを前提として書かれた、教科書みたいな感じの本。「哲学」についても「感情」についても「感情の哲学」についても、いい感じに入門になっている。内容はかなり丁寧かつ客観的であるのだが、そのせいで読んでいて物足りなくもあった。

 

・『言葉はいかに人を欺くか』

 

 

 扱われている題材は面白いのに、分析哲学にしてもいくらなんでも議論が細か過ぎてねちっこ過ぎるので読んでてぜんぜん面白くない。また、終盤の「犬笛」に関する議論は結論ありきというか概念工学的というか、左傾化したイデオロギーのための理屈をひねり出している感じがあった。

 

・『制と懲罰の歴史』

 

 

 

 面白そうな題材ではあるのに、各時代におけるエピソードを延々と羅列しているだけであり理論とか分析とかはほとんどなくて、知的好奇心がぜんぜんそそられない。まあエピソード羅列的な歴史の本っていっぱいあるけれど、よくみんな読んでいられるものだなと思う。うさん臭くても適当でもいいから、理論をぶちあげてくれたほうが断然おもしろいはずだ。また、著者の問題意識はたぶんフーコー的なあれなんだろうけど、そのせいで内容が凡庸になってしまった気もする。

 

・『飼いならす』

 

 

 

 それなりに興味深いのだが、10種類の動植物について章ごとに取り上げている構成のせいか、なんだか内容が散漫になっている。これなら、各動植物についてそれぞれ取り上げた新書を一冊ずつ読んだ方がよい読書体験ができると思った。「家畜化(栽培)」というトピックそのものについてもっとストレートに取り上げた方が面白くなっていただろう。遺伝子組み換え食品に関する議論も内容がかなり初歩の初歩という感じでいらねーと思った。

 

・『疫病と人類知』

 

 

 疫病の歴史、コロナウィルスや社会情勢に関する諸々の情報、『ブループリント』でも展開されていた著者独自の楽観論にもとづいた未来予測のごた混ぜという感じ。

 

・『マーサ・ヌスバウム

 

 

 

 ヌスバウムの来歴や思想について程よくまとめられていて、なかなか参考になる。とはいえヌスバウムの本って難しくないのでわざわざ入門書を読む必要はないとも思うのだが。性的モノ化論などに関する紹介があまりなされていないのは物足りなかった。

 

・『生と死を分ける数学』

 

 

 

 BLMの批判者たちがよくいう「白人警官に殺された黒人より、黒人に殺された黒人の数のほうが多い」といったレトリックを論破している箇所は必読。しかし、社会問題に絡められても、数学に関する議論ってどうにも眠くなって苦手である。

 

・『オン・ビーイング・ミー』

 

 

 内容が薄い。つまらない。

 

 

 

 

社会性の収斂進化、「社会性」は「善」であるのか?(読書メモ:『ブループリント:「よい未来」を築くための進化論と人類史』)

 

 

 この本のメインの主張である「青写真(社会性一式)」に関する議論などは先日の記事で紹介したので、今回は、感想とか気に入った部分の引用とかだけで済ませよう。

 

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・副題には「進化論と人類史」とあるが、基本的には進化論の話がメイン。下巻の後半からは文化進化論の紹介が多くなるが、歴史の議論がそこまで詳細にされるわけではない。内容としては、人間と動物(特に霊長類やゾウなどの社会性の高い動物たち)との共通点を示しながらも、人間には他の動物たちよりも際立った「文化」があることも強調しながら、人間の生物学的側面のなかでも善い部分に根付いた社会は「善い社会」となり得る点……といったことが主張される。

 最終章では規範的な議論が展開されるが、えらいことにいろんな倫理学者たちについて紹介しながら、著者なりの主張がバシッと示される*1。人間の生物学的傾向を強調し、さらには「生物学的傾向に従うのが善い」という部分まで含む著者の主張は「自然主義的誤謬」との批判を容易に招きかねないもであるから、その想定される批判に対して先回りした反論が展開されているのだ。

 ……とはいえ、先日の記事でもちらっと触れたが、著者と同じように人間の生物学的傾向の存在を認めたり生来的な利他性についても認識したりしながらも、最終的には「生物学的傾向に従うのではなく、理性に従うことが真に善い社会を築くためには必要だ」という結論を出す一部の功利主義者たち(ピーター・シンガーとかジョシュア・グリーンとか功利主義者じゃないかもしれないけどジョセフ・ヒースとか)の議論がほとんど紹介されないのは気になるところだ。わたしが見たところ、著者の議論にとって最も手強い論敵になるのは、「自然主義的誤謬だ!」とやいのやいのと文句を付けてくる人文学者や社会構築主義者などではなくて、進化心理学を理解したうえで生物学的傾向よりも理性の優位性を強調するタイプの論者であるはずだからだ。

 また、規範的な議論が展開されるのはほぼほぼ最終章だけに限られていることもあって、突き詰めが足りていない感じもする。

 

 とはいえ、最終章から印象に残った箇所を引用。

 

道徳的判断は世界を叙述するものではなく、規定するものであるから、これに反証は不可能であり、したがって道徳的判断は科学的でないというのが一般的な感覚だ。地球は平らだという主張が正しいとか誤っているとか言うことはできるにしても、殺人は悪いことであるという主張に対して同じように客観的な見解を述べることはできない。にもかかわらず、倫理には何かしら客観的なものがあるようにも見える。ヒュームが論じたように、たしかに倫理は私たちが世界に見出す客観的なものごとの状態に関係しているが、そこにはまた別の、「感情によって決定される」何かも含まれている。

(p.274)

※以下、引用はすべて下巻から。

 

第二次大戦後には、イギリスの哲学者リチャード・マーヴィン・ヘアの提唱による一連の考えても出てきた。ヘアは一九四二年に捕虜になってから、クウェー川に沿っての長い行軍と日本軍の収容所生活を生き延びていた。人間は自由に価値観を選択できるとの認識を保持しながら、同時にヘアは、その選択は制約に抗ってなされるものだとも論じた。個人の倫理は、あちこちに揺れ動きながらも、最終的には数々の根本的な制約に突き当たる。その制約は、何か客観的なもの、みずからの外にあるもの、言い換えれば、自然によって課されている。少なくとも倫理のある部分は、突き詰めれば自然なものだと言えるのだ。

この論は、次のように展開される。何をもって時計であるとするか(それは時間を正確に告げるものである)を理解すれば、時計の果たす機能が善いのか悪いのかを判断する立場に立てる。同様に、何をもって人間であるとするかを理解すれば、人間のなす経験が善いのか悪いのかを判断する立場に立てる。

たとえば愛する資質を欠いた人間は、人間であることを完全に満たしてはおらず、それは悪いことであると言えるかもしれない。この見方からすると、一連の自然な制約と定義は、それがなかったら果てしなく続く相対主義的な道徳の後退を止めることができる。社会が構成員の幸せや生存を強化するのなら、そのような社会は善いものだと言える。そうした制約に対して、進化も倫理も無縁ではない。これもまた古い考えで、少なくともプラトンアリストテレスまでさかのぼれる。

(p.275 - 276)

 

同じように、優しさや勇気といった人間の徳についても語ることができる。これらの徳は「自然な優秀性」であり、その反対は「自然な欠陥性」だ。〔フィリッパ・〕フットは「道徳的な行動は合理的な行動である」と論じ、倫理は人類の本性によって課される制約によって決定されうると説明した。人間の場合、「合理的」であるとは、人間は社会的に生きているときこそ善いということを意味する。人間は自然にそうするよう強いられているからだ。善い社会をつくることに関連するかぎりにおいて、人間が完全に人間であることを可能にする倫理は、人間の進化的過去に導かれている。

(p. 276 - 277)

 

・この本では、人間ほどではなくてもそれに準ずるくらい複雑な社会を築く動物たちーー霊長類、クジラ類、そしてゾウーーには、人間に準ずるような個体識別能力やアイデンティティ認知能力があって、彼らはときに利他的な行動をおこない、仲間とのあいだに友情を築いたり仲間が死んだら悲しんだりする、ということが示されている。

 霊長類はともかくゾウやクジラは進化的には人間からはずっと縁遠い存在であるが、それでも彼らは人間に類比できるような社会性を持っているのだ(その能力は、人間性や道徳性と呼ばれることもあるものである)。

 この不思議を、著者は「収斂進化」によって説明する。ゾウもクジラも人間も、ほかの動物たちに比べて高度な社会を築くようになるにつれて、同様の能力を身に付けることを要請された。自然環境だけでなく、自分たちが集団生活を営むことで身を置くようになった社会的環境にも適応する必要が生じたからだ。

 

私たちが目の構造をタコと共有できるとすれば、友情を結ぶ能力はゾウと共有できる。霊長類、ゾウ、クジラには社会性一式の要素が見られる。なぜなら、それらの動物たちは七五〇〇万年以上前に共通の祖先から枝分かれしたという事実にもかかわらず、環境が課した困難に対処するため、そうした形質を別個に、かつ収斂して進化させてきたからだ。当初、環境による困難は外的なものだった。しかし、やがて、動物たちがつくった社会的集団もまたその環境の特徴になり、彼らの社会的行動をさらに形成し強化していった。動物は社会的集団に身を置く頻度が高まるにつれて、社会的生活がうまくできるように進化していくのだ。

(p.58)

 

