道徳的動物日記

倫理学、社会科学、時事問題、世相などについて論じます。

不平等は避けられなさそうです(読書メモ:『暴力と不平等の人類史―戦争・革命・崩壊・疫病』)

 

 

 かなり長くて重たい本。経済史の本でありがちな、大量の具体例を紹介しながら同じような話が何度でも何度でも繰り返される内容なので、細かい部分は流し読みでよいと思う。

 そしてこの本で繰り返されるテーマとは「暴力……それも大量の人命を失わせるような徹底した暴力のみが、ある社会の経済的平等を増させる唯一の方法である」というものだ。

 ポイントは「徹底した暴力」であるということ。

 たとえば「革命」については、ちょっとした農民蜂起や反乱は歴史のなかで何度も起こってきたが、その成果はあっという間に失われて不平等が戻ってしまうのであり、ロシアや中国で行われたような共産主義革命くらいに大量の人命を犠牲にするほどのものでなければ意味がない(それですら近年では革命の成果が失われて不平等が再拡大している)。オキュパイウォールストリートどこらかBLMでも生ぬるいのである。

 疫病も、百万人とか千万人とかの単位で人(と家畜)を殺すような黒死病スペイン風邪くらいにならないと経済的平等を促進しない。人が死にまくって労働力の価値が大幅に変わったり経済が崩壊するくらいになってから、ようやく、格差は縮まる。というわけで、残念ながら、新型コロナウィルスがいくら流行したところで平等化はすすまないだろう(むしろ格差は拡大しているようだ)。

 戦争をしたからといって経済的平等がすすむとは限らないが、国家総動員して総力戦した第一次世界大戦第二次世界大戦では参加したそれぞれの国で平等化すすんだ(この本のなかでは第二次世界大戦後の日本における平等化について一章を割いて論じられている……そして、第一次世界大戦は欧州には平等化をもたらしたが、ちょっとしか関わらなかったアメリカや日本では不平等が進行していたのだ)。「希望は、戦争」は一面の真実をついてはいるが、太平洋戦争の時代に戻る覚悟がなければ言っちゃいけない*1

 古代に西ローマ帝国が滅亡したときのように国家制度が崩壊した場合、いろんなことがメチャクチャになりみんながひたすら悲惨な目にあうが、上流層たちの資産も失われるおかげで運がよければ経済的平等は実現する。

 つまるところ、「徹底した暴力」は経済的平等化の必要条件ではあるが十分条件ではない。多くの人が血を流して、死に、残された人たちもひどい思いをして、建物とか文化とが破壊されても、経済的不平等が残る場合はあるということだ。

 

 さらには、現代の社会では、戦争・革命・崩壊・疫病(著者が言うところの「四騎士」)ですら、もはや経済的平等を実現させる力を持たなくなっている。

 

それでも、歴史は平等化についての2つの重要なことを教えてくれる。ひとつめは、急進的な政策介入は危機に際して行われるということだ。世界戦争や大恐慌の衝撃や、また言うまでもなくさまざまな共産主義革命が、平等化政策を生んできたが、いずれもそれぞれの状況に多くを負う措置であり、背景が異なれば、少なくとも同じ規模での実行は難しかった。2つめの教訓はさらに単純明快だ。政策に決定によってできることには限界があるということだ。社会における物質的不均衡の圧縮は、たびたび暴力的な力によって進められてきた。それは人間の制御を超えた力か、あるいはこんにちでは実行可能な政治目標の範囲をはるかに超えた力である。こんにちの世界では、平等化の最も有効なメカニズムはどれも作用していない。「四騎士」馬から下りたのだ。そして、正気の人間なら、彼らの復帰を決して望まないだろう。

(p.553)

 

 実際のところ、現代ではもう総力戦は行われない。軍事技術の急速な発展により戦争はサイバー化しており、戦闘員は少数精鋭となっていて、徴兵制はもはや時代遅れだ。核戦争が起これば話は別だが、おそらく起こらない。そして、共産主義革命が実現したのは世界大戦のおかげであり、大規模な戦争のなくなった社会には革命も存在しないのだ。そして、こんにちの先進国や発展途上国ローマ帝国のように滅亡する可能性は薄い。なんだかんだ言って、現代の国家体制とはきわめて強固なものだ。貧困国が国家破綻して内戦が引き起こされる事例はあるが、それも平等化には結びついてこなかった(総力戦による対外戦争と内戦はまったくの別物である)。そして、現代の世界では過去のように疫病による(数千万人単位の)大量死が引き起こされる見込みは薄いし、仮に大量死が起こったところで過去のように低技能労働者の価値が引き上がるとは考えられない。

 

 この本を読んでいると、人類の社会に不平等は付きものであることを、いやでも思い知らされる。

 

著しい不平等にはきわめて長い歴史がある。2000年前、ローマ帝国で最も裕福な世帯の私財は、1人当たりの平均年収のほぼ150万倍に達していた。これは、現代のビル・ゲイツと平均的なアメリカ人の財産の比率とほぼ同じである。何と言おうと、ローマ時代の所得の不平等の全体的な大きさは、アメリカのそれとあまり変わらなかったのだ。

とろが、ローマ教皇グレゴリウス1世の時代(西暦600年ごろ)までに莫大な財産が消滅し、貴族階級に残されたなけなしの資産は、借金せずにすむようにと教皇が与えてくれる施しだけとなった。このケースのように、時として不平等が減少することがあったのは、多くの人が貧しくなるとしても富裕層は失うものをより多く持っていたからである。別の例では、資本収益が落ちる一方で労働者の暮らし向きはよくなることがあった。たとえば黒死病に襲われたあとの西欧では、実質賃金が2〜3倍に跳ね上がり、労働者が肉とビールの夕食をとるようになる一方で、 地主は体面を保つのに必死だったという有名な話がある。

(p.5)

 

 とはいえ、『自由の命運』でも論じられていたように、最初から平等でありつづける社会には経済成長が存在しない*2

 

狩猟採集民の必要最低限の生活様式と、平等主義的なモラルエコノミーが結びつくと、どんなかたちの発展も許さないような強固な障害が形成される。 理由は単純で、経済成長を果たすためには、イノベーションと余剰生産が促されるようにするために、所得と消費にある程度の不平等が必要だからだ。成長がなければ余剰は生まれにくいから、それを何かに充当することも後代に受け継がせることもできない。モラルエコノミーが成長を阻害し、成長の欠如が余剰生産とその集積を阻害する。

(p.40)

 

 この本の結論は下記の通り。

 

……われわれはさしあたり、現在持っている頭脳と肉体と、それらが作り出した制度でやっていくしかない。それはつまり、将来の平等化の見込みは薄いことを意味する。ヨーロッパ大陸社会民主主義国が高税率と幅広い再分配の込み入った制度を維持し手直ししていくのも、アジアの裕福な民主主義国が税引前所得を異常なほど平等に配分し続け、不平等化の高まりといううねりをせき止めるのも、容易なことではない。そのうねりはグローバリーゼーションの進行につれて激しさを増すばかりかもしれない。前例のない人口動態の変容がその圧力に加わるからだ。それらの国々が現状を維持できるかどうかは疑わしい。不平等は至るところで徐々に高まっており、その流れが現状を覆そうとしていることは否定できない。現在の所得と富の分配を安定化するのがますます難しくなるとすれば、より公平な分配を目指す取り組みはどんなものであれ、必然的にさらに大きな障害にぶつかるはずである。

何千年にもわたり、歴史は、不平等の高まりあるいは高止まりの長丁場と、潜在する暴力的圧縮を繰り返してきた。1914年から1970年代あるいは80年代までの60〜70年間に、世界の経済大国と、共産主義体制に屈した国々の双方が、歴史上最大級の大幅な平等化を経験した。その後、世界の多くの地域が次の長丁場となりそうな期間に突入し、継続的な資本蓄積と所得の集中に回帰した。歴史的に見れば、平和的な政策改革では、今後大きくなり続ける難題にうまく対処できそうにない。だからといって、別の選択肢はあるだろうか?経済的平等性の向上を称える者すべてが肝に銘じるべきなのは、ごく稀な例外を除いて、それが悲観のなかでしか実現してこなかったことだ。何かを願う時には、よくよく注意する必要がある。

