道徳的動物日記

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文芸時評って意味あるの?

 

 わざわざブログ記事にするほどの内容でもないんだけれど、しばらくTwitterに書き込むことはお休みすることにしたので、こっちに書く。

 

togetter.com

 

 この件が話題なので、朝日新聞にログインして、問題の文芸時評を読んでみた。

 

www.asahi.com

 

 読んでみて思ったのだが、こんな文章から読者が何かしらの知見なり洞察なりが得られるとはとうてい思えない。


 たまたま今月に発売されることになった小川公代の『ケアの倫理とエンパワメント』にかこつけて、たまたま今月に雑誌とかに掲載された作品群のなかから「ケア」について関りがあったりなかったりする作品を連想ゲーム的にいくつか取り上げて紹介しているだけ。それも数本の作品を取り上げているうえに枕や結びの文章も含まれているので、「ケアの倫理」やその背景にあるフェミニズム的発想にかこつけながら1800字強という字数のなかで個々の作品についてあらすじも紹介しつつ批評を行う、というのはどう考えても無理がある。

 今回に限ったことではなく、同じ評者の過去の文芸時評も、「有害な男らしさ」論とかサンデルのメリトクラシー論とかのフェミニズムに関連があったりリベラルっぽかったりする流行りのキーワードにかこつけつつ複数の作品について浅く紹介する、というのが基本になっているようだ。

 

book.asahi.com

 

 こんなもので、作品についての新しい見方を提示したり価値づけをおこなったりする"批評"が成立しているとはとてもいえない。

 

theeigadiary.hatenablog.com

 

 

 とはいえ、この問題は評者が批評家としてとりわけ浅薄であったり無能であったりするということではなく、文芸時評というフォーマットのほうに起因しているように思える。


 ほかの新聞社の文芸時評もついでに確認したところ、いずれも、1000字~2000字の字数のなかで、流行りのキーワードなり昨今の社会情勢と絡ませながら、(多くの場合に)複数の作品について評する、という形式になっているようだ。……こんなの、どう考えても無理がある。作品について"批評"するどころか、"紹介"することだって満足にできやしない。こんな条件のなかで無理に"批評"っぽいことをしようとしたら、作品に対する客観的でフェアな姿勢が失われて、冒頭のTogetterのような問題が起こることもむべなるかなという感じだ。かといって"紹介"に徹するとしても、この字数だと読者に「面白そうだ、読んでみよう」と思わせることすら難しいだろう。

 

 Twitterでは作家側に対する同情の声が多く、評者に対しては批判的な声が多い。しかし、文芸界に関わっているらしい「業界人」の人たちのなかには評者を擁護している声のほうが目立つ。
 ……だが、わたしには、そもそも「文芸時評」というフォーマット自体が、擁護に値しないように思える。「業界人」たちの思惑をなんとなく察すると、「そもそも文学が目立たなくなったり売れなくなったりする昨今では、たとえ字数が足りないとしても全国紙に文芸時評の欄が存在するだけで御の字だ」ということかもしれない。しかし、こんなクオリティの文章が全国紙に掲載されることで、読者たちに「批評ってこんな程度のものなんだな」とか「文学とかフィクションとかについて語るときってこういう風にしとけばいいんだな」と思わせるようになるという点では、無意味であるどころか有害ですらあるはずだ。

 

 

「進化政治学」はそんなにおかしいのか?

www.asahi.com

 

note.com

 

 広島大学伊藤隆太氏の発言が差別的であるとして問題視されており、それにあわせて、彼の研究分野である「進化政治学」も批判の対象となっている。

 わたしの目から見ても伊藤氏の発言のうちのいくつかは差別的であり、解雇まで求めることが妥当であるかどうかはともかくとして、批判は免れないものだと思う*1

 しかし、Twitterなどでは、伊藤氏の差別発言が問題であるからと言って、彼の研究している学問分野までもが安直にレッテルを貼られて否定される、という風潮が散見される。それも、ほかの分野の学者たちがレッテル貼りや否定の先鋒に立っているようで、かなり嘆かわしい事態だ。

 

 たとえば、シノドスに掲載されたオピニオン記事と、それに対する反応のひとつが、下記のようなものである。

 

synodos.jp

 

 

 

  わたしの目から見ても、Twitter上での伊藤氏の発言はたしかに「俗流進化論」っぽいものではある*2。しかし、上述のオピニオン記事を読む限り、「進化政治学」の考え方自体はさほどおかしなものではないように思える。

 

進化政治学には三つの前提がある。第一に、人間の遺伝子は突然変異を通じた進化の所産であり、政策決定者の意思決定に影響を与えている。第二に、生存と繁殖が人間の究極的目的であり、これらの目的にかかわる問題を解決するために、自然淘汰(natural selection)と性淘汰(sexual selection)を通じて脳が進化した。第三に、現代の人間の遺伝子は最後の氷河期を経験した遺伝子から事実上変わらないため、今日の政治現象は進化的適応環境(environment of evolutionary adaptedness)――人間の心理メカニズムが形成された時代・場所、実質的には狩猟採集時代を意味する――の行動様式から説明される必要がある。

 

 要するに、人間の意思決定や心理や行動の特徴や傾向や認知バイアスなどなどには、狩猟採集民時代の環境に適応するための性淘汰や自然淘汰に適応するための進化的な経緯が、現代になっても影響している。そして、「人間の意思決定や行動や認知とはどのようなものであるか」とうことは、政治にも関連している。だから、政治について進化の観点から説明をしたり、進化的に備わった人間の諸々の特徴や傾向を前提として政策を考案することには意義がある、……という主張である。

 オピニオン記事のなかでは、スティーブン・ピンカーの「暴力の衰退」説が参照されており、「戦争とは人間の本性(human nature)に根差したものである」というトマス・ホッブズ的な人間観・戦争観が支持されている。この人間観については進化心理学者や文化人類学者の間でも異論があることは留意されるべきだろう……とはいえ、有力な見解であることも間違いないとは思うが*3