集団で生きることには、単独で生きる場合とはもちろん、一夫一妻で生きる場合ともまた違った難しさがある。人間は生存戦略として集団生活を採用した。そして、その(社会的)環境でできるだけうまく生きていけるように、たくさんの適応を(身体的形質や本能的行動も含めて)果たす一方で、単独生活に適した適応は放置した。このトレードオフにより、人間は地理的にとてつもない範囲に広まって、地球上の支配的な種になることができた。

自分の生きる物理的環境をそっくり背負って移動するカタツムリと同じように、人間もまた、友達と集団からなる社会的な生息環境をどこに行くときでも保持している。この社会的な保護殻に包まれていればこそ、私たちはとんでもなく多種多様な条件下で生存できるのだ。つまり私たち人類という種は、友情、協力、社会的学習に依存するよう進化したわけであるーーたとえこれらの麗しい資質が、烈火のような競争と暴力から生まれたのだとしても。

人類という種に見られるこれらの形質がまさしく普遍的であることは、第7章で見たように、これらが霊長類からゾウにいたるまで、ほかのさまざまな社会的動物に偏在していることからも証明される。連携を築いたり認識したりする能力は、社会的動物にとって必須のものであり、ある個体を友か敵か、自分の集団の部内者か部外者かに類別する能力は、正しく連携をとるのに絶対に欠かせない認知技能なのだ。

(p.108)

 

・わたしが思うに、「人間と一部の動物たちは、収斂進化によって同様の社会的な感情を身につけるに至った」という考え方は、動物倫理学にも示唆をもたらすものである。

 この考え方が正しいければ、ウシやブタやニワトリを殺すことよりも、あるいはイヌやネコを殺すことよりも、チンパンジーやゾウやイルカを殺すことはという主張は正当化される可能性が高い。社会性の高い動物は、自己アイデンティティ認知能力が高いためにほかの動物たちよりも「自分の生命」に対する利害が強いだけでなく、仲間たちのアイデンティティも認知できて仲間たちと絆を紡ぐことができるために、ほかの動物たちよりも「仲間の生命」に対する利害も強いと見なすことができる。……つまり、一匹を殺せばほかの仲間たちがその死を悼むような動物を殺すことは、殺される一匹だけでなく残された仲間たちにとっても危害となる、というわけだ。

 功利主義だけでなく、カント的な義務論や徳倫理でも、それぞれの理路において「社会性の高い動物を殺すことはとりわけ悪い」ということは説明できそうだ。

 さらには、自己に関する認知能力は高そうだが他者に関する認知能力はそれほど高そうでもなさそうな鳥類と、霊長類やクジラ類とを区別する論拠にもなるだろう*2

 

・この本で展開されている議論はやや総花的であり、文化進化論ならジョゼフ・ヘンリック、社会性とか集団的な道徳心理に関わる部分はジョナサン・ハイト、一夫一妻制に関する議論はラリー・ヤングで動物の社会性に関する議論ならフランス・ドゥ・ヴァールと、進化論や心理学に詳しい人ならそれぞれ別の学者の著書でもっと深く展開されている主張が浅口なかたちで短めに紹介される、という場面が多い。いちおう、著者のオリジナルな主張である「社会的ネットワーク」に関する議論も紹介されるのだが、ここの部分だけ言っていることが大したことなく感じられてあまり面白くない。他の学者たちの議論と「社会的ネットワーク」に関する議論がうまく接続できているかどうかも、正直に言うと微妙なところだ。最終章における規範的な議論との接続は、輪をかけてうまくいっていない。

 実際のところ、最後まで読んでも、著者の主張のどこがどのように目新しいのかはわたしにはよくわからなかった。人間は複雑な社会に適応するための諸々の特徴を備えていることはずっと前から進化心理学で言われていることだし、生物学的特徴をあまり無視したコミュニティはうまく行かないという話もそりゃそうだとしか言いようがないし、文化進化論や自己家畜化論だってもはや常識になりつつあるし。

 さらに、著者には「人間性」を「社会性」に還元して、さらにそれと「善」を早急に直結させたがる、という悪癖があるようだ。そのために、内集団バイアスについても「みんなが思っているほど危ないものではない」とばかりに論じられていて、なかなか危うい(たとえば、わたしたちに「友を愛し、敵を憎む傾向がある」ことよりも「私たちは友好的であり、親切であり…他人と協力し、互いに教え、教わることができる」という点に注目しよう、という主張がなされているのだが(p.109)、いやいや昨今の情勢で「敵を憎む傾向」が引き起こす問題点を無視することは無理でしょう)。

 

 

*1:『怒りの人類史』の著者にも見習ってほしい。

*2:ここら辺の議論はこちらを参照。

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「正しい怒り」は存在するか?(読書メモ:『怒りの人類史:ブッダからツイッターまで』)

 

 

 

「人類史」とは書いてあるが、内容は思想史のそれ。主に西洋で「怒り」という情動とはどのようにみなされてどのように扱われてきたか、ということが論じられている。

 第一部では怒りを否定する思想の歴史、第二部では怒りを(条件付きで)肯定する思想の歴史が扱われて、第三部では自然科学や心理学などにおける怒りについての研究の変遷が描かれる。

 最終章のひとつ手前の12章では、SNSのある現代社会における「怒り」の善し悪しについて論じられるのだが、著者はいちおうは中立っぽい風でありながらも、トランプ主義者や人種差別主義者たちの「怒り」を否定する一方で、フェミニストたちの「怒り」は肯定しているようだ。

 ……正直に言うと、この章の書きぶりはなかなかにひどい。「思想史家として中立的でありたい」という意識のせいか、怒りに関して様々な哲学者が行なってきた規範的な議論を様々に参照しながらも、著者は自分自身による「怒りはどのような条件のときに善くて、どのような条件のときに悪いか」という規範的な定義を明言しない。だけれど、12章を読んだ読者の大半には、「トランプ支持者の怒りは筋違いであり侮蔑されるべきものであって、フェミニストたちの怒りは正当であって称賛されるべきものである」と著者が考えていることは伝わるだろう(つまり、規範的なメッセージが含まれている)。前者の怒りは誤った認識や逆恨みに基づいているという風に描写されているが、後者については「これまでに女性の怒りは男性の怒りに比べて軽んじられて抑圧されてきた」という歴史的経緯とセットで紹介されているので批判する方が間違っている、という感じになっているからだ。

 こうなっている原因は、「中立を装いながら特定の主張を肯定する議論を展開して読者を誘導する」という行為を著者が確信犯的にやっているという点にではなく、ほんとうの意味での哲学的で規範的な思考をおこなうことを著者が放棄しているという点にあるように思われる。自分が拠って立つための足場を作っていないから、現代の社会(あるいは、本を出したり読んだりするような知的リベラルな界隈)でなんとなく「これは否定すべきで、これは肯定すべき」とされている風潮にそのまま流されてしまっているのである。

 また、ほかの人たちの感想を調べたところ、案の定というか、フェミニストの人たちがこの本を肯定しているのを見かけた。いちおうわたしも修士論文で女性による社会運動の歴史を扱ってきたので、「女性の怒りは馬鹿にされたり否定されたり抑圧されたりしてきた」という歴史的経緯の存在は理解している*1。とはいえ、トーンポリシングの議論でも「ケアの倫理」についての議論でもそうなのだが、「これまで怒りやケアの感情が女性性に結び付けられながら歴史的に軽んじられてきた」ということは「怒りやケアの感情は正しい」ということを保証するわけではない*2。すくなくともSNSなどを見てみれば、大半の人たちは、現在のフェミニストたちには怒りが「不足」しているのではなく「過剰」になっていると判断することだろう。

 そして、「これまで女性の怒りは抑圧されてきた」というナラティブ自体が、怒りという火に油をそそぐ効果を持つはずである。

 

 それはともかく、第一部と第二部で展開される、「怒り」の否定と肯定をめぐる西洋哲学者たちの議論のまとめは、それなりに興味深い。

 第一章では仏教の議論も紹介されるとはいえ、怒りに対する「否定派」の代表格はストア派だ。

 

多くの著述家が、ストア哲学と仏教とのあいだに類似点を見いだしてきた。だが、古代ローマの政治家であり、ストア哲学者でもあったセネカ(紀元六十五年没)がもしブッダのことを知ったら、かなり変わった楽観主義者だと思ったことだろう。セネカの考えでは、きちんと育てられ、正しい哲学を教えられたとしても、怒りをもたない人間になれるのはごく少数(おもに男性、ひょっとしたら女性がひとりかふたり)だけだ。それはだれもが目指すべき目標だが、達成されることはない。人間の性質について、そして自然の摂理についてのセネカの見方は、ブッダのそれとはまったく異なっていた。

(p.37)

 

……アリストテレスの考えでは、怒りは体と心の自然な機能であり、怒りがふさわしい社会・政治的な状況が存在することは明白だった。その反対にセネカストア哲学者は一般に、怒りは自然のものではないと考えた。「人間の精神状態がゆがんでいないとき、これ〔人間の性質〕ほど穏やかなものがあるだろうか?」。セネカは、怒りを引き起こすような場面はそれこそ無数にあるが、どれひとつとして怒りを理にかなうとすることはできないと考えていた。

(p.42)

  

 現代の哲学者であるマーサ・ヌスバウムも、ストア派の末裔として紹介されている。ヌスバウムは怒りには多少の長所があることは認めているが、それをもっと生産的な情動へと「移行」させることが必要である、と論じているのだ。どのような方向に移行させるべきであるかということは、怒りが親密な領域・中間領域・政治的領域のどこに生じたかによって異なる*3

