道徳的動物日記

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社会的制裁のなにがよくないのか

anond.hatelabo.jp

 

 普段ははてな匿名ダイアリーの投稿にはあまり反応しないのだけれど、最近の事例についてはいろいろと思うところがあるので、昨日にTwitterに下記のような投稿をした。

 

 

 

 

 

 言いたいことは上記のツイートにだいたい書いているが、ついでだしもう少し書いておこう。

 

 

allreviews.jp

 

note.com

 

 

ネットリンチ」について書かれた本の原題は「So You've Been Publicly Shamed」で、Public-shaming とは「公の場での吊し上げ」という意味。個人的にはネットリンチという単語は字面がキツくて意味が限定的になり過ぎてしまうので、public-shamingやcall-outにあたる日本語があればよいと思う。

 

gendai.ismedia.jp

 

 集団的な吊し上げや非難に含まれる問題点のひとつは、その非難の内容が間違っていたり吊し上げが行き過ぎていたりする、ということが後から発覚しても、そのことに関する責任をだれも取らないということだ。

 たとえば、スティーブン・ピンカーアメリ言語学会の「フェロー」の地位から除名することを求めるオープンレターが提出されたとき、日本の言語学者社会学者や哲学者などのなかにもオープンレターに対する賛意を表明した人がいたが、わたしや他の数人の人たちが「オープンレターのなかで書かれているピンカーに対する批判はいずれも不当である」ということを指摘した後にも、賛意を示していた人がそのことについてコメントをした様子は見受けられない。つまり「ピンカーは悪くてムカつく奴だから、彼を批判するオープンレターには正しいことが書かれているっしょ」という程度の安易な気持ちで、一個人を差別主義者と糾弾して公的立場を引き下げることを求める文面に賛同していたわけである。……そういうことをする人たちは(わたしとかほかのピンカー擁護派の人たちに比べて)「リベラル」や「人権派」の立場にいて普段から反差別や社会的公正に関するメッセージを積極的に発しているタイプの人たちであるという事実は、やはりグロテスクであるように思える。

 

・「いじめ」にもいくつかのタイプがあり、立場的・身体的・知的な弱者に露骨な暴力を振るったり屈辱を与えたりするタイプの「いじめ」もあれば、集団内では相対的に弱者でない人を吊し上げたり仲間外れにしたりするタイプの「いじめ」もある。

 前者のほうが被害者が受けるダメージが深刻であり、弱者を標的にしているという点で悪質さもあるかもしれない。しかし、後者のタイプの「いじめ」であっても、被害者が深刻なストレスを受けて心に傷を負うことには変わりない。

 今回の件でも、いくつかの有名人が「ネットリンチの行き過ぎはよくない」という趣旨の発言をして、「お前はいじめっ子の味方をするのか」「自分にも後ろ暗いことがあるから擁護しているんだろう」と非難されている。しかし、有名人というものは社会的立場や能力が高かったり創造的で個性的な人格をしたりしているものであり、だからこそ、先の分類における後者のタイプの「いじめ」を受けた経験があるものだ*1。全国のいじめ被害経験者は過去に行われた「いじめ」の被害者に同情したから小山田を非難しているのと同じように、一部の有名人は現在に行われている「いじめ」の被害者に同情したから彼を擁護しているのであろう。

 

・繰り返しになるが、社会的制裁という現象においては責任を取る人がだれもいないので、この現象は必然的に「行き過ぎ」になる。「どの程度までの制裁を与えることが妥当であるか」という調節を行う権限を持つ人もいないし、「どのような対応がなされたら制裁を収めるか」という「ゴール」を定義する権限を持つ人もいない。とくにネット社会では、ある個人に対する制裁がいちど始まったら、みんなが飽きて忘れるまではずっと続くことになる。

 厄介なのは、たとえば近年では性的加害行為に対する#MeToo運動がそうであったように、社会的制裁の現象によってその後の社会の道徳基準が引き上げられて、これまで見過ごされてきた行為が懲罰の対象になり、以降はその行為の被害者が減るという「望ましい事態」がもたらされる可能性もある、ということだ*2。実際のところ、これまでの歴史においても、社会の道徳的進歩というものは多かれ少なかれ社会的制裁によって実現してきたのかもしれないし、それがなければわたしたちは現在よりもずっとひどい社会に住んでいたのかもしれない。

 とはいえ、どんな社会的制裁も行き過ぎになると考えれば、対象となる人は不当に過多な制裁を受けてきた……つまり、ある種の「被害」を受けてきた、ということになる。このことには不当さや不正義が含まれているはずだし、すくなくとも気の毒なことではある。

 このようなことを考えると、よっぽどのことがない限りは、有名人であろうと犯罪者であろうと、自分と関係のない個人に対して怒りを示したり懲罰を求めたりする言動をおこなうということ自体をする気があまりなくなる*3。特にネットやSNSには、個人のものとして投稿した意見であっても、同じような意見を投稿している人が他に何百人や何万人もいたりすると、意見の集合体が「壁」となって意見の対象者にとっては暴力として機能する、という側面があるからだ。

 また、実際のところ、大半の人はどんな問題についても自分と関わりなければいちいち怒らないし、ましてやネットにその問題についての意見を投稿することもない。Twitterにせよヤフコメにせよはてなにせよ、ついつい忘れてしまうが、そんなところに意見を書く人は日本人のなかでもごくわずかだ。そのような人たちのことを「民主主義の社会の一員として社会に対して抱くべき関心が欠けている」と非難することはできるかもしれない。……しかし、自分と関わりがなく自分が責任を取れるわけでもない問題について意見を表明しないということも、それはそれで美徳であるだろう。

 

・ほかにも色々とモヤモヤすることはあるのだけれど、まあ以前に書いた下記の記事のなかでも言いたいことはいっている。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 上記の記事でも書いたが、ネット上での非難というものは「ネタ」化や「大喜利」化しやすいということは、特にグロテスクだ。

 小山田の件は深刻な「いじめ」が関わっているという点でネタや大喜利にしている人はほとんどいないようであるが、もう少し気軽に叩きやすい対象……たとえば、『100日間生きたワニ』の映画やIOCのバッハ会長はネタや大喜利の対象とされているようである*4。たとえば、「バッハ会長との王様ゲームで最終的にバッハ会長が日本刀で斬られてしまう感じの命令を出したい」という趣旨のツイートを見かけた。他愛のないネタであると言うこともできるかもしれないし、この日本語のツイートをバッハ会長本人が見かけて傷つくという事態もまず起こらないだろう。それでも、ある実在の個人の死を連想させる文言を面白おかしいものとして投稿するというのは、考えてみればひどい話であるのだ。

 

*1:「壁と卵」発言でも有名な村上春樹が「いじめ」について書いた作品といえば「沈黙」であるが、そこで描かれている「いじめ」も後者のタイプのものであることは示唆的だ。

murakami-haruki-times.com

theeigadiary.hatenablog.com

*2:とはいえ、今回の件で、全国の学校からいじめ被害者が減るかどうかは疑わしい。(この件に関して専門的な知識があるわけではないので印象論になってしまうが、)学校でいじめが起こるのは、いじめが見過ごされていたり社会的に許容されていたりするからというよりも、学校という閉鎖空間やシステムに成長期や思春期という生徒たちの年齢などのほうにずっと強く原因があるように思える。