 重要なのは、このオピニオン記事のなかでは「自然主義的誤謬」は犯されていないということだ。つまり、「人間の本性はこうであるから、その本性に基づいて、このような政策を実現するべきだ」とは論じられていない。むしろ、人間の本性を抑制するために「教育や国際制度といった環境の整備が不可欠」であることや「負の因果効果を環境的要因で相殺する必要がある」ことが主張されている。ここでは、「人間の本性」には規範的な意味は与えられていない。あくまで、より望ましい政策を考慮するための「変数」のひとつとして扱われているだけだ。

 そして、人間の意思決定や心理や行動の特徴や傾向や認知バイアスなどなどを具体的な政策提言に結びつける議論は、進化政治学に限らない。たとえば行動経済学の本でも、「なぜ人間は損得や利益について合理的な判断ができないのか?」ということをそもそもから説明する場合には進化論が持ち出されることが多い。そして、人間の認知バイアスなどを分析したうえで、それに対処する方法としての「ナッジ」が提案されて、個人や家庭内での習慣や企業でのキャンペーンのみならず公的なもののデザイン設計などの政策レベルでも「ナッジ」を導入することが提案されるのだ。

 では、行動経済学は、社会ダーウィニズムや、あるいは優生思想につながるのか?わたしはつながらないと思う。同様に、進化政治学も、社会ダーウィニズムや優生思想にはつながらないだろう。最適者生存の理論が"規範的に"正しいとする自然主義的誤謬もなければ、「特定の人種や特定の遺伝的特徴を持った人は、そうでない人よりも望ましい」という主張も含まれていないからだ。人間一般に自然的に備わっている傾向に関する議論と、人種や遺伝的特徴の優劣に関する議論には、かなりの乖離がある。

 

 今回の件では、進化政治学のみならず進化心理学一般に対しても、「社会ダーウィニズム」や「優生思想」などのレッテルを貼っている人たちが散見される。学者も含めて、こういう人たちのほとんどは、おそらくなにも考えていない。ただ、進化論っぽいことを批判する際には社会ダーウィニズムや優生思想を持ち出すのが「定番」になっているから、今回もいつも通り社会ダーウィニズムや優生思想を持ち出しているだけなのだ。

 

 また、この種の議論で毎回出てくるのは、「でも、進化論は実際に悪用されてきた歴史があるのだから、進化論に基づいた主張をする人は(ほかの理論に基づいた主張をする人に比べて)悪用されたり誤解されたりしないように、とりわけ気を付けるべきだ」という主張だ。この主張には一理あるかもしれないが、とはいえ、どんな主張も誤解されて悪用される危険性をはらむところ進化論だけがことさらに槍玉にあげられるのはおかしい、とは言いたくなる。

 また、わたし自身がこれまでブログや他のところで書いてきた記事でも、自然主義的誤謬に関する注意や「統計的な平均値の話である」という但し書きをこまめに入れてきたが、それを丸々無視されて、優生思想だとか生物学的決定論だとかなんとか批判されてきた経緯がある。実際のところ、そのような批判をしている人にとっては、「進化論の悪用」に対する危惧は方便に過ぎず、とにかく進化論や生物学に基づいた議論そのものを否定することが目的であるのだろう。だから、「進化論の悪用」を問題視している人の批判を毎回受け入れていると、ゴールポストがどんどん移動させられて最終的に何も言えなくなる可能性が高いのだ。

 

 

*1:署名キャンペーンの記事のなかで引用されているものについては、たとえば「道徳的に劣っている中国人をまともに相手にする必要はない」という文章は、差別的であると判断して差支えがないように思える。apjという方がnote記事でこの発言を擁護しているが、この擁護にはやや無理があって苦しい。

note.com

一方で、書名キャンペーンで「セクシズム」だと批判されているフェミニズム批判発言は、apj氏が書かれている通り「フェミニズムに対する単なる異論あるいは反論に過ぎない」。他の多くの発言も、不用意で雑であるとは思うが、差別であるとは断定できない、あるいは、きわめて狭い範囲での社会学や社会運動界隈での用法でしか「差別」と判断されない発言であるだろう。

*2:「社会ダーウィニズム」とまで言えるかどうかは微妙なところだ。

*3:

econ101.jp

davitrice.hatenadiary.jp

資本主義から逃れることはできるか?(できません) - 読書メモ:『資本主義だけ残った』

 

 

『資本主義だけ残った』では、アメリカを代表とする「リベラル能力資本主義」と中国を代表とする「政治資本主義」、現代の社会に存在するふたつの形の資本主義を比較しながら、それぞれの成り立ちや特徴や未来予想図が論じられたりする。

 

 先日に紹介した『自由の命運』や、あるいはフランシス・フクヤマの一連の著作など、英語圏で出版される経済史や文明論では「リベラルで民主主義的な社会は、抑圧的な社会や権威主義的な社会より正しくて望ましい」という規範論が前提とされてしまいがちだ*1。そのために中国のような非民主主義的な国家の経済成長やその他の方面での躍進が予測できなかったり、「一過性のものであって、リベラルな民主主義に移行しない限りは崩壊するに決まっている」と願望込みの予測が述べられたりするようになってしまう。

 この『資本主義だけ残った』の最大の特徴は、中国の資本主義をアメリカの資本主義に並び立つものとして論じて、どちらが善くてどちらが悪いかという規範的判断を行わずに、リベラルでも民主主義でもない中国がそれでも資本主義を成り立たせていて経済成長もしていて「うまくいっている」様子を描いて、その理由を分析したところにあるだろう。

 

政治的目的による資本主義についてのマックス・ヴェーバーの定義は、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』によれば、「経済的利益を得るために政治的な力を使用すること」である。

(……中略……)

今日、政治的資本主義を実践する諸国家、とくに中国、ヴェトナム、マレーシア、シンガポールは、きわめて効率的でテクノクラート的なやり手の官僚にこのシステムを任せることで、このモデルを修正してきた。これはこのシステムの第一に重要な特徴である。すなわち官僚(明らかにこのシステムの主たる受任者)が、高い経済成長を実現し、この目標を達成できるような政策を実行することを主たる義務とすることだ。そしてその支配を納得させるには成長が求められる。官僚が成功するにはテクノクラートであることと、その構成員が成果主義をもとに選ばれることが必要だが、理由は何より法の支配が欠如しているからだ。法の縛りのないことが、このシステムの第二の重要な特徴である。