 

 怒りの「肯定派」の代表格は、なんといってもアリストテレスである。

 

アリストテレス曰く、怒りは評価、つまり思いなしによって生まれる。我々は、自分が軽んじられたと思ったときに怒りが湧く。その侮辱は一種の痛みとして認知され、我々を怒らせる。痛みをもたらした相手に立ち向かうなど、何か行動を起こさずにはいられない。復讐のよろこびーーあるいはそれを夢想することーーで、軽んじられたという痛みは軽減する。これは完璧に普通の反応だとアリストテレスは言う。そしてたいていの場合、復讐は全く正当な、それどころか気高いおこないであると。けっして怒らないのは愚者であり、またつねに怒っているのは短気な者や身勝手な者だ。怒りに至る経緯はさまざまだが、重要なのは、正しいとき、正しいことにかんして、正しい相手に、正しい目的で、正しいやり方で怒る、ということだ。

(p.112)

 

 ご存知の通り、キリスト教も、神やその法に対して不正を行う相手には怒りをぶつけることを肯定している。

 そして、デビッド・ヒュームやアダム・スミスなどのスコットランドの哲学者たちも「肯定派」であった。ヒュームは以下のように論じたのである。

 

 怒りは倫理的な感受性に欠かせない。残虐な人物に対しては怒るべきであり、そのようにはっきり言うべきときもある。怒りを覚えたとき、思慮分別をもって、「控えめに」そのことを伝えられたら、それは立派だ。怒りの度合いが激しくても、それが「自分自身の体と心の作用」であることを自覚しなければならない。怒りが残忍さを引き起こすと、悪徳のなかでももっとも酷いものとなるのは本当だ。しかしその行き過ぎこそ、周りの者の道徳的感性を呼びさます。残酷の犠牲者に同情、心配するからだ。我々は「(残酷の)罪をおかす」人に嫌悪を感じ、「他の状況では有り得ないほどの強い憎しみを覚える」。わたしたちの倫理観は、賛成するために愛が必要なように、断罪するために怒りが必要なのだ。怒りがなければ、我々は道徳的な判断ができない。

(p.160)

 

 わたしとしては、アリストテレスが言うように「正しい怒り」もときと場合によっては有り得ると思う。とはいえ、著者も指摘しているように、「正しい怒り」と「正しくない怒り」が存在するという考え方は、ただちに「自分の怒りは正しいが、あいつの怒りは正しくない」という発想に結び付くことは火を見るよりも明らかだ。ジョナサン・ハイトがたびたび指摘するように「他人の目のおがくずは見えても、自分の目の中の丸太は見えない」という自己正当化の機能が、わたしたちの心理や感情にはどうしても備わるものだから。同じように、この本では紹介されていないが(紹介すればいいのに)、進化心理学者たちの大半や進化論的暴露論証をおこなう現代の功利主義者たちも、怒りは否定するはずである。だから、セネカヌスバウムの主張を採用した方が賢明であるだろう。

 

 なお、この本はこれまでわたしが読んできた本のなかでもいちばんというくらいに誤字や乱丁がひどかった。

 

 

*1:

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*2:

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

*3:

 

 

 

 参考文献に乗っているのは『Anger and Forgiveness』であるが、『感情と法』でも似たような議論がされていたと思う。

愛情と結婚の進化論と人類史

 

 

『ブループリント:「よい未来」を築くための進化論と人類史』では、基本的には進化心理学や文化進化論などの考え方に基づきながら、人間には「社会性」がどのような形で備わっていて、どういう条件が揃えばそれらが表出されるか、といったことが論じられている。

 この本のメインとなる主張は、"私たちの遺伝子には社会や集団の「青写真(ブループリント)が組み込まれている"、というものだ。

 世界には様々なかたちの社会があるとはいえ、どんなかたちの社会でも存続できるというわけではない。現に存続してきた社会とは、それが表面上はどれだけ多様であっても、根本となる構造は共通しており「青写真」に基づいているのだ。逆に言うと、「青写真」を無視した構造の社会(人工的に作られたコミューンや、漂流者たちが急造した社会など)は存続することが困難であり、早い段階で崩壊してしまうのである。

 また、「青写真」は「社会性一式(ソーシャル・スイート)」とも呼称されている。

 

これから示すように、あらゆる社会の核心には以下のような社会性一式が存在する。

 

(1)個人のアイデンティティを持つ、またそれを認識する能力

(2)パートナーや子供への愛情

(3)交友

(4)社会的ネットワーク

(5)協力

(6)自分が属する集団への好意(すなわち内集団バイアス)

(7)ゆるやかな階級制(すなわち相対的な平等主義)

(8)社会的な学習と指導

 

(上巻、p.37)

※以下、引用はすべて上巻から。

 

これらの特徴は団結することにかかわっており、不確実な世界で生き延びるためにきわめて有益なものである。知識をより効率的に獲得・伝達する方法を提供し、リスクを共有できるようにしてくれるからだ。言い換えれば、これらの特質は進化の観点から見て合理的であり、私たちのダーウィン適応度〔訳注:ある遺伝子型を持つ個体が次代にどれだけ残るかを示す尺度〕 を高め、個人的・集団的利益を促進する。人間の遺伝子は、社会的な感性や行動を私たちに授けることによって、私たちが大小の規模でつくる社会の形成を助けてくれるのである。

こうしてつくりだされた社会環境が、今度は、進化的時間を通じたフィードバック・ループを生み出す。歴史を通じて、人間は社会集団に囲まれて暮らしてきたが、同胞ーー私たちが交流し、協力し、あるいは避けなければならない人びとーーの存在は、遺伝子の形成においてどんな捕食者にも劣らないほど大きな影響力を持っていた。進化論的に言えば、私たちが社会環境を形成してきたのと同様に、社会環境が私たちを形成してきたのだ。

(p.39)

 

 進化心理学の考え方にしたがって、この本のなかでは人間というものには生物学的に決定された共通の特徴が存在しており、古今東西のどこであっても人間の本質が変わらない、とされている。以下の引用部分はドナルド・ブラウンの「ヒューマン・ユニヴァーサル」論について紹介する箇所だ*1

 

一九九一年、文化人類学者のドナルド・ブラウンは、文化人類学の分野で普遍的特性を探ることへの「タブー」と称するものに挑んだ。彼は、文化的特徴を普遍的なものとした可能性のある三つの広範なメカニズムの概略を描いた。そうした文化的特徴は、(1)ある場所で使われはじめ、広く拡散していったものかもしれない(たとえば車輪のように)。(2)環境によって課される、あらゆる人間が直面する話題(たとえば住みかを見つける、料理をつくる、子の父であることを確定するなどの必要性)に対して一般に見いだされる解決法を反映しているのかもしれない。(3)あらゆる人間に共通する生来の特徴(たとえば音楽に惹かれる、友人を欲しがる、公正の実現に尽くすなど)を反映しているのかもしれない。すべてではないにしても一部の普遍的特性は、進化した人間本性の産物に違いない。

仮説上の「普遍的人間」について詳しく説明するなかで、ブラウンは、言語、社会、行動、認識にかかわる表面的な普遍的特性を数十も列挙している。

 

 人間の普遍的特性として挙げられるものには、文化の領域では、神話、伝説、日課、規則、幸運や先例の概念、身体装飾、道具の使用と製作などがある。言語の領域では、文法、音素、多義性、換喩、反意語、単語の使用頻度と長さの反比などがある。社会的領域では、分業、社会集団、年齢階梯、家族、親族制度、自民族中心主義、遊び、交換、協力、互恵主義などがある。行動の領域では、攻撃、身ぶり、うわさ話、顔の表情などがある。精神の領域では、感情、二分法的思考、ヘビへの警戒や恐怖、感情移入、心理学的な防御機構などがある。

 

(p.33)

 

 

 さて、この本の第5章「始まりは愛」 では、人間(と動物)が異性のパートナーに対して抱く愛情、そして人間の様々な社会における結婚制度というトピックが論じられている。

 そもそも、「恋愛」や「結婚」といったテーマは、進化論的に考えるうえではかなり興味深く、そして厄介なものである。わたしたちがだれかに恋をして求愛するときに抱く感情とは、あきらかに身体的なものだ。恋愛で悩んでいる人は、相手のことばかり考えて他のことが考えられなくなるだけでなく、食欲も失ったりしてしまう。「恋愛とはロマンティック・ラブ・イデオロギーといった文化的規範によって押し付けられるものに過ぎない」という風の主張をする人は多いが、ふつう、文化的規範といったものが思考や生理的機能にここまでの影響を与えることはない。そして、恋愛をした人がのぼせ上がったり食欲を失ったりする姿は、大昔から世界各地の様々な物語や記録のなかで描かれてきたのだ。恋愛という現象が自然なものであり、普遍的なものであることは明白だろう*2

 恋愛に比べると、結婚を普遍的なものであると主張することは難しい。婚姻とは法律で定められる「制度」であり、そのかたちも社会によって様々だ。一夫一妻制の社会もあれば、一夫多妻制や多夫多妻制の社会もある。どこの社会でもなんらかのかたちで結婚制度が存在するという事実は結婚も「青写真」に基づいていることを示すかもしれないが、モノガミーとポリアモリーという真逆に見える制度のどちらもが存在し得るというのは、どういうことだろうか。

 

 実際のところ、わたしたちが「これは世界中のみんながやっていることだろう」と思っている慣習や行動ですら、一部の社会では実践されていなかったりタブー視されていたりすることがある。たとえば、アフリカ南部に住むツォンガ族はキスを気持ち悪く思ってタブー視しているし、アフリカのほか地域や中南米に暮らす狩猟採集民や農耕民たちの多くにも愛情のキスや性的なキスの習慣はないそうだ。……とはいえ、普遍的な要素もやっぱり存在するのである。

 

人間の条件の大きな謎の一つ、すなわち、単なる「性的な関係」ではなく「愛情のある関係」を他人と築こうとする衝動の根底にあるものは何だろう。進化の観点からすると、人間がパートナーを欲しがる理由を説明するのは簡単だ。しかし、どうして人間はパートナーに特別な愛着を抱くのだろう?どうしてパートナーに愛情を感じるのだろう?