*3:もしかして忘れているだけで以前には自分でもそういう言動をしていた可能性は高いので、あまり強くは言えないけれど。

*4:

www.itmedia.co.jp

さいきん読んだ本シリーズ:『手の倫理』とか

 

●『手の倫理』

 

 

 著者はたぶん自分の主張をなんらかの「主義」や「理論」に還元して解釈されること自体を嫌がるだろうけれど、あえてそうしてしまうと、「ケアの倫理」や「状況主義」に近いものだろう。ついでに「身体性」という最近流行りのトピックも強調されるし、当然のごとく後半は「障害学」っぽくなっていく。その結果として、近頃の日本の思想界隈や人文界隈ではとくに評価されやすく、文句をつけたり批判したりすると怒られてしまうような、どこかで見たことあるタイプの無難で上品な議論が展開されることになる。

 ……この書きぶりからわかるように、わたし的には読んでいてかなりつまらなかった。「みんなよくこういう議論に納得できてしまうものだし、いつもいつも飽きもせずにこういうの読めるもんだな」って思っちゃったのだ。

 

・『哲学の女王たち:もうひとつの思想史入門』

 

 

 

 女性の哲学徒や哲学徒志望者をエンパワメントするために編纂された、男性哲学者の影に隠されて見過ごされてきた歴史上の女性哲学者たちについて、現代の女性哲学者たちが解説する本。当然のことながらふつうの哲学史の本では紹介されないような哲学者が次々と登場することになり、読んでいてなかなか新鮮だ。個人的には、メアリー・アステルという人が開明フェミニストとしての要素と保守主義者としての要素が両立していて、とくに興味深かった*1

 各哲学者についての紹介文を書いているのはそれぞれ別の人であり、普段のわたしならこういう構成の本は読んでいてあまり面白く思えないのだが(基本的に「編著」というものが好きではなくて、ひとりの人が自分の考えや感性に基づいて書き切る「単著」のほうが読みものとしては面白く感じる)、この本に関しては、フェミニズムに関するスタンスや熱量が紹介者ごとに異なっていることがバランスを保つ作用を生み出している。つまり、たとえば近代以前の女性哲学者やアーレントのような人に含まれる「反動的」な側面について、当時の事情を考慮して理解を示す紹介者もいれば現代の価値観に基づいて断罪する紹介者もいるということだ。哲学者の紹介は二の次にして哲学における女性蔑視に対する怒りを表明することをメインにしている紹介者もいれば、紹介している哲学者の思想の豊かさに対する愛情や敬意を表現している紹介者もいたりする。

 しかしアーレントを除けば紹介される女性哲学者たちは「小粒」な感じは否めず、「で、ここで紹介されている哲学者たちは、アリストテレスデカルトニーチェのようにエポックメイキングな主張をすることはできたんですか?思想史でどんな哲学者を紹介するかという基準って、"影響力があったかどうか"になるものですよね?女性蔑視がなかったって、公平な観点から哲学者トップ10とかトップ30とかを選んだら結局はだいたい男性になってしまうものなんじゃないですか?」とツッコミも入れたくなってしまうものだが、まあこれは野暮だろう。

 

●『二つの文化と科学革命』

 

 

 スティーブン・ピンカーが『21世紀の啓蒙』のなかで取り上げていたので気になって読んでみたが、内容がくどくどとしていて、なにが言いたいんだかよくわからなかった(というか、ピンカーが紹介している以上の内容は含まれていないような気がする)*2

 

●『感情史の始まり』

 

 

 

「社会構築主義(人類学)」と「普遍主義(生命科学)」との対立を軸としながら、感情研究の歴史について整理されている。それはいいのだが、著者はどちらかといえば人類学のほうに共感を抱いており、生命科学はあんまりお好きではなさそうな雰囲気が漂っている。ヨーロッパ人らしく文章の端々に嫌味ったらしさが含まれており、たとえばポール・エクマンはかなり冷笑的に紹介されていて気の毒になってしまった。かといって著者自身は歴史家であり人類学者でも心理学者でもないので、あくまで「感情に関する研究の歴史を第三者的な視点からまとめているだけです」とすまし顔であり、旗幟が鮮明にされているわけでもない。こういうのって読んでいるとイライラする。

 ページの分量も多いが、扱われているトピックもそれ以上に多いために、全体的に駆け足になっている。「整理」や「解説」が丁寧になされているというわけでもなく、感情研究に関する用語や感情研究に関わってきた学者たちの名前が矢継ぎ早に紹介されて、彼らの著書から次々と引用がなされるという感じ。そのために読みやすいといえば読みやすいが、知識がすっと入ってくるというわけではない。

 ジョン・ブロックマンについて紹介されている箇所ではピンカーやスティーブン・ホーキングの名前も出てくるが、ここでも、「三年ごとに新しい原稿を出せ」て、「生き生きとした日常的な例を用い、実験による研究をはるかに超える語り口で、時には世界全般を説明しようとする一般向けの科学書」(p.308-309)を書ける彼らのような大衆派アカデミシャンに対する著者の軽蔑(あるいは嫉妬)は隠し切れていない*3。だけれど、論点を明確にした本を書くことによって大衆に学問的な知識や考え方を啓蒙させられるという点でも自分の立場を堂々と示せられる勇気という点でも、ピンカーのようなアカデミシャンの方が著者の10倍は尊敬に値するとわたしは思う。

 

 

不平等は避けられなさそうです(読書メモ:『暴力と不平等の人類史―戦争・革命・崩壊・疫病』)

 

 

 かなり長くて重たい本。経済史の本でありがちな、大量の具体例を紹介しながら同じような話が何度でも何度でも繰り返される内容なので、細かい部分は流し読みでよいと思う。

 そしてこの本で繰り返されるテーマとは「暴力……それも大量の人命を失わせるような徹底した暴力のみが、ある社会の経済的平等を増させる唯一の方法である」というものだ。

 ポイントは「徹底した暴力」であるということ。

 たとえば「革命」については、ちょっとした農民蜂起や反乱は歴史のなかで何度も起こってきたが、その成果はあっという間に失われて不平等が戻ってしまうのであり、ロシアや中国で行われたような共産主義革命くらいに大量の人命を犠牲にするほどのものでなければ意味がない(それですら近年では革命の成果が失われて不平等が再拡大している)。オキュパイウォールストリートどこらかBLMでも生ぬるいのである。

 疫病も、百万人とか千万人とかの単位で人(と家畜)を殺すような黒死病スペイン風邪くらいにならないと経済的平等を促進しない。人が死にまくって労働力の価値が大幅に変わったり経済が崩壊するくらいになってから、ようやく、格差は縮まる。というわけで、残念ながら、新型コロナウィルスがいくら流行したところで平等化はすすまないだろう(むしろ格差は拡大しているようだ)。