(p.107)

 

 たとえばフランシス・フクヤマの『政治の起源』や『政治の衰退』では、どんな社会であっても政治が有効に機能するためには「国家」と「法の支配」と「政府の説明責任」のいずれもが成立していて均衡を保っていることが重要である、と論じられていた。そうでない社会は人々にとって魅力がなく、他の社会に対するロールモデルともならない。リベラルな民主主義は自由や尊厳に対して人々が根源的に抱くニーズを充たすから、非民主主義的な社会に暮らす人々も民主主義に憧れて渇望するようになる、というのがフクヤマの主張である。

 ……しかし、『資本主義だけ残った』によると、「法の支配」はさして重要ではない。政治的資本主義では、テクノクラートなエリートたちには、政治的な目的や私利私欲のために、ときに法を破ったり法を付け加えたりする自由裁量が認められているのだ。当然のごとく汚職や癒着をはじめとする「腐敗」が起こることになり、ときとして役人たちを一斉に調査して摘発する腐敗撲滅運動が行われることもあるが、それはあくまで一時的な対処療法であり、根本的にシステムを変えて腐敗を根絶することは目指されない。

 むしろ、中国と同様の状態であったロシアや中央アジアは「法の支配」を導入する試みをおこなったことは、それらの国々にさらに深刻な腐敗をも当たらしたり国内の分裂や内戦をもたらした、と著者は指摘する。中国のほかにも「法の支配」が成り立っておらず腐敗が横行している国は多々あるが、それはそれで効率性や柔軟性があって経済的なメリットがある。「法の支配」は必ずしもすべての社会でプラスに機能するわけではない、と著者は主張するのだ。

 とはいえ、法を尊重しない官僚や権力者の横暴が蔓延していて、自分の権利や財産がいつ脅かされるかわからず、当然のごとく民主主義が存在しない社会に、人々が「住みたい」と思えるかどうか、という問題はあるだろう。これについての著者の答えは、「政治的資本主義がうまくいっており、経済成長という"果実"を人々に与える限りは、人々は抑圧や自由のなさもある程度は許容する」といったものだ。

 ちょっと長くなるけど、リベラル資本主義と政治的資本主義についてのイデオロギー的な対立に関する議論のコアとなる部分を引用しよう。

 

……まずリベラル資本主義の利点は、民主主義というその政治システムにある。多くの人(ただし、すべてではないが)が民主主義を「基本善」とみなしているーーそれ自体が好ましいことだから、経済成長や平均余命といったそれがもたらす影響によってあえて正当化するまでもない、と。これはたしかにひとつの利点だ。だがほかにも民主主義には役に立つ強みがある。民主主義ではつねに国民に相談する必要があるので、大衆の福祉に害を及ぼしかねない経済や社会の傾向に対し、強力な是正措置を提供できる。ときに人びとの決断が、経済成長立を下げ、公害を悪化させ、あるいは平均余命を縮める政策をもたらす場合でも、民主主義的な意思決定がさほど時間をかけずにそれらを逆転させるはずだ。有害な発展の抑止に民主主義が役に立たないと考えるなら、過半数の国民が長期にわたってつねに間違った(あるいは不条理な)決断を下していると言わざるをえない。だがそれは見たところ、ありそうにないことだ。

 

リベラル資本主義のこうした利点に対し、かたや政治的資本主義は、それよりはるかに有効な経済の管理と高い成長率を約束する。これは瑣末な利点ではないし、高い所得や富が最終目標として掲げられる場合はなおさらだ。この価値基準は、まさにグローバル資本主義の発想の根底にあるものだし、そればかりか経済のグローバリゼーションに参加するほぼ全員(実際には地球全体を意味する)の行動にも日々あらわれている。ロールズは、基本財(基本的自由ならびに所得)は辞書的順序を持つと主張した。すなわち、人びとは富や所得よりも基本的自由を絶対的に優先し、したがってその交換は受け入れない。とはいえ日頃の様子を見れば、多くの人が民主主義的な意思決定の一部を所得の伸びと進んで交換したがっているかのようだ。

(……中略……)

所得が上がるのなら、他の民主主義的な権利は放棄できる(そしてそうしてきた)。こうしたことを根拠に、政治的資本主義はその優越性を主張する。

だが問題は、その優越性を証明し、リベラルの挑戦をかわすために(すなわちリベラル資本主義に優先して人びとに選ばれるには)、政治的資本主義はたえず高い成長率を記録しつづけなければならないことだ。よってリベラル資本主義の利点は、それが「自然」なもの、言葉を換えればシステムに組み込まれているものだが、政治的資本主義の利点は、それが役に立つものであることで、たえずその利点を見せつづけることが必要になる。だから政治的資本主義には最初からハンディキャップがある。その優越性を実感させ、証明してみせる必要があるからだ。加えて政治的資本主義には問題がさらに二つある。1 民主主義的な抑制がきかないことから、いったん間違った方向を選んだら進路の切り替えが困難なこと。そして2 法の支配が欠如していることから、腐敗に向かう特有の傾向があること。……

(p.247 - 248)

 

 上記の主張だけを参照したら、リベラル資本主義は政治的資本主義の「自滅」を待っていれば自ずと勝利する、と考えてしまうこともできるかもしれない。たしかに政治的資本主義には経済成長という利点があるかもしれないが、欠点も多数抱えており、経済成長が鈍化してしまった時点で人々は腐敗や抑圧や自由のなさに耐えられなくなって、民主主義とそれに伴うリベラル資本主義を求めるようになるはずだ……と予測することはできる。実際のところ、フクヤマや、『自由の命運』の著者であるアセモグルとロビンソンのおこなっている主張もこんな感じだ。わたし自身も、「"法の支配"は必ずしも不可欠というわけではないんだよ、"法の支配"がなくて腐敗していてもうまくやっている国はあるんだよ」という著者の主張にはイマイチ信用できないところがある。なんか場当たり的というか、現状を後付けで肯定している雰囲気がある。