愛したい、所有したい、交わりたいという人間のせめぎ合う欲望を理解するには、人間の恋愛・性愛の多様性と、それらに通底する核心にあるものーー何かがあるとすればだがーーの両方について考える必要がある。

キスだけにとどまらず、セックスや結婚にまつわる多くの規範や慣習は世界中で異なっている。だが、異なってはいない別の特徴もある。オーガズムの生理といった不変の特徴は、地域にかかわらず同じはずであり、人類の進化した生態や心理から生じるものだ。こうした普遍的特徴のなかでもカギとなるのが「夫婦の絆」を結ぼうとする傾向だ。これは、パートナーと強固な社会的愛着関係を築きたいという生物学的な衝動であり、ますます理解が進んでいる分子と神経のメカニズムによって促進される。進化は文化に対して連携して機能すべき「原料」を提供し、その基盤のうえに配偶システムが築かれる。第11章で考察するように、それに次いで今度は配偶システムが進化を形成することもある(たとえば、いとこ結婚を禁じる一部の文化的規則は子孫の生存に影響を与える)。

(p.179)

 

 結婚という慣習には、文化的規範と進化的基盤が絡み合っている。さらに、環境という要素が与える影響も大きい。アウストラロピテクスは一夫多妻制であったようだが、移動しながら狩猟採集を営むという生活様式を取り入れたホモ・サピエンスは一夫一妻制となった。これには、食糧源の変化が影響している(狩猟は集団で協力しておこなう行為なので集団に平等主義をもたらし、パートナーのために食糧を採集して与えるという行為は一対一の排他的な関係の価値を高める)。しかし農業革命が起こった一万年前や民族国家が興隆した五千年前は、社会経済的不平等をもたらして一夫多妻制を復活させた。一夫一妻制がふたたび戻ってきたのは、西洋諸国では二千年前から、他の地域では数百年前からである。

 

人類学的・歴史的記録のなかで一夫一妻制をとっていた少数派の社会は、両極端の二つの大きなカテゴリーに分けられる。かたや、男性間の身分格差がほとんどなく、生体的に厳しい環境にある小規模な社会、かたや、ギリシャやローマのように繁栄をきわめた大規模な古代社会。「生態的に押しつけられた」一夫一妻制が採用されるのは、環境のせいでほかの選択肢を選ぶのが難しい場合だ。これは、食べ物が手に入らないせいで痩せてしまう人に似ている。ギリシャ・ローマのような「文化的に押しつけられた」一夫一妻制は、一つの規範として採用される。これは、容貌や健康上の理由で痩せているほうが好ましいため、体重を落とすことを選ぶ人に似ている。文化的に押しつけられた一夫一妻制は、現在主流となっている形だ。

(p.185)

 

自然人類学者のジョゼフ・ヘンリックらによれば、文化的な一夫一妻制が広がった一因は、一夫一妻制が集団どうしの競争で有利だという点にあるという。配偶者がいない男性は、自分が属する集団内で暴力に訴えるか、ほかの集団を襲撃するかして、紛争を引き起こす。一夫一妻制を採用した政治体、国家、宗教では、このような暴力の発生率が下がり、内部にも外部にも資源をより生産的にふり分けることができる。こうした観点からすれば、一夫一妻婚にかんする現代の規範と制度は、集団間の競争と集団内の利益という圧力に呼応した一連の進化のプロセスによってつくられてきたのである。

(p.188)

 

 というわけで、一夫一妻制は「普遍的」なものとまでは言えない。『ブループリント』のなかでは、一夫一妻制である狩猟採集民のハッザ族、一夫多妻制である牧畜民のトゥルカナ族、土地や食料が不足している状況に対応するために一妻多夫制を営む部族たち(パラグアイアチェ族など)、そして結婚という制度がそもそも存在せず父親や夫という概念もなくポリアモリー的な関係を営むヒマラヤ山脈のナ族が、具体例として紹介されている*3

 このなかでも、ナ族に関する記述はとりわけ興味深い。一見すると、現代の先進国社会でポリアモリーを復活させたいと企む人たちにとっては、「結婚」という概念から解放されたかのように見えるナ族のような社会が存在することは朗報だ。人間社会における結婚や愛情のあり方はひとつに固定されているわけではなく、どんな形にでもどうとでも変えられる、という期待を抱けるからである。……しかし、(ほかの社会に比べるとずっと少ないとはいえ)ナ族のあいだですら性的な嫉妬は存在するし、社会の規範に逆らって排他的で独占的な関係を結ぼうとする男女もいるのだ。

 

〔ナ族について調査した文化人類学者の〕蔡はこう結論している。人間にはいくつかの根本的なーーそして私に言わせれば、生物ならではのーー欲求があり、そのうちの二つがパートナーを余裕したいという欲求と、複数のパートナーを持ちたちという欲求であると。同じ集団内で、一見矛盾するこれらの二つの衝動と折り合いをつけるのは難しいし、実のところ選択肢は二つしかない。多様性を楽しむことなく所有するか、所有することなく多様性を楽しむかだ。

進化の過程を通じ、愛着には強い力があることがわかっている。しかも、社会は制度的に言って両方を満足させることはできないため、ナ族はーー おそらく社会としては唯一 ーー後者を選んでこのジレンマを解決したように思える。

 

(……中略……)

 

それでも、正式な制度によって、(パートナーを愛することと所有することの両方に対する)これらの人間的欲求のどちらかを根絶することはできない。これらの欲求は、人間本性の最も根源的な部分から発しているからだ。人は、あらゆる社会であらゆる種類の規範を破る。そこでナ族は、走婚だけでも社会は十二分に機能するにもかかわらず、人目をはばからない訪問という制度を認めることで、所有欲もある程度は満たせるようにしている。さらにはナ族のあいだですら、「燃えさかる愛の炎にわれを忘れた」カップルが、お互いを完全に所有すべく駆け落ちすることがある。彼らは相手を訪問するだけでは飽き足らず、複数の相手を持つことには興味がない。こうした状況は、多くの社会がパートナーの変更を可能にするために、結婚制度に便宜的要素を与えるのと似ている。たとえば離婚を許したり、男性が内妻を迎えることを認めたりといったことだ。

多くの人びとがこう論じてきた。きわめて珍しいナ族の性的慣行は、結婚の普遍性を反証するものであり、一夫一妻制に生物学的根拠などありえないことを示していると。だが、変り種が存在するからといって、人類に中心的傾向がないとは限らない。科学者として私たちは、まとめることもできれば分割することもできるーーつまり、共通点を探すこともできれば差異を探すこともできるのだ。人間の青写真は私たちの現実の原案であって、最終版ではない。

ナ族の関係構造の根底にある動機は、複数のパートナーが欲しいという人間の基本的な欲求であり、結婚制度の根底にある動機は、パートナーを所有したいという同じく基本的な欲求だ。ナ族の例外的ケースは次のことを証明している。愛着への欲求ーー実はパートナーと絆を結びたいという欲求ーーほど深く根本的な人間性の一面は、完全に抑圧することも置き換えることもできない。まさにその絆を断ち切るために、きわめて精巧につくられた一連の文化的規則をもってしても、絶対に不可能なのだ。

(p.219 - 220)

 

 第6章の「動物の惹き合う力」では、人間と一部の動物が異性に対して抱く「絆を結びたいという欲求」のあり方について、詳細に論じられる。ここで主に取り上げられるのは、以前にもこのブログで紹介した、人間と同じように一夫一妻制を営む哺乳類でありプレーリーハタネズミを用いた、ラリー・ヤングの研究だ*4

 

 この本のなかでもとくにオリジナリティがあって印象にのこる主張が、「人間が他人や自集団に対して抱く愛情は、パートナーに対して抱く愛情を基盤として、進化していった」というものである。

 

進化の過程で、人間はまず自分の子供、次に配偶者を愛するようになり、続いて血のつながった親戚、さらに婚姻によってできた親戚(姻族)、最後に友人や集団に愛着を感じるようになったらしい。私たちは、ますます多くの人々に愛着を感じる種になるための長期的な移行のまっただなかにいるのではないかと、ときどき思うことがある。だが性的関係以外の人間関係を理解するためには、まず性や恋愛による結びつきを理解しなければならない。こうした結びつきは、進化の過程においてそれ以外の絆に先行していた。配偶者への愛情は、青写真のカギとなる要素なのだ。

(p.183)

 