(p.562-563)

 

 幸いなことに、「不平等」は「不幸」とはイコールではないし、「不正義」ですらないかもしれない。「経済的不平等は重大な問題ではない」というピンカー的な発想は気休め以上の意味を持つはずだし、まじめに考えるに値するはずだ*3

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 ところで、『暴力と不平等の人類史』にせよ『自由の命運』にせよ、ピンカーの『暴力の人類史』のような本に比べるとリーダビリティは低く、登場する具体的事例の描き方や引用も凡庸というかあまり印象的ではない(というか、良くも悪くも、ピンカーのように人の感情を刺激して印象に残るようなかたちで持論を展開できるのは、ジャーナリストはともかくアカデミシャンとしては稀であるだろう)。

 とはいえ、『暴力と不平等の人類史』や『自由の命運』を読んでいると、経済というものが人々の生命や幸福に直接的に結びついていること、そして地位や権力や尊厳に対する意志や執着こそが社会を動かす大きな力となっていることを、まざまざと思い知らされる*4。結局のところ、人間にとって経済と権力は「生」と直接的に結び付いてるのであり、生ぬるい理想論や口先だけの要求が通じるような領域ではないのだ。お金のことや将来のことをあんまり考えずにのんびり気楽に本を読んでいるとついつい忘れてしまうけれど、金や権力とそれに関わる人々が持つエグさやタフさというのはものすごいものであるだろうし、SNSハッシュタグをつけて意見を発信したり象牙の塔のなかで思想のお勉強をしたりしていても世の中の金や力の「本丸」を傷つけることは何一つできないし何も変えることはできない、ということは折に触れて思い出すべきであるだろう。

 

*1:総力戦が金持ちに対する課税とそれを通じた格差縮小を促したことについてはケネス・シーヴとデビッド・スタサヴェージの『金持ち課税』でも論じられており、『暴力と不平等の人類史』のなかでも彼らの研究がたびたび紹介されている。

davitrice.hatenadiary.jp

*2:

davitrice.hatenadiary.jp

*3:興味深いことに、「世界は平和に向かっており戦争はどんどんなくなっている」というピンカーの「合理的楽観主義」の主張は、『暴力と不平等の人類史』でも否定されているわけではない。

*4:たとえば、革命について論じられている章では、14世紀フランスのジャックリーの乱における、貴族たちに反乱した農民たちによる虐殺、そして貴族たちによる徹底した報復について言及されている。血で血を争う反乱すらも最終的にはエリートの勝利となり、経済的平等を達成するうえではほとんど意味はなかったが、その後に黒死病が訪れて事態が変わったわけだ。

89年生まれのわたしにとっての「はてな」

 このブログではめずらしく個人的な思い出話。

 

 

 

↑ Twitterでこういう投稿をみかけて 

 

 

↑ こうコメントしたついでに 

 

 

 

 

↑ こう書いた。

 

 もうすこし詳しく説明すると、わたしがはてなブックマークを使い始めたのは高校3年生だった2006年頃で、2013年くらいまではたまにブコメを書いたりもしていた(当時とはIDは変わっている)。このブログをはじめたのは、たしか2014年。

 上記のツイートの通り、10代~20代前半まではいまよりも「サヨク」であったわたしにとっては、はてなは心のオアシスではあった。リアルな人間関係については、中高生のときにも大学に入ってからも、同級生にサヨクがほとんどいなくて、ノンポリからマイルドなネトウヨ、あるいはガチのネトウヨしかいなかったからだ。実際のところ、大学院に入るまで、わたしは同世代の生身の人間で「サヨク」や「リベラル」に分類される人と会ったことがなかった。たぶん専攻する学科や所属するサークルを選んでいれば出会えていたのだろうけど、深く考えずに英米専攻に決めて何も考えずに文芸サークルに入ったのでそうはならなかった。社会学部や法学部にはリベラルな学生が確実にいただろうし、日本文学専攻にだっていなくはなかっただろうが、英米文学専攻はTOEICの点数を上げることを目的に入学する学生が9割だったので価値観とか思想とかそういうのはそもそも存在しなかった。文芸サークルならサヨクがいてもよさそうなものだが、文芸部とは要するにオタクの集まりであり、そして当時はオタクとネトウヨの距離はたしかにいまよりもさらに近かったので、サヨクはいなかったのである。

 

 だが、はてなのなかにはサヨクがごまんといった。なんらかの事件やニュースがあるたびに、周囲の同世代の若者たちはわたしとは正反対の意見や感想を言ってくるので孤独感や不安感を抱いたが、はてなを覗けば、自分と同じような意見を持つ人がコメントを書いてくれているわけだ*1

 いわゆる「はてサ」の人たちのなかには、大学で研究している院生や教授である人もいれば、そうでない市井の人もいたと思う。しかしアカデミックな人たちの書く文章のほうが興味深いものであり、hokusyuやfont-da、apeman、あとkamiyakenkyujoなんかのブログは読み込んでいたものだ(いずれも敬称略)。

 また、「はてサ」ではないアカデミシャンも昔からはてなに投稿していた。山形浩生稲葉振一郎などの経済学者がいるし、森岡正博や江口聡などの倫理学者も一時期ははてなをやっていた。北村紗枝や大野左紀子などのフェミニストもいるし。はてなブログではないものの、内田樹のブログも昔はよくブクマが集まってホットエントリに上がっていたと思う。

 というわけで、わたしにとっての「はてな村」とは、まず第一に「はてサの村」であり、第二に「アカデミックな場所」であった。しかし世間的にはそうではないようであり、近頃になっていろんな人が投稿している思い出話を読んでみても、そこに出てくる登場人物の大半は、当時から存在を認知していたがほとんど興味を抱けなかった人とか、その人の書く文章のなにが面白いのか当時から全然わからなかった人とか、2021年になって初めて名前を知った人とか、そんなのばっかりだ。

 yomyomさんのまとめた「はてな出身の文筆家」の一覧を見ても、アカデミック系の文筆家って思ったよりも少ない*2。それよりもビジネスとかライフハックとかに役立つ情報をまとめられる人とか、雑学的な知識を要約してキャッチーに紹介できる人とか、奇特な経験をおもしろおかしく文章化できる人とか、カルチャーだとかトレンドだとかを伝えられる人とか、ジェンダーについてなにかしら言える人とか、日常のことをいい感じに素敵に表現できる人とか、ゲームとかアニメとかマンガとかについて詳しく話せる人とか、ありがちで当たり前な意見や感想に学問っぽい用語をまき散らしてなんか含蓄があるかのように語れる人とか、そういう人が多いようである。こういう人たちがnoteに流れるのは、そりゃ仕方がないことだろう。

 また、わたしは当時からよく把握できていなかったが、世間的なイメージでのはてな村では「ゴシップ」とか「人間関係」とかも重要であったようだ。思い返してみると、はてなブロガー同士の論争をまとめたり仕切ったり、横やりを入れたり介入したりすることで存在感を発揮しようとするタイプのブロガーは、たしかにいた。あるいは、他のブロガーや有名人を罵倒することで人気を得てポジションを確立させようとするブロガーもいた。……でもゴシップってそもそも不毛なものだし、他人が罵倒しあうのを見て喜ぶのも下品なものだ。ほかのネット空間とはまたちがうはてなに独特の閉鎖性とか属人感とか「学級会」感については昔から「やだなあ」と思っていた。たぶん世間的にはそれこそがはてな村はてな村たらしめている最大の要素なのだろうけれど、わたしはそんなの最初から求めていないのだ。