 戦争をしたからといって経済的平等がすすむとは限らないが、国家総動員して総力戦した第一次世界大戦第二次世界大戦では参加したそれぞれの国で平等化すすんだ(この本のなかでは第二次世界大戦後の日本における平等化について一章を割いて論じられている……そして、第一次世界大戦は欧州には平等化をもたらしたが、ちょっとしか関わらなかったアメリカや日本では不平等が進行していたのだ)。「希望は、戦争」は一面の真実をついてはいるが、太平洋戦争の時代に戻る覚悟がなければ言っちゃいけない*1

 古代に西ローマ帝国が滅亡したときのように国家制度が崩壊した場合、いろんなことがメチャクチャになりみんながひたすら悲惨な目にあうが、上流層たちの資産も失われるおかげで運がよければ経済的平等は実現する。

 つまるところ、「徹底した暴力」は経済的平等化の必要条件ではあるが十分条件ではない。多くの人が血を流して、死に、残された人たちもひどい思いをして、建物とか文化とが破壊されても、経済的不平等が残る場合はあるということだ。

 

 さらには、現代の社会では、戦争・革命・崩壊・疫病(著者が言うところの「四騎士」)ですら、もはや経済的平等を実現させる力を持たなくなっている。

 

それでも、歴史は平等化についての2つの重要なことを教えてくれる。ひとつめは、急進的な政策介入は危機に際して行われるということだ。世界戦争や大恐慌の衝撃や、また言うまでもなくさまざまな共産主義革命が、平等化政策を生んできたが、いずれもそれぞれの状況に多くを負う措置であり、背景が異なれば、少なくとも同じ規模での実行は難しかった。2つめの教訓はさらに単純明快だ。政策に決定によってできることには限界があるということだ。社会における物質的不均衡の圧縮は、たびたび暴力的な力によって進められてきた。それは人間の制御を超えた力か、あるいはこんにちでは実行可能な政治目標の範囲をはるかに超えた力である。こんにちの世界では、平等化の最も有効なメカニズムはどれも作用していない。「四騎士」馬から下りたのだ。そして、正気の人間なら、彼らの復帰を決して望まないだろう。

(p.553)

 

 実際のところ、現代ではもう総力戦は行われない。軍事技術の急速な発展により戦争はサイバー化しており、戦闘員は少数精鋭となっていて、徴兵制はもはや時代遅れだ。核戦争が起これば話は別だが、おそらく起こらない。そして、共産主義革命が実現したのは世界大戦のおかげであり、大規模な戦争のなくなった社会には革命も存在しないのだ。そして、こんにちの先進国や発展途上国ローマ帝国のように滅亡する可能性は薄い。なんだかんだ言って、現代の国家体制とはきわめて強固なものだ。貧困国が国家破綻して内戦が引き起こされる事例はあるが、それも平等化には結びついてこなかった(総力戦による対外戦争と内戦はまったくの別物である)。そして、現代の世界では過去のように疫病による(数千万人単位の)大量死が引き起こされる見込みは薄いし、仮に大量死が起こったところで過去のように低技能労働者の価値が引き上がるとは考えられない。

 

 この本を読んでいると、人類の社会に不平等は付きものであることを、いやでも思い知らされる。

 

著しい不平等にはきわめて長い歴史がある。2000年前、ローマ帝国で最も裕福な世帯の私財は、1人当たりの平均年収のほぼ150万倍に達していた。これは、現代のビル・ゲイツと平均的なアメリカ人の財産の比率とほぼ同じである。何と言おうと、ローマ時代の所得の不平等の全体的な大きさは、アメリカのそれとあまり変わらなかったのだ。

とろが、ローマ教皇グレゴリウス1世の時代(西暦600年ごろ)までに莫大な財産が消滅し、貴族階級に残されたなけなしの資産は、借金せずにすむようにと教皇が与えてくれる施しだけとなった。このケースのように、時として不平等が減少することがあったのは、多くの人が貧しくなるとしても富裕層は失うものをより多く持っていたからである。別の例では、資本収益が落ちる一方で労働者の暮らし向きはよくなることがあった。たとえば黒死病に襲われたあとの西欧では、実質賃金が2〜3倍に跳ね上がり、労働者が肉とビールの夕食をとるようになる一方で、 地主は体面を保つのに必死だったという有名な話がある。

(p.5)

 

 とはいえ、『自由の命運』でも論じられていたように、最初から平等でありつづける社会には経済成長が存在しない*2

 

狩猟採集民の必要最低限の生活様式と、平等主義的なモラルエコノミーが結びつくと、どんなかたちの発展も許さないような強固な障害が形成される。 理由は単純で、経済成長を果たすためには、イノベーションと余剰生産が促されるようにするために、所得と消費にある程度の不平等が必要だからだ。成長がなければ余剰は生まれにくいから、それを何かに充当することも後代に受け継がせることもできない。モラルエコノミーが成長を阻害し、成長の欠如が余剰生産とその集積を阻害する。

(p.40)

 

 この本の結論は下記の通り。

 

……われわれはさしあたり、現在持っている頭脳と肉体と、それらが作り出した制度でやっていくしかない。それはつまり、将来の平等化の見込みは薄いことを意味する。ヨーロッパ大陸社会民主主義国が高税率と幅広い再分配の込み入った制度を維持し手直ししていくのも、アジアの裕福な民主主義国が税引前所得を異常なほど平等に配分し続け、不平等化の高まりといううねりをせき止めるのも、容易なことではない。そのうねりはグローバリーゼーションの進行につれて激しさを増すばかりかもしれない。前例のない人口動態の変容がその圧力に加わるからだ。それらの国々が現状を維持できるかどうかは疑わしい。不平等は至るところで徐々に高まっており、その流れが現状を覆そうとしていることは否定できない。現在の所得と富の分配を安定化するのがますます難しくなるとすれば、より公平な分配を目指す取り組みはどんなものであれ、必然的にさらに大きな障害にぶつかるはずである。

何千年にもわたり、歴史は、不平等の高まりあるいは高止まりの長丁場と、潜在する暴力的圧縮を繰り返してきた。1914年から1970年代あるいは80年代までの60〜70年間に、世界の経済大国と、共産主義体制に屈した国々の双方が、歴史上最大級の大幅な平等化を経験した。その後、世界の多くの地域が次の長丁場となりそうな期間に突入し、継続的な資本蓄積と所得の集中に回帰した。歴史的に見れば、平和的な政策改革では、今後大きくなり続ける難題にうまく対処できそうにない。だからといって、別の選択肢はあるだろうか?経済的平等性の向上を称える者すべてが肝に銘じるべきなのは、ごく稀な例外を除いて、それが悲観のなかでしか実現してこなかったことだ。何かを願う時には、よくよく注意する必要がある。

(p.562-563)

 

 幸いなことに、「不平等」は「不幸」とはイコールではないし、「不正義」ですらないかもしれない。「経済的不平等は重大な問題ではない」というピンカー的な発想は気休め以上の意味を持つはずだし、まじめに考えるに値するはずだ*3