……ほかの霊長類とくらべると、人類の社会組織の顕著な特徴は、血縁関係のない大勢の個体と共に暮らすことだ。正確に言えば、人間はオスもメスも複数いる集団で生活し、配偶者との間に夫婦の絆を結ぶため、その集団は厳密には複数家族集団だと言える。 さらに、ほかの霊長類とは異なり、人間の家族は父系のみ、母系のみの親族と共に過ごす必要はなく、いわゆる多所居住の形をとって一方から他方へと移ることができる。

そうした住み方の特徴の起源は複雑だが、一つの経路として、夫婦の絆と両親による子育てへの共同投資の結果、両性が特に居住にかんする意思決定でより平等になったことが挙げられる。母親と父親の双方が、自分の親族と一緒の生活をーー別々の時期にかもしれないがーー選択できるのだ。長きにわたって各集団の多くのメンバーがこの選択権を行使した結果、かなり混成された、おおむね血縁関係のない一連の集団ができ上がったのだろう。ようするに、狩猟採集民の野営集団内に見られる血縁関係の度合いの低さは、男性と女性がそれぞれの親族と共に時間を過ごそうとするうちに、自然に生じたのだ。こうして、夫婦の絆と共同の子育てが、血縁関係のない人たちとの協力と友情の土台となったのである。

おおむね非血縁者から成るそのような集団の中で、人びとは血縁関係のない友人を持てるようになった。それについては第8章と第9章で見ていく。感情と愛着の輪を広げることが可能となった。人間の集団にとって大切な協力の方法である食物の分かち合いについて考えてみよう。食物を入手したその場で一緒に食べるだけでなく、他者と分け合うためには、ある場所から別の場所へと運べなくてはならない。したがって、分け合う目的での食物の採集はおそらく、二足歩行と共進化したのだろう。二足歩行により、両手が空いて、パートナーや子のもとへ食物を持ち帰ることができるようになったからだ。

(p.259 - 260)

 

 著者の議論は、どことなく、ピーター・シンガーの著書『輪の拡大』を思い出させるところがある*5。シンガーも、人間が道徳的配慮の対象を自分自身から身近な家族や親族へ、そして自集団へと拡大させていった進化的な歴史について記述していた。……とはいえ、進化によって備わった感情に基づいた道徳配慮には限界があり、これからは感情ではなく理性に基づいて世界中の人々や動物へと配慮の対象を拡大しなくてはならない、というのが主な論点であるのだが。『ブループリント』のなかでシンガー(や最近の「進化論的倫理学」の議論)があまり参照されていないのはやや残念なことではある。

 

 

*1:

 

 

この本はいつか読みたいと思っているのだけれど、どこの図書館にも置いていないし中古価格は高騰しているしで、なかなか手が出せなくて困る。

*2:

davitrice.hatenadiary.jp

*3:ナ族では、結婚の代わりに走婚(通い婚)が行われている。男性は日が暮れてから女性の家に行って、相手の家族とは接触しないように注意して、セックスだけして夜明け前に帰るのである。

*4:

davitrice.hatenadiary.jp

*5:

econ101.jp

経済的不平等のなにが悪いのか?(読書メモ:『21世紀の啓蒙:理性、科学、ヒューマニズム』)

 

 

 原著が出たあとに寄せられた反論に対してピンカーが行なった再反論を紹介したり*1、現代ビジネスの記事でピンカーについて書いたりしたけれど*2、『21世紀の啓蒙』を通して読むのは今回がはじめて。……とはいえ、前著『暴力の人類史』に比べると、読み物としての面白さは数段劣ると言わざるをえない内容だ。

 

『21世紀の啓蒙』にせよ『暴力の人類史』にせよ、核となる主張は「人類は進歩してきて、世界はどんどん平和になってきた」というものであるが、『暴力の人類史』ではこの主張を説得的に「論証」するためにかなりの努力がなされており、ノルベルト・エリアスの『文明化の過程』を引用している部分や「道徳的フリン効果」についての議論をはじめとして、印象に残る箇所が多々あった。読者たちの常識に反する主張を伝えるためには、単にデータやグラフを延々と示し続けるだけだとダメで、認識を一変させるくらいにビビッドなエピソードを示したりエキサイティングな主張を展開したりするなどの「工夫」が必要とされたわけである。

 ……しかし、『21世紀の啓蒙』を読む読者の大半は『暴力の人類史』も読んでいるということをピンカーも理解しているので、この本を書くときにはもはや「論証」や「工夫」は必要とされなかった。したがって、『21世紀の啓蒙』のとくに第二部では延々とグラフやデータが示され続けるということになるし、しかも主張の大半は「『暴力の人類史』の出版以後にも暴力が減り続けて社会が豊かになり続けていることを示す」というものだから、新鮮味がほとんど感じられない。

 第一部と第三部では「啓蒙主義」の意義が説かれて、科学的かつ理性的に考えて議論することの大切さが語られる。その主張に異論はないが、ピンカーが自分の言いたいことをゴリ押ししているだけという感も否めない。たとえばジョセフ・ヒースが『啓蒙思想2.0』で展開した議論の方がずっと含蓄があったしウィットにも富んでいた。

 というわけで全体的にはあまり評価できない本ではあるのだが、分厚いわりにスラスラと読めるのはいいところだ。また、進歩の指標として取り上げられているトピックの数は『暴力の人類史』のときからさらに増えているので、情報量が盛り沢山であることはたしかだ。

 

 しかし、第二部第九章の「不平等は本当の問題ではない」は、『暴力の人類史』でもあまり取り上げられなかったトピックである「不平等」にスポットをあてたものであるが、この章で展開されている議論は例外的に新鮮味があって、なかなか面白かった。

「経済的不平等は深刻な問題である」という主張は左からも右からも連呼されていてすっかり定番な議論になっているが、ピンカーは果敢にもこの主張に対して反論しようとするのだ。

 

格差という概念の範疇に入る現象は山ほどあるが、そのなかに深刻なものがあることは確かだ。それらに対して何らかの対処が求められるのは、人々が不平等感に煽られて「市場経済も技術進歩も対外貿易も放棄せよ」といった破壊的な考えに走るのを防ぐためでもある。格差というのは分析が非常に困難で(人口が一〇〇万なら九九万九九九九通りの不平等がありうるのだから)、これを扱う本も数が多い。だがわたしがこのテーマに一章を割くべきだと思ったのは、あまりにも多くの人がディストピア論に惑わされ、格差を「現代社会が人間のありようを改善できていない証拠」ととらえているからだ。このあと論じるように、その考え方は多くの点で間違っている。

(上巻、p.189)

※以下、引用はすべて上巻から。

 

哲学者のハリー・フランクファートが二〇一五年の『不平等論』でこうした問題を堀り下げ、次のように論じている。不平等それ自体は道徳上好ましくないわけではない。 好ましくないのは「貧困」である。長生きで、健康で、楽しく、刺激的な人生を送れるなら、お隣さんがいくら稼いでいても、どれほど大きな家に住んでいても、車を何台もっていても、道徳的にはどうでもいい。「道徳的見地からすれば、誰もが"同じだけ"もつことは重要ではない。道徳上重要なのは誰もが"十分に"もつことである」と。

(p.190)

 

このような格差と貧困の混同は、「富は猛獣にとってのアンテロープの死骸と同じように有限で、その分配はゼロサム競争であり、誰かの取り分が増えれば他の取り分が減る」という考え方ーー仕事量についていわれる「労働塊の誤謬」のような考え方ーーから生じる。しかし前章で述べたように、富とはそういうものではなく、産業革命以降に指数関数的に増えたのだった。つまり裕福な人がさらに裕福になるときには、貧しい人も裕福になりうる。専門家でさえ塊の誤謬に陥ったような表現をよく使うが、それは概念を混同しているというより、修辞上の熱意の表れかもしれない、

(……中略……)

塊の誤謬よりさらに有害なのが、裕福になった人は本来の取り分以上のものを他人から奪っているという考え方である。これがなぜ間違っているかについては、哲学者のロバート・ノージックの有名な論述があるが、それを二一世紀版に書き換えるとこうなる。今日の世界的な富豪の一人に『ハリー・ポッター』シリーズの著者、J・K・ローリングがいる。このシリーズは四億部以上を売り上げ、さらに映画化されて同じくらいの観客を動員した。仮に一〇億人が『ハリー・ポッター』のペーパーバックか映画のチケットのために一〇ドルずつ支払い、その一割がローリングの収入になったとしよう。当然のことながら彼女は大富豪となり、格差を拡大させたことになるわけだが、人々を不幸にしたわけではなく、むしろ幸福にした(すべての富豪が人々を幸せにしたという意味ではない)。この説明はローリングの所得が努力や能力の成果にすぎないとか、彼女が世界に提供した情報や幸福の対価にすぎないといっているのではない。どこかの委員会が彼女は富豪になるにふさわしいと決めたわけでもない。彼女が得た富は、一〇億人の読者や鑑賞者の自発的行為から生まれた副産物である。

(p.191 - 192)

 

 フランクファートのような「経済的不平等それ自体が悪ではない」という主張に対する反論として考えられるのは、経済的不平等が存在すること自体によって人々の福利にもたらされる悪影響を主張する議論であるだろう。邦訳されている本としては、リチャード・ウィルキンソンとケイト・ピケットの『平等社会』や『格差は心を壊す:比較という呪縛』、アンガス・ディートンの『大脱出』、ロバート・フランクの『ダーウィン・エコノミー:自由、競争、公益』などでこのような議論が展開されている*3。具体的な主張の内容としては、「経済格差の存在は個人の精神に悪影響を与えて、身体的な健康も害する」といったミクロなものも、「経済格差の存在は社会の紐帯を破壊して、民主主義を機能不全に陥らせる」といったマクロなものもある。