 ……とはいえ、それはそれとして、現状のリベラル資本主義は政治的資本主義と比べて相対的に経済成長立が鈍いこと以外にも、深刻な欠点を抱えている。リベラル資本主義は自由で流動性が高いことがウリなはずなのに、実際には不平等を拡大して、格差を固定化させているのだ。

 

 リベラル資本主義が不平等を拡大している要因は様々である。国民所得における労働所得の割合が下がって資本所得の割合が上がったうえに資本が一部の金持ちに集約していること、その一方で現在の富裕層は過去とはちがい資本所得だけでなく労働所得も大量に得ていること(現在の金持ちは有閑階級ではなくバリバリ働くエリートであるということだ)から、所得に対する税金を適切な割合で課することも難しくなっている。

 また、女性が高学歴したことにより、学歴や所得の水準が似通った男女が結婚する「同類婚」が増加していることも、不平等の拡大の一因だ。夫婦ともにハイソな家庭に生まれた子どもは資産も文化資本も受け継げる一方で、夫婦ともにそうじゃない家庭の子供はどっちももらえない。さらに、先進国における相続税は、限界税率が下がったり控除の範囲が拡がっていることで弱体化しているのだ。

 より深刻なのは、リベラル能力資本主義社会では政党や選挙活動への資金提供が許されているために、政治に対して金持ちたちが発揮できる影響力が増しているということだ。これにより、上位層は自分たちにとって有利な経済政策が実施できるようにコントロールできて、自分たちの立場を永続的なものとできる。

 また、大学などにかかる教育費を吊り上げて、よい教育は金持ちしか受けられないようにすることで、知的シグナリングや教育プレミアムを独占できる。それでも、貴族性の社会と違い、ごく一部のきわめて有能な人々は下位層から成り上がって上位層の一員となることはできる。しかしそれも全体から見ればごく僅かな事例であるし、優秀な人間が上位層の一員として取り込まれたうえで「機会の平等は誰にでも与えられている」といったイデオロギーを補強することにもなって、むしろ上位層の地位をさらに盤石なものとするのだ。

 要するに、リベラル資本主義でも、政治の正当性は損なわれる。政治的資本主義ではその犯人が官僚であったのが、リベラル資本主義では金持ちが犯人となる、ということだ。その結果として、リベラル資本主義のウリであったはずの「民主主義」や「社会の流動性」といった要素も失われしまうのである。

 

 

あるいはリベラル資本主義と政治的資本主義がひとつに収束するのだろうか。

(……中略……)

……リベラル資本主義のもとで経済的な力と政治的な力が結びつけば、リベラル資本主義がますます金権主義的なものになり、政治的資本主義に似通ったものになってくる。後者の資本主義においては、政治的な支配こそが経済的な利益を獲得する道である。もともとはリベラルなものだった金権的な資本主義では、経済力は政治を牛耳るために使われる。この二つのシステムの終着点は同じものになる。エリート層がひとつに結束し、居座りつづけるのだ。

(p.258 - 259) 

 

 なんだか黙示録的な結論であるが、著者は、資本所得の集中を少なくして所得の不平等をより減少させて世代間の所得の移動性をより高くした「民衆資本主義」に移行することもできるかもしれない、という可能性についても論じている。そして、民衆資本主義に移行するためには、以下の四種類の政策を実行する必要がある、と主張するのだ。

 

1・中間層への税制上の優遇措置と富裕層への増税相続税率の引き上げ

2・公教育への予算の増加と、公教育の質の改善(金持ちの子供が教育面で有利になるのを防ぐ)

3・「軽い市民権」の制度を導入したうえで移民を増やす(著者は、移民は基本的に経済にメリットをもたらす存在であると論じている。ただし、本国人と同じだけの市民権を移民に認めると移民反対運動が起きて移民が入れられくなるから「軽い市民権」を与えるに留めるべきだ、と論じている)

4・政治運動への資金提供の制限

 

 ……上記の提言は、「3」を除けば、どこかで聞いたことがあるというか左派やリベラルの人が散々言っているものであり、目新しくはない。そして、これらの政策を実行したくても政治の金権主義化のために困難になっている、というのがそもそもの問題であるのだろう。

 

 リベラル資本主義に関する著者の分析を読んでいてわたしの頭に浮かんだ疑問は、「それって"リベラル資本主義"そのものではなくアメリカという国に特有の問題じゃないの?」ということ。アメリカで公教育の質が悪かったり金持ちから税金を取れなかったりすることは、政治の金権主義化だけでなく、そもそもどんな階層であってもアメリカ人たちがアメリカン・ドリームだかなんだかを盲信して税金や再分配や福祉などを嫌っていることが一因であるだろう。

 逆に言うと、アメリカ以外の先進国なら、「民衆資本主義」も実現しやすいんじゃないかという気がする。よく知らないけれど、カナダとか、北欧のどこかとか。というか、すでに存在している福祉国家ロールモデルにすればよいのではないか?

 ……しかしながら、著者によると、「福祉国家」はグローバリーゼーション時代には破綻する運命にある。福祉国家が機能するためには、国民や労働人口の全員か大半が社会保険に参加する必要がある。しかし、グローバル化した貿易は所得の二極化をもたらし、所得が二極化すると金持ちたちは社会保険ではなく自分たち専用の民間システムを作りたがるし、他の国民のために高い税金を払うことを嫌がるようになる。

 さらに、移民の存在も福祉国家にとっては向かい風だ。福祉国家を機能させるためには国民同士の同質性や親近感が必要とされるが、移民はそれを損なう(アメリカで福祉制度が支持されない理由のひとつは、アメリカが多様性の高い…つまり同質性の低い社会であることだ)。また、自分の能力やスキルに自信を持つ移民は不平等な国を好む一方で、自信がなくて悲観的な移民は福祉の発達した国を好む。前者は自分の才覚を活かしてギャンブルをしたくなる一方で、後者は福祉を享受しながらぬくぬくと暮らすことを好むからだ。つまり、競争の激しい国家と福祉国家が並列しているあいだは、「移民の質」という点に関しては、福祉国家はワリを食いつづけるのである。