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 ところで、『暴力と不平等の人類史』にせよ『自由の命運』にせよ、ピンカーの『暴力の人類史』のような本に比べるとリーダビリティは低く、登場する具体的事例の描き方や引用も凡庸というかあまり印象的ではない(というか、良くも悪くも、ピンカーのように人の感情を刺激して印象に残るようなかたちで持論を展開できるのは、ジャーナリストはともかくアカデミシャンとしては稀であるだろう)。

 とはいえ、『暴力と不平等の人類史』や『自由の命運』を読んでいると、経済というものが人々の生命や幸福に直接的に結びついていること、そして地位や権力や尊厳に対する意志や執着こそが社会を動かす大きな力となっていることを、まざまざと思い知らされる*4。結局のところ、人間にとって経済と権力は「生」と直接的に結び付いてるのであり、生ぬるい理想論や口先だけの要求が通じるような領域ではないのだ。お金のことや将来のことをあんまり考えずにのんびり気楽に本を読んでいるとついつい忘れてしまうけれど、金や権力とそれに関わる人々が持つエグさやタフさというのはものすごいものであるだろうし、SNSハッシュタグをつけて意見を発信したり象牙の塔のなかで思想のお勉強をしたりしていても世の中の金や力の「本丸」を傷つけることは何一つできないし何も変えることはできない、ということは折に触れて思い出すべきであるだろう。

 

*1:総力戦が金持ちに対する課税とそれを通じた格差縮小を促したことについてはケネス・シーヴとデビッド・スタサヴェージの『金持ち課税』でも論じられており、『暴力と不平等の人類史』のなかでも彼らの研究がたびたび紹介されている。

davitrice.hatenadiary.jp

*2:

davitrice.hatenadiary.jp

*3:興味深いことに、「世界は平和に向かっており戦争はどんどんなくなっている」というピンカーの「合理的楽観主義」の主張は、『暴力と不平等の人類史』でも否定されているわけではない。

*4:たとえば、革命について論じられている章では、14世紀フランスのジャックリーの乱における、貴族たちに反乱した農民たちによる虐殺、そして貴族たちによる徹底した報復について言及されている。血で血を争う反乱すらも最終的にはエリートの勝利となり、経済的平等を達成するうえではほとんど意味はなかったが、その後に黒死病が訪れて事態が変わったわけだ。

89年生まれのわたしにとっての「はてな」

 このブログではめずらしく個人的な思い出話。

 

 

 

↑ Twitterでこういう投稿をみかけて 

 

 

↑ こうコメントしたついでに 

 

 

 

 

↑ こう書いた。

 

 もうすこし詳しく説明すると、わたしがはてなブックマークを使い始めたのは高校3年生だった2006年頃で、2013年くらいまではたまにブコメを書いたりもしていた(当時とはIDは変わっている)。このブログをはじめたのは、たしか2014年。

 上記のツイートの通り、10代~20代前半まではいまよりも「サヨク」であったわたしにとっては、はてなは心のオアシスではあった。リアルな人間関係については、中高生のときにも大学に入ってからも、同級生にサヨクがほとんどいなくて、ノンポリからマイルドなネトウヨ、あるいはガチのネトウヨしかいなかったからだ。実際のところ、大学院に入るまで、わたしは同世代の生身の人間で「サヨク」や「リベラル」に分類される人と会ったことがなかった。たぶん専攻する学科や所属するサークルを選んでいれば出会えていたのだろうけど、深く考えずに英米専攻に決めて何も考えずに文芸サークルに入ったのでそうはならなかった。社会学部や法学部にはリベラルな学生が確実にいただろうし、日本文学専攻にだっていなくはなかっただろうが、英米文学専攻はTOEICの点数を上げることを目的に入学する学生が9割だったので価値観とか思想とかそういうのはそもそも存在しなかった。文芸サークルならサヨクがいてもよさそうなものだが、文芸部とは要するにオタクの集まりであり、そして当時はオタクとネトウヨの距離はたしかにいまよりもさらに近かったので、サヨクはいなかったのである。

 

 だが、はてなのなかにはサヨクがごまんといった。なんらかの事件やニュースがあるたびに、周囲の同世代の若者たちはわたしとは正反対の意見や感想を言ってくるので孤独感や不安感を抱いたが、はてなを覗けば、自分と同じような意見を持つ人がコメントを書いてくれているわけだ*1

 いわゆる「はてサ」の人たちのなかには、大学で研究している院生や教授である人もいれば、そうでない市井の人もいたと思う。しかしアカデミックな人たちの書く文章のほうが興味深いものであり、hokusyuやfont-da、apeman、あとkamiyakenkyujoなんかのブログは読み込んでいたものだ(いずれも敬称略)。

 また、「はてサ」ではないアカデミシャンも昔からはてなに投稿していた。山形浩生稲葉振一郎などの経済学者がいるし、森岡正博や江口聡などの倫理学者も一時期ははてなをやっていた。北村紗枝や大野左紀子などのフェミニストもいるし。はてなブログではないものの、内田樹のブログも昔はよくブクマが集まってホットエントリに上がっていたと思う。

 というわけで、わたしにとっての「はてな村」とは、まず第一に「はてサの村」であり、第二に「アカデミックな場所」であった。しかし世間的にはそうではないようであり、近頃になっていろんな人が投稿している思い出話を読んでみても、そこに出てくる登場人物の大半は、当時から存在を認知していたがほとんど興味を抱けなかった人とか、その人の書く文章のなにが面白いのか当時から全然わからなかった人とか、2021年になって初めて名前を知った人とか、そんなのばっかりだ。

 yomyomさんのまとめた「はてな出身の文筆家」の一覧を見ても、アカデミック系の文筆家って思ったよりも少ない*2。それよりもビジネスとかライフハックとかに役立つ情報をまとめられる人とか、雑学的な知識を要約してキャッチーに紹介できる人とか、奇特な経験をおもしろおかしく文章化できる人とか、カルチャーだとかトレンドだとかを伝えられる人とか、ジェンダーについてなにかしら言える人とか、日常のことをいい感じに素敵に表現できる人とか、ゲームとかアニメとかマンガとかについて詳しく話せる人とか、ありがちで当たり前な意見や感想に学問っぽい用語をまき散らしてなんか含蓄があるかのように語れる人とか、そういう人が多いようである。こういう人たちがnoteに流れるのは、そりゃ仕方がないことだろう。

 また、わたしは当時からよく把握できていなかったが、世間的なイメージでのはてな村では「ゴシップ」とか「人間関係」とかも重要であったようだ。思い返してみると、はてなブロガー同士の論争をまとめたり仕切ったり、横やりを入れたり介入したりすることで存在感を発揮しようとするタイプのブロガーは、たしかにいた。あるいは、他のブロガーや有名人を罵倒することで人気を得てポジションを確立させようとするブロガーもいた。……でもゴシップってそもそも不毛なものだし、他人が罵倒しあうのを見て喜ぶのも下品なものだ。ほかのネット空間とはまたちがうはてなに独特の閉鎖性とか属人感とか「学級会」感については昔から「やだなあ」と思っていた。たぶん世間的にはそれこそがはてな村はてな村たらしめている最大の要素なのだろうけれど、わたしはそんなの最初から求めていないのだ。