 

 ……とはいえ、このブログをフォローしているならお察しできていると思うが、いまではわたしも「はてサ」的な思想には賛同していない。というか、八割方は否定しているし、はてサの人たちの大半にももはや反面教師としての価値しか見出せなくなっている。これは、学部や大学院を通じて自分でいろんな本を読みつづけて、ようやく自分の頭で物事を考えられるようになった結果だ。考えてみると当たり前の話だが、アカデミックなものを求めるなら、ブログじゃなくて、海外のものとか古典とかを含めて最初から本を読んどけばいいのである。

 では自分はどういう理由でブログを書いているかというと、「自分が考えたことや、読んだ本の内容の整理したい」いうことと「話題になっていることについて自分でもなにか言ってみたい」ということと「人々を啓蒙したい」ということとが混ざっている。社会人になって時間や可能性が限られるようになってからは、自分の考えや意見を記録して発信することの価値は以前よりもさらに強く感じられるようになった。そして、他人を啓蒙することも、冗談じゃなく重要だと思っているし、ある種の使命感は抱いている。様々な本を読んでいると、世の中で普及したり流通したりしている知識は思った以上に限られていて、かなり多くの知見や議論がほとんど知られることもなく埋もれていることに気付かされるためである。

 というわけでこのブログの内容は読んだ本や海外の議論についての紹介とそれについての自分のコメントがメインとなっており、たまにネット上の出来事やニュースについて自分なりの意見を書くのがサブ、という感じになっている(以前は翻訳記事もよく投稿していたが、最近はやっていない)。そして、このような目的で運営するぶんには、はてなブログはなかなか優れている。カテゴリ機能とかリンク機能、関連記事の機能とかはnoteに比べて優れている印象があり、記事と記事とを連携させてブログにひとつの「知識のかたまり」みたいなイメージを持たせやすいのだ。そして、記事が溜まれば溜まるほど、自分のブログが強固な「城」として育っていくように感じられて、そこもいい。

 逆に、noteではどれだけ文章を書いても自分のページが「城」とはならず、常に他のライターたちと並列させられて十把一絡げに扱われる感じがある。昨年の前半にはこのブログの記事とは毛色の違うエッセイや愚痴を投稿するためにnoteをやっていたが、noteの設計や思想は以前からずっと気に食わない。文章の商品感や消費感が強すぎる。初心者向けに「読まれる文章」や「売れる文章」をご丁寧に指導してくるところも鬱陶しい。そしてライターたちの側からnoteに適応して「エモい」文章を量産しているのも情けない。たぶんマネタイズをするうえではnoteが最善なのだとは思うけれど、あんなのやめたほうが格好いいと思う。もちろんはてなにだってアフィリエイトで稼ぐのに特化したロクでもないブログはいっぱいあるのだが、浅ましさやみっともなさがわかりやすいぶん、お洒落に偽装されているnoteよりずっとマシだ。

 

 はてなが衰退している理由のひとつの理由としては、ブックマークのシステムが以前よりもさらに分極化しやすい構造になっており質が劣化した、ということも挙げられている。これはたしかにそうだろう。

 ブログを書いている立場からすれば、自分自身もブログをやっている人や大学で教えていたり本を書いていたりする人からの批判については受け止めて考えようという気が湧くが、ブコメだけをやっている人から批判されても基本的には鬱陶しいという感情しか湧かないものだ。前者については本人が自分の考えや思想をどこかで「論」としてまとめているから潜在的に議論の相手とみなせるが、後者については脊髄反射的で場当たり的な意見しか存在しないので議論の相手にはならない。そして、現在のはてなでは、おそらく昔よりも、ブログを書かずにブコメだけやるという人が増えている。ブロガーにとって以前よりもさらにストレスフルな状況になっていることは疑いもないだろう。……とはいえ、それも慣れてしまえばわりとどうということもなかったりするのだけれど。

 

*1:特に強く印象に残っているのが、同級生たちと『サマーウォーズ』を観にいって周りが絶賛しているなか自分ひとりだけ楽しめなくてイヤな気持ちになっていたところ、はてなでは匿名ダイアリーでも個人ブログでもサマーウォーズに対する違和感や嫌悪感を表明している記事がいくつもあったところだ。そういうのがあると「自分がひとり間違っているわけじゃないんだな」と思えるものである。

*2:

yamdas.hatenablog.com

「傷つき」と表現の自由(読書メモ:『表現の自由を脅すもの』)

 

gendai.ismedia.jp

 

 昨日に公開された現代ビジネスの記事ではジョン・スチュアート・ミルの『自由論』を紹介したが、ミルと同じようなタイプの主張を現代において行なっている本である、ジョナサン・ローチの『表現の自由を脅すもの』にも目を通してみた。現代といっても1993年であり、30年前の本ではあるんだけれど……。

 

 

 

 しかし、30年前であるのに、この本で問題視されている状況は現代とまったく同じようなものだ。つまり、アメリカのジャーナリズムやアカデミズムでは表現の自由が脅かされていること、その脅かしは宗教的原理主義者や右翼だけではなく左派からも訪れていること、そして彼らが表現の自由を制限したり抑圧したりしようとする根拠はマイノリティに対する配慮や同情であるということだ。

 90年代の前半ということはSNSやインターネット以前の時代であるのだが、そういえば「ポリティカル・コレクトネス」が問題視されるようになったのも90年代からである。結局のところ、ネットは新しい問題を生み出したというよりかは、昔から存在する問題を可視化したりブーストしたりしているだけ、と言えるのかもしれない。

 

 ローチは、現代(当時)のアメリカで「あなたは他人を言葉でもって傷つけてはならない」という原則が浸透しつつあることを危惧する。

 ただしい知識にたどり着くための研究や討論においては、どこかで誰かが傷つく事態は必ず発生する。その「傷つき」の対象とは人種的マイノリティや性的マイノリティには限らない。たとえば、一見すると人の生活や価値やアイデンティティと関係のなさそうな地球科学や生物学の研究ですら、地球平面説や創造論を信じるキリスト教原理主義者を傷つけてしまう可能性はある。また、『悪魔の詩』事件が示すように、イスラム原理主義者たちは物理的な暴力をもって実際に表現の自由を脅かしてきた。

 原理主義者であってもマイノリティであっても、知識によって傷つけられることはあり得る。とはいえ、原理主義者の傷つきや彼らによる復讐を恐れて知識から遠ざかってしまうことは、近代社会や民主主義政治の根底にある「自由思考」や「自由科学」を捨ててしまう「敗北」である*1。そんなことがあってはならない。そして、原理主義者のために表現の自由が脅かされることがあってはならないのなら、同じように、マイノリティに対する配慮によって表現の自由が脅かされること(この本のなかでは「人道主義者からの脅威」と表現される)も、あってはならないのだ。……ローチの議論をざっくりとまとめると、このようになるだろう。

 

 さらにざっくりと、ローチの主張を一文で表してみるなら、どうなるか?それは「だれかを傷つけるものであっても、そんなこととは関係なく、表現の自由は守られるべきだ」というものになる。

 この主張は、2020年代のいまから見ればかなり粗野に思えてしまうものだろう。実際のところ、この本のなかで彼はかなりマッチョな議論をしている。

 以下、印象的な箇所を引用してみよう(太字の部分はわたしによる強調)。

 

私は、人道主義者や平等主義者が、道徳的に高い立場にあるという主張は偽りであるということ、そして、人を傷つけることを許容、ときには推奨しさえもするという誓約をもつ知的自由主義が、唯一の本当に人間らしい体制であるということを示したいと思う。私は、「言葉で傷つけられた」人々には、補償という形で何かを要求するという道徳的権利はいっさいないということを示したいと思う。自分が傷つけられたというので何かを要求する人に対する正しい答えとは何か。それは、「お気の毒、だけどあなたは生きていくでしょう」というに尽きる。「人種差別主義者」「同性愛恐怖者」「女性差別主義者」「神を冒瀆する者」「共産主義者」、あるいは、どんな化け物であろうと、これらのものを処罰せよと主張する人たちはどうかといえば、彼らは知的探求の敵であり、彼らの騒がしい要求は全く無視されて然るべきであり、いっさい付き合ってはならない。