 ……などなど。この本における福祉国家に関する議論についても、わたしはイマイチ納得がいっていない。経済学者に特有の福祉国家嫌いを正当化しているだけという疑惑が払拭できないのだ。

 

 では、どのタイプの資本主義もダメなら、いっそ共産主義にすればいいのか?そうはいかない。著者によると、共産主義とは「後進の非植民地国が封建制を廃止して政治的資本主義を築くことを可能にした社会システム」ではあるが、あくまで封建制から資本主義に移行するための足掛かりとしての価値しかなく、持続性のあるシステムではないのだ。

 資本主義のほかに、代わりはない。

 

……この状況は、この社会経済システムが変化を求めているしるしではないのか。もしそうなら、超商業化資本主義社会を捨てて、何か代わりになるシステムに移行すべきではないか。この一見理にかなっていそうな主張の問題点は、超商業化資本主義の代わりになりそうなものが何もないことだ。この世界がすでに試した選択肢はどれもうまくいかなったし、なかにはもっとひどいものもあった。それに何より資本主義に組み込まれた競争的かつ物質欲的精神を捨て去れば、結局は所得が減り、貧困が拡大し、技術進歩が減速ないし逆転し、超商業化資本主義社会がもたらす他の利点(私たちの生活に今や欠かせないモノやサービスなど)を失うことになるだろう。物質欲的精神を捨て、富を成功の唯一の指標にするのをやめても、こうした利点をあいかわらず享受できるなどと思うのは無理な話だ。それらはセットになっているのだから。これはひょっとしたら、人間の条件の重要な特徴のひとつでもあるかもしれない。つまり私たちは、自らの最も不愉快な性質のいくつかを存分に発揮しないかぎり、自らの物質的な生活を向上することができないのだ。これはバーナード・マンデヴィルが300年以上前に探りあてた真実である。

(p.218)

 

 上記の引用文には、「経済学的思考」のエッセンスが濃縮されている。著者の分析や見解には賛成できないものがところどころにあるが、とはいえ、このような「経済学的思考」の鋭さや魅力は否定できない。すくなくとも、わたしたちの気分を良くしたり願望を肯定したりするために根拠のない楽観論や理想主義を無責任に提唱するタイプの議論よりかは、ずっといい。

 

 長くなってしまったから、以下では印象に残ったところを箇条書きで記しておく。

 

・「あくせく働かずに、余暇を増やそう」的な発想は、人間には「自分の状態を他者と比較する」という性質があるから現実味がない、という理由から否定されている。金をたっぷりと稼いだエリートであっても、周りのエリートたちが稼ぎつづけているうちにリタイアしてしまうと子どもが惨めな目にあってしまうので、自分も稼ぎつづけざるを得ない。そして、グローバル社会では、あくせくと働かずにのんびり生きている人たちばかりの国の土地や不動産は勤勉な外国人に買い占められることになり、そして本国人たちは金を持った外国人たちが贅沢に金を使うのを目の当たりにさせられることになる。

 

・資本主義社会ではすべての営みに値段が付けられて商品化されるので、家族や地域共同体が担っていた役割もアウトソースされて、社会はどんどん原子化して個人主義化していくだろう、という(よく耳にするような)予測が語られている。また、人々はいままで無償で行っていた自分の活動で金を取れることに気がついて、自由時間も商品化するようになる(ウーバーがその典型)。最終的には「個人」としてのわたしたち全員が資本主義の生産拠点となって、私的領域はすべて商品となる。さらに、富や金が人間の成功や価値の唯一の指標となることで、道徳や行動規範は私利私欲や利己心にとって代わる……などなどといった、月並みなホモ・エコノミクス観に基づくディストピア風未来予測が語られる。

 ここらへんの議論にはぜんぜん説得力がない。たしかに富や金だけを指標として生きているっぽい人はいまでもいるがそうでない人もいっぱいいるし、私生活を商品化している人もいればそうでない人もいる、というだけの話にしか思えないのだ(ニューヨークや東京などの都会にこのテのタイプの人が惹きつけられて集まり、各種のサービス売買アプリの技術進歩に伴い都会のディストピア化がどんどん進行する、というのならまだ納得できる)。

 

・AI悲観論や環境破壊への不安論については、労働・ニーズ・原材料のそれぞれに関する「塊の誤謬」に基づくものである、として否定されている。ここの議論は経済学的思考としても基礎的なものではあるが、直感的な主張の問題点をうまく解体していておもしろい。

 

・中国に対する評価は全体的に甘くて、「アメリカとちがって中国は諸外国に価値観や倫理観を押し付けず、あくまで経済的な観点からしか貿易や外交をしないだろう」といったことも主張されているのだが、ここはいくらなんでも信用できない。

 

・先述したとおり、著者は移民の経済的メリットを強調する一方で、移民の権利は制限する必要があることも強く主張する。本国人と全く同じ市民権を移民に求めると、本国人が現時点で市民権から得られている利益が損なわれるし(社会保障投票権などはそれを得るための資格に制限がかけられていること自体にメリットが存在するからだ)、受け入れを拒否する声が強くなって結果的に移民を入れることが困難になるためである。そして、権利を制限しても移民がやってくるのなら、移民たち本人はあくまで「元の国にとどまるよりもこの国に移ったほうが望ましい」と考えているわけなので、問題はない。とはいえあまりに権利を制限し過ぎたらやってくる移民の数が減ってしまうから、あとは、制限をどれくらいにするかという調整の問題となる。

 ……この議論も、まさに「経済学」という感じだ。エスノセントリックな移民受け入れ反対論を合理的な観点から論駁している点では、有益でもあるだろう。しかし、技能実習生や入国管理局の問題が日々取り沙汰されている日本に住んでいる身からすれば、「経済的利益や政策的目的のために移民の権利を制限しよう」と堂々と主張する議論は、いかにも危なっかしく思える。もちろん、現時点の世界各国でも移民の権利は多かれ少なかれ制限されているわけではあるのだが、権利について論じるうえでは経済学だけでなく倫理学政治学の観点が必要になることは明白であるはずだ。

 

まじめな人ほど、選挙で投票しない?