 

 ……とはいえ、このブログをフォローしているならお察しできていると思うが、いまではわたしも「はてサ」的な思想には賛同していない。というか、八割方は否定しているし、はてサの人たちの大半にももはや反面教師としての価値しか見出せなくなっている。これは、学部や大学院を通じて自分でいろんな本を読みつづけて、ようやく自分の頭で物事を考えられるようになった結果だ。考えてみると当たり前の話だが、アカデミックなものを求めるなら、ブログじゃなくて、海外のものとか古典とかを含めて最初から本を読んどけばいいのである。

 では自分はどういう理由でブログを書いているかというと、「自分が考えたことや、読んだ本の内容の整理したい」いうことと「話題になっていることについて自分でもなにか言ってみたい」ということと「人々を啓蒙したい」ということとが混ざっている。社会人になって時間や可能性が限られるようになってからは、自分の考えや意見を記録して発信することの価値は以前よりもさらに強く感じられるようになった。そして、他人を啓蒙することも、冗談じゃなく重要だと思っているし、ある種の使命感は抱いている。様々な本を読んでいると、世の中で普及したり流通したりしている知識は思った以上に限られていて、かなり多くの知見や議論がほとんど知られることもなく埋もれていることに気付かされるためである。

 というわけでこのブログの内容は読んだ本や海外の議論についての紹介とそれについての自分のコメントがメインとなっており、たまにネット上の出来事やニュースについて自分なりの意見を書くのがサブ、という感じになっている(以前は翻訳記事もよく投稿していたが、最近はやっていない)。そして、このような目的で運営するぶんには、はてなブログはなかなか優れている。カテゴリ機能とかリンク機能、関連記事の機能とかはnoteに比べて優れている印象があり、記事と記事とを連携させてブログにひとつの「知識のかたまり」みたいなイメージを持たせやすいのだ。そして、記事が溜まれば溜まるほど、自分のブログが強固な「城」として育っていくように感じられて、そこもいい。

 逆に、noteではどれだけ文章を書いても自分のページが「城」とはならず、常に他のライターたちと並列させられて十把一絡げに扱われる感じがある。昨年の前半にはこのブログの記事とは毛色の違うエッセイや愚痴を投稿するためにnoteをやっていたが、noteの設計や思想は以前からずっと気に食わない。文章の商品感や消費感が強すぎる。初心者向けに「読まれる文章」や「売れる文章」をご丁寧に指導してくるところも鬱陶しい。そしてライターたちの側からnoteに適応して「エモい」文章を量産しているのも情けない。たぶんマネタイズをするうえではnoteが最善なのだとは思うけれど、あんなのやめたほうが格好いいと思う。もちろんはてなにだってアフィリエイトで稼ぐのに特化したロクでもないブログはいっぱいあるのだが、浅ましさやみっともなさがわかりやすいぶん、お洒落に偽装されているnoteよりずっとマシだ。

 

 はてなが衰退している理由のひとつの理由としては、ブックマークのシステムが以前よりもさらに分極化しやすい構造になっており質が劣化した、ということも挙げられている。これはたしかにそうだろう。

 ブログを書いている立場からすれば、自分自身もブログをやっている人や大学で教えていたり本を書いていたりする人からの批判については受け止めて考えようという気が湧くが、ブコメだけをやっている人から批判されても基本的には鬱陶しいという感情しか湧かないものだ。前者については本人が自分の考えや思想をどこかで「論」としてまとめているから潜在的に議論の相手とみなせるが、後者については脊髄反射的で場当たり的な意見しか存在しないので議論の相手にはならない。そして、現在のはてなでは、おそらく昔よりも、ブログを書かずにブコメだけやるという人が増えている。ブロガーにとって以前よりもさらにストレスフルな状況になっていることは疑いもないだろう。……とはいえ、それも慣れてしまえばわりとどうということもなかったりするのだけれど。

 

*1:特に強く印象に残っているのが、同級生たちと『サマーウォーズ』を観にいって周りが絶賛しているなか自分ひとりだけ楽しめなくてイヤな気持ちになっていたところ、はてなでは匿名ダイアリーでも個人ブログでもサマーウォーズに対する違和感や嫌悪感を表明している記事がいくつもあったところだ。そういうのがあると「自分がひとり間違っているわけじゃないんだな」と思えるものである。

*2:

yamdas.hatenablog.com

「傷つき」と表現の自由(読書メモ:『表現の自由を脅すもの』)

 

gendai.ismedia.jp

 

 昨日に公開された現代ビジネスの記事ではジョン・スチュアート・ミルの『自由論』を紹介したが、ミルと同じようなタイプの主張を現代において行なっている本である、ジョナサン・ローチの『表現の自由を脅すもの』にも目を通してみた。現代といっても1993年であり、30年前の本ではあるんだけれど……。

 

 

 

 しかし、30年前であるのに、この本で問題視されている状況は現代とまったく同じようなものだ。つまり、アメリカのジャーナリズムやアカデミズムでは表現の自由が脅かされていること、その脅かしは宗教的原理主義者や右翼だけではなく左派からも訪れていること、そして彼らが表現の自由を制限したり抑圧したりしようとする根拠はマイノリティに対する配慮や同情であるということだ。

 90年代の前半ということはSNSやインターネット以前の時代であるのだが、そういえば「ポリティカル・コレクトネス」が問題視されるようになったのも90年代からである。結局のところ、ネットは新しい問題を生み出したというよりかは、昔から存在する問題を可視化したりブーストしたりしているだけ、と言えるのかもしれない。

 

 ローチは、現代(当時)のアメリカで「あなたは他人を言葉でもって傷つけてはならない」という原則が浸透しつつあることを危惧する。

 ただしい知識にたどり着くための研究や討論においては、どこかで誰かが傷つく事態は必ず発生する。その「傷つき」の対象とは人種的マイノリティや性的マイノリティには限らない。たとえば、一見すると人の生活や価値やアイデンティティと関係のなさそうな地球科学や生物学の研究ですら、地球平面説や創造論を信じるキリスト教原理主義者を傷つけてしまう可能性はある。また、『悪魔の詩』事件が示すように、イスラム原理主義者たちは物理的な暴力をもって実際に表現の自由を脅かしてきた。

 原理主義者であってもマイノリティであっても、知識によって傷つけられることはあり得る。とはいえ、原理主義者の傷つきや彼らによる復讐を恐れて知識から遠ざかってしまうことは、近代社会や民主主義政治の根底にある「自由思考」や「自由科学」を捨ててしまう「敗北」である*1。そんなことがあってはならない。そして、原理主義者のために表現の自由が脅かされることがあってはならないのなら、同じように、マイノリティに対する配慮によって表現の自由が脅かされること(この本のなかでは「人道主義者からの脅威」と表現される)も、あってはならないのだ。……ローチの議論をざっくりとまとめると、このようになるだろう。