 これらの主張に対して、ピンカーは以下のように反論する。

 

『平等社会』 および類似の著書の理論は「左派の万物の新理論」と呼ばれていて、複雑に絡み合う相関関係をいきなり一つの原因で説明しようとするところに問題がある

(……中略……)

また、スウェーデンやフランスのように経済的に平等主義の国々と、ブラジルや南アフリカのような不平等な国々とでは、所得分配以外にも数々の相違点があるが、そこが無視されている。平等主義の国には、豊か、教育レベルが高い、良い統治がなされている、文化的に均質といった特徴も見られる。つまり不平等と幸福度(あるいは他の社会善)の見た目の相関は、ウガンダよりデンマークで暮らすほうがいい理由はたくさんあるということを示しているにすぎないかもしれない。

(……中略……)

いや、「不平等が悪を生む」という主張に対しては、もっと決定的な反論の根拠がある。社会学者のジョナサン・ケリーとマリア・エヴァンズが三〇年にわたって六八の社会の二〇万人を対象に調査を行い、その結果を分析したところ、不平等と幸福度の相関は疑似相関であって因果関係ではないことがわかった。(……中略……)発展途上国においては、格差は人々の気力をくじくのではなく逆に鼓舞していて、不平等な社会のほうがかえって人々の幸福度が高いという結果も生じている。

(p.194-195)

 

「不平等な社会の方が人々を幸福にする」という主張に対しては「ほんとかよ」と思わなくもない。とはいえ、ウィルキンソンとピケットの本は読んでいてもあまり説得力が感じられず、なんでもかんでも悪いことを不平等というひとつの原因に押し付けている感が強かったこともたしかだ。

 事実の問題として「不平等は人を不幸にする」論と「不平等は人を不幸にするわけではない」論のどちらの方が正しいかということは、経済学や統計学の門外漢であるわたしとしては、結局のところは判断がつきかねる問題だ。……とはいえ、昨今の言論では経済的不平等はもっとも憎まれている事柄であり(擁護するのはごく一部の経済学者だけだ)、それに対する批判は精度が低くても甘めに扱ってもらえがち、というのはありそうな話であると思う。

 

 また、ピンカーは、「人が稼ぐ額」ではなく「人が消費する額」に注目すればアメリカの貧困率は現在では3%しかない、とも主張している。グローバル化と技術の進歩によりモノの値段が安くなったことで、所得が少ない人でも昔に比べて豊かな生活ができるようになったということだ。とはいえ、この議論はさすがに「定義のすり替え」という感が強いし、不平等を問題視している人たちに対する反論にもなっていなさそうに思える。

 しかしながら、数十年前の社会がいまよりも生活水準が高かったり、過去の世紀は現代に比べて不平等がずっと激しかったという事実を指摘することは、安直な現代文明批判や反資本主義運動を牽制するという点において、重要であるだろう。

 

 

 

 他の章についても軽く言及しておくと、犯罪の問題について扱った第一二章「世界はいかにして安全になったか」*4。マーサ・ヌスバウムのケイパビリティ論が取り上げられる第一七章「生活の質と選択の自由」や、「世界がいくら進歩してもわたしたちはぜんぜん幸福になっていないじゃないか?」という疑問に答える第一八章「幸福感が豊かさに比例しない理由」、キリスト教イスラム教にニーチェ信者をこきおろす第二三章「ヒューマニズムを改めて擁護する」はそれなりに面白かった(しかし、いずれの章についても内容はやや船舶であり、別の専門家がその章のテーマを題材にした一冊の本を読んだ方がいいような気はする)。

 第一部における「啓蒙」や「エントロピー」「情報」の定義論に、チャールズ・P・スノーの『二つの文化と科学革命』を紹介してくれるところとかもタメにはなる。

 

*1:

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

*2:

gendai.ismedia.jp

*3:

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

*4:一二章のなかでもとくに興味深い文章。

高い犯罪率が続いたその何十年かのあいだ、たいていの専門家は「暴力犯罪には対処しようがない」というだけだった。それによると、暴力犯罪は暴力的なアメリカ社会と一体化したものなので、人種差別や貧困や格差などの根本にある原因を解決しないかぎり、抑えることはできないとされていた。このタイプの歴史悲観論は<根本原因論>と呼んでもいい。それは見かけ上は深遠な考え方で、「社会の病とはすべて根深い道徳的病であり、単純な治療などでは決して病状が和らぐことはない。そんなことをすればかえって病の核心にある壊疽を治療できなくする」とするものだ。こうした<根本原因論>が問題なのは、現実世界の問題がその想定より単純なことではなく、むしろ逆であることだ。つまり典型的な<根本原因論>が考える以上に、現実問題は複雑なのである。とりわけ<根本原因論>が道徳を基盤に論じられてデータを取り入れていない場合は、現実問題をとらえきれていない。

実は現実世界の問題は複雑すぎて、対処するには原因ではなく症状に直接働きかけるのが最善の方法である。そうすれば、病巣のなかで複雑に絡みあう原因をすべて熟知していなくてすむからだ。

(p.317)

読書メモ:『尊厳ーーその歴史と意味』

 

 

 海外の哲学者が「尊厳」という概念について主にカントとカソリック哲学を参照しながら解説した本の邦訳。新書本ではあるが、内容はそれなりに専門的で、なかなか堅い。

 この本は「尊厳」という概念についての入門であると同時に、カント倫理学の考え方についてもある種の入門となっている。

 著者は、カントの尊厳論について、以下のように要約している。

 

カントが道徳性を展望する際の基本的な出発点は、私たちが自らのうちに「無条件的で比較できない」価値をもつ何ものかーー「人格性」あるいは「人間性の尊厳」ーーを抱えているということである。その価値は手段としてではなく「目的」として扱われなければならない。 しかし、それは人間の行動によって増加したり、人間によって達成されるべき目標として機能したりするものではない。それは、私たちの「動物としての生命」と同一のものではないし、私たちが物理的な破壊から守るべきものでもないーー逆に、それは私たちに、自分の命を犠牲にすることを要求するかもしれないのである。したがって、人間性の尊厳は私たちの振る舞いの指針として機能するが、それはあまり直接的なものではない。それは私たちに、人格のなかの人間性に「名誉」を与えたり「敬意」を払ったりするように振る舞うことを求めるのである。「私たちの人格のなかの人間性」は、それ自体として追求されるべき、あるいは増進されるべき目的ではないが、カントによれば、それを敬うことは、特定の目的ーー「自己の感性と他者の幸福」ーーを追求することを、そして、自然だとされる特定の目標(評判がよくない例をあげれば、自らの性的能力を「不自然に」使用しないこと)に従うことを、私たちに求める。もちろん、私たちはまた、適切に普遍化されうる原理や、「利己心、意地悪さ、他者の利用、他者の権利の無視」を確実に禁止するような原理にもとづいて行動することが求められる。しかし私は、この種の自己中心的な振る舞いこそが「カントの不道徳な振る舞いのモデル」だするコースガードには同意できない。それどころか、そのような義務は、カントにとって、他のより基本的な要件の文脈において生じてきたものとして理解されるべきである。

(p.198 - 199)

 

 カントは「人間が自らの内部に侵しがたく有しているような、法をつくる道徳性の機能」(p.35)こそが敬うべき対象であり、人間に尊厳を与えるものだと論じた。わたしたちが「法をつくる」能力を持っていることは、他人を敬う義務を基礎づけるだけでなく、自分自身のなかに崇高さを感じて自尊心を抱くべき根拠ともなっている。

 また、フリードリッヒ・フォン・シラーは『優美と尊厳について』という著作のなかで、「自発的に立派に行動できる能力」を「優美」と、「自らの自然な傾きの抵抗にもかかわらず立派に行動できる能力」を「尊厳」と定義付けた。カントは「よい行動をしようとする自発的で反省に欠ける気質」には道徳的価値はないと論じたが(カントは「傾向性」にはいかなる場合にも道徳的価値はないとみなしているからだ)、シラーは「優美な人とは、ただ正しいことをするだけでなく、内的葛藤や苦しい選択の過程なしにそれを行う人のことである」と論じることで、傾向性にも道徳的価値が含まれる可能性を主張した(p.45)。けっきょくカントはシラーの「優美」論を否定するのだが、「尊厳」論に関してはカントもシラーも主張は似通っている。どうすれば道徳的に生きれるかということを自分の頭で考えて道徳的に行為をするためのルールを作ったり、自分のなかに生じた欲求や自分の性格や気質に備わっている欠点に抗いつつ道徳的に行為しようとしたりする有り様のなかに、わたしたちの尊厳が見出されるということだ。

 カントの尊厳論は、現代でも、人間が権利を持つことの根拠として持ち出される定番の議論となっている。

 また、現代のカント倫理学者たちは以下のような主張をしている。

 