 

 

 

 

 この本を読んだのはもう数年前であるし現在は手元にもないのだが、最近の情勢と見ていてちょっと思うところがあるので、この本について紹介している記事と過去の記憶を頼りに軽く紹介してみよう。

 

 タイトル通り、人々の「投票をするか/しないか」「デモをするか/しないか」といった政治行動や「リベラル/保守」といった政治的傾向について、心理学における「パーソナリティ」の観点から分析した本である。

 とくに、「経験への開放性」「誠実性(真面目さ)」「外向性」「協調性」「神経症的傾向(精神的安定)」からなる「ビッグファイブ」という性格特性の指標に基づいて、政治的行動が分析されている。つまり、「このようなパーソナリティ特徴がある人は、(統計的・平均値的には)このような政治的行動をしやすく、政治的傾向はこのようなものになりがちである」ということがいろいろと論じられているのだ。

 

ja.wikipedia.org

 

 とはいえ、この本で指摘されている事象の大半は、パーソナリティやビッグファイブについて多少なりとも本を読んだことがあるなら予想が付くものではあった。

 たとえば、「外向性」のポイントが高い人はデモ行進や抗議運動や戸別訪問など、人と関わるタイプの政治的行動をしやすい。「経験への開放性」のポイントが高くて「誠実性」のポイントが低い人はリベラルになりやすく、「経験への開放性」のポイントが低くて「誠実性」のポイントが高い人は保守になりやすい。

 

 

 

ja.wikipedia.org

 

 この本のなかでもっとも意外な指摘は、「誠実性」のポイントが高い人たちは選挙の際に投票をすることが少なくなる、ということだ。 

 ここで言う「誠実性」とは英語の「Conscientiousness」の訳語であり、あくまで性格特性の一種であって、日本語の日常語における「誠実」とは必ずしも意味が100%一致しているわけではないことは記しておくべきだろう。……とはいえ、誠実性の高い人とはふつうの意味で「まじめ」な人である、と考えてもほとんど間違っていないはずだ。

 つまり、ルールを守る・遅刻しない・仕事をサボらない、そういう人たちのことである。

 

 (著者の)モンダックによると、責任感や誠実性が高い人たちは、陪審員に選ばれたときにその務めを果たす可能性は高い。だが、実のところ、そのような人たちが選挙で投票をおこなう可能性は低い。もしかしたら、責任感や誠実性が高い人たちは投票について慎重に考えたうえで、「自分が投票をしたところで何かが変わるということはほとんどなく、だから政治は自分の時間を割くに値するものではない」と判断したのかもしれない……とモンダックは言う。

https://news.illinois.edu/view/6367/205571

 

 

 この本のなかでは、選挙での投票とはそもそも期待通りの結果が得られることが保証されていない不安定なものであること、そして誠実性の高い人にとっては家族への義務を果たしたり仕事をすることの優先度が高いからこそ、不安定な「投票」という行為の優先度が低くなる、ということも指摘されていた。

 ある意味では、選挙とはギャンブルのようなものである。まじめな人は、ギャンブルに時間を割くくらいなら他のことをする、ということだ。

 

 もちろん、パーソナリティに関するトピックについて「こういうパーソナリティを持っている人のほうがエラい」という価値判断をしたり「こういう傾向や行動をしているならこんなパーソナリティであるにちがいない」と決めつけたりすることはご法度であるだろう。

 とはいえ、とくにネットでは批判されがちな「投票をしない」という行動は「まじめさ」から生じているかもしれない、という観点はなかなか有益であると思う。

 わたし自身の経験を思い出しても、学生時代から、政治の話で盛り上がれて投票にも行っているらしいやつほど授業をサボったり会合に遅刻していたりして、きちんと授業に出席して学業を淡々とこなしている人ほど非政治的である、という傾向はあった。

 もっと風呂敷をひろげれば、優秀なアスリートほど非政治的になりやすかったり(厳しい練習を毎日こなすことと誠実性のポイントには関係がありそうだ)、仕事中にネットで遊んでいる人ほど政治的なコメントをしやすかったりする(誠実性が低い人ほどサボりやすいから)……などなどとも言えるかもしれない。もちろん、これは与太話に過ぎないのだけれども(紹介した本のほうはきちんとした研究や調査に基づいたお堅い本であり、議論の内容も慎重である)。

 

読書メモ:『ベジタリアン哲学者の動物倫理入門』&『はじめての動物倫理学』

 

 

 

 

 

 どちらも日本人の哲学者によって書かれた動物倫理学の入門書であり、同時期に出版された*1。基本的な構成はどちらも似ていて、動物の権利論をはじめとする「理論」が解説された後で、畜産・動物実験・コンパニオンアニマル・野生動物などの各場面における現状の問題の解説と「これからどうすべきか」という規範的な提言がなされている。

 終章では、『ベジタリアン哲学者の動物倫理入門』ではキリスト教と仏教の考え方、『はじめての動物倫理学』ではマルクス主義の考え方に基づいて動物倫理のトピックが論じられており、ここのあたりに著者らのオリジナリティがあらわれていると言えるだろう。

 また、『はじめての動物倫理学』では功利主義・権利論・徳倫理という規範倫理学の御三家の考え方が紹介されてそれぞれの具体的な問題について「功利主義ならこうなるけど権利論ならこうなる」という風に解説がなされるのに対して、『ベジタリアン哲学者の動物倫理入門』ではどのトピックについても原則的に著者が提言する「基本的動物権」の議論に基づいて論じられており他の理論についてはほぼほぼ言及されない。とはいえ、動物倫理学においてはどんな理論を使ったところで「肉食は止めるべきだ」「動物実験も(ほとんどは)止めるべきだ」といった結論になるわけであり、たとえば功利主義なら「(ほとんどは)」という留保が付くところが権利論では付かなくなる、というくらいの違いしかないとはいえる。むしろ、ひとつの考え方に限定して様々な問題を論じるぶん、「動物倫理学では物事についてこう考える」という考え方や思考のコアみたいなものは『ベジタリアン哲学者の動物倫理入門』のほうが伝わってくる。それに比べると『はじめての動物倫理学』は新書本という体裁もあってか読み味が薄い部分があることは否めない。