(p.44)

 

我々は皆、自分の方からとにかくもっと攻勢にでてけしかけろなどと言っているのでは勿論ない。どうか、ユダヤ教の礼拝堂にペンキで鉤十字を描いて、私は祝福を与えているのだなんて言わないようにしてもらいたい。面白がって人の気に障るようなことをするのには反対である。しかしまた私にとってはっきりしているのは、知識の追求に当たっては、多くの人たちが、そして多分我々のほとんども何らかの機会に、傷つけられるということ、しかもこれは、どうにかしようと願ったり、努力したりしてみても、どうにもならない現実であるということである。人を傷つけるのは良くない。しかし、どうしてもそうならざるをえないのである。傷つけ合いなしの社会は、知識なしの社会である。

(p.199)

 

(……前略……)彼がもしきつい態度を取りたいというのなら、自分の戸口に「ホモは病気だ」と書いたポスターを貼りつけたいというのなら、それを差し止めるべきではない。実のところ、私がはっきり言いたいのは、もし彼がゲイ(ホモ)の人たちは、直せるような病気に罹っていると信じるのなら、そう発言し、自分の主張を証明するようにすればよいということである。

どうしてそう言えるのかって。

先ず第一に、彼を罰したところで効果はないからである。抑圧するだけでは、いかなる仮説も完全に埋葬されることはない。悪しき考えを葬る唯一の道は、それを天下に曝し、より良いものをもってこれに代えることである。

第二に、すべての少数者同様、ホモの人たちも、知識や議論を規制する措置によっては、得るよりも失うところが遥かに多いからである。確かに今日、取り締まる人たちはゲイの人たちの側に立っているといえよう。しかし車輪は回転し、多数者の方がのし上がってきて、異端裁判的機構が彼らに向けられるようになると、ホモの人たちは、自分たちも手伝ってそれを作り上げた日を悔いるであろう。

(……後略……)

(p.255)

 

 上記のようなローチの主張は、おそらく、現在では通じない。いまとなっては、言葉は単に人の気持ちを傷つけるだけでなく、気持ちを傷つけることで精神的・肉体的な損傷を引き起こしかねないこと、そして場合によっては人を死に至らしめかねないことが、多くの人によって理解されているからだ。人種的・性的少数者に対する差別的な言動や表現が、彼らにトラウマを与えたり彼女らを自殺に追い込んだりしてきたらしいことは周知されるようになっており、良心的な人々は、だからこそ自分や他人が差別的な言動や表現することを危惧して「規制もやむなし」と考えるようになっているのだ。

 ……とはいえ、過去に現代ビジネスで紹介した『アメリカン・マインドの甘やかし』のなかでも危惧されていたように、現代では不愉快な表現や非・左派的な思想や言論を抑圧するために、「危害」の概念が後付けで拡大されている感がある。そして、攻撃的であったり挑戦的であったりする言論に触れて、正面から受け止めて対峙したりする機会が失われることで、若者は言論に対する免疫がなくなってますます傷つきやすくなる、という悪循環も発生しているようだ*2*3

 なにより、原則論として、「人を傷つける知識や表現は制限しましょう」という発想は、(1)どんな表現についてもどこかの属性の人が「わたしはこの表現で傷ついたから、この表現は封じられるべきだ」と言い出す泥沼の状況か、(2)「この属性の人の"傷つき"は配慮されるべきだが、この属性の人の"傷つき"は配慮されるべきではない」という権威主義的で独善的な選り分け、のどちらかを引き起こすことになるだろう。

 

 とくに今日のSNSやアカデミアの状況をみると、以下の引用部分は、かなり鋭い予言であったように思われる。

 

それが無神経なように聞こえるとしても、 気持ちを傷つけられない権利というものが確立されると、より礼儀正しい文化に至るどころか、誰が誰にとって不愉快だとか、誰がより多く傷つけられていると主張することができるかといったことをめぐって声高な泥仕合が一杯起きるだろう

(p.205)

 

言葉の上での攻撃と物理的暴力を同等だと考えたい人には、もう一度自分の立っている立場の論理を思い返してほしいと言いたい。もし人を傷つける意見が暴力なら、つらくてきつい批判は暴力だということになる。言い換えると、人道主義的前提に立てば、科学それ自体が一種の暴力になる。では暴力に対処するにはどうするか。それを止めさせ、実行者を罰するのに、公的・私的な警察権力を樹立する。そして人を傷つける思想や言論を取り除く権限を持った当局者を立てる。別言すれば、異端尋問所を、である。

(p.207)

 

 ……とはいえ、やっぱり、「傷つき」を一切意に介さずに表現の自由や知識の追求が原理的に擁護される社会というものが成立するとも思えない。それは大半の人にとってキツ過ぎるし、けっきょく人間には人道主義的な傾向が多かれ少なかれ存在するのだから「配慮」や「同情」というものは必ず発生するはずだ。そして、ヘイトスピーチや無知蒙昧な表現を放置することは、原理的には必要であるとしても、現実的にはデメリットやコストの方が多くて割りに合わないことは、火を見るより明らかだ。だからほどほどの「落としどころ」を見つけなければならないのだが、その「落としどころ」を探すための試みが、泥仕合や異端尋問に繋がっているとも言えてしまう。まあ難しい問題である。

 

*1:ローチはジョン・ロックカール・ポパーなどの知識人たちの考え方を紹介しながら「自由思考」や「自由科学」のあり方や成り立ち、価値などを説いているが、まあミル的な「思想の自由市場」とだいたい似たような感じと言っちゃっていいと思う。

*2:

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安全主義は、「危険」や「不安」に関する学術用語の定義を拡大させるという影響ももたらしている。ニック・ハスラムという心理学者は、心理学の世界では「コンセプト・クリープ(概念の漸動)」という現象が起こっていることを指摘した。心理学研究においては、「PTSD」「精神障害」「虐待」「いじめ」などの単語が指し示す意味の範囲は近年になって急に拡大しており、概念の名前は同じであってもその中身は大幅に変わっているのだ。

特徴的なのは、いずれの概念についても、その定義や基準が客観よりも主観を重視したものとなっていることだ。たとえば、ある人が「自分は虐待を受けた」と申告したり「トラウマを負った」と主張したりした場合、虐待やトラウマの存在についての客観的な検証がなくとも、本人の言い分が事実としてそのまま認められるようになっているのである。

こうして危険や危害の基準が客観的なものから主観的なものになることによって、差別や暴力の問題について論争的な議論を行う学者の講演についても、学生が「この学者の講演を聴くことによって傷ついた」「自分の大学がこのような主張を行う論客を招待したという事実によって不安になった」などと主張することで、授業や講演をキャンセルすることが可能になった。

*3:

gendai.ismedia.jp

 

たとえば、デラルド・ウィン・スー教授が発明した「マイクロアグレッション」という概念では、日常的な言動のなかで行われる些細な見下しや侮辱も攻撃(aggression)の一種であるとされる 。しかし、マイクロアグレッションという概念は、発話者が攻撃を意図していなくても聞き手が傷つけばそれが攻撃である、としてしまう。つまり、「攻撃」の定義を発言者の意図や客観的な基準にではなく、聞き手の主観に委ねてしまう概念であるのだ。

マイクロアグレッションという概念にかかると、「自分が傷ついた」という感情が、相手を非難することを正当化する根拠になってしまう。最初は不愉快であったり攻撃的に聞こえた発言であっても、相手の発言についての真意をたずねたり「どのようなことを主張しようとしているのか」と冷静に解釈したりすることで誤解が解けたり建設的な対話がスタートする可能性はあるものだが、その可能性が閉ざされてしまうのである。