[クリスティン・]コースガードと[オノラ・]オニール(ともにジョン・ロールズの弟子である)のふたりは、カント的な道徳理論の最も洗練された今日的提唱者である。人間それ自身を目的として扱うことが何であるかについての彼女たちの説明は、合理的な行為主体としての人間の性質に結びついているーーコースガードの場合、それは、ものに価値を与える合理的な選択の力に結びついているし、オニールの場合は、諸個人が(合理的に)同意できるような方法でかれらを扱う必要性に結びついている(もちろん、これらの説明が相互補完的であることは容易に理解できる)。どちらも大まかにいえば、人間それ自身が目的であることが何であるかについて、主意主義(voluntaristic)な説明をしていることになるーーもちろんそれは、恣意的な選択によるあれこれの行動が絶対的な価値をもつという意味ではなく、人間には、一般的な意志の力と、自分たちの望みを理性の原理によって制限する力の両方を有することによって、内在的な価値がそなわっているという意味である。

(p.114)

 

 

 社会における具体的な問題のなかで「尊厳」という概念が特にキーとなるのは、医療に関する諸問題(安楽死インフォームド・コンセントなど)、そして戦争や刑罰などの「本人たちが望む扱いとはかけ離れた方法で人びとを扱うことが正しいとされる事例」(p.161)だ。つまり、敵国の兵士だろうが犯罪者だろうが、かれらを殺したり行動を制限したりすることは認められても辱めたり貶めたりすることは認められない、ということだ。ときと場合によっては、人の尊厳を傷付けることは、人を殺すことよりもさらに重大な道徳的問題を引き起こすのだ。

 そして、わたしたちは生きている人間だけでなく死んでいる人間に対しても尊厳を見出す。この本の第3章では、「だれかの遺体を埋葬せずに放置することも尊厳の侵害になるはずだ」という問題意識から出発して、そのような事例ではわたしたちはだれの尊厳が侵害されていて、わたしたちはだれに対して義務を負っているのか、という難題に挑まれる。この章では進化心理や功利主義、内在主義や外在主義に義務論などの様々な倫理学理論が答えの候補として取り上げられては却下されるということが繰り返されており、にわかに応用倫理学っぽい内容になっている。

「尊厳を傷付ける」という行為の問題点についての著者の最終的な見解とは、そのような行為は人から「人間性」を奪って「動物的」なレベルに貶めようとするものであるから許されない、というところであるようだ。

 

人間に対する侮蔑をどのように表現するかは、当然のことながら、文化や文脈によって異なる。しかし、そこには一定の目立った共通のテーマがある。人間の間に社会的な地位の顕著な区分がある(あった)場所において誰かの尊厳を奪う際には、表現あるいは象徴として、かれらを、典型的に非常に低い社会的な地位に位置づけるようなやり方で扱うことになるのだーーかれらは、文字通り、貶められるのである。もうひとつの特徴的な区分(それは、すでに見たようにキケロの『義務について』にまでさかのぼる)においては、人間の尊厳は、人間と動物を区別する振る舞いーーたとえば、直立して歩く、衣服を着用する、テーブルマナーに沿って食事をとる、プライベートな空間で排泄し、性行為を行うーーによって表現される。拷問者や殺人者は、ここに狙いをつける。大量虐殺のプロパガンダのレトリックは、週刊誌『シュテュルマー』のユダヤ人を昆虫にみたてた漫画から、ルワンダのフツ人がツチ人を「ゴキブリ」に見立てた描写まで、その犠牲者の人間性を否定するという点では、まったくもって似通ったものになっている。

シラーが認識していたように、人間性に対する敬意は、私たちが動物的な存在であるという紛れもない物質的な事実を避けることができない場合においてさえーー死や苦しみといった文脈においてさえーー(あるいは、実際、そのような場合においてこそ)、私たちに人間の価値を際立たせることを求める。そこで、私がとても感動した(そして勇気づけられた)カントについての有名な話でこの本を締めくくりたい。それは彼の死の九日前のことだった。その偉大な男は年老いて、絶望的に衰弱していた。にもかかわらず、彼は客人(彼の医者)が先に席に着くまで、自分が座ることを拒んだ。最終的に座るよう説得されたとき、カントはこう言ったという。「人間性の感覚はまだ私を見捨てていない」、と。

(p.206 - 207)

 

 

なぜ、不倫されたら傷付いて、嫉妬するのか?(読書メモ:『不倫と結婚』)

 

不倫と結婚

不倫と結婚

 

 

 著者のエスター・ペレルはセラピストであり、多数のカップルの不倫問題について現場で扱ってきた。この本は著者がセラピーしてきた男女たちによる様々な事例に基づきながら、「不倫」という事象についていくつもの角度から分析されている。

 内容は理論的なものではなく、事例の紹介がダラダラと続くだけという感じもあるのだが、実際の男女がおこなう不倫を直視してきた人ならではの、含蓄のある考察も豊富に挿入されている。

 

離婚の即断は人間のあやまちや弱さをまったく酌量しない。それはまた、二人の関係を修復することでより強い関係を作って立ち直る余地をまったく残さない。

(……中略……)

「こんなふうに互いに対して真に正直になるためには、不倫を経験するしかなかったのでしょうか?」私はこの台詞を頻繁に耳にし、そして彼らの後悔を共有する。しかし、恋人/夫婦関係についての語られない真実がここにあるーーすなわち、多くのカップルにとっては、パートナーの注意を喚起し、淀んだシステムを揺さぶるパワーは、不倫くらい極端なものにしかないのだ。

(p.25)

 

・第二章では「不倫の定義」について論じられ、第三章では過去から現代における不倫の定義の変化が扱われる。

 結婚や一夫一婦制に対して著者が抱いている見解はどちらかというと社会学的なものであるが、ヘレン・フィッシャーなどの心理学者/進化論者による生物学的な見解についても言及されている。

 また、著者はギデンズの『親密性の変容』などを参照しながら、現代ではセックスは自己表現やアイデンティティと分かちがたく結びついていることを指摘している。

 そして、現代人は、自分がセックスによる欲望や満足を追求することは、なにがしかの「権利」と保証されるべき行為だ、という感覚も持つようになった。……そのために、パートナーとのセックスや生活に不満を抱いた人は、「自分はほかの相手とセックスするべきではないか」と思うようになる。自分には幸福を追求する権利が保証されているのなら、その権利を活用しないほうがむしろ間違っている、というわけだ。

 しかし、結婚とは「互いを束縛して、性的な自由を手放す」という決断をすることのはずである。結婚の意義のひとつは「自分はほかの人を伴侶に選ぶという可能性を捨てて、あなたを選んだ」という忠誠を相手に示して、そして相手からも同じように忠誠を示されることにある。だが、不倫をされてしまったら、「自分は相手にとって特別な人なんだ」という気持ちが吹っ飛んでしまうだろう。

「幸福を追求する権利」に基づく自由主義的な考え方と、ロマンチック・ラブの理想に基づいた結婚とは、そもそもが相容れないものであるのだ。

 

昨今の個人主義社会は不思議な矛盾を生み出している。貞節へのニーズが激しく高まっているのに、不倫の引力もまた強くなっているのだ。人々が心理的にパートナーに大きく依存している今ほど、不倫が強い破壊力をもったことはない。しかし同時に、自己の充足を命じられ、もっと幸せになれるという約束に誘惑される文化の中にいる今ほど、人々が不倫したい気持ちにさせられたこともないのだ。きっとこれが、人々がかつてないほど不倫に走りながらも、かつてないほど不倫を糾弾する理由なのだろう。

(p.71)

 

 ……とはいえ、上記のような事情はすべての先進国で普遍的であるというわけでもなく、とりわけアメリカで極端になっているものだろう。幸福という事柄については他の国々の人たちはアメリカ人よりも賢いので、「欲望を追求してばかりいたら逆に不幸になってしまう」というパラドックスの存在に多かれ少なかれ気が付いているはずだ*1

 

・第四章の章題は「なぜこんなにも傷つくのか」であり、不倫をされた側の人々が負う心の痛みについて書かれている。

 不倫はカップルの現在や未来だけでなく、ふたりで一緒に築いてきた過去の思い出も遡及的にダメージを与えてしまう、という指摘は重要だ。相思相愛だと信じながらおこなっていたデートやセックスのあいだにも、相手は別の異性のことを想っていたかもしれない。そのような疑念が芽生えると、想い出は心の支えにならなくなり、それどころか、過去を思い出すたびに傷付いて現在の相手に対する怒りや失望が増してしまう。

 人間のアイデンティティの大部分はその人のライフストーリーに占められていることを考慮すると、不倫されることは、自分のアイデンティティを剥奪されてしまうことでもある。……そして、個人主義の社会ほど、不倫によるアイデンティティの剥奪で受けるダメージは大きい。伝統的社会の場合には地域や親族のコミュニティにアイデンティティの拠り所を分散させることができる(また、「男は浮気するものだ」という昔ながらの通念が強い社会では、そもそも女性は結婚しても男性に対する期待や信頼を抱かないので、不倫によるダメージも減る)。しかし、地域や親族との縁が薄い現代人にとっては、「自分が選んだ人」が自分のアイデンティティ支柱となってしまうのである。

 というわけで、パートナーに捨てられてしまったときのダメージを抑制するためにも、あらかじめアイデンティティを分割して別のところにも預けておくべきだ。その対象は、同性の友人が特におすすめであるだろう*2。また、もし不倫されてしまったら、自分が前からしたいと思っていたことをしたり贅沢をしたりするなど、「自分がどんな人間であるかは自分が決める」という考え方を行動によって実践して、自尊心を取り戻すことも大切である。