 

 さらにざっくりと、ローチの主張を一文で表してみるなら、どうなるか?それは「だれかを傷つけるものであっても、そんなこととは関係なく、表現の自由は守られるべきだ」というものになる。

 この主張は、2020年代のいまから見ればかなり粗野に思えてしまうものだろう。実際のところ、この本のなかで彼はかなりマッチョな議論をしている。

 以下、印象的な箇所を引用してみよう(太字の部分はわたしによる強調)。

 

私は、人道主義者や平等主義者が、道徳的に高い立場にあるという主張は偽りであるということ、そして、人を傷つけることを許容、ときには推奨しさえもするという誓約をもつ知的自由主義が、唯一の本当に人間らしい体制であるということを示したいと思う。私は、「言葉で傷つけられた」人々には、補償という形で何かを要求するという道徳的権利はいっさいないということを示したいと思う。自分が傷つけられたというので何かを要求する人に対する正しい答えとは何か。それは、「お気の毒、だけどあなたは生きていくでしょう」というに尽きる。「人種差別主義者」「同性愛恐怖者」「女性差別主義者」「神を冒瀆する者」「共産主義者」、あるいは、どんな化け物であろうと、これらのものを処罰せよと主張する人たちはどうかといえば、彼らは知的探求の敵であり、彼らの騒がしい要求は全く無視されて然るべきであり、いっさい付き合ってはならない。

(p.44)

 

我々は皆、自分の方からとにかくもっと攻勢にでてけしかけろなどと言っているのでは勿論ない。どうか、ユダヤ教の礼拝堂にペンキで鉤十字を描いて、私は祝福を与えているのだなんて言わないようにしてもらいたい。面白がって人の気に障るようなことをするのには反対である。しかしまた私にとってはっきりしているのは、知識の追求に当たっては、多くの人たちが、そして多分我々のほとんども何らかの機会に、傷つけられるということ、しかもこれは、どうにかしようと願ったり、努力したりしてみても、どうにもならない現実であるということである。人を傷つけるのは良くない。しかし、どうしてもそうならざるをえないのである。傷つけ合いなしの社会は、知識なしの社会である。

(p.199)

 

(……前略……)彼がもしきつい態度を取りたいというのなら、自分の戸口に「ホモは病気だ」と書いたポスターを貼りつけたいというのなら、それを差し止めるべきではない。実のところ、私がはっきり言いたいのは、もし彼がゲイ(ホモ)の人たちは、直せるような病気に罹っていると信じるのなら、そう発言し、自分の主張を証明するようにすればよいということである。

どうしてそう言えるのかって。

先ず第一に、彼を罰したところで効果はないからである。抑圧するだけでは、いかなる仮説も完全に埋葬されることはない。悪しき考えを葬る唯一の道は、それを天下に曝し、より良いものをもってこれに代えることである。

第二に、すべての少数者同様、ホモの人たちも、知識や議論を規制する措置によっては、得るよりも失うところが遥かに多いからである。確かに今日、取り締まる人たちはゲイの人たちの側に立っているといえよう。しかし車輪は回転し、多数者の方がのし上がってきて、異端裁判的機構が彼らに向けられるようになると、ホモの人たちは、自分たちも手伝ってそれを作り上げた日を悔いるであろう。

(……後略……)

(p.255)

 

 上記のようなローチの主張は、おそらく、現在では通じない。いまとなっては、言葉は単に人の気持ちを傷つけるだけでなく、気持ちを傷つけることで精神的・肉体的な損傷を引き起こしかねないこと、そして場合によっては人を死に至らしめかねないことが、多くの人によって理解されているからだ。人種的・性的少数者に対する差別的な言動や表現が、彼らにトラウマを与えたり彼女らを自殺に追い込んだりしてきたらしいことは周知されるようになっており、良心的な人々は、だからこそ自分や他人が差別的な言動や表現することを危惧して「規制もやむなし」と考えるようになっているのだ。

 ……とはいえ、過去に現代ビジネスで紹介した『アメリカン・マインドの甘やかし』のなかでも危惧されていたように、現代では不愉快な表現や非・左派的な思想や言論を抑圧するために、「危害」の概念が後付けで拡大されている感がある。そして、攻撃的であったり挑戦的であったりする言論に触れて、正面から受け止めて対峙したりする機会が失われることで、若者は言論に対する免疫がなくなってますます傷つきやすくなる、という悪循環も発生しているようだ*2*3

 なにより、原則論として、「人を傷つける知識や表現は制限しましょう」という発想は、(1)どんな表現についてもどこかの属性の人が「わたしはこの表現で傷ついたから、この表現は封じられるべきだ」と言い出す泥沼の状況か、(2)「この属性の人の"傷つき"は配慮されるべきだが、この属性の人の"傷つき"は配慮されるべきではない」という権威主義的で独善的な選り分け、のどちらかを引き起こすことになるだろう。

 

 とくに今日のSNSやアカデミアの状況をみると、以下の引用部分は、かなり鋭い予言であったように思われる。

 

それが無神経なように聞こえるとしても、 気持ちを傷つけられない権利というものが確立されると、より礼儀正しい文化に至るどころか、誰が誰にとって不愉快だとか、誰がより多く傷つけられていると主張することができるかといったことをめぐって声高な泥仕合が一杯起きるだろう

(p.205)

 

言葉の上での攻撃と物理的暴力を同等だと考えたい人には、もう一度自分の立っている立場の論理を思い返してほしいと言いたい。もし人を傷つける意見が暴力なら、つらくてきつい批判は暴力だということになる。言い換えると、人道主義的前提に立てば、科学それ自体が一種の暴力になる。では暴力に対処するにはどうするか。それを止めさせ、実行者を罰するのに、公的・私的な警察権力を樹立する。そして人を傷つける思想や言論を取り除く権限を持った当局者を立てる。別言すれば、異端尋問所を、である。

(p.207)

 

 ……とはいえ、やっぱり、「傷つき」を一切意に介さずに表現の自由や知識の追求が原理的に擁護される社会というものが成立するとも思えない。それは大半の人にとってキツ過ぎるし、けっきょく人間には人道主義的な傾向が多かれ少なかれ存在するのだから「配慮」や「同情」というものは必ず発生するはずだ。そして、ヘイトスピーチや無知蒙昧な表現を放置することは、原理的には必要であるとしても、現実的にはデメリットやコストの方が多くて割りに合わないことは、火を見るより明らかだ。だからほどほどの「落としどころ」を見つけなければならないのだが、その「落としどころ」を探すための試みが、泥仕合や異端尋問に繋がっているとも言えてしまう。まあ難しい問題である。

 

*1:ローチはジョン・ロックカール・ポパーなどの知識人たちの考え方を紹介しながら「自由思考」や「自由科学」のあり方や成り立ち、価値などを説いているが、まあミル的な「思想の自由市場」とだいたい似たような感じと言っちゃっていいと思う。