さらに、マイクロアグレッションのような概念は、学生たち自身の精神的健康にも良からぬ影響をもたらす。他人に対する非難を優先して自分の感情の正当性を吟味することを怠らせるだけでなく、「自分が被害者である」とか「自分は傷つけられた」といった意識が他人を批判する根拠になると思わせることは、そのような意識を積極的に持つように本人を動機付けてしまうのである。その結果、学生たちは、「自分は被害者である」という意識から逃れなくなるのだ。

 

「自由」にケチをつけるな(読書メモ:『自由の命運 : 国家、社会、そして狭い回廊』)

 

 

 

 もう図書館に返却してしまって読み直せないので、浅い感想をメモ的に残しておく。

 

『自由の命運』は経済学の本(制度論の本)であり、様々な時代における世界各国の社会の有り様や国家システムを紹介しながらどういう国では経済や行政がうまくいってどういう国ではうまくいかなかったか、ということが論じられるのだが、その議論の内容は記述的であるはずなのに規範的な趣が強い。

 著者たちが強調する価値とは「自由」だ。これは「解題」で稲葉さんも書いていたのだと思うのだが、前著の『国家はなぜ衰退するのか』では様々な制度について分析した結論として「経済が反映したり社会がうまくいくためには自由が必要だ」という議論が提出されていたのに対して、『自由の命運』ではそれを前提とするところから議論が始まっているのである。

 

『自由の命運』で展開される議論とは「国家制度が全くない社会と国家の権力が強すぎる社会のどちらでも、どちらも人々は自由や幸福に生きることはできず、イノベーションインセンティブが阻害されてたりそもそも経済活動を行うという意欲を失ったりしているから経済が発展することもない」ということである。国家制度が全くない社会は「不在のリヴァイアサン」、国家の権力が強すぎる社会は「専横のリヴァイアサン」、そして国家制度がほどほどであり上手く機能している社会は「足枷のリヴァイアサン」と呼称される(市民社会の側がリヴァイアサンに対して足枷をはめている、という意味)。

 国家のシステム(法律とか行政とか)が全く存在していなかったり機能していなかったりする社会では、人々は安心して商売したり貯蓄したりすることができない。無法状態であるから、自分の財産がいつ奪われたり契約が裏切られたりするかがわかったものではないからだ。

 ただし、国家がない場合にも、人間の社会には道徳というものがある。どんな集団にも平等主義的な「規範の檻」というものが存在しており、ある人が他の人に比べて多大な力を獲得しようとしたり富を独り占めしようとしたりしたときには、国家システムではなく慣習や伝統に基づいた制裁が行われたり、「他人から抜きん出ようとする者にはバチが当たる」という迷信を信じ込ませることでそういう行動があらかじめ封殺しようとされるのだ。……しかし、「規範の檻」の力が強い社会ではイノベーションは全く起こらず、インセンティブも歪められてしまう。結果として経済成長というものがほとんど起きず、そのような社会は現在であっても貧困状態で惨めに暮らしている。「規範の檻」は一見すると平等主義的で善いもののように聞こえるかもしれないが、平等主義的な規範がガチで徹底されている社会なんて実際には燦燦たるものだということだ。

 しかし、歴史上、数多くの社会では、財産を貯めて権力を身に付けることで「規範の檻」を破るエリートたちがあらわれて、国家が築かれてきた。国家があることで、安全を保証して、人の足を引っ張る規範も封じ込めて、安全で自由な経済活動を保証することができる。……しかし、権力を持つエリートたちは、往々にして利益誘導をはかりたがるし、国家にとって不安材料となるような市民たちの自由を徹底的に抑圧する。この状態の国家が「専横のリヴァイアサン」だ。専横のリヴァイアサンであっても、無法状態の社会や規範の檻に封じ込められた社会に比べると、たしかな経済成長は存在する(専横的経済成長)。しかし、その成長は長続きしない。国家が恣意的に権力を振るってしまうと、イノベーションとかインセンティブとかはやっぱり機能しないためだ。

 したがって、リヴァイアサンには足枷を嵌められなければならない。足枷を嵌めるのは市民たちだ。国家の権力に対抗できるだけに充分に市民社会が機能している国では「足枷のリヴァイアサン」が成立して、国家はその役割を適切に果たして、めでたくちゃんとした経済成長が達成される。……しかし、市民社会の力が強くなりすぎると国家の機能が弱まって「不在のリヴァイアサン」に傾くし、かといって国家の力が強くなると「専横のリヴァイアサン」に逆戻りだ。どちらの力も固定的なものでなく、弱まったり強まったりしながら綱引きをしている。この綱引きのあいだにあらわれる「狭い回廊」のなかに位置している国のみが、ちゃんと経済成長できるのみならず、市民たちは規範の檻からも国家からも抑圧されずに「自由」を味わうことができるのだ。

 

 現代では賢しらな思想家さんとかライターさんほど「自由な個人という近代的概念は破壊された」とか「自由に伴う代償を直視しなければならない」とかほざいて、「自由」に疑問を呈したがる。サンデル先生の『実力も運のうち』も、ある意味では「規範の檻」を現代アメリカ社会に復活させようとする試みだとみなすことができるだろう*1。しかし、『自由の命運』では、無法状態になったているアフリカの諸々の国々や規範の檻に雁字搦めにされているインド、国家の恣意によって市民が弾圧され生命も奪われてきたインドやナチスドイツの例を紹介しながら、「自由が存在しない国ってマジでやばいことになりますし、誰も住みたくないですよそんな国」ということが再確認される。これは考えてみれば当たり前のことであるはずなのに、現代のわれわれが済むような国では「自由」は水や空気のように存在するものとして受け止められているから、つい「自由ってそんなに良くないんじゃないの?」という意見のほうが注目されてしまうのだ。

 というわけで、「自由」の価値を経済学や制度論の観点から再確認させてくれるということで、この本にはなかなかの意義があると思う。だらだらと各国や各時代のエピソードを紹介する箇所が続いて読みものとしてはあまり面白くないのだが、中国やインドの問題について書かれていたり女性参政権運動を通じて市民が自由を獲得していく様子について書かれていたりする箇所は著者らの熱意や使命感があらわれていて、そこの部分は読んでいても面白い。

 

 ……とはいえ、先述したように、著者らの議論は「自由は重要だ」という規範意識に引っ張られている気がする。それがもっとも議論に問題を引き起こしているのは、中国について論じている箇所であるだろう。

『国家はなぜ衰退するのか』では「中国の経済成長は近いうちに止まるよ」と論じていたのに、実際には中国の経済成長は継続している*2。『自由の命運』でも「結局のところ中国は自由が保障されていない専横のリヴァイアサンであり、いつ経済活動が共産党政権の恣意で制限されるかわからないからインセンティブは機能せず、イノベーションはそのうち頭打ちになって、経済活動も止まるはずだ」という議論が繰り返される。しかし、ここの部分は説得力がなく(だって中国の人たちの多くは自由なしでも楽しんで生きているようだし、それで経済活動もうまくいっているらしいという事実があるんだし)、著者らの願望を表明しているようにしか思えない。中国に関する章の最後ではウイグルの強制労働の話を持ち出して「ほらやっぱり中国なんてロクなもんじゃないでしょう」ということが確認されて、それには同意するんだけれど、中国政府が非道なことをしているかどうかと経済成長が続くかどうかはまったく別の話である(別の話じゃないと言うのならそこを論証しなければいけない)。

 

 この本は全体的にはフランシス・フクヤマの『政治の起源』『政治の衰退』にもっとも近い*3。原始的な「規範の檻」が平等主義的であることはクリストファー・ボームの『モラルの起源』に詳しい*4。また、中国のような自由のない社会ではほんとうの意味でのイノベーションは起こらず研究だって頭打ちになるはずだという(願望込みの)議論にはティモシー・フェリスの著書『自由の科学(民主主義、理性、法の支配)』を思い出した*5。そして、ジョン・ロールズの『正義論』をはじめとする、「自由」に関する政治哲学の規範的な議論とあわせて読んでみるべきでもあるだろう。