 また、日本における畜産や動物実験や競馬などの実態が数値的な情報をふくめて詳細に書かれているのも『ベジタリアン哲学者の動物倫理入門』のいいところだ。

 

 ……とはいえ、功利主義にシンパシーを感じているわたしからすると、『ベジタリアン哲学者の動物倫理入門』で提示されているような権利論にはやはりいろいろと苦しい部分があるなと思わざるを得ない。まとめると「人間は道徳の存在を理解できて自分の行動を律せられる倫理的存在なので、動物の権利を尊重する義務はあるが、動物は倫理的存在ではないので義務を負わない」ということになるはずだが、この考え方に対して動物倫理学に馴染みのない人が「傲慢だ」と非難したり「相手が義務を負わないのにこちらだけ一方的に義務を負うのはおかしい」と反発したりする姿は容易に想像できる*2。また、いくつかのレビューや感想を見たところ、第四章における野生動物に関する議論についてはわたしだけでなく他の読者たちも「説得力に乏しい」と感じているようであり、とくにこの問題については権利論ではスジが悪いことを改めて認識させられた*3

 

 

*1:この二冊を取り上げている記事の例。

book.asahi.com

*2:

……すべての動物に、生命権と身体の安全保障権と行動の自由権という基本的動物権があります。しかし、人間だけが基本的動物権を尊重する義務を負います。どうしてでしょうか。私はこれまで、人間と他の動物の共通性を強調してきました。人間は理性的動物です。この動物性を人間と他の動物は共有しています。ところが動物の中で人間だけが理性的です。いや、これはちょっと単純に言いすぎたかもしれません。人間以外の動物の中にも、記憶能力や計算能力、推論能力や言語能力がありそうです。道徳的能力だって、あるかもしれません。しかしながら、私たち人間の自己理解では、人間だけが自分自身を反省し、道徳的観点から自由に自らの行動を律することができます。こういう高度な道徳的理性は人間に固有の特徴です。これが人間の素晴らしい能力です。この能力があるから、人間は理性を発達・開花させ、自分のことだけでなく他の動物のことも考えて道徳的に振る舞うべきなのです。

 (p.20)

*3:家畜や動物実験の問題に比べて加害-被害の関係や責任の所在がはっきりしなくて複雑な野生動物の問題に関しては、功利主義のようにシンプルな原則か、あるいは政治哲学的な複雑で曖昧な議論か、どちらかで論じたほうがよいだろう。

davitrice.hatenadiary.jp

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内田樹の「被害者の呪い」論

blog.tatsuru.com

 

 たまたまの偶然で、2008年に内田樹が書いたブログ記事が目に入ってきた*1

 この記事は、直接的には、当時開催されていた北京オリンピックの「聖火リレーをめぐる騒動」について言及したものである*2。また、文中には「統合失調症」についての記載があるが、当時に付いたはてなブックマークコメントでも指摘されている通り、この部分はかなり問題含みで不適当なものだ。

 それでも、このブログ記事の後半で展開されている議論は、なかなか鋭い。当時よりも現在の社会に対してなおさら当てはまるような、含蓄のある指摘だ。だから改めて取り上げてみてもバチはあたらないだろう。

 

  私は自制することが「正しい」と言っているのではない(「正しい主張」を自制することは論理的にはむろん「正しくない」)。けれども、それによって争いの無限連鎖がとりあえず停止するなら、それだけでもかなりの達成ではないかと思っているのである。
 私が今回の事件を見ていて「厭な感じ」がしたのは、権利請求はできる限り大きな声で、人目を惹くようになすことが「正しい」という考え方に誰も異議を唱えなかったことである。「ことの当否を措いて」自制を求める声がどこからも聞こえなかったことである。
 「いいから、少し頭を冷やせ」というメッセージが政治的にもっとも適切である場面が存在する。そのような「大人の常識」を私たちはもう失って久しいようである。

 

「被害者意識」というマインドが含有している有毒性に人々は警戒心がなさすぎるように思える。

(……中略……)

 「被害者意識を持つ」というのは、「弱者である私」に居着くことである。
「強大な何か」によって私は自由を失い、可能性の開花を阻まれ、「自分らしくあること」を許されていない、という文型で自分の現状を一度説明してしまった人間は、その説明に「居着く」ことになる。
もし「私」がこの説明を足がかりにして、何らかの行動を起こし、自由を回復し、可能性を開花させ、「自分らしさ」を実現した場合、その「強大なる何か」は別にそれほど強大ではなかったということになる。
これは前件に背馳する。
それゆえ、一度この説明を採用した人間は、自分の「自己回復」のすべての努力がことごとく水泡に帰すほどに「強大なる何か」が強大であり、遍在的であり、全能であることを無意識のうちに願うようになる。
自分の不幸を説明する仮説の正しさを証明することに熱中しているうちに、その人は「自分がどのような手段によっても救済されることがないほどに不幸である」ことを願うようになる。
自分の不幸を代償にして、自分の仮説の正しさを購うというのは、私の眼にはあまり有利なバーゲンのようには思われないが、現実にはきわめて多くの人々がこの「悪魔の取り引き」に応じてしまう。

(……中略……)

 「私はどのような手だてによっても癒されることのない深い傷を負っている」という宣言は、たしかにまわりの人々を絶句させるし、「加害者」に対するさまざまな「権利回復要求」を正当化するだろう。
けれども、その相対的「優位性」は「私は永遠に苦しむであろう」という自己呪縛の代償として獲得されたものなのである。
「自分自身にかけた呪い」の強さを人々はあまりに軽んじている。

 

 ごく簡単にまとめれば、自分が「被害者」であると主張することは権利要求や政治的交渉の場では有利な戦術であるが、本人の意識に「呪い」をかけて精神的健康や生活の幸福を蝕む可能性がある、という指摘である。

 