 なお、相手が過去の恋人と「焼けぼっくいに火が付いた」的に不倫してしまったときには、受けるダメージはとりわけ深刻なものとなる。相手に選ばれて結婚したときにも相手は過去の相手のことを想っていたのかもしれず、自分が相手にとっての「最愛の人」であったというタイミングは一度たりともなかったかもしれない、という疑念が強くなってしまうからだ。

 

・第六章では「嫉妬」というテーマが扱われる。

 著者は、現代の人間は「自分が嫉妬の感情を抱いていること」をなかなか認めようとしない、という点を指摘している。

 たとえばパーティーで自分の恋人がほかの男女とイチャついている姿を見たときに、不愉快になったりイラっとしたりしても、大半の人は嫉妬の感情を表に出そうとはしない。嫉妬していることがバレてしまうと、自分の感情の支配権を相手に握られているということが伝わってしまう。プライドが傷付くだけでなく、パーティーが終わったあとにも、カップルにおける自分の立場が不利なものになってしまいかねない。だから、嫉妬していてもおくびに出さず、ポーカーフェイスであるように努める……とはいえ、ほとんどの場合、努力も虚しく自分が嫉妬をしていることは恋人からは筒抜けであるのだけれど。

 さらに、現代では、嫉妬の感情は非倫理的なものであるとされている。

 

だが、嫉妬はいつの時代にも否定されていたわけではなかった。社会学者のゴードン・クラントンはそのテーマについて、過去四五年間分のアメリカの人気雑誌を分析した。一九七〇年代までは、嫉妬は一般的に愛に内在する自然な感情だと見なされていた。嫉妬についてのアドバイスは、はたしてほぼすべてが女性に向けられていて、そんな感情は自分の中に抑えて、夫に挑戦することは避けるよう助言されていた。 一九七〇年代以降、嫉妬は嫌われるようになり、しだいに古いタイプの結婚ーー男性の所有権が中枢にあり、女性の依存が避けられないーーのあるまじき遺物だと見なされるようになった。自由選択と平等主義の新時代になると、嫉妬は正当性を失い、恥ずべきものになった。「もし私が自由意志で他のすべての人を捨ててあなたを選び、あなたも自由意志で私を選んだのなら、あなたに対し独占欲を覚える必要はないはず」というロジックだ。

[イタリア人の哲学者であるジュリア・]シッサは嫉妬をテーマとした爽快な著書の中で、嫉妬はそれ自体がパラドックスだと言っている。つまり、嫉妬するには愛していなくてはならないが、愛しているなら嫉妬すべきでない。それでも私たちは嫉妬する。誰もが嫉妬のことを悪く言う。だから私たちは嫉妬を「許せない激情」として経験する。私たちは単に「嫉妬している」と認めることを許されないだけでなく、「嫉妬を感じる」ことも許されない。今日、嫉妬は政治的に正しくないのだと、彼女は警告する。

嫉妬にまつわる社会的バランスの見直しは、家父長制度的特権から抜け出す重要なシフトの一部だったが、おそらく度を越したのだろう。私たちの文化的理念は、時に私たち人間の傷つきやすさに我慢しきれなくなる。そして、愛につきものの傷つきやすやさ、心が自己弁護を必要とすることを、計算に入れ損なう。私たちがもし希望のすべてを一人の人間に託したら、私たちの依存性はいや増す。あらゆるカップルが、認めようが認めまいが、第三の人物の存在に脅かされながら暮らしている。そしてある意味、カップルの絆を強くしているのは、そんな潜在的な他者の存在なのである。

(……中略……)

嫉妬は矛盾だらけだ。ロラン・バルトの鋭い舌鋒によれば、嫉妬している人物は「四倍苦しむーー嫉妬しているから、嫉妬している自分を責めるから、自分の嫉妬が相手を傷つけるのではないかと恐れるから、そんな陳腐な感情に支配されているから。そしてのけ者にされることを恐れ、攻撃的になることを、気が変になることを、並の人間に成り下がることを恐れる」

(p.125 - 126)

 

 著者は嫉妬を「エロスの火花」とも形容している。

 不倫は、ときと場合によっては、消えていた情熱を再び燃え上がらせてカップルのセックスをより濃密なものとする。「自分を見捨てたばかりの相手と肉体的につながりたいという欲求は驚くほど一般的だ」(p.132)。間男とどんな行為をしていたかを問い詰めて言葉責めしながら妻を抱く男もいれば、夫が抱いていた自分よりも若くてスタイルのいい女になりきって行為する女性もいる。そうでなくても、手元にあって当たり前のものだと思っていた相手の身体が自分の手に届かないところにいってしまう可能性を直視させられることで、その貴重さや有り難さを再認識することができる。セックスレスを脱却するきっかけにもなる。嫉妬は、カップルの絆の修復剤にもなり得るのだ。

 なお、多夫多妻的な関係における嫉妬については、以下のように論じられている。

 

過去数年間、嫉妬についての昔ながらの考えや態度を打破しようと決意している人々に数多く出会った。そういった人々は、合意のもとノンモノガミー(非一夫一婦)を実行しているカップルの中に特に多く見られた。そのうち何人かはポリーの体験をもう一段レベルアップさせ、故意に嫉妬をセックスの刺激剤として使っていた。他の人々は嫉妬を超越しようと大変な努力をしていた。ポリアモリー[多重的恋愛や性愛を認め合う関係性]を実行する人々の多くが、自分たちは"コンパージョン"と呼ばれる新しい情動反応を身につけたと主張した。それは、パートナーが他の人とセックスを楽しんでいる場面を見て幸福を感じるという反応である。複数の性愛関係を認め合おうとする彼らは、積極的に嫉妬を乗り越えようとしている。嫉妬を、自分たちが超えようとしている所有的関係の枠組みの本質的な一部だと見なしているのだ。

「時には、彼女が私以外の(女性の)恋人たちの一人といるのを見ると、確かに嫉妬を感じるわ」アナは私に言った。「でも、そんなときは自分に言い聞かせるの。それは私の気持ちだから、それをどう扱うかは私にかかってるんだって。彼女が誰かを誘惑したからって彼女を責めはしないし、彼女の自由を制限するような行動をとることを私は自分に許さない。彼女は私にそんな行動をとらせるような挑発的なことをわざとはしないし、私も彼女に対してそれは同じ。でも、互いの気持ちまでは責任はもてない」これは従来型のカップルから典型的に耳にする態度ではない。彼らは相手を不必要に動揺させるような態度は慎むことを互いに求める傾向にある。とはいえ、私は強烈な嫉妬の攻撃に苦しむノンモノガミーのカップルに数多く会ってきた。

(p.142-143)

 

・不倫をされたこと自体よりも、相手が不倫の事実を隠すために嘘を吐きつづけたことのほうで傷付いてしまう人も多い。これもアメリカでは特に顕著だ(他の国に比べても、アメリカでは「嘘」はとりわけ不道徳的な行為とされている)。そのため、不倫が発覚したあとには、「もう嘘を吐く余地を残させないため」という名目で相手のことを徹底的にコントロールしようとする人もいる。……とはいえ、離婚せずに結婚生活を継続する気があるなら、このような行為は信頼が回復するスピードを遅くして正常な関係への復帰を妨げるものでしかない。それに、いくらコントロールしたところで、相手がまた「不倫したい」と思ってしまったら、止めることはできないのだ。

 

・結婚生活に問題なく、カップルの双方が互いに対して不満を抱いていなかったり、精神的にも安定していても、不倫が起こる場合はある。不倫は、不健康な結婚生活が引き起こす「症状」であるとは限らないのだ。

 たとえば、相手ではなく現在の自分自身に対して不満を抱いている人が、「自分さがし」の一環として不倫をしてしまうことは多い。先述したように、現代ではセックスは自己表現に欠かせないものとされている。そして、現実と切っても離せない結婚生活と比べて不倫関係には空想的な要素が強いために、よりロマンティックでドラマチックなものとなりやすいのだ。映画『マディソン郡の橋』では保守的な田舎町の人妻(メリル・ストリープ)が、たまたま町を訪れた冒険的で都会的なカメラマン(クリント・イーストウッド)と数日間だけの情熱的な不倫関係を経験するが、非日常的な関係によって日々の倦怠から「脱却」することは、物語のなかに限らず現実の不倫においてもメジャーな要素となっているのである。

 らに、配偶者に対して秘密を抱えたり社会の良識を破ったりなどの逸脱行為をすること自体に、高揚や性的な興奮を感じてしまう人も多い。つまり、愛する相手との結婚生活という真っ当な方法では味わえない快感が不倫のなかには存在している。だから、配偶者がどれだけ素晴らしい人でありその人のことを愛しているとしても、不倫ならではのファンタジーや快感を求めてしまう人はいるものなのだ。

 

・そのほかにも、不倫の「共犯者」である愛人たちの側の言い分とか、不倫の後の結婚生活がどうなるか、などなどの様々なトピックについて章ごとに考察がなされている。冒頭にも書いたように所詮は事例集であり、アカデミックな理論が背景にあるわけでもないから、物足りないところも多い。だけどまあ不倫というテーマに興味がある人は必読な本であることは間違いないだろう。 

 

*1:「自分は幸福になれる権利があるはずだ」と思って幸福を追求し過ぎることで不幸になってしまうアメリカ人たちの姿は、映画の題材としても定番のものだ。

theeigadiary.hatenablog.com

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*2:

gendai.ismedia.jp

妻(家族)への依存と同性の友人の少なさは、男性の自殺率の高さの一因ともなっている。