さいきん読んだ本シリーズ:『リベラルとは何か』とか

・『リベラルとは何か』

 

 

この本はなかなか面白かった。もう図書館に返却してしまったけれど、ブログ記事にしてもよかったくらい。アメリカとヨーロッパとのリベラルの違い(や、その違いをあまり強調するのも間違っているということ)や「ネオリベラリズム」についてもきちんと解説されている。

リベラリズム」というとつい価値観の多元性を前提にした思想であるとイメージしてしまいがちだが、最初のほうのリベラルとは「人々が善い人生を送るためには事由が必要であり、だから社会や国家はこれこれこうして自由を保証しなければならない」という考え方をしていたようであり、道徳的に優れた生のためには事由が必要だという理論建てをしていたらしく、つまり一定の価値観の範囲内での自由や「積極的自由」が必要であるという主張をしていたようだ。わたしとしても最近はそういう考え方のほうに共感する。そのうち「徳倫理学リベラリズム」でも提唱してみようかな。

 

・『感情の哲学入門講義』

 

 

 

 タイトル通り、大学での哲学入門講義に使用することを前提として書かれた、教科書みたいな感じの本。「哲学」についても「感情」についても「感情の哲学」についても、いい感じに入門になっている。内容はかなり丁寧かつ客観的であるのだが、そのせいで読んでいて物足りなくもあった。

 

・『言葉はいかに人を欺くか』

 

 

 扱われている題材は面白いのに、分析哲学にしてもいくらなんでも議論が細か過ぎてねちっこ過ぎるので読んでてぜんぜん面白くない。また、終盤の「犬笛」に関する議論は結論ありきというか概念工学的というか、左傾化したイデオロギーのための理屈をひねり出している感じがあった。

 

・『制と懲罰の歴史』

 

 

 

 面白そうな題材ではあるのに、各時代におけるエピソードを延々と羅列しているだけであり理論とか分析とかはほとんどなくて、知的好奇心がぜんぜんそそられない。まあエピソード羅列的な歴史の本っていっぱいあるけれど、よくみんな読んでいられるものだなと思う。うさん臭くても適当でもいいから、理論をぶちあげてくれたほうが断然おもしろいはずだ。また、著者の問題意識はたぶんフーコー的なあれなんだろうけど、そのせいで内容が凡庸になってしまった気もする。

 

・『飼いならす』

 

 

 

 それなりに興味深いのだが、10種類の動植物について章ごとに取り上げている構成のせいか、なんだか内容が散漫になっている。これなら、各動植物についてそれぞれ取り上げた新書を一冊ずつ読んだ方がよい読書体験ができると思った。「家畜化(栽培)」というトピックそのものについてもっとストレートに取り上げた方が面白くなっていただろう。遺伝子組み換え食品に関する議論も内容がかなり初歩の初歩という感じでいらねーと思った。

 

・『疫病と人類知』

 

 

 疫病の歴史、コロナウィルスや社会情勢に関する諸々の情報、『ブループリント』でも展開されていた著者独自の楽観論にもとづいた未来予測のごた混ぜという感じ。

 

・『マーサ・ヌスバウム

 

 

 

 ヌスバウムの来歴や思想について程よくまとめられていて、なかなか参考になる。とはいえヌスバウムの本って難しくないのでわざわざ入門書を読む必要はないとも思うのだが。性的モノ化論などに関する紹介があまりなされていないのは物足りなかった。

 

・『生と死を分ける数学』

 

 

 

 BLMの批判者たちがよくいう「白人警官に殺された黒人より、黒人に殺された黒人の数のほうが多い」といったレトリックを論破している箇所は必読。しかし、社会問題に絡められても、数学に関する議論ってどうにも眠くなって苦手である。

 

・『オン・ビーイング・ミー』

 

 

 内容が薄い。つまらない。

 

 

 

 

社会性の収斂進化、「社会性」は「善」であるのか?(読書メモ:『ブループリント:「よい未来」を築くための進化論と人類史』)

 

 

 この本のメインの主張である「青写真(社会性一式)」に関する議論などは先日の記事で紹介したので、今回は、感想とか気に入った部分の引用とかだけで済ませよう。

 

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・副題には「進化論と人類史」とあるが、基本的には進化論の話がメイン。下巻の後半からは文化進化論の紹介が多くなるが、歴史の議論がそこまで詳細にされるわけではない。内容としては、人間と動物(特に霊長類やゾウなどの社会性の高い動物たち)との共通点を示しながらも、人間には他の動物たちよりも際立った「文化」があることも強調しながら、人間の生物学的側面のなかでも善い部分に根付いた社会は「善い社会」となり得る点……といったことが主張される。

 最終章では規範的な議論が展開されるが、えらいことにいろんな倫理学者たちについて紹介しながら、著者なりの主張がバシッと示される*1。人間の生物学的傾向を強調し、さらには「生物学的傾向に従うのが善い」という部分まで含む著者の主張は「自然主義的誤謬」との批判を容易に招きかねないもであるから、その想定される批判に対して先回りした反論が展開されているのだ。

 ……とはいえ、先日の記事でもちらっと触れたが、著者と同じように人間の生物学的傾向の存在を認めたり生来的な利他性についても認識したりしながらも、最終的には「生物学的傾向に従うのではなく、理性に従うことが真に善い社会を築くためには必要だ」という結論を出す一部の功利主義者たち(ピーター・シンガーとかジョシュア・グリーンとか功利主義者じゃないかもしれないけどジョセフ・ヒースとか)の議論がほとんど紹介されないのは気になるところだ。わたしが見たところ、著者の議論にとって最も手強い論敵になるのは、「自然主義的誤謬だ!」とやいのやいのと文句を付けてくる人文学者や社会構築主義者などではなくて、進化心理学を理解したうえで生物学的傾向よりも理性の優位性を強調するタイプの論者であるはずだからだ。

 また、規範的な議論が展開されるのはほぼほぼ最終章だけに限られていることもあって、突き詰めが足りていない感じもする。

 

 とはいえ、最終章から印象に残った箇所を引用。

 

道徳的判断は世界を叙述するものではなく、規定するものであるから、これに反証は不可能であり、したがって道徳的判断は科学的でないというのが一般的な感覚だ。地球は平らだという主張が正しいとか誤っているとか言うことはできるにしても、殺人は悪いことであるという主張に対して同じように客観的な見解を述べることはできない。にもかかわらず、倫理には何かしら客観的なものがあるようにも見える。ヒュームが論じたように、たしかに倫理は私たちが世界に見出す客観的なものごとの状態に関係しているが、そこにはまた別の、「感情によって決定される」何かも含まれている。

(p.274)

※以下、引用はすべて下巻から。

 

第二次大戦後には、イギリスの哲学者リチャード・マーヴィン・ヘアの提唱による一連の考えても出てきた。ヘアは一九四二年に捕虜になってから、クウェー川に沿っての長い行軍と日本軍の収容所生活を生き延びていた。人間は自由に価値観を選択できるとの認識を保持しながら、同時にヘアは、その選択は制約に抗ってなされるものだとも論じた。個人の倫理は、あちこちに揺れ動きながらも、最終的には数々の根本的な制約に突き当たる。その制約は、何か客観的なもの、みずからの外にあるもの、言い換えれば、自然によって課されている。少なくとも倫理のある部分は、突き詰めれば自然なものだと言えるのだ。

この論は、次のように展開される。何をもって時計であるとするか(それは時間を正確に告げるものである)を理解すれば、時計の果たす機能が善いのか悪いのかを判断する立場に立てる。同様に、何をもって人間であるとするかを理解すれば、人間のなす経験が善いのか悪いのかを判断する立場に立てる。