 わたしがこれまでに書いてきた文章のなかでも、「被害者意識」の問題については何度か取り扱ってきた。そのなかでも上述の内田の指摘にもっとも近い議論をおこなっているのは、下記の記事であるだろう。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 この記事のなかでも紹介している心理学者のジョナサン・ハイトは「被害者意識」の問題について特にこだわって議論している人物だ。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

gendai.ismedia.jp

 

 ついでに、(現代)ストア哲学者も被害者意識の問題について論じている。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 「被害者意識」というトピックについてわたしがどんなことを考えているかは上述の各記事に書いてきたので、ここではいちいち繰り返さない。

 

 ところで、内田の指摘は、「被害者意識」に限らず、「コンプレックス」や「怒り」など、「負の感情」全般にひろく当てはまるかもしれない。結局のところ、負の感情とは「負」なのであり、他人を批判・非難したり自分の要求を通したりしたいという目的のためであっても、負の感情を言語化して形を与えることはそれを強化することにつながって、まわりまわって自分に対する「呪い」として機能する、ということだ。

 そして、ある種のSNS界隈や社会運動界隈、もっと広く言えば「文芸」や「人文」の世界一般には、怒りやコンプレックスをはじめとする「負の感情」に価値を見出したがる風潮がある。世間や一般人はポジティブな「正の感情」のほうを大事にして称えて「負の感情」を抑圧しようとするからこそ、その逆をいってネガティブなものに寄り添うことが反順応的で反権威的で反マジョリティ的で反資本主義的でエラいことである、みたいな感じのマインドに立脚しているであろう主張はネット上でも雑誌や書籍でもごまんと見かける。

 とくに今年に入ってから、この問題についてわたしは色々と考え続けている。基本的には、「負の感情」やあるいは「弱さ」「欠落」に寄り添いましょう、的な主張に対してわたしは気休め以上の価値を見出せなくなっている。「気休めとしての価値があるならそれでいいじゃないか」とも言えるかもしれないが、とはいえ、負の感情を増幅させたり前を向いて建設的・積極的になれば解決できるはずの問題を解決から遠ざけたりするなどの「副作用」も生じかねない。それってどうなのと思うし、わたしの目からすると、「負の感情」や「弱さ」を肯定するタイプの議論を行っている論客の多くは自身の議論が副作用を引き起こしている可能性についてあまりに無頓着だ。

*1:この記事は本にも収録されているようだ。

 

 

*2:

おそらく、「騒動」とは下記のような事件のことを指している。

www.asahi.com

最近読んだ本シリーズ:『サンデルの政治哲学』とか

 

●『サンデルの政治哲学』&『公共哲学:政治における道徳を考える』

 

 

 

 

 

 このブログでも現代ビジネスでも『実力も運のうち』について紹介したし、『これからの正義の話をしよう』についても以前に紹介したが、改めてサンデル先生のこともちょっとお勉強しなおしてみた。

『サンデルの政治哲学』を読んでみて思ったのが、『実力も運のうち』の実力主義批判は世間ウケを狙って当たり障りなく書かれたものではなく、以前からのサンデル先生の思想と一貫しているということ。‥‥とはいえ、『実力も運のうち』のなかでも核心となる「適価」に関する議論は、以前とは真逆になっているようにも思える。『サンデルの政治哲学』によるとサンデル先生はロールズが「適価」の概念を否定したことを批判していたのだが、『実力も運のうち』ではサンデル先生も「適価」の概念を否定しているように読めるからだ。

『サンデルの政治哲学』のなかでは『実力も運のうち』ではあまり触れられなかった共和主義的理念に関する議論もなされているのだが、これは解説を読んでいても理想論ですよねえという感じ。そして、読めば読むほど、サンデルよりもロールズのほうが人間というものに関する洞察や理解が深かったのではないかと思わされる(「ケアの倫理」に関する本を読めば読むほどローレンス・コールバーグに対する興味が増すのと同じような現象だ)。いい加減に『正義論」も読んでみていたけど、なにしろ物理的に重たいのでためらっちゃうんだよね。でもそろそろまじで手にとってみよう。

 なお『公共哲学』のほうは冒頭を除けば数ページ程度の評論の寄せ集めという感じで、つまらない。読まなくていいと思う。

 

 ●『政治はなぜ嫌われるのか:民主主義の取り戻し方』

 

 

 

 大学院生のころに読んで感心して、そして感心したくせに本の題名を忘れて読み返すことができていなかったのだが、訳者の吉田徹さんの名前でぐぐったりしているうちにふと発見して、ようやく読み返すことができた。

 しかし、改めて読み返してみると思いっきり社会学っぽい感じの内容で、つまらない。「公共選択理論が流行って政治家の行動について合理性のみの観点に基づいて説明されるようになって、政治から理念が失われて、有権者は政治や民主主義に対して"白け"を感じて忌避するようになった」といった趣旨の議論がなされるのだが、「そんなことあるかあ?」って思っちゃう。理論とか学問とかの影響力を過大評価しすぎでしょ。

 

●『正義とは何か:現代政治哲学の6つの視点』

 

 

 正義論についての包括的な概説が新書の範疇でまとまっており、文章は比較的読みやすく、各トピックのフックとしてジェイン・オースティンやクリストファー・ナイトなど政治学者以外の人物についてのエピソードが挟まるところも工夫が効いていて、なかなか良いと思う。わたしはさすがにそれなりには勉強してきているのであまり新しい知見は得られなかったが、これから勉強を始める学部生とかにとってはかなり優れた本であるだろう。実はわたしは新書ってもの自体をそんなに評価していないのだが(作られ方や構造の問題のためか、本としての面白さに致命的に欠けているものばっかりだ)、先日に紹介した『リベラリズムとは何か』といい、学問的知識への入門や概説としてのクオリティがアップして多様性も増していることは認めざるを得ない。そういう点ではいまの若い子が羨ましいとも思う。

 ところでまたロールズの話に戻ると、社会や政治や経済の仕組みのあり方を考える議論であっても、やはり「人間とはなにか」ということに関しての細かい洞察がキモであり、面白さもそこにあると思う。仕方がないことではあるが、『正義とは何か』ではそういった細かい部分までは解説されていない。