*2:

gendai.ismedia.jp

安全主義は、「危険」や「不安」に関する学術用語の定義を拡大させるという影響ももたらしている。ニック・ハスラムという心理学者は、心理学の世界では「コンセプト・クリープ(概念の漸動)」という現象が起こっていることを指摘した。心理学研究においては、「PTSD」「精神障害」「虐待」「いじめ」などの単語が指し示す意味の範囲は近年になって急に拡大しており、概念の名前は同じであってもその中身は大幅に変わっているのだ。

特徴的なのは、いずれの概念についても、その定義や基準が客観よりも主観を重視したものとなっていることだ。たとえば、ある人が「自分は虐待を受けた」と申告したり「トラウマを負った」と主張したりした場合、虐待やトラウマの存在についての客観的な検証がなくとも、本人の言い分が事実としてそのまま認められるようになっているのである。

こうして危険や危害の基準が客観的なものから主観的なものになることによって、差別や暴力の問題について論争的な議論を行う学者の講演についても、学生が「この学者の講演を聴くことによって傷ついた」「自分の大学がこのような主張を行う論客を招待したという事実によって不安になった」などと主張することで、授業や講演をキャンセルすることが可能になった。

*3:

gendai.ismedia.jp

 

たとえば、デラルド・ウィン・スー教授が発明した「マイクロアグレッション」という概念では、日常的な言動のなかで行われる些細な見下しや侮辱も攻撃(aggression)の一種であるとされる 。しかし、マイクロアグレッションという概念は、発話者が攻撃を意図していなくても聞き手が傷つけばそれが攻撃である、としてしまう。つまり、「攻撃」の定義を発言者の意図や客観的な基準にではなく、聞き手の主観に委ねてしまう概念であるのだ。

マイクロアグレッションという概念にかかると、「自分が傷ついた」という感情が、相手を非難することを正当化する根拠になってしまう。最初は不愉快であったり攻撃的に聞こえた発言であっても、相手の発言についての真意をたずねたり「どのようなことを主張しようとしているのか」と冷静に解釈したりすることで誤解が解けたり建設的な対話がスタートする可能性はあるものだが、その可能性が閉ざされてしまうのである。

さらに、マイクロアグレッションのような概念は、学生たち自身の精神的健康にも良からぬ影響をもたらす。他人に対する非難を優先して自分の感情の正当性を吟味することを怠らせるだけでなく、「自分が被害者である」とか「自分は傷つけられた」といった意識が他人を批判する根拠になると思わせることは、そのような意識を積極的に持つように本人を動機付けてしまうのである。その結果、学生たちは、「自分は被害者である」という意識から逃れなくなるのだ。

 

「自由」にケチをつけるな(読書メモ:『自由の命運 : 国家、社会、そして狭い回廊』)

 

 

 

 もう図書館に返却してしまって読み直せないので、浅い感想をメモ的に残しておく。

 

『自由の命運』は経済学の本(制度論の本)であり、様々な時代における世界各国の社会の有り様や国家システムを紹介しながらどういう国では経済や行政がうまくいってどういう国ではうまくいかなかったか、ということが論じられるのだが、その議論の内容は記述的であるはずなのに規範的な趣が強い。

 著者たちが強調する価値とは「自由」だ。これは「解題」で稲葉さんも書いていたのだと思うのだが、前著の『国家はなぜ衰退するのか』では様々な制度について分析した結論として「経済が反映したり社会がうまくいくためには自由が必要だ」という議論が提出されていたのに対して、『自由の命運』ではそれを前提とするところから議論が始まっているのである。

 

『自由の命運』で展開される議論とは「国家制度が全くない社会と国家の権力が強すぎる社会のどちらでも、どちらも人々は自由や幸福に生きることはできず、イノベーションインセンティブが阻害されてたりそもそも経済活動を行うという意欲を失ったりしているから経済が発展することもない」ということである。国家制度が全くない社会は「不在のリヴァイアサン」、国家の権力が強すぎる社会は「専横のリヴァイアサン」、そして国家制度がほどほどであり上手く機能している社会は「足枷のリヴァイアサン」と呼称される(市民社会の側がリヴァイアサンに対して足枷をはめている、という意味)。

 国家のシステム(法律とか行政とか)が全く存在していなかったり機能していなかったりする社会では、人々は安心して商売したり貯蓄したりすることができない。無法状態であるから、自分の財産がいつ奪われたり契約が裏切られたりするかがわかったものではないからだ。

 ただし、国家がない場合にも、人間の社会には道徳というものがある。どんな集団にも平等主義的な「規範の檻」というものが存在しており、ある人が他の人に比べて多大な力を獲得しようとしたり富を独り占めしようとしたりしたときには、国家システムではなく慣習や伝統に基づいた制裁が行われたり、「他人から抜きん出ようとする者にはバチが当たる」という迷信を信じ込ませることでそういう行動があらかじめ封殺しようとされるのだ。……しかし、「規範の檻」の力が強い社会ではイノベーションは全く起こらず、インセンティブも歪められてしまう。結果として経済成長というものがほとんど起きず、そのような社会は現在であっても貧困状態で惨めに暮らしている。「規範の檻」は一見すると平等主義的で善いもののように聞こえるかもしれないが、平等主義的な規範がガチで徹底されている社会なんて実際には惨憺たるものだということだ。

 しかし、歴史上、数多くの社会では、財産を貯めて権力を身に付けることで「規範の檻」を破るエリートたちがあらわれて、国家が築かれてきた。国家があることで、安全を保証して、人の足を引っ張る規範も封じ込めて、安全で自由な経済活動を保証することができる。……しかし、権力を持つエリートたちは、往々にして利益誘導をはかりたがるし、国家にとって不安材料となるような市民たちの自由を徹底的に抑圧する。この状態の国家が「専横のリヴァイアサン」だ。専横のリヴァイアサンであっても、無法状態の社会や規範の檻に封じ込められた社会に比べると、たしかな経済成長は存在する(専横的経済成長)。しかし、その成長は長続きしない。国家が恣意的に権力を振るってしまうと、イノベーションとかインセンティブとかはやっぱり機能しないためだ。

 したがって、リヴァイアサンには足枷を嵌められなければならない。足枷を嵌めるのは市民たちだ。国家の権力に対抗できるだけに充分に市民社会が機能している国では「足枷のリヴァイアサン」が成立して、国家はその役割を適切に果たして、めでたくちゃんとした経済成長が達成される。……しかし、市民社会の力が強くなりすぎると国家の機能が弱まって「不在のリヴァイアサン」に傾くし、かといって国家の力が強くなると「専横のリヴァイアサン」に逆戻りだ。どちらの力も固定的なものでなく、弱まったり強まったりしながら綱引きをしている。この綱引きのあいだにあらわれる「狭い回廊」のなかに位置している国のみが、ちゃんと経済成長できるのみならず、市民たちは規範の檻からも国家からも抑圧されずに「自由」を味わうことができるのだ。

 