たとえば愛する資質を欠いた人間は、人間であることを完全に満たしてはおらず、それは悪いことであると言えるかもしれない。この見方からすると、一連の自然な制約と定義は、それがなかったら果てしなく続く相対主義的な道徳の後退を止めることができる。社会が構成員の幸せや生存を強化するのなら、そのような社会は善いものだと言える。そうした制約に対して、進化も倫理も無縁ではない。これもまた古い考えで、少なくともプラトンアリストテレスまでさかのぼれる。

(p.275 - 276)

 

同じように、優しさや勇気といった人間の徳についても語ることができる。これらの徳は「自然な優秀性」であり、その反対は「自然な欠陥性」だ。〔フィリッパ・〕フットは「道徳的な行動は合理的な行動である」と論じ、倫理は人類の本性によって課される制約によって決定されうると説明した。人間の場合、「合理的」であるとは、人間は社会的に生きているときこそ善いということを意味する。人間は自然にそうするよう強いられているからだ。善い社会をつくることに関連するかぎりにおいて、人間が完全に人間であることを可能にする倫理は、人間の進化的過去に導かれている。

(p. 276 - 277)

 

・この本では、人間ほどではなくてもそれに準ずるくらい複雑な社会を築く動物たちーー霊長類、クジラ類、そしてゾウーーには、人間に準ずるような個体識別能力やアイデンティティ認知能力があって、彼らはときに利他的な行動をおこない、仲間とのあいだに友情を築いたり仲間が死んだら悲しんだりする、ということが示されている。

 霊長類はともかくゾウやクジラは進化的には人間からはずっと縁遠い存在であるが、それでも彼らは人間に類比できるような社会性を持っているのだ(その能力は、人間性や道徳性と呼ばれることもあるものである)。

 この不思議を、著者は「収斂進化」によって説明する。ゾウもクジラも人間も、ほかの動物たちに比べて高度な社会を築くようになるにつれて、同様の能力を身に付けることを要請された。自然環境だけでなく、自分たちが集団生活を営むことで身を置くようになった社会的環境にも適応する必要が生じたからだ。

 

私たちが目の構造をタコと共有できるとすれば、友情を結ぶ能力はゾウと共有できる。霊長類、ゾウ、クジラには社会性一式の要素が見られる。なぜなら、それらの動物たちは七五〇〇万年以上前に共通の祖先から枝分かれしたという事実にもかかわらず、環境が課した困難に対処するため、そうした形質を別個に、かつ収斂して進化させてきたからだ。当初、環境による困難は外的なものだった。しかし、やがて、動物たちがつくった社会的集団もまたその環境の特徴になり、彼らの社会的行動をさらに形成し強化していった。動物は社会的集団に身を置く頻度が高まるにつれて、社会的生活がうまくできるように進化していくのだ。

(p.58)

 

集団で生きることには、単独で生きる場合とはもちろん、一夫一妻で生きる場合ともまた違った難しさがある。人間は生存戦略として集団生活を採用した。そして、その(社会的)環境でできるだけうまく生きていけるように、たくさんの適応を(身体的形質や本能的行動も含めて)果たす一方で、単独生活に適した適応は放置した。このトレードオフにより、人間は地理的にとてつもない範囲に広まって、地球上の支配的な種になることができた。

自分の生きる物理的環境をそっくり背負って移動するカタツムリと同じように、人間もまた、友達と集団からなる社会的な生息環境をどこに行くときでも保持している。この社会的な保護殻に包まれていればこそ、私たちはとんでもなく多種多様な条件下で生存できるのだ。つまり私たち人類という種は、友情、協力、社会的学習に依存するよう進化したわけであるーーたとえこれらの麗しい資質が、烈火のような競争と暴力から生まれたのだとしても。

人類という種に見られるこれらの形質がまさしく普遍的であることは、第7章で見たように、これらが霊長類からゾウにいたるまで、ほかのさまざまな社会的動物に偏在していることからも証明される。連携を築いたり認識したりする能力は、社会的動物にとって必須のものであり、ある個体を友か敵か、自分の集団の部内者か部外者かに類別する能力は、正しく連携をとるのに絶対に欠かせない認知技能なのだ。

(p.108)

 

・わたしが思うに、「人間と一部の動物たちは、収斂進化によって同様の社会的な感情を身につけるに至った」という考え方は、動物倫理学にも示唆をもたらすものである。

 この考え方が正しいければ、ウシやブタやニワトリを殺すことよりも、あるいはイヌやネコを殺すことよりも、チンパンジーやゾウやイルカを殺すことはという主張は正当化される可能性が高い。社会性の高い動物は、自己アイデンティティ認知能力が高いためにほかの動物たちよりも「自分の生命」に対する利害が強いだけでなく、仲間たちのアイデンティティも認知できて仲間たちと絆を紡ぐことができるために、ほかの動物たちよりも「仲間の生命」に対する利害も強いと見なすことができる。……つまり、一匹を殺せばほかの仲間たちがその死を悼むような動物を殺すことは、殺される一匹だけでなく残された仲間たちにとっても危害となる、というわけだ。

 功利主義だけでなく、カント的な義務論や徳倫理でも、それぞれの理路において「社会性の高い動物を殺すことはとりわけ悪い」ということは説明できそうだ。

 さらには、自己に関する認知能力は高そうだが他者に関する認知能力はそれほど高そうでもなさそうな鳥類と、霊長類やクジラ類とを区別する論拠にもなるだろう*2

 

・この本で展開されている議論はやや総花的であり、文化進化論ならジョゼフ・ヘンリック、社会性とか集団的な道徳心理に関わる部分はジョナサン・ハイト、一夫一妻制に関する議論はラリー・ヤングで動物の社会性に関する議論ならフランス・ドゥ・ヴァールと、進化論や心理学に詳しい人ならそれぞれ別の学者の著書でもっと深く展開されている主張が浅口なかたちで短めに紹介される、という場面が多い。いちおう、著者のオリジナルな主張である「社会的ネットワーク」に関する議論も紹介されるのだが、ここの部分だけ言っていることが大したことなく感じられてあまり面白くない。他の学者たちの議論と「社会的ネットワーク」に関する議論がうまく接続できているかどうかも、正直に言うと微妙なところだ。最終章における規範的な議論との接続は、輪をかけてうまくいっていない。

 実際のところ、最後まで読んでも、著者の主張のどこがどのように目新しいのかはわたしにはよくわからなかった。人間は複雑な社会に適応するための諸々の特徴を備えていることはずっと前から進化心理学で言われていることだし、生物学的特徴をあまり無視したコミュニティはうまく行かないという話もそりゃそうだとしか言いようがないし、文化進化論や自己家畜化論だってもはや常識になりつつあるし。

 さらに、著者には「人間性」を「社会性」に還元して、さらにそれと「善」を早急に直結させたがる、という悪癖があるようだ。そのために、内集団バイアスについても「みんなが思っているほど危ないものではない」とばかりに論じられていて、なかなか危うい(たとえば、わたしたちに「友を愛し、敵を憎む傾向がある」ことよりも「私たちは友好的であり、親切であり…他人と協力し、互いに教え、教わることができる」という点に注目しよう、という主張がなされているのだが(p.109)、いやいや昨今の情勢で「敵を憎む傾向」が引き起こす問題点を無視することは無理でしょう)。

 

 

*1:『怒りの人類史』の著者にも見習ってほしい。

*2:ここら辺の議論はこちらを参照。

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「正しい怒り」は存在するか?(読書メモ:『怒りの人類史:ブッダからツイッターまで』)

 

 

 

「人類史」とは書いてあるが、内容は思想史のそれ。主に西洋で「怒り」という情動とはどのようにみなされてどのように扱われてきたか、ということが論じられている。

 第一部では怒りを否定する思想の歴史、第二部では怒りを(条件付きで)肯定する思想の歴史が扱われて、第三部では自然科学や心理学などにおける怒りについての研究の変遷が描かれる。