 現代では賢しらな思想家さんとかライターさんほど「自由な個人という近代的概念は破壊された」とか「自由に伴う代償を直視しなければならない」とかほざいて、「自由」に疑問を呈したがる。サンデル先生の『実力も運のうち』も、ある意味では「規範の檻」を現代アメリカ社会に復活させようとする試みだとみなすことができるだろう*1。しかし、『自由の命運』では、無法状態になったているアフリカの諸々の国々や規範の檻に雁字搦めにされているインド、国家の恣意によって市民が弾圧され生命も奪われてきたインドやナチスドイツの例を紹介しながら、「自由が存在しない国ってマジでやばいことになりますし、誰も住みたくないですよそんな国」ということが再確認される。これは考えてみれば当たり前のことであるはずなのに、現代のわれわれが済むような国では「自由」は水や空気のように存在するものとして受け止められているから、つい「自由ってそんなに良くないんじゃないの?」という意見のほうが注目されてしまうのだ。

 というわけで、「自由」の価値を経済学や制度論の観点から再確認させてくれるということで、この本にはなかなかの意義があると思う。だらだらと各国や各時代のエピソードを紹介する箇所が続いて読みものとしてはあまり面白くないのだが、中国やインドの問題について書かれていたり女性参政権運動を通じて市民が自由を獲得していく様子について書かれていたりする箇所は著者らの熱意や使命感があらわれていて、そこの部分は読んでいても面白い。

 

 ……とはいえ、先述したように、著者らの議論は「自由は重要だ」という規範意識に引っ張られている気がする。それがもっとも議論に問題を引き起こしているのは、中国について論じている箇所であるだろう。

『国家はなぜ衰退するのか』では「中国の経済成長は近いうちに止まるよ」と論じていたのに、実際には中国の経済成長は継続している*2。『自由の命運』でも「結局のところ中国は自由が保障されていない専横のリヴァイアサンであり、いつ経済活動が共産党政権の恣意で制限されるかわからないからインセンティブは機能せず、イノベーションはそのうち頭打ちになって、経済活動も止まるはずだ」という議論が繰り返される。しかし、ここの部分は説得力がなく(だって中国の人たちの多くは自由なしでも楽しんで生きているようだし、それで経済活動もうまくいっているらしいという事実があるんだし)、著者らの願望を表明しているようにしか思えない。中国に関する章の最後ではウイグルの強制労働の話を持ち出して「ほらやっぱり中国なんてロクなもんじゃないでしょう」ということが確認されて、それには同意するんだけれど、中国政府が非道なことをしているかどうかと経済成長が続くかどうかはまったく別の話である(別の話じゃないと言うのならそこを論証しなければいけない)。

 

 この本は全体的にはフランシス・フクヤマの『政治の起源』『政治の衰退』にもっとも近い*3。原始的な「規範の檻」が平等主義的であることはクリストファー・ボームの『モラルの起源』に詳しい*4。また、中国のような自由のない社会ではほんとうの意味でのイノベーションは起こらず研究だって頭打ちになるはずだという(願望込みの)議論にはティモシー・フェリスの著書『自由の科学(民主主義、理性、法の支配)』を思い出した*5。そして、ジョン・ロールズの『正義論』をはじめとする、「自由」に関する政治哲学の規範的な議論とあわせて読んでみるべきでもあるだろう。

さいきん読んだ本シリーズ:『リベラルとは何か』とか

・『リベラルとは何か』

 

 

この本はなかなか面白かった。もう図書館に返却してしまったけれど、ブログ記事にしてもよかったくらい。アメリカとヨーロッパとのリベラルの違い(や、その違いをあまり強調するのも間違っているということ)や「ネオリベラリズム」についてもきちんと解説されている。

リベラリズム」というとつい価値観の多元性を前提にした思想であるとイメージしてしまいがちだが、最初のほうのリベラルとは「人々が善い人生を送るためには事由が必要であり、だから社会や国家はこれこれこうして自由を保証しなければならない」という考え方をしていたようであり、道徳的に優れた生のためには事由が必要だという理論建てをしていたらしく、つまり一定の価値観の範囲内での自由や「積極的自由」が必要であるという主張をしていたようだ。わたしとしても最近はそういう考え方のほうに共感する。そのうち「徳倫理学リベラリズム」でも提唱してみようかな。

 

・『感情の哲学入門講義』

 

 

 

 タイトル通り、大学での哲学入門講義に使用することを前提として書かれた、教科書みたいな感じの本。「哲学」についても「感情」についても「感情の哲学」についても、いい感じに入門になっている。内容はかなり丁寧かつ客観的であるのだが、そのせいで読んでいて物足りなくもあった。

 

・『言葉はいかに人を欺くか』

 

 

 扱われている題材は面白いのに、分析哲学にしてもいくらなんでも議論が細か過ぎてねちっこ過ぎるので読んでてぜんぜん面白くない。また、終盤の「犬笛」に関する議論は結論ありきというか概念工学的というか、左傾化したイデオロギーのための理屈をひねり出している感じがあった。

 

・『制と懲罰の歴史』

 

 

 

 面白そうな題材ではあるのに、各時代におけるエピソードを延々と羅列しているだけであり理論とか分析とかはほとんどなくて、知的好奇心がぜんぜんそそられない。まあエピソード羅列的な歴史の本っていっぱいあるけれど、よくみんな読んでいられるものだなと思う。うさん臭くても適当でもいいから、理論をぶちあげてくれたほうが断然おもしろいはずだ。また、著者の問題意識はたぶんフーコー的なあれなんだろうけど、そのせいで内容が凡庸になってしまった気もする。

 

・『飼いならす』

 

 

 

 それなりに興味深いのだが、10種類の動植物について章ごとに取り上げている構成のせいか、なんだか内容が散漫になっている。これなら、各動植物についてそれぞれ取り上げた新書を一冊ずつ読んだ方がよい読書体験ができると思った。「家畜化(栽培)」というトピックそのものについてもっとストレートに取り上げた方が面白くなっていただろう。遺伝子組み換え食品に関する議論も内容がかなり初歩の初歩という感じでいらねーと思った。

 

・『疫病と人類知』

 

 

 疫病の歴史、コロナウィルスや社会情勢に関する諸々の情報、『ブループリント』でも展開されていた著者独自の楽観論にもとづいた未来予測のごた混ぜという感じ。

 

・『マーサ・ヌスバウム

 

 

 

 ヌスバウムの来歴や思想について程よくまとめられていて、なかなか参考になる。とはいえヌスバウムの本って難しくないのでわざわざ入門書を読む必要はないとも思うのだが。性的モノ化論などに関する紹介があまりなされていないのは物足りなかった。

 

・『生と死を分ける数学』

 

 

 

 BLMの批判者たちがよくいう「白人警官に殺された黒人より、黒人に殺された黒人の数のほうが多い」といったレトリックを論破している箇所は必読。しかし、社会問題に絡められても、数学に関する議論ってどうにも眠くなって苦手である。

 

・『オン・ビーイング・ミー』

 

 

 内容が薄い。つまらない。