 最終章のひとつ手前の12章では、SNSのある現代社会における「怒り」の善し悪しについて論じられるのだが、著者はいちおうは中立っぽい風でありながらも、トランプ主義者や人種差別主義者たちの「怒り」を否定する一方で、フェミニストたちの「怒り」は肯定しているようだ。

 ……正直に言うと、この章の書きぶりはなかなかにひどい。「思想史家として中立的でありたい」という意識のせいか、怒りに関して様々な哲学者が行なってきた規範的な議論を様々に参照しながらも、著者は自分自身による「怒りはどのような条件のときに善くて、どのような条件のときに悪いか」という規範的な定義を明言しない。だけれど、12章を読んだ読者の大半には、「トランプ支持者の怒りは筋違いであり侮蔑されるべきものであって、フェミニストたちの怒りは正当であって称賛されるべきものである」と著者が考えていることは伝わるだろう(つまり、規範的なメッセージが含まれている)。前者の怒りは誤った認識や逆恨みに基づいているという風に描写されているが、後者については「これまでに女性の怒りは男性の怒りに比べて軽んじられて抑圧されてきた」という歴史的経緯とセットで紹介されているので批判する方が間違っている、という感じになっているからだ。

 こうなっている原因は、「中立を装いながら特定の主張を肯定する議論を展開して読者を誘導する」という行為を著者が確信犯的にやっているという点にではなく、ほんとうの意味での哲学的で規範的な思考をおこなうことを著者が放棄しているという点にあるように思われる。自分が拠って立つための足場を作っていないから、現代の社会(あるいは、本を出したり読んだりするような知的リベラルな界隈)でなんとなく「これは否定すべきで、これは肯定すべき」とされている風潮にそのまま流されてしまっているのである。

 また、ほかの人たちの感想を調べたところ、案の定というか、フェミニストの人たちがこの本を肯定しているのを見かけた。いちおうわたしも修士論文で女性による社会運動の歴史を扱ってきたので、「女性の怒りは馬鹿にされたり否定されたり抑圧されたりしてきた」という歴史的経緯の存在は理解している*1。とはいえ、トーンポリシングの議論でも「ケアの倫理」についての議論でもそうなのだが、「これまで怒りやケアの感情が女性性に結び付けられながら歴史的に軽んじられてきた」ということは「怒りやケアの感情は正しい」ということを保証するわけではない*2。すくなくともSNSなどを見てみれば、大半の人たちは、現在のフェミニストたちには怒りが「不足」しているのではなく「過剰」になっていると判断することだろう。

 そして、「これまで女性の怒りは抑圧されてきた」というナラティブ自体が、怒りという火に油をそそぐ効果を持つはずである。

 

 それはともかく、第一部と第二部で展開される、「怒り」の否定と肯定をめぐる西洋哲学者たちの議論のまとめは、それなりに興味深い。

 第一章では仏教の議論も紹介されるとはいえ、怒りに対する「否定派」の代表格はストア派だ。

 

多くの著述家が、ストア哲学と仏教とのあいだに類似点を見いだしてきた。だが、古代ローマの政治家であり、ストア哲学者でもあったセネカ(紀元六十五年没)がもしブッダのことを知ったら、かなり変わった楽観主義者だと思ったことだろう。セネカの考えでは、きちんと育てられ、正しい哲学を教えられたとしても、怒りをもたない人間になれるのはごく少数(おもに男性、ひょっとしたら女性がひとりかふたり)だけだ。それはだれもが目指すべき目標だが、達成されることはない。人間の性質について、そして自然の摂理についてのセネカの見方は、ブッダのそれとはまったく異なっていた。

(p.37)

 

……アリストテレスの考えでは、怒りは体と心の自然な機能であり、怒りがふさわしい社会・政治的な状況が存在することは明白だった。その反対にセネカストア哲学者は一般に、怒りは自然のものではないと考えた。「人間の精神状態がゆがんでいないとき、これ〔人間の性質〕ほど穏やかなものがあるだろうか?」。セネカは、怒りを引き起こすような場面はそれこそ無数にあるが、どれひとつとして怒りを理にかなうとすることはできないと考えていた。

(p.42)

  

 現代の哲学者であるマーサ・ヌスバウムも、ストア派の末裔として紹介されている。ヌスバウムは怒りには多少の長所があることは認めているが、それをもっと生産的な情動へと「移行」させることが必要である、と論じているのだ。どのような方向に移行させるべきであるかということは、怒りが親密な領域・中間領域・政治的領域のどこに生じたかによって異なる*3

 

 怒りの「肯定派」の代表格は、なんといってもアリストテレスである。

 

アリストテレス曰く、怒りは評価、つまり思いなしによって生まれる。我々は、自分が軽んじられたと思ったときに怒りが湧く。その侮辱は一種の痛みとして認知され、我々を怒らせる。痛みをもたらした相手に立ち向かうなど、何か行動を起こさずにはいられない。復讐のよろこびーーあるいはそれを夢想することーーで、軽んじられたという痛みは軽減する。これは完璧に普通の反応だとアリストテレスは言う。そしてたいていの場合、復讐は全く正当な、それどころか気高いおこないであると。けっして怒らないのは愚者であり、またつねに怒っているのは短気な者や身勝手な者だ。怒りに至る経緯はさまざまだが、重要なのは、正しいとき、正しいことにかんして、正しい相手に、正しい目的で、正しいやり方で怒る、ということだ。

(p.112)

 

 ご存知の通り、キリスト教も、神やその法に対して不正を行う相手には怒りをぶつけることを肯定している。

 そして、デビッド・ヒュームやアダム・スミスなどのスコットランドの哲学者たちも「肯定派」であった。ヒュームは以下のように論じたのである。

 

 怒りは倫理的な感受性に欠かせない。残虐な人物に対しては怒るべきであり、そのようにはっきり言うべきときもある。怒りを覚えたとき、思慮分別をもって、「控えめに」そのことを伝えられたら、それは立派だ。怒りの度合いが激しくても、それが「自分自身の体と心の作用」であることを自覚しなければならない。怒りが残忍さを引き起こすと、悪徳のなかでももっとも酷いものとなるのは本当だ。しかしその行き過ぎこそ、周りの者の道徳的感性を呼びさます。残酷の犠牲者に同情、心配するからだ。我々は「(残酷の)罪をおかす」人に嫌悪を感じ、「他の状況では有り得ないほどの強い憎しみを覚える」。わたしたちの倫理観は、賛成するために愛が必要なように、断罪するために怒りが必要なのだ。怒りがなければ、我々は道徳的な判断ができない。

(p.160)

 

 わたしとしては、アリストテレスが言うように「正しい怒り」もときと場合によっては有り得ると思う。とはいえ、著者も指摘しているように、「正しい怒り」と「正しくない怒り」が存在するという考え方は、ただちに「自分の怒りは正しいが、あいつの怒りは正しくない」という発想に結び付くことは火を見るよりも明らかだ。ジョナサン・ハイトがたびたび指摘するように「他人の目のおがくずは見えても、自分の目の中の丸太は見えない」という自己正当化の機能が、わたしたちの心理や感情にはどうしても備わるものだから。同じように、この本では紹介されていないが(紹介すればいいのに)、進化心理学者たちの大半や進化論的暴露論証をおこなう現代の功利主義者たちも、怒りは否定するはずである。だから、セネカヌスバウムの主張を採用した方が賢明であるだろう。

 

 なお、この本はこれまでわたしが読んできた本のなかでもいちばんというくらいに誤字や乱丁がひどかった。

 

 

*1:

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*2:

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davitrice.hatenadiary.jp

*3:

 

 

 

 参考文献に乗っているのは『Anger and Forgiveness』であるが、『感情と法』でも似たような議論がされていたと思う。